団内の廊下で紅い背中を見つけたので、条件反射のように飛びついた。
「シ、シンタローはぁぁんっっvv」
「眼魔砲」
振り向きもせず、片手で発された高密度のエネルギー球。それを真正面から受け、一度は地に倒れ伏しながらもすぐに男は起き上がり、ブスブスと黒い煙を立ち上らせながら、シンタローに再度近づいてくる。
足取りはフラついているが、表情は相変わらずの満面の笑みだ。倒しても倒してもへこたれないその様を見ていると、痛覚がないのかそれとも真性Mかと、意図せず長い付き合いとなってしまっているシンタローも疑いたくなる。
「チッ……、最近なんか耐性ついてきやがったな。次からは完全手加減ナシでいくか……」
「あんさん、本気で殺る気マンマンどすな」
「いーや。本気でその一歩手前で止めるよう努力してる」
極めて真面目な顔で言うシンタローに、アラシヤマはとほほ、と言うように肩を丸める。愛しの総帥様は今日もつれない。
そして視線を落とした拍子に、シンタローの右手に持つ小箱が視界に入った。
「なんどすの?それ」
アラシヤマの問いに、シンタローが、ん、コレか?と言いながらその箱を顔の前に持ち上げる。
「コタローにみやげ。ずっと眠ってるっつっても、退屈なときもあるかもしんねーし」
深い藍色と金で彩色され、精緻な細工が施された小さな箱。裏側には、蝶つがいのような小さなネジが付いている。
「オルゴール、どすか」
「ああ」
肯きながら、シンタローは片手でその箱の蓋を開けた。
キン、キン、と薄い金属が爪弾く澄明な音が、やわらかな旋律を奏で始める。
「不思議だよな。聴いてたときの記憶なんてほとんどないのに、こういうの聴くと、なんつーの?なんか、あったかい気分になるっつーか……ガキの頃のこと、思い出す」
そう言いつつ、箱を見つめるシンタローの目はいつになく優しげだ。そんなシンタローの表情を微笑しながら眺めていたアラシヤマが、ふと何かを思いついたように中空に目線を上げた。
「―――あ、わても今、急に思い出しましたわ」
開いた箱からはメロディーが流れ続けている。聴きながら、シンタローがゆっくりとアラシヤマに目を向けた。
「昔、わてがまだ弟子入りしたばっかの頃。師匠が土産やゆうて持って帰ってくれたんがコレだったんどす」
『声音的記憶』
ちょっと見にはいつもと変わらぬ無表情で、だが眉宇に隠しきれない不機嫌の翳を漂わせたマーカーが夕暮れの紅い火雲の中帰艦したとき、そこには既にロッド、Gの両名がくつろいでいた。
「あっれー、珍しいじゃん。マーカーのほうがオレより戻り遅いなんて」
その事実に少なからず苛立っていたマーカーの神経を更に逆撫でするように、蜂蜜色の髪をしたイタリア人が能天気に声をかけてくる。そして腰掛けていたソファから立ち上がると、男を無視して黒革のジャケットの前を寛げていたマーカーに歩み寄って、その白皙に手を伸ばした。
「ココ、ススついてる。なんか厄介なことでもあったの?」
言いながら、革ジャンの袖を伸ばして覆った手の甲で、マーカーの頬を拭う。その手を払いのけながら、マーカーは近くのソファに腰をかけ、高々と足を組んだ。
「―――別に、何も無い。少々、加減がきかなかっただけだ」
「え、なんでなんで。調子悪い?鬼のカクランてヤツ?」
「……」
目を丸くしながら、ロッドは更に問いかける。その言葉の意味すらきっと理解してないだろうに騒がしくまとわりついてくるイタリア男を、マーカーは無言のまま炎上させた。
容赦のない炎に全身をこんがりと焼かれ、床に崩れ落ちながらロッドは弁解するように片手を上げた。
「いや……、オレとしてはですネ。婉曲な言い回しの中に、どっか体の具合でも悪いんじゃないかと、大事な同僚の心配をしたワケですヨ」
「どちらにしても不快には違いないな」
焦げ臭い匂いを立ち上らせながらもへらへらとした笑いを消さず、ロッドは喋り続ける。そんな男を一顧だにせず、マーカーは卓上にあったミネラルウォーターのキャップをあけ、喉を湿した。
ふと目を向ければ、Gまでもが心配を隠しきれない表情でマーカーを見つめている。その様子にフゥ、と一つため息をついて、水のボトルを手にしたままマーカーは重い口を開いた。
「……昨夜」
「ン?」
「夜中に、奇妙な声が聞こえてくるので目が覚めた。不審に思い隣室を見てみれば、ヤツが布団の端を噛んで嗚咽を漏らしているのだ」
へ?と一瞬首を傾げてから、すぐにその事実に思い至ったロッドがぽん、と手を打つ。
「あ、そっか。マーカー、例のコ引き取ってから遠征出なくなってたもんね。今回が『初めてのお留守番』ってワケだ」
そんでやさしいマーカーちゃんは、朝までずっとついててあげることにしたと、と納得したように肯くイタリア人を、マーカーは氷点下の眼差しで睨みつける。
「人の話は最後まで聞け。私はそれを見て、うるさいと一喝してそのまま自室に戻って眠ろうとしたのだ。―――だが」
忌々しげにチッと舌打ちをしながら、マーカーは手に持つ水をもう一口呷る。
「ヤツが、私の寝着の裾を掴んで放さなかった。いくら言っても、泣きながら首を振るばかりで埒があかん」
普段は自分を恐れ、近寄ることすらためらう子供が。置いてけぼりになるのは嫌や、と強情をはった。
放せ、と足蹴にしても軽く炎を飛ばしてやっても、子供は一向に離れる気配がない。
「仕方なく、ゆうべはヤツの横で眠ってやった。―――しかし、子供の体温というのは、どうも高くて落ち着かん」
「なーんだ。やっぱ朝までついててあげたんじゃんv」
よく見てみれば、マーカーの切れ長の目の下にはうっすらとクマができている。一晩よく眠れなかった程度で、疲労を残すような男ではない。きっと、子供を横で寝かせていることに対して、本人が自覚している以上に緊張していたのだろう。ロッドは苦笑を噛み殺しながらそう推測した。
と、それまでずっと黙って二人のやり取りを聞いていたGが、口を開いた。
「弟子は、たしかまだ八つか九つくらいと聞いていたが……」
「ああ」
それがどうかしたのか、と言うようにマーカーは答える。ロッドがえー、と素っ頓狂な声を上げた。
「ダイジョブなの?そんな小さいコ、一人で山ン中残してきちゃってさ」
「問題ない」
「冬眠明けのクマとか……」
「気配の察し方はここ数ヶ月で何より先に叩き込んだ。それに、炎の扱いも最低限は既に身につけている。野の獣に殺されるような間抜けなことにはならんだろう」
「……食べ物とか、ちゃんと置いてきたよね?」
「貴様……、私を何だと思っている」
憮然としてマーカーは言う。そして、例え忘れていたとしても、あの辺りなら食えるものも多い、と付け足した。
淡々と発される事務的な言葉は、本心からの台詞だろう。おそらくマーカー自身、今の弟子の年のころには既にそうした環境に慣れていたに違いない。
それをわかっていながらも、ロッドは家族に囲まれていた己の少年時代を思い出し、ぽつりと洩らさずにはいられなかった。
「でも―――寂しいと思うけどなぁ」
いつの間にか床から起き上がり、開いた膝の間に両手をつくようにロッドはソファに腰掛けている。そしてはにかんだようにマーカーに笑いかけながら、ゴソゴソとポケットを探り始めた。
「コレ、持って帰ってあげてよ。イイ子にお留守番してたご褒美でさ」
そう言いながらロッドが取り出したのは、片手に収まってしまうほど小さな木箱だった。
「オルゴール。曲名は知らないヤツだったけど、割とキレイだったから」
「……いいのか?どこぞの女にでも贈ろうとしていたのだろう」
「ちーがうって。サスガにオレも戦場で拾ったモン、女の子にあげたりはしませんヨ。この近くの民家で見つけちまってさ。お弟子ちゃんに、ちょーどいいかなぁ、と」
ぱち、とウインクをしながら、イタリア男は続ける。
「『元の』持ち主も、ソレなら許してくれそうじゃね?」
まー、オレらが来たってコトだけで許すもナニもあったモンじゃないだろーけどねー、と、冗談というわけでもなく言いながら、ロッドは肩をすくめる。
そんな男の様子を眺めながら、マーカーはなんとも複雑な表情を作り―――やがて謝々、と小声で呟いて、その箱を受け取った。
木々の生い茂った山稜の奥深く、切り立った崖に程近く建てられたその山荘に、マーカーが戻ったのは翌日の昼過ぎだった。伐って角を落としただけの木材を寄せ集めて作ったような質素な小屋は、春を近くに控えて木の芽を出し始めた樹木の間に、燦々と陽光を受けている。
戻ったぞ、と短く告げて簡単な着替えのみが入ったリュックを下ろすと、おつかれさまどすー、と笑いながら中国服を身にまとった子供が駆け寄ってくる。そして師の荷物を抱えると、とてとてと洗濯物入れの置いてある裏口のほうへと運んでいった。特に仕込んだわけではないのだが、この子供は人の世話をするということに慣れているようだ。
「留守中、特に変わりはなかったか」
「へえ」
「課しておいた修行はきちんと行ったのだろうな」
「もちろんどすえー」
答えながら、アラシヤマは裏口の隣にある木枠の桶の中にマーカーの衣服をあけていく。開け放されたドアの向こうで、小さな背中がちょこちょこと動いている。
「ふむ」
居間の中央にあるテーブルに腰を下ろしたところで、マーカーはポケットの中にあるそれの存在を思い出した。しばらく手の内で玩んでから、一生懸命にリュックの中身を空けている子供の背中に向かって、無造作に放り投げる。
予想もしていなかった急襲に訓練の成果か振り向くまでは出来たものの、そのまま落下してきた小さな、しかし角のあるその物体は、綺麗な放物線を描いてアラシヤマの頭頂部を跳ねた。
「あだっ!な、なんどすの?!イキナリ」
「土産だ」
アラシヤマが頭をさすりながら放られたものを確認すると、それは小さな木製の細工箱だった。蓋には異国の風景が描かれており、木目の浮き出た側面には丹念に艶出しのニスが塗られている。
「へぇ……可愛いらしい箱どすなぁ……」
頭の痛みすら忘れ、箱を手に取り、蓋を開ける。
その瞬間流れ出した澄明な音に、アラシヤマは飛び上がるほど驚いた。
「わっ!なんや鳴りましたでっ!師匠っ!」
叫びつつ、慌ててその蓋を閉じる。同時に音はぴたりと止んだ。そんなアラシヤマの一連の行動を眺めながら、マーカーは呆れたように言う。
「貴様、八音金(オルゴール)も知らんのか?」
「オルゴール……」
「私の同僚のイタリア人が貴様にと言って持たせたものだ。好きにするがいい」
テーブルの上に頬杖をついたまま、さしたる関心もなさそうに言うマーカーに、アラシヤマはぱっと表情を輝かせた。そして急いで洗濯物を汲み置きの水につけ表に出すと、いそいそと居間に戻ってきて隅のほうで箱の音色に耳を澄ます。陽光の射し込む静かな室内に、微かな旋律だけが響く。
だが、一曲が流れきる前に徐々にメロディーがゆっくりになっていき、やがて途絶えた。
「あれ……鳴らんくなってもうた……」
「……~~ッ」
すっかり音のやんでしまった箱を軽く振ってみたり何度も蓋の開閉をしてみたりと慌てている弟子に、マーカーはずかずかと歩み寄り、その手から箱を取り上げると、後ろについているネジを巻いてやった。そしてテーブルに戻りながら、ぽん、と背中ごしに放る。
再び鳴るようになった小箱に、アラシヤマが満面に喜色を表す。
「おおきにどす!お師匠はん」
まさか土産など持って帰ってきてもらえるなどとは予想していなかったし、万が一それがあるとしても生活の糧になるようなものだろうとぼんやりと思っていた。思いがけない僥倖に、アラシヤマはその箱を両手の中に抱えこんで、師の元に少し近付く。
「きれいな音どすなあ……せやけど、なんか……少ぅし……」
ぺたん、とその足元の床に座り込んだまま、アラシヤマは中国風の上衣の胸元を押さえる。小さな面に浮かんだ表情は相変わらず嬉しそうではあったが、どこか、一抹の寂しさにも似た色が混ざっていた。
「この辺が、ぎゅっとするんは、なしてなんやろ……」
不思議そうに呟くアラシヤマを、マーカーはちらりと一瞥する。
「……この音聴いてると、祇園にいた頃よくしてもろた姐さんのこと思い出します」
床に正座している弟子は、膝の上の小箱に片手を添え、もう片方の手を心臓の上にあてている。
穏やかな高音を聴きながら、まるで箱にでも語りかけるように、アラシヤマは小声で話し始めた。
「わてな、お父はんとお母はんの顔、よう知らんのどすわ」
まだ記憶も定かではない頃に、祇園の見世の前に捨てられたのだ、と訥々と子供は語る。それはマーカーも団から渡された書面の上ですでに知っていたことだった。しかし、共に暮らし始めて数ヶ月。初めて己のことを語りだした弟子に、マーカーは僅かだけ目を細める。
「見世に拾われて、子供ゆうても少ない男衆や言われて、いろいろと手伝いの仕事仕込まれて。そんなわてにようしてくれたんは、見世でたったひとりの太夫はんどした。気ぃの強い綺麗なお人で、わてのこの力が廓に知れて、気持ち悪いゆうて皆が遠巻きにしはったときも、姐はんだけは、おもろい、きれいや、ゆうて手ぇ叩いてくれて……」
弟子を取ることを強制され、にわかに詰め込んだその生まれ故郷の知識から、アラシヤマが口にするその「姐さん」なる人間が実の姉ではなく、職業としての呼び名だということはわかる。それでも嬉しそうにそのことを語るアヤシヤマの顔色から、おそらく孤独な子供にとっては実の家族かそれ以上の存在だったのだろうと、マーカーは推察した。
だが、次の台詞を口にしたとき、アラシヤマの表情に幽かな翳が射し込んだ。
「せやけど、姐さんが落籍(ひか)されることになって……」
その時のことが今も忘れられない、とアラシヤマは言う。
太夫が金持ちの商人に身請けされることがきまったのは、アラシヤマが見世に拾われて三年が経った頃だった。
ある日、その身請け先から見世へと花嫁衣裳が届けられた。太夫を、妾ではなく妻として迎えるという約定の証である。純白の内掛に角隠し、金襴緞子の帯のついたその衣装は、廓中の評判となった。それが置かれた太夫の部屋の前を通るときには、禿も他の妓たちも、思わず中を覗き見たほどに。
そしてそれは、アラシヤマがその部屋の主に招じ入れられたときに起こった。
廊下からおずおずと中を覗くアラシヤマの姿を目に留めた太夫に、そないなとこで眺めてへんと、近う寄ってもええんよ、と幸せそうな表情で微笑みかけられて、アラシヤマはその内掛に近づいた。
見たことも無いような白無垢の衣装は、まるで内から燐光を発しているかのように美しかった。
そう、本当に綺麗だと思って。アラシヤマは心の底から感動したのだ。
だが、そう思いアラシヤマが恐る恐るその裾に手を伸ばした瞬間。その内掛はアラシヤマを裏切るように、橙色の炎を上げた。
内掛に火が移った際の、太夫の顔は今でも忘れられない。
それは怒りではなく、悲しみですらなく。ただ純粋な、呆然とした表情。
お付きの禿が慌てて水を呼びに部屋を出る。女将がやってきて悲鳴をあげる。そして、アラシヤマは―――表へと、駆け出した。
女将の罵声に逃げたのではなく、ただひたすらに己の存在が厭わしいものに感じて。外は冷たい氷雨が降っていた。濡れた石畳に何度か足をとられた。それら一切を無視して、アラシヤマは無心で走り続けた。
肺の中から血の匂いがして、足がズキズキと痛み始めても構わずに。どこまでも、どこまでも。
火はすぐに消火されたものの、燃えた部分は二度と元には戻らなかった。
「ずぶ濡れになって帰ったわてを、姐さんは叱らんかった。女将はんには、散々折檻されましたけどな。せやけど、わてはそれから、姐さんの顔がよう見られへんようなってもうた」
態度を変えたのは向こうではなく、アラシヤマだった。その人を見るたびに、幸福の象徴である晴着を炎上させた瞬間が目裏によみがえり、心臓をつかまれたような気分になる。
「結局、先さんにひたすら頭下げて、新しいのが用意されて、姐さんは祇園を出ていかはったんどすけども。結局見送りのときですら、わては見世の格子戸の内側からこっそり見とるだけどした」
小さくまとめた荷物を旦那の寄越した小物に持たせ、太夫が廓を背に歩き出した最後の最後。見世の外と内で視線が交錯したその一瞬、確かにあの人は微笑ったような気もしたのだけれど―――それでも、アラシヤマは己のしたことが許せなかった。
「太夫の部屋で火ぃ起こした不始末はすぐ広まって、わてはまたひとりぼっちになってもうた。それで、時々考えるようになったんどすわ―――わてはなんで、生きとるんやろうって。壊すことしかできへんのやったら、なしてわてはこの力持って生まれたんやろなあて……」
マーカーはずっと黙したまま、アラシヤマが幼い舌で紡ぐ過去を聞いていた。
だが、その言葉を耳にしたとき、一度だけピクリと柳眉が動いた。そして、俯いたままの弟子を見下ろしながら、ゆっくりと言う。
「なんだ。―――貴様、死にたいのか?」
ならさっさと言え、とばかりに師は平然と普段から入念な手入れがなされている青龍刀の一本を取り出す。
そのあまりにためらいのない動作に、アラシヤマは慌てて顔をあげ、ぶんぶんと首を振った。
「え、あ、そ、そないなことあらしまへん!わてはただ……」
「だからだろう?」
「……へ?」
「だから、そういうものだろう、生きるということは」
目を丸くして己を見つめる小さな子供に、吐き捨てるようにマーカーは言う。
「概して下らん。命の意味を問うことなど」
死にたくはないから、生きる。動物とはそもそもそのようなものではないか。そのような問いは考えて理解するものではない。百足の故事でもあるまいし、十にも満たない小僧が考えるなど馬鹿馬鹿しいにも程がある、と思う。
「過去の賢人すら五十にしてようやく天命を知ったと言う。貴様如きの齢で、そのようなことを口にすること自体、おこがましい」
「……」
それまで、それこそ己が人生をかけて考え続けてきた悩みを、いともた易く一蹴されてしまい、アラシヤマは呆然と師の顔を見る。そんなアラシヤマの心境に追い討ちをかけるように、師は言葉を重ねた。
「今は一心に己の能力を磨くことだけ考えろ。そして生き延びれば、いつか―――命に感謝をしたくなることも、あるかもれしれん」
「……ほんま?」
「ああ」
運がよければ、その力を生かす道も見つかるだろう、と呟きながら、マーカーはアラシヤマの髪をくしゃりと撫でる。その節の目立つ綺麗な指の合間から、アラシヤマは上目遣いに師を見上げた。
「お師匠はんは……見つけはったん?」
「……。フン、どうだろうな」
弟子の口から滑り出すように発されたその問いかけに、マーカーはまばたきの間だけ瞠目し。
そしてふい、とアラシヤマから顔を背ける。
「貴様が今の私の年をこえたときに、教えてやろう」
師の顔は窓から射し込む光に逆光となっていて、アラシヤマにはその表情がよくわからない。
ただ、ほんの一瞬。口元に淡い笑みが浮かんでいたような気が、した。
「生きるための術はここを出るまでに叩き込んでやる。貴様は、それから先を判断しろ。……ただ、私が修行をつけてやっているこの時間を無駄にするようなことをすれば、許しはせんぞ」
あくまで冷ややかなその口調。だがそれは暗に、己の命をあたら軽んじはするなと言われたような気がアラシヤマはして―――
その瞬間不意に込みあがってきた涙がこぼれないよう、歯を食いしばりながらコクリと肯いた。
***
「―――オイ、何ぼーっとしてやがんだヨ」
怪訝そうな色を滲ませたシンタローのその声で、アラシヤマは現実へと引き戻された。
そしてまばたきを数度して、自分を見るシンタローに焦点を合わせる。周囲は相変わらず人気がなく、銀色のリノリウムの壁が、点在する照明の光を反射して鈍く光っている。
ふと思い立って、おずおずと一つの願いを口にした。
「あの……わても、コタロー坊ちゃんとこ、お見舞い一緒してもええどっしゃろか」
もじもじと指を組み合わせながら口の端に上らせたその願いに、シンタローはあからさまに嫌そうな顔を返す。
「……やっぱ、ええどす」
しゅん、としおれながら足を反転させかけたアラシヤマのその襟首を、シンタローがぐい、と掴んだ。
「バーカ、冗談だよ。……コタローもたまには違う面子の顔見てぇかもしんねーしな」
あ、でも怪電波とか変な呪いとか飛ばすなよ!と念を押してから、シンタローはすたすたと先を歩き始める。アラシヤマが顔にぱっと明るさを取り戻し、シンタローの後を追って、慌てて通路を小走りに駆け出す。
(―――そういえば、あん時の答え、まだ聞いてへんどすなあ)
もうあの時の師の年はとうに越えたというのに。
いつの間にか約束それ自体を忘れ、ずっと聞きそびれていた。
だが、今更聞かずとももう、答えなどわかりきっている。
あの時の師が確かにそれを見つけており、そして、今もってそれを大事に守り続けていることも。
自分もまた、それを手に入れることが出来た今ならば。
そんなことを思いながらアラシヤマは、紅い背中の隣に並ぶため、ブーツの堅い靴底でリノリウムの床を蹴った。
了
========================================
初の子アラ話です。タイトルは一応中国語ですが繁体簡体混じってますゴメンナサイ。
アラが師匠に弟子入りしたのって何歳くらいなんでしょうね。
幼少期の時代設定はかなり曖昧ですがどうぞお目こぼしくださいませ。
.
PR