あ、と思ったときにはもう遅かった。
かなりの高さからフローリングの床に落ちたその磁器は、ぱりん、と嫌味なほど鮮明な音を立てて、きれいに二つに割れた。
その音に何事かと、ダイニングにいたアラシヤマがキッチンを覗き込む。その視線に、床に落ちている磁器の破片が入ってきた。
「あ……割れてもうたんどすか」
床にそれを落とした体勢のまま、どうしようもなくその場に佇んでいるシンタローをさておいて、地面に落ちている破片をひょいひょいと拾いながら、アラシヤマはそれを洗い場の横に置く。それから、バツの悪そうな顔で自分を見ているシンタローに問いかけた。
「怪我とか、してはりまへん?」
「イヤ、それはねーけど……ソレ……」
「まあ、古いもんどしたしな。それに接ぎにでも出せば多少跡は残っても直りますさかい」
気にせんといておくれやす、と淡々と言うアラシヤマを見るシンタローは、心中穏やかではなかった。
珍しく深い色をした青磁の湯呑み。それはアラシヤマがマーカーと二人で暮らしていたころの、数少ない大事な思い出の品だと、以前何かのときに聞いた覚えがある。だからこそ、普段使わない棚の奥深い場所に仕舞ってあるとも。
「床はあとから片付けときます。破片でも踏んだら危のうおすから、とりあえずダイニングに移りまひょ。お茶はないどすけど、水でも構へんどっしゃろ?」
言いながらアラシヤマは洗い場に上がっていたグラス二つを取り出すと、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを出してダイニングに移動した。シンタローも無意識にその後を追う。
水を注いだグラスの片方をシンタローに渡しながら、ダイニングテーブルの端に軽くもたれるようにしてアラシヤマは訊ねた。
「あないなところ、なに探してはったんどす?」
「いや、ちょっと……そろそろ寒くなってきたし、どっかに土鍋とかねーかな、と……」
その返答にアラシヤマは苦笑しながら言う。
「食器類はともかく、ウチの調理器具が増えたんは、シンタローはんが来てくれはるようになってからどすからなあ。入り用ならまた買い足しときますえ」
それにしても、鍋どすかあ……これからの季節にぴったりどすなぁ……とうっとりと呟くアラシヤマに、シンタローは首を振って怒鳴った。
「じゃ、なくて、湯呑みだよ!」
「へ?」
頭の中ではすっかりシンタローと二人仲良く鍋をつつく図を浮かべ、陶然としていたアラシヤマの目が丸くなる。
「せやから、気にせんでええて……」
「……俺の気が、済まねーんだよ、それじゃ。アレ、テメーの師匠との思い出なんだろ」
まるでシンタローのほうが拗ねているかのように言う。
まあ、思い出てゆえばそうどすけど、湯呑みは所詮湯呑みどすしなあ、と本心からそう言っているようなアラシヤマのその表情にもどこか腹が立って、シンタローはアラシヤマの胸を人差し指で突いた。
「落とし前はキッチリつける―――今から、オマエの言うこと、一つだけ何でも聞いてやる」
『 without limit 』
「なっ……ななな何でも?!」
思わぬシンタローの発言に、アラシヤマの挙動があからさまに不審になる。信じられないようなその言葉を頭の中で反芻すると、おろおろと左右を見回し、挙句顔を真っ赤にしたまま阿呆のように口をあけてシンタローを凝視した。
そんなアラシヤマの様子を呆れたように眺めていたシンタローは、あっさりとアラシヤマの希望を軽く打ち砕くような台詞を追加した。
「あ、でもエロ系は禁止な」
その言葉に、期待を一身に込めた目でシンタローを見ていたアラシヤマの肩が、見事に落ちる。
「……。今、わての野望の八割方費えましたえ……」
「八割って……オマエいっぺん高松にアタマん中見てもらって来い」
まあ、それでもアラシヤマにとって僥倖は僥倖だ。背の高いテーブルに軽く腰をかけるようにしながら、アラシヤマはしばらく中空を眺めながら思案する。
そして、やがて何かを思いついたようにシンタローに目を向けた。
「そんじゃ、ま」
その口元には、気が利いた悪戯を思いついたような悪趣味な笑みが浮かんでいた。
「たまには、シンタローはんのほうから、キスしてほしいどすなあ」
「キ……っ!」
「軽いので構いまへん。そんくらいどしたら、簡単どっしゃろ?」
挑発するように、アラシヤマは小首をかしげる。それにシンタローもまた、苦虫を噛み潰したような表情で、かろうじて口の端だけを上げて返した。
「……まーナ」
そして、手に持つグラスをゆっくりとテーブルの上に置く。
テーブルに後ろ手をついた体勢のアラシヤマの正面にシンタローは立ち、軽く身をかがめて、自分もテーブルの端に両手をかける。
たかが口と口を合わせるだけ。今更それに過度の意味を持たせるような年でもない。
キス自体はこれまでに何度だってしてる。ただ―――大抵の場合せがんでくるのも仕掛けてくるのもコイツで、自分はそれに応えていればいいだけだったのだが。
アラシヤマはじっとシンタローを見上げたまま、微動だにしない。その髪の隙間から見える視線がなんとなく気になってしまい、シンタローはぶっきらぼうに言う。
「……目、つぶれよ。とりあえず」
「へぇ。ほな、なんも見えんのも不安どすし、手ぇ繋ぎまひょ」
言うなり、シンタローの両手をとり、指を絡める。そして顔をやや仰向かせたまま、アラシヤマは目を閉じた。
その途端、これまでイヤというほど見てきた男の顔が、まるで別人のようにシンタローの目に映る。
(―――案外、睫毛長ぇな……てかこんなまっとうなカオしてんの最後見たのいつだよ……)
そう意識しはじめると、どうにも簡単なその「行為」が、なぜかとてつもなく困難なものに思えてきた。目を閉じたアラシヤマを間近に見ながら、シンタローはそこから僅かも動けない。
あまりに長い間、空気すら動かないその状況が続いたため、アラシヤマが小声で呟いた。
「……早よ済まさんと、余計辛うなってきますえ」
「わぁってるよ!」
ヤケクソのようにそう怒鳴りながら、やっぱり手を繋いだままというのはどうにもマズった、とシンタローは思う。速まっている動悸も、うっすらとかきはじめている汗も、全て手のひらを通して伝わってしまう。
だがとりあえずこれを外して……とほどきかけた手は、ぐっと、更に強く、アラシヤマにつかまれた。
目を閉じたまま、どこか楽しそうに、アラシヤマは言う。
「お手伝い、しまひょか」
そのあまりに人を小馬鹿にした物言いに、シンタローの頭に一気に血が上った。
「ウルセー動くな黙ってろ!!」
一瞬だけ息を呑んで、それから覚悟を決めたようにシンタローがゆっくりとその顔を近づける。長い前髪と、微かな吐息がアラシヤマを掠める。
そして柔らかなその唇が触れたのは、
アラシヤマの瞑った左瞼の上だった。
その唇の感触が完全に薄れてから、アラシヤマが目を開き、シンタローをまじまじと見る。
「……シンタローはん?今の……」
「―――~~!キスにゃ、かわんねーだろーが!」
「……―――」
シンタローはそれでも顔を真っ赤にしたまま、口をへの字に結んでそっぽを向いている。アラシヤマはといえば、シンタローの唇が触れた左目を片手で軽く押さえたまま、ぼんやりとしていた。
「……んだよ。文句あンのか」
「いや、ある意味、えらい不意打ちどすわ……」
言いながら、アラシヤマはゆっくりと、花瓶一つ置かれていないダイニングテーブルの上に仰向けに倒れこむ。そして両腕を交差させるように、瞼を覆った。
ほんの少し、本当に僅かだけ彼の唇が触れた左の瞼が、熱い。しかもそれは、その瞼をじわじわと灼いているかと思うほど熱いのに、同時にとんでもない多幸感をアラシヤマに与えるのだ。
その予想外の感覚に、アラシヤマの口から、はは、と笑いが漏れる。
そしてふてくされたような表情のシンタローに向かって、両腕で目を覆ったままアラシヤマは口を開いた。
「シンタローはん」
「ぁン?」
「わて、あんさんのことどんどん好きになってきます」
それは愛の告白というよりは、半ば呆然としたような響きを持っていた。
シンタローはテーブルに倒れているアラシヤマの横に、軽く腰を掛ける。
「初めは見てるだけで、声聞けるだけで十分や思とったんに、それだけじゃ足りへんようになって、こっち見て欲しい、触りたいて、そればっかり思うようになって……」
ぽろぽろとその口から零れ落ちる独白のような言葉を、シンタローはアラシヤマのほうに目も向けずに、ただ聞いている。
「自分でも、もうどこまで抑えがきくんかわからへん。―――せやから」
それが掛け値なしの本気で、だからこそ、それを言葉にしてしまうことは、アラシヤマにとってはとてつもない覚悟を要するものだったけれど。
「もし、ほんまに、シンタローはんが冗談やなく、わてのこといらんて思わはったら……」
どうかそうゆうておくれやす、と懇願するような声で、アラシヤマは言った。
ほとんどモノトーンでまとめられた室内に、僅かな静寂が訪れる。
しかしアラシヤマの本心からのその言葉を聞いたシンタローは、つまらなそうに片眉を上げて。
そして、ポケットから出した煙草におもむろに火をつけた。ふ、と中空に煙を吐き出す。空気が止まったような室内に、薄い白煙がゆらりとのぼっていく。
「ふーーーん。で、ナニ。俺にそう言われたら、オマエ傷心の旅にでも出ンの」
「へぇ?しょ、傷心の旅て……いや、そらちょっとは出るかもしれまへんけど、結局は本部詰めどすしなあ……」
「そんで―――忘れられんのか?俺のこと」
「……」
沈黙の返答は、どう考えても否定でしかないのに。アラシヤマはそれ以上何も言おうとはしない。
その曖昧な態度にシンタローは苛ついて、咥え煙草のまま、表情を隠すように両目を覆うアラシヤマの両腕を力ずくで外し、テーブルの上に押さえつける。
間近に覗き込むようにこちらを見るシンタローの漆黒の双眸。その視線からなんとか逃げようとアラシヤマは己の目線を横に流しつつ、しどろもどろになりながら答える。
「そ、そらまあ、時間は…かかりますやろけど……その、できるだけ目に入らんように……イヤ、その、まあ……努力は、しますえ」
半ば意地になっているかのようなその言葉に、シンタローは押さえつけていた手を離し、起き上がると傍らにある灰皿に煙草の灰を落とした。
そして、呆れたような声で言う。
「だったら、今までどおり、そばにいろ」
まだテーブルに倒れたままのアラシヤマに見えるのは、少し猫背になったシンタローの広い背中だけだ。その背中はややげんなりと疲れているようではあったが、だがけして拒絶の意を示しているようには見えなかった。
「ワケのわかんねーところから陰気な怪電波飛ばされるよりゃ、目の届くところでストーカーされてたほうがまだマシだ」
自分の本音を、どこまで堕ちるかもわからないその執着を、あまりに簡単に受け入れられてしまって、アラシヤマは安堵するより先に気が抜ける。
「シンタローはん、わてな」
テーブルの上に仰向けに倒れて天井を見上げたまま、その両手を腹部の上で組むようにしてアラシヤマは言う。
「こう見えて、案外しつこいんどすわ」
「イヤ、『こう見えて』も『案外』もいらねェ」
「後悔しても、知りまへんえ?」
「そんなモン、あの島にいる時からとっくにしてる」
アラシヤマの言葉はことごとくシンタローに茶化されながらも、けして拒まれはしない。
そして、吸い終わった煙草を灰皿に押し付けてから、シンタローは上体を振り向かせた。
「ま、いくらでも来いよ。テメーなんざ、本気で愛想尽かしたら全部返り討ちにしてやっから」
そう言って、シンタローは笑った。ニヤリ、とまるであの島にいたときのような、悪戯めいた笑顔で。
その表情があまりに無垢で自信に満ちていて、アラシヤマを安心させるものだったので、
(―――あんさんの覚悟より、もっとずっと、重たいもんかもしれまへんえ)
そう思ったことは、あえて口にはせずに。
また片腕で目を覆い。そしてもう片方の腕で置いてけぼりを恐れる子供のように、アラシヤマはシンタローの上衣の裾を強く握りしめた。
了
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『潮騒』の岡甚様に捧げますアラシン小噺です。
カウント3389(ささ、早く)で「何かをシンタローさんに促すちょっと気持ち悪い系統のアラシヤマを…」
とのリクエストをいただき(強奪・・・?)、その瞬間思い浮かんだままに書き綴りました。
当サイト過去最高に糖度高いです内容もベタベタですみません。
リクエストにお応えできたかとても不安ですが、どうか受け取っていただければ幸甚です。
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