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美貌の獣

 最近、俺の部屋に、派手な金色の獣が居着くようになった。
 別に俺が飼っているというわけじゃない。そんな可愛げのある獣じゃないし、そもそも、自分の本来のねぐらであるこの家にすら、滅多に寄り付かないような奴なのだ。
 それがなぜだか、このところ、定期的に帰ってくるようになった。しばらくの間、滞在していることすらある。──それも自分の部屋でなく、俺の部屋に。
 きっかけはたぶんあれだろう、と俺は思う。俺のありようを、家族や一族の運命全てを変えたあの島での出来事。俺はともかく、この獣が島にいた時間はごく短かったはずだ。一緒にいたわけではないから詳しいことは知らないが、滞在時間は短くとも、それなりに色々なことがあったらしかった。
 獣が家に居着くようになったのは、あの島から帰って以降のことだ。それはこの獣に限ってのことではなく、一族の者全員がそうだった。獣の双子の弟も、今では外に出ることの方が珍しい。そうして傷を持つ者、同じ経験を持つ者同士が一つ所に寄り集まって、過去を修復し、改めて互いの関係を見定めようと模索している最中のようだった。
 その結果は、まだ、目に見えて現れてはいないけれど、今のところは、それで十分だろうと俺は思う。人はそう急に変われやしない。あの島にずっといた俺にすら、一年という時間が必要だった。こうして少しずつでも、皆が新しい絆を、前とは違う互いのありようを見出していってくれるのなら、俺たちはいつかきっと、ちゃんと前を向いて歩き出せるようになるだろう。……そう、幼い弟が目覚めるころまでには、きっと──
 そこまで考えて、俺は寝台の隣に寝そべっている獣の顔をちらりと見下ろした。
 以前なら、こんなふうに、人前で無防備に寝こけるなんてことは絶対にしなかった。少なくとも、俺と寝たときはそうだった。俺が知っているのは、すでに身支度を終えて煙草を吸っている姿か、とうに冷たくなったシーツの感触だけだ。──そしてほとんどの場合、俺は一人取り残されていた。こんなふうに、寝顔を眺めたり、温もりを分け合ったりなんてことは、あるはずのない幻にも似た現実だ。
 俺はこいつのことがわからない、と思う。昔からそうだったが、今は余計にそう思うようになった。兄弟との決着を早々につけてしまったらしいこいつが、どうして今更、俺と向き合ってみる気になったのか、と。
 ──そう、あの島でのことがあって、父や弟、叔父や従兄弟との関係がことごとく変化したにも関わらず、俺はなぜだか、この獣との関係だけは、変わることはもうないのだろうと、諦めにも似た気持ちを漠然と持っていたのだった。例え俺が変わって、相手もまた変化したのだとしても、この関係をどうこうするまでに至ることは、きっとないのだろう、と。この関係にどうしても決着をつけねばならないと思えるような必然を、俺もこいつも、持ち合わせてはいないだろう、と。
 ……それは俺の、ただの錯覚、願望に近い思い込みにすぎなかったのだけれど。
あれだけの急激な変化の中で、どうして俺とこいつの関係だけは変わらないだろうなんて思うことができたのか──どうして、そう思っていたかったのか。
 全ての変化に、一度に対応することは確かに難しい。父や従兄弟との関係は、割合あっさり落ち着いたのだけれども、かといって、それに簡単に適応できたわけでもない。俺は無意識のうちに、かつてひどく曖昧だった分、変化のしようがなかったこの獣との関係を、今や最も強固な足場としてそれに寄りかかり、精神の安定を図っていたのかもしれなかった。
 獣も、そのことを見抜いていたのだろうか。──もしかしたら、獣自身がそうだった可能性も、今なら考えられる。
 獣は、俺の気持ちがある程度安定し──少しばかり長くあの島にいた恩寵というべきだろうか、皆より一足早く立ち直り、周囲の試行錯誤を客観的に見る余裕ができたころを見計らうようにして、ひっそりと俺の傍に忍び寄ってきたのだった。


 獣が酒の匂いをさせて俺の部屋に来たとき、俺は「またか」と少々呆れにも似た気持ちを抱いた。それと同時に「やはり」と安堵するような心持ちも。
 しかし、かつて俺と獣とが繰り返していたあの行為を今また再開するというならば、それはもはやなんの意味もないことのように思われた。以前ならば、そこには、いかに相手を屈服させ、自分の支配下に置くかという欲望と、圧倒的な力に対し、いかに抵抗して最後の砦を守るかという攻防があったものだが、あの島から帰って以来、お互いに対するそんなあからさまな敵意にも似た感情は、鳴りを潜めて久しかった。
 実際、俺の部屋にやって来た獣には、以前のような覇気は欠片もなかった。どことなく部屋に招き入れられるのを待つような素振りすら見えて、なんとなく過去の再現ばかりを予想していた俺を、ひどく戸惑わせた。
 所在なさげな獣をとりあえず部屋に入れ、他愛ない会話をし、昔のように酒を酌み交わす。かつてならそこには、酒を飲んでいてさえ互いの隙を見逃すまいとする張り詰めた空気が流れていたものだが、向かい合う獣の視線はどこか茫漠としていてとらえどころがなく、俺のことをちゃんと認識しているのかどうか怪しいとすら思えた。俺の目の前で、こんな無防備ともいえる様子でいること自体、初めてのことだ。──底無しのこいつに限って、酒を過ぎたわけでもあるまいし。
 だが俺は、機嫌良く酒を飲む獣を眺めながら、どうしても警戒を解くことができずにいた。隙だらけの態度も無防備な様子も、全ては俺を欺くための演技で、俺が安心して調子を合わせたとたん、あっという間に飛びかかってきて喉笛に喰らいつくのかもしれないと、そんなことばかりを考えていた。
 以前なら、十中八九、俺の想像は的を射ていたことだろう。そうして途中になにがあるにせよ、最終的には俺の全てを喰らおうとする獣に対し、死に物狂いで抵抗していただろう。
 ──しかし、今や、その考えは、全くの見当違いのように感じられた。
 あの島に行って俺は変わり、それはこの獣も同じだった。その二人が、例え過去の再現を望み、それを叶えるべく努力したところで、もはやそれは、二度と実現するはずのないものだ。少なくとも自分自身に関しては、俺はこの獣に対して、以前と同じように接することはもうないのだとわかっていた。
 俺は家族との関係を再構築する際に、この獣との関係を放置する代わりに休息所として利用した。そして家族との関係が決着し、一応の安定を得た今こそ、それを足場として、この獣と改めて向き合うときが来たのかもしれない。
 獣は、そのことをわかっていたのだろうか、と俺は思う。それとも、獣自身、それを確認するために、ここにこうしているのだろうか──
 そう思うと、一人で神経を尖らせているのが、馬鹿らしくなってきた。ちびちびと舐めていた酒を、獣に倣い一気に空ける。その様子を獣がさりげなく観察しているように感じられたが、俺は無視した。
 ──今更、この獣に喰われることが、いったいなんだというのだろう。
 かつて、俺はそれを恐ろしくてたまらないことだと思っていた。少しでも付け入る隙を与えたなら、全てをぼろぼろに喰い荒されてしまいそうで、俺の全てが欠片も残らず獣のものになってしまいそうで、獣との関係も行為も、なに一つ受け入れられずにいた。まして、獣がどのような意図でもって、このような行為を仕掛けてくるのかについて、思いを巡らすことなど。
 だが、今や俺は、俺の全てが獣のものになることなど決してないと知っている。例え獣がどれほどそれを望もうと、俺自身が、そうすべく全てを差し出したとしても、決して。
 ──それは、なんと虚しく、実りのないやり取りだったことだろう。
 無益なことと知りつつ、その行為を繰り返さずにはいられなかったかつての獣に対し、俺は哀れみにも似た感情を覚えた。そしてその獣を無下に拒み続けてきた、自分の幼さ、かたくなさに対するやりきれない気持ちも。
 ──そう、獣に俺自身を明け渡したとして、それがいったいなんだというのだろう?
 むしろ今なら、進んで我が身を差し出てもかまわないとすら俺は思った。試してみても悪くないと、好奇心にも似た気持ちで。
 俺が自分からこの身を差し出したとしたら、この獣はいったい、どんな反応を示すだろう。驚くか、警戒するか、それとも、これ幸いとばかりに、俺を貪り尽くすだろうか。
 試してみたい、と思った。常に獣の方から仕掛けてきたあの行為を、今、俺の方から仕向けてみたとしたら、いったいどうなるのか──
 その愉快な思いつきに、俺は気を取られていた。久しぶりの酒に、ほどよく酔っていたというのもあるかもしれない。
 ──会話が途切れ、ふと顔を上げると、ごく間近に獣の吐息が迫っていた。少し驚きはしたものの、酔いに紛れてそれが表に出ることはなかった。躊躇いがちに伸ばされる手を、俺は甘んじて受け入れた。それどころか、ちょうどいいと自ら手を伸ばし引き寄せさえした。
 俺の上にのしかかる獣は、いつになく神妙な顔つきをしていた。もしかしたら昔のことを思い出し、俺の様子を窺っているのかもしれない。その気遣うような態度がおかしくて、俺は笑った。顔をしかめる獣に、自分から口づけた。
 気まぐれな雨のように、口づけは降る。頬に、額に、目蓋に、鼻先に──そして唇に。
 それらは全て軽く触れるだけのもので、情愛の欠片もなかった以前との違いも甚だしかった。慣れない感触は、しかし、俺を容易く陶然とさせた。もどかしい触れあいがひどく心地よく、いくらでも際限なく欲しいと思ってしまう。欲望を抑える必要がなく、むしろ煽るように自ら唆すことも面白かった。熱を帯びた獣の身体をもっと実感したくて、俺は抱き寄せる腕に力をこめる。煙草の苦味の混じった体臭は、懐かしいような新鮮なような、なんともいえない香りがして、俺はいっそう強く獣にしがみついた。
 互いの身体の昂りを知りながらも、そこにはかつてのような性急さや荒々しさは欠片もない。酩酊感を助長させるようなゆったりした心地よさと、安心感をもたらす人肌の温もりだけがある。それこそ、仲良くじゃれあう二匹の猫かなにかのようだと思った。
 獣の手が、俺の身体を優しく辿る。それは熱を煽るというよりむしろ眠りを誘うような動きで、まるで子供にするようなそれに、俺はまた笑った。
 ──まったく、この期に及んで、一体なにをするつもりなんだろうな、このオッサンは?
 最後までやらなけりゃ意味がないなんて言うつもりはないが──することがいちいち極端だ。まさかこのまま、健全な叔父と甥の関係に戻るつもりでもあるまいし。
 だが、それと心地よい愛撫を拒むかどうかはまた話が別だった。こんな夢のような状況は、もしかしたらこれ一度きりかもしれないのだ。俺は「なるようになれ」と思い決め、獣に全てをゆだねた。──このまま仲良く眠るのも事に及ぶのも、気が変わって昔のように振舞うのも、全部獣のやりたいようにするといい。
 獣の漣のような愛撫は、ずいぶんと長いこと続いた。アルコールのせいもあってか、予想よりずっと早く訪れた睡魔に、俺はぎりぎりまで抵抗を試みた。まどろみの中、時折落とされる口づけに俺が反応すると、かすかに笑うような気配がして、手つきがいっそう優しくなる。眠りに落ちる最後の最後まで、俺は獣の身体の重みと温もりを感じていた。


 翌朝、俺は一人、寝台で目覚めた。部屋にはもはや人の気配は欠片もなく、卓の上の酒瓶やグラスがなかったなら、昨日のことは全て夢だったのかと勘違いしてしまうところだった。
 ──だが、昨日のことが現実だとわかったところで、それがなんだというのだろう。
 結局、俺はまた、かつてのように取り残されてしまったのだ。こんな現実を味わわなければならないのならばむしろ、夢だった方が良かったとすら俺は思った。少なくとも、酒を酌み交わしたことだけが現実で、残りが全て夢だったなら……もしくは身体や寝台に情交の名残があったなら、まだ良かった。だが、そのような痕跡は全くない。独りの部屋はひどく寒々としていて、まるで俺の心情をそのまま移し替えたようにも見える。
 ……昨日のことは俺の錯覚にすぎなかったのだろうかと考えて、俺は唖然とした。獣のことを、二人の関係を試そうとして、逆に試されていたのは俺だったのだろうか。俺は自分自身を明け渡すという自己犠牲的な行為に酔っていて気づかなかっただけで、それをされる獣の方は、とっくに俺のことなど必要ないと思っていたのかもしれない。昨日、二人の間になにもなかったのは、これから関係が変化していく予兆だったのではなく、もう先が見えたと獣が判断したからなのではないか。──獣の不在は、そのことを最も端的に表しているように感じられた。
 ……俺は、獣に俺自身を明け渡してもいいと思った。それは、同じように獣の一部を俺に差し出して欲しかったからなのだと、今になってわかる。かつて、獣が求めたときに拒絶したのは、自分ばかりが貪られるのではないかという恐れと、見返りを欲するさもしい心持ちのせいだ。
 俺は、あの獣が欲しかったのだ──それを自らに認めるまでに、俺は長い時間がかかった。
 そして今や、獣の方ではもう俺を欲しくないという。
 またか、と俺は思った。またこうして、俺たちはすれ違いを繰り返すのだろうか。昔と同じように、自分の感情に足を取られたまま──
 俺は変わったはずだった。昔と同じ過ちは、もう繰り返すことはないはずだった。
 けれど──今だけはどうしても、先へと進む気力が湧かない。
 あの獣は俺にとって、想像以上に重要な存在だったのだなと、改めて思う。
 同じくらい大切な存在だった父や従兄からは、ある程度明確な意思表示があったから、昔も今も、割合容易に相手のことや関係の変化を受け入れることができたし、こちらも思うことを口にすることができた。むろん、なんでも口にすればいいってものじゃないし、あえて言わないこと、言えないことだって当然ある。しかしそれは、思わせぶりな言動と偏見に満ちた俺と獣との関係に比べれば、はるかにまともで、健全なありようなのだと言えた。
 俺と獣とは、二人のこの関係について、昔も今も、はっきりとした意思表示をしたことがなかった。獣がこのことについて、なにを考えているのか──俺のことをもう特別に必要としなくなってしまったのか、ごく普通の叔父と甥の関係に戻ろうとしているのか、それとも別のなにかを意図しているのかについてすら、俺は明確に判断することができない。そこにはただ、俺の煩雑な想像や願望が入り混じっているだけだ。
 そしてまた、俺は自分の意思を相手に伝えることもしなかった。都合のいい状況に甘え、被害者のふりをするだけで、「あんたが欲しい」とは、一度だって。
 今こそ、それをしなければならないのだ、と俺は思う。そもそもの始めに行動を起こしたのが獣の方なら、意思表示は俺の方からしなくてはならないのかもしれない。なんとなく勝負に負けたような気がして癪に思わないでもないが、後悔するくらいならその方がはるかにマシだ。
 ──だが、今、たった一人のこの部屋で、その決心を固めるのは少し辛い。
 俺はもう一度布団の中にもぐりこんだ。一人の事実を否応なく思い知らされる広い空間など、いつまでも見ていたくなかった。
 布団の中で、胎児のように丸くなる。
 ──あともう一眠りすれば、ほんの少しだけ時間を置けば、きっと気持ちもいくらかは落ち着いて、このことに対処する気力も湧いてくるだろう。
 自分の気持ちをさらけ出して、二人の関係を明確にし──たとえそれがどんなものに落ち着こうとも、最後までちゃんとしていられるように。
 ……だから、あともう少しだけ。
 シーツには、かすかに煙草の香りが残っていて、それが夢の中にまでまとわりついてくるようだった。


 ──結論から言うと、俺と獣との関係は、あれからしばらく時間がたった後も、依然として曖昧なままだった。
 あのあと、俺が束の間のまどろみから覚めてみると、部屋の中には当たり前のように獣の姿があって、これこそは夢なのだろうかと、俺は唖然とするしかなかった。
 そのとき、上機嫌で俺におはようのキスをしてきやがった獣を、俺が容赦なく殴ったとしても、ことさら非難されるようなことじゃないと思う。
 意外だったのは、そこから喧嘩が始まらなかったことだ。軽い口論程度で終わり、《眼魔砲》どころか、拳が上がることすらなかった。もしかしたら、お互いに、普段の調子が戻ってきていないことを、気にしていたのかもしれない。
 それからまたなしくずし的に酒を飲み、一緒の寝台で寝た。身体を重ねることはしなかった。なんとなく、お互いが傍にいればそれで十分、というような雰囲気になっていた。
 そんな関係がことあるごとに続き、結局、そのまま現在に至っている。
 俺が言いたいことを言う機会は、未だ訪れないままだ。獣の方でも、俺の意思や、自分の行為がどう思われているかについて、一向に頓着していないように思える。
 現状に対して、焦りがないわけではない。この状態がひどく心地良いことは確かだったが、それがいつまでも続かないだろうことを、俺はとっくに察知していた。──獣の方はどうだか知らないが……ありていに言って、歳だからとっくに枯れちまってるのかもしれないが、こっちは、欲しい相手が隣で寝てるのを見過ごしにできるほど、衰えてはいないのだ。
 いっそのこと、俺の方から襲っちまうか、とも思う。今までさんざん突っ込まれてきたのだ。一度くらい俺の方から突っ込んでみたって、罰は当たらないだろう。
 ──だが、俺のその不穏な考えが伝わったのか、不意に獣がぱちりと目を開いた。
 獣が目を開けるその一瞬、俺はどうしてもその瞳の色に見とれてしまう。それは一族の者に対して、多少の差はあれど同じようなものだった。さすがに長いこと傍にいる父親や従兄に見とれるようなことはもう滅多にないが、この獣に関しては、未だに免疫ができない。
 俺がぼんやりしていた隙に、獣は腕を伸ばして素早く俺を抱きこんだ。身体が心地良い温もりに包まれる。獣は冷え切った俺の身体にひとしきり文句を言い、毛布ですっぽりと包んでしまった。まだ早いからもう少し寝てろとか、そんなことを呟いて。
 ……この状況には覚えがある。確か幼いころ、この獣と寝るとき、寝台から落ちたり毛布からはみ出て風邪をひいたりしたら拙いからと、身動きもままならぬくらいしっかりと抱きしめられて寝たものだ。最初のときは、叔父とはいえ父親ではない相手と一緒に寝るという状況に、子供なりに変に緊張してよく眠れなかった。そのことを思い出して一人笑っていると、獣が訝しげに俺を見る。いちいち説明するのも面倒で適当に言い繕ったが、獣は納得がいかない表情で、ただ強く俺のことを抱き寄せた。
 こいつはやっぱり、普通の叔父と甥の関係に戻ろうとしているのだろうか、と思う。最近の獣とのやりとりは、酒が絡むことの他は、全て俺が幼いころの二人の関係を思い起こさせた。──まともだったあのころからもう一度やり直せば、過去に上書きしてちゃんとした関係を築きなおせると思っているみたいに。
 でもそんなのは欺瞞だと俺には思える。仮に過去に戻ってやり直したところで、俺たちは絶対に同じ過ちを繰り返すはずだ。あの関係を経たからこそ今の俺たちがあるのに、なぜ今更過去をやり直さなければならないのか。こうしてお互い向き合う気になったのは、過去を振り返るためでなく、未来に向けて歩き出すためのはずだったのに。
 ──……殊更、言いたいことを言う機会がないわけじゃない。俺が黙ってそれを見送っていただけの話だ。
 俺はもういい加減に「あんたが欲しい」と言わなければならない。そして獣がそれを拒むかもしれないことを覚悟し、傷つくことを受け入れなければならない。心地良い時間は、もう十分に過ごした。これ以上は、怠惰に堕ちるばかりだ。
 俺は意外と、かつて置き去りにされた記憶を、やり直すことに決めた最初の日の一人の朝のことを、ずっと引きずっていたのかもしれない。拒絶されることが怖くて、小さな不満を抱えながらも、こんな現状も悪くはないと、自分を誤魔化し続けてきたのだ。
 もう、先延ばしにする必要はない。言い訳も尽きたし、自分の臆病さにも見切りをつけていいころだ。
 獣の身体の温もりを俺は全身で感じ取る。この温もりがこれから先も、俺の傍にあったらどんなにいいだろうかと願う。でもそれは叶わない夢かもしれない。だから今のうちに、この温もりを十分に感じて、覚えておこうと思った。
「ハーレム」
 俺は獣の名を呼んだ。眠そうに閉じられようとしていた獣の目が、再び俺を見つめる。
 その瞳の青にやっぱり一瞬見とれて、同時に俺はその魔力に引き寄せられたみたいに獣の唇に自分のそれを重ねた。今の俺たちにとって口づけとは、ただ唇を触れ合わせるだけの、親しい者の域を出ない程度の行為だ。だが俺は今回だけは、触れただけで終わらせるつもりはなかった。
 唇の隙間から、そっと舌を滑り込ませる。それだけのことに馬鹿みたいに緊張して、舌先に感じた煙草の苦味に、うっかり唇を離しかけた。それはかつて嫌になるほど慣らされた味だった。久しぶりだったからとか、今更そんな間抜けな理由で二の足を踏みたくない。なにより自分にそんな躊躇を許したくない。俺は息を詰めて、よりいっそう強く唇を押し付けた。
 ──なにも反応がなかったらどうしようだとか、思い悩む暇もなかった。
 俺が一舐めするうちに、相手の口が素早く開いて、一気に舌を絡め取られる。驚いて咄嗟に逃げようとすると、後頭部を力強い手でがっしりと押さえ込まれた。そのまま、息を継ぐ間もなくいいように翻弄される。しかしそれは、昔のような一方的なものではなく、お互いの気持ちを確認し、感情を交わらせる行為のように思われた。
 涙で滲んだ視界に、愉快そうに笑う獣の顔が映る。
「──やっと、目が覚めたな」
 獣は、俺に言い聞かせるように、あるいは自分に確認するように言った。それは、今までの俺たちの迷走に、妙にしっくりくるような言葉に聞こえた。
 ──俺は……俺たちはずいぶんと、遠回りをしたけれども。
 俺は笑って獣に同意し、その首に腕を回して、もう一度口づけをねだった。


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(07.03.02.)
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hm


 なにかの折に、オッサンがプラスチックの小さな容器を投げてよこした。それを危なげなく受け取って、訝しげな表情をする俺に、「使え」と素気なく言う。いかにも医務室で配られそうな入れ物を開けてみると、中身はワセリンだった。
「お前、唇ガッサガサ」
 オッサンは顔をしかめながら言う。──要するに、最近のキスの具合が気に食わなかったらしい。俺自身、多少気にしてはいたものの、面と向かって言われると、かえってむかっ腹が立った。
「嫌なら触らなけりゃいいだろ」
 口答えする俺に、オッサンは肩をすくめる。
「いいから持ってろ。そして使え。乾燥気にしたり、しゃべるたびに血まみれになるよかよっぽどマシだろ。それに──」
 オッサンは、なんだか気に障る、含みのある笑みを浮かべた。
「他にも、使い道はあるしな」
 首を傾げる俺には答えず、オッサンは「捨てるなよ」と念を押すと、さっさと部屋を出て行ってしまった。

 ──後日、その『使い道』とやらを身をもって知った俺が、高松に頼み込んでまともなリップクリームを貰い受けたのは、言うまでもない。


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(07.04.02.)
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微睡む

 目を開けると、黒髪がシーツに長々と散らばっているのが見えた。少し前まではいちいちはっとさせられたその光景にも、もういい加減慣れていいころだ。
 というよりむしろ、慣れなければいけないのだろうな、とハーレムは思う。それは奇妙な余裕と不思議に口惜しいような感慨をハーレムにもたらした。慣れるのは良いことなのだろうが、完全にそうなってしまうまでもう少し、この変にこそばゆいような感覚を味わっていたい気もする。
 シンタローはよく眠っていた。昨夜の行為のせいばかりではない。シンタロー同様、戦場に身を置くことを常としているハーレムには、どんな状況であれ深い眠りというものがどういう意味を持つのか、嫌と言うほどわかっていた。
 このような無防備なシンタローを見るのは、最近を別にすれば子供のとき以来だ、とハーレムは思う。子供の無邪気さで全てを預けていたかつてのように、シンタローはハーレムに全てをさらけ出して平然としているように見えた。──当のハーレムが柄にもなく不安を覚えてしまうほどには。それは誇らしいのと同時に、ひどくあやういことのようにも思えた。少なくともハーレムには、こうして睦み合っている次の瞬間にも、状況によってはシンタローを害するかもしれない可能性を否定しない。
 ……もっとも、覚悟しているからといって、傷つかないわけではないが。
 だから許されるときには、少しでも長くこうして温もりを分け合っていようとハーレムは思う。このささやかな時間がこの先も定期的に続くだろうなどと考えるほどには、ハーレムはおめでたくも盲目でもなかった。自分たちはいつかまた必ず齟齬を来たす。それは以前のように簡単に修復できるものかもしれないし、もしかしたら今度こそ決定的な亀裂になるのかもしれない。だがそうして取り返しのつかないことになっても、かつて温もりを分け合ったというこの記憶があるのなら、自分とシンタローはきっとそれぞれに生きていけるのだろう。──たとえ互いの姿が傍になくとも。
 そんなことをつらつらと考えているうち、不意にシンタローがぱちりと目を開いた。突然のことに息を詰めたハーレムを他所に、シンタローは夢とも現ともつかぬ目でハーレムを見つめると、なにごとかをつぶやいてその身体を抱き寄せた。額に唇を寄せ、髪を撫でると、そのまま再び眠りにつく。なにをされているのか理解できないままのハーレムを残して。
 ……シンタローは、誰かハーレムではない別の者の名を呼んでいたようだった。
 普段なら、そんな勘違いをされて黙っているハーレムではない。だが、シンタローが呼んだのは、もはやいずことも知れぬ楽園に住む、かけがえのない友人の名だった。
 寝惚けるにもほどがある、と胸の中で独り言ち、ハーレムは苦く笑う。楽園の少年はシンタローを置いて旅立ってしまったのだが、ハーレムにはどうしても、それは自分たち青の一族がシンタローを縛りつけた結果だとしか思えなかった。
 ──楽園を知った者が、この世界で生きていけるのか。誰にも理解されず、傷つき、穢され、歪められてしまうだけなのではないか。
 シンタローを守らなければならない、とハーレムは思う。ただし本人には気づかれぬように、密やかに巧妙に──シンタローを残していってくれた楽園の少年のためにも、そしてなにより、この世界に止まってくれたシンタロー自身のためにも。
 シンタローがハーレムの捻くれた愛情を理解することは一生あるまい。そしてその方が双方にとって幸いだとハーレムは思う。なぜならこの価値観は、青の一族特有のおぞましい執着の一部に他ならないのだから。
 蜜月は予想以上に短く、破綻は想像以上に早く訪れることだろう。それでもハーレムはそのことを嘆きはしない。もたらされるものの大きさを思えば、自分の支払うべき代価など安いものだ。
 すぐ傍にはシンタローの寝息と鼓動がある。それが失われるのは先のこと、少なくとも今ではない。
 ならばこの現状を十分に堪能しようとハーレムは思った。未来は未来。今から思い悩むことはない。今はまだ。
 そうしてハーレムもまた、シンタローの腕の中で眠りに落ちた。鼓動を子守唄に、子供のように。


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(07.05.16.)
hj
くすぐる

 キスまでは、いい雰囲気だった。その前に飲んだ極上の酒のせいかもしれないが、甥はいつもより素直だったし、おかげで俺の機嫌も良かった。
 だが、シャツの釦を外し、肌を愛撫し始めたとたん、甥は唐突に笑い出した。無視して行為を続けようかとも思ったが、甥の爆笑が一向に納まらず、ついには腹をかかえてしまったのを見て、俺はため息をついて身体を離した。
「……いったい、なんだってんだ。急に」
 不機嫌さを隠さずに言うと、甥は目尻の涙を拭いながら、「だって」と弁解する。
「だって、あんたの手が、くすぐったくて」
 我慢できなかったのだと、せっかくの雰囲気をぶち壊しておきながら、甥は悪びれる様子もない。
 甥に言われて改めて手を見ると、指先は乾燥して白く粉をふいたようになっており、爪も先端があちこちひび割れてささくれができていた。
「うわ、ひでえ手荒れ。水仕事でもしてたのか、あんた」
 一緒になって手を覗き込んでいた甥がふざけて言う。むろんそんなはずはなく、この手荒れは長い遠征のおまけのようなものだった。ことさら気にする余裕もなく、いつの間にか慣れてしまっていたのだが、今になって思わぬところに落とし穴があったというわけだ。
 俺は甥の頭を軽く小突くと、行為の先を続けるべきか否か少し迷った。続きをしたいのは山々だが、また爆笑されるのだろうかと思うと気力が萎える。ついでに甥が「そんなぎざぎざの爪で俺に突っ込むつもりだったのかよ」などと身も蓋もなく非難するものだから、余計に気持ちが落ち込んだ。
 ふてくされて寝転んだ俺を、甥が笑みを浮かべて見る。
「……続き、しないのか」
「がさがさの手じゃ、嫌なんだろうが?」
 俺は脇机の煙草を取り、それに火をつけた。しばらくその様子を見守っていた甥は、俺が半ばほどまで煙草を吸い終えたころ、俺から煙草を奪ってそのまま灰皿に押しつけた。
「なにしやがる」
「余所見するあんたが悪い」
 睨む俺を気にもせず、甥は俺の手を取ると、そのうちの一本を口に咥えた。ゆっくりと舐めしゃぶり、唾液をからませると、別の一本に移る。そうして乾いた指先を全て湿らせて、甥は悪戯っ子のように笑った。
「こうすれば、気にならない」
 ──あとは爪で傷つかないように、あんたが気を使ってくれればいい話だ。
 甥はまだ乾いたままの方の手を取ると、それにも舌を這わせ始めた。うっかりそれを凝視しそうになった俺は、甥の珍しい積極的な誘いに答えるべく、濡れた手をその身体に滑らせた。
 ──要するに、笑う余裕すら奪ってみろって、そういうことだろ?


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(07.04.17.)
hj
悪態をついて、それから

 自分の失敗に気がついたのは、間抜けにもかなり時間が経ってからのことだった。
 総帥室に入り、座りなれた椅子に腰を落ち着けたとたん、鼻先をかすめた香りに、俺は顔をしかめた。
 ──それは、もうほとんど奴自身の体臭と化してしまったような、苦味のある煙草の香りだった。
 一瞬、奴の体臭が移ったか、とも思ったが、それにしては香りがきつすぎる。確かに昨夜は奴と一緒にいたが、こんなふうに直接燻されたのかと思うほど大量の煙草を吸っていた覚えはなかった。俺が眠った後の奴の行動までは保障できないが、朝早くにシャワーは浴びてきたし、それにこれは移ったというような生易しい香りではない。
 ……おまけに、数日間着続けた服特有の──ついでに言えば中年男特有の──汗と脂の微妙な臭いまでして、俺はすぐさま総帥服の下に身につけたシャツを脱ぎ捨てたくなった。
 だが、それをしようにも、あいにく替えのシャツはない。相棒や秘書に連絡して持ってこさせようかとも思ったが、その理由を説明するのが面倒でやめた。このことに関しては、いくら双子同然の相棒や勝手知ったる秘書とはいえ──いや、だからこそ、聡い相手に少しでも察知されたくはないと思うのだ。
 俺は椅子の上で身じろぎした。気づいたとたん、やたらシャツが肌にまとわりつくような気がする。不潔なものを身につけているという嫌悪感よりもむしろ、意識せざるを得ない強烈な煙草の香りが容易に昨夜の記憶を引き連れてきて、整然とした職場で俺は頭を抱えたくなった。
 今日一日、この状態で仕事をするのか。いやむしろその後、このシャツをどう処分したらいいのか。
 洗って返すのではなんだか俺が奴の家政婦みたいで苛立たしい。それにシャツを返すという口実で、あまり間を置かずに奴と顔を合わせることになるのもどうか。奴が返せと言ってくるのならともかく。
 かといって、このシャツをすぐさま捨ててしまうのも、なんだか後ろめたいような気がする。──あくまでもシャツに対して、だが。
 つまらないことを真剣に考えて興奮したせいか、体温に煽られて煙草の香りがさらにきつくなったように思う。汗で肌に張り付いたシャツは、いっそう俺をいたたまれない気持ちにさせた。


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 違和感に気づいたのは、甥が部屋から出て行ったあと、煙草でも吸うかと、いつもの習慣で無意識にシャツのポケットを探ったときのことだった。
 ポケットの中に目的のものはなかった。──当然だ。ことが終わって眠る甥の隣で一服したあと、脇卓に放り投げておいたままだったのだから。
 だが、問題はそんなことではなかった。
 かすかではあるが、妙に清潔感のある爽やかな香りに、俺は眉をひそめた。この香りには覚えがあると思い、俺はすぐさまその答えにたどりついた。なぜなら、その香りは、昨夜身近で嗅いだばかりのものだったのだから。
 俺は舌打ちして、乱暴に頭をかき回した。服を取り違えるなんざ、ずいぶんとだらしなく寝ぼけていたものだ。先に着替えたのは甥の方なのだから、間抜けなのはあちらの方で、自分に非はないとも言えるが、それにしたって袖を通した時点で気づくぐらいできるだろう。
 軽くて肌触りのいいシャツに、今更のように落ち着かなくなる。甥が着て行ってしまったらしい自分のシャツは、ここ数日着替えた覚えがないもので、そうとう汚れくたびれていたはずだ。綺麗好きの甥がいつまでもそのことに気づかないなんてことはないだろう。速攻ゴミ扱いか、良くて洗濯機直行か──どちらにしろすぐさま脱ぎ捨てられるに違いないと思うと、当然のことではあるのになぜだかやたら腹が立った。
 甥がなにか言ってくるまで、俺は知らぬふりを決め込むことにした。向こうが勝手に俺のシャツを捨てるのなら、こちらが甥のシャツを勝手に失敬したところでかまわないはずだ。着るものを特別気にしたことはない。むしろ仕立てのいいシャツを手に入れられて、得したと言ってもいいくらいだ。
 俺は脇卓の煙草に手を伸ばし、一本咥え火をつけようとして──やめた。火をつけずにただ咥えているだけでさえ、煙草からは独特の乾いた強い香りが漂ってくる。それは簡単にシャツの残り香をかき消してしまった。いつものように煙草を吸い続ければ、その香りはあっという間にシャツへと染み付いてしまうだろう。そしてそうした方が、俺にはきっとずっと過ごしやすい。──だがなぜだか、煙草を吸う気にはなれなかった。
 俺は苛立ちも顕わに煙草を箱に戻した。このまま煙草を吸わないでいるなど考えられない。今すぐに着替える必要があったが、あいにく服は飛行船に汚れ物がいくつかあるだけ。新しいものを買おうにも金はない。部下から巻き上げるか、親族にたかるかする必要がある。
 飛行船にいるであろう部下たちも、昨日久しぶりに顔を合わせたばかりの親族も、おそらく俺が煙草を口にしていないことに気づくだろう。そのことをいちいち指摘するほど間抜けな奴らではないだろうが、気づかれたというだけで十分不快な出来事だ。
 単純にシャツを脱いでしまえばいいのに、俺はそれもしなかった。室内の空調は万全で、ことさら外にでなければならない理由もなかったにもかかわらず。
 俺はしばらく抵抗したあと、言い訳がましく携帯電話を手に取った。甥が電話口に出るまでに、袖を通す前から服が違うことにはとっくに気づいていましたという態度を整えておかねばならなかった。


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(07.07.02.)
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