この状況で、冷静な判断を下せという方が、まず無理だろう。
困惑しきった顔で、リキッドは隣を見た。
左の肩口には黒髪が触れて、くすぐったい。
ほんの少し離れた場所に、彼の顔がある。
「シン、タローさん…?」
「黙ってろ」
反論する気も起きないほどに、ぴしゃりと言い切られては、口を閉ざす他なかった。
一体何だと言うのか、自分は何かやっただろうか、それともからかわれているのか、何にしろ心臓の動機は収まりそうにない。
(いや、そんな……シンタローさんに限ってっ……)
そうは思いつつ、右手は彼に触れようとゆっくり上がっていく。
「あー……、やっぱ匂いとれてねぇな」
「は……?」
掴まれていた肩が軽く押され、距離が開いたのに慌てて、右手を降す。
バレたらただじゃすまない事くらい、いい加減学習したのだろう。
「お前昨日、心戦組のナマモノに頭から香水ぶっかけられたろ」
「え、ああ……そういえば……」
愛のエッセンスだの何だのと言いながら、一体そんなものがどこにあったのか、かなりキツイ香水を浴びせられたのだ。(その後強制連行。(逃げ)帰ってこれたのは夕方。)
トラウマになりそうな昨日の出来事を思い出して、リキッドは身震いした。
(忘れたいっ。一刻も早く忘れたいっ。全てなかったことにしたい……!)
とにかく、鼻が慣れてしまったのか、自分自身ではもう分からない。
そんなに匂うのか、と服を摘み上げて匂いを嗅ごうとしたところに、シンタローの言葉が降ってきた。
「とりあえず服脱げ」
「……は?」
……一瞬固まる。
「って、ええっ?! 脱げって……!」
「何赤くなってんだ! 洗濯するから貸せってんだよ」
その香水臭さにいい加減耐えられなくなったのか、半分キレ気味なシンタローに言われて、言葉の意味にようやく気付いた。
「あ、そっすよね……」
本日の勘違い二度目。
嫌になる。
全ては落ち着いて考えれば分かることだろうに、どうしてこう空回ってしまうのか。
(この人の前じゃ、どうしてもなぁ……)
落ち着いてなどいられなくなるのだ。
もともと、ポーカーフェイスなんてものは、リキッドには出来やしない。
「てめぇは水場でもなんでも行って、その匂いどうにかしろ」
「……はい」
分かってはいたが、相変わらずの俺様口調にため息がこぼれる。
けれどこんなことで逆らっても仕方ないのは分かっているから、上だけ服を渡して、リキッドはとぼとぼと水場へ向かって歩き出す。
頭をを乱暴に掻き毟ると、残っていた匂いが広がった。
「うぇ……」
強い花の匂いに噎せ返りそうになる。
ここまで酷いとは思わなかったが……。
「とれんのか……、これ」
歩く内に辿り着いた泉を前にして、リキッドは眉を寄せる。
頭から水を被った程度で、この匂いが簡単に落ちるとは思えない。
それでもしないよりはマシだろうと、飛び込むように水に入った。
「っあー……冷てぇ」
指を髪に絡ませて、ガシガシとかき回す。
水の匂いに、全て消されていく気がした。
「……帰んの、嫌だなー……」
気付いてくれてもいいと思う。
「俺ばっか……不公平だ」
自分だけが空回ってばかりで……。
「おら、いつまで入ってる気だ」
「っ?! シ、シンタローさん?!」
突然かけられた声に振り返ったつもりが、水に足を取られて派手に転んだ。
顔面から勢いよく水面と衝突したのは、かなり痛かっただろう。
「何やってんだお前……?」
「い、いや、そ、そその……な、ななな何っすか?」
呆れたような声に対して、打ち付けた顔を抑えながらの精一杯の返答は、かなり慌てている。
「何どもってんだよ……」
「いや……その、何でもないっす」
何も言えず、結局、いつものように「何でもない」という言葉が口に出る。
それを言えば、大抵は流れていくから。
だからきっと、
今、シンタローの眉がほんの少しだけ顰められたのは、リキッドの見間違いだったのだろう。
「……何も持たないで出かけたろ。お前?」
小さなため息とともに投げてよこされたのは、タオルと上着。
(こういうとこには気付いてくれるのにな……)
「早いとこ帰っぞ」
それだけを渡して、早々と背を向けて歩き出す。
わざわざそのために来てくれたのだとすれば、嬉しいことは嬉しい。
「あ、はいっ」
慌てて水から上がると、ふいに、甘い匂いがした。
何か、焼き菓子を焼いているような、そんな匂い。
もとを辿ってみれば、それは前を歩くシンタローからのもので、たぶんオヤツ用に何か作っていたんだろうなと解釈する。
(ああ、いー匂い……)
別に食い気が勝っているわけではないが、その甘い匂いは気持ちを和らげる。
(触っちゃ、ダメ……かな)
何となく、触れてどうしようなんて考えずに、ゆっくりと手が伸びる。
彼に届くまで、あと少し――――。
――――パシッ。
ほとんど無意識に触れようとしたそれを、振り返り様に掴まれて、びくりとする。
(うわっ、す、すんません、すんません、すんませんー!)
その感覚にようやく正気に戻ったのか、リキッドは酷く慌てて、それでも手を掴まれていることに心臓は跳ね上がる。
「お前な、匂いでわかるんだっての」
おそらく、まだ完全にはとれていないのだろう香水の匂いが、リキッドの動きに付きまとう。
「それに俺の後ろを取ろうなんて百年早ぇ」
(いや、そういうことでは……)
結局気付かれないのかと、落胆するリキッドの耳元に、シンタローの声が響く。
顔が近づいて来るのに体が固くなった。
「触れたいんなら、そう言え」
勝手に暴走してんな、と軽く小突かれて、驚きに目を丸くする。
とっくに解放された手は、間抜けに宙に投げ出されている。
「え……?」
聞き返す間もなく、シンタローは再び先を歩き始める。
「あのっ、シンタローさん?! 今の……!」
「いいから帰んぞ、馬鹿ヤンキー」
「よ、良くないっす!!」
もしかしたら、
気付かれているのかもしれない。
この人は。
気付いているのでしょうか?
PR