純粋に意外だ、と思ってしまった。
***
「……――,Lastly, I wish to ―― for his kind invitation.
Thank you for your atentions.」
低すぎず高すぎず、抑揚は控えめだがけして平板ではないその声が途切れて一呼吸の後、会場内には一斉に拍手が沸き起こった。
朗々と、普段の会話からは想像もつかないほど淀みなくスピーチを終えたのは、今は団の幹部の一員となっているアラシヤマ。かっちりとした黒いスーツに身を包んだ男は、割れんばかりの拍手に対して簡単な礼を返し、演台の前から舞台上に設置されたガンマ団幹部用の席へと戻ってくる。
公的な場への一応の配慮からか、常に顔半分を覆っている鬱陶しい黒髪はきれいに後ろに撫で付けられており。隠しようもなくその身に染み付いている陰気な雰囲気すら無視すれば、男の姿はいかにも有能そうな美丈夫と言ってよかった。
そう、普段の極端な挙動不審さえなければ、コイツもそこそこ見られる外見をしていたのだ。そんな腹立たしくも否定できない事実を、シンタローは思い出させられていた。
いつもの素っ頓狂な祇園言葉が、英語になると余計なものを削ぎ落としきったような理路整然たる話し方になる。英国よりは米国に近い発音だが、父親からクイーンズイングリッシュを叩き込まれたシンタローが聞いても、その発音や文脈はきれいなものだった。
会議はアラシヤマが行ったガンマ団の報告が最後の演目で。
アラシヤマと入れ替わりに演台に立ったのは開催国であるアメリカの大統領。彼がいつもながらにまっすぐで力強い言葉で閉会の辞をくくり、第六十七回八カ国定例会議はつつがなく、幕を下ろした。
『 声 』
ことの始まりは、ほんの軽い諍いからだった……と思う。
確か総帥室にきたアラシヤマが自分の仕事について何か小言のようなことを言って。たまたま不機嫌だった自分がそれにやたらムカついて。で、気付けば自分の抱えている仕事をひたすら羅列して、それらがいかに面倒くさくて厄介なものかということをぶちまけていた。
ただ、それら全部をアラシヤマはほんの少し片目を眇めながら聞いていて。何も口にはしなかったがそれが「せやけど、それがあんさんの仕事やないの」とでも言っているような表情だったので。
じゃあオマエ、今度の年末の世界会議でオレが挨拶したあとの団の報告全部やれよ。
と、その時抱えていた仕事の中で最も面倒と思われるものをアラシヤマに回したのだった。
本気が少しも混じっていなかったかと問われると断言はできないが、半ば以上、単なる嫌がらせとして言ったことだった。
それほど重要な場での報告、しかも現在微妙な端境期にある団の広報的な意味を含めたスピーチなど、純粋な英米人ですら難しいだろう。曲がりなりにも英国人の父親を持つシンタロー自身がやるか、もしくは英語圏に生まれ育ち専門の訓練を受けた人間に原稿を読ませるかの二者択一が当然の流れだった。
が、アラシヤマは一瞬だけ逡巡はしたものの。
存外気軽に、仕方のうおすなあ、と応じたのだ。そのあまりにあっさりとした対応に、かえってシンタローのほうが心配になった。
「は?え?って、オマエ……大丈夫なのかよ?」
「あんさんがゆうたんやないどすか。まあ、なんとかなりますやろ」
「……人前で話すんだぞ。それも、百人単位の」
「ナスやらカボチャやらが並んどると思たらええんどすやろ。……それに……フフ……知らんお人と一対一で人と話すほうが、よっぽど緊張しますわ・・・・・・」
背後に人魂を一つ二つ浮かばせながらそう呟くアラシヤマに、本当にいいのか、と一抹の不安はあったものの、シンタローはそれ以上突っ込んだ質問はしなかった。どんな仕事であれ、アラシヤマが一度引き受けたものを反故にしたことは、とりあえず今までにはなかったので。
そして今日のアラシヤマのスピーチに至ったのだ。非常にムカつくことながら、及第点を遥かに超えた出来、と認めざるを得ないスピーチに。
***
用意された貴賓室は黒と焦げ茶でまとめられた非常にシックな造りだ。ぐしゃぐしゃと長い黒髪を掻きながら、紅い服の総帥は本革製の高級そうな椅子にどさりと掛ける。
秘書たちにはすでに下がっていいという許可を与えてあるため、室内にいるのはシンタローとアラシヤマの幹部二人だけだった。
室内のミニバーで入れられたブラックのコーヒーをアラシヤマから受け取り、ず、と一口すする。
「おつかれさんどした。あとは二時間後に始まる懇親会さえやり過ごせば、今回の出張は無事終了どすな」
ぱらぱらと今日の日程表をめくりながら、アラシヤマもまたコーヒーを口にしつつシンタローに労わりの言葉をかける。
だがそれに対するシンタローの返答はない。椅子の上にふんぞり返り、肘掛に片肘をついた姿勢で、胡散臭そうにアラシヤマのその姿を眺めている。
両目が現れているアラシヤマというのも非常に違和感があるのだが、それ以上にシンタローが気にかかっていたのが先ほどの流暢な英語だ。
やがて、なんとも形容しがたい表情で、ぼそりと呟いた。
「オマエが英語得意って、なんかすっげー違和感あるんだけど。しかも発音」
確かに、ある意味では多国籍企業とも言えるガンマ団で、ある程度の英語が使えることは必須である。だが、それでも割り当てられた役職に応じ、事務に必要なだけ、或いは戦場で必要な分、覚えていれば仕事に支障はない。ネイティブの団員も少なくはないが、完全な日本びいきのマジックが引き抜いた人材が多数を占めるガンマ団では、正直それほど堪能な人間が多いというわけではない。
いまだ信じられないというその顔を見て、アラシヤマは一つため息をつき、そして持っていた今日の日程表をシンタローの前の机の上にパン、と置いた。
「そら授業全部寝呆けてても、トリプルA以外もろたことないあんさんには敵いまへんけどなあ。これでも士官学校時代からのナンバー2どすえ」
もっともサボリ居眠り常習犯のあんさんは授業中のわての発表なんて聞いたことあらへんのどっしゃろな、と表情も変えずにのたまう。
確かに、英語の授業など退屈もいいところだったため、シンタローはほとんどまともに聞いていた覚えはない。グループでプレゼンテーションなどがあった場合にも、自分の義務はきちんと果たしたものの(それはもちろんリーダーとしてほぼ全てをこなしたということだ)、他のグループの発表なんて全く記憶に残っていない。
だがまあ、今思えば聞けばそれなりに面白いものもあったのだろう。今より更に人見知りの酷かったコイツが一体どんな顔をして発表などしていたのかと思うと、それを見ておかなかったのは少しだけ惜しかったような気もする。
そんなことを考えながら、シンタローは机の上に置かれている煙草入れからいかにも高級そうな紙巻煙草を一本取り出し、火をつける。
「いや……」
そして、ふう、と一筋紫煙を吐き出しながら、比較的真面目な顔で言った。
「思ってたよりは、うまかったな」
「へぇ、そらおおきに」
「オマエ、普段から英語で会話すれば少しはマトモそうに見えんじゃねーの」
「酷ッ、わてはいつでもマトモどすえ!」
ああ、本物の変人こそ自覚がないというのは正にコイツのことを指して言っているんだなあと、シンタローは最早呆れるまでもなく、ひきつったように唇の片端を上げる。
ん?とそこまで冗談半分で話したところでふと、あることを思い出した。
そういうえばコイツ、あの島でバーニング・ラブとか叫んでなかったっけ?いや、ライクの最上級がラブなんだし欧米じゃふつーに友人間でも使うし……ただ普通そのフレーズだと燃え上がる愛……
と、そこまで考えたところでシンタローは思考を止めた。もし奴が正しい用法でそれを使っていたのだとすれば、そこには更に最悪な結論が待っているだけだ。
「ま、まぁとにかく、オマエの場合性格はどうしようもねえとしても、その話し方にもかなり問題があるよナ、きっと」
京都弁というだけではなくほぼ完全な祇園言葉。それも、アラシヤマの場合かなり独自のアレンジがほどこしてある。今時、祇園の本業の舞妓ですらこれほどどすえどすえと連呼はしないだろう。
だがその言葉を聞いたアラシヤマはほんの少しだけ片眉を上げて。
そして、コーヒーを片手に持ったまま、つかつかとシンタローのそばに近づいた。
「・・・・・・へえ、せやったら…・・・」
す、と身をかがめて、シンタローの耳元に唇を寄せる。
「こんな風に話したら、いつもきちんと聞いてくれるんですか?」
関西風のイントネーションは全くなく、ただそのややゆっくりとした話し方だけが、ほのかにいつものアラシヤマの口調の俤だけを残している。静かで、穏やかな低音。
その声が耳に触れた瞬間、自分でもそれとわかるほど、血液が顔に集中するのをシンタローは感じた。
馬鹿なこと言ってんじゃねェ、と一笑してやりたいのに、唇がこわばって言葉が出ない。一体何が起こったのか自分でも理解ができない。
ただ、その声が。声そのものはいつもとほとんど変わらないはずなのに、ただ本当に普通に、囁かれただけなのに。
シンタローは僅かも動けずにいる。
その緊張を破ったのは、他でもないアラシヤマの行動だった。
自身の反応にとまどっていたシンタローの沈黙をどう解したのか、いきなりクッと噴き出したかと思うと、シンタローのそばから身を引いて笑い出す。
「あかん……自分でおもろなってまう」
そして、やっぱ東京弁はこそばゆうて性に合わんわあ、などと言いながら、なおもケラケラと笑う。
シンタローは通常の話し方に戻ったアラシヤマに一瞬あっけにとられたような表情をして、―――それからおもむろに机につっぷした。
アラシヤマに相槌も突っ込みもいれず、シンタローはその体勢のまましばらく動かない。どうしたのかとアラシヤマが訝しみ始めた頃に、くつくつとその肩が震え始める。
ふと机に上体を伏せたままの総帥服の襟元に目をやると、そこから覗くシンタローの首筋には見事な鳥肌が立っていて。
それに気づいた瞬間、さすがにアラシヤマも眉を下げ、情けない表情になった。
「そない、サブイボ出すほど気味悪がらんかって……」
だが、ため息とともにこぼれた本音は、言い終わる前に無理やり途切れさせられた。
アラシヤマの目の前を真っ白な光が覆ったかと思うと、避ける間もなく、新総帥の手から放たれた光弾が直撃したからだ。
他国の持ち物である貴賓室に大穴を開けないよう手加減はしたが、至近距離から受ければ常人なら三日は生死の境をさまよう威力の眼魔砲。ただ日ごろの免疫があるアラシヤマなら、おそらく二―三時間で目を覚ますだろう。
たとえパーティーに間に合わないようであっても、どうせこいつは壁の花でいるしかないんだから問題はない、とあながち間違っていないだろう解釈の元に自己正当化を図る。
焦げくさい匂いを立ちのぼらせながら床にのびたアラシヤマをあえて視野に入れないようにして、シンタローは机の上でまだ火照りの収まらない頭を抱えた。
「キモいにも程があんだよ……阿呆」
耳朶に触れそうなほど近くで囁かれた、いつもと違う低音に。
鳥肌が立つほどゾクゾクしたなんて、死んでも言えない。
了
================================
普段おちゃらけてる人が急に真面目な声出したりするとドキッとしませんか、という話。
(元アラシンお題15「自業自得」.)
今年最後という日、そしてこの時間帯にはたぶん人などいないだろうと思って、書類を持ったまま向かった団内の喫茶室で、思いもかけない背中を見つけた。
比較的広々とした空間に、ぽつんと独りで。部屋の最奥、窓際の椅子ではなく机に直接腰をかけて、紅い背中は横柄に足を組みながらぼんやりと窓の外を眺めている。
『 祈 』
軽い気分転換にと思っていたのに降ってわいた僥倖。それはともかく、何故この団の長たる男がこんな時間にこんなところにいるのかと、不思議に思いながらアラシヤマはその背に近づき、声をかける。
「何してはりますのん、こないなとこで」
「―――んだよ。よりにもよって、アラシヤマか」
シンタローはあからさまに嫌そうな顔をしながら、向かいの椅子に腰をかけた制服姿の男に目を流す。そしてひとすじ、煙を吐き出しながら、休憩だきゅーけー、と言った。
「総帥室以外で、割と広くてタバコ喫えるとこ、ここくらいしかねーし」
確かに、最近の大手企業などに倣い、「原則的に」団内の仕事場や廊下などは禁煙となっている。小さな喫煙スペースは各所に設けられているものの、そういったものはシンタローの好みにはそぐわないらしい。時折屋上などで喫っているのは知っていたが、さすがにこの寒さでは屋外に出る気にはならなかったようだ。
机の上で足を組み後ろ手をつくような姿勢で、シンタローはアラシヤマに向かって不満そうな声で言う。
「テメエこそ、なんでいんだよ。ミヤギとコージは、この前顔合わせたとき正月は実家帰るっつってたぞ」
「わても、仕事中の気分転換どすわ。あんさんが、家族のおるもんは年末年始優先的に休暇出す言いはったから、その尻拭いでわてみたいな独りもんは休む暇もあらへんのどす」
言いながら、アラシヤマは持っていた書類をばさりと机の上に広げる。そして胸元からボールペンを取り出して、なにやら作業の続きを始めた。
ほんの少しだけ居心地が悪そうに、シンタローは口を堅く引き結んで、また窓の外に視線を向ける。そんな様子がおかしくて、アラシヤマは書類に向かったまま薄く笑いながら言った。
「冗談どす。心配せんでも、一月の終わりに三連休申請しとります。そんくらいのほうが静かで、わてにはええ……」
かりかりと、アラシヤマが走らせるペンの音だけが、二人だけの空間にやけに大きく響く。
ゆっくりと発されるその声は、あながちその場凌ぎの嘘というわけでもなさそうだった。確かに正月の京都といえば、なんとなく色々と行事などがあってせわしそうではある。印象の問題かもしれないが、そうした晴れやかな場よりはやや静かになった古都のほうがこの根暗男には似合いなのだろう、とも思った。
「シンタローはんこそ、家戻らんと、マジック様やらグンマはんやら淋しがっとんちゃいますか」
アラシヤマのその問いに、あー、まあなぁと言いながら、ややバツの悪そうな顔でシンタローは視線を斜め上に向け、人差し指で頬を掻く。その様子を見れば、どうやらアラシヤマの言うとおり家族の面々からは相当なクレームを受けていたらしい。
「ただ、年末年始ったって前線行ってるヤツらもいるしナ。クリスマスはコタローのこともあって休みもらったから、こっちくらいはいなきゃマズイだろ」
「へぇ、そら立派な心がけで」
「んだよ。嫌味な言い方しやがって」
「いや……」
言いかけて、そのままアラシヤマは書き物をしていた書面から顔を上げた。
そして、シンタローの顔をじっと見て、静かに微笑う。
「嬉しゅおす。こないな日に、シンタローはんの顔が見れて」
「……」
あまりに真正面からそう言われたので、キモイと一笑に付すわけにもいかず。なんともいえない気まずさを感じて、シンタローはわざと視線をそらした。
「……オマエって、なんつーか、基本的に根性捻じ曲がってるくせに、時々直球だよな」
「返事に困る言われようどすな」
「ヤな投手だっつってんだよ」
口の端に煙草を咥えたまま、苦虫を噛み潰したようにそう言うシンタローに、アラシヤマはふ、と笑って、
「捻じ曲がっとるついでに、もう一つ教えたげまひょ」
シンタローの横顔を眺めながら机の上に肘を立て、組んだ両手の上に顎を乗せた。
「仕事たまっとるゆうのはホンマどすけどな。今日この時間まで残っとったんは、あんさんが残るて秘書はんから聞いたからどすわ」
シンタローがほんの僅かだけ目を丸くして、アラシヤマを見る。
「年明けまでの仕事もまだ終わりきっとらんて聞いとりましたから、会えるかどうかもわかりまへんどしたけど。同じトコで年が越せるんなら、それでええかな、思うて」
「……」
淡々と紡がれるその台詞に、シンタローは呆けたような表情をした。咥えた煙草の先から、ぽろりと一摘みの灰が落ちる。
室内にあるのは、完全な静寂だ。その灰が地面に落ちて、散った音まで聞こえたかと錯覚するほどに。
「……オマエって、ホント……」
呆けた表情のまま、シンタローは何かを言おうとし。そして軽く首を振って、眉根を寄せたいつもの顔に戻ると、それをやめた。
「いや、やっぱいーや。なんにせよアホでキモいのには変わんねぇ」
そしてがしがしと、何かを追い払うように長い黒髪を掻く。
そのとき、近くの壁に設置された時計が、微かに、だが確かにカチリと鳴った。
長針と短針が、重なったのだ。
「ああ、日が変わりましたな」
時計の方に目をやりながら、アラシヤマは言う。
「ほな、明けましておめでとさん。今年もよろしゅう」
座ったまま律儀にぺこりと頭を下げるアラシヤマに、すでにいつもの調子を取り戻したシンタローは不敵に笑って、言葉を返す。
「ああ。去年以上にこき使ってやっから、覚悟しろヨ」
それがこないな時間にも仕事してる人間に言う台詞どすか、と眉尻を下げながら言えば、ばーか、俺も同じだろうが、と悪戯っぽい笑顔で返された。
窓の外に広がるのは濃藍色の闇。遥か遠くに見える街の明りと時折走る団のサーチライトだけが、闇を不完全なものにし、生き物の存在をそこに感じさせる。
シンタローの笑顔にアラシヤマも苦笑して、椅子から腰を上げた。そして机に直接腰掛けているシンタローの頬に手を当て、
「あんさんについてく、決めたんはわてどすから。―――仕方のうおすな」
言いながら、ゆっくりとその顔を引き寄せる。
シンタローも今日ばかりは特別と思ったのか、抵抗せずに目を閉じて、それを受けた。
軽く舌を絡ませ、啄むようなキスをしながら、アラシヤマはその温度と感触を、ただ暖かい、と思う。そう、どれほどこの手を汚し、ごく稀に果てのない極寒の雪原にも似た孤独の影が心に射し込むことがあっても、シンタローのそばだけは、いつも驚くほど暖かいのだ。
手のひらと唇に感じる確かな温度を愛おしみながら、今年もまた、どういった形であれこの人の傍らにいられますように、と、アラシヤマは祈るように願った。
了
==========================================================
こ、今年最後の更新は意地でアラシンで締めましたでも半分寝惚けながら書いたので意味不明な部分とかこんなんありえねえ!とかゆう部分とかだらけだったらゴメンナサイ(いつものことですが)あと色々(胡散)クサくてすみません。
管理人は届きそうで届かないアラシンも片思いのアラシンも好きですがやはりラブラブなアラシンも大好物のようです。
元よりその男に近づこうとする団員などほとんどいないのだが、その日、その顔を目にした団員たちはいつも以上に露骨に―――否、あくまで本人たちとしてはさり気なく―――視線をそらして、軽く会釈だけをしながら横を通り過ぎていった。
そんな他人の態度には気付いていたが、あえて隠すようなものでもない。そう思って、バインダーを抱えつつ常の無愛想な表情で歩いていた男は、急に廊下中に響き渡るかのような大声で呼び止められ、自分のそれまでの考えを後悔した。そうだ、団内にはこういった人間もいたのだった。やはり多少なりとも隠しておくべきだった、と。
『あすも また』
「アラシヤマ!?どがぁしたそんカオはぁ!」
ひたすら目立たぬよう早足でその場をやり過ごそうとしていた団員たちすら、思わず振り向くその大声。
発したのは、日本人とはとても思えないようないかつい大男だった。制服の肩に軍用コートを羽織った黒い短髪のその男は、目を大きくしたままアラシヤマのそばにずかずかと歩み寄ると、表に出ている左頬を凝視した。
「……別に、大したことやおへん。女子でもあるまいし、そない騒ぎたてんといてや、コージはん」
アラシヤマはうんざりといった様子で自分を眺めてくる大きな眼から、ふい、と顔をそらす。
「おんし、最近は内勤続きじゃろが」
「気にせんといておくれやす。ほんのちょっと、『新総帥』とぶつこうただけどすから」
「ふーむ」
淡々とそう言うアラシヤマの前で腕組みをして、コージは、珍しいのお、と慨嘆のような声を出す。
「何がどす?わてとあんお人のケンカなんていつものことどっしゃろ」
「いや……」
言いながら、コージは存外真面目な眼をして、アラシヤマの左頬を指差す。そこには殴られた痕のような赤みがくっきりと残っていた。一部は既に痣になりかけているのか、青紫に変色しているところもある。
「焦げちょらん。いつもじゃったら、眼魔砲で一発じゃろが」
コージのその台詞に、こういう時ばっかり察しがいいゆうのも嫌なもんどすな、と思いつつ、アラシヤマはコージから顔を背けたまま、自嘲のような表情をしながら目を細める。
「―――そんだけ、腹立ったってことやないどすか?」
できることならすぐにでもその場を立ち去りたい気分だったが、この巨躯に邪魔されているとそれもままならない。とりあえず無駄に衆目を集めることだけは避けたいと、アラシヤマは通路の脇に寄る。
コージは本人が意識してそうしているわけではないのだろうが、アラシヤマの退路を断つように壁に肘をつけながら、いまだ不可解という顔をしてアラシヤマを見ている。
「しかし……、殴りつけるっちゅうのは、穏やかじゃないのぉ」
「禁句言うたんはわてどすさかい、仕方ありまへんわ」
まぁ、わざとどすけどな、と言いつつ、逃れられないと観念したアラシヤマはぽつり、ぽつりと事の経緯を話し始めた。
***
朝一番に総帥室を訪れたときから、アラシヤマにはその話し合いが決して何事もなく終わるようなものでないことはわかっていた。
昨晩遅くまで幾度もシュミレートを繰り返し、それでも覆すことの出来なかった結論。それを記載した書類を持って、アラシヤマは一つの報告をしに上がったのだった。
それはとある小さな途上国の、政府を転覆させるという計画で。人道的にもかなり問題があるとされるその国を変革させることは、新しいガンマ団の理念にも則ったものだった。ほとんど決定事項として、アラシヤマの元に届けられたその計画書。だが、その計画に対してアラシヤマの下した判断はシンタローとは全く意を異にしたものだった。
彼は、その書類をシンタローの前の机に置くと、きっぱりと言い切った。時期尚早だ、と。
それを受けたシンタローが思わず気色ばむ。
「―――理由は」
「見返りが、足りまへんわ」
剣呑なその視線を身に受けながらも、アラシヤマは飄然とした態度を崩さない。
「見返りなんざ、後からどうとでも帳尻合わせられんだろーが。今、こんなとこで議論してる間にも、あの国じゃ何百って子供たちが」
シンタローの言いたいことは理解しているつもりだ。ただでさえ子供には甘いこの新総帥が、依頼を受けてその国を視察し、現状を目のあたりにして一刻も早くなんとかしなければと焦る気持ちも、憶測は出来る。
だが、今の体制では、ただ敵を潰してそれでおしまいという話にはならないのだ。現政府を崩したところで、その後の新政府の樹立、弱者への人道的支援、新たな国家体制を確立させるところまで手助けできるという確信がなければ、団の介入は事態を更に悪化させる可能性もある。
勿論シンタローにもそれはわかっているだろう。確かに、団の資本力をもってすれば、先々まで見越してそれを行うのも不可能な話ではない。だが、元の依頼主である民間組織からは、それに見合うだけの報酬はまず見込めなかった。将来投資としても、不確定要素が多すぎる。
そして、そうした依頼は、この一件を片付ければすむと言う類のものではないのだ。
新体制に移行してまだ間もなく、新総帥のどんな僅かな失策にもつけ込もうとしている不穏分子がどこに潜んでいるかもわからない団で、それだけのリスクを背負い込むだけの余裕はない。それがアラシヤマの譲れない主張だった。
しかし、それらのロジックを聞いて尚、今動かなくては遅いのだ、とシンタローは言い張る。それをしなくては、何のための新体制だ、と。
気付けば売り言葉に買い言葉。互いに譲歩できない主張に、アラシヤマが終にそれを口にした。
「今のあんさんにできることとできんことの見極めすらつかへんのどすか?ガンマ団総帥て肩書きつけて、父親とおんなじ紅い服着て、それであんさん自身が強ぅなったとでも思うてはるん?」
はん、と冷笑しながら言ったアラシヤマのその言葉に、シンタローの体は考えるより先に動いていた。
ガツッという重い音が、二人きりの室内に響く。
なんとか一瞬先に歯を食いしばっていたため、地に倒れるような無様な真似はしないですんだ。だが。
机越しとはいえ、遠慮のない力で殴りつけられたその痛みより、そうされた後の、怒りと困惑があいまったようなシンタローの顔を見たときのほうが、余程ショックは大きかった。
(―――ああ、そんなに)
シンタローは机の上に両腕をついたまま、まるで必死に何かに抵抗する幼児のような表情でアラシヤマを睨みつけている。
(―――泣きそうな顔を、させたいわけじゃないのに)
言い過ぎた、という後悔がないわけではなかった。だが、アラシヤマは自分の意見を変えることはできない。
「……失礼、させてもらいますわ」
言いつつ、儀礼的にアラシヤマは頭を下げる。シンタローから返事はない。
室内に重い沈黙を残し、アラシヤマは総帥室を退出した。
***
アラシヤマがほとんど感情を表さず話したその経緯を、コージはむぅ、と、顔を顰めて腕組みをしたまま聞いている。すべてを話し終えたアラシヤマは、中空を見据えながら、呟くともなく言った。
「わてや―――あかんのかもしれへんのどすなぁ……」
彼の力になりたいというのは本当。僅かでもその支えになれればと願った思いは、けして嘘ではない。
だけど、あまりに違いすぎる。そして、きっと互いの考え方はきっと、これからもずっと交わらない。
だが、そんなことをぼんやりと思っていたアラシヤマは、唐突にその背中を大きく分厚い手のひらで思いきり叩かれた。
「なあーに、ゆうとるんじゃ!!」
頬の痣を忘れさせるほど、ひりひりと痛む背中。アラシヤマは目を丸くしてコージを見上げる。そこには、常にはほとんど見たことがない真剣な面持ちのコージの顔があった。
「ヌシらしゅうもない。大体おんしとシンタローはついこの前までずっと反目しおうとった仲じゃろが。一度同じ死線潜り抜けたくらいでなんもかも分かり合える思うちょったら、そりゃ考えが甘いちゅうもんじゃ」
まるでわからずやの小学生に説教をするようにアラシヤマに顔を突きつけ、傷があるほうの片目を眇めながら、コージは言う。
「そんでも、シンタローに対してだけはいっつも真っ直ぐ向かってこうとしとったのが、ヌシのええところじゃろうが」
おんしからそこを取ったら何も残らんぞ、と付け加えながら、アラシヤマの目の前でコージは続ける。
アラシヤマは常日頃軽口しか叩き合うことのない「同僚」の、極めて真剣な表情に戸惑いながら、ただ呆然とそれを聞いている。
「見えるもん、辿る道は違ぉても、同じ志を持つことは出来る。何度ぶつかりおうて、傷だらけになってもそれでもそばにおれる人間。―――それを、親友っちゅうんじゃろう?」
久しぶりにこれほど近い距離で、この短髪の男の瞳を見た。普段は極めて単純で大雑把な体力馬鹿としか思えないのに、その瞳の色の深さは、一体なんだと言うのだろう。
「まぁ、ヌシやシンタローは存外抱え込むタチじゃけんのう」
「あんさんは……悩み少なそうで、ええどすな」
「これで色々と考えることも多いんじゃぞ。そんでも大体いつもワシの心は甲子園の夏空のように晴れ渡っちょる」
胸を張りながらコージは言う。その考えることの内容をぜひ知りたいものだと思いながら、アラシヤマはため息をついた。どうせ今日の食堂の日替わり定食の内容とかそのくらいに違いない。
この男は、一の問題に対して、一の悩みしか持たないという至極単純で、潔い理念を無意識のうちに持っている。そして、悩む前にできることをまず行い、それでも残ったものは仕方ないと抱えたままにしておく包容力も。
そんな男の考え方を、少しだけ羨ましいとアラシヤマは思った。だがそんな目前の男の思いなど全く気にせず、コージは言う。
「なんにせよ早く行っちゃりぃ。仲直りのしやすさと、ケンカの後の時間は……ほれ、アレじゃ、アレするけんのぉ」
「……比例、どすか?」
「おぉ、それじゃそれ!比例するんじゃ」
「あんさん……比例ゆう言葉すら忘れるんはヒトとしてどうかと思いますえ……」
アラシヤマが呆れたようにそう口にすると、コージは、お、やっといつもの調子が出てきたのう、と片眉を上げた。
「でも、まぁ、言うてはることは、正論、どすなぁ……」
アラシヤマが小声で呟いたその言葉に、ほうじゃろうほうじゃろう、と、コージは一人満足したように頷く。そして、真面目な顔でアラシヤマの胸を太い人差し指で突き、
「まだ昼メシには早いじゃろ。行っちゃり。そんで何度でも殴りおうてくればええんじゃ。―――わかったか!」
そう言って、ニッと破顔する。
そのあまりにも真っ直ぐでおおらかな笑顔にアラシヤマは一瞬呆気に取られたような顔をし―――そして、苦笑しつつ肯いた。
「……おおきに」
***
秘書に総帥の在室を確認し、失礼しますえ、と言ってノックもせずにアラシヤマは室内に足を踏み入れた。
重厚な机に向かい片手で頭を掻きながら何かを考えていたらしいシンタローは、不躾な侵入者の姿を認めると、眉間の皺を一層深くした。一度ちらりと目線を寄越した後は、その存在を完全に無視して、すぐにまた机上へと意識を戻す。
「わての顔なんて見たない、ゆう感じどすな」
苦笑しながらそう話しかけるアラシヤマに、シンタローは僅かの反応も見せなかった。耳に入っていないわけはない。これだけの広さの部屋だ。
「そん気持ちはわかりますわ。さっき言い過ぎたんは謝ります。ただ……これだけは、聞いておくれやす」
小さくため息をつき、内心の緊張を必死で抑えながら、極力平静な声でアラシヤマは言う。
「わては自分が一度言うたこと、引っくり返すんはできへん。どう考えてもあの計画進めるんは、団にとってはデメリットや。―――せやけど、あんさんがどうしても進めたい言わはるなら、わてはそれに従います」
その言いように、シンタローはさすがにキッと顔を上げ、そして―――何も言えなくなった。
そんなことじゃない、そんな台詞が聞きたいわけじゃない、とシンタローは怒鳴りつけようとした。だが、そういったことなど全てわかっているかのように、アラシヤマは何か痛みを抱えたような顔をして、それらの言葉を口にしている。
怒鳴りつけようとした言葉は飲み込んでしまい、だが普通の会話を返すことも出来ずに。シンタローはただ、机上の書類からは完全に顔を上げた。
そして一本煙草に火をつけたかと思うと、くるりと椅子を九十度回転させ、アラシヤマに横顔だけを見せて煙を吐き出す。険しい表情で、まるで努めて平静を保とうとしているかのように。
「……わては今でも、どっちのほうがあんさんにとってええことやったんかわからへん」
静かに室内に響くその声。
口にしている言葉は、シンタローに言い聞かせているのか、それとも自らに問いかけているのか、アラシヤマ自身にもよくわからなかった。
「マジック様の作らはったほとんど完璧な団そっくりそのまま受け継いで、汚いモンなんてなんも見んと、ただそこで安穏と踏ん反りかえってたほうが余っ程ラクで幸せや」
どこを見ているのかわからない視線、意識的に何の表情も浮かばせていないその横顔に向かって、ただアラシヤマは語りかける。
「あんさんの言うことはまだ、甘ったれの坊としかわてには思えへん。せやけど、あんさんは見たいてゆうたんや。どんな汚いモンでも痛いモンでも、見て、自分の手で変えるて決めたんどっしゃろ。ほな―――」
シンタローにとって聞きたくもないだろうその台詞は、アラシヤマにとっても自身を傷つける諸刃の刃だ。
だがそれを口にするアラシヤマの表情は、あくまで真摯で。自分に可能な限りの感情を込めて、言った。
「そないに急がんでも―――ゆっくりそうしたら、ええやないどすか」
豪奢な椅子の背後にある窓からは温度を伴わない冬の強い日ざしが射し込んでくる。扉の方向に伸びるシンタローとアラシヤマの影が濃い。紫煙が一筋、ゆらりと天井の換気口に向かって上っていく。部屋には冷たい陽光と沈黙が満ちている。
黄色い太陽の光をその横顔に受けながら、シンタローが、ゆっくりと口を開いた。
了
==========================================================
たまにはビターに。新体制発足後わりとすぐ、といった感じで。
書ききれませんが、コージは本当に男前だと思うんです。
黒髪のシンタローと「分れ」て、新たな名を付けられ、あの島で死闘を繰り広げ、そうして今は、かつて自分の半身であった男の補佐という立場にいる。
あの島で持っていた怒りや憎しみ、悔しさや愉悦、そうした感情のほかにも、初めて知る感覚は数え切れないほどあって。グンマや高松のけしてそうとは感じさせない気遣いや、シンタローとの幾度もの衝突を繰り返しつつ、多くのものを学んだ。
基礎的な知識はシンタローの中にいるときから身に付けてはいたけれど、それらは全て薄い皮膜を通したような感覚で。初めて生身の体で実感する様々な事象に戸惑うことも多かったが、ようやく自分はこの「居場所」に安んじていられるようになったと思う。
だが、それでもまだ理解するには難いこともいくつかはある。それが自分という特異な生い立ちを持つ人間だからなのか、それとも一般的なことなのか、それすらもキンタローにはわからない。だがとにかく、しばしば奇声と共に総帥室に飛び込んできては意味不明のことを立て続けにまくしたて、挙句最後は必ずシンタローの眼魔砲によって香ばしい匂いをたてる羽目に陥っている男の行動も、その疑問のかなり上位を占めるものだった。
『Reason』
団内の中庭、珍しく一人で行動していたときにばったりと男と出くわしてしまったキンタローは、そんな事を瞬間的に思い出していた。
男は中庭のベンチに腰掛け、何かのレポートらしき紙の束を眺めている。空は綺麗な冬晴れだが、まだ日光浴をするには寒すぎる。周囲に人影はない。
気付けばキンタローは男のそばまで歩み寄っていた。深い意味はない。あえて言うならば、それは男に対する純粋な好奇心からだ。
男が自分に対して、時に明らかな敵意をむけてくることは知っている。今に見てなはれ、だの、シンタローはんの一番の親友はわてどすからな、など、理解は困難だがとにかく皮肉めいたことを言われたことも、一度や二度ではない(そのたびに大概横にいるシンタローに眼魔砲を浴びせられていたが)。
それでも、そうした行動すらキンタローにとっては不思議の一つで。二人きりの今なら、多少その謎の手がかりが掴めるかと思ったのだ。
「あんさん、デカい図体でそこに立たれるとこっちが日陰になります。どいてくれなはれ」
近づいたキンタローに書類から顔も上げずに男は言った。
キンタローはややムッとしながらも、それでも素直に一歩横によける。
「何をしているんだ、こんなところで」
「見てわかりまへんの?書類の確認どす。今開発課から受け取ってきたばっかどすけど、チェックだけどしたらわざわざ部署まで戻ることもあらへんさかい」
ぱらぱらと紙をめくりながら、人を小馬鹿にしたような口調で言う。
「あんさんこそ、珍しゅう一人でヒマそうどすな」
アラシヤマは相変わらず書面から顔も上げない。なんとなく大の男二人が並んで腰掛けるにはこのベンチは狭そうだと思い、キンタローは隣には座らずに立ったまま黒髪を見下ろすようにして話す。
「シンタローがコタローの様子を見に行っている。アイツもたまには二人きりで話したいこともあるだろうと思ってな」
席を外した、とキンタローは答えた。
へぇ、そらお優しいことで、とアラシヤマは皮肉げに言う。やはりその態度は、どう見てもあからさまな敵意が剥き出しだ。
「―――いつも、思っていたんだが」
「なんどす?」
「お前は何故、そう俺にばかりつっかかるんだ?」
あまりにストレートなその問いかけに、アラシヤマは思わず噴き出しそうになった。だが、キンタローとしては冗談などというつもりは皆目ない。極めて真面目な話だ。
「あの島で俺がしたことを恨みに思っているのなら、それは仕方がない。だが、他の人間はそうした態度は取らないし、お前もどうもそうした理由で俺を疎んじているというわけではなさそうだ」
キンタローにとっては、心から不思議で仕方がないのだ。この男が元から人付き合いの良くないことは知っている。だがそれでも、自分に対してのソレはあまりにもあからさまだと思う。
アラシヤマはようやく書面から顔を上げて、どこかぐったりしたような表情で言う。
「あんさんは……ホンマ、なんちゅうか……わての方が阿呆みたいに思えてきてまうわ」
そうして、がしがしと鬱陶しく顔を覆う前髪を掻いた。
「理由なんて、そんなんあんさんがいつもシンタローはんの傍におれるからに決まっとるやないの」
「……本当に、それだけなのか?」
「そうどす。しかも、それで当然てカオしてはる。ま、確かに当たり前のことなんどすけどな。あんお人の心友のわてとしては、そんでも心中穏やかやいられへん、ちゅうことどすわ」
あーなんでこないなことまで説明せなあかんのやこのやや子は、と頭を抱え込みながらアラシヤマは唸る。
それでも、キンタローはまだわからないという顔をしてアラシヤマに質問を続ける。
「しかし、お前だってしょっちゅうシンタローにまとわりついてくるだろう。……凝りもせずに」
仕事として、そして多少面映いが家族として自分がシンタローのそばについていることは何ら不自然ではない。それよりも男の奇矯な行動のほうがキンタローには不可解だ。
近づけば嫌な顔をされ、何を口にしようと聞き流され、挙句の果てには軽傷では済まない眼魔砲だ。団員たちの口にも、その振る舞いはストーカーじみているとの噂となり、それはこの男にとって名誉なことではないだろうに。
だが、そんな事を考えていたキンタローの顔を、アラシヤマはほんの少しの間、じっと真正面から見据え。
そして、ぼそりと呟くように言った。
「あんさんとわてとじゃ、立場が違う。―――わてはシンタローはんのそばにいるために、ただできることをしとるだけどす」
その一言は、キンタローにとって、完成など見込めないと思っていたパズルの、足りないピースだった。
どうしても解けなかったそれが、頭の中で次々と組みあがっていくのを感じる。
そして、ああそうか、と思った。
総帥であるシンタローのそばにいるには、この男にはそれ以外の手がなかったのだと。
シンタローのほうから近づくわけにはいかなかっただろう。
彼はすでに「総帥」で、一個の感情で個人に向き合うべき人間ではないからだ。
今は伊達衆と呼ばれるあの四人が、総帥にとって特別な存在であることを、知らない団員はいない。
ただでさえ妬み嫉みの類には事欠かないが、そういった中傷がなされるとき、寵愛を受けているとされる人間以上に憎まれるのはシンタローだった。たとえそれが当人への順当な評価であっても、贔屓と取られることも多い。
シンタロー自身はアホらしいと公言してはばからないが、それでも団内の立場というものはある。絶対的な畏怖を持って団内を完璧に統治していたカリスマ総帥の、あまりにも急な代替わり。その影響は計り知れず、ほとんど創設時に近い混乱の状態は、どこに反対派が潜むかわからないだけ、統率に関しては当時よりもなお悪いと聞く。
だから。
彼は、シンタローを追い回すようになったのだ。シンタローからいかに無碍に、邪険に扱われようと、執拗に。
時に過剰なまでの愛情表現を持って、友情という言葉に固執し、ストーカーまがいの行為をして。
そして、彼がシンタローのそばにいることは「やむをえない」ことであり、シンタローが「嫌々ながら」彼の対応をしている、という構図を作った。
実に見事ではないか。
彼を特別扱いしているなどという噂はたつはずがなく、むしろ総帥はあくまで被害者で。
そうして欠片(かけら)も傷つかないまま、シンタローは彼をずっとそばに置いておけている。
「キンタロー?なに人の顔ぼけっと眺めてはるんや」
ふと気づくと目の前にいる鬱陶しい黒髪の男が、眉を顰めて怪訝そうな顔でこちらを見ていた。どうやら自分でも知らぬ間に相手の顔を凝視していたらしい。
それ以上見とれとると見料とりますえ、と呆れたように言うアラシヤマに、キンタローは思わず問いかけた。
「お前は、つらくないのか?・・・・・・アイツのそばにいることが」
シンタローは絶対に認めはしないだろうが、この環境はある意味では彼にとってのベストだと思う。性格に多少難在りとはいえ団内でも指折りの有能な幹部を、自分の直属の手駒のように使うことができ、ボロきれのように酷使したところで、誰からも非難の声は上がらない。
そして、そうした彼の存在そのものが、新総帥に就任して以来常に神経を張り詰め続けているシンタローにとって、かなりの救いとなっていることは否めないはずだ。
だが、その関係性を作り上げたアラシヤマ自身は?
プライドの高い男だったはずだ。
少なくともシンタローの目を通して見てきた限りでは、士官学校以来、この男はずっとそうだったのに。
しかし、口をついて出た本心からの質問は、アラシヤマの淀みない発言に簡単に流された。
「は?なんでつらいことがありますのん?」
質問の意味がわからない、という風に片眉を上げてから、アラシヤマはうっとりと胸の前で両手を組む。
「わてとシンタロはんは心・友★どす。一秒でも一ナノメートルでも近うにいられれば、それがわての幸せどすえv」
「対人関係に、量子の単位を使うんじゃない・・・・・・」
先ほどの自分の思考すべてが考えすぎだったのかと思うくらいの自然さで、アラシヤマは言う。正直な感想として、男が男に向ける言葉としては、直球を通り越して薄気味が悪い。だからこそ、キンタローは苦笑するしかなかった。
そう、苦笑するしかない。自分がしたのは、しないでもがなの愚問だったと。
おそらくそれが、傍目から見ればどれほど自虐的な行為でも。
この男にとっては、当然の選択なのだから。
やがてアラシヤマはレポートの一枚目を一番上に戻し、陽光の当たるベンチから腰を上げた。
「言いたいことはそれだけどすか?ほなわてはもう失礼しますえ」
そう告げると、さっさと研究課の方向へと去っていく。
一人中庭に残ったキンタローは、やや冷たく感じる北の風を頬に受けながら、スーツのポケットに両手を入れてよく晴れた空を見上げる。
ようやく、疑問の一つの答えを、それが正解かどうかはともともかくとして、出せた気がした。
雲一つない薄水色の空を眺めつつ、ならば、付き合ってやろうとキンタローは思う。この芝居にも似た、だが巧妙に作り上げられた関係に。ほどほどに茶々を入れつつ、合わせてやろうではないか。
その構造がいつまで保てるものかはわからないが、それがシンタローにとって、そしてあの複雑なのか単純なのかよくわからない男にとって、最良の状態であるのなら。
強く冷たい風がキンタローのやや長めの金髪をなびかせる。
数羽の遠い鳥の影が、キンタローの眺めるその薄色の空を横切っていった。
了
==========================================================
サイト開設の頃に書きかけ、あまりに根幹部分に関するところで妄想入りすぎていると思い、
一度没にして一部を拍手お礼に上げていたものです。
ですが、好きだと仰ってくださる方に背中を押していただき、完結させてみました。
あくまで一仮定としてのオハナシです。
地としてアラは変態だとも思いますし、素でキンタローと仲もよくないと思ってます。
でも管理人はこんな考え持ってるアラも萌かも、とちょこっと思ってたりもするのです…。
団内の廊下で紅い背中を見つけたので、条件反射のように飛びついた。
「シ、シンタローはぁぁんっっvv」
「眼魔砲」
振り向きもせず、片手で発された高密度のエネルギー球。それを真正面から受け、一度は地に倒れ伏しながらもすぐに男は起き上がり、ブスブスと黒い煙を立ち上らせながら、シンタローに再度近づいてくる。
足取りはフラついているが、表情は相変わらずの満面の笑みだ。倒しても倒してもへこたれないその様を見ていると、痛覚がないのかそれとも真性Mかと、意図せず長い付き合いとなってしまっているシンタローも疑いたくなる。
「チッ……、最近なんか耐性ついてきやがったな。次からは完全手加減ナシでいくか……」
「あんさん、本気で殺る気マンマンどすな」
「いーや。本気でその一歩手前で止めるよう努力してる」
極めて真面目な顔で言うシンタローに、アラシヤマはとほほ、と言うように肩を丸める。愛しの総帥様は今日もつれない。
そして視線を落とした拍子に、シンタローの右手に持つ小箱が視界に入った。
「なんどすの?それ」
アラシヤマの問いに、シンタローが、ん、コレか?と言いながらその箱を顔の前に持ち上げる。
「コタローにみやげ。ずっと眠ってるっつっても、退屈なときもあるかもしんねーし」
深い藍色と金で彩色され、精緻な細工が施された小さな箱。裏側には、蝶つがいのような小さなネジが付いている。
「オルゴール、どすか」
「ああ」
肯きながら、シンタローは片手でその箱の蓋を開けた。
キン、キン、と薄い金属が爪弾く澄明な音が、やわらかな旋律を奏で始める。
「不思議だよな。聴いてたときの記憶なんてほとんどないのに、こういうの聴くと、なんつーの?なんか、あったかい気分になるっつーか……ガキの頃のこと、思い出す」
そう言いつつ、箱を見つめるシンタローの目はいつになく優しげだ。そんなシンタローの表情を微笑しながら眺めていたアラシヤマが、ふと何かを思いついたように中空に目線を上げた。
「―――あ、わても今、急に思い出しましたわ」
開いた箱からはメロディーが流れ続けている。聴きながら、シンタローがゆっくりとアラシヤマに目を向けた。
「昔、わてがまだ弟子入りしたばっかの頃。師匠が土産やゆうて持って帰ってくれたんがコレだったんどす」
『声音的記憶』
ちょっと見にはいつもと変わらぬ無表情で、だが眉宇に隠しきれない不機嫌の翳を漂わせたマーカーが夕暮れの紅い火雲の中帰艦したとき、そこには既にロッド、Gの両名がくつろいでいた。
「あっれー、珍しいじゃん。マーカーのほうがオレより戻り遅いなんて」
その事実に少なからず苛立っていたマーカーの神経を更に逆撫でするように、蜂蜜色の髪をしたイタリア人が能天気に声をかけてくる。そして腰掛けていたソファから立ち上がると、男を無視して黒革のジャケットの前を寛げていたマーカーに歩み寄って、その白皙に手を伸ばした。
「ココ、ススついてる。なんか厄介なことでもあったの?」
言いながら、革ジャンの袖を伸ばして覆った手の甲で、マーカーの頬を拭う。その手を払いのけながら、マーカーは近くのソファに腰をかけ、高々と足を組んだ。
「―――別に、何も無い。少々、加減がきかなかっただけだ」
「え、なんでなんで。調子悪い?鬼のカクランてヤツ?」
「……」
目を丸くしながら、ロッドは更に問いかける。その言葉の意味すらきっと理解してないだろうに騒がしくまとわりついてくるイタリア男を、マーカーは無言のまま炎上させた。
容赦のない炎に全身をこんがりと焼かれ、床に崩れ落ちながらロッドは弁解するように片手を上げた。
「いや……、オレとしてはですネ。婉曲な言い回しの中に、どっか体の具合でも悪いんじゃないかと、大事な同僚の心配をしたワケですヨ」
「どちらにしても不快には違いないな」
焦げ臭い匂いを立ち上らせながらもへらへらとした笑いを消さず、ロッドは喋り続ける。そんな男を一顧だにせず、マーカーは卓上にあったミネラルウォーターのキャップをあけ、喉を湿した。
ふと目を向ければ、Gまでもが心配を隠しきれない表情でマーカーを見つめている。その様子にフゥ、と一つため息をついて、水のボトルを手にしたままマーカーは重い口を開いた。
「……昨夜」
「ン?」
「夜中に、奇妙な声が聞こえてくるので目が覚めた。不審に思い隣室を見てみれば、ヤツが布団の端を噛んで嗚咽を漏らしているのだ」
へ?と一瞬首を傾げてから、すぐにその事実に思い至ったロッドがぽん、と手を打つ。
「あ、そっか。マーカー、例のコ引き取ってから遠征出なくなってたもんね。今回が『初めてのお留守番』ってワケだ」
そんでやさしいマーカーちゃんは、朝までずっとついててあげることにしたと、と納得したように肯くイタリア人を、マーカーは氷点下の眼差しで睨みつける。
「人の話は最後まで聞け。私はそれを見て、うるさいと一喝してそのまま自室に戻って眠ろうとしたのだ。―――だが」
忌々しげにチッと舌打ちをしながら、マーカーは手に持つ水をもう一口呷る。
「ヤツが、私の寝着の裾を掴んで放さなかった。いくら言っても、泣きながら首を振るばかりで埒があかん」
普段は自分を恐れ、近寄ることすらためらう子供が。置いてけぼりになるのは嫌や、と強情をはった。
放せ、と足蹴にしても軽く炎を飛ばしてやっても、子供は一向に離れる気配がない。
「仕方なく、ゆうべはヤツの横で眠ってやった。―――しかし、子供の体温というのは、どうも高くて落ち着かん」
「なーんだ。やっぱ朝までついててあげたんじゃんv」
よく見てみれば、マーカーの切れ長の目の下にはうっすらとクマができている。一晩よく眠れなかった程度で、疲労を残すような男ではない。きっと、子供を横で寝かせていることに対して、本人が自覚している以上に緊張していたのだろう。ロッドは苦笑を噛み殺しながらそう推測した。
と、それまでずっと黙って二人のやり取りを聞いていたGが、口を開いた。
「弟子は、たしかまだ八つか九つくらいと聞いていたが……」
「ああ」
それがどうかしたのか、と言うようにマーカーは答える。ロッドがえー、と素っ頓狂な声を上げた。
「ダイジョブなの?そんな小さいコ、一人で山ン中残してきちゃってさ」
「問題ない」
「冬眠明けのクマとか……」
「気配の察し方はここ数ヶ月で何より先に叩き込んだ。それに、炎の扱いも最低限は既に身につけている。野の獣に殺されるような間抜けなことにはならんだろう」
「……食べ物とか、ちゃんと置いてきたよね?」
「貴様……、私を何だと思っている」
憮然としてマーカーは言う。そして、例え忘れていたとしても、あの辺りなら食えるものも多い、と付け足した。
淡々と発される事務的な言葉は、本心からの台詞だろう。おそらくマーカー自身、今の弟子の年のころには既にそうした環境に慣れていたに違いない。
それをわかっていながらも、ロッドは家族に囲まれていた己の少年時代を思い出し、ぽつりと洩らさずにはいられなかった。
「でも―――寂しいと思うけどなぁ」
いつの間にか床から起き上がり、開いた膝の間に両手をつくようにロッドはソファに腰掛けている。そしてはにかんだようにマーカーに笑いかけながら、ゴソゴソとポケットを探り始めた。
「コレ、持って帰ってあげてよ。イイ子にお留守番してたご褒美でさ」
そう言いながらロッドが取り出したのは、片手に収まってしまうほど小さな木箱だった。
「オルゴール。曲名は知らないヤツだったけど、割とキレイだったから」
「……いいのか?どこぞの女にでも贈ろうとしていたのだろう」
「ちーがうって。サスガにオレも戦場で拾ったモン、女の子にあげたりはしませんヨ。この近くの民家で見つけちまってさ。お弟子ちゃんに、ちょーどいいかなぁ、と」
ぱち、とウインクをしながら、イタリア男は続ける。
「『元の』持ち主も、ソレなら許してくれそうじゃね?」
まー、オレらが来たってコトだけで許すもナニもあったモンじゃないだろーけどねー、と、冗談というわけでもなく言いながら、ロッドは肩をすくめる。
そんな男の様子を眺めながら、マーカーはなんとも複雑な表情を作り―――やがて謝々、と小声で呟いて、その箱を受け取った。
木々の生い茂った山稜の奥深く、切り立った崖に程近く建てられたその山荘に、マーカーが戻ったのは翌日の昼過ぎだった。伐って角を落としただけの木材を寄せ集めて作ったような質素な小屋は、春を近くに控えて木の芽を出し始めた樹木の間に、燦々と陽光を受けている。
戻ったぞ、と短く告げて簡単な着替えのみが入ったリュックを下ろすと、おつかれさまどすー、と笑いながら中国服を身にまとった子供が駆け寄ってくる。そして師の荷物を抱えると、とてとてと洗濯物入れの置いてある裏口のほうへと運んでいった。特に仕込んだわけではないのだが、この子供は人の世話をするということに慣れているようだ。
「留守中、特に変わりはなかったか」
「へえ」
「課しておいた修行はきちんと行ったのだろうな」
「もちろんどすえー」
答えながら、アラシヤマは裏口の隣にある木枠の桶の中にマーカーの衣服をあけていく。開け放されたドアの向こうで、小さな背中がちょこちょこと動いている。
「ふむ」
居間の中央にあるテーブルに腰を下ろしたところで、マーカーはポケットの中にあるそれの存在を思い出した。しばらく手の内で玩んでから、一生懸命にリュックの中身を空けている子供の背中に向かって、無造作に放り投げる。
予想もしていなかった急襲に訓練の成果か振り向くまでは出来たものの、そのまま落下してきた小さな、しかし角のあるその物体は、綺麗な放物線を描いてアラシヤマの頭頂部を跳ねた。
「あだっ!な、なんどすの?!イキナリ」
「土産だ」
アラシヤマが頭をさすりながら放られたものを確認すると、それは小さな木製の細工箱だった。蓋には異国の風景が描かれており、木目の浮き出た側面には丹念に艶出しのニスが塗られている。
「へぇ……可愛いらしい箱どすなぁ……」
頭の痛みすら忘れ、箱を手に取り、蓋を開ける。
その瞬間流れ出した澄明な音に、アラシヤマは飛び上がるほど驚いた。
「わっ!なんや鳴りましたでっ!師匠っ!」
叫びつつ、慌ててその蓋を閉じる。同時に音はぴたりと止んだ。そんなアラシヤマの一連の行動を眺めながら、マーカーは呆れたように言う。
「貴様、八音金(オルゴール)も知らんのか?」
「オルゴール……」
「私の同僚のイタリア人が貴様にと言って持たせたものだ。好きにするがいい」
テーブルの上に頬杖をついたまま、さしたる関心もなさそうに言うマーカーに、アラシヤマはぱっと表情を輝かせた。そして急いで洗濯物を汲み置きの水につけ表に出すと、いそいそと居間に戻ってきて隅のほうで箱の音色に耳を澄ます。陽光の射し込む静かな室内に、微かな旋律だけが響く。
だが、一曲が流れきる前に徐々にメロディーがゆっくりになっていき、やがて途絶えた。
「あれ……鳴らんくなってもうた……」
「……~~ッ」
すっかり音のやんでしまった箱を軽く振ってみたり何度も蓋の開閉をしてみたりと慌てている弟子に、マーカーはずかずかと歩み寄り、その手から箱を取り上げると、後ろについているネジを巻いてやった。そしてテーブルに戻りながら、ぽん、と背中ごしに放る。
再び鳴るようになった小箱に、アラシヤマが満面に喜色を表す。
「おおきにどす!お師匠はん」
まさか土産など持って帰ってきてもらえるなどとは予想していなかったし、万が一それがあるとしても生活の糧になるようなものだろうとぼんやりと思っていた。思いがけない僥倖に、アラシヤマはその箱を両手の中に抱えこんで、師の元に少し近付く。
「きれいな音どすなあ……せやけど、なんか……少ぅし……」
ぺたん、とその足元の床に座り込んだまま、アラシヤマは中国風の上衣の胸元を押さえる。小さな面に浮かんだ表情は相変わらず嬉しそうではあったが、どこか、一抹の寂しさにも似た色が混ざっていた。
「この辺が、ぎゅっとするんは、なしてなんやろ……」
不思議そうに呟くアラシヤマを、マーカーはちらりと一瞥する。
「……この音聴いてると、祇園にいた頃よくしてもろた姐さんのこと思い出します」
床に正座している弟子は、膝の上の小箱に片手を添え、もう片方の手を心臓の上にあてている。
穏やかな高音を聴きながら、まるで箱にでも語りかけるように、アラシヤマは小声で話し始めた。
「わてな、お父はんとお母はんの顔、よう知らんのどすわ」
まだ記憶も定かではない頃に、祇園の見世の前に捨てられたのだ、と訥々と子供は語る。それはマーカーも団から渡された書面の上ですでに知っていたことだった。しかし、共に暮らし始めて数ヶ月。初めて己のことを語りだした弟子に、マーカーは僅かだけ目を細める。
「見世に拾われて、子供ゆうても少ない男衆や言われて、いろいろと手伝いの仕事仕込まれて。そんなわてにようしてくれたんは、見世でたったひとりの太夫はんどした。気ぃの強い綺麗なお人で、わてのこの力が廓に知れて、気持ち悪いゆうて皆が遠巻きにしはったときも、姐はんだけは、おもろい、きれいや、ゆうて手ぇ叩いてくれて……」
弟子を取ることを強制され、にわかに詰め込んだその生まれ故郷の知識から、アラシヤマが口にするその「姐さん」なる人間が実の姉ではなく、職業としての呼び名だということはわかる。それでも嬉しそうにそのことを語るアヤシヤマの顔色から、おそらく孤独な子供にとっては実の家族かそれ以上の存在だったのだろうと、マーカーは推察した。
だが、次の台詞を口にしたとき、アラシヤマの表情に幽かな翳が射し込んだ。
「せやけど、姐さんが落籍(ひか)されることになって……」
その時のことが今も忘れられない、とアラシヤマは言う。
太夫が金持ちの商人に身請けされることがきまったのは、アラシヤマが見世に拾われて三年が経った頃だった。
ある日、その身請け先から見世へと花嫁衣裳が届けられた。太夫を、妾ではなく妻として迎えるという約定の証である。純白の内掛に角隠し、金襴緞子の帯のついたその衣装は、廓中の評判となった。それが置かれた太夫の部屋の前を通るときには、禿も他の妓たちも、思わず中を覗き見たほどに。
そしてそれは、アラシヤマがその部屋の主に招じ入れられたときに起こった。
廊下からおずおずと中を覗くアラシヤマの姿を目に留めた太夫に、そないなとこで眺めてへんと、近う寄ってもええんよ、と幸せそうな表情で微笑みかけられて、アラシヤマはその内掛に近づいた。
見たことも無いような白無垢の衣装は、まるで内から燐光を発しているかのように美しかった。
そう、本当に綺麗だと思って。アラシヤマは心の底から感動したのだ。
だが、そう思いアラシヤマが恐る恐るその裾に手を伸ばした瞬間。その内掛はアラシヤマを裏切るように、橙色の炎を上げた。
内掛に火が移った際の、太夫の顔は今でも忘れられない。
それは怒りではなく、悲しみですらなく。ただ純粋な、呆然とした表情。
お付きの禿が慌てて水を呼びに部屋を出る。女将がやってきて悲鳴をあげる。そして、アラシヤマは―――表へと、駆け出した。
女将の罵声に逃げたのではなく、ただひたすらに己の存在が厭わしいものに感じて。外は冷たい氷雨が降っていた。濡れた石畳に何度か足をとられた。それら一切を無視して、アラシヤマは無心で走り続けた。
肺の中から血の匂いがして、足がズキズキと痛み始めても構わずに。どこまでも、どこまでも。
火はすぐに消火されたものの、燃えた部分は二度と元には戻らなかった。
「ずぶ濡れになって帰ったわてを、姐さんは叱らんかった。女将はんには、散々折檻されましたけどな。せやけど、わてはそれから、姐さんの顔がよう見られへんようなってもうた」
態度を変えたのは向こうではなく、アラシヤマだった。その人を見るたびに、幸福の象徴である晴着を炎上させた瞬間が目裏によみがえり、心臓をつかまれたような気分になる。
「結局、先さんにひたすら頭下げて、新しいのが用意されて、姐さんは祇園を出ていかはったんどすけども。結局見送りのときですら、わては見世の格子戸の内側からこっそり見とるだけどした」
小さくまとめた荷物を旦那の寄越した小物に持たせ、太夫が廓を背に歩き出した最後の最後。見世の外と内で視線が交錯したその一瞬、確かにあの人は微笑ったような気もしたのだけれど―――それでも、アラシヤマは己のしたことが許せなかった。
「太夫の部屋で火ぃ起こした不始末はすぐ広まって、わてはまたひとりぼっちになってもうた。それで、時々考えるようになったんどすわ―――わてはなんで、生きとるんやろうって。壊すことしかできへんのやったら、なしてわてはこの力持って生まれたんやろなあて……」
マーカーはずっと黙したまま、アラシヤマが幼い舌で紡ぐ過去を聞いていた。
だが、その言葉を耳にしたとき、一度だけピクリと柳眉が動いた。そして、俯いたままの弟子を見下ろしながら、ゆっくりと言う。
「なんだ。―――貴様、死にたいのか?」
ならさっさと言え、とばかりに師は平然と普段から入念な手入れがなされている青龍刀の一本を取り出す。
そのあまりにためらいのない動作に、アラシヤマは慌てて顔をあげ、ぶんぶんと首を振った。
「え、あ、そ、そないなことあらしまへん!わてはただ……」
「だからだろう?」
「……へ?」
「だから、そういうものだろう、生きるということは」
目を丸くして己を見つめる小さな子供に、吐き捨てるようにマーカーは言う。
「概して下らん。命の意味を問うことなど」
死にたくはないから、生きる。動物とはそもそもそのようなものではないか。そのような問いは考えて理解するものではない。百足の故事でもあるまいし、十にも満たない小僧が考えるなど馬鹿馬鹿しいにも程がある、と思う。
「過去の賢人すら五十にしてようやく天命を知ったと言う。貴様如きの齢で、そのようなことを口にすること自体、おこがましい」
「……」
それまで、それこそ己が人生をかけて考え続けてきた悩みを、いともた易く一蹴されてしまい、アラシヤマは呆然と師の顔を見る。そんなアラシヤマの心境に追い討ちをかけるように、師は言葉を重ねた。
「今は一心に己の能力を磨くことだけ考えろ。そして生き延びれば、いつか―――命に感謝をしたくなることも、あるかもれしれん」
「……ほんま?」
「ああ」
運がよければ、その力を生かす道も見つかるだろう、と呟きながら、マーカーはアラシヤマの髪をくしゃりと撫でる。その節の目立つ綺麗な指の合間から、アラシヤマは上目遣いに師を見上げた。
「お師匠はんは……見つけはったん?」
「……。フン、どうだろうな」
弟子の口から滑り出すように発されたその問いかけに、マーカーはまばたきの間だけ瞠目し。
そしてふい、とアラシヤマから顔を背ける。
「貴様が今の私の年をこえたときに、教えてやろう」
師の顔は窓から射し込む光に逆光となっていて、アラシヤマにはその表情がよくわからない。
ただ、ほんの一瞬。口元に淡い笑みが浮かんでいたような気が、した。
「生きるための術はここを出るまでに叩き込んでやる。貴様は、それから先を判断しろ。……ただ、私が修行をつけてやっているこの時間を無駄にするようなことをすれば、許しはせんぞ」
あくまで冷ややかなその口調。だがそれは暗に、己の命をあたら軽んじはするなと言われたような気がアラシヤマはして―――
その瞬間不意に込みあがってきた涙がこぼれないよう、歯を食いしばりながらコクリと肯いた。
***
「―――オイ、何ぼーっとしてやがんだヨ」
怪訝そうな色を滲ませたシンタローのその声で、アラシヤマは現実へと引き戻された。
そしてまばたきを数度して、自分を見るシンタローに焦点を合わせる。周囲は相変わらず人気がなく、銀色のリノリウムの壁が、点在する照明の光を反射して鈍く光っている。
ふと思い立って、おずおずと一つの願いを口にした。
「あの……わても、コタロー坊ちゃんとこ、お見舞い一緒してもええどっしゃろか」
もじもじと指を組み合わせながら口の端に上らせたその願いに、シンタローはあからさまに嫌そうな顔を返す。
「……やっぱ、ええどす」
しゅん、としおれながら足を反転させかけたアラシヤマのその襟首を、シンタローがぐい、と掴んだ。
「バーカ、冗談だよ。……コタローもたまには違う面子の顔見てぇかもしんねーしな」
あ、でも怪電波とか変な呪いとか飛ばすなよ!と念を押してから、シンタローはすたすたと先を歩き始める。アラシヤマが顔にぱっと明るさを取り戻し、シンタローの後を追って、慌てて通路を小走りに駆け出す。
(―――そういえば、あん時の答え、まだ聞いてへんどすなあ)
もうあの時の師の年はとうに越えたというのに。
いつの間にか約束それ自体を忘れ、ずっと聞きそびれていた。
だが、今更聞かずとももう、答えなどわかりきっている。
あの時の師が確かにそれを見つけており、そして、今もってそれを大事に守り続けていることも。
自分もまた、それを手に入れることが出来た今ならば。
そんなことを思いながらアラシヤマは、紅い背中の隣に並ぶため、ブーツの堅い靴底でリノリウムの床を蹴った。
了
========================================
初の子アラ話です。タイトルは一応中国語ですが繁体簡体混じってますゴメンナサイ。
アラが師匠に弟子入りしたのって何歳くらいなんでしょうね。
幼少期の時代設定はかなり曖昧ですがどうぞお目こぼしくださいませ。
.