私が知らない『昨日』と、あなたも知らない『明日』
時は師走の初め。
どうにも仕事が立て込んでいるので、正月中も働くというガンマ団新総帥の宣言に、前総帥は猛反対した。
というか駄々をこねた。
「お正月返上で仕事、だなんてそんな寂しいこと、パパの目が黒いうちは絶対に許しません!」
「あんたの目は青だろーが。そもそも、とっくの昔に成人した俺の行動にいちゃもんつける権限は親父にもねぇ! だいたい、後継者として日々励んでいる息子を激励するならともかく邪魔するって、前任者としても親としてもどうなんだ。」
とことん正論だった。
しかし、ときとしてまっとうな正論は強い欲の前に無視されがちな傾向にある。
「いつだって、パパはシンちゃんを応援してるよ。本当なら365日本部というかパパの隣にいてほしいのに、我慢してるじゃないか! そんな健気なパパのささやかなお願いを無視して仕事だなんて……ひどいっ、パパはそんな薄情な子に育てた覚えはないよ。」
わあっと泣き真似をする五十歳になったばかりの男を、シンタローは冷たい目で見た。
「……参考までに聞くが、どんな『子』に育てたつもりだったんだ?」
「えー、そりゃ『パパ大好き』って毎日言ってくれて、おはようおやすみそのほかもろもろのキスも忘れなくて、パパにべったりなパパっこに英才教育したのに!!」
「…………失敗したことを天に感謝しろ。」
息子のひきつり笑顔もてんで意に介す様子もなく、マジックはさらにシンタローの神経を逆なですることを言った。
「だいたい、パパも忙しかったけどさ、それでも大事な行事はなるべくシンちゃんと一緒に過ごせるように、仕事調整したのに、シンちゃんがなぜできないんだい?」
シンタローは内心ぶちっと切れる。
(俺が仕事できないってのか!? 第一、なるべくいたって言ったって、八歳の誕生日のときも途中で抜けたし、十二歳のクリスマスのときはイブにいなかったし、十四歳のときは逆に当日いなかったし! ほかにも細かいのがいろいろあったし! 毎回ちゃんと全部いたわけじゃないだろーがっ!)
結構執念深く覚えているシンタローだった。
けれど、それを口にすることはできない。
そんなことを言おうものなら『じゃあ、今からその分を取り戻そうよ』などと言うに決まってるからだ。
記念日やら思い出など、当日でなければ意味がないのに、これでは単に拘束の口実を与えてしまうだけだ。
「キンちゃんも、お正月くらいのんびりしたいよね??」
無言の息子に業を煮やしたのか、側にいた彼の補佐官に水を向ける。
家に持ち込んだ書類のチェックをしていたキンタローは、呼ばれて一応顔を上げた。
しかし、仕事大事の部分まで精神双子の彼の返事はマジックの期待を大きく裏切った。
「仕事が終わってからのんびりした方が、精神的に効率的だと思います。」
「ほーらな。親父もいい加減騒ぐのやめろ。ヒマになったら、構ってやらないこともないかもしれないと思うのもやぶさかではない。」
「……ものすごく、実現性の弱い約束より、お正月を一緒に過ごすために力づくで引き留める道をパパは選ぶね。」
マジックの目が怪しく光る。
しかし、シンタローは余裕綽々とばかり、従兄弟の首に手をかけ引き寄せた。
「ふん、俺たち二人とやりあって勝てるならな。」
「……別に俺は伯父と争う気はないが?」
「おまえ、仕事これ以上遅らせたくないだろ? 第一俺の補佐官だろ? なら、俺の敵はおまえの敵だ。」
「そうなのか。」
納得しかける甥に、マジックはにこやかに呼びかけた。
「キンちゃん、キンちゃんはお正月、初めてだったよね。」
「? はい。」
「おい……。」
きょとんとした顔で素直に頷くキンタローに、マジックは頷く。
「だよねぇ。お正月を一回経験したら何がなんでもゆっくり楽しみたいと思うよ。おせち料理やお雑煮がでるし、『はねつき』とか『カルタ』とか対戦試合もあるし、工作が大好きなキンちゃんならきっと、この中央の塔まで届く凧を揚げることができるよ。それにね、お正月にはシンちゃんが着物を着てくれるし。」
ひとつひとつ並べられていくにつれ、不遇な幼少時代を過ごしたキンタローがだんだん身を乗り出していった。
シンタローは慌てて、キンタローの肩をゆさぶる。
「しっかりしろ! キンタロー! 家族でカルタ大会やってもつまんねぇぞ! それに雑煮くらい作ってやるから!」
「着物は?」
「え……荷物になるし、外に持ってくのはちょっと……。」
「伯父上、俺も正月したいです。」
「待てえええい!!」
(そういや、最近あちこちの民俗学の本を読みあさってたっけコイツ…。)
あっさり寝返った補佐官にシンタローはくらりときたが、なんとか気を取り直し、憤然と二人に背を向けた。
「わかった、勝手に凧揚げでも百人一首でもやってろ! 俺は仕事する!」
「お年玉出すよ。」
「は?」
今にも外へ出ようとしていたシンタローの足がぴたりと止まる。
「だから、一緒にお正月するならお年玉あげるよ。」
……こうして、ガンマ団は正月休みを取ることになったのである。
しかし、だ。
やるとなれば徹底的にやるのが、パプワ島元主夫シンタローなのである。
三十一日の朝、惰眠を貪っていた父親の部屋に乗り込んできて、「起きろーー!」という叫びとともにシーツをひっぺがした。
ベッドから放り出された形のマジックは、サイドテーブルの上にかけてあったナイトガウンを身体に羽織りながら抗議の声を上げる。
「ひどいよ、シンちゃん。夜這いするんならもっとやさしくしてくれなきゃ。」
シンタローはエプロンした腰に両手を当て、父親を睥睨した。
「もう、朝だ……ほらよ。これ。」
渡されたものを目にしてマジックは怪訝そうな顔になる。
「これって……『バケツ』と『ぞうきん』?」
「はい、ご名答~。だから、これ。」
「いや、なんで?」
するとシンタローは、だんっ! と、床を鳴らした。
「正月らしいことしたいんだろ? だったら、『年末の大掃除』も手伝え!」
シンタローの予想外の命令に、マジックは当然抗議の声をあげた。
「ええええええ~!! 掃除なんて、毎日、使用人達がやってるじゃないか。今更どこを掃除しろと言うんだい?」
しかし、シンタローは引き下がるつもりはなかった。
仕事を休みにした以上、前々からやろうと思っていたことをやっつけてしまうつもりなのだ。
それにはまず一日中まとわりつくであろう父親を、部屋に釘づけにしておく必要がある。
「ガラクタの要不要は本人しかわからないから、みんなノータッチだろ。だから、今日を機会にガラクタ全部片づけちまえ。」
「ガラクタ?」
マジックの問い返しに、シンタローは片手をびしっと伸ばしぐるっと周りを指した。
「そ、こういう余計な『コレクション』は捨てろ!! なんなら俺が代わりにやってやる!」
シンタローが指し示したものは、いわずとしれた絵やら人形やらの『シンタローグッズ』。
マジックは蒼白になり、立ち上がって息子にすがりつこうとした……直前にさっと避けられてその場に倒れこむ。
しかし、必死で起きあがりコレクションを背で庇うように手を広げた。
「いくらシンちゃんでもこれだけは許さないよ! これはパパの命と家族の次に大事な宝物なんだからね! いわばシンちゃんとパパの愛のメモリーそのもの。どうしても壊すならパパを押し倒してからにしてくれ!」
「誰が押し倒すか!!!!!!」
シンタローはくわっと口を開いたが、父親の決意が固いのを感じたのか、ふう、とため息を吐いた。
「わかったよ、じゃあ、ここの掃除は親父がちゃんとしろよ。……キンタロー。」
肩越しに振り返って従兄弟を呼ぶと、はたき、洗剤、雑巾など、お掃除グッズを手にしたキンタローが部屋に入ってきた。
「じゃ、頼むぞ。」
「わかった。俺に任せろ。」
シンタローが部屋を出ていきながら、念を押すとキンタローは頷いた。
そして、はたきを手にしてあちこちの埃を払い始めたので、初めは怪訝そうな顔をしていたマジックも合点がいった。
「あ、キンタローに手伝ってもらうよう、頼んでくれたんだね。さすがシンちゃん、パパ想いなんだから。」
「………任務を全うすると、三が日俺が着物を選んでいいということになったんです。」
キンタローの答えにマジックは目を丸くした。
「ええっ。ちゃっかりしてるなぁ、キンちゃんは。ま、いっか。私のアルバムにまた多くの記録が残るわけだし。」
るんるん、と文字通り歌い出しそうな勢いで、マジックがシンタローの肖像画のガラスを拭く姿に、キンタローはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
実は、先ほどのキンタローの答えは微妙にずれている。
意図的にずらしたのだ。
なぜなら、本当のキンタローの任務は『掃除の助手』ではなく、『監視』だったのである。
マジックが、ことが終わるまで寝室から出ないように見張ること、これが正月休み中着せ替え人形になることと引き替えに総帥が補佐官に与えた重要任務だった。
「うわ~~~~~~想像はしてたけど、『想い出の品』もこれだけ保存たら、壮観だねぇ。」
おせち料理に激甘二色卵十巻追加することを条件に、手伝いにかり出されたグンマはその部屋の光景に呆れとも感嘆ともつかない感想をもらした。
彼を連れてきたシンタロー自身はといえば、グンマの感想を無視し、がさがさとゴミ袋を広げ始めた。
ここは、先日、シンタローが見つけた父の書斎の隠し部屋の中だ。
かなり広く作られたそこは四方に棚が作られ、過去の機密書類らしきものが隠されていたが、問題はプライベートなものの割合が異常に高く、その内容もちょっぴり異常だった。
「うわっ、シンちゃんが小さい時履いてた靴じゃん……全部とってあるんだ。この分じゃ、服はもちろん、水着やら下着とかも絶対おいてそう。」
手前の小さい棚の引き出しにその言葉通りのものを見つけてしまったグンマは、口を噤んだ。
(見なかったことにしよう。)
即座にそう決断したグンマは、ぱたん、と引き出しを締めた。
シンタローをこっそり振り返ったが、彼はこちらに背を向けていたので恐怖のコレクションには気が付かなかった。
(正月前に身内を病院送りというのは、さすがに縁起が悪いもんねー。あとで、釘打って封印しとこう。それともいっそ部屋毎破壊するよう、シンちゃんをたきつけた方が早いかな。でもそんなことしたらおとーさまが半狂乱になって秘石眼暴走させたりしたら、めんどうだしー。)
「だーーーっ! もうっ!!」
シンタローの叫びに、脳内でいろいろ画策していたグンマはびくっと飛び上がった。
振り向くと、書類の棚の整理をしていたシンタローがそこに無限に並ぶ自分の『成長記録』に苛立ちを爆発させているところだった。
ものがものだけに、シンタローもさっきからなんとか整頓しようと奮闘していたのだが、あまりの量の多さにうんざりしてしまった。
「本部にいるときヒマさえあればカメラとビデオ持ち歩いてたから、想像はしてたけどな。いくらなんでも、これは多すぎじゃねーか。」
「高松もそんなもんだから、普通じゃない?」
「言っておくが、高松も普通じゃないから。」
びしっと突っ込んでおいて、シンタローはばらばらとアルバムをめくる。
なんだかんだいっても、ちょっとは懐かしい気分もあるのだ。
が、次の瞬間『コワイ話を聞いておねしょしちゃいました』写真が目に飛び込んできたので、ばたんとアルバムを閉じる。
「なにー? なんかおもしろいのあった?」
グンマがのぞき込もうとするのを押し戻して、シンタローはそのアルバムをゴミ箱につっこんだ。
「あーーっ! だめだよ、シンちゃん! ほかのものはともかく、アルバムは捨てちゃだめ! 大事な昔の記録なんだから。」
そう言って、ゴミ箱からそれを拾い上げて、シンタローをめっと睨む。
「そんなもん、大事じゃねぇ! 返せ! さっさと捨てる!」
シンタローが伸ばした手からなんとか逃げたグンマが、目を細めた。
「あのねー、シンちゃんだってコタローちゃんの写真山ほど撮ってるでしょ? それはどうなの?」
「うっ……!」
痛いところをつかれて、シンタローが口ごもるのをグンマはここぞとばかりに攻めた。
「おとーさまにとって、これは他のなにより大事な宝物なんだよ。シンちゃんが生まれて一緒に過ごした記録っていうのは。これの一枚一枚に、あのときはああだった、こんなことがあったという想い出の地図があるんだと思う。だから、アルバムの中身はそのままにしておいたげようよ。」
「うん……。」
シンタローが不承不承頷くと、グンマはにっこり笑った。
「よしっ、じゃあ、ボク、あっちを見てくるね。」
そう言って大きな棚の影へ消えていくグンマを見送りながら、シンタローはおいていったアルバムを拾い上げた。
もう一度中をめくると、幼い頃の自分が大好きな叔父に抱き上げられはしゃいでいる写真が出てきた。
その隣はもう一人の叔父と泥団子のぶつけ合いをやっている。庭の芝生を泥だらけの水浸しにしてしまい、ちょうど帰宅した父に見つかってたいそう叱られたことを覚えている。そんな時でもぱちりと一枚撮るのを忘れないのは、怒りを通り越してお見事と言うしかない。
このころは、毎日が楽しかった、とシンタローは思った。
今日よりもっとよいことが明日起こると信じて疑わないくらい一日が満たされていた。
自分が誰にも似ていないという事実がたまに胸を指すことがあるけれど、まだその意味がよくわかっていなかったし、家族の誰かがそのことで自分を非難したりすることもなかった。
従兄弟と一日中遊んだり、たまに叔父が帰ってきたり、毎日がいつもきらきらと輝いていた。
何より、大好きな父親がいてくれたから。
ちらっと、右隣の棚を見る。隅の方にあるそのアルバムは、ほんの数年前の日付が書いてある。ちょうど、コタローと引き離された時代だ。
父親を憎んで許せなくて、それでも離れることもできなくて、もがき苦しんでいた自分はどんな顔で写真に写っているんだろう。
そう思うと、今手にしている写真に写っている自分の無知さが苦々しく思える。
この先、どんなことが待ち受けているか知らず、与えられた幸福が永遠だと信じているこの頃の自分が。
作業に戻ろうと、アルバムを閉じて棚に戻した時、その列の端に並んでいた別のアルバムが十冊ほど床に音を立てて落ちた。
どうやら、場所を詰められたことによってバランスが崩れてしまったらしい。
「あーあ。」
アルバムから落ちた写真を拾い集め、アルバムをめくってそれらしき場所に入れていく。落ちたのは数枚だが、結構な手間だ。
(それもこれも、こんなに写真をとりだめてるあのバカ親父が悪いんだ!)
半分言いがかりのような文句を頭の中で言いながら、しばらくの間、せっせと写真を戻していたシンタローの手が、ぴたっと止まった。
「……誰だ、これ……。」
写真に写っていたのは、まだ少年の父親と、その部下たちだった。
シンタローの視線が集中したのは、父親の左後方に控えている若い男だった。
年の頃は二十代そこそこ、ノンフレームの眼鏡をかけた線の細い蜂蜜色の髪の持ち主だ。
ガンマ団の制服を着ているし、別に取り立てて変な所はない。けれど、一目見て違和感を覚えた。
――――――その男は、父の近くに立ちながら、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「シンちゃん、どうしたの? 美味しくない?」
ぼんやりとフォークでチキンをつっついていたシンタローは、父親に声をかけられて慌てて顔を上げた。
朝の早い内から精を出したおかげで、なんとか作業の目処がたったので、全員で遅い昼食をとっている最中だった。
「そんなことねーよ。」
「でも、さっきから食が進んでいないみたいだが。」
二人の会話に並んで席に着いていたキンタローとグンマも、シンタローの方を見る。
三組の青い目に注目されて、シンタローは誤魔化そうとした。
「……仕事のこと考えてただけだ。」
マジックは腑に落ちないようだったが、グンマは「もう」とむくれた。
「シンちゃんは仕事のしすぎ! 目標があるのはいいことだけど、いそぎすぎると達成する前に身体を壊すよ。」
確かに今年はほとんど遠征に出ていて、休暇など数えるほどしかとっていない。けれど、きっと来年も自分は走り続けるんだろうな、とシンタローは思う。
この世界のどこかにいるはずの『トモダチ』に会ったときに、恥ずかしくない自分でいたいから、自分は立ち止まるわけにはいかない。
この世界にさんざん傷つけられた弟が、夢の世界から安心して戻ってこられるところを自分は作らなければいけないから、何があっても突き進まなければいけない。
けれど、口に出したのはそんな正直な想いより、家族を安心させてやる『嘘』だけだった。
「まあな、今年は思ったより成果が上がったから、来年は少しはゆっくりするさ。」
「そうなの? よかったぁー。キンちゃんは?」
「総帥がそう言うなら俺に依存はない。」
「副官ぽい言い方だねぇ~。」
グンマの軽口に、シンタローははっとした。
(あのメガネ! 『秘書』って雰囲気じゃないとは思ったけど、あの位置から考えるともっと対等に限りなく近い『副官』とかじゃねーのか。)
しかし、その思いつきをシンタローはあっさりと却下した。
自分の知る限り、父親が『副官』という者を側においたことはない。『補佐』なんてものこの父親に必要ないからだ。
なんでも自分の一存で決めて、またそれを押し通す力を持っている男。
それがシンタローの知る『マジック総帥』だ。
誰かの助言を乞うとか、サポートしてもらうとか、そんな発想が頭の中にあるとは思えない。
けれど、あの男がただの部下とはとても思えない。
なぜなら、父の隣に立つその男が笑顔だったからだ。
一族の中でもずば抜けた力を持ち、残酷、冷血と呼ばれた覇王の隣に、こんな気安く立つ人間なんて自分は知らない。
秘書の二人はおろか、実の弟であるサービスやハーレムですら、父の側にいるときはかすかに緊張していた。そう見せないよう振る舞っているが、シンタローには分かる。
叔父達とは違う意味ではあるが、自分だってそうだった時があるからだ。
幼い頃は父を怖いなどと、思ったことは一度も無かった。強くて優しくて、なにより、母親が不在の自分にとって父親はたった一人の家族だった。
それが変わり始めたのは、父の瞳に宿る冷たい輝きを知った頃、けれど、その時はとまどいこそあれ、恐怖など感じなかった。家族であり、慈しんでくれる相手を恐れる理由なっどなかったからだ。
だが、弟を監禁したとき―――――止める自分をも殴ったとき、自分は怒りとともに、はっきりと恐怖を感じていた。
父を誰より理解していると、いや、知らないことなんてないと思っていた。
なのに、目の前にいる男の考えていることがわからない。
家族という絆を自らの手で壊すこの人間は誰なんだ。
二十四年間、自分の父親であり、誰より近しい人間の、その『知らない』部分があるということが怖かった。
今はもう、そんなものは感じないけれど、自分でさえ一度は恐れた男の横で、にこにこと笑っているあの男の存在が信じられなかった。
「……ちゃん…シンちゃん、ねぇっ!」
「あ? なんだ?」
大声を出されてシンタローが顔をそちらに向けると、グンマはため息をついた。
「言ってる側からこれだ。ほんとーに、お正月はゆっくりするんだよ。電話も受けちゃだめだからね。」
「わかったわかった。なら、ゆっくりするため、掃除の続きしてくっか。」
そう言って席を立つと、食堂を出た。
しかし、掃除に戻ったものの、頭からどうにもあの写真のことが離れない。
(髪の色や雰囲気からして、一族の人間だろうな……。)
祖父の代の資料などを見ると、昔はもう少し一族の数も多かったらしい。それが、いつの間にか、かなりの数の人間が減っている。父の代から、さらに力を増してきた……つまり、征服した国の数が爆発的に増えているので、それに伴って犠牲の数も増加したということだろう。
この男も、そうした犠牲の一人になったのだろうか。
その時、父は悲しんだのだろうか、それとも、弱い者はいらん、とあの酷薄な笑みを浮かべたのだろうか。
(……気分わりぃ……。)
後者であることを自分が密かに願っていることに気づき、シンタローは自己嫌悪に顔をゆがめた。
「スチームクリーナーとってくる。」
シンタローが立ちあがると、奥にいたグンマが怪しい着ぐるみの熊をひきずりながら出てきた。
「ボク、とってこようか? ちょうど水飲みたかったし。」
「いや、俺が行く。ついでだから、なんか探してきてやるよ。」
クリーナーを取りに行くのは単なる口実で、本当はこの『過去』がたくさん詰まった部屋にいることが息苦しくなってきたからだ。
自分の過去がしまわれている同じ場所に、自分が会ったことのない父親の過去が共存している。それはその部屋の主の心そのものだ。
それに耐えきれない苛立ちを感じ、シンタローはその場から逃げ出すことによって、その嫌な気分からも逃げようとしたのだった。
とりあえず台所に行き、残っていた使用人にクリーナーを出してもらった。彼らが掃除を申し出てくれたが、あの部屋に他人を入れるわけにはいかず、シンタローは断った。
それに、彼らも今日から休暇に入る。何人かは、もう出発しているし、残っている者たちも殆ど仕事を済ませているようだ。手伝わせるのも気の毒だ。
「俺たちも自室だけだから、手伝ってもらうほどのこともない。一年間、ご苦労さん。来年もよろしくな。」
そうねぎらうと、全員深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃ、これ、借りてくぜ。」
シンタローはその掃除機にも似た機械を片手に持つと、もう片方の手にオレンジジュースのペットボトルを掴み、部屋へと戻ろうとした。
しかし、その途中でよりにもよって、苛々の原因と出くわしてしまったのである。
壁にもたれかかって、いかにも自分を待っていたという風情のマジックをシンタローはじろっと睨んだ。
「おい、さぼってんじゃねーぞ。さっさと部屋へ帰れよ。」
「ちゃんと終わらせたよ。キンタローも自分の部屋へ戻った。」
「そうかよ、じゃあ、あんたも部屋に帰っておとなしくしてな。」
素っ気なくそう言って、シンタローはその場を通り過ぎようとしたが、ふいに背後から伸びてきた手に後ろに引き戻された。
「うわっ てめ……!」
仰向けにひっくり返りそうになったシンタローを、広い胸が抱き留める。
「――――倒れてもいいよ。シンちゃん。」
いきなり言われたその言葉にシンタローは、目を見開いた。
両肩に置かれた手は温かく、力強い。
「やりたいようにやりなさい。おまえはそういう子だ。もしそれで倒れるようなことがあっても、私が――家族がいる。ちゃんと支えてあげるから、好きなだけ走りなさい。」
さっきの食堂でのグンマの苦言のことを言っているのだと、シンタローはすぐに気づいた。
胸が詰まりそうになるが、素直に礼を言うのも癪だった。
「えらそーに、なんでも分かってるみたいなこと言いやがって……。」
「知ってるよ。なんていったって、シンタローを二十五年間見守って育ててきたのはこの私なんだから、シンちゃんのことで知らないことなんてひとつもない。」
『シンちゃんのことで知らないことなんてない』、その言葉に、緩んでいたシンタローの頬がびしっと強張った。
「………ざけんな。」
「え?」
地を這うような低い呟きに、マジックは怪訝に思って、よく聞こうと身を乗り出した。
しかし、その行為が彼の命取りになったのだった。
「ふっざけんじゃねぇええ!!」
シンタローが勢いをつけて上体をそらす、容赦のない頭突きが背後にいたマジックの顔面に炸裂した。
「ぐわっ!」
鼻筋を強く打って、後ろによろける父親から素早い動きで数歩離れると、シンタローは振り返って怒鳴った。
「確かに、俺を育てたのはアンタだけどな、俺のことをなんでも知ってるなんてうぬぼれんのもいい加減にしろっ! 俺はもう何もできない子供じゃねーんだよ! どこにだって行けるし、あんたが知らない人間とつきあったりするし、えらそーに言われる筋合いはねぇっ!」
「? シンちゃん?」
鼻を押さえながら、きょとんとした顔をする父親と目があって、シンタローはかあっと顔を赤くした。
(うわ、俺サイテーじゃん。)
これでは単なる八つ当たりだ。
もしくは嫉妬。
理不尽だと分かっているが、自分の知らない人間を側に置いていた父親に腹がたってたまらない。
くるっと踵を返し、大股で部屋へと急ぐ。
(だって、むかつくものはしょーがねーじゃん!)
一族の人間で、他人を信用しない父親の側に平気な顔でよりそうことができて、しかもそれを父が許している
そんな人間は、自分くらいだと思っていたのに。
単なる過去だと分かっていても気に入らない。
記憶の中―――――少なくとも、写真の中に、この男はいまだに残っている。
「くそっ…!」
シンタローは唇を噛むと、力任せにドアを開けた。
「わっ! どうしたのシンちゃん!」
脚立に腰掛けて、アルバムをめくっていたグンマが驚いて顔を上げた。
シンタローはむくれたまま、手に持っていたペットボトルをグンマに放ってやる。
「どうもしない。それより、掃除さぼってんなよ。」
「さぼってないよー。殆ど終わったからシンちゃん待ってたんじゃん。」
確かに、部屋の中はすっきり片づき、後は床を磨くくらいだ。シンタローが処分すると決めた洋服やそのほか一切は、それぞれ分類して袋に入れてある。
「後は処理場に運ぶだけだけど……本当に捨てちゃうの? シンちゃん。」
「何を今更。」
おおかた面倒くさくなったんだろうと、シンタローが呆れるとグンマはんー、と己の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「確かにここにあるものは、『過去の遺物』なんだろうけどさ。おとーさまにとっては、ある意味現在進行形のものなんだよ。」
「どういう意味だよ。」
「アルバム見てて思ったんだけどさ、今も昔も、おとーさまにとっては、シンちゃんは総帥というより大事な『子供』のままなんだ。そりゃ、もうシンちゃんはあひるの帽子なんかかぶらないけど、おとーさまにとってそれはシンちゃんのものだった帽子、じゃなくて、シンちゃんの帽子、なわけ。……だからさー、別にいいじゃん。うち、こんなに広いんだし、わざわざ処分しなくたって。」
「………。」
「ね?」
グンマはなだめるように、シンタローの顔をのぞき込んだ。
しかし、シンタローはそれから目を反らし、スチームクリーナーを床の上に置いた。
「処分しなけりゃ、いつまでたっても片づかない。」
「も~! 頑固なんだから。」
グンマの非難を背中に受けて、シンタローはスイッチを入れた。
独特の臭気を放つ蒸気が勢いよく辺りに広がる。
その白い蒸気の中、顔を伏せシンタローは黙々と床をこすった。
ポケットの中で写真ががさがさと動いて気持ち悪い。
『処分しなけりゃ、いつまで経っても片づかない』
本当は―――――処分したいものは、こんなモノじゃなくて、過去そのものなのだ。
自分のいない父親の二十五年間、生きてきた時間の半分。
父にとっても、あまり振り返りたくない種類のものらしい。
父の父、つまり祖父が若くして戦死した後、父が何を想い、どう生きてきたのか、シンタローは父の口から聞いたことがほとんど無い。
聞いたとしても、おそらくはぐらかされるだけだろう。
自分だって、弟や小さな友人に戦場での経験なんて話したくなかったから、その気持ちは理解できる。
自分でも正視したくない過去。
思い出しても苦しいだけの記憶。
なら、処分してもいいのではないだろうか。
ポケットの中でさっきから身動きするたび、がさがさと存在を主張するそれに指が伸びそうになる。
それから気を逸らそうと、シンタローは一心に床を磨くことに専念した。
熱い蒸気に埃が浮かび上がり、雑巾に水滴毎吸い込まれていく。
染みをすべてこそげ落とそうと、シンタローは腕に力を込めた。
夕食に年越し蕎麦を食べたあと、グンマとキンタローがいそいそと出かける準備をし始めたので、怪訝に思ったシンタローが行く先を尋ねると、顎がはずれそうな答えが返ってきた。
「除夜の鐘を鳴らしに行く。」
「はぁ?」
まさか、日本まで行くのだろうか、とシンタローは不安になった。
いくらなんでもそんな馬鹿な、と思うが、なにせこの二人だ。「面白そうだから」「興味があるから」と、日本の寺まで突っ走っていきかねないことは、経験上よく知っている。
シンタローの心配を読みとったのか、グンマは「ちがうよー」と笑った。
「僕らが日本まで行っちゃうんじゃないかと心配してるみたいだけど、そんなことするわけないでしょ。基地の広場だよ。レンタルの鐘を、残ってる団員たちと撞くんだー。」
「そっか、なるほど……って、その費用はどっから!? というか、レンタルでそんなもんあるのか!?」
「あははははっ。いってきま~す。」
「行くぞ! グンマ、俺たちが一番目だ。」
「待てーーーー!」
言いたいことだけを言って、夜の闇に逃げ込む二人を呼ぶシンタローの声がむなしく響く。
(キンタローの興味を日本文化から、はやく別の方向へうつさねえと……ひょっとして、身体を返す前、俺が日本へ行きたいってずっと思ってたから、その影響が残ってるのかもしれない。)
シンタローはがっくりと肩を落としながら、リビングへ戻った。
「二人は出かけたのかい?」
ソファーに座って、くつろいでいた父親に聞かれ無言で頷く。その時、彼の膝の上にアルバムが乗っているのを見て、一瞬ぎくりとしたが映っているのは子供の頃の自分だった。
ほっとした反動で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まーた、アルバムかよ。好きだなー、過去振り返るの。」
「ああ、好きだよ。かわいかったもんねー、このころのシンちゃん。いっつも、パパ、パパってついてきてくれるし、イヤミ言ったり、暴力ふるったりしないいし。」
「あ、そ。」
にっこりと父親が笑った。
「なにより、この黄色のセーターを着ている小さな子供が、寝て目覚めて、また寝て、を繰り返して、ひとりで本を読めるようになったり、自転車にのれるようになったり、パパと遊園地に行ったりと、いろんなことを経験して、イヤミ言ったり、暴力ふるったりする赤い上着を身にまとった総帥になるんだって思うと、余計かわいくて仕方ない。」
親馬鹿丸出し発言に、こんなことにはいい加減慣れっこになっていたはずのシンタローだったが、前へつんのめりそうになった。
なんとか態勢を取り直して、「へえー」と無関心を装ったが、マジックは特に気にする様子もなく、なおも話を続けた。
「過去を振り返ったり、想い出を反芻することは、一概に後ろ向きなこととは言えないよ。『今』があるのは、『昔』があるからだろう。人間が思っているほど過去と現在の距離は遠くない。楽しかったり、悲しんだり、怒りを感じたり、いろいろな体験をして、今があるんだ。私は、おまえがどんなふうに過ごして、今のおまえ自身を創り上げたのか、ずっと見てきた。そうできたのは、私の一番の幸運だと思っている。」
父親はそこで言葉を切って、アルバムを閉じる。
「だから、実は悔しいんだ。―――――おまえの人生にとって重要な時間である『あの島』の日々を知らないことがね。」
現在を愛することは、過去をも愛おしむことと変わらない。
幼少時代の甘いお菓子のような日々も、どうしようもない苦しみに流した涙の数も、みな、今を創ってきた大事なパーツだ。
だから、今、自分に穏やかな笑顔を向ける父親を創ってきたものたち――――――自分が知らない父の時間にいるあの男の存在が悔しかったのだ。
そう、自分が嫉妬していたのは、あの笑顔にではない。
『自分がいない頃の時間』そのものに、焦燥を感じていたのだ。
ゴオ―――――――ン……。
「あ、鳴った。」
かすかに響く重低音に、二人は顔を上げた。
「本当に借りてきたのかよ。ああ、請求書が………レンタル料っていくらだろ。」
頭を抱えるシンタローにマジックがフォローをいれた。
「まぁまぁ、経費を使いたくないんなら、パパがあげるお年玉で払ったら?」
「う~~~ちっくしょー、ただ働きかよぉ~~。」
シンタローが唸ると、それに返事するように鐘が『がっ』と鈍い音を立てた。
「あれはグンちゃんだね~。間違いなく。」
マジックが確信を持ってそう言いきった。
撞木を撞く弾みにひっくりかえりそうになっている彼の姿と、おろおろしているその従兄弟の姿が目に浮かび、シンタローはやれやれと苦笑する。
きっと、痛いだ、寒いだとべそをかきながら帰ってくるだろうから、温かいココアか何か用意しておいてやるか、とシンタローはキッチンへ向かおうとした。
ドアを開いて、振り返ると再びアルバムを取り上げた父が目に映った。
優しい目をして自分たちの生きてきた時間を見つめるその横顔に、小さな声で囁く。
「………………来年もよろしく。」
あるか無きかの呟きのような声に、マジックが「何か言ったかい?」と聞き返した。
「べつに、たいしたことじゃねぇよ。」
焦ってそう言うと、後ろ手でドアを閉める。閉まる直前、その隙間から滑り込むようにして笑いを含んだ声が聞こえた。
「こちらこそ。」
(~~単なる社交辞令だっつーの!)
シンタローは扉越しに父親を睨むと、そこから離れた。
台所に向かうようなふりをして、こっそりとあの倉庫に入り込む。
時代だけ確かめた後、合致したその中から適当なアルバムを一冊抜いた。
ぱらぱらとめくり、空いている場所に持ち歩いていた例の写真をはりつけた。
笑顔の男に対しては今も複雑な気分だが、しょうがない。この男との間に何があったにせよ、それを通ってきて今の父親があるのだから。
過去のマジックは自分の父親じゃないけれど、二十五年前からずっと先の未来まで永遠に自分の父親だ。
年が暮れて、また新しい年がきて、それを何度も繰り返してきて、そしてこれからもずっと繰り返すのは自分たちなのだ。
ひゅるるるーっと遠くでそう聞こえたかと思うと、どーんという響きと共に、窓の外がぱっと明るくなった。
新年の合図の花火だ。
新しい世界の始まりだ。
「……長生きしやがれ。」
ちゅっ、と開いたページの一枚の写真に新年の挨拶を贈る。
過去に焦ったり―――――どう考えても他にもいろいろありそうな男だから――――寂しくなったりするけど、それもひっくるめて未来に新しい記憶や想い出を創っていって、人生でトータルして自分たちとの歴史の割合を増やしてやる。
とりあえず、朝が来たらお節を食べて、自家用ジェットで日本まで飛んで初詣してもいいな。コタローを病室から自宅へ移して、一緒にお正月を過ごして――――三日間家族で過ごそう。いつか目が覚めるとき、そのことを話してやろう。
(……年が明けたら、ゴミ処理場に電話しないとな。)
年末ぎりぎりに集められたゴミが、処理機に放り込まれる前に取り戻さなければ。
玄関ホールから「ただいまー」というグンマの声が聞こえてきた。
「外寒かったよー。シンちゃーん、どこー? ミルクココア飲みたい~。」
「はーいはいはい。」
アルバムを閉じて棚に戻すと、シンタローは倉庫を出て居間に戻った。
鼻の頭を赤くしたグンマと、逆に白くなっているキンタローがソファーの前に立っている。
父親が入ってきたシンタローを見て、笑顔の状態で口を開いた。
その様子に二人は後ろを振り返り、シンタローを見つけ、同じように唇をほころばせる。
しかし、シンタローの方が一呼吸早かった。
「あけまして、おめでとう―――――――――。」
2007/2/23
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時は師走の初め。
どうにも仕事が立て込んでいるので、正月中も働くというガンマ団新総帥の宣言に、前総帥は猛反対した。
というか駄々をこねた。
「お正月返上で仕事、だなんてそんな寂しいこと、パパの目が黒いうちは絶対に許しません!」
「あんたの目は青だろーが。そもそも、とっくの昔に成人した俺の行動にいちゃもんつける権限は親父にもねぇ! だいたい、後継者として日々励んでいる息子を激励するならともかく邪魔するって、前任者としても親としてもどうなんだ。」
とことん正論だった。
しかし、ときとしてまっとうな正論は強い欲の前に無視されがちな傾向にある。
「いつだって、パパはシンちゃんを応援してるよ。本当なら365日本部というかパパの隣にいてほしいのに、我慢してるじゃないか! そんな健気なパパのささやかなお願いを無視して仕事だなんて……ひどいっ、パパはそんな薄情な子に育てた覚えはないよ。」
わあっと泣き真似をする五十歳になったばかりの男を、シンタローは冷たい目で見た。
「……参考までに聞くが、どんな『子』に育てたつもりだったんだ?」
「えー、そりゃ『パパ大好き』って毎日言ってくれて、おはようおやすみそのほかもろもろのキスも忘れなくて、パパにべったりなパパっこに英才教育したのに!!」
「…………失敗したことを天に感謝しろ。」
息子のひきつり笑顔もてんで意に介す様子もなく、マジックはさらにシンタローの神経を逆なですることを言った。
「だいたい、パパも忙しかったけどさ、それでも大事な行事はなるべくシンちゃんと一緒に過ごせるように、仕事調整したのに、シンちゃんがなぜできないんだい?」
シンタローは内心ぶちっと切れる。
(俺が仕事できないってのか!? 第一、なるべくいたって言ったって、八歳の誕生日のときも途中で抜けたし、十二歳のクリスマスのときはイブにいなかったし、十四歳のときは逆に当日いなかったし! ほかにも細かいのがいろいろあったし! 毎回ちゃんと全部いたわけじゃないだろーがっ!)
結構執念深く覚えているシンタローだった。
けれど、それを口にすることはできない。
そんなことを言おうものなら『じゃあ、今からその分を取り戻そうよ』などと言うに決まってるからだ。
記念日やら思い出など、当日でなければ意味がないのに、これでは単に拘束の口実を与えてしまうだけだ。
「キンちゃんも、お正月くらいのんびりしたいよね??」
無言の息子に業を煮やしたのか、側にいた彼の補佐官に水を向ける。
家に持ち込んだ書類のチェックをしていたキンタローは、呼ばれて一応顔を上げた。
しかし、仕事大事の部分まで精神双子の彼の返事はマジックの期待を大きく裏切った。
「仕事が終わってからのんびりした方が、精神的に効率的だと思います。」
「ほーらな。親父もいい加減騒ぐのやめろ。ヒマになったら、構ってやらないこともないかもしれないと思うのもやぶさかではない。」
「……ものすごく、実現性の弱い約束より、お正月を一緒に過ごすために力づくで引き留める道をパパは選ぶね。」
マジックの目が怪しく光る。
しかし、シンタローは余裕綽々とばかり、従兄弟の首に手をかけ引き寄せた。
「ふん、俺たち二人とやりあって勝てるならな。」
「……別に俺は伯父と争う気はないが?」
「おまえ、仕事これ以上遅らせたくないだろ? 第一俺の補佐官だろ? なら、俺の敵はおまえの敵だ。」
「そうなのか。」
納得しかける甥に、マジックはにこやかに呼びかけた。
「キンちゃん、キンちゃんはお正月、初めてだったよね。」
「? はい。」
「おい……。」
きょとんとした顔で素直に頷くキンタローに、マジックは頷く。
「だよねぇ。お正月を一回経験したら何がなんでもゆっくり楽しみたいと思うよ。おせち料理やお雑煮がでるし、『はねつき』とか『カルタ』とか対戦試合もあるし、工作が大好きなキンちゃんならきっと、この中央の塔まで届く凧を揚げることができるよ。それにね、お正月にはシンちゃんが着物を着てくれるし。」
ひとつひとつ並べられていくにつれ、不遇な幼少時代を過ごしたキンタローがだんだん身を乗り出していった。
シンタローは慌てて、キンタローの肩をゆさぶる。
「しっかりしろ! キンタロー! 家族でカルタ大会やってもつまんねぇぞ! それに雑煮くらい作ってやるから!」
「着物は?」
「え……荷物になるし、外に持ってくのはちょっと……。」
「伯父上、俺も正月したいです。」
「待てえええい!!」
(そういや、最近あちこちの民俗学の本を読みあさってたっけコイツ…。)
あっさり寝返った補佐官にシンタローはくらりときたが、なんとか気を取り直し、憤然と二人に背を向けた。
「わかった、勝手に凧揚げでも百人一首でもやってろ! 俺は仕事する!」
「お年玉出すよ。」
「は?」
今にも外へ出ようとしていたシンタローの足がぴたりと止まる。
「だから、一緒にお正月するならお年玉あげるよ。」
……こうして、ガンマ団は正月休みを取ることになったのである。
しかし、だ。
やるとなれば徹底的にやるのが、パプワ島元主夫シンタローなのである。
三十一日の朝、惰眠を貪っていた父親の部屋に乗り込んできて、「起きろーー!」という叫びとともにシーツをひっぺがした。
ベッドから放り出された形のマジックは、サイドテーブルの上にかけてあったナイトガウンを身体に羽織りながら抗議の声を上げる。
「ひどいよ、シンちゃん。夜這いするんならもっとやさしくしてくれなきゃ。」
シンタローはエプロンした腰に両手を当て、父親を睥睨した。
「もう、朝だ……ほらよ。これ。」
渡されたものを目にしてマジックは怪訝そうな顔になる。
「これって……『バケツ』と『ぞうきん』?」
「はい、ご名答~。だから、これ。」
「いや、なんで?」
するとシンタローは、だんっ! と、床を鳴らした。
「正月らしいことしたいんだろ? だったら、『年末の大掃除』も手伝え!」
シンタローの予想外の命令に、マジックは当然抗議の声をあげた。
「ええええええ~!! 掃除なんて、毎日、使用人達がやってるじゃないか。今更どこを掃除しろと言うんだい?」
しかし、シンタローは引き下がるつもりはなかった。
仕事を休みにした以上、前々からやろうと思っていたことをやっつけてしまうつもりなのだ。
それにはまず一日中まとわりつくであろう父親を、部屋に釘づけにしておく必要がある。
「ガラクタの要不要は本人しかわからないから、みんなノータッチだろ。だから、今日を機会にガラクタ全部片づけちまえ。」
「ガラクタ?」
マジックの問い返しに、シンタローは片手をびしっと伸ばしぐるっと周りを指した。
「そ、こういう余計な『コレクション』は捨てろ!! なんなら俺が代わりにやってやる!」
シンタローが指し示したものは、いわずとしれた絵やら人形やらの『シンタローグッズ』。
マジックは蒼白になり、立ち上がって息子にすがりつこうとした……直前にさっと避けられてその場に倒れこむ。
しかし、必死で起きあがりコレクションを背で庇うように手を広げた。
「いくらシンちゃんでもこれだけは許さないよ! これはパパの命と家族の次に大事な宝物なんだからね! いわばシンちゃんとパパの愛のメモリーそのもの。どうしても壊すならパパを押し倒してからにしてくれ!」
「誰が押し倒すか!!!!!!」
シンタローはくわっと口を開いたが、父親の決意が固いのを感じたのか、ふう、とため息を吐いた。
「わかったよ、じゃあ、ここの掃除は親父がちゃんとしろよ。……キンタロー。」
肩越しに振り返って従兄弟を呼ぶと、はたき、洗剤、雑巾など、お掃除グッズを手にしたキンタローが部屋に入ってきた。
「じゃ、頼むぞ。」
「わかった。俺に任せろ。」
シンタローが部屋を出ていきながら、念を押すとキンタローは頷いた。
そして、はたきを手にしてあちこちの埃を払い始めたので、初めは怪訝そうな顔をしていたマジックも合点がいった。
「あ、キンタローに手伝ってもらうよう、頼んでくれたんだね。さすがシンちゃん、パパ想いなんだから。」
「………任務を全うすると、三が日俺が着物を選んでいいということになったんです。」
キンタローの答えにマジックは目を丸くした。
「ええっ。ちゃっかりしてるなぁ、キンちゃんは。ま、いっか。私のアルバムにまた多くの記録が残るわけだし。」
るんるん、と文字通り歌い出しそうな勢いで、マジックがシンタローの肖像画のガラスを拭く姿に、キンタローはちょっぴり罪悪感を覚えていた。
実は、先ほどのキンタローの答えは微妙にずれている。
意図的にずらしたのだ。
なぜなら、本当のキンタローの任務は『掃除の助手』ではなく、『監視』だったのである。
マジックが、ことが終わるまで寝室から出ないように見張ること、これが正月休み中着せ替え人形になることと引き替えに総帥が補佐官に与えた重要任務だった。
「うわ~~~~~~想像はしてたけど、『想い出の品』もこれだけ保存たら、壮観だねぇ。」
おせち料理に激甘二色卵十巻追加することを条件に、手伝いにかり出されたグンマはその部屋の光景に呆れとも感嘆ともつかない感想をもらした。
彼を連れてきたシンタロー自身はといえば、グンマの感想を無視し、がさがさとゴミ袋を広げ始めた。
ここは、先日、シンタローが見つけた父の書斎の隠し部屋の中だ。
かなり広く作られたそこは四方に棚が作られ、過去の機密書類らしきものが隠されていたが、問題はプライベートなものの割合が異常に高く、その内容もちょっぴり異常だった。
「うわっ、シンちゃんが小さい時履いてた靴じゃん……全部とってあるんだ。この分じゃ、服はもちろん、水着やら下着とかも絶対おいてそう。」
手前の小さい棚の引き出しにその言葉通りのものを見つけてしまったグンマは、口を噤んだ。
(見なかったことにしよう。)
即座にそう決断したグンマは、ぱたん、と引き出しを締めた。
シンタローをこっそり振り返ったが、彼はこちらに背を向けていたので恐怖のコレクションには気が付かなかった。
(正月前に身内を病院送りというのは、さすがに縁起が悪いもんねー。あとで、釘打って封印しとこう。それともいっそ部屋毎破壊するよう、シンちゃんをたきつけた方が早いかな。でもそんなことしたらおとーさまが半狂乱になって秘石眼暴走させたりしたら、めんどうだしー。)
「だーーーっ! もうっ!!」
シンタローの叫びに、脳内でいろいろ画策していたグンマはびくっと飛び上がった。
振り向くと、書類の棚の整理をしていたシンタローがそこに無限に並ぶ自分の『成長記録』に苛立ちを爆発させているところだった。
ものがものだけに、シンタローもさっきからなんとか整頓しようと奮闘していたのだが、あまりの量の多さにうんざりしてしまった。
「本部にいるときヒマさえあればカメラとビデオ持ち歩いてたから、想像はしてたけどな。いくらなんでも、これは多すぎじゃねーか。」
「高松もそんなもんだから、普通じゃない?」
「言っておくが、高松も普通じゃないから。」
びしっと突っ込んでおいて、シンタローはばらばらとアルバムをめくる。
なんだかんだいっても、ちょっとは懐かしい気分もあるのだ。
が、次の瞬間『コワイ話を聞いておねしょしちゃいました』写真が目に飛び込んできたので、ばたんとアルバムを閉じる。
「なにー? なんかおもしろいのあった?」
グンマがのぞき込もうとするのを押し戻して、シンタローはそのアルバムをゴミ箱につっこんだ。
「あーーっ! だめだよ、シンちゃん! ほかのものはともかく、アルバムは捨てちゃだめ! 大事な昔の記録なんだから。」
そう言って、ゴミ箱からそれを拾い上げて、シンタローをめっと睨む。
「そんなもん、大事じゃねぇ! 返せ! さっさと捨てる!」
シンタローが伸ばした手からなんとか逃げたグンマが、目を細めた。
「あのねー、シンちゃんだってコタローちゃんの写真山ほど撮ってるでしょ? それはどうなの?」
「うっ……!」
痛いところをつかれて、シンタローが口ごもるのをグンマはここぞとばかりに攻めた。
「おとーさまにとって、これは他のなにより大事な宝物なんだよ。シンちゃんが生まれて一緒に過ごした記録っていうのは。これの一枚一枚に、あのときはああだった、こんなことがあったという想い出の地図があるんだと思う。だから、アルバムの中身はそのままにしておいたげようよ。」
「うん……。」
シンタローが不承不承頷くと、グンマはにっこり笑った。
「よしっ、じゃあ、ボク、あっちを見てくるね。」
そう言って大きな棚の影へ消えていくグンマを見送りながら、シンタローはおいていったアルバムを拾い上げた。
もう一度中をめくると、幼い頃の自分が大好きな叔父に抱き上げられはしゃいでいる写真が出てきた。
その隣はもう一人の叔父と泥団子のぶつけ合いをやっている。庭の芝生を泥だらけの水浸しにしてしまい、ちょうど帰宅した父に見つかってたいそう叱られたことを覚えている。そんな時でもぱちりと一枚撮るのを忘れないのは、怒りを通り越してお見事と言うしかない。
このころは、毎日が楽しかった、とシンタローは思った。
今日よりもっとよいことが明日起こると信じて疑わないくらい一日が満たされていた。
自分が誰にも似ていないという事実がたまに胸を指すことがあるけれど、まだその意味がよくわかっていなかったし、家族の誰かがそのことで自分を非難したりすることもなかった。
従兄弟と一日中遊んだり、たまに叔父が帰ってきたり、毎日がいつもきらきらと輝いていた。
何より、大好きな父親がいてくれたから。
ちらっと、右隣の棚を見る。隅の方にあるそのアルバムは、ほんの数年前の日付が書いてある。ちょうど、コタローと引き離された時代だ。
父親を憎んで許せなくて、それでも離れることもできなくて、もがき苦しんでいた自分はどんな顔で写真に写っているんだろう。
そう思うと、今手にしている写真に写っている自分の無知さが苦々しく思える。
この先、どんなことが待ち受けているか知らず、与えられた幸福が永遠だと信じているこの頃の自分が。
作業に戻ろうと、アルバムを閉じて棚に戻した時、その列の端に並んでいた別のアルバムが十冊ほど床に音を立てて落ちた。
どうやら、場所を詰められたことによってバランスが崩れてしまったらしい。
「あーあ。」
アルバムから落ちた写真を拾い集め、アルバムをめくってそれらしき場所に入れていく。落ちたのは数枚だが、結構な手間だ。
(それもこれも、こんなに写真をとりだめてるあのバカ親父が悪いんだ!)
半分言いがかりのような文句を頭の中で言いながら、しばらくの間、せっせと写真を戻していたシンタローの手が、ぴたっと止まった。
「……誰だ、これ……。」
写真に写っていたのは、まだ少年の父親と、その部下たちだった。
シンタローの視線が集中したのは、父親の左後方に控えている若い男だった。
年の頃は二十代そこそこ、ノンフレームの眼鏡をかけた線の細い蜂蜜色の髪の持ち主だ。
ガンマ団の制服を着ているし、別に取り立てて変な所はない。けれど、一目見て違和感を覚えた。
――――――その男は、父の近くに立ちながら、嬉しそうに微笑んでいたのだ。
「シンちゃん、どうしたの? 美味しくない?」
ぼんやりとフォークでチキンをつっついていたシンタローは、父親に声をかけられて慌てて顔を上げた。
朝の早い内から精を出したおかげで、なんとか作業の目処がたったので、全員で遅い昼食をとっている最中だった。
「そんなことねーよ。」
「でも、さっきから食が進んでいないみたいだが。」
二人の会話に並んで席に着いていたキンタローとグンマも、シンタローの方を見る。
三組の青い目に注目されて、シンタローは誤魔化そうとした。
「……仕事のこと考えてただけだ。」
マジックは腑に落ちないようだったが、グンマは「もう」とむくれた。
「シンちゃんは仕事のしすぎ! 目標があるのはいいことだけど、いそぎすぎると達成する前に身体を壊すよ。」
確かに今年はほとんど遠征に出ていて、休暇など数えるほどしかとっていない。けれど、きっと来年も自分は走り続けるんだろうな、とシンタローは思う。
この世界のどこかにいるはずの『トモダチ』に会ったときに、恥ずかしくない自分でいたいから、自分は立ち止まるわけにはいかない。
この世界にさんざん傷つけられた弟が、夢の世界から安心して戻ってこられるところを自分は作らなければいけないから、何があっても突き進まなければいけない。
けれど、口に出したのはそんな正直な想いより、家族を安心させてやる『嘘』だけだった。
「まあな、今年は思ったより成果が上がったから、来年は少しはゆっくりするさ。」
「そうなの? よかったぁー。キンちゃんは?」
「総帥がそう言うなら俺に依存はない。」
「副官ぽい言い方だねぇ~。」
グンマの軽口に、シンタローははっとした。
(あのメガネ! 『秘書』って雰囲気じゃないとは思ったけど、あの位置から考えるともっと対等に限りなく近い『副官』とかじゃねーのか。)
しかし、その思いつきをシンタローはあっさりと却下した。
自分の知る限り、父親が『副官』という者を側においたことはない。『補佐』なんてものこの父親に必要ないからだ。
なんでも自分の一存で決めて、またそれを押し通す力を持っている男。
それがシンタローの知る『マジック総帥』だ。
誰かの助言を乞うとか、サポートしてもらうとか、そんな発想が頭の中にあるとは思えない。
けれど、あの男がただの部下とはとても思えない。
なぜなら、父の隣に立つその男が笑顔だったからだ。
一族の中でもずば抜けた力を持ち、残酷、冷血と呼ばれた覇王の隣に、こんな気安く立つ人間なんて自分は知らない。
秘書の二人はおろか、実の弟であるサービスやハーレムですら、父の側にいるときはかすかに緊張していた。そう見せないよう振る舞っているが、シンタローには分かる。
叔父達とは違う意味ではあるが、自分だってそうだった時があるからだ。
幼い頃は父を怖いなどと、思ったことは一度も無かった。強くて優しくて、なにより、母親が不在の自分にとって父親はたった一人の家族だった。
それが変わり始めたのは、父の瞳に宿る冷たい輝きを知った頃、けれど、その時はとまどいこそあれ、恐怖など感じなかった。家族であり、慈しんでくれる相手を恐れる理由なっどなかったからだ。
だが、弟を監禁したとき―――――止める自分をも殴ったとき、自分は怒りとともに、はっきりと恐怖を感じていた。
父を誰より理解していると、いや、知らないことなんてないと思っていた。
なのに、目の前にいる男の考えていることがわからない。
家族という絆を自らの手で壊すこの人間は誰なんだ。
二十四年間、自分の父親であり、誰より近しい人間の、その『知らない』部分があるということが怖かった。
今はもう、そんなものは感じないけれど、自分でさえ一度は恐れた男の横で、にこにこと笑っているあの男の存在が信じられなかった。
「……ちゃん…シンちゃん、ねぇっ!」
「あ? なんだ?」
大声を出されてシンタローが顔をそちらに向けると、グンマはため息をついた。
「言ってる側からこれだ。ほんとーに、お正月はゆっくりするんだよ。電話も受けちゃだめだからね。」
「わかったわかった。なら、ゆっくりするため、掃除の続きしてくっか。」
そう言って席を立つと、食堂を出た。
しかし、掃除に戻ったものの、頭からどうにもあの写真のことが離れない。
(髪の色や雰囲気からして、一族の人間だろうな……。)
祖父の代の資料などを見ると、昔はもう少し一族の数も多かったらしい。それが、いつの間にか、かなりの数の人間が減っている。父の代から、さらに力を増してきた……つまり、征服した国の数が爆発的に増えているので、それに伴って犠牲の数も増加したということだろう。
この男も、そうした犠牲の一人になったのだろうか。
その時、父は悲しんだのだろうか、それとも、弱い者はいらん、とあの酷薄な笑みを浮かべたのだろうか。
(……気分わりぃ……。)
後者であることを自分が密かに願っていることに気づき、シンタローは自己嫌悪に顔をゆがめた。
「スチームクリーナーとってくる。」
シンタローが立ちあがると、奥にいたグンマが怪しい着ぐるみの熊をひきずりながら出てきた。
「ボク、とってこようか? ちょうど水飲みたかったし。」
「いや、俺が行く。ついでだから、なんか探してきてやるよ。」
クリーナーを取りに行くのは単なる口実で、本当はこの『過去』がたくさん詰まった部屋にいることが息苦しくなってきたからだ。
自分の過去がしまわれている同じ場所に、自分が会ったことのない父親の過去が共存している。それはその部屋の主の心そのものだ。
それに耐えきれない苛立ちを感じ、シンタローはその場から逃げ出すことによって、その嫌な気分からも逃げようとしたのだった。
とりあえず台所に行き、残っていた使用人にクリーナーを出してもらった。彼らが掃除を申し出てくれたが、あの部屋に他人を入れるわけにはいかず、シンタローは断った。
それに、彼らも今日から休暇に入る。何人かは、もう出発しているし、残っている者たちも殆ど仕事を済ませているようだ。手伝わせるのも気の毒だ。
「俺たちも自室だけだから、手伝ってもらうほどのこともない。一年間、ご苦労さん。来年もよろしくな。」
そうねぎらうと、全員深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃ、これ、借りてくぜ。」
シンタローはその掃除機にも似た機械を片手に持つと、もう片方の手にオレンジジュースのペットボトルを掴み、部屋へと戻ろうとした。
しかし、その途中でよりにもよって、苛々の原因と出くわしてしまったのである。
壁にもたれかかって、いかにも自分を待っていたという風情のマジックをシンタローはじろっと睨んだ。
「おい、さぼってんじゃねーぞ。さっさと部屋へ帰れよ。」
「ちゃんと終わらせたよ。キンタローも自分の部屋へ戻った。」
「そうかよ、じゃあ、あんたも部屋に帰っておとなしくしてな。」
素っ気なくそう言って、シンタローはその場を通り過ぎようとしたが、ふいに背後から伸びてきた手に後ろに引き戻された。
「うわっ てめ……!」
仰向けにひっくり返りそうになったシンタローを、広い胸が抱き留める。
「――――倒れてもいいよ。シンちゃん。」
いきなり言われたその言葉にシンタローは、目を見開いた。
両肩に置かれた手は温かく、力強い。
「やりたいようにやりなさい。おまえはそういう子だ。もしそれで倒れるようなことがあっても、私が――家族がいる。ちゃんと支えてあげるから、好きなだけ走りなさい。」
さっきの食堂でのグンマの苦言のことを言っているのだと、シンタローはすぐに気づいた。
胸が詰まりそうになるが、素直に礼を言うのも癪だった。
「えらそーに、なんでも分かってるみたいなこと言いやがって……。」
「知ってるよ。なんていったって、シンタローを二十五年間見守って育ててきたのはこの私なんだから、シンちゃんのことで知らないことなんてひとつもない。」
『シンちゃんのことで知らないことなんてない』、その言葉に、緩んでいたシンタローの頬がびしっと強張った。
「………ざけんな。」
「え?」
地を這うような低い呟きに、マジックは怪訝に思って、よく聞こうと身を乗り出した。
しかし、その行為が彼の命取りになったのだった。
「ふっざけんじゃねぇええ!!」
シンタローが勢いをつけて上体をそらす、容赦のない頭突きが背後にいたマジックの顔面に炸裂した。
「ぐわっ!」
鼻筋を強く打って、後ろによろける父親から素早い動きで数歩離れると、シンタローは振り返って怒鳴った。
「確かに、俺を育てたのはアンタだけどな、俺のことをなんでも知ってるなんてうぬぼれんのもいい加減にしろっ! 俺はもう何もできない子供じゃねーんだよ! どこにだって行けるし、あんたが知らない人間とつきあったりするし、えらそーに言われる筋合いはねぇっ!」
「? シンちゃん?」
鼻を押さえながら、きょとんとした顔をする父親と目があって、シンタローはかあっと顔を赤くした。
(うわ、俺サイテーじゃん。)
これでは単なる八つ当たりだ。
もしくは嫉妬。
理不尽だと分かっているが、自分の知らない人間を側に置いていた父親に腹がたってたまらない。
くるっと踵を返し、大股で部屋へと急ぐ。
(だって、むかつくものはしょーがねーじゃん!)
一族の人間で、他人を信用しない父親の側に平気な顔でよりそうことができて、しかもそれを父が許している
そんな人間は、自分くらいだと思っていたのに。
単なる過去だと分かっていても気に入らない。
記憶の中―――――少なくとも、写真の中に、この男はいまだに残っている。
「くそっ…!」
シンタローは唇を噛むと、力任せにドアを開けた。
「わっ! どうしたのシンちゃん!」
脚立に腰掛けて、アルバムをめくっていたグンマが驚いて顔を上げた。
シンタローはむくれたまま、手に持っていたペットボトルをグンマに放ってやる。
「どうもしない。それより、掃除さぼってんなよ。」
「さぼってないよー。殆ど終わったからシンちゃん待ってたんじゃん。」
確かに、部屋の中はすっきり片づき、後は床を磨くくらいだ。シンタローが処分すると決めた洋服やそのほか一切は、それぞれ分類して袋に入れてある。
「後は処理場に運ぶだけだけど……本当に捨てちゃうの? シンちゃん。」
「何を今更。」
おおかた面倒くさくなったんだろうと、シンタローが呆れるとグンマはんー、と己の髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「確かにここにあるものは、『過去の遺物』なんだろうけどさ。おとーさまにとっては、ある意味現在進行形のものなんだよ。」
「どういう意味だよ。」
「アルバム見てて思ったんだけどさ、今も昔も、おとーさまにとっては、シンちゃんは総帥というより大事な『子供』のままなんだ。そりゃ、もうシンちゃんはあひるの帽子なんかかぶらないけど、おとーさまにとってそれはシンちゃんのものだった帽子、じゃなくて、シンちゃんの帽子、なわけ。……だからさー、別にいいじゃん。うち、こんなに広いんだし、わざわざ処分しなくたって。」
「………。」
「ね?」
グンマはなだめるように、シンタローの顔をのぞき込んだ。
しかし、シンタローはそれから目を反らし、スチームクリーナーを床の上に置いた。
「処分しなけりゃ、いつまでたっても片づかない。」
「も~! 頑固なんだから。」
グンマの非難を背中に受けて、シンタローはスイッチを入れた。
独特の臭気を放つ蒸気が勢いよく辺りに広がる。
その白い蒸気の中、顔を伏せシンタローは黙々と床をこすった。
ポケットの中で写真ががさがさと動いて気持ち悪い。
『処分しなけりゃ、いつまで経っても片づかない』
本当は―――――処分したいものは、こんなモノじゃなくて、過去そのものなのだ。
自分のいない父親の二十五年間、生きてきた時間の半分。
父にとっても、あまり振り返りたくない種類のものらしい。
父の父、つまり祖父が若くして戦死した後、父が何を想い、どう生きてきたのか、シンタローは父の口から聞いたことがほとんど無い。
聞いたとしても、おそらくはぐらかされるだけだろう。
自分だって、弟や小さな友人に戦場での経験なんて話したくなかったから、その気持ちは理解できる。
自分でも正視したくない過去。
思い出しても苦しいだけの記憶。
なら、処分してもいいのではないだろうか。
ポケットの中でさっきから身動きするたび、がさがさと存在を主張するそれに指が伸びそうになる。
それから気を逸らそうと、シンタローは一心に床を磨くことに専念した。
熱い蒸気に埃が浮かび上がり、雑巾に水滴毎吸い込まれていく。
染みをすべてこそげ落とそうと、シンタローは腕に力を込めた。
夕食に年越し蕎麦を食べたあと、グンマとキンタローがいそいそと出かける準備をし始めたので、怪訝に思ったシンタローが行く先を尋ねると、顎がはずれそうな答えが返ってきた。
「除夜の鐘を鳴らしに行く。」
「はぁ?」
まさか、日本まで行くのだろうか、とシンタローは不安になった。
いくらなんでもそんな馬鹿な、と思うが、なにせこの二人だ。「面白そうだから」「興味があるから」と、日本の寺まで突っ走っていきかねないことは、経験上よく知っている。
シンタローの心配を読みとったのか、グンマは「ちがうよー」と笑った。
「僕らが日本まで行っちゃうんじゃないかと心配してるみたいだけど、そんなことするわけないでしょ。基地の広場だよ。レンタルの鐘を、残ってる団員たちと撞くんだー。」
「そっか、なるほど……って、その費用はどっから!? というか、レンタルでそんなもんあるのか!?」
「あははははっ。いってきま~す。」
「行くぞ! グンマ、俺たちが一番目だ。」
「待てーーーー!」
言いたいことだけを言って、夜の闇に逃げ込む二人を呼ぶシンタローの声がむなしく響く。
(キンタローの興味を日本文化から、はやく別の方向へうつさねえと……ひょっとして、身体を返す前、俺が日本へ行きたいってずっと思ってたから、その影響が残ってるのかもしれない。)
シンタローはがっくりと肩を落としながら、リビングへ戻った。
「二人は出かけたのかい?」
ソファーに座って、くつろいでいた父親に聞かれ無言で頷く。その時、彼の膝の上にアルバムが乗っているのを見て、一瞬ぎくりとしたが映っているのは子供の頃の自分だった。
ほっとした反動で、つい憎まれ口を叩いてしまう。
「まーた、アルバムかよ。好きだなー、過去振り返るの。」
「ああ、好きだよ。かわいかったもんねー、このころのシンちゃん。いっつも、パパ、パパってついてきてくれるし、イヤミ言ったり、暴力ふるったりしないいし。」
「あ、そ。」
にっこりと父親が笑った。
「なにより、この黄色のセーターを着ている小さな子供が、寝て目覚めて、また寝て、を繰り返して、ひとりで本を読めるようになったり、自転車にのれるようになったり、パパと遊園地に行ったりと、いろんなことを経験して、イヤミ言ったり、暴力ふるったりする赤い上着を身にまとった総帥になるんだって思うと、余計かわいくて仕方ない。」
親馬鹿丸出し発言に、こんなことにはいい加減慣れっこになっていたはずのシンタローだったが、前へつんのめりそうになった。
なんとか態勢を取り直して、「へえー」と無関心を装ったが、マジックは特に気にする様子もなく、なおも話を続けた。
「過去を振り返ったり、想い出を反芻することは、一概に後ろ向きなこととは言えないよ。『今』があるのは、『昔』があるからだろう。人間が思っているほど過去と現在の距離は遠くない。楽しかったり、悲しんだり、怒りを感じたり、いろいろな体験をして、今があるんだ。私は、おまえがどんなふうに過ごして、今のおまえ自身を創り上げたのか、ずっと見てきた。そうできたのは、私の一番の幸運だと思っている。」
父親はそこで言葉を切って、アルバムを閉じる。
「だから、実は悔しいんだ。―――――おまえの人生にとって重要な時間である『あの島』の日々を知らないことがね。」
現在を愛することは、過去をも愛おしむことと変わらない。
幼少時代の甘いお菓子のような日々も、どうしようもない苦しみに流した涙の数も、みな、今を創ってきた大事なパーツだ。
だから、今、自分に穏やかな笑顔を向ける父親を創ってきたものたち――――――自分が知らない父の時間にいるあの男の存在が悔しかったのだ。
そう、自分が嫉妬していたのは、あの笑顔にではない。
『自分がいない頃の時間』そのものに、焦燥を感じていたのだ。
ゴオ―――――――ン……。
「あ、鳴った。」
かすかに響く重低音に、二人は顔を上げた。
「本当に借りてきたのかよ。ああ、請求書が………レンタル料っていくらだろ。」
頭を抱えるシンタローにマジックがフォローをいれた。
「まぁまぁ、経費を使いたくないんなら、パパがあげるお年玉で払ったら?」
「う~~~ちっくしょー、ただ働きかよぉ~~。」
シンタローが唸ると、それに返事するように鐘が『がっ』と鈍い音を立てた。
「あれはグンちゃんだね~。間違いなく。」
マジックが確信を持ってそう言いきった。
撞木を撞く弾みにひっくりかえりそうになっている彼の姿と、おろおろしているその従兄弟の姿が目に浮かび、シンタローはやれやれと苦笑する。
きっと、痛いだ、寒いだとべそをかきながら帰ってくるだろうから、温かいココアか何か用意しておいてやるか、とシンタローはキッチンへ向かおうとした。
ドアを開いて、振り返ると再びアルバムを取り上げた父が目に映った。
優しい目をして自分たちの生きてきた時間を見つめるその横顔に、小さな声で囁く。
「………………来年もよろしく。」
あるか無きかの呟きのような声に、マジックが「何か言ったかい?」と聞き返した。
「べつに、たいしたことじゃねぇよ。」
焦ってそう言うと、後ろ手でドアを閉める。閉まる直前、その隙間から滑り込むようにして笑いを含んだ声が聞こえた。
「こちらこそ。」
(~~単なる社交辞令だっつーの!)
シンタローは扉越しに父親を睨むと、そこから離れた。
台所に向かうようなふりをして、こっそりとあの倉庫に入り込む。
時代だけ確かめた後、合致したその中から適当なアルバムを一冊抜いた。
ぱらぱらとめくり、空いている場所に持ち歩いていた例の写真をはりつけた。
笑顔の男に対しては今も複雑な気分だが、しょうがない。この男との間に何があったにせよ、それを通ってきて今の父親があるのだから。
過去のマジックは自分の父親じゃないけれど、二十五年前からずっと先の未来まで永遠に自分の父親だ。
年が暮れて、また新しい年がきて、それを何度も繰り返してきて、そしてこれからもずっと繰り返すのは自分たちなのだ。
ひゅるるるーっと遠くでそう聞こえたかと思うと、どーんという響きと共に、窓の外がぱっと明るくなった。
新年の合図の花火だ。
新しい世界の始まりだ。
「……長生きしやがれ。」
ちゅっ、と開いたページの一枚の写真に新年の挨拶を贈る。
過去に焦ったり―――――どう考えても他にもいろいろありそうな男だから――――寂しくなったりするけど、それもひっくるめて未来に新しい記憶や想い出を創っていって、人生でトータルして自分たちとの歴史の割合を増やしてやる。
とりあえず、朝が来たらお節を食べて、自家用ジェットで日本まで飛んで初詣してもいいな。コタローを病室から自宅へ移して、一緒にお正月を過ごして――――三日間家族で過ごそう。いつか目が覚めるとき、そのことを話してやろう。
(……年が明けたら、ゴミ処理場に電話しないとな。)
年末ぎりぎりに集められたゴミが、処理機に放り込まれる前に取り戻さなければ。
玄関ホールから「ただいまー」というグンマの声が聞こえてきた。
「外寒かったよー。シンちゃーん、どこー? ミルクココア飲みたい~。」
「はーいはいはい。」
アルバムを閉じて棚に戻すと、シンタローは倉庫を出て居間に戻った。
鼻の頭を赤くしたグンマと、逆に白くなっているキンタローがソファーの前に立っている。
父親が入ってきたシンタローを見て、笑顔の状態で口を開いた。
その様子に二人は後ろを振り返り、シンタローを見つけ、同じように唇をほころばせる。
しかし、シンタローの方が一呼吸早かった。
「あけまして、おめでとう―――――――――。」
2007/2/23
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