(彼に)
見て欲しい。
触れて欲しい。
名を呼んで欲しい。
頼って欲しい。
縋って欲しい。
受け入れて欲しい。
(彼を)
触りたい。
口付けたい。
守りたい。
壊したい。
狂わせたい。
手に入れたい。
この欲を、あえて呼ぶならば、きっと。
Si on juge de l'amour par la plupart de ses effets,
il ressemble plus a la haine qu'a l'amitie.
『その名を』
(――あ、シンタローはんや)
長い廊下を移動する最中。眼下に見えた中庭に、珍しくシンタローの姿があった。いつもどおりの紅い総帥服に、鈍い光沢を持つ黒皮のロングコートを颯爽と羽織り。長身の彼はきっと意図せずに、しかし傍から見るといかにも悠々と、芝生の中を一直線に走る舗装された道を闊歩している。
傍らには補佐役として頭角を現しつつあるキンタローがついて、手に持つファイルを時折覗き込みながら、シンタローと何かを話している。首を軽く動かすたびに、陽光を浴びた明るい色の金髪がさらりと揺れた。今の時期だから、次の期の予算編成あたりの草案を練っているといったところだろう。
(移動中にまで、熱心なことどすなぁ)
やや皮肉めかしてそんなことを思う。その対象はもちろんシンタローではなく、彼のそばでかいがいしく世話を焼くキンタローだ。
四六時中行動を共にしていてなお、移動の時間すら惜しまなくてはならない。それだけの分量の仕事を二人が抱えていることなど百も承知で。それでも、こうして見ていると本当に秘書ででもあるかのようなキンタローの影ぶりに、ついそう思わずにいられなかった。
アラシヤマの視線の先、遥か下方で、キンタローがふとシンタローの耳元に口を寄せ、何かをささやく。
それにシンタローは苦笑を返し。キンタローの持つファイルの一ページを指差しつつ何かの説明を始める。
その光景を目にした瞬間、ほんの少しだけ、側頭部にずんとした重みが加わったような気がした。
(なんやの、これ。―――別に、いつものことやないの)
その重さを、嫉妬などという幼い感情だとアラシヤマは思いたくなかった。
キンタローは紛れもないシンタローの「家族」であり、そして過去の全てを共有した「もう一人のシンタロー」でもある。あの島から帰還した後、それなりの紆余曲折はあったが、いまやキンタローは時として一人で走り出すきらいのある新総帥の補佐役を、アラシヤマでも認めざるを得ないほど見事に務めていた。
それでも、この世に現れてまだ数年という経験不足から時に出る疑問は、稚児にも似た無邪気さで。それがシンタローを和ませる役割を果たしていることも、知っている。
青の一族の堅固な結束はアラシヤマも嫌と言うほど理解させられており、今更二人の間をどうこう言うほど、分別を失っているつもりもない。―――と、いつもは、そう思っていたのだ。確かに。
紅い総帥服の男とダークグレーのスーツを着た男の二人は、明るい緑の中を子犬がじゃれあうように歩いていく。
その姿が別棟の中に入り完全に見えなくなるまで、アラシヤマは言いようのない重みを頭に抱えたまま、リノリウム張りの廊下に佇んでいた。
***
「ひきこもり、おるだぁか?」
「……その呼び方、失礼ちゃいますん?忍者はん」
午後一番の部署への来訪者に、アラシヤマは机の上に肘をつき、ペンを手にした態勢のまま顔を上げる。
昼休みを返上して先ほどまで専念していた仕事にようやく片がつき、次の件に取り掛かろうとした矢先のことだ。集中力を途切れさせられたことに対し、明確な棘を含ませた声で来訪者に不快感を示す。だが手に何冊かのファイルを抱えた童顔の同僚は、そんな棘など一行に気にならない様子で、つかつかと部屋の再奥に位置するアラシヤマの机へ歩み寄ってきた。
これからシンタローんとこに報告書持ってかんといかんのだけど、と前置きしてから、同僚は手に持つ書類の一束をバンッと音を立ててアラシヤマの机に置く。
「そん前に今日という今日はヒトコト言わせてもらうっちゃ――アラシヤマ、さっきよこしたこれぁ、一体どういうつもりなんだいや」
「質問の、意味がわかりまへんな」
「この、次の合同任務のおめぇんとこからまわされてきた事前調査書。特に、備考欄」
アラシヤマはちら、とその書類を一瞥し。それからまた童顔の同僚に目を向ける。
「簡潔に、よぉまとまっとるやないの」
「簡潔すぎるんだっちゃ。普通の人間に読めるもんじゃないわいや」
十センチの身長差から、時折口論をする際はいつも上目遣いに睨みつけてくるトットリは、今は冷ややかな視線でアラシヤマの顔を見下ろしている。すっと伸ばした指で卓上を示して、先ほどアラシヤマが打ち込んだばかりの書類に苦情を寄せる。
「ミヤギ君やコージに回す分には気色悪いくらい丁寧に書き込んどいて、なんで僕んとこだけこんなワケのわからん数字と記号の羅列なんだらぁか」
「あれはあんお人らの頭に合わせて書いとったらそうなっただけどす。――ああ、そうそう、あんさんは多少は見込みがあるってことでっせ」
明らかな仏頂面をする年下の忍者に、アラシヤマは口の端だけを引き上げる独特の表情で返した。
調査書の書き方自体は団内のセオリーから外れているわけではない。ただ一般的なそれよりも、間を補う言葉が少ないだけだ――ほんの少しばかり、極端に。
多少は故意でしている部分はあるが、過失ではない。それが最も効率のよい書き方であることも、真理ではある。トットリの抗議はある程度は想定内ではあったが、お門違いの文句と言い張ることもできた。
「それにどすな」
軽く弄んでいたペンを机の上に置き、組み合わせた指の上に顎を乗せて口元に薄っすらと低温の笑みを刻む。
「わんこの調教はまず記号から、て昔、士官学校でも習いましたやろ」
「……残念だっちゃね。今手持ちが少ないけ、そげな粗末なケンカを買うとる余裕はないっちゃ」
もうすぐにでもシンタローの元へ行き、せめて自分のところの調査書の内容を説明しないといけない、とトットリは言う。それはトットリ自身の都合もあれば、シンタローの寸暇なく詰めこまれたスケジュールのせいでもあるということは明白で。あと五分足らずでぴったりと数字に短針を止める腕時計に視線を走らせてから、トットリはアラシヤマに向き直った。
「とにかく、おめぇんとこの部分の説明は後から改めて書面起こすなり何なりしてシンタローに渡しときいや。僕ぁそんな暗号の解読は出来ん」
「新総帥なら、これ見ればすぐ理解しはると思いますけど……まあええわ」
最後通牒のように言い放ったトットリにほんの少しだけ眉を上げ。机の上に叩きつけられた書類を手にして、アラシヤマは椅子から立ち上がる。
「後からやなんて二度手間や。丁度こっちのキリもええとこやし、わてがシンタローはんに直接説明します。もし必要だったら、どすけどな」
「……」
「なんどすの、その露骨に嫌そうなカオ」
「……アラシヤマなんて連れて行ったら、ただでさえぴりぴりしとるシンタローの機嫌が、余計悪くなるっちゃ」
「燃えとき――と言いたいところどすけど、紙無駄にしたら元も子もあらへんよって、後にしてあげますわ。ほな、行きまっせ」
ブツブツと小声で文句を言い続ける忍者の抱えているファイルの上に、つき返された書類を改めて乗せる。そして自分は胸ポケットにペン一本だけを差し込んで、アラシヤマは本部最上階の総帥室へと足を向けた。
***
「あれ?ミヤギくーーんv」
「トットリぃ!……と、アラシヤマ?何でおめ、トットリと一緒に居るんだべ」
「あんさんの『べすとふれんど』が、調査書の読み方もわからへんて、わてに泣きついてきたんどす」
総帥室の中に入るまでもなく、シンタローとキンタローは部屋の前の廊下で立ち話をしていた。
そこにはもう一人意外な人物もいて、その姿を認めた瞬間、隣に居たはずのトットリが親鴨を見つけた小鴨のように彼の元に駆け出す。アラシヤマも、久々に顔を合わせる総帥に同じように駆けつけようかと一瞬考えたのだが、先を越されて出端をくじかれたこともあり、なんとなく無言でその後を追ってしまった。
金髪と黒髪の自称ベストフレンド同士は、どうやら久々の邂逅だったらしく、TPOを完全に無視してきゃっきゃっとじゃれ合っている。二人のその様子を苦笑するように眺めていたシンタローが「オイ」と一声かけると、我に返ったようにミヤギがシンタローに向き合って、軽く手を振った。
「オラの用はもう終わりだべ。てことでシンタロー、あとはよろすぐな」
「ああ、ご苦労さん。で、次はトットリか。それ、資料だよな」
シンタローが小脇に抱えるファイルを指差しつつ確認すると、トットリもようやくシンタローのほうに注意を向け、仕事中の表情に戻る。
「そうだっちゃ。こっちが終わった任務の報告書。で、こっちが次の任務の件、アラシヤマが調べた分と、僕んとこの合わせて渡すっちゃね」
「終わったほうは大体もう聞いてるからいいとして、次のヤツだけ、ここで確認していいか?悪ィけど、ちょっと時間なくてな……」
「僕ぁ構わんけど……」
正直、説明なしでわかるとは思えないっちゃ、とトットリはチラリと横に立つ同じ制服姿の男に目をやる。アラシヤマは涼しげな表情で、トットリのほうに視線すらよこさず、ぱらぱらと書類をめくるシンタローを見ていた。
全部で十七枚に渡る上層部用の書類。その後半部分、つまりアラシヤマが担当した箇所を読んでいたときに若干眉を顰めたが、それでも最後のページまで目を通したらしいシンタローは、書類の表表紙をとん、と右手の甲で叩き、
「ん。そんじゃコレは受け取っとくぜ」
さらり、と言った。
「ええ?!ほんとにわかったんだわいや?」
「と、思うぜ?――けど、根性悪い書き方してやがんな」
まあアラシヤマの書く文章なんて大抵こんなもんだろ、とシンタローは平然と言う。その横ではミヤギが「オラんとこにくんのはえらいわかりやすいべ」と不可解そうな顔をしていた。アラシヤマはそら見たことか、とトットリを一瞥する。根性の悪い書き方という言われようには、多少の自覚があっただけ、ほんの少しバツの悪い思いをしたが。
トットリは僕には理解できんっちゃ、とまだ納得のいかない表情をしていたが、すぐに思考の半分以上をミヤギに向けたために、それ以上蒸し返すこともしなかった。
「そっでも、もし細かいとこで説明とか直しとか必要だったら、また連絡してほしいっちゃ」
「おー……ま、多分大丈夫だろ」
口元に笑みを浮かべながら、シンタローは答える。それを打ち合わせが速やかに終了した符号と認識してか、キンタローが仕立てのいいスーツの袖から覗く腕時計を、ちらりと見た。
「シンタロー」
その呼びかけだけで、シンタローはキンタローの意図するところを察して頷く。
そしてアラシヤマを一顧だにせず、次の移動場所へと向かう―――キンタローに促されるままに。
無言でそれを見送るしかないアラシヤマの隣では、飽きもせず自称ベストフレンド同士がじゃれあいを続けており。
「ミヤギ君、この後仕事は一杯だかいや?」
「いや、十五分くらいなら空けられるべ」
「じゃあ、食堂でお茶でもすっだわいや」
そんなことを楽しげに話し合いながら、エレベーターホールへと足を向けようとしている。
(―――いつもの、ことや)
なのに今日はどうして、これほどまでにこの親友たちの声が、耳に障るのだろう。
それは考えた行動ではなく。
気付けばアラシヤマはトットリの襟元を掴み、強く引き寄せていた。
「んンッ……!?」
その行動は、その場に居た者全員にとって、完全に予測がつかないものだったといっていい。
当然のごとく油断しきっていた童顔の忍者の顔を、襟首を掴むという方法で力づくで引き寄せたアラシヤマは、噛み付くような強さでその唇に口付け、乱暴に口内に舌を挿し入れた。
アラシヤマの行為は、あまりに常軌を逸していた。最初は何の冗談かと目を丸くしていたミヤギとキンタローだったが、やがてその口付けがあまりに長く、しかも冗談では済まないくらいに深いこと、トットリが本気で苦しそうな表情をしていることに気づき。
まずミヤギが我に返り、顔色を変えた。
アラシヤマの肩を、思わず手加減なしで掴む。それでもアラシヤマは、執拗にトットリの口内を荒らそうとするのをやめずに。
「…男同士のキスシーンを見るのは初めてだ」
「アホなこと言うとらんで手伝うべキンタロー!」
相変わらず呆然と事の成り行きを見守っているキンタローに、いつもなら上層部に一応の礼儀を示しているミヤギの口調が、一瞬だけでもあの島に居た頃のように戻った。それにようやくすべきことを理解したキンタローが加勢に加わり、二人がかりの腕力にものをいわせ、やっとアラシヤマを引き剥がすことに成功する。
シンタローは木偶のようにその場に突っ立ったまま、呆然とその光景を眺めるしかなかった。
ぜえぜえと荒くなった呼吸をなんとか回復させたトットリが、口元をなんども拭いながら怒りに顔中を朱に染めて叫ぶ。
「な、なにするんだっちゃわいや!!」
「大丈夫け?トットリぃ」
怒るべきなのか笑い飛ばすべきなのか、困惑した表情で親友を見るミヤギ。キンタローもまた、常時泰然としている表情を崩して、眉を顰めている。
「アラシヤマ、今のはなんだ?俺の認識が正しければ、それは冗談にしても随分悪質の類だ。いいか、冗談でも……」
だが、それら自分を咎める声は耳にすら入っていないような様子で、アラシヤマの視線は、ただシンタローのみに向けられていた。
シンタローは何も言うことができなかった。正直に言えば、わけがわからなかった。アラシヤマがいったい何を思って今の行為をして、そして何を考えてそれほど縋るような目で自分を見ているのか。
わかるのはただ、やたら気分が悪いということ。
苦いものを無理やり飲み込まされたような気分で、だが唇は強張って何を言葉にすることもできない。ふざけるのもいい加減にしろと怒鳴ってやればいいのだろうか。それとも、いつものように、無言で眼魔砲を?
だが、どの対応も、この場にふさわしいものではないと思った。むしろこれは―――応じたら、負けだ。
硬直した場の空気を読んでか読まずにか、はあ、とキンタローが呆れたようなため息をついた。
「タチの悪い冗談に付き合っている暇はないな……シンタロー、行くぞ」
「……あァ」
直立したまま微動だにしないシンタローの背中を押すように、キンタローが歩みを促す。そして歩き出したシンタローの顔は、まるで非日常的なことなど何も起こりはしなかったと言うかのように、無表情だった。
後に取り残されたの三人のうち一人は、悪ふざけを仕掛けた犯人に今となっては明らかな怒りを爆発させており、被害者であるもう一人は、一時の怒りをやり過ごした後は、むしろ親友を宥めていた。そして加害者である最後の一人は、この状況になってもまだ、消えていった紅い総帥服の背中を、視線で追うようなそぶりを見せており。そんな様子が、親友に悪趣味極まりない悪戯を仕掛けたと怒り心頭の男にとっては、火に油を注ぐ結果になる。
「アラシヤマぁっ!どういうつもりだべ!答え次第じゃ」
「いいんだっちゃ、ミヤギくんが怒ることはないわいや」
「トットリぃ!おめ、悔しくないんか?あンな……」
「こげな妄想の世界にしか生きられん根性悪の悪ふざけに、いちいち怒ってなんてられんわいや」
な?と、無理やりに明るい表情を作って、黒髪の童顔忍者は親友に笑いかける。
「だけぇ、ミヤギくんにも気にしてほしくないっちゃ」
その親友の気遣いに、さすがに気付いたミヤギがなんとか怒りの矛先をおさめる。こんなところで幹部同士がケンカなどしていれば、確かにそれは大事になる可能性がある。しかも、原因が原因だ。理由を問われたところで報告書にも書けないだろう。
「おめが、そう言うんだったら……」
ようやく落ち着いたらしいミヤギの姿にトットリは安堵の表情を見せる。そして同時に、何かを思い出したようにミヤギに問いかけた。
「ミヤギくん、随分長いことここにおるっちゃけど……時間、大丈夫だわいや?」
「あっ」
ふと気付けば、時計の長針は丁度地面に垂直になっている。戻ろうと決めてから二十分近くをこの場で過ごしていた事になる。あたふたと書類を抱えなおすミヤギの様子を見て、トットリは苦笑しつつため息を吐く。
「お茶は、また今度だっちゃね」
「トットリぃ……」
らしくもなく情けない表情をするミヤギに、トットリは今度こそ掛け値のない笑顔を見せ、悪戯っぽく指を一本立てる。
「そん代わり、せっかく珍しくミヤギくんが本部におるんだけぇ、よかったら晩御飯を一緒にするっちゃ。後の時間気にして急いでお茶するより、僕ぁそっちのほうがいいわいや」
「おう、それもそっだべな!」
その善後策にぱっと明るい表情になり、ミヤギは、バンッと勢いよくトットリの背中を叩いてから自分の部署へと駆け出す。
「じゃ、連絡待っとるべ!」
笑顔で手を振りながら、その場を去る。
金糸のような髪を揺らしながら去っていく背が廊下の先の角を曲がって、見えなくなった、と思った刹那。
アラシヤマの首筋にひやりとした質感が当たった。
音もなく、トットリはアラシヤマの横から斜め後ろへと移動しており。その手に握られた苦無が、アラシヤマの頚動脈の上に薄紙一枚の隙間も残さず正確に置かれているのだった。
「……あんさん、また迅くならはりましたなあ」
「お褒めに預かって光栄だけぇ―――次、同じことしたら、今度は一瞬でこん首掻き切ってやるっちゃよ」
トットリの視線とその口調は、それまでの彼と同一人物とすら思えないほどの明確な殺意を含んでおり。
アラシヤマはホールドアップの姿勢をとり、珍しく素直に頷いた。
「ないと思いますけど……肝に銘じときますわ」
その返答に、ようやく殺気を緩めた(それでも完全に消えたわけではなかったが)トットリは短い刃物を柄の部分でくるりと回して、腰元の隠しに収める。アラシヤマも胸元まで上げていた手の片方を下ろし、もう片方で、かり、と自分の頬の辺りを掻いた。
「……――なんちゅうか、すんまへん、な」
「謝るくらいだったらすなや、こンだらずがァ」
衆目の手前、とりわけミヤギの前ということもありあの場では穏便に済ましたが、やはり内心は殺したいほど腸が煮えくり返っていたと言うことだろう。確かに、あれだけの侮辱を受けておいて穏やかにコトを収めるほど、この忍者の気質は柔弱ではないことは知っている。どこか違和感を、感じてはいたのだ。親友を巻き込むまいと、ここまで堪えていた忍耐力にむしろ感心する。
まあ自分が同じ立場でも、きっと相手を殺したくなるだろうな、とまるで他人事のように思った。
「他人のストーカー行為の手伝い、勝手にさせられるほど不愉快なことはないわいや」
吐き捨てるように言うその目に、先ほどの明るい表情は欠片も見えない。
「ストーカー、て。ほんのちょっと度がすぎた冗談どすやろ」
「サカリのついた野犬みたいなカオして、何言うとんだぁか」
「口が悪おすなぁ……。あの頭に金の花咲かせた飼い主はんが聞いたら仰天しますえ」
「僕かて、相手見て言うとる。あと、ミヤギ君とのことを揶揄すんのはやめぃや」
「別に、誰とは言うてまへんけど」
だまれ、とでも言うように、トットリは片眉を上げたままアラシヤマを睨みつける。こういった表情を、きっとあの金髪の美形は一生目にすることなどないのだろうな、とアラシヤマは内心でほんの少しだけおかしく思った。
「僕が言いたいことは、それだけだっちゃ……やっぱり、アラシヤマ連れてくんじゃなかったわや」
随分時間無駄にしたけぇ、はや戻らんと、と呟きながらトットリはアラシヤマを残して歩き出す。
「こげに自己中な男に好かれてるシンタローには、心底同情するわいや」
その去り際の皮肉には珍しく毒を返すことなく、アラシヤマはただ苦く笑った。
***
昼間にも訪れた、団でも最高クラスに厳重なセキュリティーが施された扉の前までは、あと十歩。
団内の各所で回るサーチライトが窓ガラス越しに入り込み、ゆるやかに鈍色の廊下を舐める。
過ぎ去った後にはまた、非常灯のみがかろうじて足元を照らす灰色の闇。
あと五歩。
コツ、とゆっくり床を打つ軍靴の音は、闇とは確かに相容れないものとして、硬質な響きを残す。
三歩。
二歩
一歩。
ノックはあえてせずに、扉に片手を置いて、アラシヤマはその部屋の主に声をかけた。
「―――総帥」
低く抑えた声は、それでも中にいる彼には届いたはずだ。扉の向こうで、微かに気配が揺らいだ気がした。
いつものようにすぐに扉が開かないのは、予想の内だった。それでもアラシヤマは訥々と、言葉をつなぐ。
「昼間のこと、謝ろう思いましてん」
「……謝るんなら、トットリにだろ」
部屋の内側から、シンタローの苦りきったような声が返された。なんとか声だけは聞けた、とそれだけのことにアラシヤマは酷く安堵する。
「総帥の前で、無礼な真似しましたわ。……廊下でする話やあらしまへんさかい、中に入れてもらえまへんやろか」
「……」
シンタローからの返事はない。そのまま、二十秒近くが経過した。その沈黙から感じられるのは、躊躇いと戸惑い。それと―――怒りだろうか。
やはり無理か、とアラシヤマが思いかけた時、シュン、と銀色に鈍く光る扉が開いた。振り返ろうとしたアラシヤマがそのままそこに体を滑り込ませると、扉は即座に閉められる。
室内には電灯がつけられていなかった。部屋の再奥、執務机の背後の窓から入る月明かりだけで、シンタローの外形がようやくわかる。
非常灯が灯されていた廊下よりなお暗い室内の闇に目が慣れるまで、ちょうど光源を背にしたシンタローの表情はほとんど見えなかった。
「シンタロー、はん」
「……近寄んな。そこから一ミリでも近づいたら、殺す」
執務机の向こう側から、入室した男を睨みつけつつ、シンタローは抑揚のない口調で言う。
アラシヤマは扉の前から一歩も動かずに、俯きがちにその場で佇んでいる。鬱陶しい黒髪に顔の半分を覆われたその表情も、シンタローからはわからない。
互いに言葉を発すことの出来ない張り詰めた空気が部屋中に充満する。その沈黙を破ったのは、ハッというシンタローの口先だけの嗤いだった。頑丈だが冷たい質感の机の上で、ほどよく日に灼けた長い指をゆっくりと組みかえる。
「なに、アレ。俺に、嫉妬でもさせようと思ったワケ?」
残念だったなあ、ただ気色悪ぃだけだったぜ、と剣呑な目つきを崩さずに口元だけで笑みを象る。その唇に刻まれているのは、失笑でも苦笑でもなく、冷笑。
そんなシンタローの様子に、アラシヤマは相変わらず淡々と言葉を紡いだ。
「そんなこと……考えてもみまへんどしたわ」
そう、本当にそんなことを考えていたわけではないのだ、とアラシヤマは思う。もっと言えば、何かを意図して行ったことですらなかった。そんなことを考えている余裕なんて、あの時の自分には、きっとなかった。
あえて言うならば、ただ。
「ただ、ほんのちょっとでも……あんさんが」
キンタローのことも、トットリとミヤギのことも、何もかもがどうでもよくて。
「わてのこと、見てくれはるかなあ、思うて」
それを口にした瞬間、薄々わかっていたことながら、あまりの情けなさに自分でも驚いた。
それはシンタローも同様だったようで、扉の前で佇む男から告げられた信じがたいほど馬鹿げた理由に、呆けたような表情を見せる。
再び満ちる沈黙。
シンタローはどうして灯りをつけようとしないのだろう、とアラシヤマは今更に思う。だが、それはきっと、自分にとってはありがたいことなのだろうということも、なんとなく理解していた。
月明かりに慣れた目はほとんど普段と変わりないほどに物の形を捉えはじめているが、間に距離を残す人物の表情の陰影までは読み取れない。きっとお互いにそんなものは、認めたくないと思っている。
「―――は、ハハ」
そして、からからに渇いたシンタローの喉から、漏れたのは笑い声。それを、シンタローはまるで自分のものではないかのように感じた。
「それで、アレかよ」
本当に、この男の思考回路は一体どうなっているのだろうとシンタローは思う。全くもって理解できない。この先も理解したいとも、できるとも思えない。
それでいて。それだけのことをしておきながら。今きっと、この男は自分が傷つけられたような顔をしているのだ。勝手に不可解な行動をして、人を不快にさせておきながら、全く鉄面皮にもほどがある。
組んだ手の甲に額を押し当てたまま、シンタローはくっくっと肩を震わせる。
「アラシヤマ」
その呼びかけは、シンタロー自身の耳にもやけに冷たく届いた。
自分は嗜虐的になっているのか、それとも被虐的になっているのか。どうしてアラシヤマを部屋に入れてしまったんだろう。どうしていつも、最後のところで突き放しきれないのだろう。受け入れるつもりなど、さらさらないのに。
自分の一言を受けるたび、アラシヤマがほとんど苦痛を堪えるように眉根を寄せる。そんな様子など、見えなくてもシンタローには手にとるようにわかる。
「お前のソレは、親友とかそういうんじゃ、ねえ」
その言葉に、男がびくりとその身を慄わせた気配が、粘度でも持っているかのような室内の空気を通して伝わってきた。
そこにはいつもある、傲岸不遜とも呼べるふてぶてしさは微塵もなくて。それでも、シンタローはなおも言葉を止めようとはしなかった。――怒りたいのか、泣き喚いてやりたいのか、それとも目一杯殴りつけてでもやりたいのか。それすらもわからないのに、ただ身の内に渦巻く静かな激情は、少なくとも理性で止められるようなものではなく。
「てめーの、ソレは」
「言わんといて」
光の届かないそこに佇む、アラシヤマの表情は相変わらず見えない。ただ、喘ぐような低声で、シンタローの言葉のその先を遮る。
「言わんといて……」
そしてアラシヤマは片手で、表に出している半顔を覆う。節の目立つ長い指は、もしかしたらそのとき震えていたかもしれない。
それはきっととても無駄な抵抗で。わかってはいたのだが、せずにはいられなかったのだ。
わてな、ただ、と蚊の鳴くような声を絞り出して。
「あんさんのそばにいたいんや、シンタロー」
呟いたその言葉は、あまりにも絶望的に濃藍の中に吸い込まれた。
了
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Si on juge de l'amour par la plupart de ses effets,
il ressemble plus a la haine qu'a l'amitie.
(恋はその作用の大部分から判断すると、友情よりも憎悪に似ている)
『ラ・ロシュフコー箴言集』より
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ところどころに赤茶けた土を露出している草原を挟んで、三十メートルほど前方。一面にどこまでも広がるのは、背の高い花畑。細い鮮やかな緑の葉の上には、可憐な紅の花が今が盛りと咲き誇っている。人の身長ほどもあるそれらの群れは、時折吹く風になびいて潮騒のような音を立てる。
草原の上には、果ての見えない瑠璃色の空。ところどころに白い雲が一条の線を引いている。
(――風景としてみれば、綺麗なモンどすな)
目の前の景色をそう評して、濃紫色の中国服にも似た衣服を身に着けた男は、右手の人差し指をぺろりと舐める。そうして風に翳し、風向きを再度確認。予想と違わず、先刻とわずかも変わってはいない。雲の流れ方から見ても、これから二、三時間は同じであろうと思われた。
どちらにせよこの花畑から半径二キロメートル以内に人がいないことは事前に調査済みだ。捕縛しておいた、総勢たった三名の警邏兵は多少手荒な真似をして眠らせた後、薬を嗅がせて完全に意識を失わせてある。浅く掘った地面の底にころがしておけば、煙を被る可能性はまずなかった。それら全てのことを先の二十分で済ませたアラシヤマは、もう一度、赤い海原に目を向ける。
「あんさんら自身に、罪はあらしまへんのやけど―――堪忍、な」
その景色は、きっとすぐにアラシヤマの記憶からは消え去ってしまうけれど。それでも確かに、今この時点でのそのコントラストは、美しいと感じたので。
だが感傷に浸るのはほんの数秒。鮮やかな色彩を眼裏に焼き付けるように軽く瞑った眼を、ゆっくりと開き、すう、と右手を上げる。
「平等院鳳凰堂、極楽鳥の舞」
体の内から生まれた炎は肘から指先を螺旋を描くように駆け抜け、前方の花畑を一瞬にして飲み込んだ。
『ポロメリア』
遠方で、光点が見えた。と思うとその光は段々とその色を鮮明にしつつ、凄まじい勢いで周囲を侵食する。極力煙を出さないように温度を上げたらしい白色に近い黄金色の炎は、貪欲な爬虫類の舌を思わせる獰猛さで。ここからだと真紅の絨毯のように見える花畑を嘗め、呑み込んでいく。
(―――思ったより、早かったな)
発火地点から二キロメートルほど離れた山中の、裾野に程近いところ。鬱蒼と茂る木々の枝を日よけ代わりに寝転んでいたシンタローは、光点が発生したことを目認して、側に置いておいた双眼鏡を手に取った。研究課のグンマがこのたび開発したというこの双眼鏡はなかなかに優秀で、二キロメートルくらいの距離であれば人影程度まで目視できる。だが、草原の付近に人間らしき形は見えなかった。炎を放った主は既にこちらに向かって撤収してきているらしい。
特に連絡もなかったということは、思わぬアクシデントなどもなかったということだろう。シンタローはイヤホン型の衛星通信機のスイッチを入れる。
「……ああ、オレだ。任務は無事終了。敵味方とも死傷者ゼロ。煙も思ったほど出てねぇから、準備が出来次第ヘリをこっちに向かわせてくれ」
了解致しました、という電波を通した本部通信兵の硬質な声を耳にして、回線はプツリと途切れる。それだけの作業を済ませて、シンタローはまた森の中に寝転んだ。
遠くから獣が低く唸るような音が聞こえる。それが風の声なのか、それとも消え行く草木の悲鳴なのかはシンタローにはわからなかったが、この森の中はとりあえず平和だ。土地の持ち主がその炎に気付き対応するにはもうしばらくの時間がかかるだろうし、万が一警邏兵がこの山の中にも潜んでいたとしても、半径百メートル以内にはおよそ考えられる限りの罠を張り巡らしてある。
チチ、とすぐそばで小鳥の囀る声が聞こえる。
ほんの二キロ先では、地獄の業火もかくやというほどの炎が草花を嘗め尽くしているというのに。ここでは、求愛を交わす小鳥の声すらも聞こえるのだ。だが結局自然とはそういうものかもしれない。さわさわと風に揺れる梢の隙間から見える陽光を手首で遮って、シンタローは軽く眼を閉じる。
それから二十分ほどが経過した頃だろうか、わざとらしくがさがさと草を踏み分ける音がしたかと思うと、この場には不似合いな(否、ある意味では非常に似合った)能天気な声が頭上から降ってきた。
「シンタローはぁんvただいまどすえ~」
「……お前、任務中にどすえはねーだろ」
瞼を覆っていた手をどけて寝転んだまま呆れたようにそう言ってやれば、アラシヤマは苦笑を返し、おもむろにすっと背筋を伸ばして指をそろえた手を四十五度の角度で額にあてる。
「ガンマ団団員アラシヤマ、帰還致しました。任務遂行時間は15:42。完了時間は現在より約十分後と思われます。只今より撤収作業に……」
「やっぱヤメロ」
制服姿ですらないアラシヤマの、その格好と姿勢のあまりの似合わなさに、皆まで言わせず手を振ってシンタローが言葉を遮った。
「予想以上にキモかった」
「俺様酷ッ」
「撤収っつってもここでただヘリ待ってるだけだしな」
「ま、そういうことどすな」
さらりと言うその声音で、先ほどの芝居がかった仕草は明らかに自分をからかったものだということがわかる。面白くねえな、と思って少し口を尖らせながら、シンタローはアラシヤマを睨みつけた。もっとも寝転んでいるところを見下ろされているこの状況では、それは思うような効果は発揮しなかっただろうが。
「ちゃんと、うまくやったんだろ?」
「もちろんどすえーv命令どおり、ガンマ団が関おうとることもばらしとりまへん」
アラシヤマがそれまでの経緯をごく簡単にかいつまんで説明すると、シンタローは表情も変えずにそっか、ごくろーさんだったな、と口にした。そんな素っ気無いシンタローの対応などどこ吹く風で、アラシヤマの顔は眼に見えて嬉しそうだ。
「に、しても。なんだよ、いつもにも増したその異常な浮かれっぷりは」
「そらもう、あんさんとの二人任務言うだけで、わてはウッキウキどすえ~~♪」
「……お前、煙吸い込んでんじゃねーの」
「ややわぁ、風向きの計算は、ちゃぁんとしとりましたやろ?」
薬の効果ナシでここまでなれるのもある意味才能だよな、とは心の中だけで呟き、シンタローは表面上はただうんざりしたような目つきでアラシヤマを見るにとどめた。
「ちなみに、二人任務でもねーよ。今回の任務に関しては、オレは完璧なオブザーバーだからな。単なる見届け役だ」
「ほな、見届け役としての評価は、いかがどす?」
アラシヤマの問いは直截的だ。シンタローはしばらく考え込むと、やがて前髪の辺りをがしがしと掻いて、言った。
「まあ、ナパーム弾いきなりぶち込むよりゃあ、大分マシだな……」
その身もふたもない言い方に、だがアラシヤマは満足したように笑う。
「あんさんも、ようやっとわての使い方、わこてきはったちゅうことどすな」
そして両腕を枕代わりにしているシンタローの横に腰を下ろした。やや膝を立て気味にした胡坐のような座り方で、交差させた両足首を両手で掴む。鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌は変わらない。
「直接的に、人が関わらへん仕事は気楽でええどすわ」
「まぁな……」
「この後の『人道支援』やらなんやら考えると頭痛ぅなりますけど」
「言うナ」
そんなことは言われなくても百も承知で。ただできれば、せめて今くらいは考えたくはないことだった。
炎によって失われた花畑は、確かに悪ではあったけれど、それも許しがたいほどの害悪を撒き散らしてきた存在ではあったけれど、本当に憎むべきは育成者ではなくそれを命じ、売りさばいてきた人間どもだ。花を育てることによってようやく日々を生き繋いできた人々もいる。そういった人々へのフォローは、総帥の代替わりに伴い大転換を果たしたガンマ団では仕事の内だった。
寝転んだままごそごそと胸ポケットを探り、シンタローは潰れかけた煙草の箱を取り出す。残りは三本。まあ迎えが来るまでなら足りるだろうと考えて、一本を口にはさむ。
「寝煙草は、行儀がよろしゅうないどすえ」
「お前の顔見ると喫いたくなんだよ、なぜか」
やっぱストレスか?と口元に煙草を咥えたまま真顔で言ってやると、人のこといつもライター代わりにしすぎやからや、と返された。それでも渋々といった様子でアラシヤマがシンタローの唇の先に指先を持っていく。ボッという小さな音と共に、ほのかに甘い薫りと紫煙が立ち上った。
「山火事は勘弁しとくれやす。わては火ぃつけるのは得意やけど、消すほうはでけへんさかい」
「フーン、それって……」
お前の性格そのまんまだナ、と言いかけたが、そうすると言外に余計な意味まで含まれてしまいそうなことに気付き、シンタローはそれ以上言葉を続けなかった。
「ちなみに、迎えはいつ頃来る予定なんどすか?」
「お前が来る二十分くらい前に本部に連絡とっといたから、あともう十分ちょいてとこか」
「残念どすなあ、せっかく二人っきりになれましたんに」
「オレは一刻も一分も一秒も早くこの状況から抜け出したい」
甘い響きを持たせようとするアラシヤマの言葉を一蹴して、シンタローはふぅ、と煙を吐く。上空のほうで長く尾を引くような鳥の鳴き声が聞こえた。
濃緑の翳をその顔に受けながら、シンタローはぼそりと呟く。
「―――あとどんくらい焼けば、終わるんだろうな」
それが今回の一件のみを指しているのではないということは、さすがに聞き返さずともわかった。苦笑しながら、アラシヤマは未だ燃え盛っている遠方の草原の方向を見遣る。
「さあ……。少なくとも、全部は難しいどっしゃろな」
世界各地に散らばる、麻薬の栽培畑。合成薬物がこれだけ蔓延る現代になっても、古来からの麻薬が絶えることはない。阿片、大麻、コカ。マフィアやギャングといった集団犯罪組織や時には国家の重要な財源となるそれらが、どれだけの地域に広がっているのか正確に把握することはおそらく不可能だろう。
「お前、ここにこんなデカいケシ畑があるって知ってたか?」
「シンジケートからの情報としては、一応。せやけど、同じくらいの規模のもんが他にどれくらいあるのかなんて、想像もつきまへんわ」
「こういうときばっかは、腹が立つくらい広いんだよな、この世界も」
言いながら、二本目の煙草を咥えた。アラシヤマは今度は、先ほどのように指先をそっと近づけるやり方ではなく、やや投げやりにシンタローの目の前でぱちんと指を鳴らすように二本の指を合わせて火を点ける。その仕草には、おそらくあの島から戻って、すっかりヘビースモーカーになったシンタローへの、微かな非難が含まれている。自分とて時折喫っているくせに、シンタローのそれにいい顔はしないのだ。
「世界、か……そーいやお前、昔、やたら言ってたな。世界が欲しいって」
「よう覚えとりまんな、そないなこと」
「あんだけ散々聞かされたら、嫌でも覚えんだろ」
そう、この男は士官学校の頃からやたら上昇志向が強く、それだけでなく目指すところが途方もなかった。せめてマジックの後釜を狙って団を牛耳るとか、それならまだわかるのだ。だが一足飛びに世界とは、あまりにも発想が突飛ではないか。
しかしそんなシンタローの疑問など、考えるだけ無駄と思わせるほどの淡白さでアラシヤマはけろりと言う。
「わてな、世界くらいしか欲しいもんなかったんどすわ」
「……。欲深なのか、そうじゃねーのか、よくわかんねえな、ソレ」
中空に目をやったまま、なんとも微妙な表情でシンタローは口元を歪める。そうどすなあ、と独言のように答えながら、あの頃の自分も、強さや名声といったものに対する執着は人並以上に強かったとアラシヤマは思い出す。
ただ、何が欲しいのか、と問われて即答できる答えを自分は持っていなかった。
だから、とりあえず世界が欲しいと言ってみた。目標があればきっと強くなれると思っていたから。それだけのこと。
「ただ……なんとのう、世界が手に入れば、大事なもんはぜぇんぶ傍近うに置いておけると思うとりましたな」
「大事なモン?そんなもんあったわけ?お前に」
その質問には答えずに、アラシヤマは薄く笑う。今となっては、あの頃の自分が欲したものはただ一つだったのだと理解している。しかも、まるで駄々をこねる子供のようにソレを渇望していた。ただ、その唯一の欲求を明確な言葉で表現できるほど、自分は物を知らなかったのだろう。それはきっと、自分にとって(そして、彼の人にとっても)幸運なことだったに違いない。
「―――今は、どうなんだよ?」
シンタローの問いかけに、アラシヤマは知らず浸っていた回想から現実に引き戻される。そして、相変わらず口元に笑みを浮かべたまま答えた。
「欲しいどすなあ、世界」
躊躇いもせず言い切られたその返答は、シンタローにとって予想外のものだった。今更アラシヤマがガンマ団総帥の座を狙っているなどとは、どう考えても思えなかったからだ。
その思考が表面に現れて怪訝そうに眉を顰めたシンタローに、覆いかぶさるようにアラシヤマは上体をかがめる。
「せやけど、今は」
反面を覆う長い前髪が、シンタローの頬にさらりと落ちる。シンタローの口元から半分程度になった煙草を取り上げて。
「世界手にしてあの棟の最上階に座る、紅い服の男はんが、もっと、欲しい」
代わりに落としたのは、触れるだけの口付け。
そして手にした煙草はしかめっ面にも隠し切れない朱を上した総帥の唇には戻さず、自分ですぅ、と一息吸って、指先で消した。
「……オレには、親父と違って、世界征服の野望なんてねーぞ」
「武力で制圧するばかりが征服やおまへんでっしゃろ。こないな各地の小競り合いにも、国家間の戦争にも、ガンマ団が出張ればどうしょうもない……そないな状況になれば、世界はあんさんのもんも同然やないどすか」
「人殺しもしない、正義のオシオキ軍団がか?お前、時々突拍子もねーこと言いだすよな……」
そうシンタローが言い終えるのとほぼ同時に、バラバラと雹でも降るような音が遠方から段々と近づいてくるのが耳に入ってきた。行くぞ、とシンタローが立ち上がり、ヘリとの合流場所として指定しておいた草原へと移動を始める。
開けた草原にはヘリを降ろせるだけの広さはあった。シンタローとアラシヤマの二人を確認し低い位置で八の字を描くように飛び続けるヘリに、風圧に長い黒髪をなびかせたシンタローが通信機で操縦士と何かを相談している。やがてヘリはホバリングを始め、上から縄梯子が下ろされた。どうせ二人とも軽装だし、着陸させる時間が惜しいからいいよな、とシンタローは風に弄る髪を抑えながらアラシヤマを振り返る。もとより否やもなかった。まずシンタローが梯子に足を掛け、アラシヤマが後に続く。
二人が梯子の半ばまで上がったところで、ヘリは上昇を始めた。眼下に見える地上の炎はほとんど燻るばかりになっていたが、それと入れ替わるように燃え立つような色に染まっていたのは、空。
火焔のような紅の空にオレンジ色の雲がたなびいている。
「―――わても、夢見とるんどすわ」
「…ん?なんか言ったか?」
耳を劈くようなプロペラ音にアラシヤマの呟きはかき消されて。振り向いて問い返したシンタローに、なあんもどすー、とアラシヤマは声を張り上げる。
「綺麗どすなあ、夕焼け」
「まぁな―――ちょっと、思い出すな」
「せいぜい、約束破らんようにお気張りやす」
「言われるまでもねーよ、馬鹿」
不敵に笑ったシンタローの表情に、アラシヤマは眩しいものでも見るかのようにほんのわずか、目を細めた。
夢物語は、叶うと信じ続けることこそが何よりの楽しみなのだと、そんな、かつての自分ならば一笑に付していたようなことを本気で考えていることが、少しおかしくて。けれどその思いは、彼の笑顔を見るたびに確信に変わっていくから。
せめて今だけでも、彼を中心に据えたその未来を夢見ることができる自分は、この上ない幸せ者に違いないと、強く思う。
赤と黄色、橙で染め上げられた空の彼方では、真白い太陽が、並ぶ山々の向こう側に落ちようとしている。
遥か遠い稜線は、赤と見事な対比を示す目の覚めるような濃紺で縁取られていて。それはまるで漆黒の闇の到来を、ほんの少しだけ留めているように、アラシヤマには見えた。
了
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Coccoのベスト盤2枚目は
1、焼け野が原、2、ポロメリア、3、あなたへの月となっていて
矢島は学生の頃この並びがとても好きでした。
頼んでいた機械が完成したとの連絡を受け研究課を訪れたアラシヤマは、先刻から部屋の一隅にある椅子に腰を掛けて、ぼんやりと目の前の博士の行動を眺めている。
ピンクのリボンに淡い金髪をまとめた博士の、常に紙一重の奇矯な振る舞いには慣れている。傍目にどう映ろうと、きっと彼の行動には彼なりの根拠があるのだろう。このつま先のとがった靴にぎざぎざつきのマント、右手に握られている星が先端に付けられた棒などにも―――きっと。
そんなアラシヤマの思惑など知る由もなく、グンマはその格好のまま、歌でも歌いだしそうな上機嫌だった。ひらひらとマントを翻しつつ、部屋の一角から三十センチ四方の箱を取り出してきて、マニュアルと共にそれをアラシヤマに渡し。
「はい、これが頼まれてた新型暗視スコープ。で、ね」
手に持つ星付きの棒をえいっと一振りして、にっこりと笑う。
「アラシヤマ、とりっく・おあ・とりーと」
「へぇ?」
「て、わかんない?んーと、じゃあ、お菓子ちょうだい」
仮装姿の二十五歳は無邪気に両手を伸ばし、思わず引き込まれそうになるほどつぶらな瞳でこちらをじっと見つめてくる。アラシヤマはそれに渋い顔を返し、小さくため息を一つ吐いた。
「あんさん……ええ年した成人男子がいつもポケットの中に菓子類詰め込んでる思とったら大間違いどすえ」
「えぇーー。だって高松もキンちゃんも、いっつも持ってるのに……」
それはあんさん仕様や、犬用クッキーとおんなじや…と内心では思ったがもちろん口にはしないアラシヤマだった。グンマは唇を尖らせて不満げな表情を隠そうともせず、上目遣いにアラシヤマを見る。
「それにしても、今日くらいはさぁ……」
「今日が、どうかしはったんどすか?あんさんはなんやらけったいな格好してはりますし。そのどこぞの魔女っ子みたいな格好、ドクターが用意しはったもんどっしゃろ」
「すごーい、なんでわかるの」
「そのやたら短いギリギリのキュロットの裾が何よりの証拠や……」
げんなりとその折り目正しい短パンの裾に目をやると、何を勘違いしたのかグンマはくるり、とその場で回ってみせた。そうした仕草が正しく似合ってしまうのが、この博士の怖いところでもある。
「かわいいでしょー。でもアラシヤマ、今日が何の日かほんとに知らないの?だって士官学校出だったら、一年のときに、学校行事で」
「士官学校……」
その単語を耳にした瞬間、背後に人魂が二つ三つ見えそうなほどアラシヤマの気配が一気に重くなる。
「わての一年生はトガワ君との語り合いと師匠の鬼のような再訓練で終わりましたさかいな……学校行事……フフ……ええ響きどすなあ……」
(うわあー言っちゃいけないこと言っちゃったよ……)とさすがのグンマも笑顔のまま表情を強張らした。
「……うん、でも、お菓子くれなかったから、アラシヤマはTrick決定」
「は?」
「ううん、なんでもない。ただ、最近は欧米以外でも世界的な行事になりつつあるんだからさ。アラシヤマも一応知っておいたほうがいいと思うんだ」
「はぁ……」
「今日はハロウィンて言ってね、キリスト教のお祭りなんだよ。お化けの格好して、それで大事な人にTrick or Treatって言うの」
にこにこと微笑みながら話し続けるグンマ。はじめはいつものようにほとんど聞き流していたアラシヤマだが、世界の常識と断言されたその行事を知らないというのも問題な気がして、つい耳を傾けてしまう。そして、
「その合言葉の意訳はね、『いたずらさせるか――もしくは「あなた」をください』v」
その発言を耳にした途端、ガタッ、とそれまで腰掛けていた椅子を蹴倒さんばかりに勢いよく立ち上がった。
「な、なな、なんどすってえええ?!」
「バレンタインデーのちょっと大人版、てトコかな。まあ、そのフレーズに含ませる意味の深さは人それぞれだけど……アラシヤマの言う『いい年』の人だったら、察してねって話だよね?」
「そっ……そないな行事があらはったなんて……やっぱりラテンの血が入っとる人たちの考えは違いますな……アラシヤマ一生の不覚やわ……ッ」
冷静に考えれば初めにグンマがアラシヤマに対してそれを言っている時点で、グンマの説明など大概嘘だとわかるはずなのだが。完全に頭に血が上っているアラシヤマはそんなことにすら気付かない。
グンマの言葉に一度はがくり、と肩を落としたアラシヤマだったが、おそらく床のキズか何かに対して、何かをぶつぶつと呟いていたかと思うと、急にがばりと起き上がり。グンマの両手をぐっと握った。
「グンマはん、教えてくれはってありがとさんどす。ほなわて、これから今すぐにでもわての王子様のところに行ってきますわ!」
「え、シンちゃんとこ?」
「当たり前どすッ。心友のシンタローはん以外に、わてのこの熱い願いを聞いてほしいお人はおりまへん!」
「あー…うん、がんばってね」
そしてまさに猛進といった勢いで総帥室に向かって走り出す。
その後姿を見ながら
(あ、しまった。これってシンちゃんにとってのTrickになっちゃうかも……)
そんなことにふと考えが至ったグンマだったが、持ち前の前向きさで、ま、いっか、と思い。後も見ないで走り去るアラシヤマを笑顔で手を振りながら見送った。
『TRICKSY』
研究課を出て中庭に出ると、太陽はすでにかなり西のほうに傾いている。時刻は五時を回ったというところだろうか。総帥室へとわき目も振らず突進するアラシヤマだったが、本部棟の地階に入った瞬間、前方を歩いている童顔忍者と顔だけ書道家の姿が目に入り、歩く速さをやや落とした。
どれほど忙しかろうと周りの状況が緊迫していようと、この二人は互いがそばにさえいればいつも楽しそうに二人きりの世界を作り出している。妬み半分嫉み三分の一興味六分の一でその様子をじっとりとした目線で追いかけていれば、ふとミヤギの明るい声が耳に入った。
「そだ。トットリ、Trick or Treatだべ!」
その一言に、アラシヤマの全身のセンサーが一斉にそちらを向く。
一体この自称ベストフレンド他称バカップルは今日という日をどのように過ごすのか。これまで培ってきた刺客技術の全てを駆使して二人の会話を盗み聞く。後姿からはよく確認できないが、ほんの少しだけ見えたトットリの横顔は、満開の笑みを浮かべていて。
「言われなくても、ちゃーんとわかってるっちゃよvでも今日は、夜が本番だわいや。だけぇ、ミヤギくん、仕事が終わったら僕ん部屋きて欲しいっちゃ」
「わかったべ。今年はどんなの用意してくれてっか、楽しみだべなあ……」
そうして二人して笑いさざめきながら、廊下の角を曲がっていった。
アラシヤマはと言えば、よろよろと壁に肩を預けると、目を血走らせて今の会話を反芻する。
(夜……夜が本番て……あんお人らナニこんな公共の場で堂々といかがわしい話しとるんーー?!)
そんなことを考えて貧血にでも陥りそうになっていたアラシヤマは、背後から寄ってきた気配にすら気付かずに。無防備だった背中を、バンッと思い切り叩かれる。
「どうしたアラシヤマ!こがぁなとこでうずくまって、気分でも悪いんかぁ」
廊下中に響き渡りそうな声で問いかけてきたのは、日本だったら確実に銃刀法違反で連行される長刀を引っさげたコート姿の大男。アラシヤマはひりひりと痛む背中を押さえながら振り返ると、極めて陰険な目つきで大男――コージをにらみつける。
「コージはん、あんさん気分悪い人間の背中、そないに遠慮なく叩きはったら倒れますえ。しかも相変わらず無駄に声でかいどすし……」
「はっはっはっ、周り気にして小声で喋るんはわしの性に合わんけんのう!」
まあ平気そうならええんじゃ、と人好きのする笑みを満面に浮かべながら言う。その笑顔を見るとさすがのアラシヤマも毒気を抜かれてしまい、仕方ないどすなあ、と苦笑した。
「ま、確かに小声で内気に喋るあんさんなんか目にした日には、熱出して寝込みそうどすしな…」
いつもの癖で皮肉を交えて言った台詞にも、コージはほうじゃろうほうじゃろう、と一人でうなずいている。だがそれから、ふと何かに気付いたように真面目な表情を作って、少しの間視線を中空に彷徨わせた。
「と、そうじゃ、アラシヤマ。なんじゃったかのぉ…ホレ、あれじゃ、あれ」
どうやら何かを思い出そうとしているらしい。アラシヤマは眉を顰めながら、小首をかしげるようにして二十センチ近い身長差のある男を見上げる。
あれでもないこれでもない、と珍しく悩んでいた大男は十五秒ほどしてからようやく目的のフレーズが浮かんだようで、そうそう、と言いながら、ぽん、と手を打った。そして、アラシヤマに向かってにっと笑う。
「Trick or Treat、じゃ」
「はいぃい?!」
目を丸くして直立不動の姿勢になったアラシヤマの途轍もない動揺など、よく言えばおおらかな、悪く言えばこの上なく大雑把なコージは全く気付かない。
ニヤニヤと笑いながら、自分よりいくらか細身の(とはいえ一般的に見ればかなり筋肉質な)アラシヤマの肩に手を回して、耳元で囁く。
「いくら吝嗇なぬしでも、今日くらいはええじゃろう……な?」
「な?て……」
それはコージにとってみればほんの軽い茶目っ気で、食べ物の一つでも貰えれば儲けもの、という考えでやったことでしかない。
だがアラシヤマは、表情を陰にするように俯きしばらく黙ったままでいて。それからやおら、ふ、ふふ、と不気味な笑い声をたててコージに組まれた肩を震えさせ始めたかと思うと、
「今日も明日も明後日も、あんさんにやれる日なんて未来永劫来んわボケェっ!」
「ほぉじゃらけえーーー!」
両手を掲げ、ごおっと全身から容赦ない炎を噴き出した。全くの不意打ちに勢いよく燃え上がらされた大男は、やがてぶすぶすと燻りつつ、ゆっくりと前方へ倒れる。ずうん、と響く鈍い音。周囲にいた一般団員は顔面を蒼白にさせながら、遠巻きにその様子を眺めていた。
だが事件を起こした当の火元は、そんな恐れおののいた団員たちの視線などものともせず。
コージはんまでわての美貌を狙うてはったとは、まったく油断も隙もあらへんわ、と制服についた煤を払いつつ、歩き出す。
な、なんでじゃあ……というコージの最後の力を振り絞った至極まっとうな抗議の呟きは、アラシヤマの耳には届かなかった。
***
総帥室のある階にエレベーターが到着する。ココまで来れば目的の人までは後もう少しだ。
だがそこには思いがけない伏兵が待ち構えていた。
廊下の向こう側から歩いてくるのは、おそらく今しがたシンタローの部屋から出てきたらしきキンタロー。顔を上気させ動悸息切れの状態にあるアラシヤマの姿を見るなり、その端正な顔をゆっくりと、しかし顕著に顰める。
顔を見たくのなんてお互い様どすえ、と思いながら鬼気迫る表情でアラシヤマは問いかけた。
「キンタロー!総帥は中にいはるんどすな」
その質問にどう答えたものかと逡巡しつつ、キンタローはほとんど無意識の防衛本能というか、シンタローへの世話意識というかで、そのしっかりとした体躯で総帥室への道をふさいでいた。
「いることはいるが……」
「ほな、さっさとどきなはれ。わてはシンタローはんに用があるんどす」
「……今、シンタローは機嫌が悪い。更にこれまでの統計を見る限り、お前の顔を見てアイツの機嫌が悪くなることはあれ、良くなることはない。一刻を争うような用事でなければ後に……」
「一刻、一秒を争う用事どす。この上なく深刻な、デッドオアアライブゆう問題どす!」
そのあまりの気迫に押されてか、さすがのキンタローも、む……と言葉を呑み込んでしまい。仕方なく体を開いてアラシヤマに総帥室への道を開ける。
その意外とあっさりとした反応にほんの少しだけ違和感を感じつつも、アラシヤマはキンタローの脇をすり抜け、総帥室の前までたどり着いた。
急ぎ足でどこかへ向かうキンタローの背がエレベーターの中に消えていったのを確認してから、誰もいなくなった廊下で、二、三度ほど深呼吸を繰り返し。逸る鼓動を必死で抑えつつ、アラシヤマは総帥室の扉をノックする。
「シンタローはん、ア、アラシヤマどす」
少しの間の何かを我慢しているような沈黙の後(これはアラシヤマが総帥室を訪れたときは毎度のことだ)、げんなりしたような声で、入れ、とシンタローが答えた。
この上なく性能のいい換気装置をつけておきながら、室内には仄かに煙草の匂いがする。飾り気はないが豪奢な部屋で、目当ての紅い服の総帥は、何故かふてくされたような表情をしながら、重厚な机の上に両手を組み合わせていた。
「なんや……ありましたん?シンタローはん」
機嫌損ねてはるいうのはキンタローの方便やなかったんかい、と心の中でそっと呟きながら、眉間に二重の皺を寄せているシンタローに、アラシヤマは問いかける。
だが予想通りというべきかシンタローから返されたのはギラリ、と効果音が聞こえてきそうなほど凶悪な視線で。
「なんでもねーよ。それよりなんだ、用件は。くだんねーことだったらブッ飛ばす」
「い、いや、その、あの、どすな」
意気込みだけは十分。シンタローの険悪な目つきにも慣れきっている。だが、いざ本題を口に出そうとすると緊張が先立って、舌が強張ってしまうアラシヤマだった。
あかん、リラックスやアラシヤマ。冗談ぽく言ってしもたらええやないどすの。このチャンス逃したらあと一年待たなあかんのやで。シンタローはんをトガワくんやと思って勇気を出すんや――とシンタローが聞いたら眼魔砲で即滅されそうなことを思いつつ、冷たい汗をだらだらと流しながら荒い呼吸を繰り返す。
一方シンタローはといえば、キンタローの言うとおり、またアラシヤマが見て取ったとおり、いつも以上に不機嫌だった。よほど心にゆとりがあるときでなければ(そしてそんな日は一年に二日とないのだが)まず見たくない顔の唐突な来訪もさることながら、今日は昼に急なネット会議が入ってしまったため、昼食をとり損ねたのだ。
しかも、そういう日に限って朝食すら抜いて慌てて執務室に来ていたという経緯がある。立て続けに飛び込んでくる突発事項に次ぐ突発事項で、秘書に頼んで簡単なものを買ってきてもらう暇すらなかった。やっと先ほどたまたま打ち合わせのために訪れていたキンタローが今日は比較的手がすいていると言ったので、好意に甘えて、急ぎで何か軽食を買ってきてもらうよう頼んだばかりである。
そこにのこのこと現れたのが、常を超えて挙動不審極まりないアラシヤマだったというわけだ。
空きっ腹と苛立つ存在の両方を抱えて上体を机の上に突っ伏すと、片隅においてある多機能電子時計の緑の文字盤が目に入った。その日付を見て、ああそうか、今日はあの日だったかとシンタローは思い出す。
「おい、アラシヤマ」
「ななな、なんどす?」
明らかにいつも以上に奇怪な動きを見せるアラシヤマに目を眇めながらも、シンタローは机の上に両腕と首を放り出したまま言葉を投げかける。
「Trick or Treat」
とりあえず、小腹を満たせるものならなんでもいい。年間行事にかこつけて下心つきのプレゼントを常に用意しているアラシヤマである。何かしら食物にありつけるかもしれないし、もしなかったら(あるいはそれがおたべだったら)トリックと称して眼魔砲の一発も食らわせて憂さ晴らしをしてやろう……。
そんなことをぼんやりと考えていたシンタローは、次の瞬間アラシヤマの表情を見て心底ぎょっとした。
これでもかというほど顔を真っ赤にしたアラシヤマは、口元に手の甲を当てたたまま、ぼたぼたと鼻血をたらしながらシンタローを見ているのだった。
「い、いたずらくらいまでどしたら……ああっ、でもやっぱりあきまへん!!シンタローはんの希望には出来る限り添いたいどすけど、せやけど、わてが下になるんだけは……でけまへんッッ」
「………は?」
そうして少女マンガの主人公よろしく大粒の涙をこぼしながら総帥室を出て行こうとする。ただ部屋から外に出る間際にふと足を止め、演出過剰に扉のフチに手を掛けると、ぼろぼろと泣きながら無理やりに笑顔を作ってシンタローを振り返り。
「ホンマは……わてが言いたかったんどすえ。シンタローはん……」
それだけを言うと、今にも倒れんばかりの哀愁を背負いつつ、ふらつく足取りで退出していった。
シンタローはその一連の行動の最初から最後まで、言葉もなくひたすらに怪訝な表情で眺めているしかなく。
「なんだぁ、アイツ…」と呆然と呟く総帥のその頭の上には、無数のクエスチョンマークが浮かんでいた。
***
コトの元凶となったグンマ博士は結局、予想通り高松とキンタローから贈られた甘い菓子の山に囲まれて非常に幸せな一日を過ごしたため、アラシヤマに言ったことなどは、きれいさっぱり頭から消え去っており。
とにかくその日以来、アラシヤマはケチで挙動不審でわけがわからない、という団内の定説が、よりいっそう深まったのであった。
Fin.
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アラシン祭に出させていただいていたものです。
いや、とにかく明るく軽い小説が書きたくて、ひたすらテンション上げて楽しみながら書きました。
跡地には目次ページから行けますので、もしまだの方いらしたら是非。
皆様方の素敵アラシンが拝見できますv
このページのみ背景はこちらのサイト様よりお借りしました。
闇の中に淡色の絵の具をほんの少し混ぜたような仄暗い廊下に、硬い革靴の音が響く。
重くもなく軽くもなく廊下に反響するその音は、機械的なまでに規則正しいリズムを刻む。それは歩く人間が特殊な訓練を受けている証拠だ。
等間隔に配置された非常灯の緑色の光だけが、白銀色の床にぼんやりと浮かぶ。
地下にあるこのフロアに外光を採り入れるための窓はない。もっとも窓があったところで、時刻はすでに午前二時を回っている。明るさはさして変わらないだろう。
『seawall』
大小合わせれば団内に無数にある資料室。地下三階の片隅にあるここは、利用する者すら滅多にいない。ほとんど無用と化しながら捨てることだけはできないという類の資料が積まれ、資料室とは名ばかりの単なる保管庫に、半ばなりつつある。
そこにあるのはデータベース化さえされないようなものばかりだった。かなりの昔、ほんの小さな依頼の事前調査で使用した写真資料や、それらに僅か関与した民間人の個人情報。旧態依然とした手書きの資料と紙焼きの写真が多く収められているのも、この部屋の特徴だ。そのせいか、ほぼオートメーション化が完了しているこの団内にあって、ここには古い図書館のような埃の匂いと、微かな湿気を帯びた空気がある。
アラシヤマがその部屋に向かっていたのは、そういった空気の中に無性に身を置きたい気分だったからだった。他と隔絶された空間で、一人考え事をしたいときなどに、こっそりと作っておいた合鍵を胸ポケットに忍ばせて、アラシヤマはここを訪れる。
しかし今、目的の部屋の前で鍵穴に鍵を差し込んだアラシヤマは、少なからぬ戸惑いを感じていた。
(鍵が、かかってへん……)
一応、名目上は資料室であるのだから利用者がいたとしてもありえない話ではない。しかし時刻が時刻であるし、それ以上にアラシヤマはここに自分以外の人間が訪れているのを見たことがなかった。
引き返そうか、と一瞬ためらってから、しかし一抹の好奇心がその背を押して。あまりに使われないため電動にすらなっていない扉を、音を立てないようにゆっくりと開ける。奥に並ぶ無数の書架と、その手前にあるいくつかのアルミ製の机。常ならば完全な闇に閉ざされているはずの室内は、今はほんの少しだけ明るい。片隅にあるひとつの卓上スタンドに、小さな光が点っている。
その灯りの元で古い机にうつ伏せに眠っているのは、団内にただ一人、真紅の制服をその身にまとう資格を持つ男だった。
(―――シンタローはん?!)
季節はもう十一月。いくら冷暖房の完備された団内とはいえ、日中に光が射しこまず人気もないこの資料室の、夜の冷え込みは上層階のそれとは比較にならない。そんな場所で、しかもこのように不自然な体勢で眠ったまま一夜を過ごせば、風邪をひくとまで行かなくとも、体に変調を来たすのは必至だろう。
なぜこんなところに、という疑問はとりあえず後回しにして、夢の中にいるときでさえ眉間に皺を寄せたままのその表情を若干痛ましく思いながらも、アラシヤマはシンタローを起こそうとした。だがその手が、シンタローの突っ伏している机の上に散乱している書類を目にした瞬間、ぴたりと止まる。
何十枚と散らばっている紙の、一番上に置かれていたのは、今日の日付の任務報告書。正しくはその中の最後の一ページ―――団員の戦死者リストだった。
(――― Total 27)
リストに羅列されているのは英字で書かれたフルネーム。それらの最後に引かれた一本の線の下にある無機質な二桁の数字は、シンタローが総帥になってからの新生ガンマ団では、初めて見る多さだった。
(F国の内乱制圧……そないに被害が出たんか……)
今朝方に全てを終えたその任務自体の結果は、成功。拠点をことごとく破壊され一つ残らず武器を押収された反政府組織は、もはや徒党を組める状況にはなく。政府はガンマ団の任務完了報告と同時に、反体制への勝利を宣言した。だがそれだけをとっても素直に喜べるほど、シンタローは割り切れていたわけではなかったのだろうと、アラシヤマは推測している。
当初、今回の任務を受けることを、シンタローは強硬に反対していた。理由は諸々あれど、そのもっとも大きなところは、正義の所在があまりに不明瞭だったからだ。それは、いまやこの団を支える最大の行動理念であるというのに。
更に言えば、おそらくシンタローが自らの感覚として共感していたのは、体制を打破する側だった。
一国内の同じ制度の中に生きる者でも、その環境に感じることは千差万別。そこに外部のものが介入しようとするとき、正当な理由として信じられるものは「民の声の多数決」という笑いたくなるほど「ロジカル」な統計しかない。
今回の件ではそれすらも明確ではなかった。就任以来徐々に張り付いていく絶対者としての鉄面皮の内側に、どうしても拭いきれない疑問が残っていたことを、アラシヤマは知っている。
シンタローは最後まで迷っていた。だがそれでもこの件を受けざるをえなかったのは、前総帥時代から残る数少ない幹部のほぼ全員が参入を強く主張したからだ。GDPこそ低いとはいえ莫大な天然資源を所有する一国を味方につけ多額の報酬を得るのと、迷いを残した判断で敵と為すのと、外交としてどちらが正しいというのか。その言葉に理論的な齟齬はなく、そして代替わりして日が浅いシンタローに、彼らを振り切る力はなかった。
成功しても失敗しても後味の悪いものだということは、依頼を受けたときからわかりきっていたことだったのに。
(しかも、その代償がコレ、ちゅうわけや)
名前の横には、ごく簡単な一文でその死亡状況が書かれている。アルファベット順に並べられたその名前の大多数の横に書かれた理由は同じだった。自らの正義を狂信的に遂行した人間一人が賭した命は、同じく自らの任務の正しさを信じる多くの団員の命を、一斉に、奪った。
内乱における犠牲者の数として、二十七というそれが多いのか少ないのかは評価が分かれるところだろう。戦場に身をおかない人間がテレビのニュースで、或いは新聞の活字でそれを目にすれば、そんなものかと納得も理解もすることなく、ただ思うだけの数字だ。そしてそれはまた、以前の体制に慣れきっていたアラシヤマや他の多数の団員にとっても、正直に言ってしまえばさほど大きな意味は持たない。
せやけど、こんお人はきっと、とアラシヤマは確信以上の思いを抱えながら、ほとんど憐れみにも近い眼差しでシンタローに目をやる。
(その数の重さと、その後ろにある悲しみのほんまの数を、ぜんぶ、背負い込む)
個人差はあれど、その根底に絶対的な冷酷さを持つ青の一族の中にあって、唯一それを徹底できない人間。
(正義の味方、標榜するなんて、ほんまは……)
その後に続く言葉を、アラシヤマはしかし思考の中ですら形にはしない。そんなことは、シンタローにだってきっと、嫌というほどわかりきっていることだ。
シンタローは机の上に突っ伏しながら、微動だにしない。よほど深い眠りについているのか、呼吸音すらほとんど聞こえなかった。馬鹿げたことだとは思いながら、アラシヤマはその生存を確認したい気分に駆られる。だが、彼が何を思ってここを訪れ、この墓碑にも似た紙を前に眠っているのかを思うと、安易に手を触れることも憚られるような気がして。
しばらくの間、室内の薄闇に溶け込むようにその場に佇む。そうしている内にふと肌寒さを感じ、とりあえず脱いだ上着を以前より少し痩せたように思える肩にそっと掛けた。
深まる冷え込みにもう一度、起こそうかどうかを考えながらシンタローの俯けられた顔を覗く。そのとき彼の顔に表れた、全く予想もしていなかった変化に、アラシヤマはぎくり、と前髪の隙間から覗いている片目を見開いた。
シンタローの眉根はもう顰められてはいなかった。そしてその代わりにその顔に現れたのは、頬に一筋の軌跡を残す、涙。
そして同時に、ようやくアラシヤマは気付いたのだ。卓上にあるシンタローの手の下に置かれている、一枚の写真の存在に。
それは、蒼の写真だった。どこまでも続く青い空と、その遥か彼方にたなびく真白な雲。そして太陽の日差しに水面を輝かせる、澄明な青い海の、写真。
たとえば海と題されたものであればどんな写真集にでも載っていそうなその一片の風景を、シンタローは大事に守るように、またどこか隠すように、その節の目立つ手の下に置いており。その仕草が彼の心の内を何より強く訴えているような気がして、アラシヤマはゆっくりと上げた片手で目を覆った。
(―――ああ、あんさんは)
閉じた瞼の裏に、あの溢れるほどの黄金色の陽光が甦る。
(ほんまは、そないに帰りたいんやな―――)
もしかすると、シンタローはあの島にたどり着くまで、その感覚すら知らなかったのかもしれない。たとえば自分が士官学校で、師と過ごしたあの山荘を苦しいほど思い焦がれたように。己の力ではどうすることもできない胸を灼かれるような切なさを、シンタローが知ったのは、あの少年を残し島を離れたときが、初めてだったのではないか。
愛する弟と引き離されていた辛さ、憤りは確かに彼の身を引き裂かんばかりであっただろうけれど、シンタローには常にマジックという「家族」がそばにいて。振り返ればそこにはいつでも、彼にとって帰るべき家があった。もちろん、今でもその状況は変わらない。現役を退いた元総帥は相変わらず黒髪の息子を溺愛しているし、マジックのみならず彼の周りには彼を心から愛し、補助しようとする家族がいる。そこは間違いなく、シンタローにとってかけがえのない「家」だろう。
それでも、きっともう彼は知っている。泣きたくなるほど甘く狂おしく、胸を締め付ける望郷の念。それを向ける対象は、言葉の定義どおりの故郷だけではないのだと。
「わてらみぃんな足しても、まだ……敵わん、か……」
否、自分たちだからこそ、敵わないのだと。抑えられたその声はほとんど、アラシヤマにとっての自嘲だった。本当はそんな問題ではないことは知っている。彼がどちらをより大事に思っているのかを比較するなど、考えようとすることすら愚かだ。
それはただ純粋に、本当に単純に。彼にとってあの楽園にも似た南国での生活が、それだけ鮮やかで幸せに満ちたものであったというだけの話。
彼が今の立場から逃げ出そうとしているなどとは、アラシヤマは微塵も思わない。それでも、もし彼が時として何もかもを置き去りにして無性にそこに帰りたいと願ってしまうことがあったとしても。彼があの島でどれほど満ち足りた笑顔を浮かべることがあったかを知る者であれば、それをアラシヤマも他の誰であっても、責めることなど出来はしない。
あの南国を、彼の友人を愛したからこそ、そこに結ばれた約束をシンタローが違える筈もなく。彼がそんなことを、何があっても口にしないことを知っているから、なおさら。
―――堪忍な、とアラシヤマは、シンタローの顔に触れないように、そこにかかる長い前髪をゆっくりと指先でかきのけながら呟く。
「行ってもええて――背中は押せへんのや……」
それは彼の決断であり、自分の思考や行動で何かが左右されるような問題ではないことも知っている。彼は彼の思うままにそれを行い、そして自らの意思で、己を縛り付けてすらも、ここで生きると決めた。
その心の底でどれほど望んでいようと、解放は救いと同義語にはならないと理解しているから。アラシヤマたちにできるのは、ただそんな彼を見守り、少しでもその心を推し量ることだけだ。
「あんさんが背負うとる荷物の肩代わりもできへん。ほんまはできることなんて、なんもあらへんのかもしれん。それでも」
どれほど重い枷を与えられ、邪険に扱われても。自分は、自分らは決して彼の傍らを離れはしないから。そのことが彼自身にしか解決の出来ない多くの問題に、どれだけの助けとなるのかはアラシヤマにはわからなかったが。もし信頼を与えてさえくれるのならば、それを裏切ることだけは絶対にしないから。
だから、どうか。
その強い光を持つ瞳を曇らせることなく、強がりでも毅然と前を向いていて欲しいと、心から願う。
ホンマ、頼むわ……と投げかけた声は音にならず、懇願と励ましを含んだはずのその言葉は、まるで贖罪のように己の内に響いて。
アラシヤマはシンタローの頬に残るその水跡を、まるで淡雪に触れるかのように、そっと指先で辿った。
了
==========================================================
新4巻であの台詞を言えるようになるまでには、
どれだけの葛藤があったんだろう、と、勝手に考えて切なくなる。
『on the wild world』 -epilogue-
―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。
「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」
思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。
アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。
「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」
掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。
「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」
シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。
「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」
言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。
そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。
「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」
けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」
その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。
「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」
そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。
「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」
その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。
「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」
うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。
「……わての言いたいのは、そんだけどす」
起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。
「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」
はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。
「そうどすか」
「あぁ」
真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
そして、ぼそりと言った。
「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」
アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。
「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」
むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。
「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」
まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。
「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」
耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。
「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」
吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。
「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。
「―――愛してますえ、シンタローはん」
笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。
微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。
これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
だが、それでも、こうして共にいられる今を。
悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。
そしてまた、いつもの「日常」が始まる。
Fin.
==========================================================
BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld
―――瞼を開いて、まず感じたのは、白色の光だった。
まぶしさにやや目を眇めると、その視界の片隅に長い黒髪が入ってきた。
「……よォ、やっと目ぇ覚ましやがったか」
「…へ……?あ……シシ、シンタローはん?!」
思わず飛び起きそうになって、瞬間的に走った全身の痛みに表情を顰める。
それは団の医務室でも、重傷者が収容される個室だった。白い部屋の中央に置かれたパイプ製のベッドの上にアラシヤマは横たわり、その腕には数本の点滴の針が刺さっている。
シンタローはベッドの横に置かれた簡素な椅子の上に腰掛けて、アラシヤマを見下ろしていた。
現状の把握すら出来ていないアラシヤマに、オマエ、五日間眠りっぱなしだったんだぜ、とシンタローは言う。「まさか、ずっとついててくれはったんどすか?!」と目を輝かせるアラシヤマに、シンタローはたまに、仕事の合間に時間が出来たときに、気が向いたら寄っていた程度だと答えた。
そして、当人が眠っていた間のことはさておいて(その期間にもアラシヤマが危篤状態に陥ったりそのせいで高松が急遽呼び出されたり、キンタローが逃げ出した残党の処理に奔走したりとごたごたはあったのだが)、砦で起こったことをシンタローは簡単に解説する。
思わぬマーカーとの共闘や、グンマやマジックによる援助、内部で起こった出来事。瓦礫の山と化していた研究所を発見したことと、首謀者の死。脱出時のあまりの派手さを聞いた時には、さすがにアラシヤマも目を剥いた。
アラシヤマもまた枕を丸めて背もたれのようにし、砦の中で起こっていた事実のみを淡々と報告した。見抜くことができなかった副官の裏切りと、前政権が目論んだ陰謀。そして、あの研究施設で行われていたことの詳細。
もっとも、暗示をかけられてからのことはさっぱり覚えていないらしい。
かろうじて一瞬だけシンタローの声が聞こえ、師匠の顔が目に入ったことしか記憶にはないという。それすらも、今の今まで夢かと思っていた、と正直に白状した。
起き抜けでやや掠れがちのその声の報告が済んだあと、アラシヤマはへらりと情けない笑みを浮かべて言った。
「シンタローはん、なんやおとぎ話の王子様みたいどすなぁ」
「で、助け出した姫がコレって。そんな報われねー王子がいてたまるか」
掛け値なしの本音を言いながらシンタローは立ち上がり、近くの棚に置かれている果物カゴから林檎を一つ取り出す。この見舞い、グンマ達からだけど貰うゼ、と言いながら、ナイフで器用にその皮を剥いていく。
そして、綺麗に切り分けたその一つをシャクッと齧りながら、思い出したように言った。
「ああ、そーだ。あともうひとつ」
「?」
「オマエの『副官』から、伝言」
シンタローはあのホールで聞かされた言葉を、一言一句違わずアラシヤマに伝える。
それを聞いたアラシヤマはしばらく黙ったままでいて。やがてゆっくりと天井を見上げた。
「あの男……ホンマは、誰かに壊してもらいたかったんやないかと思うんどすわ」
「結局、ていよく利用された、ってワケか」
「どうでっしゃろな。壊したないゆう気持ちもほんもんで、せやから―――わてらに賭けたんかもしれまへん」
言いながらアラシヤマは、けして短くはない期間、己の下にいた男のことを少しだけ思い出す。
頭の回転が速く腕が立ち、誠実で、軍人の鑑のようだった男。そして、あまりにも真面目で―――それがゆえに、哀れなほど弱くなってしまった男。
せめてその終焉を共にしたことで、あの男は己の良心と、最後の忠誠のどちらをも全うすることができたのだろうか。
そんなことをやや感傷めいて考えていたアラシヤマを現実に引き戻したのは、シンタローの完全に呆れ返った声だった。
「しっかし、オマエ、今回ほんっとマヌケだったな。マーカーへの報酬と親父への借金で、この先二年はほとんどタダ働き決定だぜ」
「えええッ?!せ、せめて生活費くらいは残しといておくれやす」
けして冗談ではない総帥の言葉に、アラシヤマは本気で焦る。そんな様子を面白そうに眺めながら、―――ただ、とシンタローが言った。
「最後まで……団の方針守ったその根性は、褒めてやる」
「……ハハ。あんさんに褒められたん、初めてかもしれんどすな」
その言葉にアラシヤマは、おろおろと挙動不審だった動きを止め、短く息を吐きながら顔を仰向けた。
―――せやけど、今だけ堪忍な、と前置いて。
身を起こしたアラシヤマは、キッ、とシンタローに向かって眦を吊り上げる。
「……どこの世界に、たかが一団員助けるために一人で敵陣突っ込む総帥がおるんや、こん阿呆!」
そのいきなりの剣幕に、一瞬だけシンタローの目が丸くなった。
そしてむくれたような表情で視線を横に流す。他の人間(それはティラミスが最も強かったが)が口にしたくてたまらない、という顔をしながらそれでも抑えていたその説教を、ああコイツは言うんだな、とぼんやりと考えながら。
ったく、鬱陶しいと片眉を顰めながら、シンタローはぼそりと呟く。
「……一人じゃねーだろ。マーカーもいた」
「し、師匠は……師匠にも色々思うことはあんねんけど、今はあんさんのことどす!」
その台詞に出された唯一の鬼門に瞬間怯みながらも、アラシヤマはシンタローへの面責を止めようとはしない。
「あんさんの情が深いんは嫌てほど知っとるわ。せやけど団員の一人や十人、いざっちゅう時には平然と切り捨てはるのが総帥ちゅうもんどっしゃろ。そないなことすらわかっとらんほど、あんさんの頭が悪いとは思うとりまへんどしたえ。ましてこんな―――つッッ」
「オラ、暴れんなよ。テメーアバラ二本折った上に全身火傷と打撲だらけで、全治三ヶ月の重体患者だろーが」
うんざりしながら、それでも一応最後までその小言を聞いていたシンタローは、胸のあたりを押さえて言葉を詰まらせたアラシヤマの口に、小さく切り分けた林檎を放り込んだ。
それ以上何も言えなくなったアラシヤマは、微妙な表情でなんとかその果実を嚥下する。そして、あてつけがましく長いため息をついた。
「……わての言いたいのは、そんだけどす」
起こしていた身を、どさりとまたベッドに沈める。身体への衝撃をできるだけ和らげるためなのか、分厚い枕は羽毛入りのようで柔らかく、アラシヤマの上体を包み込むように沈めた。
そんなアラシヤマを横目で見ながら、シンタローもまた、抑えた声でそれを口にする。
「俺も、一つ。どうしても言っておきたかったことがある」
「なんどす?」
「―――泣かねーよ。テメーが死んだくらいじゃ」
はじめは何を言われたのかわからずきょとんという表情をしたアラシヤマが、やがて記憶と合点がいき、苦笑しながら静かに答えた。
「そうどすか」
「あぁ」
真白な病室に、静謐な空気が流れる。いくら換気しても消しきれない薬の匂いの中に、林檎のほんの少しだけ甘酸っぱい薫りが漂っている。
アラシヤマは何も言わない。シンタローは二切れめの林檎を口に入れた。シャクシャクとささやかな音をたてながら、薄く切られたそれを二口で食べ終える。
そして、ぼそりと言った。
「泣かねーけど。でも、その間抜け面蹴っ飛ばしに行く」
アラシヤマが俯かせていた顔を上げて、シンタローを見る。
「どうせテメーのことだから、前線で英雄的に華々しく散るってよりは、なんか色々裏工作やって、そこでしょーがねぇって自分の命使うタイプだろ」
「……はは」
むかつくことに、この男は困ったように笑うだけでシンタローの言葉を否定もしない。
「たとえそれがどんだけ団のためになって―――俺のためになったとしても。俺はそんなのは認めねぇ。特進どころか団員資格剥奪。遺体だって白骨になるまで放置だ」
「酷おすなぁ……」
まるで叱られた子犬―――否、大型犬のような表情で、それでもアラシヤマは口元の苦い笑いを消そうとはしなかった。
その表情は、それも仕方ないとどこか諦めているかのようで。
そういった顔がどれほどシンタローを苛つかせるのかなど、きっと百回言ったところで、この男には理解できないに違いない。
「いいか、もし死んだら。一番にその死体蹴っ飛ばすのは、俺だ」
「へぇへ、そんな念押さんでも……」
耳にタコができる、とでもいうかのようにアラシヤマは視線を逸らそうとする。そんなアラシヤマの胸倉を、シンタローは何の遠慮もない力で掴んで引き寄せた。
怪我の痛みを訴えるその眉間の皺も何もかもを無視して、シンタローはアラシヤマと二十センチと離れていない間際で、その目を真っ直ぐに睨み付けて、言う。
「それが戦場のど真ん中でも、どんなヤバい組織の最深部でも。だから―――もし俺を心配しようって気があんなら、少なくとも、俺の目の届かないところで、死ぬな」
「……―――」
吐き出すようにそれだけ告げて、シンタローはそのままベッドにアラシヤマを突き倒す。
骨に響くその行為に一瞬だけ顔を顰めながらも、アラシヤマは思わず込みあがってくる笑いを噛み殺すのに苦労した。
「……シンタローはん。それって、えらい愛の告白みたいどすえ」
「ばーか、深読みすんな」
「せやけど」
「それ以上なんか言ったら、トドメ刺すぞ」
シンタローはけしてアラシヤマに顔を向けようとはしない。だが、その反らした首筋に朱が上っているのは、アラシヤマの目にもはっきりとわかった。そんなものを見せ付けられて、どうしてこらえきれるというのだろう。
アラシヤマは、ぐい、と紅い総帥服の袖を引く。
そして包帯だらけのその腕で、シンタローを強くかき抱いた。
「―――愛してますえ、シンタローはん」
笑みを含みながら、しかしこの上なく真摯な響きをもって告げられたその声に。
憮然とした表情のシンタローはやがて薄く目を閉じて―――知ってる、と呟いた。
微かな医療機器の作動音だけが聞こえる白い部屋の中で、その時確かに、自分にとっての時間が再び流れ出したのをシンタローは感じた。
これからもきっとこの馬鹿は、無謀な戦場に赴き、そして自分のために何度でも命を懸ける。時には大怪我をすることもあるだろう。
だが、それでも、こうして共にいられる今を。
悔しいと歯噛みしながらも、シンタローは幸せだと認めるしかなかった。
そしてまた、いつもの「日常」が始まる。
Fin.
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BGM(順不同):Cocco, 椎名林檎(東京事変), Aerosmith, The Stone Roses,
Cornershop,Thee michelle gun elephant, RADWIMPS, スキマスイッチ,
BUMP OF CHICKEN, jamiroquai, Sarah Brightman, Underworld