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思わず言ってしまいそうになって

 俺が子供なら泣いている。あるいは女でもあれば、あんたに縋って引き止めることもできるのかもしれない。あんたは冷たい男じゃないから、最後には行かねばならないのだとしても、泣く女子供をあっさり無下にすることはしないだろう。しばしとはいえ止まって、別離の傷を少しでも浅くするような言葉をかけてくれるのかもしれない。あるいは抱擁を──あるいは口づけの一つでも。……俺が無力な生き物であったなら。
 だが俺は女でも子供でもなく、まして無力で無能な生き物でもなかった。しかし例えそうでなくとも、シンタロー個人としてなら、あんたを引き止めることはできたのかもしれない。一時の激情とあんたのいないこれから先の長い時間を天秤にかければ……俺が少しでもそのことを思い出すことができたなら、そのときには。
 しかし俺はシンタロー個人である以前にガンマ団総帥で、あんたは特戦部隊隊長だった。団の方針・運営に係ることに、私情を差し挟むなどできるはずもない。まして、血の近い者ばかりが要職を占めるガンマ団にあっては、なおさらのこと。
 俺はガンマ団とその団員と世界の均衡とを担わねばならなかった。あんたは特戦部隊とその隊員の矜持を一身に引き受けねばならなかった。前総帥のやり方を根底から覆してしまった俺と、前総帥の下で長年活動してきたあんたとでは、上手くいかないだろうことはもうそもそもの始めから明らかだった。親父から俺に代替わりしたとき、ガンマ団を離れていった者は大勢いた。今更それにあんたが加わったのだとしても、俺にはもうどうすることもできない。
 ──ただ、どうせ離れていくのなら、俺の総帥就任時に出て行ってくれれば、まだよかったのに。
 それは俺の甘えだったのかもしれない。こうなることをあらかじめ予測していながら、あんたが自ら団を出て行かなかったことに、俺は内心安堵していた。変革期に前総帥の弟であり特戦部隊隊長でもあるあんたまでが団を離れるなどということがあれば、改革を推し進めることは一層困難になっただろう。だが、そんな政治的な理由ではなしに、俺はあんたが俺の傍にいてくれたことが嬉しかった。俺の目指しているものを、少しでも理解してくれたのだろうと思っていた。これまでもぶつかることは多々あった相手だから、これからも簡単にはいかないだろうが、それでもいつかはわかりあえる日が来るのだろうと、そんな期待すら抱いた。──俺自らが特戦部隊を切り捨てる方法もあるのだということを、俺は故意に無視していた。そうすることが最終的には、最も傷の少ない方法だったのだとしても。
 ……それらの錯覚や願望は、結局、無残としか言いようのない結末を招きよせてしまったのだけれど。
 俺の方が重いものを担っているのだなどと言い張るつもりはない。俺たちは、お互いに己の役割に忠実であろうとしただけなのだ。
 俺が総帥でなければ、と時折思う。真紅の総帥服を着ているときは、そんなことはもとより、あんたのことすらなるべく考えないようにしているけれども、自室に戻って私服に着替えた後、唐突に空虚な思いに囚われることがある。俺はガンマ団総帥であるがゆえに、こうしてあんたとの家族の絆まで断ち切らざるを得なかったのだと、呆然と思い至ってしまう瞬間が。
 ──例え俺が総帥でなかったとしても、きっとあんたのやり方は受け入れられなかっただろう。だが、ただの団員と特戦部隊隊長では、大きな対立に発展するはずもない。それに決別したところで、切れるのは組織上の関係だけで、家族としての絆は──多少は疎遠になるかもしれないが──こうまで完璧に断ち切られることには、ならなかったはずだ。
 しかし今や俺はガンマ団の総帥で、その俺が特戦部隊を切り捨てたというのなら、そこにはもはや家族の情もなにもありはしない。特戦部隊がガンマ団に復帰することは、もう二度とない。ガンマ団本部兼自宅であり、俺の居場所でもあるここにあんたが帰ってくることも、もう二度と。
 ……ここのところ、窓の外を眺める時間が増えている。こないだうっかり仕事中にそれをして、未だ人の感情の機微には疎い従弟に、職務怠慢だと叱られた。もう一人の能天気だが鋭いところのある従兄は、時折もの問いたげな目で俺のことを見つめてくる。だが、おそらくいよいよというところになるまで、この従兄はなにも言ってはこないだろう。一方の俺も、いつまでもそんな自堕落を自分に許すつもりはなかった。
 特戦部隊の不在など、なにも今に始まったことではない。あんたの所在が掴めないのもいつものことだ。どうせどこぞで突拍子もないときにくたばるのだろうとも思っていた。それと同じことだ。以前となにも変わってはいない。──ほとんどなにも。
 珍しく仕事が早く終わったこの日も、俺は自室で窓にもたれ、ぼんやりと夕暮れの空を眺めていた。部屋に引きこもった俺を、意外にも家族はそっとしておいてくれる。気を遣われているのだろうかと思うと、少し苛立たしくもあった。そんなに俺は憔悴しているように見えるのだろうかと、不甲斐ない自分自身に対しても。
 ……だが実際、虚勢を張る気力すら、最近は覚束ないのが実情だ。
 窓の外の空は、見つめるうち、西の地平線に一刷毛の焔色を残し、ゆっくりと濃い群青色へと変化していった。辺りがすっかり暗くなって星が瞬き始めるまで、俺はそのままの姿勢で窓辺に佇んでいた。こんな気の抜けた様子を家族に見咎められるのが嫌で、俺は、「今だけだ」と言い訳がましく独り言ちながら、自室で繰り返し空を眺める。今日のように日のあるうちに帰れることは滅多にないから、たいていは彼誰時の薄紅を、そしてごく稀に黄昏時の茜色を。墨色の夜空ではなにも見えず、しかし真昼の青空はなにもかもが清澄にすぎて、どちらもなぜだか見るに耐えないものに思われた。
 ──本当に見たいものを、俺は見るわけにはいかない。
 俺は早くこの状況に慣れてしまわなければならない。俺の躊躇は、そのままガンマ団の動揺へとつながる。総帥自らが下した決断を後悔するなど、あってはならないことだ。
 だが、そんな俺を嘲笑うかのように、時折特戦部隊の近況が俺の元に届く。ガンマ団を離れた今、特戦部隊の驚異的な戦闘能力は当然見過ごしにできるものではなく、敵国の状況並に、その動きは逐一俺のところに報告されていた。──もっとも、よほどろくでもないことをしでかさない限り、ほとんどの報告は全て従弟に任せきりにしていたのだが。
 ただ、そのろくでもない情報は、俺が仕事に忙殺されているときや、遠征を終えて一息ついているときなど、あんたのことをすっかり忘れてしまっているときに限って、狙ったかのように告げられるのが常だった。そのたびに俺は苦虫を噛み潰したような顔をし、心中でそっと一喜一憂する。離脱した特殊部隊の動向とはいえ、それは本来なら総帥に報告するには些細すぎる内容のものだった。こんなわずらわしい報告はもう必要ないと、従弟に一任すればそれで十分事足りる程度の。なのに俺は、不意打ちのようにもたらされるその報告を、一度も拒むことはなかった。
 ──結局は、どんな形であっても、俺はあんたとつながっていたいのだろうか。いつかあんたが帰ってくるかもしれない可能性を、確保していたいのだろうか。
 甘い考えは持つだけ無駄だとわかっている。それに、この状況がお互いに良くないものであると、誰が言い切れるだろう。特戦部隊離脱直前に比べて、現状が悪いなどと、いったい誰が?
 ──良識を持つ者なら誰もが、これは避けられないものだったと言うだろう。遅かれ早かれ、特戦部隊は離脱することになっただろう、と。そしてそれは正しかったのだ、と。総帥としての俺の判断も同じようなものだった。──ひょっとしたら、特戦部隊隊長としてのあんたの考えも、似たようなものなのかもしれないな。
 ……だが、それなら、と俺は思う。それならばどうして、俺は特戦部隊の動向を、いちいち気にかけているのだろう。そしてどうしてあんたは、まるで俺の気を引くかのように、時折暴れてみせるのだろう。
 総帥の仕事は膨大にある。離脱した部隊の動きなど、それが特に警戒の必要なものでない限り、わざわざ確認するほどのこともない。──そしてあんたはと言えば、団を離れて好き勝手できるはずなのに、ガンマ団に楯突くような素振りを見せることは決してなかった。それを思えば、むしろ所属していたころの方がひどかったくらいだ。報告書に記された特戦部隊の所業は、あんたらにしてみれば暴れたなどとはとても言えないような、実にささやかないざこざばかりだった。
 俺がシンタロー個人としての自分より、総帥としての自分を優先させるのは当然だ。そしてそれはきっと特戦部隊隊長の肩書きを持つあんたも同じだったのだろう。だからこそ特戦部隊はガンマ団を離脱した。だが、未だ総帥という地位に縛られた俺と違い、あんたはもう自由だ。周囲には、部下というより、苦楽を共にした仲間のような奴らしかいない。多少の我儘も、今ならば許される。そう、今ならば──
 窓の外に眼をやりながら、俺はため息をついた。一瞬窓が曇り、瞬く間に晴れていく。俺は、ぼんやりと空を眺め、不意に視界の端をかすめる黒いものに慌てて正気にかえっては、それが鳥や木の葉、あるいはただの錯覚であったことに気づいて軽く落胆するということを、さっきから何度も繰り返していた。
 今ならば……いったい、なにができるというのだろう。
 ……俺は毎日、なにを待っているのだろう。
 俺はいつも、あんたになにかを期待しすぎてしまうのだろうか、と思う。俺はあんたになにを夢見ているのだろう。なぜ何度も決別していながら、また近づく術を模索してしまうのだろう。
 ──こんな社会的な状況に縛られた、絶望的な断絶の中でさえ、もう一度などと、どうして。
 だが、いくら懲りない俺たちでも、今回ばかりはどうにもならないだろう。いくら俺があんたを気にかけ、あんたが俺を意識したとしても、もうどうにも。
 俺がガンマ団総帥でなければよかった。もしくはあんたが特戦部隊隊長でなければ。どちらか一方の条件でも満たされていなければ、俺たちはここまで完璧に絆を断ち切られることなどなかったろうに。
 そしてシンタロー個人としての俺は、心密かにあんたに馬鹿な望みをかけている。あんたが公より私情を優先させてしまう瞬間がありはしないかと。特戦部隊よりガンマ団より、俺を選んでくれることがありはしないかと。
 ──しかしもし万が一そんな事態になった場合には、総帥としての俺も個人としての俺も、あんたを心から軽蔑することだろう。
 ……だが、最も愚かなのは、そのくせあんたに馬鹿な期待をしてしまう、俺自身であるのに違いない。


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(07.03.14.)
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思わず言ってしまいそうになって

 俺が子供なら泣いている。あるいは女でもあれば、あんたに縋って引き止めることもできるのかもしれない。あんたは冷たい男じゃないから、最後には行かねばならないのだとしても、泣く女子供をあっさり無下にすることはしないだろう。しばしとはいえ止まって、別離の傷を少しでも浅くするような言葉をかけてくれるのかもしれない。あるいは抱擁を──あるいは口づけの一つでも。……俺が無力な生き物であったなら。
 だが俺は女でも子供でもなく、まして無力で無能な生き物でもなかった。しかし例えそうでなくとも、シンタロー個人としてなら、あんたを引き止めることはできたのかもしれない。一時の激情とあんたのいないこれから先の長い時間を天秤にかければ……俺が少しでもそのことを思い出すことができたなら、そのときには。
 しかし俺はシンタロー個人である以前にガンマ団総帥で、あんたは特戦部隊隊長だった。団の方針・運営に係ることに、私情を差し挟むなどできるはずもない。まして、血の近い者ばかりが要職を占めるガンマ団にあっては、なおさらのこと。
 俺はガンマ団とその団員と世界の均衡とを担わねばならなかった。あんたは特戦部隊とその隊員の矜持を一身に引き受けねばならなかった。前総帥のやり方を根底から覆してしまった俺と、前総帥の下で長年活動してきたあんたとでは、上手くいかないだろうことはもうそもそもの始めから明らかだった。親父から俺に代替わりしたとき、ガンマ団を離れていった者は大勢いた。今更それにあんたが加わったのだとしても、俺にはもうどうすることもできない。
 ──ただ、どうせ離れていくのなら、俺の総帥就任時に出て行ってくれれば、まだよかったのに。
 それは俺の甘えだったのかもしれない。こうなることをあらかじめ予測していながら、あんたが自ら団を出て行かなかったことに、俺は内心安堵していた。変革期に前総帥の弟であり特戦部隊隊長でもあるあんたまでが団を離れるなどということがあれば、改革を推し進めることは一層困難になっただろう。だが、そんな政治的な理由ではなしに、俺はあんたが俺の傍にいてくれたことが嬉しかった。俺の目指しているものを、少しでも理解してくれたのだろうと思っていた。これまでもぶつかることは多々あった相手だから、これからも簡単にはいかないだろうが、それでもいつかはわかりあえる日が来るのだろうと、そんな期待すら抱いた。──俺自らが特戦部隊を切り捨てる方法もあるのだということを、俺は故意に無視していた。そうすることが最終的には、最も傷の少ない方法だったのだとしても。
 ……それらの錯覚や願望は、結局、無残としか言いようのない結末を招きよせてしまったのだけれど。
 俺の方が重いものを担っているのだなどと言い張るつもりはない。俺たちは、お互いに己の役割に忠実であろうとしただけなのだ。
 俺が総帥でなければ、と時折思う。真紅の総帥服を着ているときは、そんなことはもとより、あんたのことすらなるべく考えないようにしているけれども、自室に戻って私服に着替えた後、唐突に空虚な思いに囚われることがある。俺はガンマ団総帥であるがゆえに、こうしてあんたとの家族の絆まで断ち切らざるを得なかったのだと、呆然と思い至ってしまう瞬間が。
 ──例え俺が総帥でなかったとしても、きっとあんたのやり方は受け入れられなかっただろう。だが、ただの団員と特戦部隊隊長では、大きな対立に発展するはずもない。それに決別したところで、切れるのは組織上の関係だけで、家族としての絆は──多少は疎遠になるかもしれないが──こうまで完璧に断ち切られることには、ならなかったはずだ。
 しかし今や俺はガンマ団の総帥で、その俺が特戦部隊を切り捨てたというのなら、そこにはもはや家族の情もなにもありはしない。特戦部隊がガンマ団に復帰することは、もう二度とない。ガンマ団本部兼自宅であり、俺の居場所でもあるここにあんたが帰ってくることも、もう二度と。
 ……ここのところ、窓の外を眺める時間が増えている。こないだうっかり仕事中にそれをして、未だ人の感情の機微には疎い従弟に、職務怠慢だと叱られた。もう一人の能天気だが鋭いところのある従兄は、時折もの問いたげな目で俺のことを見つめてくる。だが、おそらくいよいよというところになるまで、この従兄はなにも言ってはこないだろう。一方の俺も、いつまでもそんな自堕落を自分に許すつもりはなかった。
 特戦部隊の不在など、なにも今に始まったことではない。あんたの所在が掴めないのもいつものことだ。どうせどこぞで突拍子もないときにくたばるのだろうとも思っていた。それと同じことだ。以前となにも変わってはいない。──ほとんどなにも。
 珍しく仕事が早く終わったこの日も、俺は自室で窓にもたれ、ぼんやりと夕暮れの空を眺めていた。部屋に引きこもった俺を、意外にも家族はそっとしておいてくれる。気を遣われているのだろうかと思うと、少し苛立たしくもあった。そんなに俺は憔悴しているように見えるのだろうかと、不甲斐ない自分自身に対しても。
 ……だが実際、虚勢を張る気力すら、最近は覚束ないのが実情だ。
 窓の外の空は、見つめるうち、西の地平線に一刷毛の焔色を残し、ゆっくりと濃い群青色へと変化していった。辺りがすっかり暗くなって星が瞬き始めるまで、俺はそのままの姿勢で窓辺に佇んでいた。こんな気の抜けた様子を家族に見咎められるのが嫌で、俺は、「今だけだ」と言い訳がましく独り言ちながら、自室で繰り返し空を眺める。今日のように日のあるうちに帰れることは滅多にないから、たいていは彼誰時の薄紅を、そしてごく稀に黄昏時の茜色を。墨色の夜空ではなにも見えず、しかし真昼の青空はなにもかもが清澄にすぎて、どちらもなぜだか見るに耐えないものに思われた。
 ──本当に見たいものを、俺は見るわけにはいかない。
 俺は早くこの状況に慣れてしまわなければならない。俺の躊躇は、そのままガンマ団の動揺へとつながる。総帥自らが下した決断を後悔するなど、あってはならないことだ。
 だが、そんな俺を嘲笑うかのように、時折特戦部隊の近況が俺の元に届く。ガンマ団を離れた今、特戦部隊の驚異的な戦闘能力は当然見過ごしにできるものではなく、敵国の状況並に、その動きは逐一俺のところに報告されていた。──もっとも、よほどろくでもないことをしでかさない限り、ほとんどの報告は全て従弟に任せきりにしていたのだが。
 ただ、そのろくでもない情報は、俺が仕事に忙殺されているときや、遠征を終えて一息ついているときなど、あんたのことをすっかり忘れてしまっているときに限って、狙ったかのように告げられるのが常だった。そのたびに俺は苦虫を噛み潰したような顔をし、心中でそっと一喜一憂する。離脱した特殊部隊の動向とはいえ、それは本来なら総帥に報告するには些細すぎる内容のものだった。こんなわずらわしい報告はもう必要ないと、従弟に一任すればそれで十分事足りる程度の。なのに俺は、不意打ちのようにもたらされるその報告を、一度も拒むことはなかった。
 ──結局は、どんな形であっても、俺はあんたとつながっていたいのだろうか。いつかあんたが帰ってくるかもしれない可能性を、確保していたいのだろうか。
 甘い考えは持つだけ無駄だとわかっている。それに、この状況がお互いに良くないものであると、誰が言い切れるだろう。特戦部隊離脱直前に比べて、現状が悪いなどと、いったい誰が?
 ──良識を持つ者なら誰もが、これは避けられないものだったと言うだろう。遅かれ早かれ、特戦部隊は離脱することになっただろう、と。そしてそれは正しかったのだ、と。総帥としての俺の判断も同じようなものだった。──ひょっとしたら、特戦部隊隊長としてのあんたの考えも、似たようなものなのかもしれないな。
 ……だが、それなら、と俺は思う。それならばどうして、俺は特戦部隊の動向を、いちいち気にかけているのだろう。そしてどうしてあんたは、まるで俺の気を引くかのように、時折暴れてみせるのだろう。
 総帥の仕事は膨大にある。離脱した部隊の動きなど、それが特に警戒の必要なものでない限り、わざわざ確認するほどのこともない。──そしてあんたはと言えば、団を離れて好き勝手できるはずなのに、ガンマ団に楯突くような素振りを見せることは決してなかった。それを思えば、むしろ所属していたころの方がひどかったくらいだ。報告書に記された特戦部隊の所業は、あんたらにしてみれば暴れたなどとはとても言えないような、実にささやかないざこざばかりだった。
 俺がシンタロー個人としての自分より、総帥としての自分を優先させるのは当然だ。そしてそれはきっと特戦部隊隊長の肩書きを持つあんたも同じだったのだろう。だからこそ特戦部隊はガンマ団を離脱した。だが、未だ総帥という地位に縛られた俺と違い、あんたはもう自由だ。周囲には、部下というより、苦楽を共にした仲間のような奴らしかいない。多少の我儘も、今ならば許される。そう、今ならば──
 窓の外に眼をやりながら、俺はため息をついた。一瞬窓が曇り、瞬く間に晴れていく。俺は、ぼんやりと空を眺め、不意に視界の端をかすめる黒いものに慌てて正気にかえっては、それが鳥や木の葉、あるいはただの錯覚であったことに気づいて軽く落胆するということを、さっきから何度も繰り返していた。
 今ならば……いったい、なにができるというのだろう。
 ……俺は毎日、なにを待っているのだろう。
 俺はいつも、あんたになにかを期待しすぎてしまうのだろうか、と思う。俺はあんたになにを夢見ているのだろう。なぜ何度も決別していながら、また近づく術を模索してしまうのだろう。
 ──こんな社会的な状況に縛られた、絶望的な断絶の中でさえ、もう一度などと、どうして。
 だが、いくら懲りない俺たちでも、今回ばかりはどうにもならないだろう。いくら俺があんたを気にかけ、あんたが俺を意識したとしても、もうどうにも。
 俺がガンマ団総帥でなければよかった。もしくはあんたが特戦部隊隊長でなければ。どちらか一方の条件でも満たされていなければ、俺たちはここまで完璧に絆を断ち切られることなどなかったろうに。
 そしてシンタロー個人としての俺は、心密かにあんたに馬鹿な望みをかけている。あんたが公より私情を優先させてしまう瞬間がありはしないかと。特戦部隊よりガンマ団より、俺を選んでくれることがありはしないかと。
 ──しかしもし万が一そんな事態になった場合には、総帥としての俺も個人としての俺も、あんたを心から軽蔑することだろう。
 ……だが、最も愚かなのは、そのくせあんたに馬鹿な期待をしてしまう、俺自身であるのに違いない。


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(07.03.14.)
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どちらが先に根負けするか

「──あんたが最初から、ちゃんと俺のことを見ててくれれば、それだけで良かったのに」
 口にしたとたん、馬鹿なことを言った、と思った。これではまるで泣き言のようじゃないか。こいつの前で泣くなんて、子供のときでもしたことがないのに。
 しかし実際、俺の頭の中はぐちゃぐちゃで、勝手に出てくる涙をこらえるので精一杯だった。


 かつてあんたは俺のことなどなんとも思っちゃいなかった。せいぜいが兄の子供である、ただそれだけの存在だった。ひょっとしたら、憎んでいた時期もあったのかもしれないな。あんたが嫌いなあの男に似ている、ただそれだけの理由で。でもそれは、どちらも俺に向けての関心じゃない。あんたは俺を通して、兄弟を、あるいは憎いあの男を見ていたんだ。あんたにとって、俺自身はどうでもいい人間だった。なんらかの特別な感情を持つ価値さえない、ガラクタ程度の重みさえない生き物だった。
 ──でも、そうだったからこそ、俺はあんたの好意を信じていられたんだ。
 それがこの世に存在するはずのないものだからこそ、俺はそれを信じた。そこには信じる余地があった。なにもないからこそ、思うことも夢見ることも自由だった。本物ではないかもしれない、飢えもおさまらないかもしれないけれども、俺はそれで十分満足していたんだ。そのままで良かった。強烈な現実よりも、生温いまどろみのままで。
 ──それが今や、あんたは俺のことが好きだと言う。俺のことが欲しいのだと。
 ……あるはずのないものが現実になったのなら、それを信じていた俺は考えを変えなければならない。
 あんたの俺に対する好意は存在する。だからもう、それを信じることはない。


「──ああ、そうだ。俺の気持ちは確かにちゃんとここにある。だから信じる必要はない。受け入れるか、拒絶するかだ」
 そう言って不敵に笑うこの男を、俺は心底嫌いだと思った。


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「──いったい、あんたのなにを信じろって言うんだ」
 そう言い捨てて、素直じゃない甥は、真一文字に結んだ唇を、無理矢理笑みのかたちに歪めた。いったいそこになにを押し隠すつもりなんだか、と俺は思う。隠したところで、お前の考えなんざ、こっちは全部お見通しなんだよ。


「──ああ、そうだ。俺の気持ちは確かにちゃんとここにある。信じるとか信じないとかの問題じゃねえ。受け入れるか拒絶するかだ。お前は論点をすり替えて、自分を誤魔化してるだけなんだ。逃げるんじゃねえよ、今更。嫌なら拒め。でなけりゃ俺を受け入れろ。二つに一つだ。簡単なことだろうが? お前が決断しないってんなら、俺は自分の都合のいいように、勝手にやらせてもらうぜ?」
 甥がこちらを睨んでくる、その鋭い目つきがいっそ心地良いくらいだった。他の誰かなら秒殺だろうが、あいにくと俺にはそれは通用しない。その程度の威嚇など痛くも痒くもないし、むしろかえって無茶をしたくなるというものだ。
 とは言え、甥が一言「嫌だ」と言いさえすれば、俺は本当に引き下がるつもりだった。拒まれてなお無理を通そうとするほど、俺はもう若くないし馬鹿でもない。ただ歳を取った分、そこそこ狡賢く、なにより臆病になっていた。俺はたかがこの程度のごり押しで、家族でもある甥との絆が最後の一つまで切れてしまうことを、内心ひどく恐れていたのだ。
 ──もしかしたら、甥も同じことを考えているのかもしれない。だからこそ、普段のようにあっさりと俺を拒絶することなく、こうして口を噤んでいるのだろうか。
 だが、それだけでなく、甥がこのやりとりに二の足を踏むのも当然だと、俺は自嘲気味に考えていた。……俺にはかつて、こいつとのささやかな信頼関係を反故にした前科があるのだ。
 それはこいつには全く責任のない、俺の一方的な思い込みにすぎなかったのだが、当時、未だ幼かった甥は、俺の思う以上に、そのことに傷ついていたのだろう。だからもう二度と同じことは御免だと、こうして必要以上に警戒しているのだ。
 ──そのことごとくが裏目に出ているのは、やはりまだ純真なのだと言うべきか。
 この場合、否定は肯定となり、拒絶は享受と同意だ。自分が隠された本当の心情を吐露していることに気づかず、ただ傷つきたくないのだと心を鎧うこいつを、ひどく愛しく思う。俺の手で傷つけたのなら、同じ俺の手で癒せないものかと願う。……昔どこかで、それは可能だと聞いた覚えがあるのだが。
 まだ喉の奥に隠している言葉があるのなら、さっさとそれを吐き出してしまえばいい。腐ってから吐き出されても、困るのはお互い様だからな。
 しかしこの頑固な甥は、腐った言葉でもそのまま腹に納めてしまいかねなかった。最後にはそれで苦しむことがわかっていても、咄嗟に目の前のプライドを優先させるタイプだ。──俺自身、人のことは言えないが。
 だからこういうとき、俺は自分が傍若無人と評されるような人間であることを思い出すようにしている。甥の心に無造作に踏み込んでも、俺が相手なのだからどうしようもないのだと、強引に納得させられる都合のいい評価だ。
「──答えはなしか? いい加減、時間切れだぜ」
 事態を先へ進めるべく、俺は痺れを切らしたふりをした。甥が黙ったままなのをいいことに、俺は少々乱暴にその顎をつかむと、素早く唇を重ね合わせる。突然のことに呆然とそれを受け止めた甥が、我に返って逃れようとするのを、がっちりと押さえつけた。触れた部分から甥の震えが伝わってきて、それに意外なほど興奮させられる。ことさらゆっくりと舌を這わせ、反応を促すよう時折唇をゆるく噛んでみても、なかなか甥は陥落しない。なにも感じていないはずはないのだが、これは思った以上に手間がかかりそうだった。俺は苦笑しながら唇を離し、鼻が触れ合うほど近くから甥の目を覗きこんだ。甥の心情そのままに不安定に揺れ動く視線を捉えながら、俺は甥の右手を取って自分の左胸、心臓の真上に引き寄せる。
「……お前があくまで『信じていたかった』ってんなら、かまわねえぜ。そうするといい。余計な現実を──俺をこの世から消しちまえよ。今なら、一発ですむ。ごく弱い《眼魔砲》でもな」
 俺がそう言うと、甥は目を見開いて身体を強張らせた。
「俺がいなくなれば、その後でなにをどう想おうがお前の勝手だ。好きにしろ。──いや、むしろそうしたいんだろうが?」
 ほら、と俺が促すと、甥は泣きそうに顔を歪めて緩く首を横に振る。掴まれたままの右手を振りほどこうともがくが、俺は自分の左胸に押し当てたそれを決して離さなかった。
 ──自分も諦めるのだから、俺もまた諦めれば、全ては丸く納まるとでも思っていたのだろうか。そうだというのなら、それは大きな間違いだ。そこに確かにあるものを消そうとするのに、なるべく傷つかず、汚れずになどという甘いことが、今更通用するはずもない。なによりこれこそが、お互いに傷を恐れ真実を誤魔化そうとした結果だというのに。
 俺たちが押し殺し続けてきた感情は復讐を要求する。もはや傷つくことを逃れる手立てなどありはしない。
 どちらにしろ傷はつく。だがどうせつく傷なら、甥の分まで俺自らがつけた方がマシだった。──例えそれが俺の傲慢にすぎないのだとしても。
「お前がなにもしないんなら、俺は俺の好きにさせてもらうぜ」
 もう譲歩はしねえ、と俺は再び甥に口づける。甥は一瞬、俺を鋭く睨んだ。暴れる素振りも見せたが、俺の方も容赦する気はなかった。身動きできぬほどしっかりと押さえ込み、いささか乱暴に唇を貪る。執拗な愛撫にやがて力尽きた甥は、口づけが深く重なるにつれ、諦めたようにゆっくりとその視線を閉ざした。
 閉ざされた目蓋の隙間から零れ落ちる涙を、俺はじっと見つめていた。口づけを次第に優しいものに変えながら、俺は、甥が今回のことは全て俺のせいにしてしまえばいいと願った。嫌がる甥に、俺が無理強いしたのだと。甥はただの被害者でしかないのだと。
 幼いとき、俺が甥のことを一方的に傷つけてしまったように、縒りを戻すのも俺の我儘で、甥はただそれに振り回されているだけなのだと。
 ──だが、聡く潔い甥がそのような欺瞞を受け入れることは、決してないだろう。
 たとえ俺が、そもそもの原因を作った責任を、一身に負うつもりなのだとしても。


「──あんたが最初から、ちゃんと俺のことを見ててくれれば、それだけで良かったのに」
 そう言いながら結局甥は、俺のことだけは許してしまうのだ。


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(07.03.09.)
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逃げれるものなら逃げてご覧

 その梅は、高松がくれたのだと言う。温室に植えてあるものが、一足早く花をつけたから、と。
 お前のところにも飾ってあるからね、と微笑む兄貴の部屋の卓には、当然のように白梅の一輪挿しがあった。こんな調子で、家族の部屋一つ一つに梅が置いてあるのだろう。相変わらずまめなことだ、と俺は軽く肩をすくめ、あいさつもそこそこに、戦利品の酒を持って兄貴の部屋を出た。
 くわえ煙草で廊下をふらふらと歩きながら、近頃落ち着きの悪かった感情が、あっさり酒をせしめられたからという理由ばかりでなく、少し和んでいるのを俺は感じ取っていた。一族を背負う要職にいる兄貴が、時折見せるこうしたひどく所帯じみた行為を、俺は必ずしも嫌いではない。
 久しぶりに自分の部屋へと入る。不在の間もこまめに手入れされているらしい部屋は、いつ帰ってきてもいいように清潔に整えられていた。それは俺が散らかし放題にして出て行った後でも変わらない。普段なら楽だとか便利だとしか思わないそのこと、時折家族の思いやりを感じて面映くなったりもするそのことが、今日に限って素気なく、よそよそしい様子に見えるのは、たぶん俺自身が少し神経質になっているからだろう。──もしくは、部屋に漂う蠱惑的な香りのせいか。
 閉め切っていた部屋の中は、今や、梅の香りで一杯だった。いささかきついが、決して不快ではない。むしろもっとその香りを求めたくなるような気にさせられる甘い空気。明かりも点けぬまま、足早に歩み寄った卓には、兄貴のところと同じように、花瓶に活けられた梅の花があった。兄貴のところよりも香りが強いのは、部屋を閉め切っていたせいばかりでなく、花の数の違いだろう。俺の部屋の梅には、二本の枝に十近い花が今を盛りと咲き誇っている。暗闇の中、わずかな明かりすらない状況で、甘い香りと共に、梅の花だけが白々と浮かび上がって見えた。
 ──それは、まるで花がひっそりと健気に俺を待っていたかのようで、俺は変に落ち着かないような、今すぐここから逃げ出したいような気分になった。
 ……もし俺が今日帰らなかったなら、なにかの気まぐれでどこか遠くに旅立ってしまい、ずっと戻らずにいたなら、この花はやがて枯れて、最初から存在しなかったように片付けられてしまったのだろうか。──確かにそこにあったことを、俺に欠片も知られることなく、永遠に。
 その想像は、妙に俺を寒々とした気持ちにさせた。実際、ほんの数時間前までは、出先からそのままふらりとまたどこかへ行ってしまうつもりでいたのだ。それが家へと戻ってきてしまったのは、どうにも酒が飲み足りなかったからにすぎない。タダ酒を飲みに戻ってきただけの部屋で、俺は今しか咲いていない梅の花を見る。──そこには嫌な偶然があるような気がして、俺は乱暴に長椅子に座ると、持ってきた酒瓶に直接口をつけた。
 今だ明かりも点けぬまま、俺は次々に酒を呷る。そして時折、別に見たくもない梅に目をやる。酒の香りに梅のそれが混じる。煙草に火を点けても、煙を掻い潜って梅の香りは届く。その甘く爽やかでいて人の心を蕩かすような香りは、俺の中のなにか穏やかならぬものを呼び覚ましそうで、それを無視するべく、俺は酒を飲み、煙草を吸う。そのくせ、気がつくと梅を見ている。その香りを求めている。
 紅梅ほど艶やかでもないくせに、と俺は一人毒づく。香りしか取柄のない白梅のくせに、桜ほど絢爛としてもいないくせに、どうして──
 ふと、この場所で、同じように俺を待っていたかもしれない存在のことが頭に浮かんだ。本当ならあいつが俺を待つ理由はない。だが、ほんの数ヶ月前に、俺は自らその理由を作り、うかつにも相手に与えてしまっていた。
 駄目だ、と俺は思う。こんなことを思い出しては駄目だ。勢い良く首を横に振る。酒を飲む。酔いに任せて忘れてしまおうとしていたのに、今頃になってそれは逆効果だったのだと気づく。酒のせいで、閉め切っていた記憶の扉がゆるんでいた。あのときの、地味な黒髪が艶やかに照り映えるさま、甘い鬱金色の肌のことも、あいつが誰よりも華やかな表情をすることも、もうとっくに俺は──
 いや、駄目だ。そんな考えはらしくない。この梅を飾ったのは兄貴であってあいつではない。あいつがそんな、可愛げのあることをするはずがない。
 そもそもあいつにとってすら、あのことは早く忘れ去りたい事実のはずだ。ならば、それが行われたこの部屋へやって来るはずがない。まして梅を飾るなど。──だが。
 だが、俺があいつを残したまま闇雲に部屋を出たあと、誰がこの部屋を整えたというのだろう?
 俺がこの家へ、まして自分の部屋へと、他人を連れ込むことなどありえない。それは家族の誰もがそうで、昔から暗黙の了解のようになっていた。
 もし家政婦の誰かがこの部屋を掃除したというのなら、俺が誰かを連れ込んだことは一目瞭然だろう。最悪、あいつと寝たことも知られてしまうかもしれない。しかし、先程会った兄貴からは、そのことを知っているような様子は微塵もなかった。知っていて隠しているというふうでもなかった。職業柄、いくら弟とはいえ、どんな理由があっても、兄貴は俺が他人を家に連れ込むことを許さないだろう。仮に俺とあいつが寝たことを知っていた場合でも、他のことならいざ知らず、兄貴があいつに関することで知らぬふりをするなど、そんな回りくどい対応ができるとは思えなかった。家政婦が知っていながら黙っているということもない。使用人は兄貴に絶対服従しているし、隠した後のことの方がよほど恐ろしいと、全員身をもって知っているからだ。
 そうだとすると、俺の部屋を整えたのは、やはり──?
 いや、それよりもなによりも、酒を理由に、俺がこの家に、この部屋にのこのこ戻ってきてしまったのは、それは──
 俺のゆるんだ思考回路に、梅の香りが忍び込む。梅の香りが俺を包む。俺の息を詰まらせ、つまらないことばかりを思い出させるその香りは、なにかにとてもよく似ていた。どこかで、梅の香りとしてでなく、楽しんだことがあるはず──
 鼻先に、ひやりとした滑らかな感触が蘇るようだった。かつて、艶やかなそれがうねるたびに、梅に似た甘い香りが漂っていた。
 ……奴の髪の香りは、どんなだっただろうと俺は思い返す。先の情事の際、抱きしめてその髪に顔を埋めた、そのときの香りは──
 俺は長椅子から立ち上がった。自分でも驚くような唐突な行動だった。空の酒瓶が絨毯の上に転がり、わずかに残っていた酒が小さな染みを作る。
 確かめなければ、と思った。あいつの髪の香りはもとより、身体の奥でくすぶっていた情欲の理由も、あいつがなにを考えているのかも、この先なにをなすべきなのかも──全てを。
 そのために帰ってきたのでないなら、俺は今すぐここから立ち去らなければならない。なにもなかったことにして、逡巡も欲望も後悔も捨て、あいつと以前通りの関係に戻らなければならない。──それが不可能であることはわかりきっていたし、逃げるつもりもさらさらなかったが。
 たちこめる梅の香りは、もはや紛い物でしかなかった。これが奴の罠なのだとしたら、自分自身に関して、ずいぶんと自信過剰になったものだ、と俺は笑う。
 シンタローを襲おう。今すぐに──
 もはや用のない梅の香りを振り切るように、俺は足早に部屋を後にした。


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(07.01.19.)

「ああ?」
 なんでこんなところにいるのだろうか。気晴らしのつもりでガンマ団本部に作られた広大な公園内を歩いていれば、藤棚の下で小山のように盛り上がった物体を見つけた。
 藤棚は、憩いの場として作られた本部の公園の中でも少し奥まった先にある。あまり人のこない場所なのだが、だからこそ、穴場としてちょくちょく訪れていたのだが、ここに自分以外の存在を見たのは初めてである。
 大体、少し前まで、この藤棚は味気ないものだった。藤は、落葉してしまうために、ただ太い藤の蔓が棚に巻きついているだけで物寂しいというか、そっけない。冬の最中は、シンタロー自身、ここに訪れることはないが、春が来れば違った。5月に入る頃になれば、ここは劇的に変わるのである。
 最初は、何かヒモのようなものがいくつもぶらさがっているだけのようなのだが、それが徐々にふっくらと膨らんできて濃紫色の花となり、さらに新しい若葉も芽吹き、数週間前とは見違えるほど鮮やかなものになるのだ。満開となる頃には、その華やかさを堪能するために、その下に設置されている背もたれのないベンチに寝転がって、眺めるのが楽しみだったのだが、今日は、残念なことに先着がいた。
 しかし、それは意外な人物でもあった。
「………なんで、こんなとこにおっさんが?」
 そう。そこにいたのは、叔父であり特戦部隊の隊長でもあるハーレムだった。確かに、今現在、特戦部隊には仕事を与えておらず、ヒマであることは間違いなかった。本部にいることも知っていた。しかし、こんなところで花を眺めるような風流さなど持ち合わせてはないはずである。
 首を傾げつつ近寄れば、目を瞑ったまま、ベンチに転がっている姿を眺めることになった。いったい、いつからここにいるのか、見た目には気持ちよさそうに眠っている。
(あ~あ)
 小さく溜息が漏れる。
 これでは自分は寝られなかった。ベンチは幅広いが、それでも大の大人が寝転がればはみ出すぐらいで、他の者が座る余裕すらない。
 蹴り飛ばしてどかすこともできるけれど、そんなことをすれば、報復されるのは間違いなかった。こんなところで争うほど、自分は馬鹿ではない。
 傍まで近づいたのはいいものの、起こすことなど出来ずに、せめて花見でもしようと頭上の花を見上げれば、不意に右手首がつかまれ、下へと強く引っ張られた。
「うわっ!」
 思わず声をあげた時には、すでに視界はぐるりと変わり、見上げなくても藤の姿があった。一瞬のうちにベンチの上に寝そべる格好となったのだ。だが、視界に映るのはそれだけではない。キラキラと金色に輝く眩しいもの。そして、さらに視界に割り込んできたのは、藤棚からかすかに見える空よりも青く深い瞳だった。
「………行き成りなにしやがる」
 寝転がったままでは迫力がないとはわかっていても、相手を睨みつければ、そこには金髪に碧眼の叔父が、にやにやとした笑みで見下ろしてくれていた。
「お前こそ、こんなところで何してんだよ」 
「俺は、ただの息抜きだ」
「俺も、息抜きだよ」
「こんなところで?」
「こんなところだからな」
 あっさりと答えてくれた後に、ハーレムは、ふっと空を見上げるようにして藤へと視線を向ける。意外だが。本当に意外だが。ハーレムもまた、藤が咲いているのを知っていて、ここへ来たようである。 
(似合わねぇ)
 思わず本音が浮かんだが、口には出さない賢明さは持ち合わせている。
「で、お前も昼寝をしに来たのか?」
 そう訊ねられれば、シンタローは首を振った。
「そこまでヒマじゃねぇよ」
 実際のところ本当にただ、この藤を見に来たのだ。休憩は、一時間ほどしかなく、軽い昼寝ぐらいならできるかもしれないが、うっかり寝入ってしまえば、後々仕事に影響が出てしまうし、他の者にも迷惑がかかってしまう。だから、一休みするぐらいの気持ちでここに来たのである。
「あんたはヒマでいいな」
「お前が、仕事を回してくれないからな」
 嫌味のつもりで言ったが、さらりと返され、さらに楽しげにニヤリと笑ってくれた顔に、ムカついてしまう。逆効果だ。腹立たしいことこの上ない。出来れば、ハーレムが率いる部隊も、使えるならば使いたい。人手が足りないほどではないが、それでも特戦部隊の戦力は惜しいのだ。けれど、使えない理由ははっきりしている。
「あんたが、やり過ぎなきゃ、いつでも使ってやるよ」
「そりゃ、無理だ。俺は俺の好きなようにしか力は使えねぇ」
「………役立たず」
「そうだな」
 笑って肯定されるのが、また悔しい。
 これ以上何を言っても苛立ちが増すばかりだと、口をつぐんでいれば、何を思ったのか、ハーレムの指先が動き、すっと目元に指先が触れた。びくっと震える自分を安心させるためなのか、小さな笑みを零し、やんわりと告げた。
「―――隈ができてるな」
 その指摘は、言われなくてもわかっていることで、シンタローはうざったけに、その指を払うように叩いた。
「寝てないのか?」
「忙しいからな」
 そっけなく返し、顔を横へと向ける。起き上がればいいのだが、一度そうしかけたら、肩を押さえつけられて妨害された。抵抗するのも疲れるから、寝転がったままでいるのだが、こちらの表情を全て見られてしまうのは、腹立たしい。
 顔をそらしたところで、むくれた顔を見られている。隈もそうだ。最近、仕事が立て込んでいて、ろくに睡眠をとれない日が続いていたために、くっきりと目元に浮かんでいるのである。それはどうしようもない。
 だが、その後に意外な言葉が続いた。
「ふぅん。じゃあ、寝ろ」
 さらりと告げられた言葉に、シンタローは、目を見開いて見上げた。
「はっ? ……ここで?」
「ああ」
「………俺、あと30分したら、もどらねぇといけないんだけど」
「それじゃあ、それまで寝てろ。起こしてやるから」
 そう言われたからといって、『はい、そうですか』と簡単には寝れない。じとりと相手を見上げれば、機嫌を損ねたのか、眉間にシワがよせられた。
「なんだ、その目は」
「いや……気持ちぐらい優しいな、と思って」
 そう言うと、ぐいっと鼻をつまみあげられた。
「ばーか。甥っ子の心配ぐらいして当然だろうが」
 ぐいぐいっと摘み上げるその手の甲を思い切りひっぱたく。
「あーもう、苦しいだろ!」
 簡単に離してくれはしたが、結構強く摘んでくれたために、ひりひり痛む鼻を両手でこすっていれば、ギロリと相手から睨まれた。
「いいから寝ろよ」
「ヤダ」
 そんな風に命令口調で言われては、従う気にはなれない。即行で拒否れば、鼻をさすっていた両手をつかまれ、頭上へと持ち上げられた。
「わがまま言うと―――――襲うぞ」
 身動きとれない状況のまま、重なるように身体を倒してくるハーレム。抵抗するヒマもなく、それを受け入れるしかない。
「ッ!」
 だが、触れたのは唇だけだった。
「ハーレムッ!」
 それもすぐに離れてくれたものの、両手は不自由のままで怒鳴れば、相手はいまだ凄みをもった表情で、言い放った。
「これ以上されたくなかったら、大人しく眠れ」
 何を考えているのか真剣な眼差し。そこに本気の色を見つけて、気勢を弱めさせられる。
 なぜ、そこに固執するのかはわからないものの、間近に見下ろされた相手の瞳の中に、盛大に真っ赤にした顔の自分が映るのが見えた。ただのキスに、羞恥と怒りに染まる顔。それ以上それを見たくなく、シンタローは、ギュッと眼を閉じた。
「………おやすみッ!」
 相手の言うことを聞くのはかなり癪だが、これ以上抵抗すれば、本気で襲われる気がする。とりあえず、目を閉じてじっとしていれば、ごそごそと服を探る音がする。かすかに紙がこすれる音の後、カチッと火を灯すライターの音。だが、すぐに盛大な舌打ちとともにそれをしまわれる音がした。
「……吸っていいぜ」
 ぱちりと目を覚まし、自分の頭の上のわずかなスペースに腰掛けていたハーレムに告げれば、苦々しい顔をされた。その手には、しまいかけたタバコの箱がある。
「いい。吸う気がなくなった」
 嘘だ。あそこまでして、タバコをやめる理由はない。無意識にタバコを取り出したのはいいが、近くで寝ている自分に気付いてやめてくれたのだ。
「なあ……」
「寝ろっていっただろ」
「そんなにすぐには寝れねぇよ―――――っていうか俺を眠らせたい理由でもある?」
 なんとなくそんな気がした。自分の隈に触れた時のハーレムの顔が、どこか遠くを眺めるような目線だった。だが、それは過去を懐かしむというよりは、何か痛い記憶を思い出してしまったような顔だった。
 目を開けたまま、じっと相手の顔を見つめていれば、観念したのか、困ったように髪をかきあげた後、藤の方へと視線を向け、口を開いた。
「兄貴が………親父が死んだ後、まだお前よりずっと早くに総帥になったマジック兄貴がよ。お前のように、隈を作ってた」
「親父が?」
 驚いて、その反動で起き上がろうとしたが、すぐにハーレムの視線が自分に戻り、それを制せられた。
 だが、ハーレムの言葉は初耳だった。自分の知っている父親は、無駄なほど元気な上に、いつ仕事をしているのかと思うほど自分の傍にいてくれていたのだ。だからこそ、今の自分の状況に不甲斐なさを覚えていた。自分は、まだまだだと、過去の父親の姿を思い出すたびに打ちのめされていた。けれど、親父も―――マジックも、自分のように目元に隈を作っていた時代があったのだ。
「―――俺はなんとかしてやりたいと思ったけど、その頃はまだ子供だった兄貴よりもずっと幼かったからな………ただ、見ていることしか出来なかった」
 ハーレムの口から語られる父親の姿は、意外すぎて想像し難く、ただ後悔しているのか苦い表情を浮かべたままのハーレムに、ふと思い浮かんだ言葉を口に乗せ告げた。
「俺は、親父の変わりか?」
「ばーか」
 とたんに大きな手の平が、瞼の上におかれる。戦うもの手特有のごつごつした無骨な、けれど温かな手が視界を覆う。
「それとこれとは別だ。あの時の兄貴がどれだけ大変だったかわかってるから、お前の苦労も知っているっていうだけだよ。………悪いな、こんくらいしか力になれんで」
 視界を塞がれたために、彼がどんな顔をして言っているのかわからないが、きっと、照れ臭そうな顔をしているだろう。珍しいその表情を見れないことが残念だった。
 自分もそれほど器用な人間ではないが、彼もまたかなり不器用な人間なのだ。
「いいや。十分役立ってるよ。時間がきたら……よろしくな」
 理由がきけたせいだろうか、ハーレムの好意に甘えようと思えた。時間がくれば起こしてくれる。そう思えるから、素直にそれを受け入れる気になった。
「ああ―――お休み」
 瞳は温かな闇に覆われたまま。めったに聞けない優しい声を耳にしつつ、すっと全身の力を抜けば、睡眠不足が祟ってすぐに睡魔が訪れる。だが、今はそれに抗うことなく受け入れた。
 さわさわ、とかすかな音がする。優しい春風を受け、藤の花と花が互いに擦れ合う音。それを聞きながら、ゆっくりと深い眠りについていった。
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