『on the wild world』 act.4
一方、ガンマ団本部から二千キロメートルほど離れたとある国。その上空はるか高みに浮かぶ戦艦の内部では、小型の機械とイヤホンを片手に一人のイタリア人が懊悩していた。
「うーー……、マジかぁ~……」
皮製のソファの上で、大きな上体を猫背に屈め、個室に一人、「やっぱり」と「でも」を繰り返している。
ちょうど狙い済ましたかのようにそこに現れたのは、まさしく今の懊悩の対象となっている人物だった。普段なら飛びつきたいほどなのだが、今はできることなら顔も見ず一目散に逃げ出したい相手である。
やってきた中国服の麗人は、真っ直ぐに伸びた背筋に、西洋人ではまず滅多に見られない柳腰。あぁ今日も美人だよなァなどと埒も無く思いながら、ロッドは捨て犬のような上目遣いでその名を呟いた。
「マーカーぁ……」
「なんだロッド、その情けない顔は。鬱陶しい」
涼しげな眉根を微かに顰め淡々と発されるその声に、ロッドは、ううう、と唸りながら金の髪を掻き毟る。その様子にさすがにいつもと違う何かを感じたのか、マーカーは皮製のソファに腰掛けることもせずに。腕組みをしたまま、精密機器を手にしている大柄な男の姿を、冷ややかな瞳で見下ろす。
「できれば、あんまし言いたくないンだけどね~。でも後からバレて、末代まで恨まれんのもヤダし……」
「……今の時点で燃やされるのは確実なのだから、せめて一刻も早く吐いて私の機嫌を取り、焼死は免れるのが賢い選択だぞ」
その科白が脅しではないということは、身をもって知っている。だがそれをわかっていてもなお、金髪のイタリア人は数秒間沈黙を守っていた。しかし、やがてどうやっても逃げ道はないと悟ったのか、
「―――あのさ」
どこか諦めたような顔でロッドは切り出す。
「マーカーのお弟子ちゃん、任務の最中で捕まったって」
「……なに……?!」
普段は無表情か冷笑か不機嫌の三パターンの表情しか見せないマーカーの白皙の面に、明らかな「感情」が現れる。その顔を目にしてしまったロッドは、諦観をよりいっそう深くして。渋々といった様子ながら、傍受した会議の内容をそのままマーカーに伝えた。
アラシヤマが任務の最中に副官の裏切りにあって敵に捕らえられたこと。交換条件として敵方が出してきた法外な要求。そしてそれを呑めないという前提のもと行われた会議で、新総帥の口からはっきりと下された、救出隊すら出さないという決定。
それら全てをほんの僅かに眉を顰めた表情で聞き終えたマーカーは、―――そうか、と。それだけを口にした。
そして寸暇も待たず、くるりと反転しその足を部屋の出口に向ける。
「え、おい、ちょッ…、待てって」と追いかけるロッドの声は、完全に無視して。
話を聞き終えた段階で既に固まっていた今後の行動指針に沿って、一分の躊躇いも無くマーカーは己の上司の元へと歩みを進めた。
***
目指す上司はメインフロアにいた。酒瓶を片手に、起きているのか眠っているのかわからない様子で、ひたすらに競馬情報を流すテレビの前のソファに横たわっている。
「隊長、ご相談に上がりたいことが」
「……ンだぁ?かしこまって。言っとくが金ならねーぞ」
がしがしと頭を掻きながら、長い金髪を乱れさせた男は億劫そうに起き上がり、ふあぁ、と一つ大きな欠伸をしてマーカーに上体を向ける。同時に常には無いその細い輪郭の上の微妙な変化に気付いて、やや眼光を強めた。
すぅ、と短く呼吸を整え。マーカーは前もってその胸に決めていた希望を言葉にする。
「どうか、私に離隊命令をいただきたいのですが」
「―――はァ?」
ハーレムの寝起きの顔が、理解しがたいものを耳にしたというように顰められた。聞き間違い、あるいは何かの冗談かと数秒待つが、マーカーは真っ直ぐにハーレムを見つめたまま、微動だにしない。
「……隊を、抜けたいと。そうぬかしやがったのか?今」
「―――ええ」
「理由は」
「一身上の都合です。隊長のお耳に入れるほどのことではありません」
「ソレで、通るとでも思ってんのか」
眉間に皺を寄せ、濃い睫毛に縁取られた眼を細めながら、白い開襟シャツ姿の上司はマーカーを睨めつけた。明らかに偽物ではない殺気を含んだ剣呑な目つきと、抑えられながらもドスのきいた、その声に込められた際限の無い迫力。それに感じる背筋の冷たさは、何度受けたとしても、決して薄れることはないだろう。
「いいから言えッつってんだよ。さもなきゃ、今、この場でブッ殺すぞ」
「……―――」
だが、今にもこちらの喉笛を噛み切りそうな猛獣の目をしたその上司の恫喝にも、しばらくマーカーは何も答えなかった。絶え間ないエンジン音がこだまする室内に、触れれば指先が切れそうに緊張した空気が流れる。
ほんの数秒間の、それでもその中に身を置く者にとっては永劫にも近いような沈黙。
根負けしたのは部下のほうだった。はぁ、と小さく息を吐く。どう足掻いたところで敵う相手ではないことなど本当は、数十年前から、理解している。
「……非常に、この上なく、腹立たしいこと極まりないのですが」
屈辱に満ちた色をその面に浮かべながら奥歯を噛み締めて。マーカーはその科白を口にする。実際、マーカーにとってそれは身内の恥以外の何物でもなかったのだ。
「私の、後にも先にも持つことは無いだろう不肖の弟子が、敵方に捕えられるという不始末をしでかしました」
ハーレムの張り詰めた表情が、その言葉を聞いた瞬間、呆けたようなものになった。
弟子っつーと、あの兄貴から無理やり押し付けられた陰気なガキか?あの島で再会して、その頬の傷をつけやがった……
正直、これだけ長い間付き合ってきた部下と上司の間柄ながら、この男がそれほどの弟子に対する庇護欲を持っていたとは信じがたいのだが。いや、それでもあの島では確かにそれらしき行動もとってやがったなぁ……と、ハーレムの頭は予想外の混乱の中フル回転する。
だが師弟愛というよりはむしろ―――責任感か、と思い直し。なんとかマーカーのその言動に合点がいった。
にしてもよぉ……と、ハーレムは彼にとっては極めて珍しく頭痛がするような心持ちで思う。戦場ではあれだけの冷酷さを見せ、任務とあればどれだけ卑怯な振る舞いも厭わないくせに。どこまで律儀な男なんだコレは、と目の前に直立する黒髪の中国人を見る。
「……それで、師匠のテメーがカタぁ付けに行くってか」
呆れながら独り言のように吐き出されるその声に、マーカーは黙ってコクリと頷いた。そして断罪を待つような心境で、そのまま目を閉じてハーレムの次の言葉を待つ。
叱責は覚悟の上だ。二、三回殴られる程度で済むのなら上出来だとすら思う。下手をすれば命を落としても仕方ないような、そんな類の願いを、自分は口にしている。
だが、やや項垂れているようにも見えるマーカーを急襲したのは、叱責の言葉でも堅い拳でもなく。
べしっと、あまりにもいい音をたてて、ハーレムはマーカーの頭をはたいた。
予想もしていなかった事態に切れ長の目を丸くするマーカー。そんな表情を見てハーレムは一瞬だけ、マーカーには気付かれないように満足そうな顔をし―――それから長い金の髪をざっくりと片手でかき上げながら、口元を不愉快そうに歪ませた。
「ッたくよぉ、弟子も馬鹿なら、師匠も大馬鹿だぜ」
「……―――ッ」
「たとえ親が死のうが子が死のうが、そんなん離隊の理由になるワケねぇだろーが」
それはある意味では予想通りの返答ではあった。だがその内容と先ほどの行動との落差にマーカーの困惑は深まるばかりだ。
そんな普段なら決して目にすることはできない部下の様子を、ハーレムは内心でこの上なく面白がりながら、天井を見上げる。そして―――ただ、と言いながらニィと笑った。
「あのクソ生意気な甥っ子に、恩売っとくのは悪くねェ。―――おい、マーカー」
「……はい」
「オメー、十年休暇、まだとってねーだろ」
「―――は?」
「永年勤続休暇ってヤツだ。……二日間だけやる。里帰りでもしてきやがれ」
それだけを告げるとマーカーに背を向けて、ソファにどっかと座りなおし。さっさと行っちまえ、とでも言うようにひらひらと左手を振る。
「隊長……」
「ンだよ、なんか文句でもあんのかぁ?」
「―――申し訳、ありません」
「ケッ……。お前が謝るなんてこりゃ、槍の豪雨が降るな」
白いシャツを一枚羽織っただけの広い背中に向かって、マーカーは深々と頭を下げる。その仕草を肩越しの気配で感じながら、―――オレも随分部下にゃ甘くなったモンだ、と苦笑するような気持ちでハーレムは唇の片端だけを引き上げた。
***
マーカーが支度を整えるため自室に戻ると、扉の前でロッドが待ち構えていた。その様子はまるで叱られて立たされている悪ガキのようだ。いつもと変わらない平静そのもののマーカーの顔を見ると、唇を尖らせて、あ~あ、とため息を吐いた。
「結局、行くことになっちゃったんだ?」
「ああ―――隊長の厚情で、『休暇』扱いということになったがな」
淡々と告げられたその言葉に、ロッドはやや表情を和らげる。あのオヤジもたまには粋なことをするらしい。どうやら最悪の状況だけは回避されたようだ。
自室に入るマーカーに当たり前のようにロッドはついてきて、隅に据え付けられている簡素なベッドに腰をかけた。パイプ製のベッドの脚がギィッと軋む。そんな男の動きなど空気の一部であるかのごとく扱いつつ、マーカーは着々と身支度を始める。
だが、ふと気付いたようにその手を止め、
「私が留守にする間の隊長のお世話は任せたぞ、ロッド」
これだけは、とでも思ったのか、ロッドに向かってそう言った。
「なンでオレが、あのオッサンのお守りしなきゃなんねーの……」
ぷぅ、と頬を膨らませながら不満たらたらという態度を隠さずに、ロッドは各棚から様々な暗器を取り出し身に付けていくマーカーを見遣る。オレの好みはサラサラ黒髪の東洋美人なんだあンな派手好きの金色した獅子舞じゃねェよぉ~、などとわめきたてるその姿を一顧だにせず、マーカーは数分間で、ほぼ完全に身支度を終えた。
そして最後の仕上げと、ベッドの下に置いてあるらしい小型銃を取りにロッドの近くまで歩み寄る。
そのとき、その中国服の筒型の袖をぐいっと引っ張って、ロッドが細身の身体を自分の元へ引き寄せた。
「なー、マーカー」
捕まれた腕をいかにも邪魔そうに、自分を見るその眼差しにも、ロッドは全く動じずに。
「オレ、京美人ちゃんのコト、割と気に入ってンだけど」
でも、と言いながら、ゆっくりと、マーカーの頬に残る火傷の跡を指でなぞる。
「それでまたオマエが怪我でもしたら。今度こそ、殺しちゃうかもしんないから、さ」
だから無事で戻ってきてね、とロッドはこの世の大半の女の心を蕩かすような極上の顔でにっこりと笑った。そのあまりに見事な笑顔に、マーカーは炎を出そうとした片手を掲げたまま、ぐっと詰まる。
気付けば戸口にはハーレムとGの姿もあって。
「とっとと行って、テメーの馬鹿弟子のケツ、ひっぱたいてこいや」
金の鬣を持つ上司は、そう言ってニヤリと笑う。Gも珍しく苦笑のような顔を作って、普段は人形にも似たその白磁の顔に、戸惑った表情を浮かべているマーカーを見ていた。
ロッドが一時のお別れの挨拶、とでもいうようにマーカーを背後から強く抱きしめ、耳元で囁く。
「早く帰ってきてね―――待ってるよンv」
ほんの少し掠れたような低く甘い声が耳の中で反響する。その刹那だけ、イタリア人の太い両腕の内側で、マーカーは薄く目を閉じて。
それから容赦なく、その腕の主を燃やした。
そんな二人の様子など日常茶飯事といった風情のGは、平生どおりの落ち着いた低声で「……気を付けてな」とだけ、告げた。
『on the wild world』 act.5
ジャラリ、と耳に障る重たい金属音が、狭く薄暗い岩壁の部屋に鈍く響く。
この砦で最も堅固と言われていた牢は、アラシヤマたちが切断した錠の修復がまだ済んでいないらしい。そのせいもあり、アラシヤマはかつては虜囚の拷問用だったこの部屋で散々痛めつけられた後、岩壁に鉄鎖で繋がれたままになっている。
一応は証拠として団側に姿を見せるつもりだったらしく、顔にはさほど目立つ外傷はつけられなかった。しかしその分、今は戦闘服に隠された胴体への暴力は執拗で。アバラの一、二本にはひびが入っているようだ。
意識して痛みを散らす訓練は受けている。だが、吊り下げられるように立たされているこの姿勢では、どうしても苦痛は増すばかりである。それでも息をするたびに痛む胸部を無理やり感覚の外に追いやりながら、アラシヤマは先刻の己の行動を反芻した。
(シンタローはんやったら、きっと交渉は全部自分でしてはったと思うけど……わての言うたこと、ちゃんと伝わったやろか)
部屋の一隅に取り付けられている監視カメラは、初めから隠されてすらいなかった。散々痛めつけておいて、その上でなんらかの薬物―――おそらく麻酔薬―――を筋肉内に注射し念押しのように経口薬を飲ませた以上、それらへの気遣いすら無用と思ったに違いない。
それは確かに適切な判断ではあっただろう。相手が、アラシヤマという男でさえなければ。
アラシヤマはそういった薬物への耐性の強さには、団でも有数という自信がある。実際に意識を失っていたのはほんの数十分というところだろう。そして意識の無い捕虜を装ったまま、アラシヤマは機会を待っていた。
メッセージはおそらく伝わっていると思う。だとすれば懸念の一つはなくなった。
しかし、とアラシヤマは繋がれてさえいなければその場で蹲りたいほどの気分で思う。
(ああもう失態も失態。どえらい失態や……)
ひびが入ったか折れたかしている肋骨や全身の打撲傷の痛みより何より、この己の姿の無様さが、一番こたえる。
(シンタローはん、怒ってはるやろなあ……。こない無能な男信用しはってって、お偉い方にいけず言われてへんとええけど)
そうアラシヤマが自己嫌悪の渦中に沈んでいたとき、遠くからやけによく響く足音がこちらに向かってきた。かと思うと、一言二言、牢番と誰かが言葉を交わし、鉄枠のついた重い木製の戸が軋みながら開く。
入ってきたのは二人。スーツ姿の中年男の背後には、かつての副官だった砂色の髪をした男が、影のように控えている。
その中年男の姿には見覚えがあった。確か前政府の中枢にあって唯一新政府の追捕の手を逃れ続けている国防次官補だ。
男は無表情のままアラシヤマの近くに歩み寄り、容赦ない力を込めてその頬を殴りつけた。
「―――いつから、気付いていた」
おそらくは通信を開始した当初より意識は明瞭としていて、微かなカメラのズーム音に気付き、メッセージを送ったに違いなかった。それを理解していながらも、そのせいで数少ない切り札を一枚失った男の怒りが冷めることはない。その怒りの程度に、アラシヤマは自分の試みが成功したことを知る。
「さぁ……?シンタローはんの声が、聞こえたような気がしたからかなあ」
にぃ、と口に端を上げながら答える。相手を馬鹿にしているとしか思えない返答に、男はさらにもう一発、抑え切れない怒りを拳を乗せてアラシヤマに叩き込んだ。
素人の拳の重みなどたかがしれているが、ダメージを軽減しようにも身動きが取れないのは厄介だ。切れた口内の血を、アラシヤマは地に吐き出した。
「口のきき方には気をつけろ」
懐から取り出したハンカチで手を拭いながら、スーツ姿の男は言う。
「全く、上司も上司なら部下も相当なものだな。あの若造め、小憎らしい顔をしおって……しかし今頃どれほど慌てていることか―――その姿が見られんのは、惜しいな」
独言のようなその言葉。アラシヤマは、やはり交渉の場にはシンタロー自身が出て来たのだと確証を持った。そして、この男が今回の件の総元締めなのだな、とも。
「―――交換条件、何出しはったん」
「貴様が知る必要はない」
「いや、なんにせよ阿呆なこと言うたんやろな、としか思えへんよって」
その言葉が明らかな挑発だということには、さすがに男も気付いたようだ。だが、今更この場で何を知ったところでどうすることもできまいと、罪人に温情を与える憐み深い施政者のような態度でそれを告げた。
「現在、国を牛耳っている輩の始末。それに加え、米ドルで三億だ。貴様の団なら、払えない額ではないだろう」
「三億ドル―――?.……て、京都タワー買えるんやないの」
「なんだと?」
「いや、こっちの話……にしても高ぅ見てもらえたもんどすなぁ、わても」
暗にあまりに馬鹿げた要求だという嫌味を含ませつつ、アラシヤマは呟く。
「謙遜するな。貴様と新総帥が、学生時代からの旧友ということも調べはついている」
「旧友……?ハハ、あんさん、おかしなこと言わはりまんな」
そうか、自分とシンタローとの関係はそのように他からは見えていたのか、とアラシヤマは嗤いたいような気分で思う。お門違いもいいところだ。ほんの数年前まで倒すことしか頭になかった相手だというのに。そして今だとて―――友人などと呼べるような、そんな関係では、ないというのに。
あの時、彼自身が何を思ってその言葉を口にしたのかなど、さすがにもう気付いている。気付いているその上で、なお想っているのだ。自分の彼への感情は、旧友などという一言で括れるようなそんな気軽で、ありふれた気持ちではない。
むしろその程度の情報の流れ方であれば大したことはないなと、腹立たしくも安堵するような気分だった。ただそういった思考の流れは一切表に出さずに、アラシヤマは口元に浮かべた笑みを残したまま、目に不穏な光を宿しながら男を見据える。
「まあ百歩譲ってそうとしても、あんお人は、そない情に流されるような甘ちゃんやあらしまへんで」
その眼光の鋭さに、男は一瞬だけたじろぐ様な素振りを見せた。そんな姿に僅かにでも溜飲を下げながら、あえてアラシヤマは話題を変える。
「―――あんけったくそ悪ぅなるような悪趣味な毒。主成分はリシン、原料はヒマっちゅうとこか。お手軽でええどすな」
あの研究施設で目にしたレポートの束を思い出す。あそこに書かれていたのはある一つの毒の生成式だった。アラシヤマが読むことができたのはほんの一部分、完成に至るまでの過程でしかなかったが、そこに書かれていた単語や組成図からそれがどういった効果を持ち、どのような用途で使われようとしているのか大体の見当はつく。
「あんだけ毒性強めたら、小国の首都全滅させるくらいは簡単どっしゃろなあ。あの理論どおりに精製できる工場さえ作れれば、の話やけど」
そのアラシヤマの言葉に、スーツ姿の男の眉がぴくり、と動いた。
「―――工場など、ほぼ完成している。あの研究所を見て、気付かなかったのか」
「なんやて……?」
一応カマはかけてみたものの、返ってきた台詞は予想以上のものだった。
もはやアラシヤマの口元に笑みは浮かんでいない。真剣そのものの表情で、信じがたいものを見るような目で、アラシヤマは男を糾弾する。
「自分らの国壊滅させて、国民虐殺して、それでどないするつもりや。そないなことで権力の中心に返り咲けるとでも思とるんか」
拘束されているという事実すら一瞬忘れ、繋がれている両腕の鎖がジャッと鋭い音を立てた。
「あんさん―――それほど阿呆な男には見えへんかったけどな」
その言葉は、男の後ろに控えるかつての副官のみに向かって発されたものだった。だが、目の前のスーツ姿の男はそれにすら気付かぬ様子でただ、嗤う。
「なんとでも言うがいい。その姿で何をほざいたとしても、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎん。化け物じみた貴様の炎でも、鉄を溶かすほどの高熱は出せない。部下からの報告で、そのように受けている」
勝ち誇ったように男は言い、そして踵を返した。革靴の底をあえて石の床に打ち付けるような、絵に描いたような権力者らしい歩き方で部屋から出て行く。
かつての副官もまた一言も口にせず、その足音を追い、去っていった。
***
それからどのくらいの時が経過しただろうか。外光の射し込まないこの部屋で正確な時間はわからないが、この場に拘留されてからおそらく十時間以上は経っている。
肋骨の痛みはすでに吐き気に変わっていた。もとより変えることのできない体勢のまま、アラシヤマはただじっと目を閉じている。そのあまりの静かさに、牢番は最初こそ死んでいるのではないかと思い中を覗き込んだが、何度か同じ行為を繰り返すうちに気力を失っているだけだという結論に達したらしく、それ以上は何の処置もとろうとはしなかった。
そんな状況が何時間か続いたあと、ほとんど居眠りをしかけていた牢番は、先触れなしに現れた己の上官の姿に、目をこすりながら慌てて立ち上がる。そしてアラシヤマの耳に、がちゃり、という扉の鍵を開ける音が聞こえてきた。
そこに立っていたのは、昼には一言も話すことのなかったかつての副官だった。
男は丁寧に扉を閉めてから、部屋の隅に行くと、そこに伸びている複数の電気コードのうち一本を引き抜いた。怪訝そうな顔でその行動を見守るアラシヤマに向き直って、相変わらずの無表情で淡々と告げる。
「監視カメラは切りました。これで、この部屋で話すことがほかに漏れることはありません」
「……」
「貴方と、二人で話したいことがあったので」
その言葉で、先ほど抜かれたコードがカメラに通じる何かだったということを知る。だがその行為が何を示すものかまでは、アラシヤマにはまだ理解できなかった。
「あんさん……」
この男に対してはもはや何から口にすればいいのかわからない。今更女々しい恨み辛みを連綿と述べるつもりはなかった。自分の失態は、陥れた張本人よりも己自身に対して唾を吐きたい気分だ。しかし素直によく出来ましたと褒めてやる気にももちろんなれず、結局、小さくため息をつくだけに留まる。
「よおもこんだけの期間、韜晦しとったもんやな」
少なくともその言葉は嘘ではなかった。この国の出身であるというそれだけで疑われる要素はあったはずなのに、その有能さと誠実な人柄から、男は支部内でも目立たぬ程度で最大限の信頼を周囲から得ていた。
「これでも『人を無闇に信じない』ゆうのがわてのポリシーなんやけどな」
「……お褒めの言葉と、受け取っておきましょう」
口元には笑みを刻み、しかしその声には明らかな棘を含ませて自分を見るアラシヤマにも、元副官はただ苦笑するような顔を返しただけだった。なんやわて、また人間不信酷ぅなりそうや、と言いながらアラシヤマは顔にかかる髪を払うように首を振る。
「もっとも、私があなた方の団にお邪魔していたのは、元はそちらの軍事技術を学ばせていただくためだったのですがね」
思わぬ仕事をすることになってしまいました、と他人事のようにこの男は言う。
「本性は、アレの側近ちゅうことか」
アラシヤマには既に確信があった。いつだって、ヒントはその気になればすぐ目の前に転がっていたのだ。
「暗殺なんて裏稼業やったら、銀の銃身なんて使うはずがあらへんわな。なんやおかしいと思うたんは、それか」
男はすぐには答えない。
だがやがて、アラシヤマの問いかけの直接的な答えとは別のことをぼそりと呟いた。
「―――あの方も、以前はああではなかった」
常に穏やかそうに見えて実際は何も映し出してはいなかったその瞳が、一瞬だけ、どこか遠くを見るような色に変わる。
「私は生まれたときから、あの方の側近となるべく育てられてきました」
上層階のどこかから風が入り込んでいるのだろうか。それとも島を取り囲む海の波の音がここまで聞こえてくるのだろうか。ほんの微かな潮騒のような音の中で、男の静かな口調が、薄暗い岩壁にこだまする。
「初めて記憶にあるのは、五歳くらいの時でしょうか。あの方はちょうど三十前で、軍部からこの国の政権の一隅に参画を始めたばかりだった。功績より家柄で選ばれた政治家と後ろ指をさされながらも、努力を積み重ねて得たその優秀さで、誹謗中傷をすべて捩じ伏せて」
男はそこにアラシヤマがいることなど忘れたかのように、独白のように台詞を繋ぐ。
「―――何より、あの方の描く未来は、我々国民すべてにとって、初めて持つことができた夢だった」
この世の全てが干上がりそうな、灼熱の陽光が降り注ぐ真夏の盛りの日。
見たことも無いような一張羅を着せられて初めて出会った「主人」は、日に灼けて声の大きな、精悍な顔をした男だった。
――― この子が、将来私の片腕となってくれる部下か。
そう言って、ほんの五歳に過ぎなかった自分と目線を真っ直ぐに合わせ、
―――私の歩く道はおそらく平坦ではないだろう。―――苦労させるかもしれんが、よろしく頼む。
澄み切った笑顔を浮かべた後、子供の砂色の髪をクシャクシャと撫でた。
「迷いなど一つも無かった」
自らは表舞台にはほとんど立つことなく、たとえどれほど危険な仕事を一身に請け負う運命の下に生まれようとも。その先にある眩いばかりの未来を思えば、この身などいくらでも投げ出すと決めた。
「あの方は、この国を正しく繁栄に導こうと。先進諸国にも劣らぬような、近代国家に成長させようと、心の底から願っておられた。その夢に邁進され、日々粉骨砕身、働いていらした」
「……あんさん……?」
「この国の政治は、本当に何の希望も無いものだった。あの方は唯一の希望だった。そのお役に、少しでも立てるのなら何でもよかった。私の本来の役目はあの方の護衛でしたが、あの方がお命じになることでしたらなんでもやりましたよ。暗殺、誘拐、洗脳―――それこそ、あなたがたの団が、以前請け負っていたような裏の仕事すべてをね」
男は自嘲するでもなく、ただ事実としてそれを口にした。褐色の肌にどこかインテリらしき風貌を持つ男の表情には、微かな変化すら現れない。しかしアラシヤマは、その手がいつしか堅く握り締められていることに気付いていた。
「それなのに―――」
たとえどれほど汚い仕事を命じていても、彼の目指すところは揺るがなかった。そのはずだった。しかし徐々に、やむをえないときだけの「最後の手段」であったそれらの仕事は数を増していき。そのひとつひとつが、確かに彼の精神を蝕んでいった。心のバランスが徐々に荒廃に傾いていくのを目の当たりにしながら、止めることもできずに。
夢のための手段は、やがて目的に変わっていた。
幾度、叱責を覚悟で進言しただろう。だがそのたびに、己が主人は笑って言うのだ。これは仕方の無いことなのだ、と。どういった未来を描くにせよ、まず権力を手に入れれなくては何一つ変えることはできないのだと。そして、当初の主な仕事であったはずの護衛任務から、外される回数が増えた。
思えば、その時からもう、何かが狂い始めていたのだ。
そして、国民の支持を失い、何もかも失った今となって。
彼が求めたのは、己を否定したこの国のすべてを、無に帰すことだけだった。
「……貴方だったら、どうしました。自分が身も心も捧げて、ただこの人のためだけに生きようと決めた方が、そうした行動をとるようになったら」
男は、苦笑するような表情のまま、アラシヤマにそう問いかける。
ただ黙して元部下の独白を聞いていたアラシヤマの顔に、初めて明らかな不愉快の表情が刻まれた。
「―――あない狸親父とわての麗しのシンタローはん、一緒にせんといてや」
そうして、砂色の髪をした男の目を、真正面から見据える。口にする言葉には僅かの迷いも見られない。
「シンタローはんは大丈夫どす。あんお人は、そういう自分の弱さを、誰よりよう知っとる」
しかしそんなアラシヤマの姿を、まるで痛ましいものでも見るかのような表情で男は言う。
「この世に『絶対』などはありえない―――どれほど信じていたとしても、人は変わる。権力の前に、この世界の醜さの前に、そして何より、自らの夢の前に。貴方の敬愛する総帥がそうならないという保障など、どこにもない」
男は過去の自分の姿に、アラシヤマを重ねて見ているのだ。盲目的に己が主を敬愛し、疑うことすら知らなかった過去の自分に。
「そうなったとき―――、貴方はいったい、どうするんです?」
ほんの少しの間、重い沈黙が部屋に流れる。だがその問いかけに対してアラシヤマが何かを答える間もなく、男は無線機での呼び出しを受けて部屋から出て行った。
男の言ったことを、アラシヤマは愚問だと思った。所詮この現状を招いた敗者の詭弁に過ぎないと。しかし何もかもを諦め、まるで自問するようだった男の言葉は、なぜか耳から離れない。
だが、アラシヤマは今はあえてそのことを考えないようにした。
砂色の髪の男は急ぎ足で去った―――監視カメラの配線に手を触れることもせずに。
それが故意であるのか、それともただ単に忘れただけなのかはアラシヤマにはわからない。どちらかといえば前者の可能性が高いだろう。罠かもしれないとは思う。それでも。
(わての、諦めの悪さは。同期の間じゃ有名だったんどすえ)
何せ、誰もが敵わないと認めていたシンタローに、最後まで挑みかかるのをやめなかった唯一の男なのだ。
あの男はアラシヤマの出せる炎の限界が、せいぜい有機物を燃やすのに十分な程度だと認識しているらしい。それはある意味では正しかった。アラシヤマは支部の人間にすら、己の「奥の手」の存在は明かしていない。過去の任務で自らの炎で切り抜けられなかった場合にも、その局面に応じて爆薬や武器を利用してきた。あの島以来ただの一度もそれは使ったことがないし、そもそもその技は、明かすような類のものでもない「禁じ手」だ。
(―――火事場の馬鹿力って、こっちの言葉でなんてゆうんやろな)
そんなことを思いながら、徐々に体温を上げていく。狭い場所だが、岩石を積み上げられて作られたこの部屋ならば、隙間風は十分に入ってくるのでなんとかなるだろう。よしんばならなかったとしても、今この状況では他の選択肢は無い。
鉄製の手錠が内側から熱される。
紅の、太陽のプロミネンスにも似た炎が、ゆらりとアラシヤマの身体から立ちのぼった。
(純度百の鉄の融点は、摂氏1535度……変形させるだけやったら1450で十分や)
『on the wild world』 act.6
会議が終了し、出席者が各々自分の取り仕切る部署へと戻っていく。シンタローもまた総帥室へと戻った。傍らにはまだキンタローがついている。
総帥室の執務机の前に腰を下ろしたシンタローは、さすがに疲れたようにやや顔を仰向けたまま閉じた両目を片手で覆った。まったく、ほんの数時間前までは家族水入らずの楽しい昼食を思い浮かべていたというのに。今のこの状況の変わりぶりは一体なんだというのか。
そんなシンタローの様子に、キンタローはあえて自分からは声をかけなかった。ほんの少しの間でも、シンタローの心を休ませてやりたいという思いがあったからだ。
だがそうした甘やかしに応じるシンタローではなく、目を閉じたまま、キンタローに話しかけた。
「キンタロー。あのよ……」
言いづらそうに発されるその声に、皆まで言わせずキンタローは首肯する。
「わかっている。ただちにυ支部に向かい、当面のアラシヤマの代行指揮を執ろう」
「ん……、悪ィな」
今この状況で、シンタローの傍から離れるのは正直不安ではあったけれど。しかしこうした現状の下に、自分以上の適任者がおそらくいないというのも、キンタローは理解していた。
「―――無理は、するな」
「……」
キンタローのその言葉には、複数の意味が込められていた。だがシンタローはあえてそ知らぬふりをして、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「なんの、話だ?」
そんなシンタローに、キンタローは眉根を寄せて。だがそれ以上は何も言わずに出立の準備を整えるため、シンタローと別れ本来の自分の部署へと向かった。
その日の午後の仕事を、キンタローという有能な補佐を失したまま、驚くべき集中力でシンタローは完了させた。そして、今日は疲れたからと言い残して、いつもに比べれば早々に自宅へと引き上げる。
シンタローがずっと待ち続けた、夜がやってきたのだ。
***
団のすぐ隣にある私邸に帰ってから、シンタローは簡単な夕食をとった。それから使用人たちに、今日はもう寝るから誰も部屋に近づかないようにと念をおして、自室に篭る。
時刻は午後十時過ぎ。ほぼ予定通りの時刻だ。
広い部屋の隅に置かれたベッドの横。足触りのいいカーペット敷きの床の上に、部屋着姿のシンタローは胡坐をかいている。その前に広げられているのは、昼間くすねておいた一枚の見取り図。それを頭に入れながら、シンタローは脳内で無数のシュミレートを行っていた。
だが、そうしていたのはほんの僅かな時間に過ぎない。結局は、行ってみなければ何もわかりはしないという結論に達した。
何かを飲み込むように、シンタローは一度、目を閉じて。
さて、と思いながらゆっくりと開いた目には、それまでとは全く異なる種類の光を宿していた。
とりあえず、部屋に常備してある戦闘用の道具の数々を、片っ端からベッドの上に並べる。
(一応、一通りは揃ってる。……細々したモンはしょーがねえし、あとは勘で何とか……)
モニターの中であの男は言った。「そちらが妙な動きをした際には、容赦なくあの男の首を落とす」と。
(あんだけ言い切るってのは、ハッタリか、それとも別の内通者がもう本部にも入り込んでるってことか……。どっちにしろ、本部でアレコレ動くのはさすがにヤバイよな)
一般団員にまで懸念を抱かせたくなかったし、他の幹部連に自分の取ろうとしている行動を気付かれたらそれこそコトだ。
少なくとも目的地に着くまでは、誰かに邪魔をされては困る。その後のことは、今夜中にティラミスとチョコレートロマンスに置手紙でもしておけば、あの有能な二人のことだ。内心はどうあれ、半日くらいは何とかごまかすだろう。
その手紙を目にしたときの二人の様子が目に見えるようで、さすがのシンタローの良心も痛む。しかし今回ばかりは目をこぼしてもらうしかない。
(―――だって、ほかに、どうしようもねーし)
並べられた救急キットや拳銃の類を前にぼんやりとそう思う。
だがその次の瞬間、不意に聞こえたコンコン、というノックの音に、思わずびくりと身を起こした。
使用人たちにはかなり厳重に言い聞かせておいたはずなのに。武器類を慌てて布団の下に隠しながら、「だ、誰だよ」と問いかけると、深みのある渋い、だがどこか暢気な声が返ってきた。
「誰だとはご挨拶だね―――パパだよ」
「お、おお親父ぃ?」
思わぬ来訪者に、シンタローは焦る。なんでこんなときに、と、なんでいるんだ、が頭の中で二重に混乱を引き起こしていた。たしか三日後くらいまで、なんとかミドル大会だとかファンクラブイベントだとかで日本に出張しているはずではなかったのか。
そんなシンタローの心境を知ってか知らずか、マジックは飄々とした声音を一切変えずに、部屋の中へと問いかける。
「入ってもいいかい?」
いつもならば自然な流れであるその要望にも、今のシンタローは応じることはできない。
非常に悔しい話で、また情けない話でもあるのだが。顔を合わせてしまえば、もう隠しきれる自信はなかった。
「だ、ダメだダメだダメだ!今は立ち入り禁止!!」
「フーーーン。つれないね。シンちゃんの顔が見たい一心で、急いで帰ってきたのに」
言いながら、マジックは閉ざされたドアに軽く背を凭れさせた。シンタローもまた、マジックに意地でも部屋に入らせまいと、入り口を閉ざすかのように、ドアの内側を背にすとんと腰を下ろす。
扉一枚を隔てたこちら側と向こう側で、親子は会話を続ける。
「昼間の会議、ティラミスたちが褒めていたよ。終始落ち着いていて、非常に立派な態度だったって」
やっぱりパパの子供だねぇ、鼻が高いよ、とマジックは満悦の態で言う。だが、さすがにそんな事を告げるためだけにわざわざ日本からとんぼ返りをしてまでここに来たのだとは、シンタローにも思えない。
マジックの言わんとしていることは、多分もうわかっている。だがそれにどう対処していいのかがわからずに、シンタローは無言の返事を返すしかない。
そんなシンタローの心境を察したのか、マジックが苦笑するような声で、ゆっくりとシンタローに語りかけた。
「シンちゃん」
それは幼い頃によく耳にした、優しく穏やかな、しかし心のどこかにこの男には絶対に敵わないという諦観を呼び起こす声。
「―――パパの助けは、必要かい?」
ああ、だからコイツのことは好きじゃないんだ、シンタローは思う。それとも、世間の一般的な男というものも、いつまでも父親という存在には敵わないものなのだろうか。
ドアの内側に背を凭れさせながら、シンタローは小さくため息をついた。
「……できれば、頼りたくなかったんだけどな」
この薄い障壁が自分と親父の間にあってくれてよかったと思いながら、シンタローはその希望を口にする。
「明日の正午まで、あの部屋に居てくれ。―――紅いジャケットは、預ける」
「正午までだね、わかった」
マジックはシンタローの台詞など見越していたように、この、ある意味では途方も無い息子の願いを、さらりと承諾する。
「それ以上は一分でも待たないから、遅れないよう気をつけて」
「……悪ィ、な」
「シンちゃんのためだったら、仕方ないさ」
シンタローの珍しい真剣な感謝の言葉に、マジックはあえておどけたような口調で返す。その感謝を言われる原因があの男だというのは実にシャクだけどね、とあながち冗談ではなく思いながら。
それでも、これだけは言っておかなくては、とマジックは無人の廊下に、かつて戦場で見せていたような冷たい光を宿した視線を投げかける。
「ただ、シンちゃんにもしものことがあったら」
シンタローの背後から聞こえるその声は、とても穏やかで―――
「―――私はあの男を、一生許さないよ」
そのくせ、声だけで、人の背筋を寒くさせるような迫力を含んでいた。
いっそあの馬鹿に直接言ってくれ、と内心で思いながら、シンタローは一人、天井を見上げる。これは何が何でも無傷で帰ってこないことには、あの根暗男は、もしかしなくても一生捕虜のほうがまだマシだったという目に遭わされそうだ。
マジックとの会話が終わり、その足音が遠ざかっていく。
だが、どうやら今日はアポなしの訪問者の多い日らしい。マジックの気配が完全に感じられなくなったその時、カチャリ、と微かな、しかし確かにどこかの鍵を開ける音がした。
それはそれまでマジックがいたドアのほうではなく、その反対側に位置する窓のほうから聞こえてきて。シンタローは条件反射のように身構え、音が聞こえてきた窓に向かっていつでも眼魔砲を放てるような態勢をとった。
しかし、そこに現れたのは、シンタローが頭の片隅にすら、欠片も予期していなかった人物で。
すらりとしたその身に中国服をまとい、夜を背景にして、開いた窓枠に立て膝をつくような姿勢で両足と片手とをかけているのは、あの傍若無人な叔父の、腹心とも言える部下.。―――マーカーだった。
***
「夜分に失礼いたします、新総帥」
言いながら、呆然としているシンタローを後目に、トン、と部屋の中に降り立つ。シンタローの手の中に集められていたエネルギーの塊が、やり場を失って四散した。
「新総帥にお会いする前に、他の方々のお顔を拝見したくはなかったもので。不躾な訪ね方をして申し訳ありません」
しかしガンマ団総帥の私邸のセキュリティーは流石ですね、ここまでたどり着くのに大分骨を折りました、と汗一つ浮かべていない涼しげな顔で男は言う。
シンタローは一難去ってまた一難、の心境そのままに、ただ酸欠の金魚のように口の開閉を繰り返す。だがそんなシンタローの戸惑いや困惑などまるで気にしていないらしいマーカーは、あくまでマイペースに。己の言いたいことだけを飄々と述べていく。
「なにぶん、時間がないもので、早々に用件に入らせていただきます。―――私の、不肖の弟子が、敵方に囚われるという醜態を晒しているとか」
その言葉を聞いて、シンタローの顔色が変わった。
「な、なんでアンタ、それを……」
ハム
「我が隊には、無線いじりが趣味のイタリア猫がおりましてね」
まだ混乱から立ち直れずにいるシンタローの問いかけに一瞥を投げかけ、濃紫の中国服の男は、すぅ、と流れるような動きで足を進める。
「弟子の不祥事の後始末は、どうか、私に」
「……え?」
思いもよらない人物の思いもかけない申し出に、シンタローの頭は容易にはついていけない。
「だっ……て、アンタ、特戦は―――もう」
特戦部隊は事実上、もはやガンマ団の下にはない。三億円と共に団を去った部隊は、まれに団の燃料補給地点に現れ艦の燃料を強奪していくという話は聞いていたが、表面上でもまた事実としても、ガンマ団とは互いに完全な没交渉の状態にある。
団は特戦の動きに口を出さない。そして、特戦もまた、ガンマ団には関与しない。そうした暗黙の了解 は、犯さざるべき不文律としてそこにあったはずだ。
「ええ。……ですので、この件に携わる間、私は隊を離れております」
シンタローの困惑は深まるばかりだ。隊を離れる?自分が物心ついたころには、既にあのアル中オヤジの片腕となっており、今に至るまで、おそらくほとんどの人生をあの叔父の傍らで過ごしてきた男が?
「つまり、今回の件は私個人との契約となりますが。―――いかがなさいますか?新総帥」
とても信じられない気分で目を白黒させるシンタローに、マーカーは背筋をピンと伸ばし。無意識に染み付いているのだろう無駄の全くない優美な動きで、己の胸を手のひらで押さえる。
アラシヤマとこの男が長く師弟関係だったことは、もちろんシンタローも知っている。その絆は(両名の気質も原因して)通常の武術の師弟関係などというものとは異なる、おそらく他者には理解の出来ない類のものだということも。
だが、それにしても、この男が隊を離れてまで弟子を救いに行くと言い出すとは考えもつかなかった。
アラシヤマにとってのこの男の存在も、この男にとってのアラシヤマの存在も、それがどのような意味を持っているのか、自分はきっと推測すらできていない。
単純な師弟愛、などというものでは、きっとないのだろう。自分という存在が引き金になったとはいえ、過去に本気の殺し合いを演じた二人の間にあるのは、そんな生易しい感情では、おそらくない。それでも、互いを慮る何らかの情が、やはりそこにはあるというのだろうか。
この男の真意が、シンタローには、読めない。
上目遣いにじっとりとマーカーの細面をにらみつけ、シンタローは慎重に言葉を口にする。
「―――アンタには、頼まねぇっつったら?」
「でしたら、仕方がありませんね。私一人で向かうまでのことです」
「そんで、助け出せたら……アイツはどうすんだ」
「さあ……。連れて行くか、その場で始末するかは、あの馬鹿弟子の顔を見て決めましょう」
尊敬する美貌の叔父とは違う。女顔というわけではないのに、確かに譬えようの無い艶やかさを持つこの男は、その顔色一つ変えず、のうのうと言ってのける。
「どちらにせよ、死んだものとお思いください。こちらにお戻しすることはないでしょうから」
シンタローは、しばらくの間、一体どうしたものかと頭を抱えるしかなかった。まさかこんな展開が待ち受けているとは、昼間の時点では予想もしていなかった事態だ。これは自分がしようとしていることにとって吉なのか凶なのか、と本気で考え込む。
しかしやがて、覚悟を決めた。
ぐっ、と顔を上げて、マーカーに向かって、自暴自棄のように言う。
「―――俺が、行くんだよ!」
「……は?」
今度はマーカーのほうが目を丸くする番だった。
「貴方が……。新総帥ご自身が、ですか?」
「……ああ」
「割ける手駒がないから、見捨てられるとおっしゃったのでは?」
「だから、『駒』は、ねェよ」
吐き捨てるようにそう言う若き新総帥の顔には、心なしか朱が上っているような気がした。
「……それで、将自らが動かれる、と?……―――ク、クク……ハハハ」
どう見ても笑い上戸なタイプには見えず、そして現実に笑っている顔といえば皮肉めいたものしか思い浮かばない男が、シンタローの言葉にこらえきれなくなったように、声を出して笑い出す。
それはマーカーにとって、この場にマーカーが現れたことに対するシンタローの驚きと同じかそれ以上に、意外なことだったらしい。
シンタローは己の行動の無茶を笑われているような気になったせいか、それともあんなヤツのために単身敵地に乗り込もうとしていたことを告白する羽目になったせいか―――否、おそらくはその両方で、もはや自分でもよくわからない破れかぶれの感情に奥歯を食いしばった。
ただ、とやや強めの語調で言ってマーカーを指差す。
「アンタとも契約する。契約期間はアラシヤマ救出まで。報酬は日本円で二百万だ。後でアイツの給料から全額差っ引くとしても、それ以上俺の預金口座からアイツのために動かす金なんざねぇ」
「十分です。隊長の一週間分の酒代くらいにはなるでしょう」
まだ笑いの余韻を残した表情で、マーカーは答える。
もうどうにでもなれ、というような心持ちで、シンタローはマーカーにもうしばらくの間待つようにと命じた。そして、ガンマ団の戦闘服ではなく、あえてあの南国で着慣れていた白いトレーニングシャツと黒のカンフーパンツを身につける。長い黒髪をギュッと後ろで一つに括り、肩に小さなリュック一つをかけて、シンタローの準備は整う。
そして、よっしゃ行くゼ!と意気揚々とドアを開けた、そこに立っていたこの夜最後の来訪者は。
すでにかわいらしい寝巻き姿に着替え、ナイトキャップまで身につけているグンマだった。
***
勢いよく飛び出してきた部屋の主にぶつかりそうになったことにグンマはまず驚き、その後にシンタローの背後に控えているマーカーの姿に気付き、さらに驚いたようだった。だがすぐに、そっか、と言って納得したように微笑う。
その両腕には、格好に不似合いな無骨な機器がいくつも抱えられている。
「グンマ……」
「あのね、シンちゃん」
にっこりと笑いながら、グンマはシンタローのその服装にも、こんな時間からどこに行くのかということにも何一つ触れず。ただ、はい、と言って手に持つ荷物をシンタローに渡した。
「それ、新開発の暗視スコープ。光量増幅型じゃなくて、潜水艦のソナーみたいに音波の反射を拾うタイプだから、光にも強いよ」
なんともいえない表情のまま機器類を受け取ったンタローに、それらの使い方を一つ一つ説明する。
「そっちの小型赤外線スコープと組み合わせられるから、一緒に持っていって。で、こっちは高松の研究室からもらってきた、一時的に代謝を高めて怪我の直りを早くする傷薬と、大体の毒に効くっていう中和剤。お礼は帰ってからの研究協力だってさ」
そして最後に、ポケットから小さなものを出して、それをシンタローのカンフーパンツの腰紐に結わえ付けた。
「で、あとコレ。日本の有名な神社のお守りだよ。おとーさまと、さっきちょっと話したんでしょう?そのとき渡せなかったからって」
なくさないでね、と心配そうに言う。呆けたような表情でグンマのなすがままになっていたシンタローは、やがて、ゆっくりと片眉を上げて。見ようによっては情けないと呼べなくもない表情を作ってから、仕方なく苦笑した。
「……そんな、バレバレだったか?俺」
「僕たちにとっては、ね。大丈夫、他の団員や幹部の人たちにはばれてないから」
何もかもお見通しってワケか、とバツの悪そうにシンタローは言う。
「言っとくけど……あのバカだから、ってんじゃねーからナ」
「うん、知ってる。アラシヤマじゃなくても、僕らの知ってるシンちゃんだったら、どんなときでも『仲間』を見捨てられるはずがないもの」
―――でも、きっとこれが他の人だったら、もっと丁寧に計画を練って、いろんなひとに相談してからにするよね?アラシヤマだから、自分で行っちゃうんだよね?という言葉は心の中だけで呟いて。寂しさに少しだけ似た色をその顔に現した後、シンタローの背後に黙って控えているマーカーに目を移した。
「マーカー……、シンちゃんを、よろしくね」
その面差しの中に、かつてはなかった「兄」としての表情を、マーカーは見つける。
「―――承知いたしました。私の名に誓って、お守りいたします」
頷きつつ口にした言葉は、その場凌ぎのものではなく。
シンタローとグンマという二人と実際に顔を合わせたことで、やはりあの人と血を同じくする一族なのだと実感し。それなら十分に、守るに値する相手だと確信を深めたのだ。
夜が、更ける。
一方、ガンマ団本部から二千キロメートルほど離れたとある国。その上空はるか高みに浮かぶ戦艦の内部では、小型の機械とイヤホンを片手に一人のイタリア人が懊悩していた。
「うーー……、マジかぁ~……」
皮製のソファの上で、大きな上体を猫背に屈め、個室に一人、「やっぱり」と「でも」を繰り返している。
ちょうど狙い済ましたかのようにそこに現れたのは、まさしく今の懊悩の対象となっている人物だった。普段なら飛びつきたいほどなのだが、今はできることなら顔も見ず一目散に逃げ出したい相手である。
やってきた中国服の麗人は、真っ直ぐに伸びた背筋に、西洋人ではまず滅多に見られない柳腰。あぁ今日も美人だよなァなどと埒も無く思いながら、ロッドは捨て犬のような上目遣いでその名を呟いた。
「マーカーぁ……」
「なんだロッド、その情けない顔は。鬱陶しい」
涼しげな眉根を微かに顰め淡々と発されるその声に、ロッドは、ううう、と唸りながら金の髪を掻き毟る。その様子にさすがにいつもと違う何かを感じたのか、マーカーは皮製のソファに腰掛けることもせずに。腕組みをしたまま、精密機器を手にしている大柄な男の姿を、冷ややかな瞳で見下ろす。
「できれば、あんまし言いたくないンだけどね~。でも後からバレて、末代まで恨まれんのもヤダし……」
「……今の時点で燃やされるのは確実なのだから、せめて一刻も早く吐いて私の機嫌を取り、焼死は免れるのが賢い選択だぞ」
その科白が脅しではないということは、身をもって知っている。だがそれをわかっていてもなお、金髪のイタリア人は数秒間沈黙を守っていた。しかし、やがてどうやっても逃げ道はないと悟ったのか、
「―――あのさ」
どこか諦めたような顔でロッドは切り出す。
「マーカーのお弟子ちゃん、任務の最中で捕まったって」
「……なに……?!」
普段は無表情か冷笑か不機嫌の三パターンの表情しか見せないマーカーの白皙の面に、明らかな「感情」が現れる。その顔を目にしてしまったロッドは、諦観をよりいっそう深くして。渋々といった様子ながら、傍受した会議の内容をそのままマーカーに伝えた。
アラシヤマが任務の最中に副官の裏切りにあって敵に捕らえられたこと。交換条件として敵方が出してきた法外な要求。そしてそれを呑めないという前提のもと行われた会議で、新総帥の口からはっきりと下された、救出隊すら出さないという決定。
それら全てをほんの僅かに眉を顰めた表情で聞き終えたマーカーは、―――そうか、と。それだけを口にした。
そして寸暇も待たず、くるりと反転しその足を部屋の出口に向ける。
「え、おい、ちょッ…、待てって」と追いかけるロッドの声は、完全に無視して。
話を聞き終えた段階で既に固まっていた今後の行動指針に沿って、一分の躊躇いも無くマーカーは己の上司の元へと歩みを進めた。
***
目指す上司はメインフロアにいた。酒瓶を片手に、起きているのか眠っているのかわからない様子で、ひたすらに競馬情報を流すテレビの前のソファに横たわっている。
「隊長、ご相談に上がりたいことが」
「……ンだぁ?かしこまって。言っとくが金ならねーぞ」
がしがしと頭を掻きながら、長い金髪を乱れさせた男は億劫そうに起き上がり、ふあぁ、と一つ大きな欠伸をしてマーカーに上体を向ける。同時に常には無いその細い輪郭の上の微妙な変化に気付いて、やや眼光を強めた。
すぅ、と短く呼吸を整え。マーカーは前もってその胸に決めていた希望を言葉にする。
「どうか、私に離隊命令をいただきたいのですが」
「―――はァ?」
ハーレムの寝起きの顔が、理解しがたいものを耳にしたというように顰められた。聞き間違い、あるいは何かの冗談かと数秒待つが、マーカーは真っ直ぐにハーレムを見つめたまま、微動だにしない。
「……隊を、抜けたいと。そうぬかしやがったのか?今」
「―――ええ」
「理由は」
「一身上の都合です。隊長のお耳に入れるほどのことではありません」
「ソレで、通るとでも思ってんのか」
眉間に皺を寄せ、濃い睫毛に縁取られた眼を細めながら、白い開襟シャツ姿の上司はマーカーを睨めつけた。明らかに偽物ではない殺気を含んだ剣呑な目つきと、抑えられながらもドスのきいた、その声に込められた際限の無い迫力。それに感じる背筋の冷たさは、何度受けたとしても、決して薄れることはないだろう。
「いいから言えッつってんだよ。さもなきゃ、今、この場でブッ殺すぞ」
「……―――」
だが、今にもこちらの喉笛を噛み切りそうな猛獣の目をしたその上司の恫喝にも、しばらくマーカーは何も答えなかった。絶え間ないエンジン音がこだまする室内に、触れれば指先が切れそうに緊張した空気が流れる。
ほんの数秒間の、それでもその中に身を置く者にとっては永劫にも近いような沈黙。
根負けしたのは部下のほうだった。はぁ、と小さく息を吐く。どう足掻いたところで敵う相手ではないことなど本当は、数十年前から、理解している。
「……非常に、この上なく、腹立たしいこと極まりないのですが」
屈辱に満ちた色をその面に浮かべながら奥歯を噛み締めて。マーカーはその科白を口にする。実際、マーカーにとってそれは身内の恥以外の何物でもなかったのだ。
「私の、後にも先にも持つことは無いだろう不肖の弟子が、敵方に捕えられるという不始末をしでかしました」
ハーレムの張り詰めた表情が、その言葉を聞いた瞬間、呆けたようなものになった。
弟子っつーと、あの兄貴から無理やり押し付けられた陰気なガキか?あの島で再会して、その頬の傷をつけやがった……
正直、これだけ長い間付き合ってきた部下と上司の間柄ながら、この男がそれほどの弟子に対する庇護欲を持っていたとは信じがたいのだが。いや、それでもあの島では確かにそれらしき行動もとってやがったなぁ……と、ハーレムの頭は予想外の混乱の中フル回転する。
だが師弟愛というよりはむしろ―――責任感か、と思い直し。なんとかマーカーのその言動に合点がいった。
にしてもよぉ……と、ハーレムは彼にとっては極めて珍しく頭痛がするような心持ちで思う。戦場ではあれだけの冷酷さを見せ、任務とあればどれだけ卑怯な振る舞いも厭わないくせに。どこまで律儀な男なんだコレは、と目の前に直立する黒髪の中国人を見る。
「……それで、師匠のテメーがカタぁ付けに行くってか」
呆れながら独り言のように吐き出されるその声に、マーカーは黙ってコクリと頷いた。そして断罪を待つような心境で、そのまま目を閉じてハーレムの次の言葉を待つ。
叱責は覚悟の上だ。二、三回殴られる程度で済むのなら上出来だとすら思う。下手をすれば命を落としても仕方ないような、そんな類の願いを、自分は口にしている。
だが、やや項垂れているようにも見えるマーカーを急襲したのは、叱責の言葉でも堅い拳でもなく。
べしっと、あまりにもいい音をたてて、ハーレムはマーカーの頭をはたいた。
予想もしていなかった事態に切れ長の目を丸くするマーカー。そんな表情を見てハーレムは一瞬だけ、マーカーには気付かれないように満足そうな顔をし―――それから長い金の髪をざっくりと片手でかき上げながら、口元を不愉快そうに歪ませた。
「ッたくよぉ、弟子も馬鹿なら、師匠も大馬鹿だぜ」
「……―――ッ」
「たとえ親が死のうが子が死のうが、そんなん離隊の理由になるワケねぇだろーが」
それはある意味では予想通りの返答ではあった。だがその内容と先ほどの行動との落差にマーカーの困惑は深まるばかりだ。
そんな普段なら決して目にすることはできない部下の様子を、ハーレムは内心でこの上なく面白がりながら、天井を見上げる。そして―――ただ、と言いながらニィと笑った。
「あのクソ生意気な甥っ子に、恩売っとくのは悪くねェ。―――おい、マーカー」
「……はい」
「オメー、十年休暇、まだとってねーだろ」
「―――は?」
「永年勤続休暇ってヤツだ。……二日間だけやる。里帰りでもしてきやがれ」
それだけを告げるとマーカーに背を向けて、ソファにどっかと座りなおし。さっさと行っちまえ、とでも言うようにひらひらと左手を振る。
「隊長……」
「ンだよ、なんか文句でもあんのかぁ?」
「―――申し訳、ありません」
「ケッ……。お前が謝るなんてこりゃ、槍の豪雨が降るな」
白いシャツを一枚羽織っただけの広い背中に向かって、マーカーは深々と頭を下げる。その仕草を肩越しの気配で感じながら、―――オレも随分部下にゃ甘くなったモンだ、と苦笑するような気持ちでハーレムは唇の片端だけを引き上げた。
***
マーカーが支度を整えるため自室に戻ると、扉の前でロッドが待ち構えていた。その様子はまるで叱られて立たされている悪ガキのようだ。いつもと変わらない平静そのもののマーカーの顔を見ると、唇を尖らせて、あ~あ、とため息を吐いた。
「結局、行くことになっちゃったんだ?」
「ああ―――隊長の厚情で、『休暇』扱いということになったがな」
淡々と告げられたその言葉に、ロッドはやや表情を和らげる。あのオヤジもたまには粋なことをするらしい。どうやら最悪の状況だけは回避されたようだ。
自室に入るマーカーに当たり前のようにロッドはついてきて、隅に据え付けられている簡素なベッドに腰をかけた。パイプ製のベッドの脚がギィッと軋む。そんな男の動きなど空気の一部であるかのごとく扱いつつ、マーカーは着々と身支度を始める。
だが、ふと気付いたようにその手を止め、
「私が留守にする間の隊長のお世話は任せたぞ、ロッド」
これだけは、とでも思ったのか、ロッドに向かってそう言った。
「なンでオレが、あのオッサンのお守りしなきゃなんねーの……」
ぷぅ、と頬を膨らませながら不満たらたらという態度を隠さずに、ロッドは各棚から様々な暗器を取り出し身に付けていくマーカーを見遣る。オレの好みはサラサラ黒髪の東洋美人なんだあンな派手好きの金色した獅子舞じゃねェよぉ~、などとわめきたてるその姿を一顧だにせず、マーカーは数分間で、ほぼ完全に身支度を終えた。
そして最後の仕上げと、ベッドの下に置いてあるらしい小型銃を取りにロッドの近くまで歩み寄る。
そのとき、その中国服の筒型の袖をぐいっと引っ張って、ロッドが細身の身体を自分の元へ引き寄せた。
「なー、マーカー」
捕まれた腕をいかにも邪魔そうに、自分を見るその眼差しにも、ロッドは全く動じずに。
「オレ、京美人ちゃんのコト、割と気に入ってンだけど」
でも、と言いながら、ゆっくりと、マーカーの頬に残る火傷の跡を指でなぞる。
「それでまたオマエが怪我でもしたら。今度こそ、殺しちゃうかもしんないから、さ」
だから無事で戻ってきてね、とロッドはこの世の大半の女の心を蕩かすような極上の顔でにっこりと笑った。そのあまりに見事な笑顔に、マーカーは炎を出そうとした片手を掲げたまま、ぐっと詰まる。
気付けば戸口にはハーレムとGの姿もあって。
「とっとと行って、テメーの馬鹿弟子のケツ、ひっぱたいてこいや」
金の鬣を持つ上司は、そう言ってニヤリと笑う。Gも珍しく苦笑のような顔を作って、普段は人形にも似たその白磁の顔に、戸惑った表情を浮かべているマーカーを見ていた。
ロッドが一時のお別れの挨拶、とでもいうようにマーカーを背後から強く抱きしめ、耳元で囁く。
「早く帰ってきてね―――待ってるよンv」
ほんの少し掠れたような低く甘い声が耳の中で反響する。その刹那だけ、イタリア人の太い両腕の内側で、マーカーは薄く目を閉じて。
それから容赦なく、その腕の主を燃やした。
そんな二人の様子など日常茶飯事といった風情のGは、平生どおりの落ち着いた低声で「……気を付けてな」とだけ、告げた。
『on the wild world』 act.5
ジャラリ、と耳に障る重たい金属音が、狭く薄暗い岩壁の部屋に鈍く響く。
この砦で最も堅固と言われていた牢は、アラシヤマたちが切断した錠の修復がまだ済んでいないらしい。そのせいもあり、アラシヤマはかつては虜囚の拷問用だったこの部屋で散々痛めつけられた後、岩壁に鉄鎖で繋がれたままになっている。
一応は証拠として団側に姿を見せるつもりだったらしく、顔にはさほど目立つ外傷はつけられなかった。しかしその分、今は戦闘服に隠された胴体への暴力は執拗で。アバラの一、二本にはひびが入っているようだ。
意識して痛みを散らす訓練は受けている。だが、吊り下げられるように立たされているこの姿勢では、どうしても苦痛は増すばかりである。それでも息をするたびに痛む胸部を無理やり感覚の外に追いやりながら、アラシヤマは先刻の己の行動を反芻した。
(シンタローはんやったら、きっと交渉は全部自分でしてはったと思うけど……わての言うたこと、ちゃんと伝わったやろか)
部屋の一隅に取り付けられている監視カメラは、初めから隠されてすらいなかった。散々痛めつけておいて、その上でなんらかの薬物―――おそらく麻酔薬―――を筋肉内に注射し念押しのように経口薬を飲ませた以上、それらへの気遣いすら無用と思ったに違いない。
それは確かに適切な判断ではあっただろう。相手が、アラシヤマという男でさえなければ。
アラシヤマはそういった薬物への耐性の強さには、団でも有数という自信がある。実際に意識を失っていたのはほんの数十分というところだろう。そして意識の無い捕虜を装ったまま、アラシヤマは機会を待っていた。
メッセージはおそらく伝わっていると思う。だとすれば懸念の一つはなくなった。
しかし、とアラシヤマは繋がれてさえいなければその場で蹲りたいほどの気分で思う。
(ああもう失態も失態。どえらい失態や……)
ひびが入ったか折れたかしている肋骨や全身の打撲傷の痛みより何より、この己の姿の無様さが、一番こたえる。
(シンタローはん、怒ってはるやろなあ……。こない無能な男信用しはってって、お偉い方にいけず言われてへんとええけど)
そうアラシヤマが自己嫌悪の渦中に沈んでいたとき、遠くからやけによく響く足音がこちらに向かってきた。かと思うと、一言二言、牢番と誰かが言葉を交わし、鉄枠のついた重い木製の戸が軋みながら開く。
入ってきたのは二人。スーツ姿の中年男の背後には、かつての副官だった砂色の髪をした男が、影のように控えている。
その中年男の姿には見覚えがあった。確か前政府の中枢にあって唯一新政府の追捕の手を逃れ続けている国防次官補だ。
男は無表情のままアラシヤマの近くに歩み寄り、容赦ない力を込めてその頬を殴りつけた。
「―――いつから、気付いていた」
おそらくは通信を開始した当初より意識は明瞭としていて、微かなカメラのズーム音に気付き、メッセージを送ったに違いなかった。それを理解していながらも、そのせいで数少ない切り札を一枚失った男の怒りが冷めることはない。その怒りの程度に、アラシヤマは自分の試みが成功したことを知る。
「さぁ……?シンタローはんの声が、聞こえたような気がしたからかなあ」
にぃ、と口に端を上げながら答える。相手を馬鹿にしているとしか思えない返答に、男はさらにもう一発、抑え切れない怒りを拳を乗せてアラシヤマに叩き込んだ。
素人の拳の重みなどたかがしれているが、ダメージを軽減しようにも身動きが取れないのは厄介だ。切れた口内の血を、アラシヤマは地に吐き出した。
「口のきき方には気をつけろ」
懐から取り出したハンカチで手を拭いながら、スーツ姿の男は言う。
「全く、上司も上司なら部下も相当なものだな。あの若造め、小憎らしい顔をしおって……しかし今頃どれほど慌てていることか―――その姿が見られんのは、惜しいな」
独言のようなその言葉。アラシヤマは、やはり交渉の場にはシンタロー自身が出て来たのだと確証を持った。そして、この男が今回の件の総元締めなのだな、とも。
「―――交換条件、何出しはったん」
「貴様が知る必要はない」
「いや、なんにせよ阿呆なこと言うたんやろな、としか思えへんよって」
その言葉が明らかな挑発だということには、さすがに男も気付いたようだ。だが、今更この場で何を知ったところでどうすることもできまいと、罪人に温情を与える憐み深い施政者のような態度でそれを告げた。
「現在、国を牛耳っている輩の始末。それに加え、米ドルで三億だ。貴様の団なら、払えない額ではないだろう」
「三億ドル―――?.……て、京都タワー買えるんやないの」
「なんだと?」
「いや、こっちの話……にしても高ぅ見てもらえたもんどすなぁ、わても」
暗にあまりに馬鹿げた要求だという嫌味を含ませつつ、アラシヤマは呟く。
「謙遜するな。貴様と新総帥が、学生時代からの旧友ということも調べはついている」
「旧友……?ハハ、あんさん、おかしなこと言わはりまんな」
そうか、自分とシンタローとの関係はそのように他からは見えていたのか、とアラシヤマは嗤いたいような気分で思う。お門違いもいいところだ。ほんの数年前まで倒すことしか頭になかった相手だというのに。そして今だとて―――友人などと呼べるような、そんな関係では、ないというのに。
あの時、彼自身が何を思ってその言葉を口にしたのかなど、さすがにもう気付いている。気付いているその上で、なお想っているのだ。自分の彼への感情は、旧友などという一言で括れるようなそんな気軽で、ありふれた気持ちではない。
むしろその程度の情報の流れ方であれば大したことはないなと、腹立たしくも安堵するような気分だった。ただそういった思考の流れは一切表に出さずに、アラシヤマは口元に浮かべた笑みを残したまま、目に不穏な光を宿しながら男を見据える。
「まあ百歩譲ってそうとしても、あんお人は、そない情に流されるような甘ちゃんやあらしまへんで」
その眼光の鋭さに、男は一瞬だけたじろぐ様な素振りを見せた。そんな姿に僅かにでも溜飲を下げながら、あえてアラシヤマは話題を変える。
「―――あんけったくそ悪ぅなるような悪趣味な毒。主成分はリシン、原料はヒマっちゅうとこか。お手軽でええどすな」
あの研究施設で目にしたレポートの束を思い出す。あそこに書かれていたのはある一つの毒の生成式だった。アラシヤマが読むことができたのはほんの一部分、完成に至るまでの過程でしかなかったが、そこに書かれていた単語や組成図からそれがどういった効果を持ち、どのような用途で使われようとしているのか大体の見当はつく。
「あんだけ毒性強めたら、小国の首都全滅させるくらいは簡単どっしゃろなあ。あの理論どおりに精製できる工場さえ作れれば、の話やけど」
そのアラシヤマの言葉に、スーツ姿の男の眉がぴくり、と動いた。
「―――工場など、ほぼ完成している。あの研究所を見て、気付かなかったのか」
「なんやて……?」
一応カマはかけてみたものの、返ってきた台詞は予想以上のものだった。
もはやアラシヤマの口元に笑みは浮かんでいない。真剣そのものの表情で、信じがたいものを見るような目で、アラシヤマは男を糾弾する。
「自分らの国壊滅させて、国民虐殺して、それでどないするつもりや。そないなことで権力の中心に返り咲けるとでも思とるんか」
拘束されているという事実すら一瞬忘れ、繋がれている両腕の鎖がジャッと鋭い音を立てた。
「あんさん―――それほど阿呆な男には見えへんかったけどな」
その言葉は、男の後ろに控えるかつての副官のみに向かって発されたものだった。だが、目の前のスーツ姿の男はそれにすら気付かぬ様子でただ、嗤う。
「なんとでも言うがいい。その姿で何をほざいたとしても、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎん。化け物じみた貴様の炎でも、鉄を溶かすほどの高熱は出せない。部下からの報告で、そのように受けている」
勝ち誇ったように男は言い、そして踵を返した。革靴の底をあえて石の床に打ち付けるような、絵に描いたような権力者らしい歩き方で部屋から出て行く。
かつての副官もまた一言も口にせず、その足音を追い、去っていった。
***
それからどのくらいの時が経過しただろうか。外光の射し込まないこの部屋で正確な時間はわからないが、この場に拘留されてからおそらく十時間以上は経っている。
肋骨の痛みはすでに吐き気に変わっていた。もとより変えることのできない体勢のまま、アラシヤマはただじっと目を閉じている。そのあまりの静かさに、牢番は最初こそ死んでいるのではないかと思い中を覗き込んだが、何度か同じ行為を繰り返すうちに気力を失っているだけだという結論に達したらしく、それ以上は何の処置もとろうとはしなかった。
そんな状況が何時間か続いたあと、ほとんど居眠りをしかけていた牢番は、先触れなしに現れた己の上官の姿に、目をこすりながら慌てて立ち上がる。そしてアラシヤマの耳に、がちゃり、という扉の鍵を開ける音が聞こえてきた。
そこに立っていたのは、昼には一言も話すことのなかったかつての副官だった。
男は丁寧に扉を閉めてから、部屋の隅に行くと、そこに伸びている複数の電気コードのうち一本を引き抜いた。怪訝そうな顔でその行動を見守るアラシヤマに向き直って、相変わらずの無表情で淡々と告げる。
「監視カメラは切りました。これで、この部屋で話すことがほかに漏れることはありません」
「……」
「貴方と、二人で話したいことがあったので」
その言葉で、先ほど抜かれたコードがカメラに通じる何かだったということを知る。だがその行為が何を示すものかまでは、アラシヤマにはまだ理解できなかった。
「あんさん……」
この男に対してはもはや何から口にすればいいのかわからない。今更女々しい恨み辛みを連綿と述べるつもりはなかった。自分の失態は、陥れた張本人よりも己自身に対して唾を吐きたい気分だ。しかし素直によく出来ましたと褒めてやる気にももちろんなれず、結局、小さくため息をつくだけに留まる。
「よおもこんだけの期間、韜晦しとったもんやな」
少なくともその言葉は嘘ではなかった。この国の出身であるというそれだけで疑われる要素はあったはずなのに、その有能さと誠実な人柄から、男は支部内でも目立たぬ程度で最大限の信頼を周囲から得ていた。
「これでも『人を無闇に信じない』ゆうのがわてのポリシーなんやけどな」
「……お褒めの言葉と、受け取っておきましょう」
口元には笑みを刻み、しかしその声には明らかな棘を含ませて自分を見るアラシヤマにも、元副官はただ苦笑するような顔を返しただけだった。なんやわて、また人間不信酷ぅなりそうや、と言いながらアラシヤマは顔にかかる髪を払うように首を振る。
「もっとも、私があなた方の団にお邪魔していたのは、元はそちらの軍事技術を学ばせていただくためだったのですがね」
思わぬ仕事をすることになってしまいました、と他人事のようにこの男は言う。
「本性は、アレの側近ちゅうことか」
アラシヤマには既に確信があった。いつだって、ヒントはその気になればすぐ目の前に転がっていたのだ。
「暗殺なんて裏稼業やったら、銀の銃身なんて使うはずがあらへんわな。なんやおかしいと思うたんは、それか」
男はすぐには答えない。
だがやがて、アラシヤマの問いかけの直接的な答えとは別のことをぼそりと呟いた。
「―――あの方も、以前はああではなかった」
常に穏やかそうに見えて実際は何も映し出してはいなかったその瞳が、一瞬だけ、どこか遠くを見るような色に変わる。
「私は生まれたときから、あの方の側近となるべく育てられてきました」
上層階のどこかから風が入り込んでいるのだろうか。それとも島を取り囲む海の波の音がここまで聞こえてくるのだろうか。ほんの微かな潮騒のような音の中で、男の静かな口調が、薄暗い岩壁にこだまする。
「初めて記憶にあるのは、五歳くらいの時でしょうか。あの方はちょうど三十前で、軍部からこの国の政権の一隅に参画を始めたばかりだった。功績より家柄で選ばれた政治家と後ろ指をさされながらも、努力を積み重ねて得たその優秀さで、誹謗中傷をすべて捩じ伏せて」
男はそこにアラシヤマがいることなど忘れたかのように、独白のように台詞を繋ぐ。
「―――何より、あの方の描く未来は、我々国民すべてにとって、初めて持つことができた夢だった」
この世の全てが干上がりそうな、灼熱の陽光が降り注ぐ真夏の盛りの日。
見たことも無いような一張羅を着せられて初めて出会った「主人」は、日に灼けて声の大きな、精悍な顔をした男だった。
――― この子が、将来私の片腕となってくれる部下か。
そう言って、ほんの五歳に過ぎなかった自分と目線を真っ直ぐに合わせ、
―――私の歩く道はおそらく平坦ではないだろう。―――苦労させるかもしれんが、よろしく頼む。
澄み切った笑顔を浮かべた後、子供の砂色の髪をクシャクシャと撫でた。
「迷いなど一つも無かった」
自らは表舞台にはほとんど立つことなく、たとえどれほど危険な仕事を一身に請け負う運命の下に生まれようとも。その先にある眩いばかりの未来を思えば、この身などいくらでも投げ出すと決めた。
「あの方は、この国を正しく繁栄に導こうと。先進諸国にも劣らぬような、近代国家に成長させようと、心の底から願っておられた。その夢に邁進され、日々粉骨砕身、働いていらした」
「……あんさん……?」
「この国の政治は、本当に何の希望も無いものだった。あの方は唯一の希望だった。そのお役に、少しでも立てるのなら何でもよかった。私の本来の役目はあの方の護衛でしたが、あの方がお命じになることでしたらなんでもやりましたよ。暗殺、誘拐、洗脳―――それこそ、あなたがたの団が、以前請け負っていたような裏の仕事すべてをね」
男は自嘲するでもなく、ただ事実としてそれを口にした。褐色の肌にどこかインテリらしき風貌を持つ男の表情には、微かな変化すら現れない。しかしアラシヤマは、その手がいつしか堅く握り締められていることに気付いていた。
「それなのに―――」
たとえどれほど汚い仕事を命じていても、彼の目指すところは揺るがなかった。そのはずだった。しかし徐々に、やむをえないときだけの「最後の手段」であったそれらの仕事は数を増していき。そのひとつひとつが、確かに彼の精神を蝕んでいった。心のバランスが徐々に荒廃に傾いていくのを目の当たりにしながら、止めることもできずに。
夢のための手段は、やがて目的に変わっていた。
幾度、叱責を覚悟で進言しただろう。だがそのたびに、己が主人は笑って言うのだ。これは仕方の無いことなのだ、と。どういった未来を描くにせよ、まず権力を手に入れれなくては何一つ変えることはできないのだと。そして、当初の主な仕事であったはずの護衛任務から、外される回数が増えた。
思えば、その時からもう、何かが狂い始めていたのだ。
そして、国民の支持を失い、何もかも失った今となって。
彼が求めたのは、己を否定したこの国のすべてを、無に帰すことだけだった。
「……貴方だったら、どうしました。自分が身も心も捧げて、ただこの人のためだけに生きようと決めた方が、そうした行動をとるようになったら」
男は、苦笑するような表情のまま、アラシヤマにそう問いかける。
ただ黙して元部下の独白を聞いていたアラシヤマの顔に、初めて明らかな不愉快の表情が刻まれた。
「―――あない狸親父とわての麗しのシンタローはん、一緒にせんといてや」
そうして、砂色の髪をした男の目を、真正面から見据える。口にする言葉には僅かの迷いも見られない。
「シンタローはんは大丈夫どす。あんお人は、そういう自分の弱さを、誰よりよう知っとる」
しかしそんなアラシヤマの姿を、まるで痛ましいものでも見るかのような表情で男は言う。
「この世に『絶対』などはありえない―――どれほど信じていたとしても、人は変わる。権力の前に、この世界の醜さの前に、そして何より、自らの夢の前に。貴方の敬愛する総帥がそうならないという保障など、どこにもない」
男は過去の自分の姿に、アラシヤマを重ねて見ているのだ。盲目的に己が主を敬愛し、疑うことすら知らなかった過去の自分に。
「そうなったとき―――、貴方はいったい、どうするんです?」
ほんの少しの間、重い沈黙が部屋に流れる。だがその問いかけに対してアラシヤマが何かを答える間もなく、男は無線機での呼び出しを受けて部屋から出て行った。
男の言ったことを、アラシヤマは愚問だと思った。所詮この現状を招いた敗者の詭弁に過ぎないと。しかし何もかもを諦め、まるで自問するようだった男の言葉は、なぜか耳から離れない。
だが、アラシヤマは今はあえてそのことを考えないようにした。
砂色の髪の男は急ぎ足で去った―――監視カメラの配線に手を触れることもせずに。
それが故意であるのか、それともただ単に忘れただけなのかはアラシヤマにはわからない。どちらかといえば前者の可能性が高いだろう。罠かもしれないとは思う。それでも。
(わての、諦めの悪さは。同期の間じゃ有名だったんどすえ)
何せ、誰もが敵わないと認めていたシンタローに、最後まで挑みかかるのをやめなかった唯一の男なのだ。
あの男はアラシヤマの出せる炎の限界が、せいぜい有機物を燃やすのに十分な程度だと認識しているらしい。それはある意味では正しかった。アラシヤマは支部の人間にすら、己の「奥の手」の存在は明かしていない。過去の任務で自らの炎で切り抜けられなかった場合にも、その局面に応じて爆薬や武器を利用してきた。あの島以来ただの一度もそれは使ったことがないし、そもそもその技は、明かすような類のものでもない「禁じ手」だ。
(―――火事場の馬鹿力って、こっちの言葉でなんてゆうんやろな)
そんなことを思いながら、徐々に体温を上げていく。狭い場所だが、岩石を積み上げられて作られたこの部屋ならば、隙間風は十分に入ってくるのでなんとかなるだろう。よしんばならなかったとしても、今この状況では他の選択肢は無い。
鉄製の手錠が内側から熱される。
紅の、太陽のプロミネンスにも似た炎が、ゆらりとアラシヤマの身体から立ちのぼった。
(純度百の鉄の融点は、摂氏1535度……変形させるだけやったら1450で十分や)
『on the wild world』 act.6
会議が終了し、出席者が各々自分の取り仕切る部署へと戻っていく。シンタローもまた総帥室へと戻った。傍らにはまだキンタローがついている。
総帥室の執務机の前に腰を下ろしたシンタローは、さすがに疲れたようにやや顔を仰向けたまま閉じた両目を片手で覆った。まったく、ほんの数時間前までは家族水入らずの楽しい昼食を思い浮かべていたというのに。今のこの状況の変わりぶりは一体なんだというのか。
そんなシンタローの様子に、キンタローはあえて自分からは声をかけなかった。ほんの少しの間でも、シンタローの心を休ませてやりたいという思いがあったからだ。
だがそうした甘やかしに応じるシンタローではなく、目を閉じたまま、キンタローに話しかけた。
「キンタロー。あのよ……」
言いづらそうに発されるその声に、皆まで言わせずキンタローは首肯する。
「わかっている。ただちにυ支部に向かい、当面のアラシヤマの代行指揮を執ろう」
「ん……、悪ィな」
今この状況で、シンタローの傍から離れるのは正直不安ではあったけれど。しかしこうした現状の下に、自分以上の適任者がおそらくいないというのも、キンタローは理解していた。
「―――無理は、するな」
「……」
キンタローのその言葉には、複数の意味が込められていた。だがシンタローはあえてそ知らぬふりをして、不敵な笑みを浮かべてみせる。
「なんの、話だ?」
そんなシンタローに、キンタローは眉根を寄せて。だがそれ以上は何も言わずに出立の準備を整えるため、シンタローと別れ本来の自分の部署へと向かった。
その日の午後の仕事を、キンタローという有能な補佐を失したまま、驚くべき集中力でシンタローは完了させた。そして、今日は疲れたからと言い残して、いつもに比べれば早々に自宅へと引き上げる。
シンタローがずっと待ち続けた、夜がやってきたのだ。
***
団のすぐ隣にある私邸に帰ってから、シンタローは簡単な夕食をとった。それから使用人たちに、今日はもう寝るから誰も部屋に近づかないようにと念をおして、自室に篭る。
時刻は午後十時過ぎ。ほぼ予定通りの時刻だ。
広い部屋の隅に置かれたベッドの横。足触りのいいカーペット敷きの床の上に、部屋着姿のシンタローは胡坐をかいている。その前に広げられているのは、昼間くすねておいた一枚の見取り図。それを頭に入れながら、シンタローは脳内で無数のシュミレートを行っていた。
だが、そうしていたのはほんの僅かな時間に過ぎない。結局は、行ってみなければ何もわかりはしないという結論に達した。
何かを飲み込むように、シンタローは一度、目を閉じて。
さて、と思いながらゆっくりと開いた目には、それまでとは全く異なる種類の光を宿していた。
とりあえず、部屋に常備してある戦闘用の道具の数々を、片っ端からベッドの上に並べる。
(一応、一通りは揃ってる。……細々したモンはしょーがねえし、あとは勘で何とか……)
モニターの中であの男は言った。「そちらが妙な動きをした際には、容赦なくあの男の首を落とす」と。
(あんだけ言い切るってのは、ハッタリか、それとも別の内通者がもう本部にも入り込んでるってことか……。どっちにしろ、本部でアレコレ動くのはさすがにヤバイよな)
一般団員にまで懸念を抱かせたくなかったし、他の幹部連に自分の取ろうとしている行動を気付かれたらそれこそコトだ。
少なくとも目的地に着くまでは、誰かに邪魔をされては困る。その後のことは、今夜中にティラミスとチョコレートロマンスに置手紙でもしておけば、あの有能な二人のことだ。内心はどうあれ、半日くらいは何とかごまかすだろう。
その手紙を目にしたときの二人の様子が目に見えるようで、さすがのシンタローの良心も痛む。しかし今回ばかりは目をこぼしてもらうしかない。
(―――だって、ほかに、どうしようもねーし)
並べられた救急キットや拳銃の類を前にぼんやりとそう思う。
だがその次の瞬間、不意に聞こえたコンコン、というノックの音に、思わずびくりと身を起こした。
使用人たちにはかなり厳重に言い聞かせておいたはずなのに。武器類を慌てて布団の下に隠しながら、「だ、誰だよ」と問いかけると、深みのある渋い、だがどこか暢気な声が返ってきた。
「誰だとはご挨拶だね―――パパだよ」
「お、おお親父ぃ?」
思わぬ来訪者に、シンタローは焦る。なんでこんなときに、と、なんでいるんだ、が頭の中で二重に混乱を引き起こしていた。たしか三日後くらいまで、なんとかミドル大会だとかファンクラブイベントだとかで日本に出張しているはずではなかったのか。
そんなシンタローの心境を知ってか知らずか、マジックは飄々とした声音を一切変えずに、部屋の中へと問いかける。
「入ってもいいかい?」
いつもならば自然な流れであるその要望にも、今のシンタローは応じることはできない。
非常に悔しい話で、また情けない話でもあるのだが。顔を合わせてしまえば、もう隠しきれる自信はなかった。
「だ、ダメだダメだダメだ!今は立ち入り禁止!!」
「フーーーン。つれないね。シンちゃんの顔が見たい一心で、急いで帰ってきたのに」
言いながら、マジックは閉ざされたドアに軽く背を凭れさせた。シンタローもまた、マジックに意地でも部屋に入らせまいと、入り口を閉ざすかのように、ドアの内側を背にすとんと腰を下ろす。
扉一枚を隔てたこちら側と向こう側で、親子は会話を続ける。
「昼間の会議、ティラミスたちが褒めていたよ。終始落ち着いていて、非常に立派な態度だったって」
やっぱりパパの子供だねぇ、鼻が高いよ、とマジックは満悦の態で言う。だが、さすがにそんな事を告げるためだけにわざわざ日本からとんぼ返りをしてまでここに来たのだとは、シンタローにも思えない。
マジックの言わんとしていることは、多分もうわかっている。だがそれにどう対処していいのかがわからずに、シンタローは無言の返事を返すしかない。
そんなシンタローの心境を察したのか、マジックが苦笑するような声で、ゆっくりとシンタローに語りかけた。
「シンちゃん」
それは幼い頃によく耳にした、優しく穏やかな、しかし心のどこかにこの男には絶対に敵わないという諦観を呼び起こす声。
「―――パパの助けは、必要かい?」
ああ、だからコイツのことは好きじゃないんだ、シンタローは思う。それとも、世間の一般的な男というものも、いつまでも父親という存在には敵わないものなのだろうか。
ドアの内側に背を凭れさせながら、シンタローは小さくため息をついた。
「……できれば、頼りたくなかったんだけどな」
この薄い障壁が自分と親父の間にあってくれてよかったと思いながら、シンタローはその希望を口にする。
「明日の正午まで、あの部屋に居てくれ。―――紅いジャケットは、預ける」
「正午までだね、わかった」
マジックはシンタローの台詞など見越していたように、この、ある意味では途方も無い息子の願いを、さらりと承諾する。
「それ以上は一分でも待たないから、遅れないよう気をつけて」
「……悪ィ、な」
「シンちゃんのためだったら、仕方ないさ」
シンタローの珍しい真剣な感謝の言葉に、マジックはあえておどけたような口調で返す。その感謝を言われる原因があの男だというのは実にシャクだけどね、とあながち冗談ではなく思いながら。
それでも、これだけは言っておかなくては、とマジックは無人の廊下に、かつて戦場で見せていたような冷たい光を宿した視線を投げかける。
「ただ、シンちゃんにもしものことがあったら」
シンタローの背後から聞こえるその声は、とても穏やかで―――
「―――私はあの男を、一生許さないよ」
そのくせ、声だけで、人の背筋を寒くさせるような迫力を含んでいた。
いっそあの馬鹿に直接言ってくれ、と内心で思いながら、シンタローは一人、天井を見上げる。これは何が何でも無傷で帰ってこないことには、あの根暗男は、もしかしなくても一生捕虜のほうがまだマシだったという目に遭わされそうだ。
マジックとの会話が終わり、その足音が遠ざかっていく。
だが、どうやら今日はアポなしの訪問者の多い日らしい。マジックの気配が完全に感じられなくなったその時、カチャリ、と微かな、しかし確かにどこかの鍵を開ける音がした。
それはそれまでマジックがいたドアのほうではなく、その反対側に位置する窓のほうから聞こえてきて。シンタローは条件反射のように身構え、音が聞こえてきた窓に向かっていつでも眼魔砲を放てるような態勢をとった。
しかし、そこに現れたのは、シンタローが頭の片隅にすら、欠片も予期していなかった人物で。
すらりとしたその身に中国服をまとい、夜を背景にして、開いた窓枠に立て膝をつくような姿勢で両足と片手とをかけているのは、あの傍若無人な叔父の、腹心とも言える部下.。―――マーカーだった。
***
「夜分に失礼いたします、新総帥」
言いながら、呆然としているシンタローを後目に、トン、と部屋の中に降り立つ。シンタローの手の中に集められていたエネルギーの塊が、やり場を失って四散した。
「新総帥にお会いする前に、他の方々のお顔を拝見したくはなかったもので。不躾な訪ね方をして申し訳ありません」
しかしガンマ団総帥の私邸のセキュリティーは流石ですね、ここまでたどり着くのに大分骨を折りました、と汗一つ浮かべていない涼しげな顔で男は言う。
シンタローは一難去ってまた一難、の心境そのままに、ただ酸欠の金魚のように口の開閉を繰り返す。だがそんなシンタローの戸惑いや困惑などまるで気にしていないらしいマーカーは、あくまでマイペースに。己の言いたいことだけを飄々と述べていく。
「なにぶん、時間がないもので、早々に用件に入らせていただきます。―――私の、不肖の弟子が、敵方に囚われるという醜態を晒しているとか」
その言葉を聞いて、シンタローの顔色が変わった。
「な、なんでアンタ、それを……」
ハム
「我が隊には、無線いじりが趣味のイタリア猫がおりましてね」
まだ混乱から立ち直れずにいるシンタローの問いかけに一瞥を投げかけ、濃紫の中国服の男は、すぅ、と流れるような動きで足を進める。
「弟子の不祥事の後始末は、どうか、私に」
「……え?」
思いもよらない人物の思いもかけない申し出に、シンタローの頭は容易にはついていけない。
「だっ……て、アンタ、特戦は―――もう」
特戦部隊は事実上、もはやガンマ団の下にはない。三億円と共に団を去った部隊は、まれに団の燃料補給地点に現れ艦の燃料を強奪していくという話は聞いていたが、表面上でもまた事実としても、ガンマ団とは互いに完全な没交渉の状態にある。
団は特戦の動きに口を出さない。そして、特戦もまた、ガンマ団には関与しない。そうした暗黙の了解 は、犯さざるべき不文律としてそこにあったはずだ。
「ええ。……ですので、この件に携わる間、私は隊を離れております」
シンタローの困惑は深まるばかりだ。隊を離れる?自分が物心ついたころには、既にあのアル中オヤジの片腕となっており、今に至るまで、おそらくほとんどの人生をあの叔父の傍らで過ごしてきた男が?
「つまり、今回の件は私個人との契約となりますが。―――いかがなさいますか?新総帥」
とても信じられない気分で目を白黒させるシンタローに、マーカーは背筋をピンと伸ばし。無意識に染み付いているのだろう無駄の全くない優美な動きで、己の胸を手のひらで押さえる。
アラシヤマとこの男が長く師弟関係だったことは、もちろんシンタローも知っている。その絆は(両名の気質も原因して)通常の武術の師弟関係などというものとは異なる、おそらく他者には理解の出来ない類のものだということも。
だが、それにしても、この男が隊を離れてまで弟子を救いに行くと言い出すとは考えもつかなかった。
アラシヤマにとってのこの男の存在も、この男にとってのアラシヤマの存在も、それがどのような意味を持っているのか、自分はきっと推測すらできていない。
単純な師弟愛、などというものでは、きっとないのだろう。自分という存在が引き金になったとはいえ、過去に本気の殺し合いを演じた二人の間にあるのは、そんな生易しい感情では、おそらくない。それでも、互いを慮る何らかの情が、やはりそこにはあるというのだろうか。
この男の真意が、シンタローには、読めない。
上目遣いにじっとりとマーカーの細面をにらみつけ、シンタローは慎重に言葉を口にする。
「―――アンタには、頼まねぇっつったら?」
「でしたら、仕方がありませんね。私一人で向かうまでのことです」
「そんで、助け出せたら……アイツはどうすんだ」
「さあ……。連れて行くか、その場で始末するかは、あの馬鹿弟子の顔を見て決めましょう」
尊敬する美貌の叔父とは違う。女顔というわけではないのに、確かに譬えようの無い艶やかさを持つこの男は、その顔色一つ変えず、のうのうと言ってのける。
「どちらにせよ、死んだものとお思いください。こちらにお戻しすることはないでしょうから」
シンタローは、しばらくの間、一体どうしたものかと頭を抱えるしかなかった。まさかこんな展開が待ち受けているとは、昼間の時点では予想もしていなかった事態だ。これは自分がしようとしていることにとって吉なのか凶なのか、と本気で考え込む。
しかしやがて、覚悟を決めた。
ぐっ、と顔を上げて、マーカーに向かって、自暴自棄のように言う。
「―――俺が、行くんだよ!」
「……は?」
今度はマーカーのほうが目を丸くする番だった。
「貴方が……。新総帥ご自身が、ですか?」
「……ああ」
「割ける手駒がないから、見捨てられるとおっしゃったのでは?」
「だから、『駒』は、ねェよ」
吐き捨てるようにそう言う若き新総帥の顔には、心なしか朱が上っているような気がした。
「……それで、将自らが動かれる、と?……―――ク、クク……ハハハ」
どう見ても笑い上戸なタイプには見えず、そして現実に笑っている顔といえば皮肉めいたものしか思い浮かばない男が、シンタローの言葉にこらえきれなくなったように、声を出して笑い出す。
それはマーカーにとって、この場にマーカーが現れたことに対するシンタローの驚きと同じかそれ以上に、意外なことだったらしい。
シンタローは己の行動の無茶を笑われているような気になったせいか、それともあんなヤツのために単身敵地に乗り込もうとしていたことを告白する羽目になったせいか―――否、おそらくはその両方で、もはや自分でもよくわからない破れかぶれの感情に奥歯を食いしばった。
ただ、とやや強めの語調で言ってマーカーを指差す。
「アンタとも契約する。契約期間はアラシヤマ救出まで。報酬は日本円で二百万だ。後でアイツの給料から全額差っ引くとしても、それ以上俺の預金口座からアイツのために動かす金なんざねぇ」
「十分です。隊長の一週間分の酒代くらいにはなるでしょう」
まだ笑いの余韻を残した表情で、マーカーは答える。
もうどうにでもなれ、というような心持ちで、シンタローはマーカーにもうしばらくの間待つようにと命じた。そして、ガンマ団の戦闘服ではなく、あえてあの南国で着慣れていた白いトレーニングシャツと黒のカンフーパンツを身につける。長い黒髪をギュッと後ろで一つに括り、肩に小さなリュック一つをかけて、シンタローの準備は整う。
そして、よっしゃ行くゼ!と意気揚々とドアを開けた、そこに立っていたこの夜最後の来訪者は。
すでにかわいらしい寝巻き姿に着替え、ナイトキャップまで身につけているグンマだった。
***
勢いよく飛び出してきた部屋の主にぶつかりそうになったことにグンマはまず驚き、その後にシンタローの背後に控えているマーカーの姿に気付き、さらに驚いたようだった。だがすぐに、そっか、と言って納得したように微笑う。
その両腕には、格好に不似合いな無骨な機器がいくつも抱えられている。
「グンマ……」
「あのね、シンちゃん」
にっこりと笑いながら、グンマはシンタローのその服装にも、こんな時間からどこに行くのかということにも何一つ触れず。ただ、はい、と言って手に持つ荷物をシンタローに渡した。
「それ、新開発の暗視スコープ。光量増幅型じゃなくて、潜水艦のソナーみたいに音波の反射を拾うタイプだから、光にも強いよ」
なんともいえない表情のまま機器類を受け取ったンタローに、それらの使い方を一つ一つ説明する。
「そっちの小型赤外線スコープと組み合わせられるから、一緒に持っていって。で、こっちは高松の研究室からもらってきた、一時的に代謝を高めて怪我の直りを早くする傷薬と、大体の毒に効くっていう中和剤。お礼は帰ってからの研究協力だってさ」
そして最後に、ポケットから小さなものを出して、それをシンタローのカンフーパンツの腰紐に結わえ付けた。
「で、あとコレ。日本の有名な神社のお守りだよ。おとーさまと、さっきちょっと話したんでしょう?そのとき渡せなかったからって」
なくさないでね、と心配そうに言う。呆けたような表情でグンマのなすがままになっていたシンタローは、やがて、ゆっくりと片眉を上げて。見ようによっては情けないと呼べなくもない表情を作ってから、仕方なく苦笑した。
「……そんな、バレバレだったか?俺」
「僕たちにとっては、ね。大丈夫、他の団員や幹部の人たちにはばれてないから」
何もかもお見通しってワケか、とバツの悪そうにシンタローは言う。
「言っとくけど……あのバカだから、ってんじゃねーからナ」
「うん、知ってる。アラシヤマじゃなくても、僕らの知ってるシンちゃんだったら、どんなときでも『仲間』を見捨てられるはずがないもの」
―――でも、きっとこれが他の人だったら、もっと丁寧に計画を練って、いろんなひとに相談してからにするよね?アラシヤマだから、自分で行っちゃうんだよね?という言葉は心の中だけで呟いて。寂しさに少しだけ似た色をその顔に現した後、シンタローの背後に黙って控えているマーカーに目を移した。
「マーカー……、シンちゃんを、よろしくね」
その面差しの中に、かつてはなかった「兄」としての表情を、マーカーは見つける。
「―――承知いたしました。私の名に誓って、お守りいたします」
頷きつつ口にした言葉は、その場凌ぎのものではなく。
シンタローとグンマという二人と実際に顔を合わせたことで、やはりあの人と血を同じくする一族なのだと実感し。それなら十分に、守るに値する相手だと確信を深めたのだ。
夜が、更ける。
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