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『on the wild world』  act.7 












 敵がどういった方法でこちらを監視しているのかわからないため、本部の輸送機器は使えない。シンタローは団の裏手に止めてあったマーカーが乗り付けてきたという車に同乗し、取り急ぎ最も近い民間の空港に向かった。前総帥時代から隠し持っている青の一族専用の小型ジェット機に乗り込み、υ国の近隣国まで飛ぶ。
 そこまで辿りつけば、当地の支部から船を借りられる。さすがの密偵も、各国に散らばるガンマ団の支部のすべてに監視の目を光らせるのは不可能なはずだ。
 ガンマ団本部とυ国の時差は約三時間。時計の針は本部のほうが進んでいる。リスクを考え多少の遠回りをしても、今から向かえば、未明には現地に着くことができるだろう。



 小型艇を借り受け敵地に向かうまでは、ほぼ予定通りの段取りで速やかに進んだ。唐突に支部に現れた総帥は、その入り口で最初に眼にした団員を捕まえてすでに帰宅していた支部長を呼び出させ、有無を言わせず近くの港に船を用意させた。関与した団員と支部長には、どのような相手に対しても、今夜のことは他言無用と「総帥」の表情で十分に言い含める。責任は全て自分がとるとも。
 乗組員は二名だけだ。せめてボートの操縦役に一人くらいは、と必死の表情で言い縋ってきた支部長の申し出は、ありがたく辞退した。どうせ航路の設定さえしてしまえばあとはほとんどオートで進むのだし、シンタローもマーカーも、小型船舶の運転くらいはできる。シンタローは一人として団員をこの件に関して動かしたくはなかったし、マーカーにしてみれば話はもっと単純で、足手まといは不要という心境だったのだろう。

 まるでコールタールのようにどろりと粘着質な動きを見せる黒い海に、細い細い三日月と空を覆う星々の光が映っている。シンタローたちの乗る小型のモーターボートは、ところどころに立ち上がる白い波頭を一直線に切り裂きながら進む。
 シンタローは乗船してすぐに、人一人がようやく入れるサイズの小さな操舵室で機器類の調整をしていた。だが作業にはそれほどの時間もかからず、五分程度でマーカーのいるデッキに現れる。

「よし、設定終了っと。到着まで約四十分てトコか」
「お疲れ様です」

 船牆に軽くもたれるように腕組をして立っているマーカーは、シンタローの姿を認め、簡素な労りの言葉を口にした。マーカーよりやや船首側に腰を下ろして、シンタローは今後の方針についてようやく話し始める。

「んで、あっちに着いてからのことだけどよ」
「何か、お考えが?」
「いーや。基本、出たトコ勝負」

 その聞きようによっては無鉄砲なシンタローの言葉に、だがマーカーもゆっくりと頷いた。 

「―――それしかないでしょうね。見取図はすでに頭に入れてあります。アレの近くまで行くことができれば、あとは私の蝶が案内役を務めましょう」
「蝶?」
「炎の蝶です。貴方にはまだ、お見せしていませんでしたか」

 それは炎使いという特質を持つ者同士を繋ぐ、一種の連絡方法だとマーカーは簡単に説明する。

「ただ、確かにあの空白部分は厄介ですね」

 マーカーが言っているのは、シンタローが見せた砦内部の見取り図に関してのことだった。そもそもあの図面自体がすでに数年前のもので、どこまで信頼がおけるかもわからない。
 しかし、今頼れるものがそれしかないというのも事実だった。前政府の残党たちに、それほど大掛かりな改修を施せるだけの余力がないことを願うばかりだ。

「そして、アレが残った理由というのも―――気になる」

 確かにそれは、シンタローにとっても一番の謎だった。任務に関してはかなり割り切った考え方をする男だ。一体何が、あの男をさらに奥へと呼び込んだというのか。

「―――あのバカ、まだ生きてると思うか?」
「……さあ。確率は五分といったところでしょうか」
「ッたく……、余計なこと考えねーで、さっさと引き上げてくりゃよかったんだ」

 今更言ったところで詮無いこととわかっていても、つい口をついて出る憎まれ口は抑えられない。その気持ちはマーカーにもわかるようで、うっすらと唇の端を上げた。

「おそらく、貴方の役に立ちたいあまりに、愚かにも己が立場すら忘れて深入りしたのでしょう」
「……俺のせいかよ」
「いえ、一ミリの弁解の余地もなく、あの馬鹿弟子の責任です」
「情でも、かけろってのか?」
「とんでもない。むしろ貴方のアレへの常の温情には、心より感服しておりますよ」

 別に嫌味と言うわけでもなく、マーカーは薄い笑いを崩さずにそう言う。だが、それを言い終えた後、その白皙の面から、すっと、笑みは消えた。

「あの馬鹿弟子は―――自己への執着は過剰なほど強いくせに、己が命への執着は然程でもない」
「……どう、違うんだ?ソレ」
「おわかりになりませんか。それは貴方が健全な精神をお持ちだという証拠でしょうね」

 相変わらずの飄然とした無表情。こうしてかなりの近さでつぶさに見ていても、シンタローにはマーカーのその微妙な表情の奥にあるものは見えてこない。

「生死の確率は五分と五分……ですが、自決の心配だけは、なさらなくとも結構かと」

 マーカーのその確たる口調に、シンタローは僅か怪訝そうに眉根を寄せる。

「理由をお教えしましょうか?」
「……ぁンだよ」

 上目遣いに己を見る新総帥に、マーカーはきっぱりと断言する。

「ここでアレがそうしたところで、貴方に何のメリットもないからですよ」
「メリット、だぁ……?」
「課された任務は完了している。たとえ交渉の道具に己が使われたとして、それに貴方が応じるはずがない。そこまで現状認識を誤るほどには、私はアレを愚かに育てたつもりはありません」

 船牆に後ろ向きに両肘をかけ、やや上方、まるで星空を眺めるかのように中空に視線をやりながら、マーカーの薄い唇が動く。

「もとより自暴自棄になった憐れな負け犬どもの無謀な交渉です。あちらにはアラシヤマの身一つしか切り札はない」

 それも、もはや切り札か捨て札かもわかりませんがね、と恐ろしく冷静に言いながら。

「たかが団員一人、命を落としたところで団が蒙る被害など微々たるもの。だからこそ、そこでおとなしく死を待つような真似を、アレがするわけもありますまい。生還は無理としても、せめて一糸報いようとは考えているはずですよ―――己の命と引き換えに、この組織を殲滅させるくらいのことは」

 淡々とアラシヤマの心境を語るマーカーの言葉は、予想や憶測といったものではなく、まるで既に起こったことの報告であるかのようにシンタローに感じられた。
 船上には僅かな沈黙。
 マーカーの言葉を否定する材料を今のシンタローは持たない。だが、その言葉のどこかに、少しだけ反発したいような気分はあった。なぜかはわからない。それはもしかすると、マーカーがあまりに簡単に、弟子の死の可能性を口にしたからかもしれない。
 マーカーが推察するアラシヤマが取るだろう行動には、確かにシンタローも納得するしかなかった。あの根暗男なら、きっとそうした考え方をするのだろう。だが、それでも。

(―――アイツは、死なねえ)

 心のどこかで、そんな確信にも似た思いがある。
 そう、アラシヤマについてマーカーが知らないことを、一つだけ、自分は知っている。

(約束したんだ、俺と)

 もっとも、あの「約束」が―――約束と呼べるのかどうかすら危ういほどのあの言葉が―――どれほどの効力を持っているのかは、シンタローにすらわからなかったが。
 シンタローはポケットの中から常に携帯している煙草を出し、一本咥えてライターで火をつけた。軽く立てた両膝に両腕を投げ出すように置きながら、満天の星空に向かって細く煙を吐き出す。そして、その姿勢のまま、マーカー、アンタ今は一応俺の下にいるって思っていいんだよな、と確認するように言った。
 何を今更、と言わんばかりにそれを首肯したマーカーに、シンタローは目に厳しい光を宿して、命じる。

「だったらこれだけは言っとく。―――契約中は、できる限り、殺すな」

 その言葉に、マーカーの片眉が上がる。

「……この状況で、仰いますか」
「ああ」
「敵は一人として殺さず、しかもアラシヤマ奪取までは潜入にも気付かれず―――。予想以上に、難易度の高い任務になりますね」
「できないと思ったら言わねーよ」

 自分が口にしている内容の無茶は承知だ。だがそれでも、シンタローはにやりと不敵に笑ってみせる。

「もっとも、俺はそんな無能なヤツと、手ぇ組んだ覚えはねーんだけど?」

 マーカーは一瞬だけ苦虫を噛み潰したような表情をし。それでも最終的には了承の意を示した。とはいえ、そのほとんど何の変化も現れていない顔には、器用にもありありと不服の二文字が刻まれていたが。

「んな呆れたような顔すんなって」
「感情として否定はいたしませんが、そうした表情をとっているつもりもありません。しかし、このような事態でも、貴方はその主義を徹底するのですね」
「……コレがなかったら、俺が今この立場にいる意味が、ねえからナ」

 言いながら、シンタローはすでにフィルターの間際まで灰になっている煙草を消し、腰を上げた。船首の近くに立ち、目指す島の方向を確認する。
 その背に向かって、マーカーが静かな声で問いかける。

「新総帥」
「ン?」

 名を呼ばれて、シンタローは上半身だけで振り向いた。
 その先にあるマーカーの視線は驚くほど冷涼だ。

「私からも、これだけはお聞きしたい。あの男を取り戻した後―――貴方はどうされるのか」
 
 それは、少なくとも部下が上司に向ける瞳ではなかった。

「どうって……」

 一瞬だけ気圧されたような気分になりかけ、だがあえてシンタローはそれを真っ向から受けとめる。多少無理があるな、と思いながらも、半ば意地で唇の端を歪めてみせた。

「今回の件についての処遇とか、そういう意味じゃねえんだろーな」
「そうです。アレは頭も性格も要領も何一つ良くはなかったが」

 シンタローですら苦笑するしかないような手厳しい言葉は、この師にとっては特に辛辣という意識もないらしい。毛筋ほどの感情も表さずに、流麗にすら聞こえる音調で言葉を紡ぐ。

「殺しのセンスだけは、悪くなかった」

 シンタローを見据えるマーカーの眼が、ほんの僅か細められた。

「今の貴方が抱えるには、リスクが大きすぎるのでは?」
「……」

 マーカーの問いは、まるで研ぎ澄まされた刃のようだ。シンタローが常に心の奥底に、見えないよう封じている懸念を、的確に抉る。

「掌中の珠、というわけにはいきませんでしたがね。こう見えて、私はあの弟子に一片の可能性を見出した。―――手に負えなければ、引き取ってもいいのですよ」

 シンタローをじっと見るマーカーの、その眼に浮かぶ色は希望でも揶揄でもなかった。マーカーの台詞は、アラシヤマを深く知る者としての、この上なく理性的な判断から導かれた「注進」だ。
 しばらく無言でマーカーと睨み合いを続けていたシンタローは、やがて、ふ、とその視線をずらし。上体を前方に戻して、遠く、空との境界も曖昧な海の彼方に目を向ける。
 目指す島はまだ見えてこない。顔に当たる強い風が、括りきれない長さの前髪を八方に弄る。ステップ気候に属するこの国では、これほどの深更であっても寒さを感じることはないが、さすがに猛スピードで疾駆する船の上では、それなりの風の冷たさはある。
 シンタローは遥か水平線を見遣りながら二本目の煙草を咥え、ぼそりと言う。

「アイツは……焼き畑みたいなモンだ」
「……?」

 あまりに唐突なその例えに、マーカーはやや面食らったような顔をする。さすがにそれだけでは説明になっていないと思いなおしたらしいシンタローが、苦い声で続きを口にした。

「それが原因で、山火事起こす可能性があんのはわかってる。やりすぎて被害出していいなんざ絶対思わねェ。だけど」

 シンタローはただ前方のみを真っ直ぐ見据えて言葉を続ける。

「―――それで、生かされるモンがあるってのも、知ってる」

 己には一切視線を向けず言うシンタローの背中を横目で見つつ、成程そういうことか、とマーカーは変に納得した気分で思い。そして過剰なまでに婉曲な言葉の内に、この新総帥があの男を手放すつもりはないことを知った。
 マーカーもシンタローも、それ以上は何も言おうとしなかった。



 二人は無言のまま、全速力で船を進ませる。船上に聞こえるのは、その能力を限界まで酷使されている船のモーター音と、耳のすぐ横を凄まじい速度で吹きぬける風の音だけだ。やがて前方に、目的となる砦を擁する島の影が浮かび上がる。
 島までかなりの距離を残して、シンタローはボートを止める。これ以上近づくと、敵の哨戒線にかかる恐れがあった。前方に見える島の形から船の大体の位置を記憶し、その場に投錨する。多少潮に流されても、半径一キロメートル程度までなら遠隔操作も可能だ。

「よぉしッ。んじゃこっからは泳いでいくぜ!」

 ボートの舳先に片足をかけ、腕組をした姿勢で勢いよくシンタローはそう宣言する。だが、目的の地まではまだ相当な距離が残っている上に、海上に姿を現しながら泳いでいけば、敵の目に触れないとも限らない。
 そんなマーカーの懸念を見越したように、シンタローはごそごそと己のリュックサックの中を探ると、その中から二つの器機を取り出して、

「とりあえず、この前グンマとキンタローが見せに来た潜水装置の試作品引っつかんできたんだけどよ」
「……」
「俺こっち使うから、アンタはこっちな」
「……」

 極めて不自然な明るさで、さも自然な流れのように、黄色のクチバシ型をした潜水装置をマーカーのほうに差し出した。
 マーカーは眉一つ動かさず、絶対零度の視線でシンタローとその手に持つ装置を見つめている。
 かと思うとくるりと方向を変え、進路設定などが可能な操舵室へとその足を向けた。

「アラシヤマ救出任務は失敗。やむを得ず撤退いたします」
「待てーぃ」

 表情を強張らせたままシンタローが引き止める。そんなシンタローに向かい、腰に片手を当てて立つマーカーは当然だろうと言うかのように、整ったその面貌を微かに、しかし明らかに歪めながら言う。

「この私に、その奇怪なアヒルの嘴の如き物を身に付けろと?アレのためにそこまでしてやる義理はない」
「アンタ……命落とすかも知れねーってのは平然としてるクセになんなんだその判断基準……」

 おとなうもの全てを飲み込むような夜の海上で、男二人はこの上なく真剣に対峙する。
 だがやがて、シンタローの肩ががくりと落ちた。くっ、と未練があるように左手に持つ洗練された形をしばらく眺めていた後、思い切りマーカーに投げつける。至近距離で投げつけられたそれを、マーカーは軽々と片手で受け取った。
            ハナ
「わぁったよ!いや最初からわかってました!俺がこっち使えばいーんだろォがチクショーー!!」
「理解のある上官で、嬉しく思います」

 あンの根暗男取り戻したらまず一発ぶん殴る!とほとんどヤケっぱちで手元に残ったそれを装着したシンタローに。
 よくお似合いですよ新総帥、と、この年齢不詳の男は腹が立つほど艶治な表情で、口の端を上げた。



***



 険しい崖をロープと鎹の組み合わせのみを駆使して登り、島のところどころに配置されている警邏兵を上手くやり過ごしながらシンタローとマーカーは砦に接近した。
 二人が目的地として想定しているのは、地下二階の図面上の空白部分である。そこに到るためにはいくつかのルートがあるが、その中でも最も兵の配置が少ないと思われるものをシンタローは既に頭の内に描いていた。構造上地下へと進むためにはどうしても避けて通れない箇所もあるが、あとは臨機応変に対処していくしかない。

「さぁて。こっからが本番てとこだな」

 その黒い双眸を夜行性の獣のように煌かせながら、シンタローは言う。一度潮水に浸った長い髪は、乾燥した空気の前に早くも乾き始めていた。

「潜入しやすいとすれば、そこの壁ぶち破ってってのがイチバン理想なんだけどよ……」
 
 砦の周囲に転がる大きな岩石と数少ない草木の蔭に身を潜めつつ、シンタローは狙う場所から百メートルほど先にいる二人の警邏兵を顎でさし示す。それを受けて、マーカーが肯いた。

「私が兵の衣服に火を放ちます。その混乱の間に」

 小声でそう告げると同時に、指先に火を灯す。軽く手首を振るような動作で、それを遠方の警邏兵たちの身につけている上衣の裾に飛ばした。
 何の火種もないと思われたところからいきなり燃え出した衣服に、予想通り兵たちは動揺する。広がりは遅いが軽く叩いた程度では消せない炎に焦りながら、二人の兵は水を求め走り去った。
 その隙にすぐさまシンタローは砦の外壁に駆け寄り。その壁に耳を当て、内部から何の音も聞こえてこないことを確認した後、右手に集めた小さめの光球を、やや下方に向けて放つ。
 岩壁の一部分が崩れ、ちょうど人間一人が身をかがめて入れる程度の穴があいた。



 入り組んだ砦の中をシンタローとマーカーは疾駆する。
 各所に配備されている警邏兵は、おそらくは元軍人だ。それもかなりの訓練を受けている。だがそんな屈強な男たちにも、マーカーは寸分も臆することなく。完全に気配を消しつつその死角まで近づくと、すれ違いざまその微かにあいている戦闘服の襟元から、まるで無生物を相手にしているかのような正確さで首筋に鍼を通す。その瞬間、兵の動きがまるで電池が切れたロボットのようにぴたりと止まり、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
 それはシンタローや、シンタローが普段知っているアラシヤマが使うものとは全く異なる種類の、無音の殺人術だった。
 思わず眉を顰めたシンタローに、マーカーは駆けながら息も切らせず告げる。

「殺してはいません。ただ、あの鍼を抜いてもしばらくは身体に痺れが残り、声を出すことすら不可能でしょうが」

 多少物音を立てても構わないと思われる状況では、的確に人体の急所に当たる複数の部分のどこかに強めの手刀か掌底を入れ、相手の意識を失わせた。
 シンタローももちろん敵の何人かは担当し、マーカーと同じくほぼ音もなくそれらを無力化していった。だが、多くはマーカーの機械的なまでに正確で迅速な動きの前に、シンタローが手を下すまでもなく地に伏していく。目の前で披露されるそのあまりに見事な手際に、シンタローは素直に感心した。
 話に聞いたところによると、あの島での決戦のときアラシヤマたちの相手をしたのは、ほぼマーカー一人だったという。あの四人がかりでも、まったく歯が立たなかった相手。それがこの目の前にいる特戦部隊という存在なのだ。

(あの負けん気だけは馬鹿みてーに強いアラシヤマが……手合わせする前から、敵わねぇって言うくらいだもんな)

 おそらく自分でも、出会いがしらに眼魔砲でも食らわせない限り、一対一で対決すれば勝てる自信はほとんど無い。一度近づかれてしまえば、必殺のそれすらも当たることはなく、その完璧なまでの体術と自由自在な高温の炎の餌食となるだろう。

 地下二階への階段を下りたところで、マーカーが足を止める。少なくともここまでは、図面と実際の造りとの間に大きな乖離はなかったため、道に迷うということもなかった。肝心なのはここからだ。
 マーカーが胸の前で、両手に何かを持つような仕草をする。一体何を始めるつもりかとシンタローが見つめていると、その掌中に青白い明かりが灯った。
 それは緩やかに姿を変えて揚羽蝶に似た形を象り、マーカーの細い指先からふわりと飛びたつ。

「ここまで近づけば、あとはコレがアラシヤマの元まで案内するでしょう」

 放たれた蝶のあとを追うように歩き出しつつ、マーカーは言う。
 もはや駆ける必要はない。すでに敵陣の奥深くまで二人はたどり着いている。むしろここからは迅速さよりも慎重さが肝要となる。
 各所にむき出しの電球が灯されているだけの薄暗い通路を、前方をひらひらと舞う仄かな明かりを追いながらシンタローとマーカーは音もなく歩む。
 敵兵の姿はほとんど見えない。十分に足りているとはとても思えない人員は、そのほとんどが敵の侵入を警戒して地上階に配置されていたようだ。
 地下水が通っているのか、時折どこかから、ぴちょん、という微かな水音が聞こえる。それが鮮明に耳に入るほどに、この場は静かだった。
 やがてシンタローが、落とした声量で、マーカーに問いかけた。

「―――なぁ」

 何があっても対処できるようシンタローの右斜め前をゆくマーカーから返事はない。だが問いかけには気付いているようで、少しだけ歩く速度を緩めた。

「アンタ、なんで俺んトコ、来たわけ?」

 それはシンタローの率直な感想であり、疑問でもあった。マーカーは振り向きもせずに答える。
       バックアップ
「―――団の後援があるのとないのとでは、成功率が格段に変わります」
「ンな一般論聞いてんじゃねーんだよ。アンタなら、たとえ一人でも来られたハズだろ?俺におうかがいなんざたてなくても。もしアイツをどうにかしたいと考えてんだったら、とっとと掻っ攫ってきゃよかったじゃねーか」

 その戦いぶりを目の当たりにしてわかる。この男はその気になれば、この程度の砦なら、おそらく何の支援を受けなくても易々と攻略する。シンタローの制約がなければ、更にそれは容易だっただろう。
 シンタローのその直接的で、ある意味では真っ当な意見に、マーカーはちらりと視線を流し。だがすぐに前方に戻した。

「……まず一つ目として、我々は我々の生活費と隊長の酒代と馬代を稼がなくてはいけない。経費や報酬は取れるところから取れ、というのが隊の一貫した方針でしてね」

 おそらく隊員たちにとっては死活問題なのだろうその本音には、微かな苦笑が含まれているような気がした。
 だが、それだけではシンタローが満足する理由にはならない。無言のまま先を促す。

「二つ目は―――私は一応、アレの意思を尊重してやったのですよ」
「……?」

 口にされたその意外な言葉に、シンタローは瞠目した。
 そんなシンタローの感情の揺らぎなど完全に無視しながら、マーカーは歩調に一糸の乱れもみせず、進み続ける。

「どれほど馬鹿で、不出来で、無様であろうと」

 前方を歩む男の表情は、シンタローからは見ることができない。常と変わらない無色透明な声音から、それを察することすらできなかった。
 そこに浮かんでいるのはいつもの冷たい無表情か、皮肉な笑みか―――それとも。



「アレは、私の弟子ですから」






『on the wild world』  act.8 












 うとうとと半分眠りながら扉を守っていたその牢番は、最初それを砦内部のボイラーの故障かと思った。
 やけに暑い、と気付けば汗が滴り落ちている額を戦闘服の袖で拭う。その熱の原因が背後の牢であることに気付くまで、そこからさらに数秒かかった。
 一体何だと様子をうかがおうとするが、溢れ出るあまりの熱に扉の内側を覗き込むことすら敵わない。小さな格子窓から見える内部はほぼ紅一色に染まっている。
 混乱の中、かろうじて残っている理性が、とりあえずこの異常事態を誰かに報告しなくてはと告げる。だが時はもう遅かった。既に高熱によって変形した鉄錠からアラシヤマの両腕は自由になっており、分厚い木製の扉の内側はほぼ炭化している。アラシヤマが軽く蹴飛ばすと、鉄の枠だけを残して簡単に砕けた。
 これ以上はないというくらいに眼を見開き、ほとんど腰を抜かしている牢番を、アラシヤマは的確に急所を捉えた一打で地に沈める。
 全身の打撲傷以上のダメージを身体に与えている極炎舞の影響にどうしようもない身体の重みを感じ、情けない姿だと自覚しながらも、とりあえず壁伝いに歩き始めた。目指す場所はただひとつだ。
 しばらく岩壁を杖代わりに歩き続けるうちに、なんとか通常の呼吸を取り戻す。全身の重みも、今にも倒れんばかりという状況からはやや回復してきた。そう、まだ倒れるわけにはいかない。まだもう一つ、自分にはやり残した仕事がある。



 もはや盾に取られて困る人質はいない。だが、それでも侵入時とは異なる理由で、アラシヤマは騒ぎを起こすわけにはいかなかった。今もし砦中の兵士を自分に差し向けられたら、さすがにその全てを捌ききる自信はない。哨戒中の兵士を見つけるたび、アラシヤマはまず意識してその呼吸を整える。そして兵士の側まで忍び寄り、死角から不意打ちの一撃目を狙った。
 間近にアラシヤマの姿を認めた兵士はみな一様に、まるで幽霊でも見たかのような表情をする。だが、すぐに軍人らしい表情に戻り、なんとか応戦を試みてきた。
 それら一人一人を仕留めるのに、アラシヤマは予想外に手間取った。それはアラシヤマ自身の状況の問題という以上に、相手の戦闘レベルの高さに起因している。

(息も絶え絶えの残党……コレが?いっそ笑えるわ)

 その口元を歪めながら、アラシヤマは心の内で呟く。やはり潜入時に待ち構えていた警邏兵たちはほぼダミーに近いものだったらしい。まさかこんなとっておきが残されていたとは、考えが及ばなかった。
 ただ己の認識の甘さは置いておくとして、それでもせめて捕まったのが自分でよかったと思う。
 もはやその怪我の軽重は問わない。問えるだけの余裕をアラシヤマは持っていなかった。ただ邪魔となるものを排除する、それだけの理由でアラシヤマは敵となる兵士たちを薙いでゆく。せめてもの救いとして、その対象となる数はけして多くはなかった。
 そうして辿り着いた、砦の最奥にある研究所の内部。白と銀色で構成された施設の中には、白衣姿の複数の研究員の姿があった。

「ヒィッ!…ガ……ガンマ団……」

 研究員の数は七人。そこに戦闘員は一人も含まれていないようだった。その完全に落ち着きを失っている行動を見れば、戦いと切り離された場所に日常をおいている人間だと容易に想像はつく。全員が全員、恐怖に顔色を蒼白にしながら、少しでもアラシヤマから遠ざかろうと後ずさっていた。

「……ちゃうで。こないなとこに捕まるような間抜けが、あんお人の部下やなんて口にするんもおこがましいわ」

 そんな男たちの姿がほとんど滑稽にすら思えて、アラシヤマはあえて彼らの恐怖を煽るかのように、ゆっくりと歩みを進め、男たちを部屋の隅に追いつめる。

「わてはもう、ガンマ団の人間やあらへん―――。これがどういうことか……あんさんらに、わからはるかなぁ?」

 一歩、一歩とその足を前進させながら、アラシヤマは穏やかにそう問いかける。そして、優しげにすら見える笑顔を白衣姿の男たちに向けた。

「もう、何人殺しても、ええちゅうことや」

 男たちは逃げ場を失い、部屋の一隅に固まってガタガタとその身を震わせている。

「久々に、血が滾るわぁ……一度きに焼き殺したるなんて、勿体のうてとてもできへん。さぁて……どいつから始末したろ……」

 うっすらと微笑みながら上唇を舐めるアラシヤマのその狂気に満ちた表情に、研究員の顔が恐怖で引きつる。固まりの中央に位置する一人が、悲鳴のような声で叫んだ。

「命令で……仕方なかったんだ!どうか、命だけ、は……」
「命、なぁ」

 この期に及んでまだ命乞いをする男の浅ましさに、アラシヤマの顔から冷笑すら消えた。その後に残るのは、どこまでも冷たい無機物を見るような眼差しだけだ。その瞳に完全に気圧されて、男たちはもう何も言うこともできず、ただ脅えきったネズミのようにアラシヤマの一挙一投足に過剰に反応する。

「あんさんら、自分が何作っとるか知ってて、そんでもまだそない阿呆なことぬかしてますのん」

 人間の命を、たとえようもないほどの苦痛の中、徐々に、確実に奪う毒。老若男女、善人悪人の区別なく、全てを地獄絵図の中に投げ込む手段。
 そんな代物をせっせと作り上げながら、一体どの口で己の命は惜しいと言えるのか。

「救い難いどすな……せやけど、所詮は小悪党、か」

 吐き捨てるようにそう呟く。そして、く、と顎を動かしてアラシヤマは研究所の入り口を指した。

「去ねや。隠し持っとる船でも何でも使うて、この島から出て行き。そんでここには―――もう二度と、戻ってくるんやないで」

 白衣姿の男たちはこけつまろびつしながら、這うように施設から逃げ去っていく。その後姿を冷ややかな視線で見送りながら、アラシヤマは自身もまた入り口のそばまで移動した。
 正直なところを言えば、彼らを追うような体力すらアラシヤマには残されてはいなかった。そういった己の状態をわかっていながらも、これだけは果たしておかねばならない、とその視線をざっと施設内に走らせる。

 先刻口にした言葉は間違いない本心だ。自分はもう団には戻れないだろうと、頭ではほぼ完全に理解している。それでも。
 アラシヤマは、まだ一人も殺してはいない。

(―――この期に及んで、まだ、捨てきれてへんのやな)

 あの人に、せめて一目でも会いたいという望みを。
 自嘲しながらそんなことを思い、そしてアラシヤマは白い箱にも似た研究所の中央に向かって、ゆるりとその片腕を上げた。



***



 その全てを炎の中に呑み込み、灰燼に帰す。かつては施設があり、今や廃墟と化したそこから僅かに移動した階段の上で、己の「仕事」がほぼ完了したことを確認したアラシヤマは、しばらく岩壁に背中を預ける。
 その気配には、かなり前から気付いていた。だが、その方向に視線を向けることすらせず、何よりまず体力を少しでも回復させようと、アラシヤマは壁に凭れかかったまま顔を俯けて酸素を体内に取り込む。
 やがて足音は間近で止まり、低い、静かな声が、アラシヤマにかけられる。

「まったく、大したことをしてくれましたね……ここもすっかり、閑散としてしまった」
「……―――お蔭さんで」

 大規模な炎を放ち、さすがに立っているのもやっとの状態のアラシヤマは、ゆっくりと瞼を開いて、男の顔を見上げた。汗はその露わになっている片頬を幾筋も流れ落ち、乱れた呼吸は隠しようもない。
 だが、それでもアラシヤマは不敵に笑う。砂色の髪をした元副官は、そんなアラシヤマを特に憎憎しげにというわけでもなく、ただその内にあるものを洩らさない無表情で見つめている。
 アラシヤマが荒い吐息のもとで、徐に唇を開いた。

「あんさん、ええところにきはったわ。……さっきの、質問」

 アラシヤマのその言葉に、男はほんの僅か、目を細める。

「今、答えたる」

 炎を放った直後に比べれば、それでもまだ呼吸は落ち着いてきた。代わりに重度の疲労と、それを訴える眩暈がするような睡魔がアラシヤマを襲う。
 それらを振り払うように、片手で乱暴に髪をかきあげて。わてやったら―――とゆっくりと言葉を舌に載せる。

「あんお人と刺し違える道、選びますわ」

 本音を言えば、声を声として発するだけでも一苦労だ。だがそんな内情は極力見せないようにして、アラシヤマは淀みなく言葉を繋ぐ。

「世界なんてどうなったって構わへん。誰がどんだけ残虐なことしようと、人が何人死のうとわてには関係のないことどす。ただ、もしシンタローはんが」

 その内容とは異なり、口調はけして投げやりではない。アラシヤマは、今のこの状況と対峙している相手を見れば場違いとすら思えるほどの誠実さをもって、彼にとっての回答を淡々と口にする。

「そないなことするようになったら、わてが命張って止めたる。それは、『今の』あんお人の望みや、間違いなくあらへんよって。それに、そうなったとき、あんお人を止められる人間は、団にも数えるほどしかおらんしな。
 まっとうにやって勝てる気はせえへんけど、殺し合いやったらまだ多少はわてにも分があるわ」

 無理心中、てなことになればそれはそれでわてにとっては案外幸せなんかもしれんどすなあ、とアラシヤマは冗談でもなく呟いた。

「―――せやけど、そんなんなる可能性は0.01%以下や」

 気を抜けば崩れ落ちそうになる足を、後ろ手に隠したその指で壁を強く掴むことによって、かろうじて支える。短く整えられた爪が、岩肌に食い込むほど強く。
 そして男の目を真正面から見据えながら、アラシヤマは言う。

「あんさん、『絶対』いうことはこの世にあらへんゆうたな。それはそうかもしれんどすわ。人は変わる。それも真理どすな」

 口にする言葉には嘘も虚勢もない。男から聞かされた過去にもそこにあった葛藤にも、どこか相感ずるものはあった。実際、彼に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったことも、けして否定はしない。それでも。
 これだけが、アラシヤマにとって言いきれる唯一のこと。


「ただ、わてが今、シンタローはんを信じるゆうこの気持ちだけは―――『絶対』や」



 静かにそう断言したアラシヤマの声には、微塵の揺らぎもなかった。
 その瞳に宿る光は信仰にも似た強さで。ただ神へのそれとの違いは―――アラシヤマは彼の弱さや負の可能性を十分了解した上でなお、その言葉を口にする。
 男は何も答えなかった。冴え渡る静寂の中で、言葉を続けたのはアラシヤマのほうだった。

「……あんさん、そんだけ想うとるんやったら、なんでそないに、あの男のそば離れたんどす」

 それはあからさまな、男に対する非難の口調。かすかに眉を顰めたままアラシヤマの言葉をその身に受けていた元副官の顔に、初めて動揺にも似た色が顕れる。

「怖かったんやろ。自分の信じる唯一のもんが、目の前で変わってくんが。それを間近で見とんのが辛うて辛うて耐え切れんかったから、ガンマ団への長期潜入やなんて、ていの良い追っ払いみたいな命令にものこのこ従ったんやろが!」
「……―――ッ!!」

 一気に言い、やや上がってきた息のもと、アラシヤマはだがあくまで冷徹にそれに次ぐ言葉を口にする。

「どんだけ憎まれようが疎まれようが―――あんさんは、離れるべきや、なかったんどす」

 裸の電球だけが小さく灯された仄暗い岩の通路。遠く聞こえる細波のような風の音の中で、アラシヤマのその声は、かすかに、だが確かな意思をもって響いた。
 男の顔色は蒼褪めていた。どこか呆然としたような表情で、すべてを言い終えたアラシヤマを、ただ見つめている。
 しばらくの間、男はその表情のまま口を噤んでいた。だがやがて、その瞳に、す、と別の色が浮かび上がる。

「……そうかもしれない。しかし、もう全ては遅すぎる」

 そう口にしたとき、男の表情はすでに平時の、奥にあるものを覗かせない薄い皮膜一枚で覆われたようなものに戻っていた。

「実は、困ったことが起きているのはここだけではないんですよ」

 そして、軽く肩を竦めるような動作をして、言う。

「定時連絡を義務付けている警邏兵のうち、二人の音信が途切れましてね」

 その言葉の内容に、アラシヤマの眉がぴくり、と動いた。そんな僅かな変化も男は見逃さず、自虐的にも楽しそうにもみえる表情で、アラシヤマへの報告を続ける。

「どうやら、この砦にいる人間では太刀打ちが出来ない相手のようです」
「……」
「身を隠しながらかろうじて姿を視認した者の報告によれば、侵入者は二人。一人は炎を使い、もう一人は、どこかで見覚えのある長い黒髪の男だとか」
「―――な……っ?!」 

 思わずアラシヤマは男の胸倉に掴みかかる。そしてその詳細を聞き出そうとするが、疲弊しきったアラシヤマの腕は、かつての部下に簡単に抑えられた。間に二十センチも残さない距離で、アラシヤマは男の硝子玉のような瞳を睨み付ける。視線だけで人を殺めることができたなら、とこの時ほど痛切に思ったことはなかった。
 それは男が初めて眼にした、感情を剥き出しにしたアラシヤマの表情だった。
 男の唇がゆっくりと微笑を象る。

「あなたは常に……己にリミッターをかけていたのですね」

 アラシヤマの瞳の奥底を覗き込むようにその視線を合わせたまま、囁くような声で男はそう呟く。
 その次の瞬間、男を強く睨みつけていた筈の、アラシヤマの視界が、ぐらりと歪んだ。

「ならば、それを外して差し上げましょう。―――あなたが本当に求めている結末が、そこにあるかもしれませんよ」






『on the wild world』  act.9 












 鍵の壊された独房の前を通過し、隠し扉も難なく発見したシンタローとマーカーが辿り着いたのは、二階層が吹き抜けとなっている一つの大きなホールだった。
 図面上には描かれていなかった円形のそのホールは、直径にして約五十メートルはあるだろうか。二階分の天井は高く、床はそれまでの凹凸の多い煉瓦から、綺麗に研磨され隙間なく敷き詰められた石に変わっている。
 遮蔽物のないその空間に、二人は用心深く足を踏み入れた。
 もう砦のかなり奥まで入り込んでいる。侵入開始時から昏倒させてきた警邏兵も、さすがにそろそろ誰かに見つかっていておかしくない頃だ。どこに伏兵が潜んでいるかわからない。
 そんなことを考えつつ慎重に歩みを進める二人の目に、一つの影が入り込んできた。シンタローたちが入ってきた入り口のほぼ対面に位置する扉から現れた人影に、シンタローとマーカーはすわ敵かと一瞬身構える。
 だが扉の陰からゆっくりと歩み出し、いまや完全に姿を見せた男は、予想していた警邏兵の類ではなく。
 シンタローは思わず、その名を呼んだ。

「アラシヤマ!」
 
 ガンマ団の戦闘服のあちこちに黒ずんだ血の痕を付け、俯きがちに佇んでいるその面は、長い前髪の陰になってほとんど見えない。
 やはり怪我の程度が酷いのか、いつものようにアラシヤマはこちらに駆け寄って来ようとはしなかった。だが、思ったよりその姿勢に乱れはない。しっかりと両足を地につけたまま、アラシヤマはその場にただ、立っている。
 シンタローは安堵というよりは怒ったような表情で、ずかずかとアラシヤマに歩み寄った。やや後方を、微かに怪訝な表情をしたマーカーが追う。
 それまで先を進んでいた炎の蝶が、目指す相手を前に、不意に明滅したかと思うと、そのまま消えた。元はそういった動きをするはずのものではない。だがそんなマーカーの不審には気付かずに、シンタローはアラシヤマに語りかける。

「テメ、やっぱ自力で逃げ出してやがったのか。にしても……」

 そのすぐそばまで近づき、呆れたように話し始めたシンタローの言葉に。
 ほんの僅かだけ上げられたその顔に見えた、アラシヤマの口元が、ニィ、と歪んだ。



「……シンタロー様!」

 マーカーはその細腕のどこにそんな力があったのかと驚くほど強く、シンタローの肩を掴み引き倒す。不意のその行動にシンタローが後方約五メートルほど飛ばされた瞬間。
 それまでシンタローがいた場所に、炎の柱が上がった。

「なっ……?!」

 幾何学的に敷かれている石畳の上に後ろ手をついた態勢のまま、シンタローはその炎を呆然と見上げる。それは、明らかにシンタローを狙ったものだった。人間一人を燃やし尽くしてなお余りある業火は天井にまで届き、室内の温度を一気に上げる。
 マーカーの皎白の面が苦虫を噛み潰したかのように顰められた。

「……うつけが。正気ではないな―――催眠暗示、か……」

 シンタローは強いて己を冷静にし、なんとか現状を把握しようとする。一瞬の油断を恥じながらも腰を上げ、いつでも行動が起こせるようしゃがんだまま地に片手をつけた。
 アラシヤマは先刻いた場所から動かず、ただ虚ろな笑みを浮かべてシンタローとマーカーを眺めている。否、それは「眺める」などといった意思のある視線ではなかった。ただ前方にある異質なものに、その髪の合間から見える目を向けているというだけの行為だ。

「マーカー。アイツ……」
「どうやら、見ての通りの状況のようですね。あの馬鹿弟子は、我々を認識しておりません」

 食い入るような眼差しでアラシヤマを見るシンタローの、あえて感情を抑えたその声の中にも、戸惑いは隠しきれるものではない。
 そんな若い上官の不安を見透かしたかのように、マーカーは淡々とした声をかけた。

「弟子の技など、元より私には児戯にも等しきもの」

 その言葉に嘘は無い。例え催眠状態にあっても、マーカーであれば力ずくでアラシヤマを押さえつけるために然程の苦労は要しないだろう。
 しかしある一点、さすがに予想もしていなかったアラシヤマのその状況に、マーカーの声に一抹の感情が混じる。

「ただ、あれは……あれもまた、暗示だというのか……?」

 独言のように呟くその台詞に、シンタローが眉根を寄せてマーカーを見上げる。

「……?どういうことだ……?」

 マーカーもまた忌々しそうにアラシヤマを見据える。臨戦態勢は解かないままシンタローの傍らに片膝をつき、答えた。

「あの炎は、アラシヤマの出せる限界を超えております」

 その言葉の意味するところに、シンタローの嫌な予感は更に深まった。
 ホールの出口を背にして立つアラシヤマの全身には、まるで何かのオーラのように薄色の炎がまとわりついている。それは普段、男が炎を使うときにも見られないもので。

「言うならば、常に極炎舞の状態で戦っているということ。―――となると、多少、厄介なことになる」
 
 シンタローとマーカーの間に、けして軽いとはいえない沈黙が流れる。
 
 長引かせれば、アラシヤマが死ぬ。
 止めるには暗示を解くか、完全にその意識を失わせるしかない。前者はその暗示の種類がどのようなものかわからないという点と、この男の性質的な問題からほぼ不可能に近いと思われた。
 
(ただの暗示ならば、手足でも折れば大人しくなるものを……)

 アラシヤマの意識が僅かにでも残っている状態では、駄目なのだ。
 触れることも出来ない高熱を身にまとうアラシヤマを、一瞬のうちに昏倒させなくては、たとえ両足を折られて動けない状態でもアラシヤマは炎を放ち続けるだろう。
 マーカーがすっと腰を上げ、シンタローの前に立つ。目前を覆う濃紫の中国服のその背には、確たる意思が張り詰めていた。

「―――新総帥、どうか、お下がりください」

 シンタローがそれに諾と答える前に、その前方を庇うように立っているマーカーに向かい、アラシヤマの足が地を蹴った。



 一切の情を忘れ、アラシヤマはマーカーに牙を剥く。
 攻撃はことごとく的確に人間を死に至らしめる急所を狙い、相手を怯ませ、またあわよくば焼き尽くさんとする炎を生み出すことにも躊躇は無い。
 頚椎を狙って飛んできた踵をよければ、前傾姿勢になっているマーカーの顔にすれすれのところで反動をつけたもう片方の脚が空を切り裂く。寸分も待たずアラシヤマの掌から生み出される炎は、バランスを崩し気味になったマーカーの足元に向かって放たれた。それをバク転の要領でかわし、マーカーはひとまず間に距離を取る。 
 二撃めの蹴りを避けた際にかすったらしく、マーカーの右頬は微かに赤くなっており、その唇からは一筋の血が流れていた。
 だが、マーカーはどこか嬉しそうに艶やかな口唇の血を舐める。
 
「フン……我を忘れてようやく思い出したか。……この私が教えた、戦い方を」

 そして右腕に炎を生み出したマーカーの貌に垣間見えたその色は。
 恐ろしいほど―――「歓喜」に、よく似ていた。

 緊迫した空気を間に挟んで師弟は対峙する。
 跳躍したのはほぼ同時。空中でアラシヤマの脚が風を薙ぎ、それを片腕で防ぎながらマーカーもまた、アラシヤマの空いた脇腹を狙って鋭い蹴りを放つ。二人とも相手の攻撃を紙一重で防ぎながら、それでも態勢を崩すことすらなく着地し、また互いに向かっていく。
 技量はもとより対等ではない。しかしマーカーには課された制約があまりに多く、逆にアラシヤマはその全てから解き放たれている。


 舞うような二人の攻防を追って、炎が軌跡を描く。
 ほぼ白色に近い蒼の炎と、黄金にも似た橙の焔が交錯する。


 それは、まるで夢幻のような光景だった。



 だが、やはりその決定的な経験の差から、優位な立場を奪ったのはマーカーのほうだった。
 瞬間の隙を捉え、アラシヤマを堅い石畳に叩きつける。動物はなんであれ、脊椎に強い衝撃を与えられればその後すぐに動くことはできない。
 与えた衝撃をそのままに、マーカーはアラシヤマを地に組み敷いた。通常の戦闘であれば、完全なチェックメイトの状態だ。
 だが、そうした状況にあってなお、アラシヤマは全身から放つ炎の温度を下げようとはしない。そのため、マーカーの両腕はアラシヤマを抑止するために働きを制限され、決定的な一打を打ち込めずにいる。
 組み伏したその姿勢のまま、その間際でアラシヤマの炎を自らの炎で相殺しながら、マーカーはぎり、と奥歯を噛み締めた。これほどの炎を出し続け、その源となる命はあとどれだけ保つというのか。

「貴様の命は……こんな所で燃やし尽くすためのものではないだろうが……ッ」

 限界という箍を外されたアラシヤマの炎は、マーカーですら長く抑え続けることはできない。弟子と戦いながら、初めて頬に一筋流れた汗を自覚する。
 それでも、マーカーはアラシヤマを地に留めたまま、その無表情の面に向かって、一喝した。

「貴様が、命を賭してまで守りたかったものはなんだ!」

 その瞬間、何も映すことのなかったアラシヤマの瞳が、僅かに、だが確かに―――揺らいだ。

 しかしそれはほんの刹那。次の時、アラシヤマは右膝を師の腹部に入れようとし、それを避けようと抑えつけていた腕の力をやや弱めたマーカーを、反対に押し倒す。体勢が逆転する。
 アラシヤマの超高熱をまとった右手がマーカーの左手首を掴んだ。ジュゥゥ、という肉の焦げる音がシンタローの元にまで届く。

「ぐ……っ」
「よせ!アラシヤマ!」

 だがそんなシンタローの制止にも、苦痛を堪えるマーカーの表情にもアラシヤマは一向に反応を示さない。
 二人の声はもう、アラシヤマには届いていない。

(―――聞こえねー、のか?なんで。テメエ、アラシヤマだろう?)
 
 ストーカーで口が悪くて。性格も悪くて誰に対しても皮肉めいた顔して、人間の友達なんて一人もいなくて。
 それでも自分が言うことならなんだって、ムカつくくらい嬉しそうに聞いて。

 もし、万が一。マーカーが倒れることになって、奴が自分にすら向かってきたら。
 その時、自分に残された手段は、この男が自分に牙を向けたその瞬間に殺すことしかない。その師ですら抑えきれなかったものを止めるには、シンタローにはそうするほかないだろう。

 だが、そんな結末をシンタローはけして望んではいない。ふざけるな、と心の底から怒りが湧き上がる。
 そう、約束したはずだ。あのときだって――――



***



 ミヤギ、トットリ、コージの三人が笑顔でシンタローと約束を交わしたあと。アラシヤマはただ一人だけ、すぐにはそれに応じなかった。
 深緑色の軍用コートのポケットに両手を突っ込んだまま、軽く俯いたその口元には皮肉な笑みが浮かんでいる。
 シンタローが眉間に皺を寄せながら責めるようにそれを見ていると、アラシヤマは困ったような声で言った。

「―――わての命や。シンタローはんの頼みでも、そればっかりはなぁ」
「てめ……ッ!」
「それほど軽いもんでもないどすけど、あんさんになんかあったら、こんな命、いくらでも捨てたる思うてしまいますしな」

 その時、ちょうど準備が整った艦から、四人に声がかけられる。
 アラシヤマもまた、シンタローに背を向けて己が任地へ向かう艦へと歩き出そうとした。シンタローがその背中に向かってまだ何かを言おうとした、そのとき。

「ただ、できる限り、努力はしまひょ」

 ひらひらと、ポケットから出した片手を何かの挨拶のように振りながら、アラシヤマは言い。
 一度だけ、シンタローを振り向く。
 艦のプロペラが巻き起こす風が、普段隠しているアラシヤマの両目を露わにして。
 
「あんさん、……泣かせたくはないどすよって」
    らんぺき
 そして藍碧の空と複数の輸送機器を背景に一瞬だけ見せた表情は、
 いつもの根暗男と同一人物とは思えない、憎らしいほど鮮やかな笑顔だった。



***



 充満する熱気。有機物の焦げる匂いが、シンタローの鼻をつく。おそらくつかまれた手首には酷い火傷を負っているのだろうマーカーは、下手をすればアラシヤマもろとも燃え尽きるのではないかというほどの炎を相殺するだけで、その場から動けずにいる。
 その尖った顎から、前髪の先から汗を滴り落としながら、シンタローが叫ぶ。


「アラシヤマぁっ!テメエ心友なら、俺の声くらい聞きやがれぇぇぇ―――!!」


 ホール中に響き渡る絶叫。



 ―――その時、その場の空気の流れが、すべて、静止した。



















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