それは蒸し暑い午後で、あまりの暑さにイラついて俺様度が大分上がっている(いつもの三割増くらいには小言が多かった)彼に、パプワが提案したのが始まり。
「よし! 水浴びに行くぞ」
汗一つかいてない涼しい顔だったが……。
パプワだって暑いものは暑いんだろう。
それで今に至る。
ジャングルの奥のほうにある水場は、木々が太陽を遮り、風通しも良くて、結構涼しい。
「キャー!! タンノちゃん! シンタローさんの水浴びよー!」
「イヤーン! 男の人の筋肉ってステキー!」
「眼魔砲。」
……向こうの方で、焦げたナマモノたちが変な匂いさえさせてなけりゃ、平和な時間だ。
「ったく、油断も隙もねぇな。ナマモノ共め」
いや、気持ちはすごくよくわかる気がする。
ようは行動に移すか否かの問題で、惹かれていることに変わりはない。
……ナマモノと同レベルか……。
足だけ水に入れて、岸に腰掛けながら、ボーっとそんな光景を眺めていた。
髪とか見てるだけなら綺麗なんだけど、かなりしっかりとした体つきとかは、やっぱ格好良い。
容姿もそうだけど、どっか惹きつけるモンがあるって思う。
って、変態じみてるよ。
しっかり! 俺!
――――ゴンッ。
「なぁに見てんだコラ!」
痛っ!
何でそう何かと殴るかな?! この人。
グーは止めて欲しいって言ってんのに……!
「変な目つきで見てっからだろうが」
……変って……言い返せないけど。
っていうか思考意識にツッコミ入れないでくれます?!
「……お前はいいのか?」
水遊びが、ついには水球にまで発展しはじめたパプワたちの方を、顎で指しながら言われる。
……あれに入って行けと……?
きっとボールは150kmは越えている。
「あ、いえ、俺は」
たまにはのんびりしたいんで。
今くらいが丁度いい。
つーか、あそこに入ってったら死ぬかもしれない。
「ふぅん」
濡れた髪を掻き揚げて、シンタローさんはつまらなそうに呟いた。
うわぁ、この人「入っていったら面白かったのに」と言わんばかりです。
扱いが酷ぇ……。
俺のことなんだと思ってんだ全く!
……たぶん「ヤンキー」とか、そんな答えが返ってきそうだけど……。
今日こそは何か言い返そうと顔を上げた瞬間に――――。
――――『それ』を、見つけた。
見つけてしまった。
ほんの数cmのその痕、腹部に縦に走る、痕を。
「だから、見るなって言って……」
「……あの」
「あぁ?」
もしかして、と思った。
見るまで忘れていたのに。
「それ……」
「あん?」
俺の視線の先に気付いたのか、小さく息をついて、それをなぞった。
「ああ、あの元番人にな」
「そう……ですよね……」
やっぱりあの時の傷だ。
彼を殺した……――――。
あの傷が、消えずに今もそこにある。
俺じゃなかったとか、彼は今更そんなこと気にしていないだとか、分かっているけど。
それでも、少し怖くて。
「痛く……ありません?」
聞いてみる。
当時は、そんなこと思ってもみなかったのに、
身体だけじゃなくて……。
あなた自身を傷つけたような気までして。
今更そんなこと思っても、遅いかもしれない。
例え痛みを感じていても、俺にホントの事なんて言ってくれないんだろうけど。
「はぁ? あれからどれだけ経ってると思ってんだよ?」
返ってきたのは、あまりにサラリとした答え。
「んなこと、お前が気にしてんじゃねぇ」
この人は……、俺を気遣ってくれてるのか、無意識なのか……。
どうして簡単に、こういう事を言ってくれるんだろう。
「そっすか……へへっ、良かった」
「んだよ、気色悪ィなぁ」
怯えを拭い去ってくれる、惹かれていってしまう言葉を。
「いえ、何でも! 俺、パプワ達のとこ行って来ます!」
嬉しくて顔が緩むのを見られたら、また拳骨が降ってくるだろうから、俯いたまま立ち上がって、彼の横をすり抜ける。
こういうところに、惹かれてしまうんだ。きっと。
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「リキッド君何笑ってるのー?」
「変なのー」
二匹に言われて初めて気付く、微笑ましい光景を前に、頬の筋肉が大分緩んでる。
だって仕方ないじゃんよ。大好きなもん前にすると。
「あいつはいつもああだからなー、気にしなくていいぞ、二人とも」
「「はーい。」」
別にいつもへらへらしてるわけじゃないんっスけど……。まあそんな扱いにも慣れてしまったわけで。
気持ちがそのまま顔に現れる。
可愛いって言うか、ほのぼのって言うか……?
とにかく眺めてるだけで幸せな気分。
この人、自分じゃぜってぇ気付いてないだろうけど、パプワとか、チャッピーとか、この二匹とか相手にしてるとき(たまに、悲しい事に極たまーに俺にも)すげぇ柔らかい表情すんの。
普段、眉間に皺ばっか寄せてるせいか、そういう顔されると本当ヤバイ。
知らず知らずに口元は緩むし、顔は赤くなるし。
ここは耐えるんだ俺っ!
つーか、いつも耐えてるけどね!
……うぅっ、報われたいよパパ、ママ……。
「お前さ、構って欲しいのか?」
「え……?」
かけられたのが、何だか優しげな声のような気がするのは、気のせいじゃないですよね?
やっと俺の想いが通じたんでしょうか神様!
「エグチ君、ナカムラ君、この可哀相なファンシーヤンキーと遊んでやってくれねぇか?」
「「うん。わかったー」」
……そっちっスか。
いや、嬉しいと言えば嬉しいんですけどー……。
何か違わない? ねぇ?
「リキッド君遊んであげるー」
「遊ぼー」
「……そーだな」
胸キュンアニマルにまで憐れまれてる俺って何。
本当に構って欲しい人は、とっとと家事に戻ってしまった。
寂しい……。
「どーしたのー?」
「したのー?」
「ん、ああ、何でもないよ」
そう言って撫でてやると、二匹はくすぐったそうに笑った。
ああ、くそぅ! 癒されるなぁっ……!
胸キュンだよオイ!
俺の数少ない至福の時間ー!
「……お前、ナマモノ相手に犯罪は起こすなよ……?」
しません。
いくらなんでも……!
そうか。そういう風に見られてるわけか。
だいたい、ナマモノ相手に犯罪に走るほど、癒しに飢えてないっつーか……!
「シンタローさん相手ならまだしもっ……!」
「…………」
……あれ……?
「…………」
「…………」
あ……いや、今のは……その……。
口に出すつもりはなく――――。
言葉のあや……?
い、いやぁー、日本語って難しーなぁー。
「本当、リキッド君ってば、シンタローさんのこと見てばっかりだよねー」
「見てばっかー」
「なっ!! ふ、二人とも何ヲ言ッテイルノカナー?」
み、見てるとこは見てるもんだなぁ……。
でもね、そういうことは、分かってても本人の前で口に出しちゃいけませんよ?
ていうか、この状況で言わないで!!
空気読んで!
それとも読んだ上でこの仕打ち?!
「すげぇ片言になっとるぞ、ヤンキー」
「うおあっ!? き、急に後ろに立たないで下さいよっ!!」
だ、だだだ、だからっ! 心臓に悪いんですってば! そういう行動は!
分かってくださいよ、寿命縮みますから……。
いや、もう特戦時代とかで、充分寿命は縮んでるかなー……。
あ。俺、年とらないんだっけ?
「なぁ」
関係ないことを考え始めた俺の脳に、シンタローさんの声が響いた。
話し掛けられる声と共に、肩に手を置かれて、身体が硬直する。
掌の重さとか、体温とか、妙に意識しちまうし。
う、うわ、うわぁ、逃げたいっ! じゃないと理性が持たない!
「リキッド」
どうしてこういう時だけ、名前で呼ぶんっすかー! ひ、卑怯だっ……!
おどおどしつつ、首だけで振り返る。
……あれ?
その爽やかな笑顔は……。
どっかでみたような……?
「とりあえず、身の危険を感じるから、水でも浴びて頭冷やして来い、この馬鹿ヤンキー」
「……え?」
背中に強い衝撃を感じたと思ったら、次の瞬間には家の外に蹴り出されていた。
ついでと言わんばかりに、頭上にタライと大量の洗濯物が舞う。
洗って来い、ってことね……。
慣れてしまったそんな扱い。
「それにしても……」
直前のすごく爽やかな笑顔が頭から離れません。
ああ。そういえば、人を利用する時とか、相手に欠片の同情すら抱いてない時とか、ああゆう顔するよね。あの人。
それでも、その顔にすら赤くなる俺も俺。
……うん。頑張ろう。
とりあえず、頭冷やして洗濯っすか。
この状況は、何と形容すればいいのか……。
一人は、いつものごとくナマモノニ匹から逃げてきた侍。
一人は、洗濯物を干し終わって、帰ってきた元特戦部隊、現番人。
一人は、掃除も終盤に差し掛かり、後一息というところを、その二人に邪魔されて機嫌の悪い新総帥。
それぞれが一ヶ所に集まると、なんと居心地の悪い空間なのか。
先程から沈黙は破られない。
音があるとすれば、シンタローが台所を磨く音くらいだろう。
(な、何だ? この空気の重さは……。あ、でも二人は一応、敵対組織の幹部とトップだもんな……ってダメじゃん! 一触即発?!)
(こんなとこにいる気はねぇが……、今出て行ったら、あのクソナマモノ共に見つかるのがオチだからな……、タバコでも……くそっ、火ィ忘れちまった)
(そーいや、コタローがこいつら無二の親友とか言ってたな……。ったく、心戦組と義兄弟たぁ、いい度胸してんな。ヤンキーが)
沈黙をものともしない人間が一名。
さすが俺様。我が道を行っている。
だが、このまま奇妙な三すくみ(と称していいのだろうか)に黙っているはずがない。
(俺を罵倒するか、トシさんにケンカ売るか、どっちが早いかなー)
段々と分かってきた彼の俺様行動を、リキッドは頭の中でシュミレートしてみる。
1.自分を罵倒。トシゾーが色々つっかかっていって戦闘開始。
2.トシゾーにケンカ売る。結局早々と刀が抜かれ戦闘開始。
(……戦闘は避けられんのかい!)
自分の出した結果にツッコミを入れ、シンタローのほうを見る。
どうやら掃除は終わったらしい。
二人のいるちゃぶ台まで歩いて……。
(あー、来る……かな)
罵倒くらいですめばいいほうだと思いながら、気持ちを構える。
俺様vs鬼の副長。
元特戦部隊な家政夫に止めきれる自信は……ない。
「おい、リキッド」
しかし、彼から発せられたのは意外な言葉だった。
「俺、外出るわ」
「……え?」
「ちゃんと昼飯支度しとけよ」と付け足しつつ、ドアまで歩き出そうとするシンタローの服の裾を、リキッドは無意識上に掴んだ。
「っ!! っ危ねぇだろーが!」
「何でっスか?!」
よろけて転びそうになったシンタローのセリフを無視し、彼を見上げる。
折角の彼と共にいられる時間が、減ってしまう、と。
何だってそう乙女な考え方なのか。
「何でって……」
それを聞かれるとは思っていなかったのだろう。
ここでシンタローも、面倒だからだ、と言ってしまえばいいのだが、逃げているようで格好が悪いと思ったのか、トシゾーを一瞥し、またリキッドに視線を戻す。
必死に目で訴えるその姿に、見なきゃ良かったと後悔することになったのだが……。
「……散歩だ散歩」
いかにも「今考えました」と言うような答え。
そんなものでリキッドが納得出来るはずもなく、それならばと言い返してくる。
「じゃあ……俺も行きます!」
「ああ? 何でてめぇがついてくんだよ。客の相手でもしてろ。そこの侍!」
「あ?」
傍観していた身に、いきなり話題を振られて、トシゾーはとっさに反応できず、ただ聞き返す。
「てめぇの『親友』だろ。これは」
……彼の後ろで『これ』扱いに涙を流す家政夫一名。
「何とかしろ」
「命令調かよ、おめぇ……」
青の一族の俺様気質に免疫のない人間としては、呆れるほどのセリフだ。
「だって、行きたいんですっ」
「てめぇなぁ……」
文句を言いかけて、シンタローは言葉をため息に変えた。
このまま続けても、どうせ平行線で意味がない。
意外と頑固なのだ、このヤンキーは。
そこまで強く断る理由も見当たらなかった。
「……勝手にしろ」
「……はいっ!」
投げられた言葉を了承と受け取って、嬉しそうに返事をする様は、すっかり懐いた犬のようで、思わずシンタローの口元に笑みがこぼれそうになる。
……もちろん、リキッドにもトシゾーにも見えないように、だが。
「あの、トシさん」
「ああ。俺もナマモノの気配が消えたら出てく」
リキッドの言葉を見越し、先に答えて、行って来いとばかりに右手を上げた。
存在を忘れられていたかのような扱いだったが、そんな懐き振りを見せられて、一体他にどうしろというのだ。
「それじゃあ、行ってきます」
「おう」
扉が閉じたのを見送って、トシゾーは重い空気に張りつめていた首をならす。
「結局、邪魔者は俺だった……ってことか?」
誰もいない室内で、火のついていないタバコをくわえながら、彼は小さく呟いた。
酷くイライラする。
言いそうで言わない口元、
触れそうで触れない指、
……望んでいるんじゃない。
ただイライラするだけ。
目を閉じて、浅い眠りにつくといつも、わずかに離れた所に気配を感じた。
何をするでもなく、そこにいるだけのそれは、たまにため息をついたり、手を伸ばしかけて止めたり……。
「てめぇ……何がしたいんだ?」
目を閉じたまま低く呟く。
たぶん寝ていたと思っていたのだろう気配の主は、驚いたように身を引いたのが感じられた。
「え、あ、あのっ……」
動揺して、けれどひたすらに何かを隠そうと必死。
声だけでそれが読んで取れる。
一体何度、そんな言葉を聞けばいいのだろう?
一体どれだけ、自分をイラつかせれば気が済むんだこの馬鹿は。
「何か知らんが、毎回気になって眠れんだろうが」
「っ!! き、気付いてたんっスか?!」
気付かないわけがない。
伊達にガンマ団No1だったのではないのだから。
「……何だってんだよ」
何となく、予想はつくのだけれど。自分の思い違いであって欲しい。
確かめたくて問う。
目を開けると、俯いた頭が視界に入った。
「……寂しいのか?」
「っ! 違いますっ!」
そうであったなら、いくらか楽だっただろうに。
いくらか期待した問いは跳ね返されて、顔をあげた相手の目に引き込まれそうになる。
とても青い目。
「俺はっ……。寂しいとか、人恋しいとかっ……、そんなじゃなくて……」
予想はしていたんだ。
「あなただからっ……」
イライラする原因。
それに答えられるわけでもないのに。
「俺はっ――――」
答えられやしないのに。
否定することも出来ないのに。
どうしてハッキリさせてしまったのか。
その想いは自分にとって眩しくて、圧し掛かる重さ。
「シンタローさん」
ゆっくりと、しかし今度は戸惑うことなく手が伸びてきて、髪に触れる。
「……止せ」
享受も拒絶も出来ないのだから、これ以上踏み込まないで欲しい。
髪を梳いていた手が肩に移動し、抱き寄せられる。
「もう、限界です」
耳元で、そう呟いたのが聞こえた。
この状況で、冷静な判断を下せという方が、まず無理だろう。
困惑しきった顔で、リキッドは隣を見た。
左の肩口には黒髪が触れて、くすぐったい。
ほんの少し離れた場所に、彼の顔がある。
「シン、タローさん…?」
「黙ってろ」
反論する気も起きないほどに、ぴしゃりと言い切られては、口を閉ざす他なかった。
一体何だと言うのか、自分は何かやっただろうか、それともからかわれているのか、何にしろ心臓の動機は収まりそうにない。
(いや、そんな……シンタローさんに限ってっ……)
そうは思いつつ、右手は彼に触れようとゆっくり上がっていく。
「あー……、やっぱ匂いとれてねぇな」
「は……?」
掴まれていた肩が軽く押され、距離が開いたのに慌てて、右手を降す。
バレたらただじゃすまない事くらい、いい加減学習したのだろう。
「お前昨日、心戦組のナマモノに頭から香水ぶっかけられたろ」
「え、ああ……そういえば……」
愛のエッセンスだの何だのと言いながら、一体そんなものがどこにあったのか、かなりキツイ香水を浴びせられたのだ。(その後強制連行。(逃げ)帰ってこれたのは夕方。)
トラウマになりそうな昨日の出来事を思い出して、リキッドは身震いした。
(忘れたいっ。一刻も早く忘れたいっ。全てなかったことにしたい……!)
とにかく、鼻が慣れてしまったのか、自分自身ではもう分からない。
そんなに匂うのか、と服を摘み上げて匂いを嗅ごうとしたところに、シンタローの言葉が降ってきた。
「とりあえず服脱げ」
「……は?」
……一瞬固まる。
「って、ええっ?! 脱げって……!」
「何赤くなってんだ! 洗濯するから貸せってんだよ」
その香水臭さにいい加減耐えられなくなったのか、半分キレ気味なシンタローに言われて、言葉の意味にようやく気付いた。
「あ、そっすよね……」
本日の勘違い二度目。
嫌になる。
全ては落ち着いて考えれば分かることだろうに、どうしてこう空回ってしまうのか。
(この人の前じゃ、どうしてもなぁ……)
落ち着いてなどいられなくなるのだ。
もともと、ポーカーフェイスなんてものは、リキッドには出来やしない。
「てめぇは水場でもなんでも行って、その匂いどうにかしろ」
「……はい」
分かってはいたが、相変わらずの俺様口調にため息がこぼれる。
けれどこんなことで逆らっても仕方ないのは分かっているから、上だけ服を渡して、リキッドはとぼとぼと水場へ向かって歩き出す。
頭をを乱暴に掻き毟ると、残っていた匂いが広がった。
「うぇ……」
強い花の匂いに噎せ返りそうになる。
ここまで酷いとは思わなかったが……。
「とれんのか……、これ」
歩く内に辿り着いた泉を前にして、リキッドは眉を寄せる。
頭から水を被った程度で、この匂いが簡単に落ちるとは思えない。
それでもしないよりはマシだろうと、飛び込むように水に入った。
「っあー……冷てぇ」
指を髪に絡ませて、ガシガシとかき回す。
水の匂いに、全て消されていく気がした。
「……帰んの、嫌だなー……」
気付いてくれてもいいと思う。
「俺ばっか……不公平だ」
自分だけが空回ってばかりで……。
「おら、いつまで入ってる気だ」
「っ?! シ、シンタローさん?!」
突然かけられた声に振り返ったつもりが、水に足を取られて派手に転んだ。
顔面から勢いよく水面と衝突したのは、かなり痛かっただろう。
「何やってんだお前……?」
「い、いや、そ、そその……な、ななな何っすか?」
呆れたような声に対して、打ち付けた顔を抑えながらの精一杯の返答は、かなり慌てている。
「何どもってんだよ……」
「いや……その、何でもないっす」
何も言えず、結局、いつものように「何でもない」という言葉が口に出る。
それを言えば、大抵は流れていくから。
だからきっと、
今、シンタローの眉がほんの少しだけ顰められたのは、リキッドの見間違いだったのだろう。
「……何も持たないで出かけたろ。お前?」
小さなため息とともに投げてよこされたのは、タオルと上着。
(こういうとこには気付いてくれるのにな……)
「早いとこ帰っぞ」
それだけを渡して、早々と背を向けて歩き出す。
わざわざそのために来てくれたのだとすれば、嬉しいことは嬉しい。
「あ、はいっ」
慌てて水から上がると、ふいに、甘い匂いがした。
何か、焼き菓子を焼いているような、そんな匂い。
もとを辿ってみれば、それは前を歩くシンタローからのもので、たぶんオヤツ用に何か作っていたんだろうなと解釈する。
(ああ、いー匂い……)
別に食い気が勝っているわけではないが、その甘い匂いは気持ちを和らげる。
(触っちゃ、ダメ……かな)
何となく、触れてどうしようなんて考えずに、ゆっくりと手が伸びる。
彼に届くまで、あと少し――――。
――――パシッ。
ほとんど無意識に触れようとしたそれを、振り返り様に掴まれて、びくりとする。
(うわっ、す、すんません、すんません、すんませんー!)
その感覚にようやく正気に戻ったのか、リキッドは酷く慌てて、それでも手を掴まれていることに心臓は跳ね上がる。
「お前な、匂いでわかるんだっての」
おそらく、まだ完全にはとれていないのだろう香水の匂いが、リキッドの動きに付きまとう。
「それに俺の後ろを取ろうなんて百年早ぇ」
(いや、そういうことでは……)
結局気付かれないのかと、落胆するリキッドの耳元に、シンタローの声が響く。
顔が近づいて来るのに体が固くなった。
「触れたいんなら、そう言え」
勝手に暴走してんな、と軽く小突かれて、驚きに目を丸くする。
とっくに解放された手は、間抜けに宙に投げ出されている。
「え……?」
聞き返す間もなく、シンタローは再び先を歩き始める。
「あのっ、シンタローさん?! 今の……!」
「いいから帰んぞ、馬鹿ヤンキー」
「よ、良くないっす!!」
もしかしたら、
気付かれているのかもしれない。
この人は。
気付いているのでしょうか?