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2.ドライヴ  39*14


 


 


 


 


 


「なんだよ、あんたの車が汚れてるなんて有り得なくないか?」


心底呆れたという声で零しつつ、助手席に乗り込むシンタローはなおもぶつぶつ言いながらシートベルトを引き出した。


息子の尤もな意見には微かに頷きつつも、ステアリングを握ったままのマジックは目を細めその光景を眺めている。


眺めている。


 


視界の中心にありつつも、どこか遠い、その横顔。


 


 「人に頼るのはそりゃよくないけど、仮にもガンマ団総帥の車が埃だらけってのは感心しないぜ」


 「………うん」


 「…なに?」


 「うん。…え?」


 「え、じゃねえよ。なに呆けてんだ」


 「呆けてる?」


 「ああ。ぼーっとした顔してる。すげえ間抜け」


 「ひどいなぁ、こんなダンディ捕まえて」


 「アンタがダンディなら冬眠中のクマなんてハードボイルドど真ん中だよ」


 「よく分からない喩えをありがとう」


 「どういたしまして」


けっ。


悪態を吐いて、それからシンタローは窓の方を向いてしまう。


彼の指摘した通り、埃だらけの窓ガラスに映る横顔は霞んで見える。その向こうには“バカ”というラクガキ。


食事に行く約束をして、実行に移されたのは破ること四回の約束を経てのことでそれだけでもシンタローの機嫌は悪い。べつに共に行かずともと言い放ったその眼差しは、奥の方に寂しさを滲ませマジックの罪悪感を数倍に膨れあがらせた。


今日こそはと切り捨ててきたけれど、やるべきことは山積みで本当は外出など許される身ではなかった。それでもこれ以上彼の失意を招くくらいなら作戦の一つや二つ失敗しても構わない。本気でそう思ったから非難の目を向ける部下たちを無言の威圧で黙らせ抜け出てきたのだ。


車は、勿論新車の頃と変わりのない磨き立てられたそれもあるにはある。


けれど以前、この車が好きだと言ったその言葉を覚えていたので自宅に戻り慌てて乗り継いできたのだ。


待ち合わせ場所に現れたその車体を見たシンタローは、瞬時に眉を潜め溜息を吐く。その様はマジックの目にもはっきりと確認出来た。


好きだと言ったのに。


そう言ったのは、彼なのに。


 


 


 『総帥の車とも思えない荒れ方ですねぇ』


 


 


のんびりとした声。


微笑みなのか、たんに口元が弛んでいるのか、よく分からない。


彼の微笑みはいつだってそんな風で。


 


横付けしたその汚れた車窓に、へにゃりとした、不明瞭な笑いを浮かべた彼が書いた“DESTINY”の文字。


意味は、聞かなかった。


 


 


 「こーんな古い車、レストアしてまで持ってる価値あるのかよ」


窓外を見たまま呟く声は少年のもの。


高くはないが、澄み切った青空を震わすような清潔感に溢れている。


 「ひどいなぁ。シンちゃんが好きだって言うから、パパはいつまでも大切にしているっていうのに」


 「その割りにこぉーんな汚くしてるのはおかしくないですかー」


 「…誰にも触らせたくないんだよ」


 「あー?」


 「パパの大事なものには、誰も触らせたくないんだよ」


 「ふーん」


大した興味もない話だと言わんばかりの、息ばかりの返答にマジックの頬が強ばる。


世界で、この世で、シンタロー以上に大切なものなどなにもない。自分は彼のためにあるとすら思っている。信じている。


 


揺らぐことなど有り得ない。


有り得ない。


有り得ない。


 


 


 『急に呼び出すのは仕方ないとして、俺、こんな服ですよ』


 


 


 「シンちゃん」


 「あ?」


 


 


 『靴だって、ほら。俺の場合、私服は全滅なんですから』


 


 


 「食事の前に、ちょっと寄りたいところがあるんだけど、いい?」


 「どこ」


 「シンちゃんの新しいスーツをね。作ろうかなって」


 「いらね」


 「どうして?」


 「既に売るほど持ってる。それに“新調したらまずパーティー”って言うだろ。着せ替え人形じゃねぇんだ、やだよ」


 「えー、パパは可愛いシンちゃんがもっと綺麗になるところが見たいのにぃ」


 「見なくていい。ってゆーか、服より車をまず綺麗にしろ」


振り向きもしないで。


 「…シンちゃんは…冷たいな」


 「暖かくされたいならそれなりの態度を取りましょう」


 


 


 『でもこの車はいいですね。埃だらけで、誰が乗っているか、外からはよく見えない』


 


 


 


 


誰が


 


 


       誰が


 


 


                       誰が


 


 


 


 


よく、見えない。


 


 


 


 


 「シンちゃん」


 「なに」


 「私は、お前を愛しているよ」


 「…あっそ」


 「喩えお前が私を愛さずとも、私はお前だけを愛している」


 「なんだそれ」


 「覚えておいて。それだけで、いいから」


 「……あんたって…」


振り向かず。


 「あんたって」


振り向かず。


 「あんたって、本当に…」


 


振り向かせず。


 


 


 


窓の外を見たままのシンタローの眼差しが潤んでいても、それはきっと漂う埃の所為だから。


 


 


 


 「父さんって、本当は――――」


 


 


 


 


本当、は――――


 


 


 


 


 


END



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15.参りました。    53*28


 


 


 


 


 


 「で、まだ飲んでる、と」


 「うん。まだ飲んでるんだよ」


眠そうな目を擦りつつグンマは言って、それから大きな欠伸をひとつした。


シンタローが帰ってくるのを寝ずに待っていたという言葉通り、ヒヨコ柄のパジャマを着た彼は左手に眠気覚ましのコーヒーを、右手で既に眠ってしまったキンタローの頭を撫でつつそれでもきちんと状況を説明した。


大きな図体で、しかも普段はグンマより頼りがいのある自分をアピールする彼が、よもや従兄弟の膝枕で無防備に眠っているなどと言うことが団員たちに知れたら…面白いから今度ばらしてやろうかと思いつつ、心遣いを労いグンマに部屋に戻るように伝える。


 


父親の奇行はいつものことで、またなにか始めやがった、で片付けることにしている。一々付き合っていては神経が持たないし、また大抵はシンタローの気を引きたいがためにしていることで、反応すればそれは彼を喜ばせるだけのことだということは早々に学習していた。


だからなにをしていても、結局半分は巻き込まれてしまったとしても無視することにしているのだが、それが重なるとこのような事態に陥ることも分かっていた。


このような事態。


キンタローを引きずって、リビングから出ていくグンマを見送ると溜息を吐き、それから彼の部屋へと向かう。


マジックの部屋へ。


手間ばかりかかるバカだけど、放っておく訳にはいかないから。


口元が、少し微笑んでいることは気付かない振りで。


 


 


 


今日はファンクラブの講演会だとかで外出していたマジックは、八時を過ぎて帰宅したときは既に酔っていたという。


酒に強いはずの彼が酔うこと自体珍しいのだが、それは年に一、二度あることだった。


シンタローが構ってくれないことが続くと、拗ねてしつこく文句を言ってくるうちはいいのだがそれを越えると今日のようにやけ酒に走るらしい。ザルを越えて枠の分際で酔うほど飲むとは、一体どれほどの酒量を消費しているのやら。体も心配だがその代金を考えると貧血が起きるとシンタローがぼやくのも、守銭奴魂だけから来るものではなかった。


若い頃とは違うのだ。


もっと自分の体のことを考えて欲しい。


意識があるようならキッチリ言い聞かせなければならない幾つかの小言を口の中で呟きつつ、マジックの部屋のドアをノックした。


 


当然のように返事はなく、仕方なく入室した部屋の中には甘い酒の香りが充満している。


テーブルにはウィスキー、ブランデー、ウォッカ、テキーラと、アルコール度数の高い酒瓶ばかりが並んでいて、しかもその殆どが空になっていた。


一応、なにかをつまむという意識は残っていたのか、白い皿にはチーズやクラッカーが載っている。囓りかけのチーズがだらしない。テーブルに散ったクラッカーの欠片が情けない。


ソファーに蹲って眠る、小さく丸めた大きな体が、愛おしい。


 


 「こら、寝るならちゃんとベッドに行け」


肩に手を当て揺すってみても、相手は微かな寝息を立てるだけで起きる気配はない。幾度か繰り返し、それでも反応がないのを確かめてからシンタローは寝室に向かうと薄手の毛布を手に彼の元に戻り、そっと体をくるんでやった。


それから自分は浴室に向かい、着ていたものを脱ぐと手早くシャワーを浴びた。


この部屋で入浴するのはいつものことだから、着替えや身の回りの品は一通り揃っている。一日の仕事で疲れた体を休めるには、出来れば湯を張った浴槽に浸かりたいところだが今日は諦めるしかない。あの酔っぱらいをベッドに寝かしつけるまで、自分にも安眠は訪れないのだ。


濃紺のパジャマを着て、お揃いの、彼のそれも取り出す。


洗面器に湯を溜め、タオルを浸すとパジャマと一緒にマジックの元へと運んだ。


酔っぱらいは未だ熟睡中で、いたずらに頬を突いてみたが反応はなかった。


温まったタオルを絞り、顔や首を拭いてやる。こんな状態になっても襟元を崩してもいないシャツのボタンを外し、胸元まで拭いてやると小さな抵抗が返ってきた。


むーとか、んーとか言いながら身を捩る。


子供のような仕草がおかしくて、高い鼻を抓み揺すってやった。それでも起きないから今度は耳元を擽ってやる。


そうして何度かタオルを濯ぎ、上半身を清めてやると漸く薄目を開けてこちらを見る彼と目が合った。


けれど分かっている。目が合っただけなのだ。


その証拠に、マジックにとってかなりおいしい状況であるにも関わらず反応は皆無で、それどころか“鬱陶しいことをされている”と思っているのがありあり分かる不機嫌そうな顔をしているのだ。シンタローは笑いを堪えるのに必死になる。


放っておいて。そう言い出しそうな唇にチュッと音を立てキスをしても、むずがるマジックは首を振りソファに埋もれようと身を捩る。


バカだ。


バカで、かわいい。


年に一、二度であっても、こんなサービスを受けているなどと知れば自分自身に嫉妬しかねないだろう。意識のあるときにしてくれと、泣いて喚いて強請るに違いない。


してやらないけど。


絶対に、そんなこと、気付かせないけれど。


愚図る彼を宥めながらパジャマに着替えさせていく。さすがに全身を拭いてやる訳にもいかないので、下は履き替えさせるだけに留めた。


ぐったりと力の抜けた体は重みを増し、シンタローですら抱えるのに苦労する。元より、悔しいかな自分よりも長身の体は持て余し気味なのだ。ましてやのし掛かられる重みに慣れた身には、出来れば運搬時のミステイクは招きたくない惨劇でもある。


こうなった彼の意識が戻ることはないと分かっていても、慎重に構えて損をすることはない。


両脇に腕を差し入れ抱え起こす。


背負うのが一番楽で確実だから、自分の体を下に差し込むようにしてマジックを背負った。よいしょ、と声には出さず気合いを入れて、くたくたに脱力しきった彼を落ちないように支えながら寝室へと歩いていく。こういうとき、部屋が広いのは考え物だ。


 


明かりは付けず、そのままベッドに彼を降ろす。


小さくむずがる声が聞こえたがやはり起きる気配はなく、手早く寝やすい体勢に直してやると布団を掛けた。


少し、考えて。


それから隣に、横になる。


自室に戻ってもいいのだが、こうなったときのマジックを放り出せるほど自分は薄情ではないし、なにより彼を愛しすぎている。


並んで横になると、酔っぱらいの頭の下に腕を差し入れ自分の胸元に引き寄せる。


抱き締めると、甘い香り。こちらまで酔いそうな強い酒の臭いは、彼のものでなければ眉を潜めるところだった。


どうして。


なぜ、彼だと許せるのか。


なにもかもを許せるのか。


愛せるのか。


抱き寄せた頭を抱え、髪に、指を差し入れる。撫でる。


いつも彼が自分にするように、こめかみや額に口付けながらずっと髪を撫でていると、どうしてだか涙が滲んできて慌てて指先で目元を擦った。


泣きたくなるほどの愛情。


泣きたくなるほどの幸せ。


そんなものがこの世にあると突き付けたのはマジックだし、教えてくれたのもマジックだ。


憎しみを感じたことがある。けれどそれは恨みではなかった。越えられないのは所業ではなく、彼の、自分に向ける感情だ。愛されすぎておかしくなる。いとしすぎて、苦しくなる。


なにもかもに背いているのに、それでもこの腕の中にいると安心する。


彼を愛している自分に安堵する。


二度と離れない。憎しみあわない。擦れ違いはしない。絶対に。


眠る彼の頭を抱き寄せ、そっと、幾度も髪を梳き、声には出さず囁いた。


 


おやすみ。


よい夢を。


 


幸せな夢を。


 


出来れば、その夢の中に自分がいるように。


笑い合っているように。


 


 


思いが、違わず通じているように。


 


おやすみ。


 


 


 


 


 


 


 「シンちゃ―――んっ!!」


 「ぐえっ」


本当に死ぬかも、という力で抱き締められ、シンタローは咄嗟に握りしめた拳で本気の一撃を食らわせる。


ガツッ、という音が響き、恐らく彼でなければそれなりの怪我を負ったであろう反撃をしたところで漸く息を吐くことが出来た。


 「いたいよぉ」


 「痛いようにやったんだ」


 「頭を殴ったら、パパ、バカになっちゃうかもよ」


 「既になってるだろうが」


 「そんなことないよ、パパはこれでも結構頭がいいんだよ。かけ算の七の段だってちゃんと言えるんだから」


 「グンマレベルの知識階層をひけらかすな」


 「おや、あの子はあれで得意分野に関してはエキスパートだけどねぇ」


そんなこと言われなくても分かっている。ただ、その方向がひん曲がっているのではどうしようもないという事実も含めて。


 「夕べは確かソファで寝ちゃったと思っていたのに、気がついたらシンちゃんと寝てるじゃない。しかもパパ、ちゃんと着替えているし。お前が世話をしてくれたんだろう?」


 「…文句言ったら、自分でちんたらやってたぜ」


 「うそ。パパ、そんな甲斐性はないよ」


 「不甲斐なさを自慢するな」


 「だって本当のことだもの」


ベッドに正座して、真面目な顔で言い募る。バカで、かわいい。


 「寝惚けてワーワーうるさいから、一緒に寝てやるって言ったら着替えてベッドに入ったんだよ。そのくらい覚えておけ」


 「そんなことしてないってば」


 「した」


 「してない」


 「し、た。あーもういいから、起きたならシャワー浴びてこい。酒臭い」


 「え、本当?それは大変だ、シンちゃんも一緒に浴びなきゃ」


 「なんで」


 「だって、一緒に寝てたんだから移っちゃってるよきっと」


 「…自分の部屋で入る」


 「えー、いいじゃない。一緒に入ろう?ね?」


大きな図体で、首を傾げて。


一欠片だって可愛くないのに、愛しく感じるのが面映ゆい。


 「風呂ならともかく、シャワーを一緒に浴びるのなんか狭苦しいだけだろ」


 「あー、シンちゃんたらさりげなくエッチ」


 「…死にたいのか」


 「遠慮しておくよ」


あっさり聞き分け、マジックはベッドを降りると浴室へと去っていった。


上機嫌なのは目覚めと同時にシンタローの顔を見たからだろう。いつものことながらその現金さには呆れるしかない。


それでも、シンタローも悪くない寝覚めに口元が弛むのだから彼のことばかりとやかく言う資格などないのだけれど。


まあ、そこは、ともかく。考えないように。


呟きながら寝室を出て、浴室のドアを叩き退室を伝えてから自室に戻る。家を出るにはまだ早いので、シャワーを浴びて朝食を作ろう。夜更かしをさせたグンマと、ひとり暢気に眠っていたキンタローの分も。


足取りが軽いのは幸せだから。


今日は、とても、気分のいい朝。


 


家族で食事をして、身の回りのことを少し話して出勤時刻を迎える。


着替えを済ませたところでマジックがやってきたので、今夜は早く帰ると伝えてやった。喜ぶ顔はまるで立場が逆転したような、子供の頃の自分を見ているような懐かしい気持ちになるけれど、寂しい思いをさせていたと自覚させられる瞬間でもあるからそれはあまり喜ばしい表情ではない。


近付いてきて、抱き締められる。大人しくしていると、彼は小さく笑った。


 「パパ、いい夢を見たよ」


 「へえ」


 「とてもいい夢」


 「どんな」


 「シンちゃんが出てきた」


 「俺が?」


 「うん」


 「出てきて、なにしてた?」


 「んー…出てきたの。それだけ」


 「それだけかよ」


 「うん。よく覚えてないんだ。でもシンちゃんが出てきただけで幸せだからね」


 「安いやつ」


 「安くないよ。シンちゃんは私にとって、世界中のどんな宝より高価だから」


 「あっそ」


 「うん」


いつまでそうしている訳にもいかず、マジックの腕を軽く叩くと抱擁が解かれ、瞼にキスがひとつ、贈られた。


 「待ってるからね」


 「飲むなよ」


 「待ってる。ちゃんと」


嬉しそうに笑う彼の頬にキスを返し、それから部屋を出ていった。


マジックは、その場に残り手を振っていた。


 


ドアが閉まると、降っていた手を下ろしマジックは軽く目を伏せる。


 「ごめんね、シンちゃん」


謝ることは二つ。


 


ひとつは、高価な酒の殆どを飲まずに流しに捨てたこと。


そしてもうひとつは。


 


 「だって、寂しかったんだよ」


 


年に一度か、二度だから。


だから許して。


いとしい、ひと。


 


 


 


今日は早く帰ってくれる。


自分を愛してくれる大切な者のために、温かな食卓を整えよう。


 


幸せは、やっぱり、自分で作るもの。


 


 


 


 


 


 


END


 


 


 


 


 


                

                                  参りました、は、作者の心境でした


                                    いくらなんでも、甘すぎるだろう、これ…


 



zx

 

 


11.お~~いおいおいおい   53*28


 


 


 


 


泣いてる。


ひっじょ~に鬱陶しく、あいつが泣いてる。


泣いてる振りで同情を引こうとするのなんかいつものことだけど、今日は一応、本当に泣いてる。


人のベッドの枕元で、突っ伏してわんわんと。


染みになるから涙も鼻水も付けるなよと、出来る限り冷たい声で言ってやったらボルテージが一層上がり、ついに“おーいおいおい”とむせび泣き始めた。


お前は幾つだ。


更に言ってやろうと思ったけど、言い返されるのは目に見えてるので放っておくことにした。だって朝だし。支度をして、仕事に行かなきゃならないし。


あーうるさい。


 


泣いてる親父の脇をすり抜けて洗面所で身支度を整え、ウォークインクローゼットで着替える。狭くはないがなんだって総帥が、自分の部屋にいながら遠慮してこんなところで着替えにゃならんのか。


狭くないけど。


片付いていて、快適だけど。


悔しいかなこの部屋が快適に過ごせるのはあいつのお陰でもある。使用人はいるものの、引退以来“シンタローの部屋は父親以外入室禁止”と訳の分からない取り決めをいつの間にかされていた所為で、室内も衣類もクリーニングはすべてマジックが行っていて、長期不在以外は本気で全部やつが片付けている。


世話になってるのは事実だ。


いないと困るのも事実。


言ってやらないけど。つか、言う義理ないけど。好きでやってるんだし。


 「…まだ泣いてる」


遂に“おーいおいおい”が、“……っう、くっ…ひっく”になってる。


ガキか。


 


食堂に行きたい。


朝飯は人間生活の基本です。しかもこれから仕事なんです。総帥職って結構ハードなんです、だから飯、食わせてください。


無視して行っちゃえばいいんだけど、追い縋って絡んでくれば殴るなり眼魔砲喰らわせるなりで心おきなく捨てていけるんだけど。


背中、丸めちゃってさ。


いつの間にか手にしたハンカチで、そっと目元押さえちゃったりなんかしてさ。


同情引こうとしてるんだろ。コラ、魂胆見え見えだぞチクショウ。


 


でも。


 


なんか…いつもと違って、本気でへこんでるっぽい。


三割程度はマジ泣きしてるっぽい。


騙されてばかりだからそう簡単に信用してやんないけど、でも今日はなんか変だ。


いつもならこう、もっとこっちにアピールしてくる泣き方っていうのか?ベソベソグズグズ嫌味を甘えた声に載せて並べ立てるくせに今日は振り向きもしない。


すっかり子供みたいに座り込んで、ベッドに半身預けて“ずずっ”と鼻を啜ってる。


なんだ。


なんなんだよ。


なんだってんだよ、なに勝手に落ち込んでるんだよ、俺なんかしたかよ、俺が悪いのかよ!


 


…悪いのか?


いや、悪くない。だってなにもしてないから。


なにもしてないってのは嘘だけど、いつもと同じことをしただけで傷付けることなんか言ってない。してない。


して、ない。


と、思う。……んだけど。


 


 「おい」


ぐすっ、と。


 「おい、いつまで泣いてんだよ」


ぐすす。


 「同情引こうったってそうはいかないからな。大体親父が悪いんだろ」


ずず。


 「鼻は啜るな。かめ」


あんたが言ったんだろ。鼻水にはばい菌が入ってるからね。啜っちゃダメだよ。


ガキの頃によく言われた。抱き上げられて、熱っぽい体をそっと撫でて、額に触れて。


マジックは、一族の連中はキッチリハッキリ欧米人で、だから平熱も三十七度を超えてる状態が普通だ。でも俺は大抵三十六度台で、ガキの頃は低体温を心配されたものだった。


具合が悪そうなのに熱がないって。


あるっつの。俺はそれが普通だったんだっつの。


お前らとは違うんだよ。俺だけ違うんだよ。違ったんだよなにもかも。


ちょっとのことで思い知る、コンプレックスだけじゃない痛みとか寂しさ。


抱き締めてくれるから余計に辛くなる。そういうことだってあるんだよ。


言わないけど。


いまも、絶対、言わないけど。


 


仕方ないから近付いて、背後に立って腕を組む。


 「いつまでそうやってるつもりだ」


 「…さあ」


 「わざとらしいんだよ。構って欲しいならそう言え」


 「…そうだね」


拗ねて可愛い年じゃない。あーくそムカツク。


 「なんだよ」


 「いいよ、行って。パパもすぐ行くから」


ちっ。


腕を解いて、肩を掴んで振り向かせる。案の定赤い鼻と赤い目が、罪悪感に苛まれろ!って感じでムカつき二割り増し。声なんかかけるんじゃなかった。


行っていいって言うんだから行く。


行ってやるチクショウ!


 


 「シンちゃん」


 「…なんだよ」


 「行っていいよって、パパ言ったよ」


 「わ、わかってる」


分かってるけど。


足が動かねぇんだよ、どういう訳か!


 「ぐあぁぁぁぁぁっ!」


ホンット、ムカツク!!


 「痛い」


 「殴ったんだ、痛いに決まってんだろ」


 「痛いよ」


 「うるせぇ」


回り込んでベッドに座り足を組む。余裕綽々の態度は崩さない。


こいつ如きに、揺らされない。


 「で?」


 「で、って?」


 「いつまでグスグス泣いてんだよ」


 「べつに」


 「別にってツラじゃねぇよ。俺が殴って泣きだしたんだろ。謝れってか」


 「…べつに」


 「あのなぁ、」


 「シンちゃん、パパのことなんかなんとも思ってないじゃない。どうでもいいんでしょ、行ってよ」


ぐあーっ、首の辺りが痒くなる!


 「どうでもっ、よくないとかっ、そういうことはなっ、」


ないなんて、面と向かって言えるほど俺は恥知らずじゃねぇんだバカ!


いいんだ、パパなんか、と俯くから腹が立ってもう一発殴ってやる。


 「…痛い。…けど、いいよ。いまのは」


 「は?」


 「いまのは…いいんだ」


なにが?


殴られていいなんて、お前はあれか、アルファベットの十九番目か。


ほぼ毎日、顔を合わせればなにかしらで揉めるから、三日に一度は殴ってる。一応父親だし、遠慮もしてやってるからそれくらいで勘弁してやってるんだけど、今日はしつこいからまだ朝だってのにもう二度殴ってやった。


しかし。


いまのはいいってことは、さっきのはよくないってことか?


いまは痛いけどよくて、さっきのは痛くなくてもダメだったってこと?は?なんだそれ。


 「…あのな、俺は忙しいんだ。付き合ってやろうという姿勢を見せているうちに、ハッキリとっとと言いやがれ」


 「べつに…だから行っていいって」


 「うがーっ!あと三秒のうちに言わないと更に殴る」


 「グーならいいよ」


 「は?」


ぐー?


 「グーならいいよ。パパ、我慢する」


 「あ?はい?ぐー?」


ぐーってなに?


拳を握って眺めてみる。突き出して、“これ?”って目で聞く。


頷いたから、ぐーが“グー”なのは分かった。分かったけど。


 「グーって殴られりゃいてえだろ」


 「うん。でもいつもだし、我慢する」


 「話がまったく見えねぇぞ」


自慢じゃないが俺は強くて格好良いい。カッコイイはこの際おいておくとして、強いんだから当然破壊力もある。拳を握れば結構なデカさだし、これで殴られたら相当痛いと思う。っていうか、痛い。絶対。


それが“グーなら構わない”って、そりゃもうやっぱりアルファベットの十九番目に他ならないってことだけど…別に、これまでその、そういうさ、そういう、変な癖、っつーか、せ、性癖っての?そんなの、見たことも、要求されたこともないっつか。


なんだって朝っぱらからこんなこと考えにゃならんのだ。


 「なにか、その、てめぇは痛い方がいいのか」


首を振る。


だよなぁ。指先ちょっと切れたくらいでピーピー騒ぐタイプだもんな。俺の前でだけなんだろうけど。


 「痛いのは嫌なのに、なんで殴られるのはいいんだよ」


 「だから、グーならいいんだ。それなら我慢出来る」


 「殴るんだからグーだろ」


 「違うよ。…違うじゃない。違ったじゃない、今日は」


 「あア?」


今日は、ってことは、二度目がいまでグーだったから、一発目か。


今日の一発目は…ああ、目が覚めた瞬間のことだ。


俺は目覚ましが鳴る少し前に意識が浮上することが多くて、多分今日もうつらうつらの状態になっていたと思う。で、もう朝だなー、目覚まし鳴るなーと思って…それで…


唇の端が、なんだか妙に、温かくて。


…あ、なんかものすごくヤなこと思い出させられた。


 「てめぇがあんなことすっから悪いんだろ」


思い出した。思い出してしまった。うあー、やな感じ。ホンットやだ。あーやだ。


目が覚めて、その瞬間親父にキスされてるなんて、そんな最低最悪の目覚めがあっていいものか。いままでだって何度かあったけど、その度叱りとばしてやったのに懲りずに夜這ってくるこいつの神経ってどうなってるんだっての。今日のは夜じゃないけど。朝だけど!


 「それはね、まあ、不本意ながらダメって言われてることをしたパパにも責任の一旦はあると思うよ。でもそれはシンちゃんが可愛いからいけないんであって、だからそれについては喧嘩両成敗ってことだと思うんだけど」


 「なにをちゃっかり自分エコロジー語ってやがる」


足で、床に座ってる親父の脇辺りをグリグリしてやる。


 「エコは環境に対する配慮だよ。使い方がおかしいよ」


 「うるせえ、インチキ外人に英語の講釈されてたまるか」


話が進まないったらない。


 「いいか、人の目覚めを最悪にものにした報いで殴られたんだ。文句を言われる筋合いはねぇ」


 「だから、それ自体はいつものことだし、我慢するよ」


 「我慢の前にやめるってことを覚えろ」


 「うん、それはじゃあまた別の機会に検討する」


………。よし、こっちも我慢だ。とにかく話が進まないから、いまは聞かなかったことにしておいてやる。


 「それで?なんでいつもと同じようにバカをやって、いつもと同じように殴られてそこまでウザく落ち込んでるんだよ」


 「だって…だって、シンちゃんが…パーで…」


 「死にたいのか。よーし手を貸してやるからいますぐ死ね」


 「シ、んちゃ、首、絞まっちゃう」


 「絞めてるんだ」


涙目で見るから、一度強くギュッとやってから手を放す。


 「パーで総帥が勤まるなら、今日付けでグンマに譲ってやる」


 「それグンちゃんの前で言ったらダメだよ」


 「自分で言ったんだろうが」


 「違うよ、パパが言ったのは“パー”だよ」


パー。掌を広げて、パー。


 「そっちか。ったく、グーだのパーだの。俺はな、時間がないって言ってるんだ。今度こそ分かるように、手短に言え。さもなきゃ三発目が飛ぶぞ」


 「シンちゃんがパパのこと、パーで叩いたんじゃないか」


 「息子に、平気でバンバン殴られるという行為自体が本来有り得ないとは思わないのか」


 「だから!グーならいいよ。グーは親しみがあるからね。でもパーは違うでしょ。パーは拒絶されてる感がいっぱいでしょ!」


………は?


 「パーで、パンッて叩かれると、なんだかすごく汚いものを振り払うみたいな感じじゃない。今日のシンちゃん、そんな風にパパのこと叩いたんだよ。怖い目で睨んで、パパのことパンッて!」


………あー……


 「パパは殴られても痛くても、それもシンちゃんとならスキンシップだと思って我慢出来るけど、でもあれはひどいよ…パパのこと、嫌いになっちゃったのかって…冷たい目で見られてパパは…パパは…」


うえっく、ひっく、と。


また泣きだした。


 


俺は、気が長い方ではない。短い訳じゃないけど、長くはない。


でもトップに立つと言うことは、色々な面で忍耐強くないとやっていけないし、なにより癖のある部下が多すぎるからその辺は器のデカさを発揮出来ないと勤まらない。


でも。


身内にまで完璧に適用出来るほど、まだまだ人間は出来てない。


と言うよりこいつにだけは、一生かかっても適用出来ない自信がある。


俺の貴重な朝の時間よ、無駄死にさせて、ゴメンな。


 「言いたいことはそれだけか。それが理由のすべてなんだな」


 「パパは、シンちゃんだけが生きる糧なんだ」


 「あっそう」


 


 


俺の糧は、取り敢えず今朝の分に関しては完璧に取り損なった。


 


 


 


 


 「シンタロー。壁の穴の件だが、金は団から出してやる」


 「…すいません」


 「だが自分で塞げ」


 「…はい?」


 「叔父貴と二人で、反省を籠め丁寧に塗り固めろ」


 「えー」


 「分かったな」


目が。目が本気だ。


怒らせると厄介だし、ここは黙って頷いておく。獅子舞の所為で出来た巨額の損失補填のため、俺の給料は地味に団の財政に返還していて、だからこういう事態には公費で落としてもらうことが出来て有り難いけど…有り難いんだけど…。


踵を鳴らしてキンタローが去っていくと、物陰に隠れていたグンマが走り寄ってきた。


 「分かってないね、キンちゃんは」


 「なにが」


 「だって、お父様とシンちゃんが揃って大人しく大工仕事なんて出来るはずないよ。穴が大きくなるだけじゃない」


 「…なんっか、自分でもそうだと思ってたけどお前に言われると気が遠くなるほど腹が立つ」


 「甘いもの取った方がいいよ」


しれっと言って、逃げ出した。ああくそ、一瞬反応が送れた所為で殴ることが出来なかった。さすがはマジックの息子、バカだけど侮れない。


朝から飲まず食わずで付き合わされたくだらなすぎる一件と、誰も慰めてくれない状況になんだかものすごく悲しくなってきた。


 「もしかしなくても俺、本当はすっごく可哀想な子なんじゃないか?」


口に出したら本気で寂しくなってきた。


もういい。今日は執務室に籠もっていじけてやる。貯金下ろして肉食ってやる。


 


 「あ、なんか目の前が霞んできた」


 


俺も、声を上げて泣いてやろうか。


 


 


 


 


 END



cxz

 

 


 2006シンタロー誕生日記念 その後


 


10.プレゼント  53*28 …?


 


 


 


 


結局、物質的なプレゼントをあげていないから、二人でどこか食事にでも行こう。


 


行かない、と即答するのはシンタローにとって条件反射そのものであり、別に行くこと自体に不都合はない。二人で、というところには確かに引っかかるものの、マジックのエスコートは完璧だし彼の好みにかかわらず連れて行かれる店はどこも素晴らしかったからそれなりに楽しめるのも分かっている。


けれどシンタローというキャラクターを考えるとき、対マジック様式を守るなら断るのが当然だしそれがスタンダードなのだ。ベストなのだ。


三つ子の魂百までという言葉通り、今更その性格を改めることも可愛らしく頷くこともできない。


勿論これは誘うマジックにも言えることだ。


シンタローを口説くのは今日の天気を尋ねるのと同じようなもので、断られたといって嘆くような話ではない。“次こそシンちゃんに可愛らしく、『うわぁ~い、ありがとう。シンタローはほんっとうに嬉しいよ、パパ大好きっ』と言わせればいいだけのこと”だそうだ。


 


けれど今回は少し違う。


年に一度の誕生日に、散々な目に遭わされた恨みは簡単に消えるものではないし、今回のことで得をしたものがいるとしたら間違いなくマジックだけだろう。なにせシンタローは誕生日の翌日から三日ほど、肌つやは良かったが機嫌はかなり悪かった。動作に鈍い印象を感じたのも気のせいではないだろう。


だから今朝、おはようのキスをしにいった彼の部屋で、寝ぼけ眼のまま欠伸をするシンタローに“もしよろしければ”と付け加えながらお誘いをしてみると、少し迷う目をしたものの意外なことに素直に頷いた。高いワインを飲んでやると、可愛くないことを言いはしたがまさか受けてもらえると思ってもみなかったマジックは軽く目を見開きつつも動揺は押し隠し礼を言っておいた。


寝起きは、シンタロー攻略に有効な時間帯であるのは分かっている。けれどこうもあっさり承知されると怖い気がするのも確かだ。


まあ怖いと言っても彼にとっては、爪を切り忘れた子猫が興奮して遊んでいるところを取り押さえる程度のことではあるのだが。


 


経緯はどうでも久しぶりに取り付けたデートの約束に浮かれてしまう。


なにを着て行こうかなと、年甲斐もなくウキウキしながら姿見の前に立つ自分にさすがに呆れつつも、それでもマジックは幸せ色の時間にどっぷり全身で漬かり込んでいた。


プレゼントは、わ・た・し。


は使ってしまったので、今度こそなにか贈りたい。気に入ったワインがあれば何本でも買ってあげよう。そう思いつつ支度を急ぐ。


待ち合わせの時間までは、まだまだ半日以上、あったのに。


 


 


シンタローの執務が終わるのは、定時であれば午後五時半だ。


戦線に異常がなければ事務処理のみの仕事を片付ければいいので上がれることが多い。けれど彼は根が真面目であり、大胆な発想をする割りに細かいところも気にする性質なので大抵六時半くらいにはなってしまう。


そして、戦地へ赴くことになれば前後は昼夜を問わずの調整が始まり、数日帰宅できないこともざらだった。マジックは、自分と彼の違いを知っていたので口にはしないけれど、シンタローのやり方には苦笑せざるを得ない部分もある。


組織のトップに立つものは、その傘下にあるものすべてを見なければならない。だから人任せでも良い仕事は、任せられる人物を見極め割り振ってしまう。達成されるのが当然であり、失敗すれば罪に問えばいいし、元を正せば見る目のない自分の責任になるだけだ。


子供の頃は、こんな考え方はしていなかった。人は人であり物ではなかった。支配したり、簡単に殺してもいいなどという思いは感じたことすらなかった。


遠い昔の話だ。


遠い遠い、静かで、穏やかで、温かだった頃の記憶。忘れないけれど思い出さない。薄靄のヴェールの向こうにある時間。確かにあった、優しい日々。


感慨に浸りつつ歩く本部の通路。総帥室に続くその廊下は擦れ違う者も殆どない。


ここは将校クラス以上の立入りしか認められていない区画であり、マジック自身いまはもう殆ど歩くことのない場所だった。ここに来ることを躊躇う訳ではないが、“この場”というものにあまりに馴染んだマジックを見るシンタローの目が切なくて出来る限りは避けている。まあ、寂しくて駆けつけてきてしまう時は別だけれど。


総帥室の前には秘書課があり、受付には交代で常時二人の秘書官が付いている。マジックの在位中から勤めている若い二人の秘書はそのままそこに席を置いていたが、今ではすっかり彼の子守係りの様相を呈しシンタローからは苦情が出ている。


優秀な人材なら、マジックは手放さない。


受付には覚えの薄い青年秘書がいたが、彼はマジックを見ると電撃でも受けたかのように跳ね起きると慌てて背後の扉を開け中に向かって叫ぶ。団内での影響力は未だに絶大であり、それが足を遠ざける原因にもなっているが顔には出さない。


現在の総帥はシンタローであり、団員はすべて彼に従えばいい。自分に敬意を表するのは当然のことであっても、忠誠は彼の息子にのみ誓えばいいのだ。


軽く溜め息を吐いたところで、マジックが重用する秘書が姿を現した。


 「やあ、ティラミス。ご機嫌はいかがかな」


 「悪くはありませんね。マジック様ほどではありませんが」


 「おや。そんなに私は機嫌が良さそうに見えるかね?」


 「背中に羽が付いてますよ」


 「黒くないといいんだけれど。シンタローはいるかな」


 「今日は終日いらっしゃいます」


優雅な仕草で総帥室の扉の前へマジックを招く。指紋、声門、瞳で個人認識をするセンサーの前に立つと、まるでコンビニエンスストアの自動ドアのような気安さで扉が開く。この部屋に到達するには三つのセキュリティーチェックを受けなければならなず、挙句のこの審査は“開かれたガンマ団”を目指すシンタローにとっては鬱陶しいことこの上ないらしい。けれどそれだけ危険に曝された身であることは否めないので、いまのところ仕組みが見直されることなく継続している。


通常は秘書のエスコートがあっても事前登録の個人認証を通らないと入室できないシステムだが、マジックの場合はどこも顔パスだし、彼の蒼い目は電子機器すら震え上がらせているようだ。軽い空気抵抗の音を聞きながら、大柄な自分たちが楽に通過できる扉を潜り抜けた。


 「総帥、マジック様がお越しです」


入室はせず、戸口で声を掛けたティラミスは一礼して去っていった。扉はすぐに閉じてしまい、そこにはマジックと、奥の重厚なつくりのデスクに付くシンタローの二人のみとなった。


 「ご機嫌はいかがかな?私のかわいいシンタロー」


 「三秒前までは少し悪かった程度だけど、いまは最低最悪の気分だ」


 「それはいけないね。では早く支度をしてパパとお出かけしよう」


 「相変わらず人の話を利かないやつだな」


 「なぜ?今日はちゃんと約束をしてあるよ。パパの我が儘じゃないよ」


 「ふん」


悪態をつくのもいつものことで、それが挨拶代わりにもなっている。事実シンタローは大して気分を害した様子もなく、机の上も既に片付きかけていた。


近寄って、腕を伸ばす。


黒い瞳がその行動をじっと見詰めていて、触れようとする指を避けるため油断なく間合いを計っているのが分かる。飼い猫が主人に対し、それでも警戒しているのに似ている。


逃げ出すかと思ったが、そうはせずに顔だけを動かす。そのため髪に触れたかった指先がすべり頬を掠る。びくり、と竦められた肩が妙に艶かしかった。


 「触るなよ」


 「ごめんね。…ねえ、着替えないの?」


真っ赤な総帥服は団員にとって最高位の礼服でもあるけれど、市街に出るにはこれほど相応しくないものはないだろう。自分も着用しておいてなんだが、これはデザイン的によろしくない。とにかく目立つし、胸元が開きすぎている。


言えばムキになって“このまま行く”と言い出すだろうから、ドレスコードを理由に着替えを促すとこれもまた素直に頷き執務室の隣に設えられた着替えや仮眠を取るための部屋へと入っていく。


なんだかおかしい。


今朝も感じたことだが、シンタローの様子が普段とは違い自分に対して随分風当たりが弱い気がする。具合が悪いのかと思ったが、特に顔色に変化はなく病と感じられるような気配もない。それにもしそんな素振りを見せれば秘書が気付くだろうし、自分に報告しないはずがない。心当たりといえば先日の誕生日の晩から翌朝まで彼にした仕打ちくらいのものだが、それだって今日まで引き摺るほどではないはずだ。


不安になって、ドアに向かう。ノックをしたときは既にその扉を押し開けていた。


 「こら、着替えてるんだから入ってくんな」


 「シンちゃん、なにかあった?」


 「あ?なんもねぇよ。なんだよ、なにかって」


黒に近いほどのグレー地に細いストライプの織り込まれたスーツジャケットをベッドの上に広げ、シンタロー自身は白いシャツのボタンを留めているところだった。問い掛けに、本当に心当たりがないのだろう、不思議そうにマジックを見ている。


 「なんだか今日のシンちゃん、随分おとなしいからさ。心配になって」


 「アンタが無駄にガチャガチャしてるだけで、俺はいつも落ち着き払ってるんだよ。普通に大人だから」


素っ気無く言って、けれど口元が微笑んでいる。


やっぱりおかしい。彼が自分を甘やかすには理由がない。


それに理由付けを求めてしまうあたりマジックも気の毒だと言えるが、シンタローの中のマジックという存在はライバルでありコンプレックスの塊であるから、素直に接するということなど出来るはずもないのだ。


彼自身意識はしていないだろうけれど、意地を張る息子をもどかしく、また哀れだとも思っているマジックにとってこれほど自然に振舞われると違和感しか感じず据わりの悪い思いがして仕方ない。


 「あ、あのね、パパ、今夜はシンちゃんを最終的にお持ち帰りする予定なんだけど」


 「持ち帰るもなにも、同じ家に帰るのにどこに連れてくつもりだよ」


 「え、ああ、えっとそれはさ、それはあのほら、ホテルとか」


 「とか?とか、どこだ」


言いながら着替えを進めていくシンタローの指がベッドの上のネクタイを摘み上げる。


 「ホテルとか…ホテルとか。……ホテルとか」


 「それしか頭にねぇのか。つーかそれダメ。お断り。俺は明日も明後日も仕事なんだよ。来週は視察入りそうで、そうなるとまた詰め込まなきゃなんねぇからな」


 「どこに行くの?パパも一緒に連れて行ってよ」


 「アホか。アンタなんか連れて行ったら余計こじれるっつの」


器用にネクタイを締めて、ジャケットを手にする。


 「おら、着替えたから行くぞ」


 「ねえシンちゃん」


 「なに」


 「パパのこと、好き?」


 「は?」


 「好き?パパのこと」


 「…なんだそりゃ」


 「好き?ねえ、好き?」


詰め寄って、肩を掴んで目の奥を覗き込んで。


漠然とした不安が、けれど嫌というほど鮮明に心の内を占拠する。ことシンタローに関することには弱すぎて、自分でも制御が利かない。


嘗ては世界を震撼させた彼が。


死と恐怖の象徴であった自分が。


生きることを超越して、遂には人ではくなってしまったあの頃のマジックからは想像も付かない弱さを、まだうまく受け止め切れていないというのに。


すべてがシンタローを中心に回っている。


時間も、空間も、大切な家族もなにもかも。マジックの世界はそのままシンタローのいる場所であり、彼がいるからすべてが生まれるのだ。生きる気持ち、生きる術、生きる場所。守りたいと思う心。人間としての。


 「…嫌いって言ったら、どうする?」


 「え、――――」


 「俺が、本当に嫌いだって言ったら、どうすんの?」


漆黒の瞳は澄んでいる。


彼の中で最も愛すべき、すべての真実を映すその目。マジックを見詰める目。


 「嫌いだって言ったら捨てる?それとも自分が消えるか?」


 「そんな、」


 「言われたくない?それとも、言って欲しいのか」


 「シンちゃ、」


 「言わせたい言葉があるなら正面から来いよ。ミスリード狙って回りくどいことしたって、アンタ、俺に関することは全部ダメじゃん。血の繋がりがないって分かって以来、なにもかもダメだろ。俺のこと好きだ好きだって言っておきながら顔色伺うだろ」


怒っている訳ではない。


責めているのでもない。


幾分下にある彼の目は真っ直ぐ自分を見詰めて離さない。逃げられない。


 「俺のこと、自分のものだとか言うくせにそうやってすぐ揺れるのな。この前色々意地悪言われたからお返ししてみたけど…やっぱダメじゃん」


 「お返し?」


 「そ。お返し」


にやり、と。


それまでが嘘のような意地の悪い目つき。子供の頃から何度も見ている、悪戯が成功したときの生意気な表情。征服したくなる反抗的な気配。


シンタローのもつ、彼という人間を構成する要素。惹かれてやまない真っ直ぐな精神。きっと自分にだけ向けられる、馬鹿らしいほど単純で限りなく一途な思い。


丸ごと信じてしまっていい、ただひとりの、奇跡。


 「好き勝手言ってやがったからなぁ。ちょっと引っ掛けてやったんだ」


 「なにそれ」


 「俺がアンタのことす、えーそのなんだ、好きだとかなんとか決め付けてただろ」


 「だって好きでしょ?」


 「じゃなんだよいまの。アンタいまなんて言ってた?俺になんて聞いてきた」


 


パパのこと、好き?


 


 「…あ、…」


 「絶対切れないものが実は初めからなくて、それが分かったら全部の自信がなくなるのは当然だ。でも、だったらどっちかにしろよ。開き直って貫くか、確信できるまで探るか、いい加減どっちかにしてくれ」


何のことを言われているのかは分かる。


自分のことを好きだろうと確信したように言って抵抗を封じるのに、いざ好意を向けられると不安になる。血の繋がりがあると信じたうちはよかった。それだけは決して切れない絆が黙っていても存在したのだ。だから彼を殺すという言葉すら口にすることが出来た。絶対にありえないことだし、それが当然であったから揺らぐことすらなかった。


けれどいま、シンタローと自分を結ぶものは不確かで不鮮明な靄を常にはらんでいる。そんなことはないと打ち消しながらそれでも嫌われるのがいやで、失うのが怖くて疑いすら感じる。無意識に怯えだからこそ傍若無人にも振舞ってしまう。


彼は自分のものだ。


好かれずとも手放さない。なくさない。縛り付けて泣かせても、それでも腕から逃さない。彼だってそれを望んでいるのだ、好きだから。


好きだから、愛されているから、だから。


 


 「アンタさ、俺以外に惚れたやつっていねぇの?」


 「さあ、思い当たることはないね」


 「言い方変えようか。信じたやつに裏切られたこと、あるだろ」


 「…どうかな」


 「血族以外は信じられないだろ?だから俺も、本当のところは、」


 「シンタロー!…それ以上言ったら、本気で怒るよ」


真実であろうが、義理であろうが。


そんなことを二人の間に挟むつもりは毛頭ない。それだけは信じて欲しい。それだけは言わないで欲しい。疑わないで欲しい。体の、意識の中心にある魂より大切なものを奪われれば生きてはいけない。


シンタローを失っては、既にこの、一度人ではなくなった我が身は生きていくことなど出来ないのだ。


 「あー、…まあ、それは俺も今更だしな。こっちも言われたらヤだから、言わない」


 「私はお前が好きだよ。愛しているよ」


 「あっそ」


 「シンタローにも好かれていると思ってる。それを疑ったことはないよ。ただ、自信がなくなるときがある。お前に優しくされるとうろたえる。愛されると怖くなる」


好かれるということは、嫌うという感情の真裏にありいつでもその比率を変えるという可能性を秘めている。好きで、なにもかも捧げたい相手に不要と判断されるのは耐え難い苦痛であり、考えることすら恐ろしい。


いつだって好きだと言い募るのは自分の心を守りたいからだし、追いかけているのはその方が楽だからだ。好かれるという甘さが含む毒を恐れるあまり、過剰に与え縛り付ける側に回ることを選んでしまった。


だからこれは、この痛みは自分自身の責任であり、シンタローまで巻き込むことは本来許されるものではないのだ。分かっている。


すっかり落ち込んで立ち尽くしているマジックに溜め息を吐いて、それからシンタローは薄く笑った。


自分がこの男を支配している。そう考えるのは危険だが半分くらいは合っている。


いつもいつも悩まされ、振り回されているからたまにはいい薬だろう。生まれついての覇王は常に自己中心的で、喜びも、悲しみさえも無意識に自分を中心に据え引き摺り込もうとしているのだから始末が悪い。


だから時々、こうしてやり返してやるのだ。


先日の“誕生日のプレゼント”の分も籠めて。


 


 「ほら行くぞ。予約してあるんだろ」


 「…シンちゃんの意地悪」


 「意地悪なんかしてねぇよ」


 「してるよ。パパ、すごく傷ついたよ」


 「へー」


 「へーじゃないよ。シンちゃんのおバカ」


 「バカだぁ?それがかわいい息子に向かって言う台詞か?せっかく“お返し”してやったのに」


 「こんなに愛してるのに報復するなんて!」


 「だーから、お返しだって言ったろ!」


 「何度も言わなくていいよ!」


 「何度だって言ってやる!お返しだお返しだお返しだ!」


 「ひどい!」


 「ひどくない!」


 


ふん、とふんぞり返り、唇には盛大に嘲笑を。


 


 「プレゼントをもらったら、ちゃんと“お返し”をするのが礼儀だろ?」


 


 


呆気にとられ、口を開けたままのマジックを残し部屋を出る。


さて、お返しのお返しにはなにを要求してやろうか。相当ダメージを与えてやったから暫くは言いなりになるだろう。


負けてばかりいるわけにはいかない。これは恋なんだから。


一方的に思われてる訳じゃない。乞われて傍にいるわけじゃない。


 


 「お返しって言うか…ま、仕返しだけどな」


不本意ながらベッドでは負けるから、ちょっと頭を使ってみたけれど存外うまくいった。どうせすぐに足元を掬われるだろうから油断は出来ないけれどそれでも。


 


恋に関する勝ち負けは、せめて五分にしておきたい。


他はすべて負けでいいから。


なにもかも彼に預けているから。


 


 


背後を小走りにやってくる足音を聞きながら、来年以降は総帥命令で誕生会は全面廃止、と、小さく口の中で呟いた。


 


 


 


END


xz

 

 


9.和室   53*28


 


 


 


 


 


日本では“中秋の名月”と呼ばれる、それは見事な月が見られる夜がある。


秋の、濃紺の空に浮かぶ金色のお月様。


黄色いそれはまるでホットケーキのようだと言ったら、父は小さな声で笑い『ではバターを乗せてあげよう』と返してきた。


 


丸い月。


まるいまるい、月。


うさぎが棲んでいるとも聞いた、その星にいつか行ってみたいと思っていたけれど十を越える頃にはそれがお伽話でしかないことを知ってしまい、夢は夢ですらなくなった。


そうしてなくしたものは幾つもあって、それを惜しむ心はあるが思い返すこと自体薄れていく。大人になるというのはそういうことだし、それを拒めば成長もまたないということになる。


 


大人になりたいと思っているうちは本当に幸せで、悩みのない子供の頃に戻りたいと思う頃には手遅れだ。


 


なにが辛いとか、悲しいとか。


重いとか痛いとかやるせないとか。


そんなことばかりが増えて本当のことが見えなくなる。分からなくなる。


ひとりでいると、気付けなくなる。


だから。


 


だから、傍にいる。


一緒にいる。


見えるように、気付くように、分け合えるように。


 


愛せるように。


 


 


愛せるように。


 


 


 


 


月が見たいとマジックが言いだし、そんなヒマはないと言い返す。


愚図って駄々を捏ね、“行こう行こう”と喚いたならいまここにはいなかった。


日本支部の敷地内にある庭園。


枯山水のその庭に、ひっそりとある家屋は純和風。昼であれば日を浴びた瓦屋根が黒く光り、真夏には白い雲が映り込むほどに輝きを放つ。


到着したのは今日の夕方のこと。


どのみち夏も過ぎ、既に秋の気配漂ういまでは日中であってもその光景を見ることも叶わないけれど、それでもここに来ると落ち着くのは決して気のせいなどではない。


様々な思いが交錯する。


ここは、そういう場所だった。


 


誘われても、簡単に頷けるはずがない。


冷たく切り捨てると俯いて、『そう。そうだね』と言った彼の横顔が本当に寂しそうだったから。


罪悪感なんて、そんな大袈裟なものではないけれど。


 


 「なに、シンちゃん。顔が怖くなってるよ」


 「怖くもなるわ」


 「なんで?」


心の底から“分かりません”という顔で見下ろすマジックの顎に手をかけ、ぐいと押しのける。


いい加減回りきった日本酒で、思考も指先も痺れているし拒む力も出し切れない。


嫌いじゃない。


嫌いなはずがない。


この世にただひとり、彼のために生まれた自分を否定することは出来ないし無意味だ。赤とか青とか、そんなことではなく。


生まれた意味と意義と生きていくなにもかもが彼のために用意されたもので、はじめは作られたものだという事実に打ちのめされもしたけれど。


違う。


いまは違う。


確たる根拠はなくとも本能が知っている。


彼も。


自分も。


迷うことも疑うこともないほどの強さで。


思いで。


 


これはもう恋だ。


手遅れの。


 


 


 「俺もあんたも、処置なしだよなぁ」


 「そうだね」


笑いながら寄せられる顔。押し返してやったのに、懲りることなく迫ってくる。唇が頬に触れ、額に触れ瞼に触れ。


彼の膝を割り、胸に背中を預けている。


凭れかかる体は記憶より細くはなっているけれど、それでも貧弱さの欠片もない男のもので。自分と変わらぬ見劣りのない逞しいもので。


なのに落ち着いてしまうのは。


求めてしまうのは彼だから。


マジックだから。


愛するものだから。


笑って、手に持った猪口を差し出すと後ろからお銚子が傾けられる。濃く、甘い日本酒の香りが独特の音とともに広がりシンタローの耳と心を満たした。


さほど酔っている訳ではないが、相手には酔っぱらいだと思わせておいた方がなにかと都合がいい。普通なら酔わせた上でよからぬことを企むのだろうが、マジックに関して言えばまったくの逆だ。


言いなりになられてはつまらないというのが表向きの理由だが、実際は意識の乏しい状態のシンタローを支配するのは紳士的ではないし、なにより愛情が感じられない…という本音があるらしい。


らしい、と言うのははっきり彼の口から聞いた訳ではないからで、以前、中途半端に酔った状態のシンタローに囁きかけた言葉から推察したことなのだ。


彼であればなんでもいいと思っているシンタローにとってみれば、意識があろうがなかろうが、翌朝に暫し文句を並べ立てればそれで気が済んでしまうことなのにそうはしない。


二人で過ごす時間はすべて記憶しておきたい。


それが執着なのか執念なのか、言葉を選べば良くも悪くも解釈出来る。


子供なのか大人なのか、言えることはどちらにしても彼は狡いということなのかも知れないが、その狡さを含んだなにもかもを愛しているから構わない。


構わないのに、そうしない。


マジックの、生真面目というべきかたんに融通が利かない性質を、気付かぬ振りで盗み見ながら溜息を吐く。


とっくに捕まえているのに、手に入らないと嘆く彼に盛大な、特大のそれを、またひとつ。


 


 「あ」


 「…なに」


 「忘れ物」


マジックが喋ると、その振動が背中に伝わりじんわり温かさを感じる。


まだまだ人恋しいというには早いけれど、それでもこんな夜は密やかに身を寄せ合うのが似合う。


口元にも、微かな笑み。


 「あーあ、持って来なきゃと思ってたのに」


 「なにを忘れたって?」


 「バター」


 「あ?なんに使うんだ」


日本料理に使うにはかなりくせのある食材だ。ムニエルやホイル焼きならともかく、いま饗されている膳の上には不似合いなそれを忘れたからと言って悔しがるのもおかしなもの。


マジックは、くすくすと笑ってまた猪口に酒を注ぐ。


寄り掛かったシンタローの手元は不如意で満たすには至らぬはずのそれなのに、面白がるように注ぐから当然零れて手首を伝う。


ああ、そうか。


舌を伸ばし舐め取ると、その軌跡をマジックもまた赤いそれで辿っていく。


いやらしい。


小さな声で言うと、ふふ、と息ばかりの笑いが返る。


こめかみに唇が押し当てられる。


 「バター」


 「うん?」


 「なんに使うんだよ」


 「…シンちゃんのエッチ」


 「あア?」


バター。


 「………ばーか」


 「やーい、シンちゃんのエッチぃ」


 「持ってこようとしたのも、忘れたのもあんただろ」


 「えへへー」


 「誤魔化すな。なんに使うんだ?」


 「ホットケーキだよ」


 「は?」


 「ホットケーキ」


言って、指先が伸ばされる。


濃紺の空の黄色い月。


丸い月。


さやさやと吹く風に土の匂い。


 「…しょうがねえな」


 「しょうがないねぇ」


 「こら、自分が言われてるんだろ」


 「そうなの?」


こめかみから、額に移る。


 「しょうがねぇから、明日、買い物に行くか」


 「行こうか」


額から耳朶。


 「うし。じゃ、バターと小麦粉と卵と…」


 「お砂糖と、メイプルシロップもいるね」


耳朶から、頬。


 「牛乳もいるよな」


 「いるね」


頬から。


 


 


 


 


月。


空の月。


視界から消えたそれが再び現れたときそれは子供の頃に見たものとは違っていたけれど、どきどきと高鳴る胸の鼓動はいまも昔も変わらぬ響きを持っている。


月と。


マジックの金色の髪と。


静かな、夜と。


 


 


頬から滑る唇が、唇に触れるまでの永遠の一秒。


 


 


 


 


虫の音の幽かな。


 


かすかな、恋の。


 


 


 


 


 


END



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