告解
「ねぇねぇ、シンちゃん。L国の名産は乳製品なんだって。おみやげに買って帰って、チーズケーキ作ってね。」
ガイドブックを開いて、顔につきつけてくるのをちらっと横目で見ただけで、シンタローは返事もせずに頬杖をついた姿勢を崩さない。
眼下に広がる途切れることのない雲海を見ることによって、彼の横でうきうきと勝手にプランを組み立てている父親に怒鳴りつけたいのを我慢している。
「車の手配して、郊外の牧場の直売所までいっしょにドライブ……待てよ、公園でアイスクリーム食べながら散歩っていうのも捨てがたい。うーん、時間が限られてるから慎重に選ばないと…シンちゃんはどれがいい?」
ね、と重ねられた手を邪険に振り払い、シンタローは凶悪な目つきで父親を睨みつけた。
「俺は『仕事』だ。アンタもな。」
「えーっ、シンちゃんたら、本当によその国の戴冠式なんか列席するつもりだったのー。」
「あったりまえだっ! っていうかてめーはなんのつもりだったんだ?」
「そりゃ、シンちゃんと出張にかこつけた二人っきりの親子水入らずデート。」
「あー、とうとうぼけたか。誰が二人っきりだ、ちゃんとテメーの秘書もいるだろーが。」
もっともな指摘にマジックは、そうだねぇ、と二人を見る。
「おまえたち、すぐに降りなさい。」
「馬鹿かっ! あっ! ティラミス、おまえも素直に救命具なんか取り出してんじゃねぇっ! いいからっここにいろ。総帥命令だ!」
長年のつきあいのため、無茶な命令に逆らっても無駄だとばかりに、おとなしく従うティラミスを必死で止めるシンタローの気持ちをさらに逆撫でするかのようにマジックが、シンちゃん横暴、と抗議の声をあげる。
「あー、そーか。シンちゃんてば人に見られた方が燃えるタイプなんだ。」
シンタローのまなじりがつり上がるのを見てとったチョコレートロマンスがあわてて、口をはさむ。
「総帥っ! ここは空の上ですっ。お願いですから眼魔砲は船を降りるまでお待ちください。」
心の底からの叫びに、マジックが部下に向かってにっこりとほほえみかけた。
「………ほほう、その後はうってよいと……イイ度胸だねぇ。」
ぴしりと固まったチョコレートロマンスを後目にティラミスがスケジュールを確認する。
「飛行場に送迎車が待機していますので、とりあえず、迎賓館へ通された後、他の出席者と共に食事、それから境界の方へ場所を移し、戴冠式が始まります。こちらはボディガードといえど招待者以外は立ち入り禁止になりますので、くれぐれもお気をつけください。その後の晩餐会の後、お迎えにあがります。」
細々と式典の細かい時間配分などを何も見ないで立て板に水のごとく話すティラミスに、今回おいてきた自分の補佐官を思い出す。
今回招待状が新、旧総帥宛になっているため、まさか三人も主だった一族が団を留守にするわけにもいかず、置いてきたのだったが、しばらくは無言で拗ねていた。
逆に久しぶりにシンタローと『二人でおでかけ』できるとうきうき準備しているマジックの暴走をグンマが無責任にも煽るのも抑えなくてはいけないし、またそれを見て一人静かに怒っているキンタローを宥めなくてはいけないし、と出発前にすでにへとへとだった。
あの喧噪を思い出してげんなりしているシンタローとは別の意味でマジックもその分刻みのスケジュールにショックを受けていた。
「ティラミス、その最後の晩餐会なんとか欠席できるようにして、ここかここのレストランに予約……。」
「テメー……本気でその口閉ざしてやろーか。」
飛空艦が破壊されるまえに目的地に着けたのはある意味奇跡に近かった。
世の中にはさっぱり納得がいかないことがある、ということをシンタローはしみじみと昼食の席で感じた。
いやなことに同じデザインのスーツを着た隣に座っている父親に、各国の招待客が我先にと話しかけているのだ。
一応、彼は旧時代の象徴であり、極悪非情を以て知られる覇王だったのだが、女性にはそれもたまらない魅力のひとつらしい。
そういえば、シンタローが幼少のみぎりは、さまざまな事情から別居していることが多いとはいえ妻帯者であったにも関わらず、こうした場では父親の周りは美しい女性が群がっていた。
こ~~んなのの、どこがいいんだか。
ぐさっとナイフを魚につきたてると、マジックが眉をひそめた。
「シンちゃん、お行儀悪いよ? ナイフとフォークがうまくつかえないなら、パパが切ってあげようか?」
幸いなことに日本語だったため、周囲には意味がわからなかっただろうが、シンタローは真っ赤になった。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、もう一度心の中で叫ぶ。
こんな阿呆のどこがいいんだぁぁぁぁっ!
シンタローが必死で怒りを堪えていると、近寄ってきたボーイが控え室の秘書からの伝言を耳打ちした。
「シンタロー?」
立ち上がったシンタローにマジックが声をかけたが、彼はむっつりとしたまま返事もせず、広間から出た。
ちらり、と肩越しに見てみれば、さすがに人前で「シンちゃんが冷たいっ」と大泣きすることもできず、紳士然としてさわやかな笑顔をご婦人方に振りまいている父親の姿に、シンタローは、けっ、と、舌を出したのだった。
案内された部屋に入ると、チョコレートロマンスが一礼して出迎えた。
ティラミスは他の場所に出向いているらしく、留守番は彼一人だった。
「お呼び立てしまして、もうしわけありません、こちらです。」
差し出された携帯電話を耳に当てると、自分の補佐官の声が流れてきた。
「シンタロー、無事か?」
「無事って、ここは別に敵国じゃねぇぞ。」
総帥二代が招待されただけあって、この国は以前からガンマ団とは比較的友好関係にあった。それに今回は戴冠式に列席ということが仕事であって、別に戦いに来ているわけではないのだから、開口一番「無事か」はないだろう。
人のことは言えないが環境に毒されている。コタローも気をつけないといけないな、とシンタローはしみじみと決心した。
しかし、キンタローの懸念はそんなものではなかった。
「マジック伯父貴と二人っきりで出かけることが危険なんだ。」
脱力しそうになって、シンタローは思った。
やはり、そーとー毒されている。
「…ふたりっきりじゃねぇよ。チョコレートロマンス達もいるし、団員もかなり随行しているし……。」
「シンタロー、何人いようと伯父貴はその気になればいつだって『二人っきり』にしかねないぞ。」
淡々と怖いことを言っている。
実際たくらみかけたしな、と機内でのやりとりを思い出して、シンタローは顔をひきつらせた。
「それから……。」
ところが、急に激しいノイズが入った。式典の進行のために、あちこちで使われている無線や通信機器のせいだろうと予測はつく。
「おい、キンタロー、切るぞ。後でな。」
聞こえるかどうかわからないが、一応ことわっておいてから、切断ボタンを切った。
「圏外だとさ。」
シンタローが放り投げた携帯電話を両手でキャッチしてチョコレートロマンスは、飛空艦の通信システムから連絡をとろうかと提案したが、シンタローは首を横に振った。
「いい、どうせ、今日の夜には帰るし、明日には聞けるだろう。」
どうせ、メインはあの二人っきり云々のことだったし、とシンタローはこめかみを抑えた。
オヤジといい、あの従兄弟といい、出張と旅行を一緒にしているのではないか。
そういえば、とシンタローはふと思い返した。
こうやって、オヤジと出かけるなんて何年ぶりだったっけ。
確かに、ガキの頃以来だな。
なまじ、『普通の家庭』というものを知らなかったから、よそに比べて家族のお出かけとやらが少ないことに対してそれほど不満に思ったことはなかったが、よくまあ総帥があれだけ外出できたものだと思う。
仕事の忙しさもさることながら、総帥とその後継者の外出ともなればセキュリティがどうしてもおおがかりなものにならざるを得ない。
たまに、外に連れ出される時も、目に見える護衛官以外にもおそらく数十人は変装して付き従っていただろう。
ただ、あの父親を倒せるだけの人間がこの世にいるとは思えないので、その必要があったかどうかは正直なところ不明だ。
大きくなるにつれ、自分は父親と距離をとりはじめたので、今回は確かに久しぶりの二人での外出である。
非常に不本意なことだが。
けれど、本当のところはマジックが言うとおりの「親子水入らず」ではない。
コタローは依然として眠りについたままだし、自分はマジックの息子ではない。
もちろん、周りは今も自分をマジックの総領息子として扱うし、自分も彼を父と呼ぶ。
それでも何も知らなかった頃のようにはいられない、いや、いていいのだろうかと罪悪感に苛まされていることを、マジックは知っているのだろうか。
「シ~~ンちゃ~ん。」
ドアが大きく開き放たれるのと同時に、脳天気な声とともに本人が飛び込んできた。
……絶対、考えもしていないだろう。
シンタローは、肩越しにマジックを睨みつけた。
「ンだよ?」
「なかなか、帰ってこないから迎えに来たんだよ。もうそろそろ、時間だしね。」
言われて腕時計を見て、シンタローもあわてた。
「やっべー、そろそろ教会へ行かないといけねぇ。おい、チョコレートロマンス。」
「はい。」
「式典は招待客以外立ち入り禁止だし、その後はパーティだけだから、おまえは先に飛空艦に戻っておけ。」
「いえ、私の任務はお二人のお世話ですから、こちらでお待ちします。」
「自分の世話ぐらい自分でする。いいから帰れ。」
しかし……、となおも渋るチョコレートロマンスにマジックがにこにこ笑って手を振った。
「シンちゃんが言うんだから、帰りなさい。命令だよ。」
いつのまにかその間の距離を縮めていたらしくシンタローの肩を抱き寄せる。
「それともなにかい、まーだ、私とシンちゃんの間を邪魔するのかな?」
「じゃ、邪魔なんてしてませんっ!」
秘石眼の奥底に剣呑な光を見てしまった秘書が、とんでもない言いがかりに蒼白になるがマジックの追求は厳しい。
「いーや、した。シンちゃんを私の側から呼びつけただろう。せっかく二人で食事していたのに。」
ひー、と声にならない悲鳴をあげるチョコレートロマンスだったが、総帥の拳骨のおかげでとりあえずの命の危機は脱出した。
「あほかっ! どこが二人だ! 百人以上はいたぞ!」
「そ、それでは、ワタクシは鑑で待機しておりますっ! お迎えにはあがりますので! ……マジック様、ご無事をお祈りいたします……。」
チョコレートロマンスはそそくさと逃げ出し、後には一触即発の親子のみ。
切れ気味の息子を前に、殴られた頭を抑えながらも元総帥はめげなかった。
「ははは、たとえ数万人いたとしても、パパにはシンちゃんしか目に入っていないから、世界はいつも二人きりなのさっ!」
相変わらず、歯が浮きまくりの台詞に、シンタローは半眼で父親を見上げる。
「へぇ、あちこちのオバサンたちと話してたじゃねぇか。アンタ、見えない相手に愛想ふりまいてるんだ。」
その言葉にマジックは、相好を崩し、シンタローの顔をのぞき込む。
「え、それって、もしかしなくても、ヤキモチ? だいじょ~ぶ、パパの本当の笑顔はみ~んなシンちゃんのものさ。」
「ちっがーうっ! そんなもん燃えないゴミに出してやる。俺はただアンタがへらへらしてると俺まで巻き添えになるから……。」
「赤くなってるよ、シンちゃん。」
か~わ~いい、とぎゅううと抱きしめられ、シンタローはぶんぶんと手を振り回したがすっぽんのようにしがみついたまま離れない。
「やめろ~~~!!」
叫びながら、シンタローは先ほどのキンタローの言葉を思い出して、げっそりとなった。
「シンタロー、シンタロー、待て! 気になる情報が…切れた。」
舌打ちしてソファーに受話器を放り投げるキンタローを、クッションを抱えて寝転がっていたグンマが、まあまあ、と取りなした。
「おとーさまがついてるから大丈夫だよ、キンちゃん。シンちゃんにべったりだろうしね。」
自分より伯父の方が頼りになるといわれたことに自尊心を傷つけられたのか、はたまた『べったり』が気に入らなかったのか、キンタローは口をへの字に曲げた。
シンタローが出発してから、キンタローの元に入ってきた報告に気になる情報があった。 後継者を選ぶ際に小さないざこざがあり、その際裏の世界にL国の人間らしい者が接触を図ったというものだ。
ありふれた小競り合いにしか過ぎないし、解決もしているが、それでも不安要素が残る場所に自分がいないところに行かせるなど、知っていたら絶対させなかった。
「一応、護衛官も何人かついていってるし、おとーさまのことだから、暗殺者だろうが一般客だろうが、自分以外には指一本触れさせないでしょ。」
さすがに、ガンマ団で彼らの従兄弟、甥として過ごしてきたキャリアの差か、グンマにはたいして危機感が無かった。
正真正銘本人が命をねらわれることも多々あって場数を踏みすぎたせいか、逆に今更巻き添えごときでどうこう思えないのだろう。
「だーいじょうぶだって、キンちゃん心配しすぎ~。」
「……だといいんだがな。」
キンタローは顎に指をあて、物思わし気に考え込んでいた。
「いい加減、ひっつくのはやめろって。」
「ええ~、ケチ。」
抗議の声を上げる父親を押しのけて、シンタローは歩調を早めた。
結構時間が迫っている。招待された側として、進行の妨げになるようなことは慎むべきだろう。
広間に近づくと、ちょうど案内係がそれぞれ招待客を先導しているところだった。
何気なく混ざった時、「ガンマ団総帥」と自分を呼ぶ声がしたので、振り返ると随分身なりのいい男性が、父親に近づいていった。
「ご健勝でなにより。」
まっすぐ、父親に向かって話しかける彼を見てシンタローはため息をついた。
いくら代を交代して日が浅いとはいえ、間違えられるというのはやはり自分に貫禄がついていないからだろう。
マジックはにこやかな表情を崩さずに、その男に家督を譲ったと自分を紹介した。
「え、そちらが…あ、いや、失礼。最近、ごたごたしておりましたので、国外の情報に疎くて…。」
男はこの国の現王の従兄弟だと名乗り、あわただしく挨拶をすませ、去っていった。
シンタローは、胸にかかった自分の髪を見下ろした。
おそらく、ここにいたのが、キンタローだったり、グンマだったらこんなことは起こらなかっただろう。
青の一族に金髪、碧眼しか産まれないというのは、そこそこ知られている噂だ。
誰が語らなくてもここ数代の総帥とその家族を見れば一目瞭然なのだから。
はっきりそうとは知らなくても、父親や叔父の姿を見慣れた人間はシンタローの黒髪と瞳を見ると一様に訝しげな表情になる。
おかしいじゃないか、全然似ていない、と。
もちろん、そんなことを口にしたら最後その人間の命は無くなったに違いないので、誰も面と向かっては言わなかったが。
子供の頃はともかく、士官学校を卒業する頃には、気にしなくなっていた。いや、気にしないようにしていた。
こんなことには慣れっこだったから、いちいち腹を立ててもしかたがない。
「シンタロー。」
「……なんだよ?」
「おまえは私の息子だよ。」
「……わかってるよ。」
それが真実だと信じていた頃の父親は、こんなことをいちいち言わなかった。
でも、今は、まるで自分の中のほんのかすかな不安を見抜いているかのように、『当たり前の事』を口にする。
周りから指摘されるとおり、マジックの自分に対する溺愛ぶりは真実を知ってからも、まったく変わることはない。それどころか、ここ最近ひどくなる一方だ。
暇が増えた分、人形がさらに増え、なにかというと構いたがる。
実の息子と分かったグンマに対してはどうかというと、今までと呼ばれ方以外まったく変わらない。
一度たまりかねて、グンマに少しは引き受けろと文句をつけたところ、即座に拒否された。
「二倍になったら僕が家出する。」
高松の過保護ぶりも、確かにいい勝負なのでグンマの言い分ももっともだった。
しかし、心のどこかでそのことをほっとしている浅ましい自分をシンタローは恥じていた。
愛情が当たり前のように注ぎ続けられることを、自分に一心に向けられている恐ろしいほどの執着が永遠にやまないことを、シンタローは一度も疑ったことが無かったのだ。
あの時まで。
『私はおまえの父ではない』
自分は父親より、あの少年を選んだ。
その前には父親より、弟を選んだ。
もちろん、その時は親子の断絶を覚悟していたつもりだったのだ。
あの父親は親子の情より、己の責務を優先させる、そういう男だと一番よく知っていたはずなのに。
ああ言うだろうと予想していたのに。
自覚しない部分で、彼は『自分だけ』は手放せないだろうと確かに思いこんでいたのだ。
そして、マジックはシンタローの予測通りの言葉を吐き、シンタローの中にあった『絶対』を壊してしまった。
あれを言った時の父親の顔は見ていない。
なのに、今頃になって、たまに、想像の中で冷たい瞳で自分を見下ろす彼の姿が浮かぶのだ。
あれが自分にとってどういう意味を持ったのか、マジックはきっと知らない。
教えるつもりも、なじるつもりもまったくない。
「シンちゃん、人がいっぱいだよ。迷子になったらいけないから、パパと手をつなごうね。」「己の左手と右手でつないでろ。」
絶対に、そんなこと知られたくない。
式典はやはり例によって長く退屈なだらだらしたものだった。
こみ上げるあくびをかみ殺しつつ、自分の就任式はどうだったかをシンタローは考えていた。
確か、やっぱりこれくらい長かったような気がするが、あまり印象に残っていない。
自分にとっての襲名の儀式とやらは、どう考えても総帥座について父親と交わしたやりとりだったからだ。
今、神の面前であれこれ誓いをたてている新王は自分が今から継いでいくものについて、どんなふうに考えているのだろう。
不安だろうかそれとも、新しい自分の時代に向けての意気込みだろうか。
それは同じような通過点をきた自分にも分からない。
父親の場合は、幼い頃に前総帥である祖父が亡くなり、いやおうなしに少年のまま『総帥』にならざるを得なかったらしいが、詳しいことは聞いたことがない。
そのあたりも教えてくれたのは父ではなく、叔父で、当時反抗期のまっただ中の自分への説教の前ふりだった。
俺はオヤジとは違う、と当時憤慨しただけだったが、継いだ今、思い出すと違う感情がわいてくる。
その話をしてくれた人間の思惑とはまったくかけ離れた悲しいような苦しいようなそんな想い。
自分には見守ってくれる保護者や、信頼できる協力者や分かり合える半身がいる。
けれど、その時の父親には頼れる人は誰もいなかったのだ。
十代の細い肩にはこの赤い服は相当重かったはずだ。
その時の父親を知らないが、もし目の前にいたら、どれほど嫌な顔をされても抱きしめたくなる気持ちをきっと抑えられないとそう思う。
大丈夫だと、守ってやるとそう言いたくなるに違いない。
もちろん、こんなこと当の本人には言ったことはない。
おそらく
「十代じゃなくても、パパはいつでもオッケーだよっ。なでなでもスリスリもラブでもハグでもチューでもどーんときなさい。さあさあさあ!」
と、はぐらかされるのが目に見えている。
「今の王様と、新しい人って直接の血のつながりはないんだよな。」
「子供ができなかったからね。王族の血は薄いけど、なんでも、すごく遣り手らしいよ。」
「ふーん。」
自分と似た状況だな、と考えると、妙に親近感がわく。そういえば冠を戴いたその髪はブロンドで、珍しいほどの長身といい、親族達を彷彿させた。
「アンタにちょっとだけ似てるな、あの人。」
そう言うと、何を勘違いしたのか妙に真剣な声で尋ねた。
「あの人とパパどっちがかっこいい?」
「……とりあえず、あの人の方が若いな。」
「若ければいいってもんじゃないよ、シンちゃん。大事なのは経験と体力と技とね。」
くだらない主張を熱心に続ける声が大きくなっていくのを止めるために、シンタローはおもむろにマジックのつま先に己の足を乗せ体重をかけた。
後は、園遊会で適当に挨拶を交わしてこの国との繋がりを確認すれば、仕事は終わる。
横で、悲鳴を必死で我慢している父親を振り返りもせず、シンタローはやれやれとほっとしていた。
式典はつつがなく終了し、最後の締めともなるシンタローの思うところの『バカ騒ぎ』が始まった。
こんな時までべたべたと寄ってくる父親を邪険に突き放し、新たな人脈作りに協力させる。
正直、俺様体質のシンタローにとってはこの手の作業は面倒くさい。コミュニケーションをとることがヘタでもなく、どちらかといえば人に好かれる方だとは自負しているが、必要以上に寄ってこられるのが嫌だ。
いろいろなタイプとつきあってこそ人間の幅が広がるというのは分かるが、気に入った人間しか側に置きたくないし、話もしたくない。
反対にマジックは、場慣れしているというか、ハンサムな顔立ちとやたら耳に心地よい声を駆使して、さらに目的を果たした対象をあしらう技にも長けているので、自分より効率がいい。
そのうえ、自分が少しでも一人の人間と長く話していると、寄ってきてはすかさず、引き離すという作業までこなしているのだからすごいという他ない。
あー、早く帰りてぇ~。
ワインを一口飲んで、置かれているチーズを口に放り込むと確かに美味しかった。
買って帰って明日キンタローと飲むときのつまみにでもするか、とシンタローは何の気無しに上を見上げた。
「……?」
視界の端でその模様がぶれたような気がした。
この大広間は吹き抜けになっており、壁面には色とりどりの飾り窓がはめ込まれている。その無数にあるステンドグラスのどこかに違和感のようなものを感じたのだ。
長年培っていたカンが頭の中で黄色い信号をちかちか点滅させる。
シンタローはぐるっと周りを見渡し、百合と聖母をモチーフにした飾り窓に目をとめた。
何か光るものがカーテンとその窓の隙間から見えた。トップクラスの戦士である彼には見慣れたもの――ライフルだ。
それが向いている方向を振り返り、シンタローの顔から血の気が引く。
声をあげて警告するとか、暗殺者に眼魔砲をうつとか、そんなことひとつも思いつかなくて、気が付けば広間の中央に突っ立っているバカを突き倒すようにして抱きついていた。
シンタローが父親を捕まえるのと同時に左腕に灼熱が走った。
「くっ…っ!」
シンタローが奥歯を噛みしめ、もれかけた声を飲み込むと一瞬呆けていた周りの人間があわてて次々に近寄ってくる。
「シンタロー総帥!」
「おいっ! 誰か医者を……。」
「どこから撃った! すぐに調べろっ!」
怒号と悲鳴が飛び交う中、シンタローは大きくひとつ息をついてから、両足に力を込めて身体を起こした。
「たいした怪我じゃありません。少々かすっただけですから、ご心配なく。」
「しかし……。」
たまたま近くにいた本日の主役の顔色も心なしか青ざめている。就任早々ガンマ団の恨みを買ってしまったのかもしれないと思うと、生きた心地もしないのだろう。
シンタローはそんな彼の心配を取り除いてやるよう笑って、もう一度たいしたことはありません、と言った。
事実、戦場で負うかもしれない傷のことを考えればこんなの怪我のうちにも入らない。
だからといって痛みが和らぐわけでもなかったが。
「総帥、こちらで手当を…。」
「では、せっかくのおめでたい席を中座して申しわけないですが、、失礼させていただきます。」
じくじくと痛む傷口をおさえ、シンタローは軽く頭を下げスタッフの案内に従った。
「シンタロー、私に捕まりなさい。」
付き添おうとする父親の手を振りきり、小声で恫喝する。
「バカ。俺がいねぇんだから、その分仕事しろっつーの!」
「でもね。」
「ついてきたって、俺は絶対アンタに寄りかかったりしない。一人で歩いて一人で治療を受ける。アンタにできることは何もない。……わかるだろ?」
『総帥』が弱みを見せるわけにはいかない。
痛みで意識がとんでいても、それを押し隠して戦場にたたなければ誰もついてこない。
マジックもそれはわかっていたのだろう。ことさら大仰に騒ぎ立てるような馬鹿なマネはしなかった。
そういえば昔から、普段の生活では小指をちょっと切っただけでも、止血消毒とぎゃあぎゃあ口うるさいのに戦場での怪我に関してはほとんど何も言わない。
それだけはこの過保護な親にしては上出来なことだ。
「じゃあ、シンタロー、終わったらすぐ行くから。」
「はーいはい。」
シンタローが出ていった後も、侵入者を探している衛兵やSPたちの動きがかしましく、なかなかざわめきは収まらなかったが、それでも十五分も経つ頃には表面上は落ち着いた。
それぞれの目的を放り出して、他人の災難にいつまでもかかずらわっているわけにはいかない。ここは彼らにとっても一種の戦場だったからである。
人気のない廊下を歩いていたマジックは、突然ぴたり、と足を止め振り返った。
「マジック様。」
物陰からすっと出てきた部下が一礼する。
その手には拳銃が握られていた。
「それで、どこにいるんだい?」
穏やかな口調に、チョコレートロマンスもらしからぬ淡々とした表情で答えた。
「ここのつきあたりを右に曲がった五つ目の部屋に追い込んでおきました。」
「そうか、後はいい。下がりなさい。」
「はっ。」
敬礼をする秘書を置いて歩きだしかけた彼は、ふと思い出したように確認する。
「もちろん、手は出してないね?」
彼らが自分の意を読み間違うことは一度足りとてなかったのだが、拳銃が気になった。
一応、相手もプロだ。やむをえず使わざるを得ないはめになったかもしれない。
しかし、チョコレートロマンスは即座に否定した。
「当ててはいません。威嚇はしましたが、それ以上のことは私の分を越えたことと思いまして。」
「上出来だ。それじゃあ、後で迎えにおいで…もちろん、それはシンちゃんの目に触れないところに。」
「承知しております。」
チョコレートロマンスは拳銃を懐にしまうと深々と頭を下げて、マジックを見送った。
スナイパーは暗闇の中息を殺し、脱出する機会をうかがっていた。
同じような体格だったとはいえ、ターゲットを間違うとはプロとして失格だ。さらに、その間違えた相手がこともあろうに、あの男だったとは。
とんでもないものを敵に回したことに気づき、その場から逃げ出したのだが、すべての警備員たちをまいたその時に銃弾が髪をかすめたのだ。
応戦も考えたが、騒ぎを聞きつけた他の人間がやってこないとも限らないので、逃げることだけに集中しているうちに、ぞっとした。
わざと外されている。
しかも、紙一重のすれすれのところで、最初からあてるつもりが無いかのように。
いったい、どんなヤツかとふりむいてみれば甘い顔建ちをした優男風の若い男だ。
それが、反動をものともせず、軽々と引き金をひいている。
身につけている制服で彼の出自がわかり、納得と同時にとてつもない恐怖が襲った。
あの、世界最強の殺し屋軍団といわれた組織のトップに手を出してただですむとは思わなかったが、異国の地でこんなに簡単に自分を見つけだすとは、聞きしにまさる優秀さだ。
それでも、なんとか一室に逃げ込み、彼をやり過ごしたが、近くをうろついているのが足音からわかり、彼はじっと身を潜めていた。
「標的を見間違うなんて、どんな馬鹿な仕事人かと思ったが、本当に使えない人間だな。ガンマ団なら士官候補生でも人の気配くらい気づく。」
冷笑を帯びた声に、彼の全身が強張った。
かの男の名前こそ知ってはいても実物を目の当たりにしたことはない。ましてや聞いたことなどまったくないその声に、彼はその場に縫いつけられたようになってしまった。
この圧倒的な威圧感。
今までまったくそんなものはみじんも感じなかったのに。
右手の銃を構え直そうとするが、力が全く入らず徒労に終わった。
彼は自分の手が震えていることに気づいたらしく、忍び笑いをもらす。
「さすがに、敵う相手とそうじゃない相手の違いは感じられるようだな。」
一歩、また一歩と死神の足音が響き、男の身体から冷たい汗が吹き出す。
「安心しなさい、殺しはしない。あの子がそれをいやがっている限りはね。」
そうは言われてもこれほど殺気を漂わせておいて、安心しろもないだろう。
男は全身の力を振り絞って、身体の向きを変えると同時に引き金を引こうとした。
「おや、安心しなさいと言ってあげたのに。」
何がどうなったのか、男にはさっぱりわからなかった。
自分が握っていた銃が足下に落ちていて、右手を長く骨張った指が掴んでいること、それだけが彼にできた現実認識だった。
「もちろん、制裁はさせてもらうよ。」
銃をがっと踏みつけ、彼は朗らかな調子でそう言った。
「一応、罪人にも己の罪状を知る権利はあるだろうから、教えてあげよう。君の罪は、私に銃を向けたこと、私の宝に傷をつけたこと……けれどね、これはまだ軽い方なんだよ。」
おまえの最悪の罪は、あの悪夢を再現したことだ。
意味不明の言葉を口にしたその時、彼の白い怒りの気が全身につきささり、男はがくがくと顎を上下させた。
「あの子が私に『殺すな』と言うから、命までは奪わない。……『私』はね。」
喉を締め上げている手は確かにぎりぎりのところで力を加減されているが、だからといって、苦しいことに代わりはないほとんど本能のまま全身をばたつかせたとき、右手から嫌な音が聞こえ、今まで想像もしたことがなかったような激しい痛みが走った。
「―――――っ!! グァ…―――。」
絶叫は喉を掴む手で止められた。
「おやおや、こんなところで悲鳴をあげて見つかったら困るのは君の方だろ。」
そう言って、彼の体を床に投げ出す。
右手の骨を粉砕したのだからその痛みを想像するに、気絶しないだけたいしたものだ。
「たぶん、もとのようには動かないねぇ。このことは広めるようにさせるから、左手で元のように武器が扱えるまで、果たして自衛できるかな?」
こんな稼業の人間だ。
利き腕を無くしたと知られたら、命をねらってくる人間の心当たりは山ほど在るだろう。
そして、やはり男はいくつかの可能性に思い当たったらしく痛み以外の理由で震えている。
「それでは、私はこれで失礼するよ。あの子に頼まれた仕事の途中だからね。」
マジックはゆっくり踵を返した。
かすかな足音が遠ざかり、戸口を開く重い音が聞こえた。
細い光が扉の隙間から入ってきて、出ていく刹那の彼の美しい顔を照らす。
痛みと恐怖の中で見えたのは、その青い両眼に浮かぶかすかな光だけだったが。
知らせを受けて駆けつけてきたチョコレートロマンスに引っ張られるようにして、一足早く、艦の方に戻ったシンタローはティラミスの報告を受けた。
「先ほど、キンタローさまから連絡が入りまして、この国で少し前もめ事があったそうです。前王の従兄弟と、元王のどちらを選ぶかということで、もともと皇太子だった従兄弟を差し置いて、結局今の王が選ばれたので、かなりごたついたそうです。本人達はどうかまでは知りませんが、勢力図ががらっと変わってしまいましたから。」
「じゃあ、あのスナイパーの狙いって…。」
「おそらく、現王でしょう。うっかり成功されたら、内戦が始まるところでした。的を間違えるような無能な狙撃手でよかったことです。」
あっさりとよかったと片づけられても、こっちは怪我しているんだが…とシンタローはむっとしたが、それを口に出すのは大人げない気がしたのでかわりにこう嫌味を言った。
「……『忠実』な部下のおまえなら、こともあろうにマジックに手を出したなんて知ったら烈火のごとく怒り狂うと思ったんだが、冷静でよかったよ。」
すると、ティラミスは困った子供を見るような目で、座っているシンタローを見下ろした。
「マジック様が、撃たれるわけないでしょう。ご自分で避けるなり、眼魔砲でとばすなりされますよ。」
考えてもみなかったことを言われてシンタローは、かああっと赤くなった。
そう言えばそうだった。
あの時はもうそんなことを考える余裕もなくて、身体が勝手に動いていたのだ。
先に眼魔砲を自分が撃つなりなんなり方法があったはずなのに。
あー、くそう、帰ってきたアイツがいい気になってべたべたしてくるのが今から想像がつく。
そんなことをしやがったら今度こそ眼魔砲だ。
シンタローは頭を抑えて頭痛に耐えた。
「それでは、出発まで休養をとってください。本部には連絡をいれておきます。」
「頼む。」
シンタローは背もたれに身体を預けて目をつむった。
今回はねらわれているのはマジックではなかったらしいが、まったくそんな可能性を考えなかった。
なぜって、父親は昔から何人にも恨まれ、憎まれ、おそれられている。
たとえ、新しいガンマ団を自分が作っていっても、過去のことは消せない。
自分だってそうだが、負の部分を一身に背負うような形で引退した彼にその手の感情が集中するのは当たり前だ。
そして、本当に彼が巷で囁かれているように……いや、それよりもっと酷い人間であることをシンタローは知っている。
誰よりも一番知っている。
でも、それでも、たった一人の父親なのだ。
弟を幽閉しても。
自分に刺客を送ってきても。
たくさんの人を殺して、たくさんの幸せを壊して。
世界中の人が彼を憎んで攻撃しも、自分は絶対に彼を守ってしまう。
あんなに最悪な人間なのに。
やってきたことは決して許せないのに。
父親が背負った罪を共にすることもできないし、彼もきっと拒むだろう。
……それでも地獄には一緒におちてやろうと、それだけは決めていた。
絶対に口にはしない誓いだが。
マジックが戻ってきたのは、かなり夜も更けて日付が変わる直前だった。
「お疲れさまです。」
出迎えたティラミスにコートを渡し、そのまま大股で中央の椅子まで歩み寄る。
疲れと痛み止めの効果で、シンタローはぐっすりと眠っていた。
「出発の号令は無理みたいだねぇ…しかたがない。私が代行しておこう。」
くすくすと笑いながら、それを行ったマジックの顔がふと真顔になる。
まぶたは固く閉ざされ、やや血の気が失せたその頬に黒髪が乱れてかかっている。
―――それは、見なくてすんだあの恐ろしい光景を喚起させた。
手をそっと彼の顔にかざし、唇に近づける。
そこに触れる湿った空気の動きに、マジックはほっとし、それから何もなかったように髪の毛をはらってやった。
「マジック様、依頼主を割り出しておきました。……総帥には未報告です。」
賢明な処置だ、とティラミスの判断をマジックは評価した。
シンタローはおそらく報復など、望まないだろう。
望んだとしても、せいぜい犯人の国家に証拠をつきつけ『正当な』裁判を受けさせるくらいだ。
だが、それですませてなどやるものか。
「もう一人の王候補の舅で現大臣の一人です。本人も内々には知っていて黙認していたふしがあります。」
なるほど、と、マジックはその面々の強欲そうな小ずるそうな顔立ちを思い浮かべ、納得した。
身食いするようなばかげた争いをしかけるのは勝手だが、自分たちを偶然とはいえ巻き込むなど許し難い罪だ。
「どんな手を使ってもいいから、破滅させなさい。シンタローには知らせるな。」
「かしこまりました。」
ティラミスは与えられた命を果たすべく、通信室へと向かった。
入ろうとすると、中ではなにやら話し声がしていた。
「ですから~、軽傷ですし、総帥の体力なら二週間で完治しますよ~。」
相方の半泣き状態の弁明から通信相手を予測し、ティラミスは姿勢を正して身構えてから通信室へ入った。
「キンタロー補佐官、失礼します。」
小さなディスプレーに映る端整な顔立ちは顰められ、不機嫌きわまりない。
「おまえか、ティラミス。さっきは、どうして、この俺にシンタローの負傷を知らせなかった。」
さらに語気を荒げ、そう詰問するキンタローにティラミスはモニターのこちら側で頭を深々と下げた。
「軽い怪我でしたし、総帥からも箝口令が出ていましたので差し控えました。お許しください。」
主とよく似た青い目が、すっと細められる。
「そうか? シンタローではなく伯父貴の命令ではないのか? あの人の独占欲は今に始まったことではないからな。」
それは貴方もイイ勝負です、とはさすがに二人とも口には出せなかった。
「ご冗談を。ガンマ団では上司の命令は絶対です。今、現在シンタローさまより、上位の方は世界中のどこにもいらっしゃいませんよ。」
「それは、他の団員の話だろ。」
キンタローは視線を二人にぴたりと向けたまま、冷めた口調で彼の口舌を遮った。
「総帥が現在誰であろうとも、おまえたちにとっての絶対の存在は伯父貴だけだ。マジックの命令があればおまえたちはシンタローを平気で裏切る。わかるさ、俺も対象は逆だが同じだからな。」
キンタローの指摘に、二人の顔から一瞬表情が消えたがすぐに笑顔を取り戻す。ただ、いつものそれとは随分違うものだった。
「ですから、ご心配には及びません。キンタローさま、我らの主にとっての『絶対の存在』があの方なのですから、私たちにとってもシンタロー様は命に替えても守るべき大切な方でいらっしゃるんですよ。―――――永遠に。」
ティラミスがわかりきったそのことを説明すると同時に、チョコレートロマンスが片手の手のひらを胸の前につきだして、援護する。
「なんなら、誓いますが?」
キンタローはため息をつき手を振った。
「いや、いらない。そんな当たり前の誓いしようがしまいが、俺にとっては意味がない。俺がたった一人認めた男に何か害を為せば、誰であろうと消すだけだ。」
「それは怖い。」
「即死ですね。」
口々にそうは言うものの、その目にはまったく恐れなど微塵も浮かんでいない。それは別にキンタローを侮っているわけでもなんでもなく、主の命令さえ果たせれば後はどうなっても構わないと思っているからだ。
そして、キンタローも彼らを脅したわけではなく、ただ事実を述べただけであることを、二人は知っていた。
シンタローの隣に座ると傾いでいた身体が自分の肩に倒れ込んできた。
優しく抱き寄せ、髪をすいてやり囁いた。
「いい子だね、シンちゃんは。パパ想いだし。」
目が覚めていたら眼魔砲とありとあらゆる罵倒の言葉がとんだところだったが、シンタローの口からは穏やかな寝息しか聞こえなかった。
「でもね。」
そっと自分と違う色の髪に口づける。
「二度と、私を庇ったりしないでおくれ。」
眼魔砲の青い光の中、久しぶりに自分を「父さん」と呼び抱きついてきたその身体から力が抜けていき、砂埃の中地に倒れ伏す鈍い音……一連の悪夢。
あの時、泣きそうな子供のような顔のシンタローに胸が痛くなった。それで咄嗟に反応が遅れたのかもしれない。
その一瞬が取り返しのつかない結果を生んだとき、自分は半ば茫然としていた。
失ってしまったことが、理解できているのに、その事態に頭がまったくついていかなかったのだ。
父親なんて認めない、と口では言っても彼には自分を見捨てることができないということを誰よりもわかっていたのに。
シンタローが実際に生を失い倒れる様は幸い見なくて済んだのと、その後で起こった忌まわしい真実にもっと強い衝撃を受けたため、気づかなかった傷は今頃になって時々疼いて彼の眠りを覚ます。
その昔、今まで何一つ恐ろしいなど思ったことがないと思われている自分が、この子を失うことだけを脅えているなど知れたらどうだっただろう。
あの頃は、自分なら守り通せると思っていたから、まだ耐えられた。
けれど、それが他ならぬ自分自身のせいで果たせなかったあの時から真の恐怖が始まったのかもしれない。
「頼むから、二度と。」
眠った彼にしか言えない言葉だ。
庇うな、と言ったところで、シンタロー自身にはどうしようもできない。『父親』を見捨てられる子供ではないから。
庇われて置いていかれるよりは、共に貫かれて逝きたいと、そんなことは口にも出せない。
深い眠りの底にいる愛し子を抱きしめ、マジックは同じように目を閉じた。
数時間もすれば、自分たちの家に戻れる。
安全で忙しない日常に。
それまでは一緒に眠ろう。
できれば同じ夢を見て――――――――。
end
2004/09/12
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「ねぇねぇ、シンちゃん。L国の名産は乳製品なんだって。おみやげに買って帰って、チーズケーキ作ってね。」
ガイドブックを開いて、顔につきつけてくるのをちらっと横目で見ただけで、シンタローは返事もせずに頬杖をついた姿勢を崩さない。
眼下に広がる途切れることのない雲海を見ることによって、彼の横でうきうきと勝手にプランを組み立てている父親に怒鳴りつけたいのを我慢している。
「車の手配して、郊外の牧場の直売所までいっしょにドライブ……待てよ、公園でアイスクリーム食べながら散歩っていうのも捨てがたい。うーん、時間が限られてるから慎重に選ばないと…シンちゃんはどれがいい?」
ね、と重ねられた手を邪険に振り払い、シンタローは凶悪な目つきで父親を睨みつけた。
「俺は『仕事』だ。アンタもな。」
「えーっ、シンちゃんたら、本当によその国の戴冠式なんか列席するつもりだったのー。」
「あったりまえだっ! っていうかてめーはなんのつもりだったんだ?」
「そりゃ、シンちゃんと出張にかこつけた二人っきりの親子水入らずデート。」
「あー、とうとうぼけたか。誰が二人っきりだ、ちゃんとテメーの秘書もいるだろーが。」
もっともな指摘にマジックは、そうだねぇ、と二人を見る。
「おまえたち、すぐに降りなさい。」
「馬鹿かっ! あっ! ティラミス、おまえも素直に救命具なんか取り出してんじゃねぇっ! いいからっここにいろ。総帥命令だ!」
長年のつきあいのため、無茶な命令に逆らっても無駄だとばかりに、おとなしく従うティラミスを必死で止めるシンタローの気持ちをさらに逆撫でするかのようにマジックが、シンちゃん横暴、と抗議の声をあげる。
「あー、そーか。シンちゃんてば人に見られた方が燃えるタイプなんだ。」
シンタローのまなじりがつり上がるのを見てとったチョコレートロマンスがあわてて、口をはさむ。
「総帥っ! ここは空の上ですっ。お願いですから眼魔砲は船を降りるまでお待ちください。」
心の底からの叫びに、マジックが部下に向かってにっこりとほほえみかけた。
「………ほほう、その後はうってよいと……イイ度胸だねぇ。」
ぴしりと固まったチョコレートロマンスを後目にティラミスがスケジュールを確認する。
「飛行場に送迎車が待機していますので、とりあえず、迎賓館へ通された後、他の出席者と共に食事、それから境界の方へ場所を移し、戴冠式が始まります。こちらはボディガードといえど招待者以外は立ち入り禁止になりますので、くれぐれもお気をつけください。その後の晩餐会の後、お迎えにあがります。」
細々と式典の細かい時間配分などを何も見ないで立て板に水のごとく話すティラミスに、今回おいてきた自分の補佐官を思い出す。
今回招待状が新、旧総帥宛になっているため、まさか三人も主だった一族が団を留守にするわけにもいかず、置いてきたのだったが、しばらくは無言で拗ねていた。
逆に久しぶりにシンタローと『二人でおでかけ』できるとうきうき準備しているマジックの暴走をグンマが無責任にも煽るのも抑えなくてはいけないし、またそれを見て一人静かに怒っているキンタローを宥めなくてはいけないし、と出発前にすでにへとへとだった。
あの喧噪を思い出してげんなりしているシンタローとは別の意味でマジックもその分刻みのスケジュールにショックを受けていた。
「ティラミス、その最後の晩餐会なんとか欠席できるようにして、ここかここのレストランに予約……。」
「テメー……本気でその口閉ざしてやろーか。」
飛空艦が破壊されるまえに目的地に着けたのはある意味奇跡に近かった。
世の中にはさっぱり納得がいかないことがある、ということをシンタローはしみじみと昼食の席で感じた。
いやなことに同じデザインのスーツを着た隣に座っている父親に、各国の招待客が我先にと話しかけているのだ。
一応、彼は旧時代の象徴であり、極悪非情を以て知られる覇王だったのだが、女性にはそれもたまらない魅力のひとつらしい。
そういえば、シンタローが幼少のみぎりは、さまざまな事情から別居していることが多いとはいえ妻帯者であったにも関わらず、こうした場では父親の周りは美しい女性が群がっていた。
こ~~んなのの、どこがいいんだか。
ぐさっとナイフを魚につきたてると、マジックが眉をひそめた。
「シンちゃん、お行儀悪いよ? ナイフとフォークがうまくつかえないなら、パパが切ってあげようか?」
幸いなことに日本語だったため、周囲には意味がわからなかっただろうが、シンタローは真っ赤になった。
ぎりぎりと奥歯を噛みしめ、もう一度心の中で叫ぶ。
こんな阿呆のどこがいいんだぁぁぁぁっ!
シンタローが必死で怒りを堪えていると、近寄ってきたボーイが控え室の秘書からの伝言を耳打ちした。
「シンタロー?」
立ち上がったシンタローにマジックが声をかけたが、彼はむっつりとしたまま返事もせず、広間から出た。
ちらり、と肩越しに見てみれば、さすがに人前で「シンちゃんが冷たいっ」と大泣きすることもできず、紳士然としてさわやかな笑顔をご婦人方に振りまいている父親の姿に、シンタローは、けっ、と、舌を出したのだった。
案内された部屋に入ると、チョコレートロマンスが一礼して出迎えた。
ティラミスは他の場所に出向いているらしく、留守番は彼一人だった。
「お呼び立てしまして、もうしわけありません、こちらです。」
差し出された携帯電話を耳に当てると、自分の補佐官の声が流れてきた。
「シンタロー、無事か?」
「無事って、ここは別に敵国じゃねぇぞ。」
総帥二代が招待されただけあって、この国は以前からガンマ団とは比較的友好関係にあった。それに今回は戴冠式に列席ということが仕事であって、別に戦いに来ているわけではないのだから、開口一番「無事か」はないだろう。
人のことは言えないが環境に毒されている。コタローも気をつけないといけないな、とシンタローはしみじみと決心した。
しかし、キンタローの懸念はそんなものではなかった。
「マジック伯父貴と二人っきりで出かけることが危険なんだ。」
脱力しそうになって、シンタローは思った。
やはり、そーとー毒されている。
「…ふたりっきりじゃねぇよ。チョコレートロマンス達もいるし、団員もかなり随行しているし……。」
「シンタロー、何人いようと伯父貴はその気になればいつだって『二人っきり』にしかねないぞ。」
淡々と怖いことを言っている。
実際たくらみかけたしな、と機内でのやりとりを思い出して、シンタローは顔をひきつらせた。
「それから……。」
ところが、急に激しいノイズが入った。式典の進行のために、あちこちで使われている無線や通信機器のせいだろうと予測はつく。
「おい、キンタロー、切るぞ。後でな。」
聞こえるかどうかわからないが、一応ことわっておいてから、切断ボタンを切った。
「圏外だとさ。」
シンタローが放り投げた携帯電話を両手でキャッチしてチョコレートロマンスは、飛空艦の通信システムから連絡をとろうかと提案したが、シンタローは首を横に振った。
「いい、どうせ、今日の夜には帰るし、明日には聞けるだろう。」
どうせ、メインはあの二人っきり云々のことだったし、とシンタローはこめかみを抑えた。
オヤジといい、あの従兄弟といい、出張と旅行を一緒にしているのではないか。
そういえば、とシンタローはふと思い返した。
こうやって、オヤジと出かけるなんて何年ぶりだったっけ。
確かに、ガキの頃以来だな。
なまじ、『普通の家庭』というものを知らなかったから、よそに比べて家族のお出かけとやらが少ないことに対してそれほど不満に思ったことはなかったが、よくまあ総帥があれだけ外出できたものだと思う。
仕事の忙しさもさることながら、総帥とその後継者の外出ともなればセキュリティがどうしてもおおがかりなものにならざるを得ない。
たまに、外に連れ出される時も、目に見える護衛官以外にもおそらく数十人は変装して付き従っていただろう。
ただ、あの父親を倒せるだけの人間がこの世にいるとは思えないので、その必要があったかどうかは正直なところ不明だ。
大きくなるにつれ、自分は父親と距離をとりはじめたので、今回は確かに久しぶりの二人での外出である。
非常に不本意なことだが。
けれど、本当のところはマジックが言うとおりの「親子水入らず」ではない。
コタローは依然として眠りについたままだし、自分はマジックの息子ではない。
もちろん、周りは今も自分をマジックの総領息子として扱うし、自分も彼を父と呼ぶ。
それでも何も知らなかった頃のようにはいられない、いや、いていいのだろうかと罪悪感に苛まされていることを、マジックは知っているのだろうか。
「シ~~ンちゃ~ん。」
ドアが大きく開き放たれるのと同時に、脳天気な声とともに本人が飛び込んできた。
……絶対、考えもしていないだろう。
シンタローは、肩越しにマジックを睨みつけた。
「ンだよ?」
「なかなか、帰ってこないから迎えに来たんだよ。もうそろそろ、時間だしね。」
言われて腕時計を見て、シンタローもあわてた。
「やっべー、そろそろ教会へ行かないといけねぇ。おい、チョコレートロマンス。」
「はい。」
「式典は招待客以外立ち入り禁止だし、その後はパーティだけだから、おまえは先に飛空艦に戻っておけ。」
「いえ、私の任務はお二人のお世話ですから、こちらでお待ちします。」
「自分の世話ぐらい自分でする。いいから帰れ。」
しかし……、となおも渋るチョコレートロマンスにマジックがにこにこ笑って手を振った。
「シンちゃんが言うんだから、帰りなさい。命令だよ。」
いつのまにかその間の距離を縮めていたらしくシンタローの肩を抱き寄せる。
「それともなにかい、まーだ、私とシンちゃんの間を邪魔するのかな?」
「じゃ、邪魔なんてしてませんっ!」
秘石眼の奥底に剣呑な光を見てしまった秘書が、とんでもない言いがかりに蒼白になるがマジックの追求は厳しい。
「いーや、した。シンちゃんを私の側から呼びつけただろう。せっかく二人で食事していたのに。」
ひー、と声にならない悲鳴をあげるチョコレートロマンスだったが、総帥の拳骨のおかげでとりあえずの命の危機は脱出した。
「あほかっ! どこが二人だ! 百人以上はいたぞ!」
「そ、それでは、ワタクシは鑑で待機しておりますっ! お迎えにはあがりますので! ……マジック様、ご無事をお祈りいたします……。」
チョコレートロマンスはそそくさと逃げ出し、後には一触即発の親子のみ。
切れ気味の息子を前に、殴られた頭を抑えながらも元総帥はめげなかった。
「ははは、たとえ数万人いたとしても、パパにはシンちゃんしか目に入っていないから、世界はいつも二人きりなのさっ!」
相変わらず、歯が浮きまくりの台詞に、シンタローは半眼で父親を見上げる。
「へぇ、あちこちのオバサンたちと話してたじゃねぇか。アンタ、見えない相手に愛想ふりまいてるんだ。」
その言葉にマジックは、相好を崩し、シンタローの顔をのぞき込む。
「え、それって、もしかしなくても、ヤキモチ? だいじょ~ぶ、パパの本当の笑顔はみ~んなシンちゃんのものさ。」
「ちっがーうっ! そんなもん燃えないゴミに出してやる。俺はただアンタがへらへらしてると俺まで巻き添えになるから……。」
「赤くなってるよ、シンちゃん。」
か~わ~いい、とぎゅううと抱きしめられ、シンタローはぶんぶんと手を振り回したがすっぽんのようにしがみついたまま離れない。
「やめろ~~~!!」
叫びながら、シンタローは先ほどのキンタローの言葉を思い出して、げっそりとなった。
「シンタロー、シンタロー、待て! 気になる情報が…切れた。」
舌打ちしてソファーに受話器を放り投げるキンタローを、クッションを抱えて寝転がっていたグンマが、まあまあ、と取りなした。
「おとーさまがついてるから大丈夫だよ、キンちゃん。シンちゃんにべったりだろうしね。」
自分より伯父の方が頼りになるといわれたことに自尊心を傷つけられたのか、はたまた『べったり』が気に入らなかったのか、キンタローは口をへの字に曲げた。
シンタローが出発してから、キンタローの元に入ってきた報告に気になる情報があった。 後継者を選ぶ際に小さないざこざがあり、その際裏の世界にL国の人間らしい者が接触を図ったというものだ。
ありふれた小競り合いにしか過ぎないし、解決もしているが、それでも不安要素が残る場所に自分がいないところに行かせるなど、知っていたら絶対させなかった。
「一応、護衛官も何人かついていってるし、おとーさまのことだから、暗殺者だろうが一般客だろうが、自分以外には指一本触れさせないでしょ。」
さすがに、ガンマ団で彼らの従兄弟、甥として過ごしてきたキャリアの差か、グンマにはたいして危機感が無かった。
正真正銘本人が命をねらわれることも多々あって場数を踏みすぎたせいか、逆に今更巻き添えごときでどうこう思えないのだろう。
「だーいじょうぶだって、キンちゃん心配しすぎ~。」
「……だといいんだがな。」
キンタローは顎に指をあて、物思わし気に考え込んでいた。
「いい加減、ひっつくのはやめろって。」
「ええ~、ケチ。」
抗議の声を上げる父親を押しのけて、シンタローは歩調を早めた。
結構時間が迫っている。招待された側として、進行の妨げになるようなことは慎むべきだろう。
広間に近づくと、ちょうど案内係がそれぞれ招待客を先導しているところだった。
何気なく混ざった時、「ガンマ団総帥」と自分を呼ぶ声がしたので、振り返ると随分身なりのいい男性が、父親に近づいていった。
「ご健勝でなにより。」
まっすぐ、父親に向かって話しかける彼を見てシンタローはため息をついた。
いくら代を交代して日が浅いとはいえ、間違えられるというのはやはり自分に貫禄がついていないからだろう。
マジックはにこやかな表情を崩さずに、その男に家督を譲ったと自分を紹介した。
「え、そちらが…あ、いや、失礼。最近、ごたごたしておりましたので、国外の情報に疎くて…。」
男はこの国の現王の従兄弟だと名乗り、あわただしく挨拶をすませ、去っていった。
シンタローは、胸にかかった自分の髪を見下ろした。
おそらく、ここにいたのが、キンタローだったり、グンマだったらこんなことは起こらなかっただろう。
青の一族に金髪、碧眼しか産まれないというのは、そこそこ知られている噂だ。
誰が語らなくてもここ数代の総帥とその家族を見れば一目瞭然なのだから。
はっきりそうとは知らなくても、父親や叔父の姿を見慣れた人間はシンタローの黒髪と瞳を見ると一様に訝しげな表情になる。
おかしいじゃないか、全然似ていない、と。
もちろん、そんなことを口にしたら最後その人間の命は無くなったに違いないので、誰も面と向かっては言わなかったが。
子供の頃はともかく、士官学校を卒業する頃には、気にしなくなっていた。いや、気にしないようにしていた。
こんなことには慣れっこだったから、いちいち腹を立ててもしかたがない。
「シンタロー。」
「……なんだよ?」
「おまえは私の息子だよ。」
「……わかってるよ。」
それが真実だと信じていた頃の父親は、こんなことをいちいち言わなかった。
でも、今は、まるで自分の中のほんのかすかな不安を見抜いているかのように、『当たり前の事』を口にする。
周りから指摘されるとおり、マジックの自分に対する溺愛ぶりは真実を知ってからも、まったく変わることはない。それどころか、ここ最近ひどくなる一方だ。
暇が増えた分、人形がさらに増え、なにかというと構いたがる。
実の息子と分かったグンマに対してはどうかというと、今までと呼ばれ方以外まったく変わらない。
一度たまりかねて、グンマに少しは引き受けろと文句をつけたところ、即座に拒否された。
「二倍になったら僕が家出する。」
高松の過保護ぶりも、確かにいい勝負なのでグンマの言い分ももっともだった。
しかし、心のどこかでそのことをほっとしている浅ましい自分をシンタローは恥じていた。
愛情が当たり前のように注ぎ続けられることを、自分に一心に向けられている恐ろしいほどの執着が永遠にやまないことを、シンタローは一度も疑ったことが無かったのだ。
あの時まで。
『私はおまえの父ではない』
自分は父親より、あの少年を選んだ。
その前には父親より、弟を選んだ。
もちろん、その時は親子の断絶を覚悟していたつもりだったのだ。
あの父親は親子の情より、己の責務を優先させる、そういう男だと一番よく知っていたはずなのに。
ああ言うだろうと予想していたのに。
自覚しない部分で、彼は『自分だけ』は手放せないだろうと確かに思いこんでいたのだ。
そして、マジックはシンタローの予測通りの言葉を吐き、シンタローの中にあった『絶対』を壊してしまった。
あれを言った時の父親の顔は見ていない。
なのに、今頃になって、たまに、想像の中で冷たい瞳で自分を見下ろす彼の姿が浮かぶのだ。
あれが自分にとってどういう意味を持ったのか、マジックはきっと知らない。
教えるつもりも、なじるつもりもまったくない。
「シンちゃん、人がいっぱいだよ。迷子になったらいけないから、パパと手をつなごうね。」「己の左手と右手でつないでろ。」
絶対に、そんなこと知られたくない。
式典はやはり例によって長く退屈なだらだらしたものだった。
こみ上げるあくびをかみ殺しつつ、自分の就任式はどうだったかをシンタローは考えていた。
確か、やっぱりこれくらい長かったような気がするが、あまり印象に残っていない。
自分にとっての襲名の儀式とやらは、どう考えても総帥座について父親と交わしたやりとりだったからだ。
今、神の面前であれこれ誓いをたてている新王は自分が今から継いでいくものについて、どんなふうに考えているのだろう。
不安だろうかそれとも、新しい自分の時代に向けての意気込みだろうか。
それは同じような通過点をきた自分にも分からない。
父親の場合は、幼い頃に前総帥である祖父が亡くなり、いやおうなしに少年のまま『総帥』にならざるを得なかったらしいが、詳しいことは聞いたことがない。
そのあたりも教えてくれたのは父ではなく、叔父で、当時反抗期のまっただ中の自分への説教の前ふりだった。
俺はオヤジとは違う、と当時憤慨しただけだったが、継いだ今、思い出すと違う感情がわいてくる。
その話をしてくれた人間の思惑とはまったくかけ離れた悲しいような苦しいようなそんな想い。
自分には見守ってくれる保護者や、信頼できる協力者や分かり合える半身がいる。
けれど、その時の父親には頼れる人は誰もいなかったのだ。
十代の細い肩にはこの赤い服は相当重かったはずだ。
その時の父親を知らないが、もし目の前にいたら、どれほど嫌な顔をされても抱きしめたくなる気持ちをきっと抑えられないとそう思う。
大丈夫だと、守ってやるとそう言いたくなるに違いない。
もちろん、こんなこと当の本人には言ったことはない。
おそらく
「十代じゃなくても、パパはいつでもオッケーだよっ。なでなでもスリスリもラブでもハグでもチューでもどーんときなさい。さあさあさあ!」
と、はぐらかされるのが目に見えている。
「今の王様と、新しい人って直接の血のつながりはないんだよな。」
「子供ができなかったからね。王族の血は薄いけど、なんでも、すごく遣り手らしいよ。」
「ふーん。」
自分と似た状況だな、と考えると、妙に親近感がわく。そういえば冠を戴いたその髪はブロンドで、珍しいほどの長身といい、親族達を彷彿させた。
「アンタにちょっとだけ似てるな、あの人。」
そう言うと、何を勘違いしたのか妙に真剣な声で尋ねた。
「あの人とパパどっちがかっこいい?」
「……とりあえず、あの人の方が若いな。」
「若ければいいってもんじゃないよ、シンちゃん。大事なのは経験と体力と技とね。」
くだらない主張を熱心に続ける声が大きくなっていくのを止めるために、シンタローはおもむろにマジックのつま先に己の足を乗せ体重をかけた。
後は、園遊会で適当に挨拶を交わしてこの国との繋がりを確認すれば、仕事は終わる。
横で、悲鳴を必死で我慢している父親を振り返りもせず、シンタローはやれやれとほっとしていた。
式典はつつがなく終了し、最後の締めともなるシンタローの思うところの『バカ騒ぎ』が始まった。
こんな時までべたべたと寄ってくる父親を邪険に突き放し、新たな人脈作りに協力させる。
正直、俺様体質のシンタローにとってはこの手の作業は面倒くさい。コミュニケーションをとることがヘタでもなく、どちらかといえば人に好かれる方だとは自負しているが、必要以上に寄ってこられるのが嫌だ。
いろいろなタイプとつきあってこそ人間の幅が広がるというのは分かるが、気に入った人間しか側に置きたくないし、話もしたくない。
反対にマジックは、場慣れしているというか、ハンサムな顔立ちとやたら耳に心地よい声を駆使して、さらに目的を果たした対象をあしらう技にも長けているので、自分より効率がいい。
そのうえ、自分が少しでも一人の人間と長く話していると、寄ってきてはすかさず、引き離すという作業までこなしているのだからすごいという他ない。
あー、早く帰りてぇ~。
ワインを一口飲んで、置かれているチーズを口に放り込むと確かに美味しかった。
買って帰って明日キンタローと飲むときのつまみにでもするか、とシンタローは何の気無しに上を見上げた。
「……?」
視界の端でその模様がぶれたような気がした。
この大広間は吹き抜けになっており、壁面には色とりどりの飾り窓がはめ込まれている。その無数にあるステンドグラスのどこかに違和感のようなものを感じたのだ。
長年培っていたカンが頭の中で黄色い信号をちかちか点滅させる。
シンタローはぐるっと周りを見渡し、百合と聖母をモチーフにした飾り窓に目をとめた。
何か光るものがカーテンとその窓の隙間から見えた。トップクラスの戦士である彼には見慣れたもの――ライフルだ。
それが向いている方向を振り返り、シンタローの顔から血の気が引く。
声をあげて警告するとか、暗殺者に眼魔砲をうつとか、そんなことひとつも思いつかなくて、気が付けば広間の中央に突っ立っているバカを突き倒すようにして抱きついていた。
シンタローが父親を捕まえるのと同時に左腕に灼熱が走った。
「くっ…っ!」
シンタローが奥歯を噛みしめ、もれかけた声を飲み込むと一瞬呆けていた周りの人間があわてて次々に近寄ってくる。
「シンタロー総帥!」
「おいっ! 誰か医者を……。」
「どこから撃った! すぐに調べろっ!」
怒号と悲鳴が飛び交う中、シンタローは大きくひとつ息をついてから、両足に力を込めて身体を起こした。
「たいした怪我じゃありません。少々かすっただけですから、ご心配なく。」
「しかし……。」
たまたま近くにいた本日の主役の顔色も心なしか青ざめている。就任早々ガンマ団の恨みを買ってしまったのかもしれないと思うと、生きた心地もしないのだろう。
シンタローはそんな彼の心配を取り除いてやるよう笑って、もう一度たいしたことはありません、と言った。
事実、戦場で負うかもしれない傷のことを考えればこんなの怪我のうちにも入らない。
だからといって痛みが和らぐわけでもなかったが。
「総帥、こちらで手当を…。」
「では、せっかくのおめでたい席を中座して申しわけないですが、、失礼させていただきます。」
じくじくと痛む傷口をおさえ、シンタローは軽く頭を下げスタッフの案内に従った。
「シンタロー、私に捕まりなさい。」
付き添おうとする父親の手を振りきり、小声で恫喝する。
「バカ。俺がいねぇんだから、その分仕事しろっつーの!」
「でもね。」
「ついてきたって、俺は絶対アンタに寄りかかったりしない。一人で歩いて一人で治療を受ける。アンタにできることは何もない。……わかるだろ?」
『総帥』が弱みを見せるわけにはいかない。
痛みで意識がとんでいても、それを押し隠して戦場にたたなければ誰もついてこない。
マジックもそれはわかっていたのだろう。ことさら大仰に騒ぎ立てるような馬鹿なマネはしなかった。
そういえば昔から、普段の生活では小指をちょっと切っただけでも、止血消毒とぎゃあぎゃあ口うるさいのに戦場での怪我に関してはほとんど何も言わない。
それだけはこの過保護な親にしては上出来なことだ。
「じゃあ、シンタロー、終わったらすぐ行くから。」
「はーいはい。」
シンタローが出ていった後も、侵入者を探している衛兵やSPたちの動きがかしましく、なかなかざわめきは収まらなかったが、それでも十五分も経つ頃には表面上は落ち着いた。
それぞれの目的を放り出して、他人の災難にいつまでもかかずらわっているわけにはいかない。ここは彼らにとっても一種の戦場だったからである。
人気のない廊下を歩いていたマジックは、突然ぴたり、と足を止め振り返った。
「マジック様。」
物陰からすっと出てきた部下が一礼する。
その手には拳銃が握られていた。
「それで、どこにいるんだい?」
穏やかな口調に、チョコレートロマンスもらしからぬ淡々とした表情で答えた。
「ここのつきあたりを右に曲がった五つ目の部屋に追い込んでおきました。」
「そうか、後はいい。下がりなさい。」
「はっ。」
敬礼をする秘書を置いて歩きだしかけた彼は、ふと思い出したように確認する。
「もちろん、手は出してないね?」
彼らが自分の意を読み間違うことは一度足りとてなかったのだが、拳銃が気になった。
一応、相手もプロだ。やむをえず使わざるを得ないはめになったかもしれない。
しかし、チョコレートロマンスは即座に否定した。
「当ててはいません。威嚇はしましたが、それ以上のことは私の分を越えたことと思いまして。」
「上出来だ。それじゃあ、後で迎えにおいで…もちろん、それはシンちゃんの目に触れないところに。」
「承知しております。」
チョコレートロマンスは拳銃を懐にしまうと深々と頭を下げて、マジックを見送った。
スナイパーは暗闇の中息を殺し、脱出する機会をうかがっていた。
同じような体格だったとはいえ、ターゲットを間違うとはプロとして失格だ。さらに、その間違えた相手がこともあろうに、あの男だったとは。
とんでもないものを敵に回したことに気づき、その場から逃げ出したのだが、すべての警備員たちをまいたその時に銃弾が髪をかすめたのだ。
応戦も考えたが、騒ぎを聞きつけた他の人間がやってこないとも限らないので、逃げることだけに集中しているうちに、ぞっとした。
わざと外されている。
しかも、紙一重のすれすれのところで、最初からあてるつもりが無いかのように。
いったい、どんなヤツかとふりむいてみれば甘い顔建ちをした優男風の若い男だ。
それが、反動をものともせず、軽々と引き金をひいている。
身につけている制服で彼の出自がわかり、納得と同時にとてつもない恐怖が襲った。
あの、世界最強の殺し屋軍団といわれた組織のトップに手を出してただですむとは思わなかったが、異国の地でこんなに簡単に自分を見つけだすとは、聞きしにまさる優秀さだ。
それでも、なんとか一室に逃げ込み、彼をやり過ごしたが、近くをうろついているのが足音からわかり、彼はじっと身を潜めていた。
「標的を見間違うなんて、どんな馬鹿な仕事人かと思ったが、本当に使えない人間だな。ガンマ団なら士官候補生でも人の気配くらい気づく。」
冷笑を帯びた声に、彼の全身が強張った。
かの男の名前こそ知ってはいても実物を目の当たりにしたことはない。ましてや聞いたことなどまったくないその声に、彼はその場に縫いつけられたようになってしまった。
この圧倒的な威圧感。
今までまったくそんなものはみじんも感じなかったのに。
右手の銃を構え直そうとするが、力が全く入らず徒労に終わった。
彼は自分の手が震えていることに気づいたらしく、忍び笑いをもらす。
「さすがに、敵う相手とそうじゃない相手の違いは感じられるようだな。」
一歩、また一歩と死神の足音が響き、男の身体から冷たい汗が吹き出す。
「安心しなさい、殺しはしない。あの子がそれをいやがっている限りはね。」
そうは言われてもこれほど殺気を漂わせておいて、安心しろもないだろう。
男は全身の力を振り絞って、身体の向きを変えると同時に引き金を引こうとした。
「おや、安心しなさいと言ってあげたのに。」
何がどうなったのか、男にはさっぱりわからなかった。
自分が握っていた銃が足下に落ちていて、右手を長く骨張った指が掴んでいること、それだけが彼にできた現実認識だった。
「もちろん、制裁はさせてもらうよ。」
銃をがっと踏みつけ、彼は朗らかな調子でそう言った。
「一応、罪人にも己の罪状を知る権利はあるだろうから、教えてあげよう。君の罪は、私に銃を向けたこと、私の宝に傷をつけたこと……けれどね、これはまだ軽い方なんだよ。」
おまえの最悪の罪は、あの悪夢を再現したことだ。
意味不明の言葉を口にしたその時、彼の白い怒りの気が全身につきささり、男はがくがくと顎を上下させた。
「あの子が私に『殺すな』と言うから、命までは奪わない。……『私』はね。」
喉を締め上げている手は確かにぎりぎりのところで力を加減されているが、だからといって、苦しいことに代わりはないほとんど本能のまま全身をばたつかせたとき、右手から嫌な音が聞こえ、今まで想像もしたことがなかったような激しい痛みが走った。
「―――――っ!! グァ…―――。」
絶叫は喉を掴む手で止められた。
「おやおや、こんなところで悲鳴をあげて見つかったら困るのは君の方だろ。」
そう言って、彼の体を床に投げ出す。
右手の骨を粉砕したのだからその痛みを想像するに、気絶しないだけたいしたものだ。
「たぶん、もとのようには動かないねぇ。このことは広めるようにさせるから、左手で元のように武器が扱えるまで、果たして自衛できるかな?」
こんな稼業の人間だ。
利き腕を無くしたと知られたら、命をねらってくる人間の心当たりは山ほど在るだろう。
そして、やはり男はいくつかの可能性に思い当たったらしく痛み以外の理由で震えている。
「それでは、私はこれで失礼するよ。あの子に頼まれた仕事の途中だからね。」
マジックはゆっくり踵を返した。
かすかな足音が遠ざかり、戸口を開く重い音が聞こえた。
細い光が扉の隙間から入ってきて、出ていく刹那の彼の美しい顔を照らす。
痛みと恐怖の中で見えたのは、その青い両眼に浮かぶかすかな光だけだったが。
知らせを受けて駆けつけてきたチョコレートロマンスに引っ張られるようにして、一足早く、艦の方に戻ったシンタローはティラミスの報告を受けた。
「先ほど、キンタローさまから連絡が入りまして、この国で少し前もめ事があったそうです。前王の従兄弟と、元王のどちらを選ぶかということで、もともと皇太子だった従兄弟を差し置いて、結局今の王が選ばれたので、かなりごたついたそうです。本人達はどうかまでは知りませんが、勢力図ががらっと変わってしまいましたから。」
「じゃあ、あのスナイパーの狙いって…。」
「おそらく、現王でしょう。うっかり成功されたら、内戦が始まるところでした。的を間違えるような無能な狙撃手でよかったことです。」
あっさりとよかったと片づけられても、こっちは怪我しているんだが…とシンタローはむっとしたが、それを口に出すのは大人げない気がしたのでかわりにこう嫌味を言った。
「……『忠実』な部下のおまえなら、こともあろうにマジックに手を出したなんて知ったら烈火のごとく怒り狂うと思ったんだが、冷静でよかったよ。」
すると、ティラミスは困った子供を見るような目で、座っているシンタローを見下ろした。
「マジック様が、撃たれるわけないでしょう。ご自分で避けるなり、眼魔砲でとばすなりされますよ。」
考えてもみなかったことを言われてシンタローは、かああっと赤くなった。
そう言えばそうだった。
あの時はもうそんなことを考える余裕もなくて、身体が勝手に動いていたのだ。
先に眼魔砲を自分が撃つなりなんなり方法があったはずなのに。
あー、くそう、帰ってきたアイツがいい気になってべたべたしてくるのが今から想像がつく。
そんなことをしやがったら今度こそ眼魔砲だ。
シンタローは頭を抑えて頭痛に耐えた。
「それでは、出発まで休養をとってください。本部には連絡をいれておきます。」
「頼む。」
シンタローは背もたれに身体を預けて目をつむった。
今回はねらわれているのはマジックではなかったらしいが、まったくそんな可能性を考えなかった。
なぜって、父親は昔から何人にも恨まれ、憎まれ、おそれられている。
たとえ、新しいガンマ団を自分が作っていっても、過去のことは消せない。
自分だってそうだが、負の部分を一身に背負うような形で引退した彼にその手の感情が集中するのは当たり前だ。
そして、本当に彼が巷で囁かれているように……いや、それよりもっと酷い人間であることをシンタローは知っている。
誰よりも一番知っている。
でも、それでも、たった一人の父親なのだ。
弟を幽閉しても。
自分に刺客を送ってきても。
たくさんの人を殺して、たくさんの幸せを壊して。
世界中の人が彼を憎んで攻撃しも、自分は絶対に彼を守ってしまう。
あんなに最悪な人間なのに。
やってきたことは決して許せないのに。
父親が背負った罪を共にすることもできないし、彼もきっと拒むだろう。
……それでも地獄には一緒におちてやろうと、それだけは決めていた。
絶対に口にはしない誓いだが。
マジックが戻ってきたのは、かなり夜も更けて日付が変わる直前だった。
「お疲れさまです。」
出迎えたティラミスにコートを渡し、そのまま大股で中央の椅子まで歩み寄る。
疲れと痛み止めの効果で、シンタローはぐっすりと眠っていた。
「出発の号令は無理みたいだねぇ…しかたがない。私が代行しておこう。」
くすくすと笑いながら、それを行ったマジックの顔がふと真顔になる。
まぶたは固く閉ざされ、やや血の気が失せたその頬に黒髪が乱れてかかっている。
―――それは、見なくてすんだあの恐ろしい光景を喚起させた。
手をそっと彼の顔にかざし、唇に近づける。
そこに触れる湿った空気の動きに、マジックはほっとし、それから何もなかったように髪の毛をはらってやった。
「マジック様、依頼主を割り出しておきました。……総帥には未報告です。」
賢明な処置だ、とティラミスの判断をマジックは評価した。
シンタローはおそらく報復など、望まないだろう。
望んだとしても、せいぜい犯人の国家に証拠をつきつけ『正当な』裁判を受けさせるくらいだ。
だが、それですませてなどやるものか。
「もう一人の王候補の舅で現大臣の一人です。本人も内々には知っていて黙認していたふしがあります。」
なるほど、と、マジックはその面々の強欲そうな小ずるそうな顔立ちを思い浮かべ、納得した。
身食いするようなばかげた争いをしかけるのは勝手だが、自分たちを偶然とはいえ巻き込むなど許し難い罪だ。
「どんな手を使ってもいいから、破滅させなさい。シンタローには知らせるな。」
「かしこまりました。」
ティラミスは与えられた命を果たすべく、通信室へと向かった。
入ろうとすると、中ではなにやら話し声がしていた。
「ですから~、軽傷ですし、総帥の体力なら二週間で完治しますよ~。」
相方の半泣き状態の弁明から通信相手を予測し、ティラミスは姿勢を正して身構えてから通信室へ入った。
「キンタロー補佐官、失礼します。」
小さなディスプレーに映る端整な顔立ちは顰められ、不機嫌きわまりない。
「おまえか、ティラミス。さっきは、どうして、この俺にシンタローの負傷を知らせなかった。」
さらに語気を荒げ、そう詰問するキンタローにティラミスはモニターのこちら側で頭を深々と下げた。
「軽い怪我でしたし、総帥からも箝口令が出ていましたので差し控えました。お許しください。」
主とよく似た青い目が、すっと細められる。
「そうか? シンタローではなく伯父貴の命令ではないのか? あの人の独占欲は今に始まったことではないからな。」
それは貴方もイイ勝負です、とはさすがに二人とも口には出せなかった。
「ご冗談を。ガンマ団では上司の命令は絶対です。今、現在シンタローさまより、上位の方は世界中のどこにもいらっしゃいませんよ。」
「それは、他の団員の話だろ。」
キンタローは視線を二人にぴたりと向けたまま、冷めた口調で彼の口舌を遮った。
「総帥が現在誰であろうとも、おまえたちにとっての絶対の存在は伯父貴だけだ。マジックの命令があればおまえたちはシンタローを平気で裏切る。わかるさ、俺も対象は逆だが同じだからな。」
キンタローの指摘に、二人の顔から一瞬表情が消えたがすぐに笑顔を取り戻す。ただ、いつものそれとは随分違うものだった。
「ですから、ご心配には及びません。キンタローさま、我らの主にとっての『絶対の存在』があの方なのですから、私たちにとってもシンタロー様は命に替えても守るべき大切な方でいらっしゃるんですよ。―――――永遠に。」
ティラミスがわかりきったそのことを説明すると同時に、チョコレートロマンスが片手の手のひらを胸の前につきだして、援護する。
「なんなら、誓いますが?」
キンタローはため息をつき手を振った。
「いや、いらない。そんな当たり前の誓いしようがしまいが、俺にとっては意味がない。俺がたった一人認めた男に何か害を為せば、誰であろうと消すだけだ。」
「それは怖い。」
「即死ですね。」
口々にそうは言うものの、その目にはまったく恐れなど微塵も浮かんでいない。それは別にキンタローを侮っているわけでもなんでもなく、主の命令さえ果たせれば後はどうなっても構わないと思っているからだ。
そして、キンタローも彼らを脅したわけではなく、ただ事実を述べただけであることを、二人は知っていた。
シンタローの隣に座ると傾いでいた身体が自分の肩に倒れ込んできた。
優しく抱き寄せ、髪をすいてやり囁いた。
「いい子だね、シンちゃんは。パパ想いだし。」
目が覚めていたら眼魔砲とありとあらゆる罵倒の言葉がとんだところだったが、シンタローの口からは穏やかな寝息しか聞こえなかった。
「でもね。」
そっと自分と違う色の髪に口づける。
「二度と、私を庇ったりしないでおくれ。」
眼魔砲の青い光の中、久しぶりに自分を「父さん」と呼び抱きついてきたその身体から力が抜けていき、砂埃の中地に倒れ伏す鈍い音……一連の悪夢。
あの時、泣きそうな子供のような顔のシンタローに胸が痛くなった。それで咄嗟に反応が遅れたのかもしれない。
その一瞬が取り返しのつかない結果を生んだとき、自分は半ば茫然としていた。
失ってしまったことが、理解できているのに、その事態に頭がまったくついていかなかったのだ。
父親なんて認めない、と口では言っても彼には自分を見捨てることができないということを誰よりもわかっていたのに。
シンタローが実際に生を失い倒れる様は幸い見なくて済んだのと、その後で起こった忌まわしい真実にもっと強い衝撃を受けたため、気づかなかった傷は今頃になって時々疼いて彼の眠りを覚ます。
その昔、今まで何一つ恐ろしいなど思ったことがないと思われている自分が、この子を失うことだけを脅えているなど知れたらどうだっただろう。
あの頃は、自分なら守り通せると思っていたから、まだ耐えられた。
けれど、それが他ならぬ自分自身のせいで果たせなかったあの時から真の恐怖が始まったのかもしれない。
「頼むから、二度と。」
眠った彼にしか言えない言葉だ。
庇うな、と言ったところで、シンタロー自身にはどうしようもできない。『父親』を見捨てられる子供ではないから。
庇われて置いていかれるよりは、共に貫かれて逝きたいと、そんなことは口にも出せない。
深い眠りの底にいる愛し子を抱きしめ、マジックは同じように目を閉じた。
数時間もすれば、自分たちの家に戻れる。
安全で忙しない日常に。
それまでは一緒に眠ろう。
できれば同じ夢を見て――――――――。
end
2004/09/12
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蒼の境界線
開けた天はどこまでも深い青。
そこにただ一人佇む青の王子として育てられた赤い王。
緋の衣をまとい、蒼穹の中に立つ彼の顔はたなびく黒髪に邪魔されて見えない。
けれど、自分は知っている。
愛しい、ただ一つの存在が泣いていることを。
最上階の外壁は殆ど剥がれ、ちぎれたヒューズがバチバチ火花を飛ばしている。
修理費はどれくらいかかるんだろう、いや、そもそも再建が可能なのか?
どこかそんな暢気なことを考えていることを、息子が知ったらそれこそもっと怒り狂うことは間違いない。
「シン~ちゃ~ん、そろそろやめないと、床まで抜けちゃうよ?」
「うっせぇ! このクソ親父。そのまま奈落の底に落ちろ!」
怒鳴られたものの、眼魔砲が繰り出される気配はもう無かった。
マジックは瓦礫の下からなんとか立ち上がると、服についた埃を払う。
シンタローはこちらをまったく見ようとしない。
彼の眼差しは無惨に空けられた壁の向こうの空へ、またその向こうにある場所へと向けられているのだろう。
自由とかの人を求めるその目は初めてではない。
ふとしたとき、それは一人だけの時とは限らなくて、たとえば、会議の時や、家族でくつろいでいるとき、頷きながらも心はどこか遠くへとばしているときがある。
誰にも気づかれていないと思っていたろう?
マジックはそれを見るたび、何度も胸にこみ上げてきた醜い想いを無理にねじ伏せる。
「……アンタは言ったよな? 今度こそちゃんとしたコタローの父親になるって。」
押し殺した声に、マジックは、ごめんね、としか言わなかった。
そしてそれはシンタローの怒りを倍加させる。
「ごめんねって……ごめんって! 俺にそんなこと言ってもらったってしかたないじゃねぇか!」
コタローにだろ!
と彼は絶叫した。
「閉じこめて……なかった存在にして……ひとりぼっちにして……コタローが何をしたって言うんだ! ガンマ団総帥の子供に生まれたってだけで、秘石眼を持ってしまっただけで!」
その背が小刻みに震え、彼は絞り出すような声で呟いた。
「……『俺が』。」
とっさにマジックはシンタローをきつく抱きしめた。
その言葉だけは言わせてはいけない。
何もしてやれなかった父親としても、彼を愛しすぎた男としてもその言葉だけは言わせてはいけなかった。
『俺が存在しなければ』
シンタローを初めて腕に抱いた時、我が子というものはこんなに愛しいものなのか、と心底驚いた。
妻や弟達のことも愛してはいたが、それとは全然違う。
その存在がここにあるというだけで、気が遠くなるほどの幸福を感じた。
何をしても可愛かったし、どんなことでもかなえてやりたかった。
彼の関心も愛情も独り占めしなくては気がすまなかったし、事実そうしようとした。
一族の呪縛から抜け出た双の黒玉が映すのは自分の姿だけでいい。
彼が呼ぶのは自分の名だけ。
その権利はあるはずだと固く信じていた。
この執着が異常だなんて考えたことがなかった。
親子という絆は、そういうものなのだと思っていたのだ。
コタローが生まれるまでは。
コタローをマジックは彼なりに愛していた。
自分と同じ秘石眼と巨大すぎる力を持った我が子。
ルーザーのように苦しみ抜いて死を選ぶようなことになるより、最初からすべてのことから遠ざけてやることのほうが、まだ良いと思ったのだ。
それをシンタローに説明することは難しかったし、弟のことを、そしてコタローのことを彼には告げたくなかった。
苦しめるだけの事実をシンタローに知らせてどうなるというのだ。
シンタローは自分を憎み、心を閉ざした。
それでも、彼のために真実をマジックは封印した。
その時もそれが正しいことだと信じきっていたのだ。
だが、メッキはやがて剥がれる。
ある日、遠征に行く自分をシンタローがめずらしく見送りにきたことがある。
人払いされた部屋で二人きりになっても、彼はなかなか自分と目を合わせようとしなかった。
それでも、息子が自分をわざわざ見送りに来ることは本当に久しぶりで、まるで昔の優しい時間に戻れたようでマジックは嬉しかった。
「今度の遠征は比較的長い。しばらくはシンちゃんの顔を見ることができなくて寂しいな。」
髪に触れると、一瞬身をすくませたがそれだけで後は大人しく撫でさせている。
「なら、俺も連れてけば?」
そんなことはできるはずがない。
自分が出なくてはならないほどの戦局に、どうしてこの子を連れていけるだろう。
自分の真の姿をこの大事な子供に見せることなどできやしない。
けれど、シンタローはそれを違う意味にとっていたようだった。
父親に比べて非力な自分を侮っているからこそ、父親は自分を遠征にはつれていかないと、そんな風に思っていたらしい。
それをマジックも気づいていたが、一応否定はしてみたものの、彼が納得できるはずがないことを承知していた。
―――――それでも、本当のことを知らせることなど問題外のことだった。
「そうだね、我慢できなくなったら一旦帰ってくるよ。」
マジックはシンタローの嫌みを笑って受け流し、手を髪から頬に移動させた。
額から目の端あたりを触れ、少しでも彼の感触を覚えておくため顔の輪郭をたどる。
唇の端に触れた時、それがわずかに震え、何かを言いかけた。
そこからもれた質問は小さく、途中でとぎれてしまったがマジックにとってはすべてを根底から覆すような一言だったのである。
「もし、俺がコタローのようだったら……。」
何が危険なのか、シンタローには具体的には聞かせていない。
秘石眼のことも彼はまだよく分かっていないはずだ。
だから、その問いはあやふやなところで終わったのだが、マジックにはそれだけで充分すぎるほどのものだった。
シンタローがもし秘石眼を持つ子供だったら?
いや、両目とも秘石眼だったとしても、自分のように完璧にコントロール、もしくは甥のように完全に眠らせてしまえば、そう危険なものではない。
けれど、コタローのように善悪の区別もつかず、意図しない力までも暴走させてしまうようだったら?
シンタローがもしそうだったら、自分はコタローと同じように諦めることができたか?
答えは―――――――――――。
『否』だった。
けれど、その答えは彼の口から出ることはない。
かわりに与えたのは、嘘ではない、けれど真実でもない答え。
「わかるだろう。私はガンマ団総帥だ。おまえたちの父親であるまえに。」
シンタローは怒りの表情で自分を見た。けれどその表情が、どこかほっとしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「アンタなんか父親と認めてねぇよ!」
そう叫んで、今度こそ自分の手を振り払った彼はマジックに背を向けた。
それが最後の彼の自分への言葉になるとも知らず、マジックは今知ったばかりの真実にぞっと身をすくませた。
『我が子』が特別だったのではない。
『シンタロー』がそうだったのだ。
秘石眼の力をシンタローに説明しなかったのは、自分のことも――化け物のような自分の真の姿を知られるのが怖かったから。
彼が自分から離れると考えただけで、何も恐れる者が無いと言われる己が全身が凍り付きそうな恐怖に襲われる。
この世で一番愛しい子供。
誰よりも幸せにしてやりたい命。
だから、彼は自分の側で幸せにならなければならない。
マジックの望むような幸せだけで満足しなければならない。
自分にはそれが許されると思っていた。
誰よりも強い男であり、彼の父親である自分にはその権利があると信じていた。
そんな傲慢な自分にシンタローの楽園が下した罰はあまりに過酷なものだった。
あのとき奇跡的に失わずに済んだ存在は今も自分の腕の中にいる。
もし、あの少年と供に旅立てば、負わずにすんだ傷と苦痛に喘ぎながら。
「シンちゃん、全部パパが悪かった。ごめんね。」
抱きしめたまま、そう言い聞かせる。
シンタローが気に病むことは無いのだと分からせるために、何度でも。
「そうだよ、アンタが――っ。」
自分の胸のあたりにシャツを通してじわっと生暖かいものが広がる。
声を殺して泣くシンタローの頭をより強く自分に押し当てる。
自分の両手の中に包み込めそうなほど小さかった赤ん坊は見る影もないほど大きく育った。
しかし、幸いなことに自分より幾分か背が低く、幅も己ほどではない。
だから、泣き顔を見せたくない彼のために隠してやることができる。
この4年間、彼は必死で働き続けてきた。
何度も、もう休みなさい、と言ってやりたかったけど、彼は決してその言葉を受け入れようとはしなかっただろう。
弟の寝顔を見るたび、彼が少なくない罪悪感に苛まされていることを知っている。
己の存在さえなければ、コタローが閉じこめられることはなかったのではないかという疑いを彼は捨てきれない。
キンタローをずっと閉じこめてきたことも。
自分とグンマの位置が変えられたことも。
すべてが自分の存在に起因しているというその思いが彼を動かしている部分があるということも、ずっと彼を見ていた自分は知っている。
「ごめんね。」
本当の罪人は自分。
彼を愛しすぎたマジック自身だ。
シンタローは何も悪くない。
シンタローはただ愛されてしまっただけ。
「パパのせいだね、ごめんね。」
私を責めてくれ。
いくらののしっても構わない。
押さえてきた感情のままに荒れればいい。
そのためにこの身はここにあるのだから。
おまえの怒りをぶつけられても、笑っていられるしぶとい身体は。
おまえが泣ける唯一の場所になってしまったこの腕は。
――――だから、これ以上自分を責めないでくれ。
「アンタなんかだいっきらいだ!」
叫んだ後、彼はこらえきれない思いを吐き出すように顔をマジックの胸に押しつけた。
震える肩を抱きしめ、マジックは瓦礫と化した司令塔の向こうに広がる碧空と海原を見た。
彼がさっき見ていた景色だ。
いや、彼の目の中にはもっと美しい世界がうつっていたのかもしれない。
コワイ。
マジックは息子の身体をなおいっそう強く抱きしめた。
最上階に位置するこの部屋を吹き抜ける風は強く、すべてを剥ぎ取っていきそうなほどだ。
虚飾も、強さも、弱さもすべてこの風にさらわれて―――あとに残るのは空っぽの―――――――――――。
どれくらいそうしていただろう。
ほんの刹那のようにも、永遠のようにも思えた。
「―――父さん。」
疲れた声で呼びかけるシンタローの声。
「はなしてくれ、父さん。」
聞こえない。
風の音が強すぎて。
そう言いたかった。
シンタローのその声がもう少し弱ければそうできたのに。
――――――聞きたくない。
聞きたくないんだ。
「俺は行かなきゃ。」
彼が口にする前に分かっていたその言葉は、やはりマジックの胸を痛くする。
マジックが負わせたコタローの心の傷を目の当たりにし、もっとシンタローは苦しむだろう。
そして――――――いまだにシンタローが求め続けているあの少年がそこにいることをマジックは確信していた。
シンタローもおそらくそれを知っている。
今度こそ連れて行かれてしまうかもしれない。
今度こそ彼を選んでしまうのかもしれない。
見送らなくてはいけないと頭では分かっているのにマジックは彼を離せなかった。
昔と同じだと、シンタローに軽蔑されてもいいから、行かせたくない。
知らず、腕に力が込められ、シンタローは苦しそうに息をついた。
「頼むから放してくれ―――――俺はアンタの腕だけはほどけないんだ。」
マジックは目を閉じ、それからもう一度開いた。
どこまでも続く青の世界。
それは果ての見えない己の執着にも似て―――寂しく、すがすがしかった。
「――ごめんね。」
もう一度だけ謝って、ゆっくりと指から、手のひら、腕と力を抜いていく。
身体が離れた時、ひどく寒く、そして自分の身が頼りなく感じられたのは自分だけではないだろう。
シンタローが数歩下がって顔を上げる。
その目は少しだけ縁が赤かったが、腫れてはおらず澄み切った色のままだった。
『ありがとう』
唇をかすかに動かしただけのその言葉にマジックは頷く。
シンタローが表情を引き締め、一歩踏み出すと身体をわずかにそらせて道を空けてやる。 横を通り過ぎた時、長くのばした彼の髪がひるがえって自分の頬に触れた。
彼の踵がたてる重い音が聞こえなくなるまでマジックは外界を見続けた。
いっておいで、シンタロー。
おまえを縛り付ける鎖はもうない。
おまえが何を選びたいのか、そして何を選ぶのか私は知っているから。
どうなっても何がおこっても私はおまえを待つだろう。
だから、せめて許して欲しい。
旅立つおまえの後ろ姿を見送ってやれないことを。
いっておいで愛しい子。
end
2004/03/10
改稿2006/0911
開けた天はどこまでも深い青。
そこにただ一人佇む青の王子として育てられた赤い王。
緋の衣をまとい、蒼穹の中に立つ彼の顔はたなびく黒髪に邪魔されて見えない。
けれど、自分は知っている。
愛しい、ただ一つの存在が泣いていることを。
最上階の外壁は殆ど剥がれ、ちぎれたヒューズがバチバチ火花を飛ばしている。
修理費はどれくらいかかるんだろう、いや、そもそも再建が可能なのか?
どこかそんな暢気なことを考えていることを、息子が知ったらそれこそもっと怒り狂うことは間違いない。
「シン~ちゃ~ん、そろそろやめないと、床まで抜けちゃうよ?」
「うっせぇ! このクソ親父。そのまま奈落の底に落ちろ!」
怒鳴られたものの、眼魔砲が繰り出される気配はもう無かった。
マジックは瓦礫の下からなんとか立ち上がると、服についた埃を払う。
シンタローはこちらをまったく見ようとしない。
彼の眼差しは無惨に空けられた壁の向こうの空へ、またその向こうにある場所へと向けられているのだろう。
自由とかの人を求めるその目は初めてではない。
ふとしたとき、それは一人だけの時とは限らなくて、たとえば、会議の時や、家族でくつろいでいるとき、頷きながらも心はどこか遠くへとばしているときがある。
誰にも気づかれていないと思っていたろう?
マジックはそれを見るたび、何度も胸にこみ上げてきた醜い想いを無理にねじ伏せる。
「……アンタは言ったよな? 今度こそちゃんとしたコタローの父親になるって。」
押し殺した声に、マジックは、ごめんね、としか言わなかった。
そしてそれはシンタローの怒りを倍加させる。
「ごめんねって……ごめんって! 俺にそんなこと言ってもらったってしかたないじゃねぇか!」
コタローにだろ!
と彼は絶叫した。
「閉じこめて……なかった存在にして……ひとりぼっちにして……コタローが何をしたって言うんだ! ガンマ団総帥の子供に生まれたってだけで、秘石眼を持ってしまっただけで!」
その背が小刻みに震え、彼は絞り出すような声で呟いた。
「……『俺が』。」
とっさにマジックはシンタローをきつく抱きしめた。
その言葉だけは言わせてはいけない。
何もしてやれなかった父親としても、彼を愛しすぎた男としてもその言葉だけは言わせてはいけなかった。
『俺が存在しなければ』
シンタローを初めて腕に抱いた時、我が子というものはこんなに愛しいものなのか、と心底驚いた。
妻や弟達のことも愛してはいたが、それとは全然違う。
その存在がここにあるというだけで、気が遠くなるほどの幸福を感じた。
何をしても可愛かったし、どんなことでもかなえてやりたかった。
彼の関心も愛情も独り占めしなくては気がすまなかったし、事実そうしようとした。
一族の呪縛から抜け出た双の黒玉が映すのは自分の姿だけでいい。
彼が呼ぶのは自分の名だけ。
その権利はあるはずだと固く信じていた。
この執着が異常だなんて考えたことがなかった。
親子という絆は、そういうものなのだと思っていたのだ。
コタローが生まれるまでは。
コタローをマジックは彼なりに愛していた。
自分と同じ秘石眼と巨大すぎる力を持った我が子。
ルーザーのように苦しみ抜いて死を選ぶようなことになるより、最初からすべてのことから遠ざけてやることのほうが、まだ良いと思ったのだ。
それをシンタローに説明することは難しかったし、弟のことを、そしてコタローのことを彼には告げたくなかった。
苦しめるだけの事実をシンタローに知らせてどうなるというのだ。
シンタローは自分を憎み、心を閉ざした。
それでも、彼のために真実をマジックは封印した。
その時もそれが正しいことだと信じきっていたのだ。
だが、メッキはやがて剥がれる。
ある日、遠征に行く自分をシンタローがめずらしく見送りにきたことがある。
人払いされた部屋で二人きりになっても、彼はなかなか自分と目を合わせようとしなかった。
それでも、息子が自分をわざわざ見送りに来ることは本当に久しぶりで、まるで昔の優しい時間に戻れたようでマジックは嬉しかった。
「今度の遠征は比較的長い。しばらくはシンちゃんの顔を見ることができなくて寂しいな。」
髪に触れると、一瞬身をすくませたがそれだけで後は大人しく撫でさせている。
「なら、俺も連れてけば?」
そんなことはできるはずがない。
自分が出なくてはならないほどの戦局に、どうしてこの子を連れていけるだろう。
自分の真の姿をこの大事な子供に見せることなどできやしない。
けれど、シンタローはそれを違う意味にとっていたようだった。
父親に比べて非力な自分を侮っているからこそ、父親は自分を遠征にはつれていかないと、そんな風に思っていたらしい。
それをマジックも気づいていたが、一応否定はしてみたものの、彼が納得できるはずがないことを承知していた。
―――――それでも、本当のことを知らせることなど問題外のことだった。
「そうだね、我慢できなくなったら一旦帰ってくるよ。」
マジックはシンタローの嫌みを笑って受け流し、手を髪から頬に移動させた。
額から目の端あたりを触れ、少しでも彼の感触を覚えておくため顔の輪郭をたどる。
唇の端に触れた時、それがわずかに震え、何かを言いかけた。
そこからもれた質問は小さく、途中でとぎれてしまったがマジックにとってはすべてを根底から覆すような一言だったのである。
「もし、俺がコタローのようだったら……。」
何が危険なのか、シンタローには具体的には聞かせていない。
秘石眼のことも彼はまだよく分かっていないはずだ。
だから、その問いはあやふやなところで終わったのだが、マジックにはそれだけで充分すぎるほどのものだった。
シンタローがもし秘石眼を持つ子供だったら?
いや、両目とも秘石眼だったとしても、自分のように完璧にコントロール、もしくは甥のように完全に眠らせてしまえば、そう危険なものではない。
けれど、コタローのように善悪の区別もつかず、意図しない力までも暴走させてしまうようだったら?
シンタローがもしそうだったら、自分はコタローと同じように諦めることができたか?
答えは―――――――――――。
『否』だった。
けれど、その答えは彼の口から出ることはない。
かわりに与えたのは、嘘ではない、けれど真実でもない答え。
「わかるだろう。私はガンマ団総帥だ。おまえたちの父親であるまえに。」
シンタローは怒りの表情で自分を見た。けれどその表情が、どこかほっとしているように見えたのは気のせいだったのだろうか。
「アンタなんか父親と認めてねぇよ!」
そう叫んで、今度こそ自分の手を振り払った彼はマジックに背を向けた。
それが最後の彼の自分への言葉になるとも知らず、マジックは今知ったばかりの真実にぞっと身をすくませた。
『我が子』が特別だったのではない。
『シンタロー』がそうだったのだ。
秘石眼の力をシンタローに説明しなかったのは、自分のことも――化け物のような自分の真の姿を知られるのが怖かったから。
彼が自分から離れると考えただけで、何も恐れる者が無いと言われる己が全身が凍り付きそうな恐怖に襲われる。
この世で一番愛しい子供。
誰よりも幸せにしてやりたい命。
だから、彼は自分の側で幸せにならなければならない。
マジックの望むような幸せだけで満足しなければならない。
自分にはそれが許されると思っていた。
誰よりも強い男であり、彼の父親である自分にはその権利があると信じていた。
そんな傲慢な自分にシンタローの楽園が下した罰はあまりに過酷なものだった。
あのとき奇跡的に失わずに済んだ存在は今も自分の腕の中にいる。
もし、あの少年と供に旅立てば、負わずにすんだ傷と苦痛に喘ぎながら。
「シンちゃん、全部パパが悪かった。ごめんね。」
抱きしめたまま、そう言い聞かせる。
シンタローが気に病むことは無いのだと分からせるために、何度でも。
「そうだよ、アンタが――っ。」
自分の胸のあたりにシャツを通してじわっと生暖かいものが広がる。
声を殺して泣くシンタローの頭をより強く自分に押し当てる。
自分の両手の中に包み込めそうなほど小さかった赤ん坊は見る影もないほど大きく育った。
しかし、幸いなことに自分より幾分か背が低く、幅も己ほどではない。
だから、泣き顔を見せたくない彼のために隠してやることができる。
この4年間、彼は必死で働き続けてきた。
何度も、もう休みなさい、と言ってやりたかったけど、彼は決してその言葉を受け入れようとはしなかっただろう。
弟の寝顔を見るたび、彼が少なくない罪悪感に苛まされていることを知っている。
己の存在さえなければ、コタローが閉じこめられることはなかったのではないかという疑いを彼は捨てきれない。
キンタローをずっと閉じこめてきたことも。
自分とグンマの位置が変えられたことも。
すべてが自分の存在に起因しているというその思いが彼を動かしている部分があるということも、ずっと彼を見ていた自分は知っている。
「ごめんね。」
本当の罪人は自分。
彼を愛しすぎたマジック自身だ。
シンタローは何も悪くない。
シンタローはただ愛されてしまっただけ。
「パパのせいだね、ごめんね。」
私を責めてくれ。
いくらののしっても構わない。
押さえてきた感情のままに荒れればいい。
そのためにこの身はここにあるのだから。
おまえの怒りをぶつけられても、笑っていられるしぶとい身体は。
おまえが泣ける唯一の場所になってしまったこの腕は。
――――だから、これ以上自分を責めないでくれ。
「アンタなんかだいっきらいだ!」
叫んだ後、彼はこらえきれない思いを吐き出すように顔をマジックの胸に押しつけた。
震える肩を抱きしめ、マジックは瓦礫と化した司令塔の向こうに広がる碧空と海原を見た。
彼がさっき見ていた景色だ。
いや、彼の目の中にはもっと美しい世界がうつっていたのかもしれない。
コワイ。
マジックは息子の身体をなおいっそう強く抱きしめた。
最上階に位置するこの部屋を吹き抜ける風は強く、すべてを剥ぎ取っていきそうなほどだ。
虚飾も、強さも、弱さもすべてこの風にさらわれて―――あとに残るのは空っぽの―――――――――――。
どれくらいそうしていただろう。
ほんの刹那のようにも、永遠のようにも思えた。
「―――父さん。」
疲れた声で呼びかけるシンタローの声。
「はなしてくれ、父さん。」
聞こえない。
風の音が強すぎて。
そう言いたかった。
シンタローのその声がもう少し弱ければそうできたのに。
――――――聞きたくない。
聞きたくないんだ。
「俺は行かなきゃ。」
彼が口にする前に分かっていたその言葉は、やはりマジックの胸を痛くする。
マジックが負わせたコタローの心の傷を目の当たりにし、もっとシンタローは苦しむだろう。
そして――――――いまだにシンタローが求め続けているあの少年がそこにいることをマジックは確信していた。
シンタローもおそらくそれを知っている。
今度こそ連れて行かれてしまうかもしれない。
今度こそ彼を選んでしまうのかもしれない。
見送らなくてはいけないと頭では分かっているのにマジックは彼を離せなかった。
昔と同じだと、シンタローに軽蔑されてもいいから、行かせたくない。
知らず、腕に力が込められ、シンタローは苦しそうに息をついた。
「頼むから放してくれ―――――俺はアンタの腕だけはほどけないんだ。」
マジックは目を閉じ、それからもう一度開いた。
どこまでも続く青の世界。
それは果ての見えない己の執着にも似て―――寂しく、すがすがしかった。
「――ごめんね。」
もう一度だけ謝って、ゆっくりと指から、手のひら、腕と力を抜いていく。
身体が離れた時、ひどく寒く、そして自分の身が頼りなく感じられたのは自分だけではないだろう。
シンタローが数歩下がって顔を上げる。
その目は少しだけ縁が赤かったが、腫れてはおらず澄み切った色のままだった。
『ありがとう』
唇をかすかに動かしただけのその言葉にマジックは頷く。
シンタローが表情を引き締め、一歩踏み出すと身体をわずかにそらせて道を空けてやる。 横を通り過ぎた時、長くのばした彼の髪がひるがえって自分の頬に触れた。
彼の踵がたてる重い音が聞こえなくなるまでマジックは外界を見続けた。
いっておいで、シンタロー。
おまえを縛り付ける鎖はもうない。
おまえが何を選びたいのか、そして何を選ぶのか私は知っているから。
どうなっても何がおこっても私はおまえを待つだろう。
だから、せめて許して欲しい。
旅立つおまえの後ろ姿を見送ってやれないことを。
いっておいで愛しい子。
end
2004/03/10
改稿2006/0911
私が知らない『昨日』と、あなたも知らない『明日』
時は師走の初め。
どうにも仕事が立て込んでいるので、正月中も働くというガンマ団新総帥の宣言に、前総帥は猛反対した。
というか駄々をこねた。
「お正月返上で仕事、だなんてそんな寂しいこと、パパの目が黒いうちは絶対に許しません!」
「あんたの目は青だろーが。そもそも、とっくの昔に成人した俺の行動にいちゃもんつける権限は親父にもねぇ! だいたい、後継者として日々励んでいる息子を激励するならともかく邪魔するって、前任者としても親としてもどうなんだ。」
とことん正論だった。
しかし、ときとしてまっとうな正論は強い欲の前に無視されがちな傾向にある。
「いつだって、パパはシンちゃんを応援してるよ。本当なら365日本部というかパパの隣にいてほしいのに、我慢してるじゃないか! そんな健気なパパのささやかなお願いを無視して仕事だなんて……ひどいっ、パパはそんな薄情な子に育てた覚えはないよ。」
わあっと泣き真似をする五十歳になったばかりの男を、シンタローは冷たい目で見た。
「……参考までに聞くが、どんな『子』に育てたつもりだったんだ?」
「えー、そりゃ『パパ大好き』って毎日言ってくれて、おはようおやすみそのほかもろもろのキスも忘れなくて、パパにべったりなパパっこに英才教育したのに!!」
「…………失敗したことを天に感謝しろ。」
息子のひきつり笑顔もてんで意に介す様子もなく、マジックはさらにシンタローの神経を逆なですることを言った。
「だいたい、パパも忙しかったけどさ、それでも大事な行事はなるべくシンちゃんと一緒に過ごせるように、仕事調整したのに、シンちゃんがなぜできないんだい?」
シンタローは内心ぶちっと切れる。
(俺が仕事できないってのか!? 第一、なるべくいたって言ったって、八歳の誕生日のときも途中で抜けたし、十二歳のクリスマスのときはイブにいなかったし、十四歳のときは逆に当日いなかったし! ほかにも細かいのがいろいろあったし! 毎回ちゃんと全部いたわけじゃないだろーがっ!)
結構執念深く覚えているシンタローだった。
けれど、それを口にすることはできない。
そんなことを言おうものなら『じゃあ、今からその分を取り戻そうよ』などと言うに決まってるからだ。
記念日やら思い出など、当日でなければ意味がないのに、これでは単に拘束の口実を与えてしまうだけだ。
「キンちゃんも、お正月くらいのんびりしたいよね??」
無言の息子に業を煮やしたのか、側にいた彼の補佐官に水を向ける。
家に持ち込んだ書類のチェックをしていたキンタローは、呼ばれて一応顔を上げた。
しかし、仕事大事の部分まで精神双子の彼の返事はマジックの期待を大きく裏切った。
「仕事が終わってからのんびりした方が、精神的に効率的だと思います。」
「ほーらな。親父もいい加減騒ぐのやめろ。ヒマになったら、構ってやらないこともないかもしれないと思うのもやぶさかではない。」
「……ものすごく、実現性の弱い約束より、お正月を一緒に過ごすために力づくで引き留める道をパパは選ぶね。」
マジックの目が怪しく光る。
しかし、シンタローは余裕綽々とばかり、従兄弟の首に手をかけ引き寄せた。
「ふん、俺たち二人とやりあって勝てるならな。」
「……別に俺は伯父と争う気はないが?」
「おまえ、仕事これ以上遅らせたくないだろ? 第一俺の補佐官だろ? なら、俺の敵はおまえの敵だ。」
「そうなのか。」
納得しかける甥に、マジックはにこやかに呼びかけた。
「キンちゃん、キンちゃんはお正月、初めてだったよね。」
「? はい。」
「おい……。」
きょとんとした顔で素直に頷くキンタローに、マジックは頷く。
「だよねぇ。お正月を一回経験したら何がなんでもゆっくり楽しみたいと思うよ。おせち料理やお雑煮がでるし、『はねつき』とか『カルタ』とか対戦試合もあるし、工作が大好きなキンちゃんならきっと、この中央の塔まで届く凧を揚げることができるよ。それにね、お正月にはシンちゃんが着物を着てくれるし。」
ひとつひとつ並べられていくにつれ、不遇な幼少時代を過ごしたキンタローがだんだん身を乗り出していった。
シンタローは慌てて、キンタローの肩をゆさぶる。
「しっかりしろ! キンタロー! 家族でカルタ大会やってもつまんねぇぞ! それに雑煮くらい作ってやるから!」
「着物は?」
「え……荷物になるし、外に持ってくのはちょっと……。」
「伯父上、俺も正月したいです。」
「待てえええい!!」
(そういや、最近あちこちの民俗学の本を読みあさってたっけコイツ…。)
あっさり寝返った補佐官にシンタローはくらりときたが、なんとか気を取り直し、憤然と二人に背を向けた。
「わかった、勝手に凧揚げでも百人一首でもやってろ! 俺は仕事する!」
「お年玉出すよ。」
「は?」
今にも外へ出ようとしていたシンタローの足がぴたりと止まる。
「だから、一緒にお正月するならお年玉あげるよ。」
……こうして、ガンマ団は正月休みを取ることになったのである。
しかし、だ。
やるとなれば徹底的にやるのが、パプワ島元主夫シンタローなのである。
三十一日の朝、惰眠を貪っていた父親の部屋に乗り込んできて、「起きろーー!」という叫びとともにシーツをひっぺがした。
ベッドから放り出された形のマジックは、サイドテーブルの上にかけてあったナイトガウンを身体に羽織りながら抗議の声を上げる。
「ひどいよ、シンちゃん。夜這いするんならもっとやさしくしてくれなきゃ。」
シンタローはエプロンした腰に両手を当て、父親を睥睨した。
「もう、朝だ……ほらよ。これ。」
渡されたものを目にしてマジックは怪訝そうな顔になる。
「これって……『バケツ』と『ぞうきん』?」
「はい、ご名答~。だから、これ。」
「いや、なんで?」
するとシンタローは、だんっ! と、床を鳴らした。
「正月らしいことしたいんだろ? だったら、『年末の大掃除』も手伝え!」
シンタローの予想外の命令に、マジックは当然抗議の声をあげた。
「ええええええ~!! 掃除なんて、毎日、使用人達がやってるじゃないか。今更どこを掃除しろと言うんだい?」
しかし、シンタローは引き下がるつもりはなかった。
仕事を休みにした以上、前々からやろうと思っていたことをやっつけてしまうつもりなのだ。
それにはまず一日中まとわりつくであろう父親を、部屋に釘づけにしておく必要がある。
「ガラクタの要不要は本人しかわからないから、みんなノータッチだろ。だから、今日を機会にガラクタ全部片づけちまえ。」
「ガラクタ?」
マジックの問い返しに、シンタローは片手をびしっと伸ばしぐるっと周りを指した。
「そ、こういう余計な『コレクション』は捨てろ!! なんなら俺が代わりにやってやる!」
シンタローが指し示したものは、いわずとしれた絵やら人形やらの『シンタローグッズ』。
マジックは蒼白になり、立ち上がって息子にすがりつこうとした……直前にさっと避けられてその場に倒れこむ。
しかし、必死で起きあがりコレクションを背で庇うように手を広げた。
「いくらシンちゃんでもこれだけは許さないよ! これはパパの命と家族の次に大事な宝物なんだからね! いわばシンちゃんとパパの愛のメモリーそのもの。どうしても壊すならパパを押し倒してからにしてくれ!」
「誰が押し倒すか!!!!!!」
シンタローはくわっと口を開いたが、父親の決意が固いのを感じたのか、ふう、とため息を吐いた。
「わかったよ、じゃあ、ここの掃除は親父がちゃんとしろよ。……キンタロー。」
肩越しに振り返って従兄弟を呼ぶと、はたき、洗剤、雑巾など、お掃除グッズを手にしたキンタローが部屋に入ってきた。
「じゃ、頼むぞ。」
「わかった。俺に任せろ。」
シンタローが部屋を出ていきながら、念を押すとキンタローは頷いた。
そして、はたきを手にしてあちこちの埃を払い始めたので、初めは怪訝そうな顔をしていたマジックも合点がいった。
「あ、キンタローに手伝ってもらうよう、頼んでくれたんだね。さすがシンちゃん、パパ想いなんだから。」
「………任務を全うすると、三が日俺が着物を選んでいいということになったんです。」
キンタローの答えにマジックは目を丸くした。
「ええっ。ちゃっかりしてるなぁ、キンちゃんは。ま、いっか。私のアルバムにまた多くの記録が残るわけだし。」
るんるん、と文字通り歌い出しそうな勢いで、マジックがシンタローの肖像画のガラスを拭く姿に、キンタローはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
実は、先ほどのキンタローの答えは微妙にずれている。
意図的にずらしたのだ。
なぜなら、本当のキンタローの任務は『掃除の助手』ではなく、『監視』だったのである。
マジックが、ことが終わるまで寝室から出ないように見張ること、これが正月休み中着せ替え人形になることと引き替えに総帥が補佐官に与えた重要任務だった。
「うわ~~~~~~想像はしてたけど、『想い出の品』もこれだけ保存たら、壮観だねぇ。」
おせち料理に激甘二色卵十巻追加することを条件に、手伝いにかり出されたグンマはその部屋の光景に呆れとも感嘆ともつかない感想をもらした。
彼を連れてきたシンタロー自身はといえば、グンマの感想を無視し、がさがさとゴミ袋を広げ始めた。
ここは、先日、シンタローが見つけた父の書斎の隠し部屋の中だ。
かなり広く作られたそこは四方に棚が作られ、過去の機密書類らしきものが隠されていたが、問題はプライベートなものの割合が異常に高く、その内容もちょっぴり異常だった。
「うわっ、シンちゃんが小さい時履いてた靴じゃん……全部とってあるんだ。この分じゃ、服はもちろん、水着やら下着とかも絶対おいてそう。」
手前の小さい棚の引き出しにその言葉通りのものを見つけてしまったグンマは、口を噤んだ。
(見なかったことにしよう。)
即座にそう決断したグンマは、ぱたん、と引き出しを締めた。
シンタローをこっそり振り返ったが、彼はこちらに背を向けていたので恐怖のコレクションには気が付かなかった。
(正月前に身内を病院送りというのは、さすがに縁起が悪いもんねー。あとで、釘打って封印しとこう。それともいっそ部屋毎破壊するよう、シンちゃんをたきつけた方が早いかな。でもそんなことしたらおとーさまが半狂乱になって秘石眼暴走させたりしたら、めんどうだしー。)
「だーーーっ! もうっ!!」
シンタローの叫びに、脳内でいろいろ画策していたグンマはびくっと飛び上がった。
振り向くと、書類の棚の整理をしていたシンタローがそこに無限に並ぶ自分の『成長記録』に苛立ちを爆発させているところだった。
ものがものだけに、シンタローもさっきからなんとか整頓しようと奮闘していたのだが、あまりの量の多さにうんざりしてしまった。
「本部にいるときヒマさえあればカメラとビデオ持ち歩いてたから、想像はしてたけどな。いくらなんでも、これは多すぎじゃねーか。」
「高松もそんなもんだから、普通じゃない?」
「言っておくが、高松も普通じゃないから。」
びしっと突っ込んでおいて、シンタローはばらばらとアルバムをめくる。
なんだかんだいっても、ちょっとは懐かしい気分もあるのだ。
が、次の瞬間『コワイ話を聞いておねしょしちゃいました』写真が目に飛び込んできたので、ばたんとアルバムを閉じる。
「なにー? なんかおもしろいのあった?」
グンマがのぞき込もうとするのを押し戻して、シンタローはそのアルバムをゴミ箱につっこんだ。
「あーーっ! だめだよ、シンちゃん! ほかのものはともかく、アルバムは捨てちゃだめ! 大事な昔の記録なんだから。」
そう言って、ゴミ箱からそれを拾い上げて、シンタローをめっと睨む。
「そんなもん、大事じゃねぇ! 返せ! さっさと捨てる!」
シンタローが伸ばした手からなんとか逃げたグンマが、目を細めた。
「あのねー、シンちゃんだってコタローちゃんの写真山ほど撮ってるでしょ? それはどうなの?」
「うっ……!」
痛いところをつかれて、シンタローが口ごもるのをグンマはここぞとばかりに攻めた。
「おとーさまにとって、これは他のなにより大事な宝物なんだよ。シンちゃんが生まれて一緒に過ごした記録っていうのは。これの一枚一枚に、あのときはああだった、こんなことがあったという想い出の地図があるんだと思う。だから、アルバムの中身はそのままにしておいたげようよ。」
「うん……。」
シンタローが不承不承頷くと、グンマはにっこり笑った。
「よしっ、じゃあ、ボク、あっちを見てくるね。」
そう言って大きな棚の影へ消えていくグンマを見送りながら、シンタローはおいていったアルバムを拾い上げた。
もう一度中をめくると、幼い頃の自分が大好きな叔父に抱き上げられはしゃいでいる写真が出てきた。
その隣はもう一人の叔父と泥団子のぶつけ合いをやっている。庭の芝生を泥だらけの水浸しにしてしまい、ちょうど帰宅した父に見つかってたいそう叱られたことを覚えている。そんな時でもぱちりと一枚撮るのを忘れないのは、怒りを通り越してお見事と言うしかない。
このころは、毎日が楽しかった、とシンタローは思った。
今日よりもっとよいことが明日起こると信じて疑わないくらい一日が満たされていた。
自分が誰にも似ていないという事実がたまに胸を指すことがあるけれど、まだその意味がよくわかっていなかったし、家族の誰かがそのことで自分を非難したりすることもなかった。
従兄弟と一日中遊んだり、たまに叔父が帰ってきたり、毎日がいつもきらきらと輝いていた。
何より、大好きな父親がいてくれたから。
ちらっと、右隣の棚を見る。隅の方にあるそのアルバムは、ほんの数年前の日付が書いてある。ちょうど、コタローと引き離された時代だ。
父親を憎んで許せなくて、それでも離れることもできなくて、もがき苦しんでいた自分はどんな顔で写真に写っているんだろう。
そう思うと、今手にしている写真に写っている自分の無知さが苦々しく思える。
この先、どんなことが待ち受けているか知らず、与えられた幸福が永遠だと信じているこの頃の自分が。
作業に戻ろうと、アルバムを閉じて棚に戻した時、その列の端に並んでいた別のアルバムが十冊ほど床に音を立てて落ちた。
どうやら、場所を詰められたことによってバランスが崩れてしまったらしい。
「あーあ。」
アルバムから落ちた写真を拾い集め、アルバムをめくってそれらしき場所に入れていく。落ちたのは数枚だが、結構な手間だ。
(それもこれも、こんなに写真をとりだめてるあのバカ親父が悪いんだ!)
半分言いがかりのような文句を頭の中で言いながら、しばらくの間、せっせと写真を戻していたシンタローの手が、ぴたっと止まった。
「……誰だ、これ……。」
写真に写っていたのは、まだ少年の父親と、その部下たちだった。
シンタローの視線が集中したのは、父親の左後方に控えている若い男だった。
年の頃は二十代そこそこ、ノンフレームの眼鏡をかけた線の細い蜂蜜色の髪の持ち主だ。
ガンマ団の制服を着ているし、別に取り立てて変な所はない。けれど、一目見て違和感を覚えた。
――――――その男は、父の近くに立ちながら、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「シンちゃん、どうしたの? 美味しくない?」
ぼんやりとフォークでチキンをつっついていたシンタローは、父親に声をかけられて慌てて顔を上げた。
朝の早い内から精を出したおかげで、なんとか作業の目処がたったので、全員で遅い昼食をとっている最中だった。
「そんなことねーよ。」
「でも、さっきから食が進んでいないみたいだが。」
二人の会話に並んで席に着いていたキンタローとグンマも、シンタローの方を見る。
三組の青い目に注目されて、シンタローは誤魔化そうとした。
「……仕事のこと考えてただけだ。」
マジックは腑に落ちないようだったが、グンマは「もう」とむくれた。
「シンちゃんは仕事のしすぎ! 目標があるのはいいことだけど、いそぎすぎると達成する前に身体を壊すよ。」
確かに今年はほとんど遠征に出ていて、休暇など数えるほどしかとっていない。けれど、きっと来年も自分は走り続けるんだろうな、とシンタローは思う。
この世界のどこかにいるはずの『トモダチ』に会ったときに、恥ずかしくない自分でいたいから、自分は立ち止まるわけにはいかない。
この世界にさんざん傷つけられた弟が、夢の世界から安心して戻ってこられるところを自分は作らなければいけないから、何があっても突き進まなければいけない。
けれど、口に出したのはそんな正直な想いより、家族を安心させてやる『嘘』だけだった。
「まあな、今年は思ったより成果が上がったから、来年は少しはゆっくりするさ。」
「そうなの? よかったぁー。キンちゃんは?」
「総帥がそう言うなら俺に依存はない。」
「副官ぽい言い方だねぇ~。」
グンマの軽口に、シンタローははっとした。
(あのメガネ! 『秘書』って雰囲気じゃないとは思ったけど、あの位置から考えるともっと対等に限りなく近い『副官』とかじゃねーのか。)
しかし、その思いつきをシンタローはあっさりと却下した。
自分の知る限り、父親が『副官』という者を側においたことはない。『補佐』なんてものこの父親に必要ないからだ。
なんでも自分の一存で決めて、またそれを押し通す力を持っている男。
それがシンタローの知る『マジック総帥』だ。
誰かの助言を乞うとか、サポートしてもらうとか、そんな発想が頭の中にあるとは思えない。
けれど、あの男がただの部下とはとても思えない。
なぜなら、父の隣に立つその男が笑顔だったからだ。
一族の中でもずば抜けた力を持ち、残酷、冷血と呼ばれた覇王の隣に、こんな気安く立つ人間なんて自分は知らない。
秘書の二人はおろか、実の弟であるサービスやハーレムですら、父の側にいるときはかすかに緊張していた。そう見せないよう振る舞っているが、シンタローには分かる。
叔父達とは違う意味ではあるが、自分だってそうだった時があるからだ。
幼い頃は父を怖いなどと、思ったことは一度も無かった。強くて優しくて、なにより、母親が不在の自分にとって父親はたった一人の家族だった。
それが変わり始めたのは、父の瞳に宿る冷たい輝きを知った頃、けれど、その時はとまどいこそあれ、恐怖など感じなかった。家族であり、慈しんでくれる相手を恐れる理由なっどなかったからだ。
だが、弟を監禁したとき―――――止める自分をも殴ったとき、自分は怒りとともに、はっきりと恐怖を感じていた。
父を誰より理解していると、いや、知らないことなんてないと思っていた。
なのに、目の前にいる男の考えていることがわからない。
家族という絆を自らの手で壊すこの人間は誰なんだ。
二十四年間、自分の父親であり、誰より近しい人間の、その『知らない』部分があるということが怖かった。
今はもう、そんなものは感じないけれど、自分でさえ一度は恐れた男の横で、にこにこと笑っているあの男の存在が信じられなかった。
「……ちゃん…シンちゃん、ねぇっ!」
「あ? なんだ?」
大声を出されてシンタローが顔をそちらに向けると、グンマはため息をついた。
「言ってる側からこれだ。ほんとーに、お正月はゆっくりするんだよ。電話も受けちゃだめだからね。」
「わかったわかった。なら、ゆっくりするため、掃除の続きしてくっか。」
そう言って席を立つと、食堂を出た。
しかし、掃除に戻ったものの、頭からどうにもあの写真のことが離れない。
(髪の色や雰囲気からして、一族の人間だろうな……。)
祖父の代の資料などを見ると、昔はもう少し一族の数も多かったらしい。それが、いつの間にか、かなりの数の人間が減っている。父の代から、さらに力を増してきた……つまり、征服した国の数が爆発的に増えているので、それに伴って犠牲の数も増加したということだろう。
この男も、そうした犠牲の一人になったのだろうか。
その時、父は悲しんだのだろうか、それとも、弱い者はいらん、とあの酷薄な笑みを浮かべたのだろうか。
(……気分わりぃ……。)
後者であることを自分が密かに願っていることに気づき、シンタローは自己嫌悪に顔をゆがめた。
「スチームクリーナーとってくる。」
シンタローが立ちあがると、奥にいたグンマが怪しい着ぐるみの熊をひきずりながら出てきた。
「ボク、とってこようか? ちょうど水飲みたかったし。」
「いや、俺が行く。ついでだから、なんか探してきてやるよ。」
クリーナーを取りに行くのは単なる口実で、本当はこの『過去』がたくさん詰まった部屋にいることが息苦しくなってきたからだ。
自分の過去がしまわれている同じ場所に、自分が会ったことのない父親の過去が共存している。それはその部屋の主の心そのものだ。
それに耐えきれない苛立ちを感じ、シンタローはその場から逃げ出すことによって、その嫌な気分からも逃げようとしたのだった。
とりあえず台所に行き、残っていた使用人にクリーナーを出してもらった。彼らが掃除を申し出てくれたが、あの部屋に他人を入れるわけにはいかず、シンタローは断った。
それに、彼らも今日から休暇に入る。何人かは、もう出発しているし、残っている者たちも殆ど仕事を済ませているようだ。手伝わせるのも気の毒だ。
「俺たちも自室だけだから、手伝ってもらうほどのこともない。一年間、ご苦労さん。来年もよろしくな。」
そうねぎらうと、全員深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃ、これ、借りてくぜ。」
シンタローはその掃除機にも似た機械を片手に持つと、もう片方の手にオレンジジュースのペットボトルを掴み、部屋へと戻ろうとした。
しかし、その途中でよりにもよって、苛々の原因と出くわしてしまったのである。
壁にもたれかかって、いかにも自分を待っていたという風情のマジックをシンタローはじろっと睨んだ。
「おい、さぼってんじゃねーぞ。さっさと部屋へ帰れよ。」
「ちゃんと終わらせたよ。キンタローも自分の部屋へ戻った。」
「そうかよ、じゃあ、あんたも部屋に帰っておとなしくしてな。」
素っ気なくそう言って、シンタローはその場を通り過ぎようとしたが、ふいに背後から伸びてきた手に後ろに引き戻された。
「うわっ てめ……!」
仰向けにひっくり返りそうになったシンタローを、広い胸が抱き留める。
「――――倒れてもいいよ。シンちゃん。」
いきなり言われたその言葉にシンタローは、目を見開いた。
両肩に置かれた手は温かく、力強い。
「やりたいようにやりなさい。おまえはそういう子だ。もしそれで倒れるようなことがあっても、私が――家族がいる。ちゃんと支えてあげるから、好きなだけ走りなさい。」
さっきの食堂でのグンマの苦言のことを言っているのだと、シンタローはすぐに気づいた。
胸が詰まりそうになるが、素直に礼を言うのも癪だった。
「えらそーに、なんでも分かってるみたいなこと言いやがって……。」
「知ってるよ。なんていったって、シンタローを二十五年間見守って育ててきたのはこの私なんだから、シンちゃんのことで知らないことなんてひとつもない。」
『シンちゃんのことで知らないことなんてない』、その言葉に、緩んでいたシンタローの頬がびしっと強張った。
「………ざけんな。」
「え?」
地を這うような低い呟きに、マジックは怪訝に思って、よく聞こうと身を乗り出した。
しかし、その行為が彼の命取りになったのだった。
「ふっざけんじゃねぇええ!!」
シンタローが勢いをつけて上体をそらす、容赦のない頭突きが背後にいたマジックの顔面に炸裂した。
「ぐわっ!」
鼻筋を強く打って、後ろによろける父親から素早い動きで数歩離れると、シンタローは振り返って怒鳴った。
「確かに、俺を育てたのはアンタだけどな、俺のことをなんでも知ってるなんてうぬぼれんのもいい加減にしろっ! 俺はもう何もできない子供じゃねーんだよ! どこにだって行けるし、あんたが知らない人間とつきあったりするし、えらそーに言われる筋合いはねぇっ!」
「? シンちゃん?」
鼻を押さえながら、きょとんとした顔をする父親と目があって、シンタローはかあっと顔を赤くした。
(うわ、俺サイテーじゃん。)
これでは単なる八つ当たりだ。
もしくは嫉妬。
理不尽だと分かっているが、自分の知らない人間を側に置いていた父親に腹がたってたまらない。
くるっと踵を返し、大股で部屋へと急ぐ。
(だって、むかつくものはしょーがねーじゃん!)
一族の人間で、他人を信用しない父親の側に平気な顔でよりそうことができて、しかもそれを父が許している
そんな人間は、自分くらいだと思っていたのに。
単なる過去だと分かっていても気に入らない。
記憶の中―――――少なくとも、写真の中に、この男はいまだに残っている。
「くそっ…!」
シンタローは唇を噛むと、力任せにドアを開けた。
「わっ! どうしたのシンちゃん!」
脚立に腰掛けて、アルバムをめくっていたグンマが驚いて顔を上げた。
シンタローはむくれたまま、手に持っていたペットボトルをグンマに放ってやる。
「どうもしない。それより、掃除さぼってんなよ。」
「さぼってないよー。殆ど終わったからシンちゃん待ってたんじゃん。」
確かに、部屋の中はすっきり片づき、後は床を磨くくらいだ。シンタローが処分すると決めた洋服やそのほか一切は、それぞれ分類して袋に入れてある。
「後は処理場に運ぶだけだけど……本当に捨てちゃうの? シンちゃん。」
「何を今更。」
おおかた面倒くさくなったんだろうと、シンタローが呆れるとグンマはんー、と己の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「確かにここにあるものは、『過去の遺物』なんだろうけどさ。おとーさまにとっては、ある意味現在進行形のものなんだよ。」
「どういう意味だよ。」
「アルバム見てて思ったんだけどさ、今も昔も、おとーさまにとっては、シンちゃんは総帥というより大事な『子供』のままなんだ。そりゃ、もうシンちゃんはあひるの帽子なんかかぶらないけど、おとーさまにとってそれはシンちゃんのものだった帽子、じゃなくて、シンちゃんの帽子、なわけ。……だからさー、別にいいじゃん。うち、こんなに広いんだし、わざわざ処分しなくたって。」
「………。」
「ね?」
グンマはなだめるように、シンタローの顔をのぞき込んだ。
しかし、シンタローはそれから目を反らし、スチームクリーナーを床の上に置いた。
「処分しなけりゃ、いつまでたっても片づかない。」
「も~! 頑固なんだから。」
グンマの非難を背中に受けて、シンタローはスイッチを入れた。
独特の臭気を放つ蒸気が勢いよく辺りに広がる。
その白い蒸気の中、顔を伏せシンタローは黙々と床をこすった。
ポケットの中で写真ががさがさと動いて気持ち悪い。
『処分しなけりゃ、いつまで経っても片づかない』
本当は―――――処分したいものは、こんなモノじゃなくて、過去そのものなのだ。
自分のいない父親の二十五年間、生きてきた時間の半分。
父にとっても、あまり振り返りたくない種類のものらしい。
父の父、つまり祖父が若くして戦死した後、父が何を想い、どう生きてきたのか、シンタローは父の口から聞いたことがほとんど無い。
聞いたとしても、おそらくはぐらかされるだけだろう。
自分だって、弟や小さな友人に戦場での経験なんて話したくなかったから、その気持ちは理解できる。
自分でも正視したくない過去。
思い出しても苦しいだけの記憶。
なら、処分してもいいのではないだろうか。
ポケットの中でさっきから身動きするたび、がさがさと存在を主張するそれに指が伸びそうになる。
それから気を逸らそうと、シンタローは一心に床を磨くことに専念した。
熱い蒸気に埃が浮かび上がり、雑巾に水滴毎吸い込まれていく。
染みをすべてこそげ落とそうと、シンタローは腕に力を込めた。
夕食に年越し蕎麦を食べたあと、グンマとキンタローがいそいそと出かける準備をし始めたので、怪訝に思ったシンタローが行く先を尋ねると、顎がはずれそうな答えが返ってきた。
「除夜の鐘を鳴らしに行く。」
「はぁ?」
まさか、日本まで行くのだろうか、とシンタローは不安になった。
いくらなんでもそんな馬鹿な、と思うが、なにせこの二人だ。「面白そうだから」「興味があるから」と、日本の寺まで突っ走っていきかねないことは、経験上よく知っている。
シンタローの心配を読みとったのか、グンマは「ちがうよー」と笑った。
「僕らが日本まで行っちゃうんじゃないかと心配してるみたいだけど、そんなことするわけないでしょ。基地の広場だよ。レンタルの鐘を、残ってる団員たちと撞くんだー。」
「そっか、なるほど……って、その費用はどっから!? というか、レンタルでそんなもんあるのか!?」
「あははははっ。いってきま~す。」
「行くぞ! グンマ、俺たちが一番目だ。」
「待てーーーー!」
言いたいことだけを言って、夜の闇に逃げ込む二人を呼ぶシンタローの声がむなしく響く。
(キンタローの興味を日本文化から、はやく別の方向へうつさねえと……ひょっとして、身体を返す前、俺が日本へ行きたいってずっと思ってたから、その影響が残ってるのかもしれない。)
シンタローはがっくりと肩を落としながら、リビングへ戻った。
「二人は出かけたのかい?」
ソファーに座って、くつろいでいた父親に聞かれ無言で頷く。その時、彼の膝の上にアルバムが乗っているのを見て、一瞬ぎくりとしたが映っているのは子供の頃の自分だった。
ほっとした反動で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まーた、アルバムかよ。好きだなー、過去振り返るの。」
「ああ、好きだよ。かわいかったもんねー、このころのシンちゃん。いっつも、パパ、パパってついてきてくれるし、イヤミ言ったり、暴力ふるったりしないいし。」
「あ、そ。」
にっこりと父親が笑った。
「なにより、この黄色のセーターを着ている小さな子供が、寝て目覚めて、また寝て、を繰り返して、ひとりで本を読めるようになったり、自転車にのれるようになったり、パパと遊園地に行ったりと、いろんなことを経験して、イヤミ言ったり、暴力ふるったりする赤い上着を身にまとった総帥になるんだって思うと、余計かわいくて仕方ない。」
親馬鹿丸出し発言に、こんなことにはいい加減慣れっこになっていたはずのシンタローだったが、前へつんのめりそうになった。
なんとか態勢を取り直して、「へえー」と無関心を装ったが、マジックは特に気にする様子もなく、なおも話を続けた。
「過去を振り返ったり、想い出を反芻することは、一概に後ろ向きなこととは言えないよ。『今』があるのは、『昔』があるからだろう。人間が思っているほど過去と現在の距離は遠くない。楽しかったり、悲しんだり、怒りを感じたり、いろいろな体験をして、今があるんだ。私は、おまえがどんなふうに過ごして、今のおまえ自身を創り上げたのか、ずっと見てきた。そうできたのは、私の一番の幸運だと思っている。」
父親はそこで言葉を切って、アルバムを閉じる。
「だから、実は悔しいんだ。―――――おまえの人生にとって重要な時間である『あの島』の日々を知らないことがね。」
現在を愛することは、過去をも愛おしむことと変わらない。
幼少時代の甘いお菓子のような日々も、どうしようもない苦しみに流した涙の数も、みな、今を創ってきた大事なパーツだ。
だから、今、自分に穏やかな笑顔を向ける父親を創ってきたものたち――――――自分が知らない父の時間にいるあの男の存在が悔しかったのだ。
そう、自分が嫉妬していたのは、あの笑顔にではない。
『自分がいない頃の時間』そのものに、焦燥を感じていたのだ。
ゴオ―――――――ン……。
「あ、鳴った。」
かすかに響く重低音に、二人は顔を上げた。
「本当に借りてきたのかよ。ああ、請求書が………レンタル料っていくらだろ。」
頭を抱えるシンタローにマジックがフォローをいれた。
「まぁまぁ、経費を使いたくないんなら、パパがあげるお年玉で払ったら?」
「う~~~ちっくしょー、ただ働きかよぉ~~。」
シンタローが唸ると、それに返事するように鐘が『がっ』と鈍い音を立てた。
「あれはグンちゃんだね~。間違いなく。」
マジックが確信を持ってそう言いきった。
撞木を撞く弾みにひっくりかえりそうになっている彼の姿と、おろおろしているその従兄弟の姿が目に浮かび、シンタローはやれやれと苦笑する。
きっと、痛いだ、寒いだとべそをかきながら帰ってくるだろうから、温かいココアか何か用意しておいてやるか、とシンタローはキッチンへ向かおうとした。
ドアを開いて、振り返ると再びアルバムを取り上げた父が目に映った。
優しい目をして自分たちの生きてきた時間を見つめるその横顔に、小さな声で囁く。
「………………来年もよろしく。」
あるか無きかの呟きのような声に、マジックが「何か言ったかい?」と聞き返した。
「べつに、たいしたことじゃねぇよ。」
焦ってそう言うと、後ろ手でドアを閉める。閉まる直前、その隙間から滑り込むようにして笑いを含んだ声が聞こえた。
「こちらこそ。」
(~~単なる社交辞令だっつーの!)
シンタローは扉越しに父親を睨むと、そこから離れた。
台所に向かうようなふりをして、こっそりとあの倉庫に入り込む。
時代だけ確かめた後、合致したその中から適当なアルバムを一冊抜いた。
ぱらぱらとめくり、空いている場所に持ち歩いていた例の写真をはりつけた。
笑顔の男に対しては今も複雑な気分だが、しょうがない。この男との間に何があったにせよ、それを通ってきて今の父親があるのだから。
過去のマジックは自分の父親じゃないけれど、二十五年前からずっと先の未来まで永遠に自分の父親だ。
年が暮れて、また新しい年がきて、それを何度も繰り返してきて、そしてこれからもずっと繰り返すのは自分たちなのだ。
ひゅるるるーっと遠くでそう聞こえたかと思うと、どーんという響きと共に、窓の外がぱっと明るくなった。
新年の合図の花火だ。
新しい世界の始まりだ。
「……長生きしやがれ。」
ちゅっ、と開いたページの一枚の写真に新年の挨拶を贈る。
過去に焦ったり―――――どう考えても他にもいろいろありそうな男だから――――寂しくなったりするけど、それもひっくるめて未来に新しい記憶や想い出を創っていって、人生でトータルして自分たちとの歴史の割合を増やしてやる。
とりあえず、朝が来たらお節を食べて、自家用ジェットで日本まで飛んで初詣してもいいな。コタローを病室から自宅へ移して、一緒にお正月を過ごして――――三日間家族で過ごそう。いつか目が覚めるとき、そのことを話してやろう。
(……年が明けたら、ゴミ処理場に電話しないとな。)
年末ぎりぎりに集められたゴミが、処理機に放り込まれる前に取り戻さなければ。
玄関ホールから「ただいまー」というグンマの声が聞こえてきた。
「外寒かったよー。シンちゃーん、どこー? ミルクココア飲みたい~。」
「はーいはいはい。」
アルバムを閉じて棚に戻すと、シンタローは倉庫を出て居間に戻った。
鼻の頭を赤くしたグンマと、逆に白くなっているキンタローがソファーの前に立っている。
父親が入ってきたシンタローを見て、笑顔の状態で口を開いた。
その様子に二人は後ろを振り返り、シンタローを見つけ、同じように唇をほころばせる。
しかし、シンタローの方が一呼吸早かった。
「あけまして、おめでとう―――――――――。」
2007/2/23
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時は師走の初め。
どうにも仕事が立て込んでいるので、正月中も働くというガンマ団新総帥の宣言に、前総帥は猛反対した。
というか駄々をこねた。
「お正月返上で仕事、だなんてそんな寂しいこと、パパの目が黒いうちは絶対に許しません!」
「あんたの目は青だろーが。そもそも、とっくの昔に成人した俺の行動にいちゃもんつける権限は親父にもねぇ! だいたい、後継者として日々励んでいる息子を激励するならともかく邪魔するって、前任者としても親としてもどうなんだ。」
とことん正論だった。
しかし、ときとしてまっとうな正論は強い欲の前に無視されがちな傾向にある。
「いつだって、パパはシンちゃんを応援してるよ。本当なら365日本部というかパパの隣にいてほしいのに、我慢してるじゃないか! そんな健気なパパのささやかなお願いを無視して仕事だなんて……ひどいっ、パパはそんな薄情な子に育てた覚えはないよ。」
わあっと泣き真似をする五十歳になったばかりの男を、シンタローは冷たい目で見た。
「……参考までに聞くが、どんな『子』に育てたつもりだったんだ?」
「えー、そりゃ『パパ大好き』って毎日言ってくれて、おはようおやすみそのほかもろもろのキスも忘れなくて、パパにべったりなパパっこに英才教育したのに!!」
「…………失敗したことを天に感謝しろ。」
息子のひきつり笑顔もてんで意に介す様子もなく、マジックはさらにシンタローの神経を逆なですることを言った。
「だいたい、パパも忙しかったけどさ、それでも大事な行事はなるべくシンちゃんと一緒に過ごせるように、仕事調整したのに、シンちゃんがなぜできないんだい?」
シンタローは内心ぶちっと切れる。
(俺が仕事できないってのか!? 第一、なるべくいたって言ったって、八歳の誕生日のときも途中で抜けたし、十二歳のクリスマスのときはイブにいなかったし、十四歳のときは逆に当日いなかったし! ほかにも細かいのがいろいろあったし! 毎回ちゃんと全部いたわけじゃないだろーがっ!)
結構執念深く覚えているシンタローだった。
けれど、それを口にすることはできない。
そんなことを言おうものなら『じゃあ、今からその分を取り戻そうよ』などと言うに決まってるからだ。
記念日やら思い出など、当日でなければ意味がないのに、これでは単に拘束の口実を与えてしまうだけだ。
「キンちゃんも、お正月くらいのんびりしたいよね??」
無言の息子に業を煮やしたのか、側にいた彼の補佐官に水を向ける。
家に持ち込んだ書類のチェックをしていたキンタローは、呼ばれて一応顔を上げた。
しかし、仕事大事の部分まで精神双子の彼の返事はマジックの期待を大きく裏切った。
「仕事が終わってからのんびりした方が、精神的に効率的だと思います。」
「ほーらな。親父もいい加減騒ぐのやめろ。ヒマになったら、構ってやらないこともないかもしれないと思うのもやぶさかではない。」
「……ものすごく、実現性の弱い約束より、お正月を一緒に過ごすために力づくで引き留める道をパパは選ぶね。」
マジックの目が怪しく光る。
しかし、シンタローは余裕綽々とばかり、従兄弟の首に手をかけ引き寄せた。
「ふん、俺たち二人とやりあって勝てるならな。」
「……別に俺は伯父と争う気はないが?」
「おまえ、仕事これ以上遅らせたくないだろ? 第一俺の補佐官だろ? なら、俺の敵はおまえの敵だ。」
「そうなのか。」
納得しかける甥に、マジックはにこやかに呼びかけた。
「キンちゃん、キンちゃんはお正月、初めてだったよね。」
「? はい。」
「おい……。」
きょとんとした顔で素直に頷くキンタローに、マジックは頷く。
「だよねぇ。お正月を一回経験したら何がなんでもゆっくり楽しみたいと思うよ。おせち料理やお雑煮がでるし、『はねつき』とか『カルタ』とか対戦試合もあるし、工作が大好きなキンちゃんならきっと、この中央の塔まで届く凧を揚げることができるよ。それにね、お正月にはシンちゃんが着物を着てくれるし。」
ひとつひとつ並べられていくにつれ、不遇な幼少時代を過ごしたキンタローがだんだん身を乗り出していった。
シンタローは慌てて、キンタローの肩をゆさぶる。
「しっかりしろ! キンタロー! 家族でカルタ大会やってもつまんねぇぞ! それに雑煮くらい作ってやるから!」
「着物は?」
「え……荷物になるし、外に持ってくのはちょっと……。」
「伯父上、俺も正月したいです。」
「待てえええい!!」
(そういや、最近あちこちの民俗学の本を読みあさってたっけコイツ…。)
あっさり寝返った補佐官にシンタローはくらりときたが、なんとか気を取り直し、憤然と二人に背を向けた。
「わかった、勝手に凧揚げでも百人一首でもやってろ! 俺は仕事する!」
「お年玉出すよ。」
「は?」
今にも外へ出ようとしていたシンタローの足がぴたりと止まる。
「だから、一緒にお正月するならお年玉あげるよ。」
……こうして、ガンマ団は正月休みを取ることになったのである。
しかし、だ。
やるとなれば徹底的にやるのが、パプワ島元主夫シンタローなのである。
三十一日の朝、惰眠を貪っていた父親の部屋に乗り込んできて、「起きろーー!」という叫びとともにシーツをひっぺがした。
ベッドから放り出された形のマジックは、サイドテーブルの上にかけてあったナイトガウンを身体に羽織りながら抗議の声を上げる。
「ひどいよ、シンちゃん。夜這いするんならもっとやさしくしてくれなきゃ。」
シンタローはエプロンした腰に両手を当て、父親を睥睨した。
「もう、朝だ……ほらよ。これ。」
渡されたものを目にしてマジックは怪訝そうな顔になる。
「これって……『バケツ』と『ぞうきん』?」
「はい、ご名答~。だから、これ。」
「いや、なんで?」
するとシンタローは、だんっ! と、床を鳴らした。
「正月らしいことしたいんだろ? だったら、『年末の大掃除』も手伝え!」
シンタローの予想外の命令に、マジックは当然抗議の声をあげた。
「ええええええ~!! 掃除なんて、毎日、使用人達がやってるじゃないか。今更どこを掃除しろと言うんだい?」
しかし、シンタローは引き下がるつもりはなかった。
仕事を休みにした以上、前々からやろうと思っていたことをやっつけてしまうつもりなのだ。
それにはまず一日中まとわりつくであろう父親を、部屋に釘づけにしておく必要がある。
「ガラクタの要不要は本人しかわからないから、みんなノータッチだろ。だから、今日を機会にガラクタ全部片づけちまえ。」
「ガラクタ?」
マジックの問い返しに、シンタローは片手をびしっと伸ばしぐるっと周りを指した。
「そ、こういう余計な『コレクション』は捨てろ!! なんなら俺が代わりにやってやる!」
シンタローが指し示したものは、いわずとしれた絵やら人形やらの『シンタローグッズ』。
マジックは蒼白になり、立ち上がって息子にすがりつこうとした……直前にさっと避けられてその場に倒れこむ。
しかし、必死で起きあがりコレクションを背で庇うように手を広げた。
「いくらシンちゃんでもこれだけは許さないよ! これはパパの命と家族の次に大事な宝物なんだからね! いわばシンちゃんとパパの愛のメモリーそのもの。どうしても壊すならパパを押し倒してからにしてくれ!」
「誰が押し倒すか!!!!!!」
シンタローはくわっと口を開いたが、父親の決意が固いのを感じたのか、ふう、とため息を吐いた。
「わかったよ、じゃあ、ここの掃除は親父がちゃんとしろよ。……キンタロー。」
肩越しに振り返って従兄弟を呼ぶと、はたき、洗剤、雑巾など、お掃除グッズを手にしたキンタローが部屋に入ってきた。
「じゃ、頼むぞ。」
「わかった。俺に任せろ。」
シンタローが部屋を出ていきながら、念を押すとキンタローは頷いた。
そして、はたきを手にしてあちこちの埃を払い始めたので、初めは怪訝そうな顔をしていたマジックも合点がいった。
「あ、キンタローに手伝ってもらうよう、頼んでくれたんだね。さすがシンちゃん、パパ想いなんだから。」
「………任務を全うすると、三が日俺が着物を選んでいいということになったんです。」
キンタローの答えにマジックは目を丸くした。
「ええっ。ちゃっかりしてるなぁ、キンちゃんは。ま、いっか。私のアルバムにまた多くの記録が残るわけだし。」
るんるん、と文字通り歌い出しそうな勢いで、マジックがシンタローの肖像画のガラスを拭く姿に、キンタローはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
実は、先ほどのキンタローの答えは微妙にずれている。
意図的にずらしたのだ。
なぜなら、本当のキンタローの任務は『掃除の助手』ではなく、『監視』だったのである。
マジックが、ことが終わるまで寝室から出ないように見張ること、これが正月休み中着せ替え人形になることと引き替えに総帥が補佐官に与えた重要任務だった。
「うわ~~~~~~想像はしてたけど、『想い出の品』もこれだけ保存たら、壮観だねぇ。」
おせち料理に激甘二色卵十巻追加することを条件に、手伝いにかり出されたグンマはその部屋の光景に呆れとも感嘆ともつかない感想をもらした。
彼を連れてきたシンタロー自身はといえば、グンマの感想を無視し、がさがさとゴミ袋を広げ始めた。
ここは、先日、シンタローが見つけた父の書斎の隠し部屋の中だ。
かなり広く作られたそこは四方に棚が作られ、過去の機密書類らしきものが隠されていたが、問題はプライベートなものの割合が異常に高く、その内容もちょっぴり異常だった。
「うわっ、シンちゃんが小さい時履いてた靴じゃん……全部とってあるんだ。この分じゃ、服はもちろん、水着やら下着とかも絶対おいてそう。」
手前の小さい棚の引き出しにその言葉通りのものを見つけてしまったグンマは、口を噤んだ。
(見なかったことにしよう。)
即座にそう決断したグンマは、ぱたん、と引き出しを締めた。
シンタローをこっそり振り返ったが、彼はこちらに背を向けていたので恐怖のコレクションには気が付かなかった。
(正月前に身内を病院送りというのは、さすがに縁起が悪いもんねー。あとで、釘打って封印しとこう。それともいっそ部屋毎破壊するよう、シンちゃんをたきつけた方が早いかな。でもそんなことしたらおとーさまが半狂乱になって秘石眼暴走させたりしたら、めんどうだしー。)
「だーーーっ! もうっ!!」
シンタローの叫びに、脳内でいろいろ画策していたグンマはびくっと飛び上がった。
振り向くと、書類の棚の整理をしていたシンタローがそこに無限に並ぶ自分の『成長記録』に苛立ちを爆発させているところだった。
ものがものだけに、シンタローもさっきからなんとか整頓しようと奮闘していたのだが、あまりの量の多さにうんざりしてしまった。
「本部にいるときヒマさえあればカメラとビデオ持ち歩いてたから、想像はしてたけどな。いくらなんでも、これは多すぎじゃねーか。」
「高松もそんなもんだから、普通じゃない?」
「言っておくが、高松も普通じゃないから。」
びしっと突っ込んでおいて、シンタローはばらばらとアルバムをめくる。
なんだかんだいっても、ちょっとは懐かしい気分もあるのだ。
が、次の瞬間『コワイ話を聞いておねしょしちゃいました』写真が目に飛び込んできたので、ばたんとアルバムを閉じる。
「なにー? なんかおもしろいのあった?」
グンマがのぞき込もうとするのを押し戻して、シンタローはそのアルバムをゴミ箱につっこんだ。
「あーーっ! だめだよ、シンちゃん! ほかのものはともかく、アルバムは捨てちゃだめ! 大事な昔の記録なんだから。」
そう言って、ゴミ箱からそれを拾い上げて、シンタローをめっと睨む。
「そんなもん、大事じゃねぇ! 返せ! さっさと捨てる!」
シンタローが伸ばした手からなんとか逃げたグンマが、目を細めた。
「あのねー、シンちゃんだってコタローちゃんの写真山ほど撮ってるでしょ? それはどうなの?」
「うっ……!」
痛いところをつかれて、シンタローが口ごもるのをグンマはここぞとばかりに攻めた。
「おとーさまにとって、これは他のなにより大事な宝物なんだよ。シンちゃんが生まれて一緒に過ごした記録っていうのは。これの一枚一枚に、あのときはああだった、こんなことがあったという想い出の地図があるんだと思う。だから、アルバムの中身はそのままにしておいたげようよ。」
「うん……。」
シンタローが不承不承頷くと、グンマはにっこり笑った。
「よしっ、じゃあ、ボク、あっちを見てくるね。」
そう言って大きな棚の影へ消えていくグンマを見送りながら、シンタローはおいていったアルバムを拾い上げた。
もう一度中をめくると、幼い頃の自分が大好きな叔父に抱き上げられはしゃいでいる写真が出てきた。
その隣はもう一人の叔父と泥団子のぶつけ合いをやっている。庭の芝生を泥だらけの水浸しにしてしまい、ちょうど帰宅した父に見つかってたいそう叱られたことを覚えている。そんな時でもぱちりと一枚撮るのを忘れないのは、怒りを通り越してお見事と言うしかない。
このころは、毎日が楽しかった、とシンタローは思った。
今日よりもっとよいことが明日起こると信じて疑わないくらい一日が満たされていた。
自分が誰にも似ていないという事実がたまに胸を指すことがあるけれど、まだその意味がよくわかっていなかったし、家族の誰かがそのことで自分を非難したりすることもなかった。
従兄弟と一日中遊んだり、たまに叔父が帰ってきたり、毎日がいつもきらきらと輝いていた。
何より、大好きな父親がいてくれたから。
ちらっと、右隣の棚を見る。隅の方にあるそのアルバムは、ほんの数年前の日付が書いてある。ちょうど、コタローと引き離された時代だ。
父親を憎んで許せなくて、それでも離れることもできなくて、もがき苦しんでいた自分はどんな顔で写真に写っているんだろう。
そう思うと、今手にしている写真に写っている自分の無知さが苦々しく思える。
この先、どんなことが待ち受けているか知らず、与えられた幸福が永遠だと信じているこの頃の自分が。
作業に戻ろうと、アルバムを閉じて棚に戻した時、その列の端に並んでいた別のアルバムが十冊ほど床に音を立てて落ちた。
どうやら、場所を詰められたことによってバランスが崩れてしまったらしい。
「あーあ。」
アルバムから落ちた写真を拾い集め、アルバムをめくってそれらしき場所に入れていく。落ちたのは数枚だが、結構な手間だ。
(それもこれも、こんなに写真をとりだめてるあのバカ親父が悪いんだ!)
半分言いがかりのような文句を頭の中で言いながら、しばらくの間、せっせと写真を戻していたシンタローの手が、ぴたっと止まった。
「……誰だ、これ……。」
写真に写っていたのは、まだ少年の父親と、その部下たちだった。
シンタローの視線が集中したのは、父親の左後方に控えている若い男だった。
年の頃は二十代そこそこ、ノンフレームの眼鏡をかけた線の細い蜂蜜色の髪の持ち主だ。
ガンマ団の制服を着ているし、別に取り立てて変な所はない。けれど、一目見て違和感を覚えた。
――――――その男は、父の近くに立ちながら、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「シンちゃん、どうしたの? 美味しくない?」
ぼんやりとフォークでチキンをつっついていたシンタローは、父親に声をかけられて慌てて顔を上げた。
朝の早い内から精を出したおかげで、なんとか作業の目処がたったので、全員で遅い昼食をとっている最中だった。
「そんなことねーよ。」
「でも、さっきから食が進んでいないみたいだが。」
二人の会話に並んで席に着いていたキンタローとグンマも、シンタローの方を見る。
三組の青い目に注目されて、シンタローは誤魔化そうとした。
「……仕事のこと考えてただけだ。」
マジックは腑に落ちないようだったが、グンマは「もう」とむくれた。
「シンちゃんは仕事のしすぎ! 目標があるのはいいことだけど、いそぎすぎると達成する前に身体を壊すよ。」
確かに今年はほとんど遠征に出ていて、休暇など数えるほどしかとっていない。けれど、きっと来年も自分は走り続けるんだろうな、とシンタローは思う。
この世界のどこかにいるはずの『トモダチ』に会ったときに、恥ずかしくない自分でいたいから、自分は立ち止まるわけにはいかない。
この世界にさんざん傷つけられた弟が、夢の世界から安心して戻ってこられるところを自分は作らなければいけないから、何があっても突き進まなければいけない。
けれど、口に出したのはそんな正直な想いより、家族を安心させてやる『嘘』だけだった。
「まあな、今年は思ったより成果が上がったから、来年は少しはゆっくりするさ。」
「そうなの? よかったぁー。キンちゃんは?」
「総帥がそう言うなら俺に依存はない。」
「副官ぽい言い方だねぇ~。」
グンマの軽口に、シンタローははっとした。
(あのメガネ! 『秘書』って雰囲気じゃないとは思ったけど、あの位置から考えるともっと対等に限りなく近い『副官』とかじゃねーのか。)
しかし、その思いつきをシンタローはあっさりと却下した。
自分の知る限り、父親が『副官』という者を側においたことはない。『補佐』なんてものこの父親に必要ないからだ。
なんでも自分の一存で決めて、またそれを押し通す力を持っている男。
それがシンタローの知る『マジック総帥』だ。
誰かの助言を乞うとか、サポートしてもらうとか、そんな発想が頭の中にあるとは思えない。
けれど、あの男がただの部下とはとても思えない。
なぜなら、父の隣に立つその男が笑顔だったからだ。
一族の中でもずば抜けた力を持ち、残酷、冷血と呼ばれた覇王の隣に、こんな気安く立つ人間なんて自分は知らない。
秘書の二人はおろか、実の弟であるサービスやハーレムですら、父の側にいるときはかすかに緊張していた。そう見せないよう振る舞っているが、シンタローには分かる。
叔父達とは違う意味ではあるが、自分だってそうだった時があるからだ。
幼い頃は父を怖いなどと、思ったことは一度も無かった。強くて優しくて、なにより、母親が不在の自分にとって父親はたった一人の家族だった。
それが変わり始めたのは、父の瞳に宿る冷たい輝きを知った頃、けれど、その時はとまどいこそあれ、恐怖など感じなかった。家族であり、慈しんでくれる相手を恐れる理由なっどなかったからだ。
だが、弟を監禁したとき―――――止める自分をも殴ったとき、自分は怒りとともに、はっきりと恐怖を感じていた。
父を誰より理解していると、いや、知らないことなんてないと思っていた。
なのに、目の前にいる男の考えていることがわからない。
家族という絆を自らの手で壊すこの人間は誰なんだ。
二十四年間、自分の父親であり、誰より近しい人間の、その『知らない』部分があるということが怖かった。
今はもう、そんなものは感じないけれど、自分でさえ一度は恐れた男の横で、にこにこと笑っているあの男の存在が信じられなかった。
「……ちゃん…シンちゃん、ねぇっ!」
「あ? なんだ?」
大声を出されてシンタローが顔をそちらに向けると、グンマはため息をついた。
「言ってる側からこれだ。ほんとーに、お正月はゆっくりするんだよ。電話も受けちゃだめだからね。」
「わかったわかった。なら、ゆっくりするため、掃除の続きしてくっか。」
そう言って席を立つと、食堂を出た。
しかし、掃除に戻ったものの、頭からどうにもあの写真のことが離れない。
(髪の色や雰囲気からして、一族の人間だろうな……。)
祖父の代の資料などを見ると、昔はもう少し一族の数も多かったらしい。それが、いつの間にか、かなりの数の人間が減っている。父の代から、さらに力を増してきた……つまり、征服した国の数が爆発的に増えているので、それに伴って犠牲の数も増加したということだろう。
この男も、そうした犠牲の一人になったのだろうか。
その時、父は悲しんだのだろうか、それとも、弱い者はいらん、とあの酷薄な笑みを浮かべたのだろうか。
(……気分わりぃ……。)
後者であることを自分が密かに願っていることに気づき、シンタローは自己嫌悪に顔をゆがめた。
「スチームクリーナーとってくる。」
シンタローが立ちあがると、奥にいたグンマが怪しい着ぐるみの熊をひきずりながら出てきた。
「ボク、とってこようか? ちょうど水飲みたかったし。」
「いや、俺が行く。ついでだから、なんか探してきてやるよ。」
クリーナーを取りに行くのは単なる口実で、本当はこの『過去』がたくさん詰まった部屋にいることが息苦しくなってきたからだ。
自分の過去がしまわれている同じ場所に、自分が会ったことのない父親の過去が共存している。それはその部屋の主の心そのものだ。
それに耐えきれない苛立ちを感じ、シンタローはその場から逃げ出すことによって、その嫌な気分からも逃げようとしたのだった。
とりあえず台所に行き、残っていた使用人にクリーナーを出してもらった。彼らが掃除を申し出てくれたが、あの部屋に他人を入れるわけにはいかず、シンタローは断った。
それに、彼らも今日から休暇に入る。何人かは、もう出発しているし、残っている者たちも殆ど仕事を済ませているようだ。手伝わせるのも気の毒だ。
「俺たちも自室だけだから、手伝ってもらうほどのこともない。一年間、ご苦労さん。来年もよろしくな。」
そうねぎらうと、全員深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃ、これ、借りてくぜ。」
シンタローはその掃除機にも似た機械を片手に持つと、もう片方の手にオレンジジュースのペットボトルを掴み、部屋へと戻ろうとした。
しかし、その途中でよりにもよって、苛々の原因と出くわしてしまったのである。
壁にもたれかかって、いかにも自分を待っていたという風情のマジックをシンタローはじろっと睨んだ。
「おい、さぼってんじゃねーぞ。さっさと部屋へ帰れよ。」
「ちゃんと終わらせたよ。キンタローも自分の部屋へ戻った。」
「そうかよ、じゃあ、あんたも部屋に帰っておとなしくしてな。」
素っ気なくそう言って、シンタローはその場を通り過ぎようとしたが、ふいに背後から伸びてきた手に後ろに引き戻された。
「うわっ てめ……!」
仰向けにひっくり返りそうになったシンタローを、広い胸が抱き留める。
「――――倒れてもいいよ。シンちゃん。」
いきなり言われたその言葉にシンタローは、目を見開いた。
両肩に置かれた手は温かく、力強い。
「やりたいようにやりなさい。おまえはそういう子だ。もしそれで倒れるようなことがあっても、私が――家族がいる。ちゃんと支えてあげるから、好きなだけ走りなさい。」
さっきの食堂でのグンマの苦言のことを言っているのだと、シンタローはすぐに気づいた。
胸が詰まりそうになるが、素直に礼を言うのも癪だった。
「えらそーに、なんでも分かってるみたいなこと言いやがって……。」
「知ってるよ。なんていったって、シンタローを二十五年間見守って育ててきたのはこの私なんだから、シンちゃんのことで知らないことなんてひとつもない。」
『シンちゃんのことで知らないことなんてない』、その言葉に、緩んでいたシンタローの頬がびしっと強張った。
「………ざけんな。」
「え?」
地を這うような低い呟きに、マジックは怪訝に思って、よく聞こうと身を乗り出した。
しかし、その行為が彼の命取りになったのだった。
「ふっざけんじゃねぇええ!!」
シンタローが勢いをつけて上体をそらす、容赦のない頭突きが背後にいたマジックの顔面に炸裂した。
「ぐわっ!」
鼻筋を強く打って、後ろによろける父親から素早い動きで数歩離れると、シンタローは振り返って怒鳴った。
「確かに、俺を育てたのはアンタだけどな、俺のことをなんでも知ってるなんてうぬぼれんのもいい加減にしろっ! 俺はもう何もできない子供じゃねーんだよ! どこにだって行けるし、あんたが知らない人間とつきあったりするし、えらそーに言われる筋合いはねぇっ!」
「? シンちゃん?」
鼻を押さえながら、きょとんとした顔をする父親と目があって、シンタローはかあっと顔を赤くした。
(うわ、俺サイテーじゃん。)
これでは単なる八つ当たりだ。
もしくは嫉妬。
理不尽だと分かっているが、自分の知らない人間を側に置いていた父親に腹がたってたまらない。
くるっと踵を返し、大股で部屋へと急ぐ。
(だって、むかつくものはしょーがねーじゃん!)
一族の人間で、他人を信用しない父親の側に平気な顔でよりそうことができて、しかもそれを父が許している
そんな人間は、自分くらいだと思っていたのに。
単なる過去だと分かっていても気に入らない。
記憶の中―――――少なくとも、写真の中に、この男はいまだに残っている。
「くそっ…!」
シンタローは唇を噛むと、力任せにドアを開けた。
「わっ! どうしたのシンちゃん!」
脚立に腰掛けて、アルバムをめくっていたグンマが驚いて顔を上げた。
シンタローはむくれたまま、手に持っていたペットボトルをグンマに放ってやる。
「どうもしない。それより、掃除さぼってんなよ。」
「さぼってないよー。殆ど終わったからシンちゃん待ってたんじゃん。」
確かに、部屋の中はすっきり片づき、後は床を磨くくらいだ。シンタローが処分すると決めた洋服やそのほか一切は、それぞれ分類して袋に入れてある。
「後は処理場に運ぶだけだけど……本当に捨てちゃうの? シンちゃん。」
「何を今更。」
おおかた面倒くさくなったんだろうと、シンタローが呆れるとグンマはんー、と己の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「確かにここにあるものは、『過去の遺物』なんだろうけどさ。おとーさまにとっては、ある意味現在進行形のものなんだよ。」
「どういう意味だよ。」
「アルバム見てて思ったんだけどさ、今も昔も、おとーさまにとっては、シンちゃんは総帥というより大事な『子供』のままなんだ。そりゃ、もうシンちゃんはあひるの帽子なんかかぶらないけど、おとーさまにとってそれはシンちゃんのものだった帽子、じゃなくて、シンちゃんの帽子、なわけ。……だからさー、別にいいじゃん。うち、こんなに広いんだし、わざわざ処分しなくたって。」
「………。」
「ね?」
グンマはなだめるように、シンタローの顔をのぞき込んだ。
しかし、シンタローはそれから目を反らし、スチームクリーナーを床の上に置いた。
「処分しなけりゃ、いつまでたっても片づかない。」
「も~! 頑固なんだから。」
グンマの非難を背中に受けて、シンタローはスイッチを入れた。
独特の臭気を放つ蒸気が勢いよく辺りに広がる。
その白い蒸気の中、顔を伏せシンタローは黙々と床をこすった。
ポケットの中で写真ががさがさと動いて気持ち悪い。
『処分しなけりゃ、いつまで経っても片づかない』
本当は―――――処分したいものは、こんなモノじゃなくて、過去そのものなのだ。
自分のいない父親の二十五年間、生きてきた時間の半分。
父にとっても、あまり振り返りたくない種類のものらしい。
父の父、つまり祖父が若くして戦死した後、父が何を想い、どう生きてきたのか、シンタローは父の口から聞いたことがほとんど無い。
聞いたとしても、おそらくはぐらかされるだけだろう。
自分だって、弟や小さな友人に戦場での経験なんて話したくなかったから、その気持ちは理解できる。
自分でも正視したくない過去。
思い出しても苦しいだけの記憶。
なら、処分してもいいのではないだろうか。
ポケットの中でさっきから身動きするたび、がさがさと存在を主張するそれに指が伸びそうになる。
それから気を逸らそうと、シンタローは一心に床を磨くことに専念した。
熱い蒸気に埃が浮かび上がり、雑巾に水滴毎吸い込まれていく。
染みをすべてこそげ落とそうと、シンタローは腕に力を込めた。
夕食に年越し蕎麦を食べたあと、グンマとキンタローがいそいそと出かける準備をし始めたので、怪訝に思ったシンタローが行く先を尋ねると、顎がはずれそうな答えが返ってきた。
「除夜の鐘を鳴らしに行く。」
「はぁ?」
まさか、日本まで行くのだろうか、とシンタローは不安になった。
いくらなんでもそんな馬鹿な、と思うが、なにせこの二人だ。「面白そうだから」「興味があるから」と、日本の寺まで突っ走っていきかねないことは、経験上よく知っている。
シンタローの心配を読みとったのか、グンマは「ちがうよー」と笑った。
「僕らが日本まで行っちゃうんじゃないかと心配してるみたいだけど、そんなことするわけないでしょ。基地の広場だよ。レンタルの鐘を、残ってる団員たちと撞くんだー。」
「そっか、なるほど……って、その費用はどっから!? というか、レンタルでそんなもんあるのか!?」
「あははははっ。いってきま~す。」
「行くぞ! グンマ、俺たちが一番目だ。」
「待てーーーー!」
言いたいことだけを言って、夜の闇に逃げ込む二人を呼ぶシンタローの声がむなしく響く。
(キンタローの興味を日本文化から、はやく別の方向へうつさねえと……ひょっとして、身体を返す前、俺が日本へ行きたいってずっと思ってたから、その影響が残ってるのかもしれない。)
シンタローはがっくりと肩を落としながら、リビングへ戻った。
「二人は出かけたのかい?」
ソファーに座って、くつろいでいた父親に聞かれ無言で頷く。その時、彼の膝の上にアルバムが乗っているのを見て、一瞬ぎくりとしたが映っているのは子供の頃の自分だった。
ほっとした反動で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まーた、アルバムかよ。好きだなー、過去振り返るの。」
「ああ、好きだよ。かわいかったもんねー、このころのシンちゃん。いっつも、パパ、パパってついてきてくれるし、イヤミ言ったり、暴力ふるったりしないいし。」
「あ、そ。」
にっこりと父親が笑った。
「なにより、この黄色のセーターを着ている小さな子供が、寝て目覚めて、また寝て、を繰り返して、ひとりで本を読めるようになったり、自転車にのれるようになったり、パパと遊園地に行ったりと、いろんなことを経験して、イヤミ言ったり、暴力ふるったりする赤い上着を身にまとった総帥になるんだって思うと、余計かわいくて仕方ない。」
親馬鹿丸出し発言に、こんなことにはいい加減慣れっこになっていたはずのシンタローだったが、前へつんのめりそうになった。
なんとか態勢を取り直して、「へえー」と無関心を装ったが、マジックは特に気にする様子もなく、なおも話を続けた。
「過去を振り返ったり、想い出を反芻することは、一概に後ろ向きなこととは言えないよ。『今』があるのは、『昔』があるからだろう。人間が思っているほど過去と現在の距離は遠くない。楽しかったり、悲しんだり、怒りを感じたり、いろいろな体験をして、今があるんだ。私は、おまえがどんなふうに過ごして、今のおまえ自身を創り上げたのか、ずっと見てきた。そうできたのは、私の一番の幸運だと思っている。」
父親はそこで言葉を切って、アルバムを閉じる。
「だから、実は悔しいんだ。―――――おまえの人生にとって重要な時間である『あの島』の日々を知らないことがね。」
現在を愛することは、過去をも愛おしむことと変わらない。
幼少時代の甘いお菓子のような日々も、どうしようもない苦しみに流した涙の数も、みな、今を創ってきた大事なパーツだ。
だから、今、自分に穏やかな笑顔を向ける父親を創ってきたものたち――――――自分が知らない父の時間にいるあの男の存在が悔しかったのだ。
そう、自分が嫉妬していたのは、あの笑顔にではない。
『自分がいない頃の時間』そのものに、焦燥を感じていたのだ。
ゴオ―――――――ン……。
「あ、鳴った。」
かすかに響く重低音に、二人は顔を上げた。
「本当に借りてきたのかよ。ああ、請求書が………レンタル料っていくらだろ。」
頭を抱えるシンタローにマジックがフォローをいれた。
「まぁまぁ、経費を使いたくないんなら、パパがあげるお年玉で払ったら?」
「う~~~ちっくしょー、ただ働きかよぉ~~。」
シンタローが唸ると、それに返事するように鐘が『がっ』と鈍い音を立てた。
「あれはグンちゃんだね~。間違いなく。」
マジックが確信を持ってそう言いきった。
撞木を撞く弾みにひっくりかえりそうになっている彼の姿と、おろおろしているその従兄弟の姿が目に浮かび、シンタローはやれやれと苦笑する。
きっと、痛いだ、寒いだとべそをかきながら帰ってくるだろうから、温かいココアか何か用意しておいてやるか、とシンタローはキッチンへ向かおうとした。
ドアを開いて、振り返ると再びアルバムを取り上げた父が目に映った。
優しい目をして自分たちの生きてきた時間を見つめるその横顔に、小さな声で囁く。
「………………来年もよろしく。」
あるか無きかの呟きのような声に、マジックが「何か言ったかい?」と聞き返した。
「べつに、たいしたことじゃねぇよ。」
焦ってそう言うと、後ろ手でドアを閉める。閉まる直前、その隙間から滑り込むようにして笑いを含んだ声が聞こえた。
「こちらこそ。」
(~~単なる社交辞令だっつーの!)
シンタローは扉越しに父親を睨むと、そこから離れた。
台所に向かうようなふりをして、こっそりとあの倉庫に入り込む。
時代だけ確かめた後、合致したその中から適当なアルバムを一冊抜いた。
ぱらぱらとめくり、空いている場所に持ち歩いていた例の写真をはりつけた。
笑顔の男に対しては今も複雑な気分だが、しょうがない。この男との間に何があったにせよ、それを通ってきて今の父親があるのだから。
過去のマジックは自分の父親じゃないけれど、二十五年前からずっと先の未来まで永遠に自分の父親だ。
年が暮れて、また新しい年がきて、それを何度も繰り返してきて、そしてこれからもずっと繰り返すのは自分たちなのだ。
ひゅるるるーっと遠くでそう聞こえたかと思うと、どーんという響きと共に、窓の外がぱっと明るくなった。
新年の合図の花火だ。
新しい世界の始まりだ。
「……長生きしやがれ。」
ちゅっ、と開いたページの一枚の写真に新年の挨拶を贈る。
過去に焦ったり―――――どう考えても他にもいろいろありそうな男だから――――寂しくなったりするけど、それもひっくるめて未来に新しい記憶や想い出を創っていって、人生でトータルして自分たちとの歴史の割合を増やしてやる。
とりあえず、朝が来たらお節を食べて、自家用ジェットで日本まで飛んで初詣してもいいな。コタローを病室から自宅へ移して、一緒にお正月を過ごして――――三日間家族で過ごそう。いつか目が覚めるとき、そのことを話してやろう。
(……年が明けたら、ゴミ処理場に電話しないとな。)
年末ぎりぎりに集められたゴミが、処理機に放り込まれる前に取り戻さなければ。
玄関ホールから「ただいまー」というグンマの声が聞こえてきた。
「外寒かったよー。シンちゃーん、どこー? ミルクココア飲みたい~。」
「はーいはいはい。」
アルバムを閉じて棚に戻すと、シンタローは倉庫を出て居間に戻った。
鼻の頭を赤くしたグンマと、逆に白くなっているキンタローがソファーの前に立っている。
父親が入ってきたシンタローを見て、笑顔の状態で口を開いた。
その様子に二人は後ろを振り返り、シンタローを見つけ、同じように唇をほころばせる。
しかし、シンタローの方が一呼吸早かった。
「あけまして、おめでとう―――――――――。」
2007/2/23
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波音
透明な包装を破り開いて、ピンク色をした球状を湯の満ちたバスタブへと放り込むと、大きな水音と波を立てて、ゆっくり落ちていってはごとんと鈍い音をたてて底に転がった。
続いてふわりと濃厚な香りと、固形が融け、しゅわしゅわ小さな気泡がはじける音が間断なく続き透明な湯水を染めあげ、幾重もの薔薇の花弁が広がっていく。
それを満足そうに眺めながら、これから始まる楽しい時間を思い描いてうきうきとマジックは振り向くと、居間にいるシンタローに声を掛けた。
「はーいシンちゃん準備できたよ~v」
「………ぉぅ」
のろのろと脱衣所までやってきたシンタローに対して、マジックは嬉々とした表情でその着衣に手をかける。
「っやめろよ! 自分で脱げるっつーの!」
「いいじゃない」
「良くねェッ。たくガキじゃねーんだから…」
ぶちぶちといつもと似たような愚痴をこぼしながらシンタローはぞんざいに服を脱ぎ捨て大股で浴室へ進入すると、さっさと身体を洗ってざぷんと湯に身を沈めた。
「色気な~い」
「るせっ! あってたまるか!」
「そんなことないよシンちゃん自身はセクシーの塊だよフェロモンだだ漏れだよ」
「…んな褒め方ちっっっとも嬉しくねェ。むしろ嫌な言葉だぜ」
「あっははは。そうだなァ褒めてるっていうより、惚れてるんだよ」
「オマエは馬鹿か」
後に続いてシンタローの入っているバスタブに喜色満面で、シンタローが足を上げて阻止しようとしているのを躱して無理に侵入してくるマジックを、渋面をつくってなじった。
本当にもう毎度のことだが、呆れる。
呆れてモノも言えないというが、モノが言えるだけ自分はコイツに狎れてしまったということだろうかと思うと、シンタローは情けなくなってくる。
「ああ、でも、」
蹴ってきたシンタローの踵を掴むと、マジックはそれをそのまま自分の肩に乗せてシンタローの身体に割り入る。
「こうしてみると、やらしい体位みたいだねえ」
「…アンタの頭はそればっかりか」
「それしかないよ」
当然、とばかりに言い切ってにやにやするマジックに、シンタローはああもう、と天を仰ぐ。
顎を上向けても、湯煙に霞む自然光に近いライトの光がぼんやり見えるだけだ。
「シンちゃん…」
すぐ近くで深い余韻とともに名前を呼ばれたと思ったら、マジックが首筋にキスをしてくる。大きな手が腰骨をじっくりと撫で上げてきた。
「う・あっ…!」
水中、ということもあるが、オリーブオイルの融けた湯はいつもされている行為を違うものにする。触り心地も違うだろうが、触られ心地が、違う。
反射的に声を抑えようと腕をあげたが、口元に届く前にマジックに捉えられる。
「くッ…そ! ィやめろっ…ての!」
「ダメ。聴かせて」
濡れて滑る腕を無理矢理に掴まれるのと抵抗するのとで、結局、喘ぎ声どころかバシャバシャと派手な水音しか聞こえない。
「ン …」
最後は覆い被さるように上からマジックに強いられた長いキスで、力が抜けた。
「選ばせてあげる。二択だよ」
「…なにを……」
すぐ近くで晴れやかに笑うマジックに、シンタローは胡乱な視線を向ける。
「ここでオリーブオイルの感触を楽しみながらするか、ベッドにいってパパに身体の隅々を拭かれながら楽しむか。どう?」
「………あー…それじゃ、三番目の独りで風呂から出て寝るってのに……」
「それで独りで手慰み? それもいいなァ。見せてねv」
「うっ。…嫌なこと言うな…」
シンタローは言葉に詰まる。
「だってそうじゃない? こんなになっておいて、何もしないで眠れはしないよねぇ」
「くぅッ…」
マジックがこわばりかけたシンタロー自身に手をやると、耐え切れぬ切ない息が漏れた。その耳元にそっと囁く。
「今夜もイイ声聴かせてね、シンちゃんv」
返事の代わりに、つよく首筋に噛みつかれた。
零れる
この恋は禁じないでよ。
思ったより、 ずっと思い描いていたよりもその肌はひやりとしていた。
ぎこちなく行き違うキスの後に、拗ねたように視線をあわせず、
「…なんか、欲しいもん、あんの? 誕生日」
と、尋ねると、シンタローは様子を窺うようにチラリとこちらを見た。
それにいつものように、笑み返すことすらできなかった。
「…ああ、」
言うと大きく瞠目したこの漆黒の瞳は今、私のどんな感情を見ているのだろう。
「ごめんね、シンタロー」
やわらかい頬を包むようにして、両手を伸ばして、逸らすことさえ出来なくした。
臆した色を浮かべぬ瞳。その中で映え融ける青は己自身か。
ひやりと吸いつくような肌膚の触感に眩暈を覚える。
耳元の髪を梳きあげて。
愛しい。愛しい。
さらさらと髪をくしけずられるのが気持ちいいのか悪いのか、シンタローは目を細めて、ん、と言葉にならない吐息を零した。
愛しい。
自然と重ねたくちびるは化粧気もなく艶やかで、それが心を煽ってやまない。
怖いな。
心の中だけで、自戒を込めて苦く笑った。
なんて酷い恋だろう。
この身打ちふるえるような歓びが、この子の恐れに繋がるものを。
それでも、この恋は禁じないで。
「シンちゃんの、ぜんぶが欲しいんだよ」
愛してる。
2003.12.10.BGM*オブラート
たぎってます。
オチ。↓
12月12日、当日。
「いいよ、やるよ」
「え? ナニ投げやりにそんな。え?」
「 仕っ方ねえだろ。今までモノ指定で言われた事なかったからほかに思いつかねぇんだヨ。ていうかもう考えすぎて頭痛ぇ」
「シンちゃん…!」
「まて。それにリビングでゴロゴロのたうち回る父親なんて持ちたくないんでな」
「だってシンちゃんにずーっと口きいてもらえなかったんだもん。もう禁断の、否禁欲の日々! これからどうなっちゃうんだろうパパとシンちゃんはッてすっごーく悩んでたんだから!」
「とりあえずどうにもならない事だけはたしかだ」
「え、でもくれるって。言ったね今。聴いたよパパは」
「フン。言ったさ、」
「むしろ録音したよ焼き付いたよ私の心のハードディスクにガリガリとッ!」
「…聞いとけヨ人の話を。つーか、で、何?」
「聞いてるともっ! 何って何だい?」
「だから、やったら何だってぇの。あ。…先に言っとくけど俺はやっても俺の貯金はやんねーぞ」
「…………!! 神様ありがとうこんな何も知らないシンちゃんにパパが初雪を踏破できるような歓びを与えてくれてッ。ビバ誕生日!」
「あんたが神様信じてるとは初耳だ。つかそのたとえ話わかんねぇし」
「え、ああ! じゃあわかるように! ええとね?」
「ンだよ」
「ちょっとこっちに来て?」
「で?」
「ちょっとベッドに座っておいて?」
「ふん?」
「いただきます」
「……………ッツ!!!」
ボグッ。
「…はー……はー…、っ…誕生日おめでとう変態オヤジ。おまけのボディブローだ。そして永遠にサヨウナラ」
「ゴフっ…いい入りだったよシンちゃん…」