朝食はアラシヤマが作るという約束で、昨夜は遅くまで付き合ってやったのに。
「なんでまだ寝てんだ、コイツ……」
カーテンの隙間から差し込む陽光が眩しくてシンタローが目を覚ましたとき、時計は既に昼近くを指していた。
アラシヤマの部屋に当然一台しかないベッドは、客なのだからという主張の元、シンタローが一人で使っていた。そこから身体を起こしてすぐ隣に視線を落とせば、ベッドから追い出されたアラシヤマが目を閉じたまま転がっている。予定ではもっと早い時刻に朝食の用意をして、シンタローのことを起こしに来ることになっていたのだが。
ベッドから下りて隣に屈み込み、顔に掛かった髪を払い除けてみる。少しばかり擽ったそうな様子を見せたけれど、やはり起きる気配はない。よく眠っているようだ。シンタローは呆れて溜息を吐き、そのまま床に座り込んだ。
「幸せそうな顔しやがって」
そういえば眠っているところを見るのなんて初めてかもしれない。偶にこうして泊まりに来ても、夜は自分の方が先に寝てしまうし、朝起きるのはアラシヤマの方が早い。
眠っていると受ける印象が全く違な、と思う。起きていれば彼が自分の目の前で大人しくしていることなどまずない。時々でもこういうところを見せてくれれば、少しは自分の態度も変わったかもしれないのに。
そこまで考えて、今更だ、と思った。
それに慣れていないせいかもしれないが、いつまでも大人しくされているとそれはそれで気味が悪い。同時に少し苛立ちさえ覚える。やはり鬱陶しいぐらいで丁度良いのかもしれない。
「いつまで寝てんだよ」
呟くように口にすると、床に手をついて顔を覗き込む。そしてほんの一瞬だけ、掠めるように唇を触れ合わせた。
起こしてやろうという気が無かったわけではないけれど、これぐらいでは起きないだろうと思っていたからこんなことをしたのかもしれない。
「何やってんだ、俺……」
離れてから気恥ずかしくなって口許を手で押さえる。ほぼ同時に目の前でアラシヤマが寝返りを打った。
「シンタローはん……」
「っ……!」
今ので起きてしまったのか、それとも最初から起きていたのか。
名前を呼ばれたことにシンタローは酷く動揺した。
いつから意識があったのだろう。どこから自分の行動に気付いていたのだろう。何からどうやって誤魔化せば良いのか。必死に考えれば考えるほど混乱してきて何も思い浮かばない。しかも顔が熱くて多分真っ赤になっている。今起きたばかりだとしても、顔を見られたらその不自然さに気付かれてしまうだろう。
下手な言い訳ならばしない方が良いと普段ならば考えただろうが、今はそう思い付くだけの冷静さも失ってしまっていた。とりあえず何か口を開こうと、改めてアラシヤマへと視線を落とす。
ところが、彼は何事も無かったかのように相変わらず眠ったままだった。
「寝言かよ……!」
自分の勘違いなのだが騙されたようで無性に腹が立つ。目が覚めていない方が都合が良かったはずなのに、安心することも忘れてしまった。顔の熱も一気に引いた気がする。
気が抜けて溜息を吐いた後、そういえば彼は寝言で自分の名前を呼んだのだと気付いた。途端、急に可笑しくなってきて思わず小さく笑みを零す。
「コイツ寝てるときも俺のことしか考えてねーのかよ」
大人しくて、いつものように自分に寄って来るわけではないけれど。結局中身は何も変わらないのだと今更分かった。
そしてシンタローは、その事実に自分でも理由が分からないまま満足する。
「しょーがねぇな、少し遅いけど朝メシでも作るか」
立ち上がって伸びをして、長い髪を後ろで一つにまとめて結う。
朝食の用意が出来てもまだ寝ているようだったら、そのときは今度こそ叩き起こしてやろうと思った。
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生きながら火に焙れる苦痛を知った。
激痛苦痛というものは口からほとばしる咆哮をなかなか抑えれぬものであるが、不思議と意識は瞭然としていて、アラシヤマは目の前にいるであろう師の顔を思い浮かべた。上を向いた目尻に細面の、面立ち通りに厳格だった彼は、きっと苦痛に喘ぐ自分を愚かに、あるいは滑稽に思うだろうと考えて、アラシヤマは声を上げぬよう、それこそ残りの意識を費やしてでも努めた。
愚かなどと思わせない。滑稽ならば尚更だ。
その師を巻き込もうとして我が身を焼いているのだが、そうそう彼も自分と同じように苦しんでいてくれているとは思えない。自分が何をしでかすかわかっていた彼を死なせることは用意ではないし、それに周りには仲間がいる。巻き込んでしまうとわかっていて、師を死なせることが厳しいことだとわかっていて、それで本気を出せるアラシヤマではなかった。せめて一時的にでも戦闘を行うことのできぬ状態にできれば良いと思う。それだけでも功績だ。あの人が決着をつけるに、決して邪魔は入らせない。そうすればあの人はあの人なりに道を切り開く。確信してそう思う。アラシヤマは寸分の疑いもなくそう思うのだ。
焼かれ、焼かれ、隣に後ろに仲間の苦痛の声があがる。申し訳ないと思った。
何人も何十人も何百人も人間という敵を焼き続けて、己の能力はそういったことに効率が良かったから、それこそ虐殺し、殺めて、蛋白の燃える匂いすら長じて慣れてしまってからは、苦痛の声を無感動に「煩い」と流すだけだった。いちいち罪悪を持っていたらやっていられないのは事実であった。同時にそうした自分の行為を「倫理の敵」と認識していなければ、いずれ破綻する。要するにその境界線のせめぎ合いを中立に保つことこそが、上手くやれるポイントなのだろうとアラシヤマは考えていた。実際上手くやっていた。
意識は眠りを誘うように緩慢に落ちていく。一声叫んで苦痛をあらわにしたのならば、一瞬にして意識を手放す事ができたのやもしれぬ。アラシヤマは拒んで、拒んで、ああやっと、そんな思いに駆られた。仲間の苦痛の声は聞こえない。発火点ではないから火は消えているだろうと、あるいは消えているといいとアラシヤマは思う。申し訳ないと思う。苦痛の声を聞かぬことへの安堵と、同時に生きていて欲しいとの願いが、不安が、それこそせめぎ合い境界線を侵食しあって、中立もなにもあったものではなかった。同時に師は、師は、どうなったのだろう。せめて意識不明くらいの負傷はしているといいと思いながら、突然泣きたくなるくらいに、やはり生きていて欲しいと感情が溢れた。とんだ矛盾で欲張りだと思った。
自分が燃えているのか燃え尽きているのか既に出来ないでいる。意識があるならば生きてはいるのだろうが、如何せん感覚はひどく麻痺して、これはすでに燃え尽きて死後の云々という、そうしたものを体験しているのではないかとアラシヤマは、あるいはアラシヤマだったものは思うのだ。そんなくだらないことを考えるまでに意識は朦朧としていた。世界は曖昧模糊としていた。受動的に記憶から刺激される思考を続けるだけだったアラシヤマが、麻痺した世界を眺めながら、ひどく切実にと願うようにして、やっとひとつの意識を確立した。
ひたすらに願うことは難しい。
それは純粋な願いから願望へと転じ、望みへと転じ、夢へと転じ、それが叶った未来を夢想すること。想像すること。それが叶った時点で己はどうするか。あるいは目標を。それらを思考することなしに願うことは、そうそうないのだろう。ただひたすらに、ひたすらに狂おしいまでに一途な願いを想い続けることは、考えなしと夢想家と罵られることさえあって、ましてそうした願いの形すら少ない。
世界が欲しい。
それは思いはすれど、結局自分のすぐ上にいる人を抜くことが第一であった。
友人が欲しい。
憩いを望んだ。甘美な夢だった。そこには人間同士という要素は含まれず、ただ幻想のようなものを求めた。
いずれも願いの先には打算があり、利益があり、本末転倒すら生じていた。アラシヤマはいつでもそうした願いを忘れずにこれまで生きてきたのだし、何かを求める自分を気に入ってもいた。孤高という師の生き方に憧れながらも、結局他人との馴れ合いを避けられぬ彼の姿を見て、気持ちはいよいよ増すばかりであった。求めることを隠さず、矛盾を生ずることなく生きる方が、よっぽど美しいものではないかと、幼い頃肥大した意識は長じてようやく開花した。
馴れ合いを許さぬ師は「孤高」と自らの生き方を定めてはいたが、それは必要最低限鬱陶しいものを嫌う師の予防線だったのではないかと思う。師はある人に憧れていたしある人たちを好いていた。自分にも情を向けてくれていたのだと思う。師は鬱陶しいものを忌み嫌うが故に、曖昧にしておかず「孤高」という言葉を用いて必要最低限の人を求めた。自身がそれを明確な意識として捉えているかはともかく、ならばアラシヤマは、自分はひたすらに求めようと思った。必要最低限を見定められぬゆえに、甘美な幻想を求める範囲は広がった。
それは本末転倒の、健全な願いだった。ただ、意識が切れる前のほんの一瞬、アラシヤマはたった一人の顔を思い浮かべた。
あの人を。あの人を。あの人を。
それはひたすらな願いだった。届かぬと知っていながら、そのひたすらな気持ちを伝えたかった。
アラシヤマは、小さく唇を動かした。
「この、馬鹿野郎!」
ぱんと頬を張り飛ばされる感触にアラシヤマは瞼を上げた。飛び込んだのは白い天井で、細い蛍光灯が数本ずつ置きに煌々と部屋を照らしている。突然瞳に飛び込む光に、アラシヤマは思わず目を細める。思考を忘れたまま、細めた目の横に動くものを捉えて、ゆっくりと首を傾けた。
刹那に
「し――――」
胸の内で飽和した感情が口から弾けそうになったと同時に、乾いた喉は突然飛び出そうとする声を受け付けず、アラシヤマの感情は不発に終わった。寝起きにも関わらずありありと見開かれた瞳は、たった一点を捉えている。
シンタローはん、と唇だけが先走った。
ぱんと平手打ちが飛んできた。
「馬鹿野郎」
いかにも憎憎しいといった口調で、シンタローは再度吐き捨てた。ベッドに横たわるアラシヤマを見下ろして、アラシヤマ本人はわけがわからず、痛みを感じ取ることのできない頬に左手をやった。右腕は点滴に繋がれている。
「シン、タロー、はん?」
乾いた口内から搾り出すようにして、アラシヤマは必死に名前を呼ぶ。
馬鹿、としか返ってはこなかった。
「ねえ」
「うるさい」
「どうしたんですのん?」
シンタローはぎゅっと眉間を詰めて、何かを堪えるような表情をしていた。アラシヤマには彼がこんな顔をする理由がわからない。何か辛いことでもあったのだろうか。
お前が、とシンタローは言った。
「お前が、目ぇ覚ましたって聞いて」
「ああ、おおきに」
今度は額を叩かれた。べっ、と小気味良い音がしたが、意識が朦朧ろしている所為なのか興奮ゆえなのか、相変わらず痛みはない。
「どうしたんですのん、シンタローはん?」
「ばか」
「は?」
「馬鹿っつってんだよこの大馬鹿野郎!」
腕が大きく振り上げられてアラシヤマは反射的に目をつむった。しかしそれがアラシヤマに下ろされることはなく、シンタローは今にも泣きそうな顔をして、ゆっくりとそれを胴の脇へと収めた。
シンタローはん、とアラシヤマは呟く。もしかしたら抱き締めたかったのかもしれない。
「無茶してんじゃねえよ」
「へえ」
「死ぬとこだったんだぞ、てめえ」
「へえ」
「心配なんかしてやんねえぞ、わかってんだろ?無意味なんだよ。見返りなんかねえんだよ。だからやめろよ、そういうこと。お前はただの馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。いっちょ前にして、そんなの、誰も心配なんかしねえんだよ」
吐き出すように、泣き零すように、シンタローは瞭然とした口調で捲くし立てた。痛みを堪えるような表情で己に向かい暴言を吐く。アラシヤマはベッドに横たわったまま、シンタローを見つめた。思わず顔の筋肉が弛緩する。
「なんだよその顔」
「すんません」
「気持ち悪ぃぞ」
いつもの暴言なのでアラシヤマはわずかに苦笑して流した。
シンタローは「ああもう!」と乱暴に言って、珍しく下ろした髪を掻き揚げた。服装は軍服ではなく、あの島にいたときと同じラフなもので、顔がわずかに浮腫んでいたことから寝起きなのだろうとわかった。もしかしたら自分が目を覚ましたことを聞いて、飛んできたのかもしれない。窓の外はわずかに朝焼けが白んでいる。時計を見れば午前四時を回っていた。こんな早くに、人によっては丁度深い眠りに落ちている頃だというのに、しばらく寝ていてもすぐ朝は来るから、何ら差し障り無いというのに―――それでも駆けつけてくれたのだと思うと、嬉しくて、嬉しくて、思わず抱きしめたい衝動に駆られたが、身体は腕を動かすにしても鉛のように重くて、残念ながら叶いそうに無かった。
そんなことを考えていると、シンタローはじっとアラシヤマを見つめてきた。また暴言を吐かれるのかと、アラシヤマは全くと言っていいほど素直でない愛しい人を見返す。シンタローはしばらく無言であった。アラシヤマは言葉を待った。シンタローは徐に腕を伸ばして、迷い箸の動作のように逡巡しつつも宙を掻き混ぜて、やっと意を決したように、アラシヤマの頬に手を添えた。
「シンタローはん?」
数分の間だけで幾度も叩かれた頬を、今はその掌によって優しく触れられている。感触は硬く長い炊事で乾燥してもいたが、妙に弾力があった。アラシヤマはそれこそ本能のように重い腕を上げた。自分の頬に添えられた手に、更に自分の手を重ねる。アラシヤマは込み上げる愛しさを必死に伝えようとした。これ以上ない、飽和した感情だった。
「俺より先に死ぬなよ」
搾り出すようにシンタローは言う。
「お前は俺にこき使われて、こき使われて、それ以外なんの役にも立たないくせに。だから勝手に死ぬなよ。無茶すんじゃねえよ。敵わねえって思ったら、逃げろよ。逃げて逃げて逃げて―――ああ、相手が特戦部隊じゃ、それこそ無理かもしれねえけど、だからって」
だからって。
頬に遣られた指が、ぐっと立てられた。
「自爆なんか、すんなよ。それ以外なかったのかよ。なかったからやったのはわかってるよ。ただの八つ当たりだよ。でも、でも、アラシヤマ」
アラシヤマの飽和した感情に負けぬくらい、シンタローもあらゆる感情を込めた。
「この馬鹿――――」
シンタローはアラシヤマをきつく抱いた。点滴の針が今にも抜けそうになるくらい、乱暴に上半身を抱き上げた。窓の外はいよいよ陽光が差していて、白い部屋がてらてらと光った。アラシヤマは燃え立つ自分を想起する。その中でアラシヤマはひとりの顔を思い浮かべた。たまらなく愛しい感情が飽和して、それは打算も利益も存在しない、もしかしたら本末転倒はあったやもしれぬが、少なくともひどく純粋な思いであった。
アラシヤマは重い腕で抱き返して小さく呟いた。
「…ただいま」
その純粋な想いを向ける相手は今自分の腕の中にあった。否、自分が彼の腕の中にいた。たまには抱かれるのも悪くはないと思いながら、アラシヤマは、炎の中意識が尽きる最後の言葉を想起した。最後に思った顔。アラシヤマはこのままでは間違いなく不帰路を辿ると思った。だからせめて一言、苦痛の声の代わりに、たとえあの人に届かぬとわかっていながらも―――焼け乾いた喉から流血するのを感じながら、アラシヤマはたった一言。
さよならと言った。
最後までなんて自分は我侭なのだろうと思った。自己満足に想い、不帰路を辿るならばとけじめをつけたくて、それでも結局のうのうと生きた。そして「ただいま」と撤回するのだ。
自己満足という純粋さを、ひたすらに愛しい人に向けた。
終
激痛苦痛というものは口からほとばしる咆哮をなかなか抑えれぬものであるが、不思議と意識は瞭然としていて、アラシヤマは目の前にいるであろう師の顔を思い浮かべた。上を向いた目尻に細面の、面立ち通りに厳格だった彼は、きっと苦痛に喘ぐ自分を愚かに、あるいは滑稽に思うだろうと考えて、アラシヤマは声を上げぬよう、それこそ残りの意識を費やしてでも努めた。
愚かなどと思わせない。滑稽ならば尚更だ。
その師を巻き込もうとして我が身を焼いているのだが、そうそう彼も自分と同じように苦しんでいてくれているとは思えない。自分が何をしでかすかわかっていた彼を死なせることは用意ではないし、それに周りには仲間がいる。巻き込んでしまうとわかっていて、師を死なせることが厳しいことだとわかっていて、それで本気を出せるアラシヤマではなかった。せめて一時的にでも戦闘を行うことのできぬ状態にできれば良いと思う。それだけでも功績だ。あの人が決着をつけるに、決して邪魔は入らせない。そうすればあの人はあの人なりに道を切り開く。確信してそう思う。アラシヤマは寸分の疑いもなくそう思うのだ。
焼かれ、焼かれ、隣に後ろに仲間の苦痛の声があがる。申し訳ないと思った。
何人も何十人も何百人も人間という敵を焼き続けて、己の能力はそういったことに効率が良かったから、それこそ虐殺し、殺めて、蛋白の燃える匂いすら長じて慣れてしまってからは、苦痛の声を無感動に「煩い」と流すだけだった。いちいち罪悪を持っていたらやっていられないのは事実であった。同時にそうした自分の行為を「倫理の敵」と認識していなければ、いずれ破綻する。要するにその境界線のせめぎ合いを中立に保つことこそが、上手くやれるポイントなのだろうとアラシヤマは考えていた。実際上手くやっていた。
意識は眠りを誘うように緩慢に落ちていく。一声叫んで苦痛をあらわにしたのならば、一瞬にして意識を手放す事ができたのやもしれぬ。アラシヤマは拒んで、拒んで、ああやっと、そんな思いに駆られた。仲間の苦痛の声は聞こえない。発火点ではないから火は消えているだろうと、あるいは消えているといいとアラシヤマは思う。申し訳ないと思う。苦痛の声を聞かぬことへの安堵と、同時に生きていて欲しいとの願いが、不安が、それこそせめぎ合い境界線を侵食しあって、中立もなにもあったものではなかった。同時に師は、師は、どうなったのだろう。せめて意識不明くらいの負傷はしているといいと思いながら、突然泣きたくなるくらいに、やはり生きていて欲しいと感情が溢れた。とんだ矛盾で欲張りだと思った。
自分が燃えているのか燃え尽きているのか既に出来ないでいる。意識があるならば生きてはいるのだろうが、如何せん感覚はひどく麻痺して、これはすでに燃え尽きて死後の云々という、そうしたものを体験しているのではないかとアラシヤマは、あるいはアラシヤマだったものは思うのだ。そんなくだらないことを考えるまでに意識は朦朧としていた。世界は曖昧模糊としていた。受動的に記憶から刺激される思考を続けるだけだったアラシヤマが、麻痺した世界を眺めながら、ひどく切実にと願うようにして、やっとひとつの意識を確立した。
ひたすらに願うことは難しい。
それは純粋な願いから願望へと転じ、望みへと転じ、夢へと転じ、それが叶った未来を夢想すること。想像すること。それが叶った時点で己はどうするか。あるいは目標を。それらを思考することなしに願うことは、そうそうないのだろう。ただひたすらに、ひたすらに狂おしいまでに一途な願いを想い続けることは、考えなしと夢想家と罵られることさえあって、ましてそうした願いの形すら少ない。
世界が欲しい。
それは思いはすれど、結局自分のすぐ上にいる人を抜くことが第一であった。
友人が欲しい。
憩いを望んだ。甘美な夢だった。そこには人間同士という要素は含まれず、ただ幻想のようなものを求めた。
いずれも願いの先には打算があり、利益があり、本末転倒すら生じていた。アラシヤマはいつでもそうした願いを忘れずにこれまで生きてきたのだし、何かを求める自分を気に入ってもいた。孤高という師の生き方に憧れながらも、結局他人との馴れ合いを避けられぬ彼の姿を見て、気持ちはいよいよ増すばかりであった。求めることを隠さず、矛盾を生ずることなく生きる方が、よっぽど美しいものではないかと、幼い頃肥大した意識は長じてようやく開花した。
馴れ合いを許さぬ師は「孤高」と自らの生き方を定めてはいたが、それは必要最低限鬱陶しいものを嫌う師の予防線だったのではないかと思う。師はある人に憧れていたしある人たちを好いていた。自分にも情を向けてくれていたのだと思う。師は鬱陶しいものを忌み嫌うが故に、曖昧にしておかず「孤高」という言葉を用いて必要最低限の人を求めた。自身がそれを明確な意識として捉えているかはともかく、ならばアラシヤマは、自分はひたすらに求めようと思った。必要最低限を見定められぬゆえに、甘美な幻想を求める範囲は広がった。
それは本末転倒の、健全な願いだった。ただ、意識が切れる前のほんの一瞬、アラシヤマはたった一人の顔を思い浮かべた。
あの人を。あの人を。あの人を。
それはひたすらな願いだった。届かぬと知っていながら、そのひたすらな気持ちを伝えたかった。
アラシヤマは、小さく唇を動かした。
「この、馬鹿野郎!」
ぱんと頬を張り飛ばされる感触にアラシヤマは瞼を上げた。飛び込んだのは白い天井で、細い蛍光灯が数本ずつ置きに煌々と部屋を照らしている。突然瞳に飛び込む光に、アラシヤマは思わず目を細める。思考を忘れたまま、細めた目の横に動くものを捉えて、ゆっくりと首を傾けた。
刹那に
「し――――」
胸の内で飽和した感情が口から弾けそうになったと同時に、乾いた喉は突然飛び出そうとする声を受け付けず、アラシヤマの感情は不発に終わった。寝起きにも関わらずありありと見開かれた瞳は、たった一点を捉えている。
シンタローはん、と唇だけが先走った。
ぱんと平手打ちが飛んできた。
「馬鹿野郎」
いかにも憎憎しいといった口調で、シンタローは再度吐き捨てた。ベッドに横たわるアラシヤマを見下ろして、アラシヤマ本人はわけがわからず、痛みを感じ取ることのできない頬に左手をやった。右腕は点滴に繋がれている。
「シン、タロー、はん?」
乾いた口内から搾り出すようにして、アラシヤマは必死に名前を呼ぶ。
馬鹿、としか返ってはこなかった。
「ねえ」
「うるさい」
「どうしたんですのん?」
シンタローはぎゅっと眉間を詰めて、何かを堪えるような表情をしていた。アラシヤマには彼がこんな顔をする理由がわからない。何か辛いことでもあったのだろうか。
お前が、とシンタローは言った。
「お前が、目ぇ覚ましたって聞いて」
「ああ、おおきに」
今度は額を叩かれた。べっ、と小気味良い音がしたが、意識が朦朧ろしている所為なのか興奮ゆえなのか、相変わらず痛みはない。
「どうしたんですのん、シンタローはん?」
「ばか」
「は?」
「馬鹿っつってんだよこの大馬鹿野郎!」
腕が大きく振り上げられてアラシヤマは反射的に目をつむった。しかしそれがアラシヤマに下ろされることはなく、シンタローは今にも泣きそうな顔をして、ゆっくりとそれを胴の脇へと収めた。
シンタローはん、とアラシヤマは呟く。もしかしたら抱き締めたかったのかもしれない。
「無茶してんじゃねえよ」
「へえ」
「死ぬとこだったんだぞ、てめえ」
「へえ」
「心配なんかしてやんねえぞ、わかってんだろ?無意味なんだよ。見返りなんかねえんだよ。だからやめろよ、そういうこと。お前はただの馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。いっちょ前にして、そんなの、誰も心配なんかしねえんだよ」
吐き出すように、泣き零すように、シンタローは瞭然とした口調で捲くし立てた。痛みを堪えるような表情で己に向かい暴言を吐く。アラシヤマはベッドに横たわったまま、シンタローを見つめた。思わず顔の筋肉が弛緩する。
「なんだよその顔」
「すんません」
「気持ち悪ぃぞ」
いつもの暴言なのでアラシヤマはわずかに苦笑して流した。
シンタローは「ああもう!」と乱暴に言って、珍しく下ろした髪を掻き揚げた。服装は軍服ではなく、あの島にいたときと同じラフなもので、顔がわずかに浮腫んでいたことから寝起きなのだろうとわかった。もしかしたら自分が目を覚ましたことを聞いて、飛んできたのかもしれない。窓の外はわずかに朝焼けが白んでいる。時計を見れば午前四時を回っていた。こんな早くに、人によっては丁度深い眠りに落ちている頃だというのに、しばらく寝ていてもすぐ朝は来るから、何ら差し障り無いというのに―――それでも駆けつけてくれたのだと思うと、嬉しくて、嬉しくて、思わず抱きしめたい衝動に駆られたが、身体は腕を動かすにしても鉛のように重くて、残念ながら叶いそうに無かった。
そんなことを考えていると、シンタローはじっとアラシヤマを見つめてきた。また暴言を吐かれるのかと、アラシヤマは全くと言っていいほど素直でない愛しい人を見返す。シンタローはしばらく無言であった。アラシヤマは言葉を待った。シンタローは徐に腕を伸ばして、迷い箸の動作のように逡巡しつつも宙を掻き混ぜて、やっと意を決したように、アラシヤマの頬に手を添えた。
「シンタローはん?」
数分の間だけで幾度も叩かれた頬を、今はその掌によって優しく触れられている。感触は硬く長い炊事で乾燥してもいたが、妙に弾力があった。アラシヤマはそれこそ本能のように重い腕を上げた。自分の頬に添えられた手に、更に自分の手を重ねる。アラシヤマは込み上げる愛しさを必死に伝えようとした。これ以上ない、飽和した感情だった。
「俺より先に死ぬなよ」
搾り出すようにシンタローは言う。
「お前は俺にこき使われて、こき使われて、それ以外なんの役にも立たないくせに。だから勝手に死ぬなよ。無茶すんじゃねえよ。敵わねえって思ったら、逃げろよ。逃げて逃げて逃げて―――ああ、相手が特戦部隊じゃ、それこそ無理かもしれねえけど、だからって」
だからって。
頬に遣られた指が、ぐっと立てられた。
「自爆なんか、すんなよ。それ以外なかったのかよ。なかったからやったのはわかってるよ。ただの八つ当たりだよ。でも、でも、アラシヤマ」
アラシヤマの飽和した感情に負けぬくらい、シンタローもあらゆる感情を込めた。
「この馬鹿――――」
シンタローはアラシヤマをきつく抱いた。点滴の針が今にも抜けそうになるくらい、乱暴に上半身を抱き上げた。窓の外はいよいよ陽光が差していて、白い部屋がてらてらと光った。アラシヤマは燃え立つ自分を想起する。その中でアラシヤマはひとりの顔を思い浮かべた。たまらなく愛しい感情が飽和して、それは打算も利益も存在しない、もしかしたら本末転倒はあったやもしれぬが、少なくともひどく純粋な思いであった。
アラシヤマは重い腕で抱き返して小さく呟いた。
「…ただいま」
その純粋な想いを向ける相手は今自分の腕の中にあった。否、自分が彼の腕の中にいた。たまには抱かれるのも悪くはないと思いながら、アラシヤマは、炎の中意識が尽きる最後の言葉を想起した。最後に思った顔。アラシヤマはこのままでは間違いなく不帰路を辿ると思った。だからせめて一言、苦痛の声の代わりに、たとえあの人に届かぬとわかっていながらも―――焼け乾いた喉から流血するのを感じながら、アラシヤマはたった一言。
さよならと言った。
最後までなんて自分は我侭なのだろうと思った。自己満足に想い、不帰路を辿るならばとけじめをつけたくて、それでも結局のうのうと生きた。そして「ただいま」と撤回するのだ。
自己満足という純粋さを、ひたすらに愛しい人に向けた。
終
まったくなんだってんだ。朝っぱらからいつにもまして激しいストーキング。声をかけてきたかと思ったら、やたらどもってもじもじして結局は
「なんでもありまへん」
ってなんじゃそらぁ!だったら初めっから声をかけてくるんじゃねぇ!
憮然としながら洗濯カゴを家の中に放り込んでパプワとチャッピーに声をかける。
「おーい、ぼちぼちいくぞー!」
秋晴れの中、チャッピーに乗ったパプワが俺を先導して森へ向かう。当然俺はその後をついて歩くわけなのだが…。
こっそり後をつけているつもりなのか、やっぱりアイツもついてきている。振り返ると木や物陰にさっと隠れる。数歩歩いて振り返るとやっぱり隠れる。
あれで尾行しているつもりなのかね?バレバレだっつの。いっそうもう、「だるまさんがころんだ」といってやりたいくらいだ。
俺が後ろに気を取られているとパプワたちはずんずん先を歩いて気がつけば遠くで俺を振り返っている。
「シンタロー、早く来い。置いていくぞ!」
「ああ!」
ちらりと後ろを気にしながら収穫用のカゴを担ぎなおしてパプワたちのところへ走っていく。当然その後をアイツもついてくるわけで……。
* * *
森につくとさっそくパプワが手近な木に二足歩行で登っていく。まったく物理学を徹底無視したお子様め! 一気にてっぺんまで上りきるとよく熟れた梨をもいでは下で待ち受ける俺に投げてくる。次々と投げられる梨を掴んでは背中に背負ったカゴに入れていく。カゴが半分ほど埋まった所でパプワに声をかけた。
「おーい、もう十分だ! 降りてこいよ!」
「うむ」
登った時と同じように身軽に物理学もニュートンの法則も無視して木から降りてくる。その手には最後にもいだであろう梨が一つ。足元までやってきたパプワが背伸びをしながらそれを俺に差し出した。
「たくさん採れたな! ナニを作るんだ?」
「そうだな、そのまま食ってもうまいけど…。タルトでも作るか?」
「わーい! タルトタルト!」
チャッピーと二人で小躍りする姿を微笑ましく見ながら、最後に受け取った梨をまじまじと見る。
今日採った中では一番よく熟れている梨。みずみずしく、甘い匂いがする。
「なぁ、パプワ」
「なんだ?」
「これ、俺がもらってもいいか?」
「かまわんが、どうするんだ?」
パプワの問いに俺は答えず振り向きざまに振りかぶって見え見えに隠れているヤツに放り投げる。
「わ、わわわ!」
慌てて受け止めたアラシヤマに指差しながら言ってやる。
「食えよ」
「……は?」
「誕生日なんだろ、今日。プレゼント代わりにくれてやる」
「シ……シンタローはん……!」
感極まってウルウルするアラシヤマをよそ目に、パプワとチャッピーを促してパプワハウスへ戻っていった。
その後、トットリの調べによると、その日もらった梨をアラシヤマは後生大事に持っていて結局食べなかったらしい。その梨の行く末は…恐ろしくて聞けなかった……。
END。。。。。
『君からの贈り物』
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アラシヤマ氏お誕生日記念SSでございます。お誕生日記念なんですが……。
もっとアラシヤマ氏が報われている話を書こうと思っていたはずなんですがねー(遠い目)
私にしては珍しく、一人称で話が進みました。本当はもっと短くしようと思っていた名残です。アラシヤマの話のはずなのになぜかパプワくんが出てくるし…。
そんなわけで時間軸は南国です。
PAPUWAのアラシヤマならもっと強烈にアピールしていることでしょう!控えめなので南国アラシヤマです。
……というか、アラシヤマ氏は本当に書くのが難しい……。
もうちょっと修行をしよう、と思ってみたりして……。思うだけだったりして……。(コラ!)
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幸せだよ
真っ赤なスーツは未だ重く感じるが、それでも何とか総帥業をこなしているシンタローは少し手を休め時間を確認した。
予定では5分後にアラシヤマが報告書を持って訪れる事になっている。
残された時間でこの書類の束を片付ける事は不可能だと判断したシンタローは、アラシヤマが来るまで休憩を取る事にした。
ゆっくりと伸びをすれば軽い眩暈が襲ってくる。
やはりデスクワークは苦手だと再認識して息を吐き出せば、控えめなノック音が聞こえてきた。
「シンタローはん、いてはります?」
「おぉ、入ってこい」
今では心地良いと思ってしまう声を聞きながら、シンタローは深く椅子に座りなおした。
アラシヤマと会う時間を結構楽しみにしているだなんて事は、絶対に言ってやらないし、態度にも出したりはしない。
「ようけたまってますなぁ」
呆れた様に、それでいてどこか愉悦も含んだ声に、シンタローはほんの少し顔を引き攣らせた。
「うっせーよ。早く出せ」
だから、口調もついつい乱暴になってしまう。
もっともいつもの事だと思っているアラシヤマは気にした素振りも見せなかった。
「なぁ、シンタローはん」
「あん?」
渡した書類に目を通しているシンタローはどこまでも真剣な表情をしている。
どれだけ見つめていても変わる事のない視線。
それでも、アラシヤマにはそれが心地良かった。
「わて、この瞬間が一番幸せどすわ」
視線は変わらないくせに、頬をほんの少し真っ赤に染める総帥にアラシヤマは笑みを浮かべた。
真っ赤なスーツは未だ重く感じるが、それでも何とか総帥業をこなしているシンタローは少し手を休め時間を確認した。
予定では5分後にアラシヤマが報告書を持って訪れる事になっている。
残された時間でこの書類の束を片付ける事は不可能だと判断したシンタローは、アラシヤマが来るまで休憩を取る事にした。
ゆっくりと伸びをすれば軽い眩暈が襲ってくる。
やはりデスクワークは苦手だと再認識して息を吐き出せば、控えめなノック音が聞こえてきた。
「シンタローはん、いてはります?」
「おぉ、入ってこい」
今では心地良いと思ってしまう声を聞きながら、シンタローは深く椅子に座りなおした。
アラシヤマと会う時間を結構楽しみにしているだなんて事は、絶対に言ってやらないし、態度にも出したりはしない。
「ようけたまってますなぁ」
呆れた様に、それでいてどこか愉悦も含んだ声に、シンタローはほんの少し顔を引き攣らせた。
「うっせーよ。早く出せ」
だから、口調もついつい乱暴になってしまう。
もっともいつもの事だと思っているアラシヤマは気にした素振りも見せなかった。
「なぁ、シンタローはん」
「あん?」
渡した書類に目を通しているシンタローはどこまでも真剣な表情をしている。
どれだけ見つめていても変わる事のない視線。
それでも、アラシヤマにはそれが心地良かった。
「わて、この瞬間が一番幸せどすわ」
視線は変わらないくせに、頬をほんの少し真っ赤に染める総帥にアラシヤマは笑みを浮かべた。
世界を与えてくれたのは、この力の制御を教えてくれた人。
世界に色をくれたのは、いつでも前を見据えている力強い瞳を持った人だった。
闇裂く君
シーツに広がる艶やかな長い黒髪。
自分も同じ黒髪だというのに、どことなく違うと、そう思ったアラシヤマは惹かれるがままに手に取った。
「何やってんだよ」
少し掠れた声がアラシヤマの動きを暫し止める。
「起きてはったんどすか?」
「今起きた」
体を起こそうとするシンタローの上半身は何も身につけておらず、鍛え抜かれた筋肉が惜しげもなく晒されていた。
気だるげなその姿でも他を圧倒する空気を身にまとう人物。
「…アラシヤマ?」
「へぇ」
「それ、貸せ」
「知ってはったんどすなぁ」
惚けるには少々立場が弱かった。
シンタローが問答無用で奪った書類に目を通している間、アラシヤマは目を細めてシンタローを見つめる。
「やっぱ、好きどすわぁ」
「…何がだよ」
「あんさんが、どす」
この言葉に、シンタローは目線をあげてアラシヤマを一瞥する。
穏やかに微笑んでいる男がどんな意味でこの言葉を放ったのか知りたいような、それでいて知りたくないような気分に襲われた。
アラシヤマもそれが分かっているらしく、ただ微笑み続けるだけだ。
「…なんで」
「愛されたいから、でっしゃろうなぁ」
愛されたいから、愛したい。
「他をあたれ」
「そんな殺生な…もうちょっと考えてくれはってもええんとちゃいますのん」
また戻ってしまった視線をおいかけて、アラシヤマは溜息を吐く。
視線が逸らされても意識がこちらに向いている事を知っていての行為だった。
「わて、シンタローはんを愛してますんに」
あなたを愛したいがために、自分を愛して。
自分を愛するために、あなたを愛する。
「だから、他をあたれ」
「シンタローはん以上に輝いてる人なんかおりまへんわ」
深い闇の中ですら輝きを放つモノなど、稀有すぎてアラシヤマは他をあたる気にもなれなかった。
「迷惑なヤツ」
「そりゃ、わてやさかいに。せやけど、受け入れるシンタローはんも悪いんでっせ?」
「勝手に言ってろ」
未だ微笑み続けるアラシヤマに負けたような気がして、シンタローはわざと突き放すように悪態吐いた。
アラシヤマが見つめてくるその瞳が深すぎて、時折どう対処したらいいのか分からなくなる。
そんな時は決まって、眼魔砲などでは逃れられないのだ。
「シンタローはんが、わての人生変えはったんやから」
「勝手に人のせいにするな。朝っぱらから鬱陶しい姿見せられるのも嫌だけどな、やけに勝気なお前を見るのも嫌だ」
ベッドから立ち上がったシンタローは、これで終わりだというようにアラシヤマに背を向けて洗面所へと向かった。
こうなったらもう、アラシヤマが引くしかない。
背に流れる黒髪を掴み取るかのように腕を伸ばし、触れる直前で動きを止める。
「あんさんが好きなだけなんどすけどなぁ」
色をくれた人に。
否定するだけではない事を教えてくれた人に。
少しでもこの気持ちが届けばいい。
「おら、アラシヤマ。さっさと来い」
「へぇへぇ」
向けられる笑顔を追って、アラシヤマはゆっくり歩き出した。
世界に色をくれたのは、いつでも前を見据えている力強い瞳を持った人だった。
闇裂く君
シーツに広がる艶やかな長い黒髪。
自分も同じ黒髪だというのに、どことなく違うと、そう思ったアラシヤマは惹かれるがままに手に取った。
「何やってんだよ」
少し掠れた声がアラシヤマの動きを暫し止める。
「起きてはったんどすか?」
「今起きた」
体を起こそうとするシンタローの上半身は何も身につけておらず、鍛え抜かれた筋肉が惜しげもなく晒されていた。
気だるげなその姿でも他を圧倒する空気を身にまとう人物。
「…アラシヤマ?」
「へぇ」
「それ、貸せ」
「知ってはったんどすなぁ」
惚けるには少々立場が弱かった。
シンタローが問答無用で奪った書類に目を通している間、アラシヤマは目を細めてシンタローを見つめる。
「やっぱ、好きどすわぁ」
「…何がだよ」
「あんさんが、どす」
この言葉に、シンタローは目線をあげてアラシヤマを一瞥する。
穏やかに微笑んでいる男がどんな意味でこの言葉を放ったのか知りたいような、それでいて知りたくないような気分に襲われた。
アラシヤマもそれが分かっているらしく、ただ微笑み続けるだけだ。
「…なんで」
「愛されたいから、でっしゃろうなぁ」
愛されたいから、愛したい。
「他をあたれ」
「そんな殺生な…もうちょっと考えてくれはってもええんとちゃいますのん」
また戻ってしまった視線をおいかけて、アラシヤマは溜息を吐く。
視線が逸らされても意識がこちらに向いている事を知っていての行為だった。
「わて、シンタローはんを愛してますんに」
あなたを愛したいがために、自分を愛して。
自分を愛するために、あなたを愛する。
「だから、他をあたれ」
「シンタローはん以上に輝いてる人なんかおりまへんわ」
深い闇の中ですら輝きを放つモノなど、稀有すぎてアラシヤマは他をあたる気にもなれなかった。
「迷惑なヤツ」
「そりゃ、わてやさかいに。せやけど、受け入れるシンタローはんも悪いんでっせ?」
「勝手に言ってろ」
未だ微笑み続けるアラシヤマに負けたような気がして、シンタローはわざと突き放すように悪態吐いた。
アラシヤマが見つめてくるその瞳が深すぎて、時折どう対処したらいいのか分からなくなる。
そんな時は決まって、眼魔砲などでは逃れられないのだ。
「シンタローはんが、わての人生変えはったんやから」
「勝手に人のせいにするな。朝っぱらから鬱陶しい姿見せられるのも嫌だけどな、やけに勝気なお前を見るのも嫌だ」
ベッドから立ち上がったシンタローは、これで終わりだというようにアラシヤマに背を向けて洗面所へと向かった。
こうなったらもう、アラシヤマが引くしかない。
背に流れる黒髪を掴み取るかのように腕を伸ばし、触れる直前で動きを止める。
「あんさんが好きなだけなんどすけどなぁ」
色をくれた人に。
否定するだけではない事を教えてくれた人に。
少しでもこの気持ちが届けばいい。
「おら、アラシヤマ。さっさと来い」
「へぇへぇ」
向けられる笑顔を追って、アラシヤマはゆっくり歩き出した。