新体制の発足後少しして、あの島で共に戦った彼ら四人を、世界各地の主要な支部に派遣した。それは支部長という立場でこそなかったが、実質はその目付け役であり、新たな総帥の意思を各地に伝える指導役として。固い絆で結ばれている彼らを、散り散りに派遣すると決めたのはほかでもない自分だった。
傍らに居て助けとなって欲しいという欲求は、もちろんないわけではなかったけれど。総帥になって初めてわかった。真に信頼できる人間とは、いかに得難いものなのかということを。そして、この団がいかに巨大な規模を有するものだったかということを。本当に今更だと自嘲しながらも、ようやく単なる知識としてではなく、シンタローはそれを理解したのだ。
別れの挨拶に割ける時間はさほど多くはなくて。五人揃うことができたのは、出発間際の各人が乗り込む艦が用意されたデッキの上、ほんの十分程度のことだった。
互いの心はもう確認するまでもなく。ただ、らしくもない感傷と友と離れる純粋な寂寞感に、全員が確固たる意思を映した表情の下に少なからぬ淋しさを隠しながら、それでも明るい笑顔で、最後まで馬鹿話に興じていた。
ただ、最後の最後。それぞれがそれぞれの地に向かうほんの寸前、シンタローのそれまでの笑顔が、急に歪み。その表情が、余裕を宿した総帥のそれから、士官学校時代から言葉に出来ないほどの経験を共有してきた四人の、仲間としての感情を露わにしたものになる。
耐え切れなかった。言葉を、今更とわかっていながらも抑えきれない想いを、吐き出す。
「―――他の事は、全部お前らの判断に任す。任地についてからの差配に、基本的に俺は口を出さない。ただ」
抑えられた低い声。その眼差しは痛切なまでに真剣で。
「何があっても、死ぬな。それだけは―――約束しろ」
命令を下した自分の立場に対するその言葉の欺瞞や、口にすることの気恥ずかしさも重々承知していながら、どうしても言わずにはいられなかったのだ。
出発の準備が整った艦が、エンジンを回し始める。巻き起こされた強い風に、シンタローの長い黒髪と、軍用コートの裾がなびく。
ミヤギは、「言われるまでもねぇべ。オラにどーんとまがせとけ」と胸を叩いた。
トットリは、「シンタローにそんなこと言われるなんて、明日は大雪だっちゃね」と悪戯っぽく目を細めた後、「忍者は逃げるのが本領だわいや」と破顔した。
コージは、「おんしにゃぁ敵わんかもしれんが、体の頑丈さには自信があるけんのぉ」と豪快に笑った。
そして、アラシヤマは――――――
『on the wild world』 act.1
その日、ガンマ団本部では珍しく穏やかに時間が流れていた。積み上げられた書類の山の頂上に最後の一部を乗せたシンタローは、総帥室の豪奢な椅子の上で、んーーーと大きな伸びをする。革張りの重厚な椅子が、ギィッとほんの少しだけ軋んだ。
午前の仕事はこれで終わりだ。午後にもまた仕事は山積しているが、それでも常に比べれば余裕がある。いつもなら次から次へとやってきて皮肉を浴びせる重鎮連中の特攻もなければ、巧妙にその意図を隠しつつ、それでも明らかな新総帥への嫌がらせを含ませた穴空きの報告書も来ていない。その分だけ仕事は滞りなく済んだ。
「あー、なんか、今日は色々うまくいった」
傍らに付き添ってシンタローの仕事ぶりに目を光らせていたキンタローに、そう言いながら笑いかける。キンタローもまた口元に微かな笑みを刻んで首肯した。
「フ……そうだな。午前の仕事がちゃんと午前中に終わったのも、かなり久しぶりだ」
「んだよ、ソレ。嫌味のつもりかぁ?オメーも随分口が達者になってきたじゃねーか」
「そういった意味合いを含ませたつもりはない。ただ、お前はいつも仕事を詰め込みすぎだとは思っているがな」
言いながら、シンタローが決裁を終えた書類を整えなおし。提出された部署に再度戻すものと、保管に回すものにてきぱきと仕分けていく。
その様子を、シンタローは頬杖をついた姿勢で気楽な表情のまま眺める。ほんの数分の後に書類は綺麗に分類され、あとは秘書たちに持っていかせるばかりになった。
「しかしひっさしぶりに時間空いたなあ。研究課行ってグンマと飯でも一緒すっか」
折りしも時刻は昼飯時。今すぐに迎えに行けば、あの天才肌で、そのくせ『仕事』と名のつくものに対しては全く集中力に欠ける兄弟は、たとえ既に自分が昼食を終えていたとしても、二つ返事でうきうきと二人の食事に付き合うだろう。もっともそれは、彼がまだ研究室から抜け出して遠方までは行っていないということが前提だが。
「ああ。お前が総帥に就いてからロクに話も出来んと、この前またスネていたからな。顔を見せれば喜ぶだろう」
キンタローの同意を得て、シンタローは善は急げとばかりに椅子から立ち上がる。だがそうして研究課に足を向けようとした二人は、総帥室から足を踏み出した瞬間、思わぬ速さで駆けつけてきた「何か」と危うくぶつかりそうになった。
屈強な男二人の手前に数センチを残し、慌てて足を止めたのは、赤茶の髪をした細身の団員。
「も―――申し訳ありません」
両手でバインダーを抱えるようにしてその場で頭を下げた団員は、前総帥の秘書であり、現在もその職務を全うしながら、古参団員として団の総務を取り仕切るティラミスだった。
「んだぁ?ティラミスじゃねーか。珍しいな、お前がそんな慌ててんの。あの阿呆親父がまたなんかやらかしたか?」
だがそんな軽口にもティラミスは表情を変えず。極限まで抑えられ、それでもまだ隠し切れない動揺をその面に浮かべたまま、シンタローに向き直る。
「―――新総帥に、急ぎ伝えねばならないご報告が」
その口調と、常には見られない冷静さを欠いたティラミスの表情から、さすがにシンタローの顔が険しいものに変わる。間近に人が居たため開け放されていた扉はそのままに、首を一振りしてその内側を指し示した。
「……中で聞く。入れ」
***
「―――先ほど、当地時間11:58、υ支部から緊急の通信が入りました」
手にした書類には目をやることなく。ただシンタローを真っ直ぐに見据えて、ティラミスはその報告を口にした。
「υ国前政権過激派の拠点に向かっていたアラシヤマ氏と、その部下一名が―――消息不明です」
その齎された予想外の事実に、シンタローは思わず息を呑む。ティラミスの発した言葉のその意味を正しく把握するまでに、数秒かかった。
そのときシンタローに湧き上がった感情は、怒りでも焦りでもなく。
ただ信じられないという、それだけだった。
(―――あの、アラシヤマが?どっかで引きこもってるとかじゃねーのか?)
そう内心だけでも茶化してみたが、普段から冗談すら口にすることの少ないティラミスの視線の前に、その試みがいかに空虚なものであるかを悟る。
眼前の総帥のわずかな表情の変化に気付いたか気付かなかったか、ティラミスは努めて淡々と報告を続けた。
「υ支部からの通信は繋いだままにしておりますので、取り急ぎこちらにお回しします。直接の報告は任務に同行していた支部団員から」
ティラミスの言葉が途切れるのと同時に、総帥室のモニターに年若い団員の姿が映し出される。自分の遥か高みに位置する総帥の前だというにも関わらず、その団員は焦燥と動揺にまみれたその内面を取り繕うことすらできず、もはや完全に顔色をなくしていた。
「シ、シンタロー新総帥……。申し訳ありません!!アラシヤマ上官が……!!」
「……まず、落ち着いて経緯を話せ」
早口でまくし立て始める団員のその姿に一つ短い息を吐き。簡素ながら重厚な机の上に肘を立て、シンタローはゆっくりと両の手を組み合わせた。そしてそのまま、モニターの中の団員の顔を正面から見据える。
厳しいわけではないのにどこか射竦めるようなその眼差しに、気圧されたかのように、団員の頭に上っていた血が若干下がった。
時に吃り、筋を前後させながらもなんとか事情の説明を始める。
υ国にクーデターが起こり、新政府が成立したのはほんの一ヶ月前のことだ。元々政情不安定な国で、民主国家との体裁をとりながらも現実にはほぼ完全な独裁体制が敷かれていた。その圧政は諸外国から見ても明らかで、さほど大きな国ではないにもかかわらず各国報道機関が週に一度は必ず何らかのニュースを流すというほど、その政情は劣悪なものだった。
いつ何が起こってもおかしくはないという状況下にあったのが、二ヶ月前、当時の反政府組織の旗幟的存在であったある人物を政府が拉致・殺害したことにより、国民の大半の不満が一気に爆発した。反政府組織は民間だけで数万人に膨れ上がり、さらに軍部の過半も巻き込んだ。国際社会の世論もその背中を押し、クーデターが勃発して三日で前政権の首脳陣を全員解雇。それから一ヶ月間で国民投票の元、新政府が発足した。
圧倒的な勢力の差から結果的にほとんど戦闘は行われなかったため、クーデターそのものにガンマ団は直接的に関わってはいない。ただほんの僅かに、前政府へ流れていく情報の撹乱、或いはその首脳陣の探索という形で手を貸していた。それはガンマ団にとっての正義であり、またその国の未来への先行投資でもあったので。
ただ戦闘自体がなければ、ガンマ団の出る幕はさほど多くはない。とりあえずυ支部も新政権の今後の足取りを静観する構えだった。
そんな折、新政府からガンマ団に正式な依頼が舞い込んできたのが三日前。相談の内容は、現政権の要人が拉致されたというものだった。その要人はすでに齢七十を超えており、穏やかな物腰とどこか威厳のある態度から、現政権ではまとめ役として一目置かれている。
拉致した相手は前政府過激派の残党。さほど多くはないその数は、もし殲滅するのであれば新政府軍でも十分対応可能なものだった。ただ、立てこもっているのがある孤島の堅固な砦であったことと、破れかぶれになっている残党どもが、政府の軍を動かすことでどういった動きを見せるかわからないということ。この二つがネックとなり、隠密行動にも優れた人材を持つガンマ団に、お鉢が回ってきたのだった。
―――ここまでは、シンタローも既に書面上で把握していた部分である。
要請を受けることが決まって半日で、υ支部では任務のための小隊が編成された。隊長は同地で前線指揮官としては最も高い任務成功率を誇るアラシヤマ。切れ者と支部でも定評のある二十代後半の団員が副官に就き、あとは爆発物処理の専門者と、各種通信機器や乗り物の扱いに長けた男―――このモニターに映っている団員―――が選ばれたという。
砦への潜入は驚くほどスムーズにいった。警備兵の人数はさほど多くはなく、また、先陣を切るアラシヤマの前に、それらはほぼ他の団員の手を借りることなく次々と無力化されていった。ただ、時折アラシヤマが何かを考え込んでいるようなそぶりを見せていたのが、今となっては何かの予兆だったのかもしれない、とモニターの中の団員は語った。
拉致された要人が捕らえられているその独房にも予定していた時刻通りに辿り着き。だがそこで、アラシヤマの行動におかしな点が現れたという。
任務は完了しており、あとは撤収するのみとなったそのとき。アラシヤマは部下たちに捕虜を連れて船まで戻るよう命令して、自分はもうしばらくここに残ると言い出したのだ。
もっとも、アラシヤマも一人残っての探索にそれほど長い時間をかけるつもりはなかったのだろう。おそらくはすぐ戻る、というその言葉を団員二人は疑わなかった。ただ、その際に副官だけは強硬にアラシヤマを一人残して戻ることに反対し、その後に付いて行ったという。
団員二人が人質と共に船に戻ったのが任務開始から約三時間後の06:45だった。
そして、アラシヤマとその副官は、戻ってこなかった。団員は事前に、07:50までには必ず船を出すようにとの指示をアラシヤマから受けていた。戻らぬ二人を心配し始めた団員が07:40にアラシヤマに連絡をとろうとし、そのときはじめて、アラシヤマとの通信が完全に途切れていることに気付いた。
団員は僅かな希望を持って、万が一戻ってきたとしても叱責されるのを承知で8:00まで待った。
だがそれでも、二人は戻ってこなかった。
「現在もまだ通信は途切れております。そして、あの島からはヘリか船がなければ脱出は不可能です……」
「―――そうか」
報告を聞き終えたシンタローは、その両手の指をゆっくりと組みかえる。傍らに控えるキンタローの表情は緊迫していた。その状況で考えられる結論といえば―――アラシヤマとその副官が、敵の手に落ちたというそれ以外にない。
だが、それを聞いているシンタローの顔色には、僅かの変化も見られない。
「依頼主への、人質の返還は既に済んでいるんだな?」
「え?あ、は……はい」
唐突に、あまりにも当たり前、というか今となっては些事としか思えない確認の質問を受け、団員のほうが戸惑う。
「一先ずは任務の完了、ご苦労だった。上官の命令を違えなかったのは、正しい判断だ」
「……お言葉、身に余る光栄です。―――しかし」
苦痛をこらえるように、何とか形式どおりの謝辞を口にした団員は、僅かに俯いてその表情を影にし。
それからキッと、思いつめたような表情で顔を上げた。
「どうか―――どうか、捜索任務のご指示を!シンタロー新総帥!!」
若い団員は必死の形相でシンタローに訴える。そこにいるのは、平静を欠いた一兵卒というよりは、まるで必死になって親を探す迷い子のようだった。もし眼前にいたとすれば、その胸倉に縋り付いて来んばかりの切迫した表情で、団員はシンタローに切々と語りかける。
「支部の者たちは皆、非常な不安を抱えております。もちろん、極力冷静になるよう支部長からの命令は出ておりますし、そのように動くよう努めておりますが―――。これまでここを率いてこられたのは、実質はアラシヤマ上官お一人でした。このままでは我々は―――」
口にする内容は、彼にとっては掛け値のない本音だったのだろう。確かに、上がってくる報告書の類を見ていれば、υ国での節目節目の動きには必ずアラシヤマが何らかの形で関与してきていた。人間性はともかく、あれで仕事に関しては信頼の置ける男なのだ。そして、常に政情不安の中で明日をも知れぬ日々を送っていたυ支部で求められていたのは、何よりその能力だったということだろう。
しかし、それを知っておきながら尚返されたシンタローの答えは、団員にとっては失望にしかなり得ないものだった。
「―――指示は、待機。当面はそれだけだ」
団員の目が、信じがたいものを聞いたというように大きく見開かれる。
「そんな!こうしている間にもアラシヤマ上官は……」
「敵の目論見が、まだ見えてこねぇ。アラシヤマの現状もさっぱりだ。もし捕まってるとして、アイツを盾にとって何か交渉を仕掛けてくるつもりなのか、それともただ単に入り込んだ鼠を始末したつもりなのか―――そもそも、アイツがまだ生きてるっていう確証も、ないだろーが」
ほとんど恐慌を来たしているかのような団員の態度に対して、シンタローの姿勢はあくまで平静そのものだった。冷たささえ感じられるその口調で発されるその言葉は、だが確かに正論である。
納得出来ない、という顔でシンタローを見つめる団員に、シンタローは追い討ちのように言葉を重ねる。
「そんな段階で動くのは、あまりにもリスクが高い」
「―――……」
「先のことは追って本部から連絡する。取り急ぎ、アラシヤマの代わりとなる人員をそっちに向ける。それまでは通常業務をこなしてろ」
「し、しかし……っ!」
「これは総帥命令だ。いいか、何があってもお前たちの独断で動くんじゃねーぞ。テメーらの隊長がそれを望んでるとでも思うのか?アイツの意思を裏切るようなマネは、すんな」
それだけ念を押して、まだ何か言いたそうな表情の団員を残しシンタローは支部との通信を切った。ふぅ、と短い息を吐いたシンタローに、キンタローが精悍な眉を顰めながら目を向ける。その唇が開きかけて何かを言おうとしたその瞬間、駆け足でこちらに向かう足音が聞こえてきた。
現れた新たな来訪者は、蒼褪めた顔色のチョコレートロマンスだった。乱れた呼吸を整えるのと同時に総帥室の扉の前で略式の敬礼をし、急ぎ報告に入る。
「総帥……只今、υ国からの通信が入りました」
「……」
「―――前政府過激派の一味と思しき者が、団幹部との対話を要求しております」
無音の室内に、チョコレートロマンスの控えめな、だがよく通るバリトンの声が響く。先刻、この室内の温度がこれより下がることはあるまいとシンタローが思っていたのは、どうやら見通しが甘かったらしい。
誰にも気付かれない程度の刹那だったが、しかし確かに現れてしまった激情を、シンタローは奥歯を噛み締めて殺し。
意識的に無機的な表情を作り上げ、入り口に直立するチョコレートロマンスに指示を出す。
「第二通信室のモニターに繋げ。通話の記録は会話開始と同時、逆探知のスタートは四秒後」
そして総帥専用の重厚な椅子から、ゆらりと立ち上がる。黒皮のコートを肩にかけ、その裾を翻しながら歩き出したシンタローの表情は、もはや完全な『ガンマ団総帥』としてのそれだった。
「―――俺が出る。来い、キンタロー」
『on the wild world』 act.2
船をつけた岸壁は高さ三十メートルはあっただろうか。
哨戒線を潜り抜けここまでやってくるため用意されたのは、ごく小さな潜水艇。島に着くほんの数十メートル前に浮上して着岸し、その崖を上って四名は島に上陸した。
全員が戦闘服を身につけ、腰にはいざというときの救急キットや細かな作業用のドライバ類を入れたポーチを下げている。小型の無線機はイヤホン型で、拳銃を下げたホルスターは胸や太股など各々自分の最も使いやすい位置に装備していた。
ロープやカラビナ、ロックハンマーなどを用いて着いた崖の上。ターゲットとなる砦は島の中央部に、闇の中にもくっきりとその黒い影が浮かび上がらせている。中世の遺跡を利用して作られたという砦は、新月の夜を背景に、常より一層禍々しい。
(―――ただ、人自体はそれほどおらんような感じやな……これならまあ、それほど難しいこともないか)
そんなことを考えつつ、アラシヤマは視線を砦から部下の一同に移した。その戦闘準備がすっかり整っていることを確認し、淡々とした低声で語りかける。
「時計合わせ始めるで。55、56、57、58、」
迷彩色の三人はそれぞれ利き手とは逆の手首に巻いた時計を見る。
ゴー
「作戦開始、04:04。ほな、行きなはれ」
***
潜入は二手に分かれる。事前に依頼主から渡されていた内部の図面を見た結果、そうするのがもっとも適切と判断したからだ。砦の中は通路が狭く、集団行動にはまるで向いていない。そして砦自体はさほど大きいわけではないが、迷路のように入り組んでいる。アラシヤマと通信機器担当の人間、副官と爆発物担当の男がコンビとなり、二方向から砦に潜入。要人が収容されたとみられる地下二階の独房の前で落ち合う手順だった。
アラシヤマに同道した団員も、ガンマ団の一員である以上一国の兵士レベルの戦闘訓練は受けている。だが、それでも本業は工作員だ。各所に配置された警邏兵の対応は、もとよりアラシヤマが行うつもりだった。
砦の内部には細い道や階段が続く。基本的な構造はほぼ全て、中世のまま残されているようだった。その上で各所に電気のコードやボイラーらしきパイプが通されている様子は、いかにもちぐはぐな光景だ。
出来る限り警邏の兵の目はかいくぐりながら進んできたが、ある吹き抜けになったホールのような部屋の前で、アラシヤマとその団員は足を止める。ホールにはマシンガンを手にした男が二人。そしてその部屋に、隠れる場所はない。
アラシヤマが団員と目をあわせ、
(―――ここで、待っとき)
唇の動きだけで待機を命じる。団員がうなずくのと同時に、アラシヤマは部屋の一隅に炎を放った。
部屋の隅に突如燃え上がった炎に、警邏兵の注意が向く。その隙にアラシヤマは二人の背後に近づき、手に持つ銃器を叩き落した。
落としたそれは部屋の入り口で待つ部下の下に蹴り飛ばす。これで、飛び道具への対処は完了だ。
何が起こったのかも理解できていないような兵士二人を横目に、地面にとん、と手をつく。
腕の力だけで、右前方に跳躍。
左足を矮躯の男の側頭部に叩き込む。
反転。
着地時に飛び込んできた蹴りは地を滑るように屈んでかわし。
そのまま足払いで転ばせて、尻餅をついた状態の男の喉笛と頚動脈を片手で締め上げた。
「―――終わり、や」
その言葉と同時にアラシヤマの手の内にある男は意識を失い、ガクリと頭を地面に落とす。後方で待機していた団員は、倒れた二人の男の口に本部から支給されている強力な睡眠薬の錠剤を含ませ嚥下させると、念のため猿轡を噛ませ、手近にあったパイプに手足を束縛した。
そのように敵を無力化しつつ、二人は砦の最深部へと向かう。到着するまでにやむなく対応したのはせいぜい九人といったところだろうか。過半は避けてやりすごしているとはいえ、一応は一勢力の拠点であるべき砦にしては、ここに配されている人間自体は少なかった。
それはアラシヤマの当初の見込みどおりでもある。―――ただ。
(―――なんどっしゃろな、この、違和感)
あえて言えば、静か過ぎる。
人質に被害が及ばないよう、侵入自体は気付かれないために細心の注意を払っている。とはいえ、要人を拉致している拠点として、この警備体制はあまりにお粗末に過ぎはしないか。
それとも、落ち延びた過去の権力者の力など所詮はこんなものなのだろうか。確かに前政府の首脳部に近い立場にあった人間は、ガンマ団の助けもあってそのほとんどが新政府の手の内で、かつての独裁体制時に行った数々の犯罪を裁かれている最中である。過激派の残党といっても名ばかりで、この砦とて、新政府の手が届かなかったというだけで選ばれた、破れかぶれのものかもしれない。
そう色々と理屈をつけては見るものの、アラシヤマの内面に沸き起こる暗雲は晴れない。一体何が、こうも気になるというのか。
アラシヤマたちが事前に決めておいたミーティングポイントである独房の前に辿り着いたとき、副官たちはすでにその扉を開ける工作をしていた。足元には看守らしき三人の男が倒れ縛り上げられている。 おそらくは侵入しやすいであろうルートを任せていたとはいえ、その迅速な行動にアラシヤマは満足し、二人の下に歩み寄った。
「隊長!」
「おつかれさん。全員、無事どすな」
それなりの戦闘をこなしてきたであろうその二人にも、さしたる外傷はない。それを確認したうえで、アラシヤマは辺りの様子に気を配りながらも、鋼鉄製の錠前部分をレーザーで焼ききろうとしている部下の手際を見守る。
数分も経たずに錠前は破壊され、そのほかになんのトラップも仕掛けられていないことを確かめた後、アラシヤマともう一人の団員が中に入る。そこには椅子に縛り付けられる形でうなだれた要人の姿があった。
その生気のない姿に一瞬だけひやりとするが、近寄ってみれば微かな呼吸音が聞こえた。おそらくは拉致からの数日間、ロクな食事なども与えられていなかったのだろう。気力を失い、意識を保っていられなかったとしてもそれはごく普通の人間らしい反応といえる。
取り急ぎ縛られている縄を切り、椅子から崩れ落ちてきた要人をアラシヤマは一旦支え、
「なんとか息はあるみたいやな。よし、あんさんらは、こんお人連れて早よ撤収しぃ」
それを爆発物処理担当の、四人のうちで最も体格のいい男に渡した。人質を受け取った団員が、呆けたような顔をしてアラシヤマを見直す。
「へ?隊長は……」
その問いかけに、アラシヤマは苦笑だけを返した。
任務完了後の迅速な撤退は戦場の基本だ。そんなことは誰に言われなくても、アラシヤマ自身が十二分に理解している。
だが。
杞憂であればそれでいい。だがアラシヤマはこれまで幾度となく戦場をかいくぐってきた己の勘を、完全に無視することは出来なかった。
「わてはちょお……気になることがあるさかい、もーちょい残らせてもらうわ」
「そんな、でしたら我々も……!」
「そんお人、だいぶ衰弱してはるやろ。早いとこ艦に収容して介抱してやり」
アラシヤマの言葉は正論である。確かに、その様子を見れば人質には明らかに適切な処置が必要だった。それも早急に、だ。
しかしそれでも、部下たちはアラシヤマの指示に不安の色を隠せない。
「大丈夫や、すぐ戻る。ただ―――わかっとるやろけど、万が一わてが戻らんでも段取りはそのままどすえ。人質の返還が最優先や」
戸惑いは消しきれないようだったが、それでもアラシヤマの確固たる「命令」に、団員二人は了承の意を示し、それまで来た道を引き返し始めた。
だが、彼らをアラシヤマの代わりに指揮していくはずの副官だけは。
その場から一歩も動こうとせず、ただ己の上官のほうを向いている。
ある意味では反抗的なその態度に、アラシヤマが眉根を寄せて、小憎らしいほどの平静を保った表情のその部下を見遣る。
「撤収せぇ、ゆうたのが聞こえんかったか」
その目つきに明らかな剣呑さを含ませて言うアラシヤマの問いかけに、しかし副官は首を横に振った。
「お聞きできません。私は、隊長のお供を」
「……上官の命令に……」
「往路での人員配置の粗雑さを考えれば、人質の収容はあの二人だけで十分なはず」
「……」
「お付き合いさせてください、隊長」
微笑すら浮かべながら言うその眼差しは、真剣そのものだ。
現状と副官の意見を冷静に鑑みながら、とうとうアラシヤマが折れた。
「―――勝手にせぇや。せやけど、死ぬんやないで」
その言葉は決してアラシヤマの親切心から出たものではなく。あくまで新総帥の意思の代弁だということはわかっていたが、それでも副官は諾としてアラシヤマの後を追った。
***
独房の前から、アラシヤマが向かったのは更に奥の方角だった。事前に入手した見取り図ではこの砦は地上五階、地下二階の構成となっている。地下一階は食糧庫や武器庫など、砦の人員が出入りするためというよりは物質の貯蔵庫として使われており、地下二階は捕虜の収容所となっていたらしい。
だが、かつてはそれだけの用途として使われていたという地下二階には、図面上には空白となっている部分も多かった。何かがあるとすればそこだと、アラシヤマの第六感が告げている。
独房から更に進み、曲がりくねった矮路を抜けて、突き当たりまでアラシヤマはたどり着く。そこで勘は確証に変わった。見取り図で言えば、この先にはまだ大きな、何の目的もないまま放置されている部屋があったはずだ。
そばにある壁を手探りで調査すれば、床に程近い部分に他の部分に比べやや艶の出ている石がある。それをずらしたところに、手前に引く方式のレバーがあった。
「―――まあ、砦ゆうなら、こんくらいの仕掛けはあらへんとな」
呟きながらレバーを強く引くと、それまで突き当たりであった壁面が横にスライドする。そうして現れたのは大きなホールと、さらにその奥に見える一つの扉だった。
ホールは地下一階部分までの吹き抜けになっているらしく、二階分の天井の高さがある。そしておそらく地下一階からつながっているのであろう、上部の外周には人一人が歩けるくらいの通路が付けられていた。
とりあえずホールの内部に人の姿は見えなかったが、アラシヤマと副官は慎重に足を踏み入れ、なんの反応もないことを確認してからほぼ円形のその部屋の壁面に沿って駆け出す。
そして、出口に当たる奥の扉に手をかけたそのとき。
かたっ、という微かな音が背後、入り口の方向から聞こえた。
「隊長!」
アラシヤマがそれに反応するより一瞬早く、弾丸を放ったのは背後についてきていた副官だった。
銃身の短い拳銃から発されたその弾は、二十メートル以上離れた敵の右手を正確に撃ちぬいている。どうやら、アラシヤマたちが入ってきた入り口の上の部分にもう一つの進入口があり、狙撃者はそこからライフルでアラシヤマを狙ったらしい。
その場に配置された狙撃兵というわけではなく、ただ単に、アラシヤマたちの後を追ってきた警邏兵の一人のようだ。その男以外に、人間の気配はなかった。それを確認した後に、二人は手を掛けた扉を開け、その先に続く通路に抜ける。
駆けながら、アラシヤマが言った。
「ええ腕やな」
「恐縮です」
「何、使うとるん?団からの支給品やないどっしゃろ、ソレ」
「銃ですか?」
任務中にもかかわらずアラシヤマがついそう尋ねたのは、その副官が用いたのがガンマ団では珍しいリボルバーだったからだ。戦場での任務を主とするガンマ団では、拳銃はほとんど装弾数が多く連発が可能なフル・オートが主流である。団からの支給品も特別な要請がない限りオートマティックのものだ。団の士官養成学校でも、どちらの扱いも習ったものの、どちらかといえばオートマティックのほうに重点を置いていた気がする。
副官はアラシヤマに寄り添うように走りつつ、ホルスターにおさめかけた銃をアラシヤマの前に見せた。銀色の短い銃身が鈍い白光を放つ。
「S&W M640ですが」
「M640……センチニアルか」
M640は米スミス&ウェッソン社の名銃M36をベースにした、小型のステンレス製リボルバーだ。服の中から抜き出す際に引っかからないよう撃鉄をフレームに内蔵してあり、携帯しやすいのが特徴だが、そのためダブルアクションでしか作動しない。グリップ部分に独自の安全装置は付いているが、本来乱戦に不向きのリボルバーの中でも、とりわけ戦場向きの銃ではない。
初代モデルはもう五十年以上前に完成されており、その年がS&W社の創立百周年に当たったためセンチニアルの愛称がある。
「せや。あんさんは外部組でも、軍隊出身やなかったんやな」
「……ええ。元は暗殺請負業でした。やはり使い慣れたものが一番ですので」
言いながら、副官は胸元のホルスターに銃をおさめる。
「サブではフル・オートも携帯しておりますよ、一応」
「ふーん」
「アラシヤマ上官も、リボルバーですね」
「ああ……わては別に、使い勝手じゃどの銃でも大して変わらへん」
敵地にありながら、そして常人であれば五秒で息切れがするような速度で駆けながら、二人の会話はまるで団の食堂で交わすような暢気さだ。
「雑魚蹴散らすんなら炎で十分やし、脅しなら自動でも回転式でも大差ないどすやろ。ただ炎で壊せんもんがあったとき色んな弾薬が使えると便利やちゅう、それだけの話や」
普段、仕事以外ではさして会話もしたことがない相手になぜこんな饒舌になっているのかと、どこか冷静な頭でアラシヤマは思う。だがなんとなく―――本当になんとなくでしかないのだが、この副官にはどこか自分と似た匂いを感じるのだ。
独房までの道より明らかに入り組んでいる通路を抜けると、更に階下への階段が見つかった。それを降りようとしたときに、先ほど艦に返した団員の片方から通信が入り、人質は無事艦に収容されたことを知る。これで、とりあえず任務の成功は揺ぎ無いものとなった。
(深入りはせんでもええ。もうちょい、ここの用途さえわかれば)
そう自分に言い聞かせるように心の中で呟きつつ、アラシヤマは階段を下りる。
***
そこにあったのは、ただ一つの部屋だった。
そこまでの遺跡交じりの砦とは、明らかに異なる空間。煉瓦作りの壁などどこにも見えはしない。扉さえない。
鈍い白銀一色の、箱のような部屋は、白い実験用の長い机とガラスケースにだけ区切られており。それらの上、あるいは中には数え切れないほどの実験器具がそろっている。
地下三階は、その階全体が、一個の研究施設になっていた。
(地下、実験施設……兵器……?ちゃう、これは)
奇妙なことに、その場にいるべき研究員の姿は、一人も見当たらなかった。アラシヤマは多くの実験器具の合間を足音を消して歩き、奥の壁に据え付けられている合金製の棚に目をつける。その棚には厳重な鍵がかかっていた。おそらくは鉄以上の融点を持つそれは、アラシヤマの通常の炎では熔かせそうにない。
先刻話していた内容をこんなにすぐ実践することになるとは、と思いながら、アラシヤマは同行している副官に下がっているように命じた。自分も三メートルほど下がり、銃のシリンダーから弾薬を一つ引き抜くと、あいた場所に腰のポーチから取り出した別の弾薬を詰めて再セットする。そして撃鉄を起こすと、錠前に対し角度をつけて引き金を引いた。
さすがの堅固な錠前も、至近距離のマグナム弾の直撃には耐え切れない。ひしゃげた戸を無理やり外して、アラシヤマは中の書類を手に取る。
そこに保管されていたのは、膨大な量の研究レポートだった。おそらくは数百枚はくだらない白い紙の束が、いくつもにファイリングされて収められている。
アラシヤマが何気なく選んだファイルの中から、まず目に飛び込んできたのは、なんらかの化学式だった。五角形や六角形の線の間にいくつかの元素記号が書き込まれている。その図の合間に書き込まれている英文の内容は―――
(――……ッ!)
その意味を理解したとき、アラシヤマの顔色がさすがに変わった。
さらに詳細な資料を求めて、他の段を漁る。だがその次の瞬間。
本能的に感じた危険に、アラシヤマはバッと勢いよく振り向いた。同時に上方から打ち下ろされる何かを防御しようと、両手を頭上で交差する。
だがその防御は何の効力も持たず。打ち下ろされたそれが腕に触れた瞬間、雷を浴びたような衝撃を受け、眼前が白く染まった。
その意識を失う間際。目に入ったのはガンマ団では見たことがない種類の武器―――おそらくはスタンガン―――を手にし唇を歪めている、つい三分前まで己の従順な部下であったはずの男だった。
「……あ……んさ……」
「―――本当は、もう少しあなたにお付き合いしていたかったのですが」
尖った輪郭に浮かぶ表情は、皮肉なようにも、心底残念そうに思っているようにも見える。
「ご安心ください。あの人質は本物です。そもそもあんな旧時代の遺物は、我々の本来の目的ではない」
「……―――」
「私は、あなたの指揮ぶりは、一応尊敬しておりましたよ。隊長……」
その褒め言葉の最後までアラシヤマが耳にすることはなく。
どさり、と地面に崩れ落ちた己が隊長の姿を、かつて副官だった男は口元に笑みを浮かべつつ、この上なく冷ややかな目で見下ろした。
『on the wild world』 act.3
万が一のときのことを考え、通信課の一般団員はすべて席を外させてある。今この室内にいる課の者は主任のみ。細かな機器類はティラミスとチョコレートロマンスが担当し、キンタローが補佐に回る。
団の、重要機密に属する扱いということだった。
キンタローの手元には現状集められる限りのυ国と前政権に関するデータがそろえられている。
そのメインモニターの前の席に着いたとき、シンタローは自分でも不思議に思うくらい落ち着いていた。例えばこれが他の一般団員が捕虜として扱われているような状況だったら、あるいはもっと焦慮は深かったかもしれない。先刻の一瞬の激情が過ぎ去った後、誰よりも身近に居た仲間の一人の生死がかかっているというこの局面で、シンタローの頭は驚くほど冷えている。
それは、捕まっているのがアラシヤマという男だからなのだろうか。アイツだから大丈夫だ、などという信頼ではそれはない。シンタロー自身にも、己の心境がよくわからなかった。
「通信、再開します」
シンタローが着席してすぐに、後方でヘッドホンを着けたティラミスがそう告げる。同時にシンタローの眼前に広がる大型モニターに、五十がらみの中年男の姿が映った。その身には仕立てのいいスーツをまとっており、襟元にはυ国でかつて政治家であったことを示すバッヂが付けられている。
キンタローの持つ資料を見るまでもなかった。テレビで何度も報道されたことのあるその顔には、シンタローですら見覚えがある。前政権の国防次官補であった男だ。やや肥満気味のその体の上に乗せられた顔には一見柔和そうな笑みが浮かんでいるが、目に軍関係者特有の消しきれない陰惨さがあった。
「お初にお目にかかりますな、ガンマ団新総帥。ご機嫌麗しいようで何よりです」
「あァ、そちらさんもな。とても権力の座から追われて逃げ回ってる悪党にゃ見えねーぜ」
皮肉の応酬は、交渉の前哨戦にもならない、ほんの挨拶代わりだ。ただ、この手の男の顔を見続けるのも不愉快で、シンタローは口の端に笑みを刻みながら、早々に本題に入った。
「くだくだしい前置きはいらねぇ。まずそっちの言い分を聞かせてもらおうか」
その直截な物言いに若さを見たとでも思ったのか、モニターの中の男は手に持つ葉巻を咥え高価そうなライターで火を点けると、ゆっくりとその煙を吐き出した。
「こちらが望む条件は二つ。まず一つ目として、現在の暫定政府のナンバー2を殺していただきたい」
「……<新政府>、のブレインてことだな」
あえて言い直したのは、当て付けですらなかった。新政権が樹立してまだ一ヶ月。にも関わらずこれだけの国民に支持を得ているその姿を見て、なお暫定などと言い張るそのくだらないプライドを、シンタローは笑止と思う。
そんなシンタローの心境を察したのか、男はほんの少しだけ片眉を上げ。不穏な気配を醸しながらも、それでも表面上は何も無かったかのように次の要求を口にする。
「二つ目は、アメリカドルで三億。本来ならば今後一切のわが国への不干渉も約束していただきたいところだが、さすがに団員一人にそこまではできないでしょうな。妥当な取引と行きましょう」
その出された法外な額の要求に、後ろで機器類の調整をしているティラミスが思わず気色ばむ。それは至極まっとうな反応だった。団員一人の命と三億ドルを秤にかけるような馬鹿な要求は、まともな神経であればまず考えられない。
だがシンタローはそんなティラミスを手で制して、無表情のまま男に言った。
「ウチの団員が、そこにいるという証拠を見せろ。持ち物の類じゃ信用できねぇ、本人を出せ」
そのシンタローの要求はあらかじめ予測されていたものだったらしい。男は手元にある中型のモニターの角度を変え、シンタローに見せつけるように画面を正面に向けた。
「意識はないので、声はお聞かせできませんがね。映像だけでよければお見せしましょう」
そこに映し出されているのは、岩壁に囲まれた殺風景な部屋―――おそらくは独房―――と、両腕に鉄製の枷を嵌められ、吊るされた様な体勢にある黒髪の男の姿だった。
一応地に足はついているものの、その体重を支えているのはほとんど掲げられた両腕に付けられた枷のようだ。深緑色のガンマ団の戦闘服の各所には、赤黒い染みができている。
項垂れたその面は乱れた前髪によってほとんど陰になっており、ただその血の気のない蒼白な唇だけがかろうじて視認できる。
それは、見間違いようの無い、あの根暗男の姿だった。
後方でティラミスとチョコレートロマンス、さらにはキンタローですらも、息を呑む。
だが、シンタローの注意は男の無残な姿より、半分以上が陰となっているその顔に向けられていた。
動くはずがないと断定されたその唇が―――微かに動いた気が、した。
繋がれた一縷の望みは、だがその表情には決して現さずに。眉を顰めてあくまで部下を案じる総帥の顔を崩さず、シンタローは言う。
「―――そんなんじゃ、アイツ本人だっていう確証はねーな。もう少しカメラ近づけろよ」
シンタローの要求に、余裕を含んだ表情を浮かべるモニターの中の男は、後方に何らかの指示を出す。同時に、アラシヤマの映像がズームアップされた。
その面がディスプレーの上に大きく映し出されたとき、アラシヤマの口がわずかに、本当にわずかに動いた。そしてその唇がゆっくりと、しかし確かな言葉を象る。この時点で、後方の三人もシンタローの意図を完全に理解した。
シンタローは己の視線の先を気取られないよう細心の注意を払いながらも、その動きを凝視して、アラシヤマの伝えんとするところを察する。
(副官…内通者……その部下ってヤツか……!)
そのメッセージをシンタローが読み取ったのとほぼ同時に、υ国の男が誰かから声をかけられたような素振りを見せ、顔色を変えた。アラシヤマを映し出していたモニターの映像が、ぷつりと途切れる。
「……」
おそらくは、アラシヤマを監視していた部下からの注意を受けたのだろう。男は数秒間憎憎しげな色をその面に上していたが、やがて再び咥えた葉巻から煙を吐き出し、シンタローに皮肉な笑みを向けた。
「全く、あれだけの薬を使わせておいて、まだ意識があるとは。あなた方は一体、どういった教育を兵に施されておられるのか」
感嘆というよりは呆れたような声音で太り肉の男は言う。
「しかしこれであの男の真偽は明らかになったはず。ガンマ団の新総帥は人道主義で知られておられる。よもや大事な部下をお見捨てになられたりはしないでしょう」
(―――別に人道主義だなんて看板掲げた覚えはねぇし。そもそも、アイツが「人」のうちに入るかよ)という悪態を、シンタローは心の中だけで吐く。その様子を悔しがっていると受け取ったのか、モニターの中の男は愉快そうな笑みを唇に刻んで、
「回答期限は二十四時間後。交渉決裂や、それまでにそちらがおかしな動きを見せられた際には、その瞬間にあの男の首を落とします」
それだけを告げると、シンタローの返答を待たずに回線を切った。目の前のモニターが灰色のノイズに覆われる。通信が完全に途切れたことを確認した後、課の主任技師がメインモニターの電源を落とした。
シンタローが椅子の背もたれにどさりと体重を預けると同時に、キンタローが傍にいるチョコレートロマンスに声をかけた。
「逆探知の結果は」
「はっ……。断定はできないのですが、おそらくはアラシヤマ氏が向かわれた砦の内部かと……」
その返答を聞いたシンタローは、がしがしと黒髪を掻いて渋面を作った。
「つまり、アイツらは他に拠点にできるとこは持ってねぇってことだな。……ッたく、背水の陣ってよりは単なるヤケクソじゃねーか」
「……まあ、そういうことになるな。しかしシンタロー。そういう相手ほど、厄介なのではないか?」
眉間に深い縦皺を刻んだままのキンタローが、椅子に埋もれかかっている紅い背中に向かってそう告げる。だがその問いかけにはシンタローは直接は答えずに、
「てことは、あのバカが捕まってんのもあそこの可能性が高いってことか……」
とだけ、小声で呟いた。
ヘッドホンを外したティラミスが、通信機の前からシンタローに進言する。
「シンタロー新総帥……この事態は、幹部会を開かれたほうが……」
「……あーもー、メンドクセーな」
口調には明らかな不機嫌さが含まれている。しかしその行動は迅速だった。
すっくとモニター前から立ち上がり、後ろに控えるティラミスとチョコレートロマンスの二人に指示を与える。
「緊急幹部会議を開く。今、この本部にいる幹部は全て収集。近隣国にいる上級幹部とはネット回線を繋げ。開始時刻は14:10だ」
***
そして開かれた幹部会への出席者は、青の一族であり研究課を統括するグンマ博士などを含む十名強。
そこに前総帥であるマジックの姿はない。代わりに、というべきか、現在は団の科学顧問の肩書きで本部から離れているドクター高松が、どこからかネットを通じて出席していた。どうやら事態を重く見たグンマが、常の冷戦状態を解除して急ぎ連絡を取ったらしい。
会議はまず、相手の要求は呑めないということを前提として始まった。当然だな、とシンタローは思う。テロリストとはどういった場面であれ、交渉をしないというのが鉄則だ。一度要求を受け入れた前例を作ってしまえば、際限なく同じ事態が繰り返される。
ましてや今回のような明らかに人質とその交換条件が見合わないケースであれば、その選択肢は初めから無いも同然だった。つまり、会議の論点はアラシヤマのために救出チームを派遣するか否かというその一点に尽きる。
そしてその議論の方向性すら、初めからほとんど決まっていたようなものだった。アラシヤマは団内では伊達衆と呼ばれ、ある意味象徴的な存在ともなりつつある一人だが、立場としては一支部の支部長補佐でしかない。軍隊で言えば中尉クラスだ。
そして高松の、
「自白剤の類を気にしてるんでしたら、心配いりませんよ。―――あの子は、そういった訓練は随分受けていたみたいですからねぇ」
飄々と発された、元団員の健康管理係のその意見が、議論の向きをほぼ完全に決した。
会議の参加者の視線が、何かを求めるように一斉にシンタローに向けられる。それらを一身に受けながら、シンタローは表情を変えずに言葉を舌に乗せた。
「任務は完了してる―――υ国前政府残党に関しては再調査が必要だが、それはまた別の話だ」
最初から最後まで低調だったその会議を締めくくったシンタローの決定は、ほんの僅かな揺るぎも見られないもので。
「ただでさえ人が足りないこの時期に、アイツ一人のために、貴重な人員を死地に送り込むことは、出来ない」
眉一つ動かすことなく、紅い服の新総帥はそう言いきった。
そのほとんど何の色も持たない硬質な表情に、ある「決意」が隠されていたことには―――会議の参加者のうちほんの数名だけが、気付いた。
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