悪態をついて、それから
自分の失敗に気がついたのは、間抜けにもかなり時間が経ってからのことだった。
総帥室に入り、座りなれた椅子に腰を落ち着けたとたん、鼻先をかすめた香りに、俺は顔をしかめた。
──それは、もうほとんど奴自身の体臭と化してしまったような、苦味のある煙草の香りだった。
一瞬、奴の体臭が移ったか、とも思ったが、それにしては香りがきつすぎる。確かに昨夜は奴と一緒にいたが、こんなふうに直接燻されたのかと思うほど大量の煙草を吸っていた覚えはなかった。俺が眠った後の奴の行動までは保障できないが、朝早くにシャワーは浴びてきたし、それにこれは移ったというような生易しい香りではない。
……おまけに、数日間着続けた服特有の──ついでに言えば中年男特有の──汗と脂の微妙な臭いまでして、俺はすぐさま総帥服の下に身につけたシャツを脱ぎ捨てたくなった。
だが、それをしようにも、あいにく替えのシャツはない。相棒や秘書に連絡して持ってこさせようかとも思ったが、その理由を説明するのが面倒でやめた。このことに関しては、いくら双子同然の相棒や勝手知ったる秘書とはいえ──いや、だからこそ、聡い相手に少しでも察知されたくはないと思うのだ。
俺は椅子の上で身じろぎした。気づいたとたん、やたらシャツが肌にまとわりつくような気がする。不潔なものを身につけているという嫌悪感よりもむしろ、意識せざるを得ない強烈な煙草の香りが容易に昨夜の記憶を引き連れてきて、整然とした職場で俺は頭を抱えたくなった。
今日一日、この状態で仕事をするのか。いやむしろその後、このシャツをどう処分したらいいのか。
洗って返すのではなんだか俺が奴の家政婦みたいで苛立たしい。それにシャツを返すという口実で、あまり間を置かずに奴と顔を合わせることになるのもどうか。奴が返せと言ってくるのならともかく。
かといって、このシャツをすぐさま捨ててしまうのも、なんだか後ろめたいような気がする。──あくまでもシャツに対して、だが。
つまらないことを真剣に考えて興奮したせいか、体温に煽られて煙草の香りがさらにきつくなったように思う。汗で肌に張り付いたシャツは、いっそう俺をいたたまれない気持ちにさせた。
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違和感に気づいたのは、甥が部屋から出て行ったあと、煙草でも吸うかと、いつもの習慣で無意識にシャツのポケットを探ったときのことだった。
ポケットの中に目的のものはなかった。──当然だ。ことが終わって眠る甥の隣で一服したあと、脇卓に放り投げておいたままだったのだから。
だが、問題はそんなことではなかった。
かすかではあるが、妙に清潔感のある爽やかな香りに、俺は眉をひそめた。この香りには覚えがあると思い、俺はすぐさまその答えにたどりついた。なぜなら、その香りは、昨夜身近で嗅いだばかりのものだったのだから。
俺は舌打ちして、乱暴に頭をかき回した。服を取り違えるなんざ、ずいぶんとだらしなく寝ぼけていたものだ。先に着替えたのは甥の方なのだから、間抜けなのはあちらの方で、自分に非はないとも言えるが、それにしたって袖を通した時点で気づくぐらいできるだろう。
軽くて肌触りのいいシャツに、今更のように落ち着かなくなる。甥が着て行ってしまったらしい自分のシャツは、ここ数日着替えた覚えがないもので、そうとう汚れくたびれていたはずだ。綺麗好きの甥がいつまでもそのことに気づかないなんてことはないだろう。速攻ゴミ扱いか、良くて洗濯機直行か──どちらにしろすぐさま脱ぎ捨てられるに違いないと思うと、当然のことではあるのになぜだかやたら腹が立った。
甥がなにか言ってくるまで、俺は知らぬふりを決め込むことにした。向こうが勝手に俺のシャツを捨てるのなら、こちらが甥のシャツを勝手に失敬したところでかまわないはずだ。着るものを特別気にしたことはない。むしろ仕立てのいいシャツを手に入れられて、得したと言ってもいいくらいだ。
俺は脇卓の煙草に手を伸ばし、一本咥え火をつけようとして──やめた。火をつけずにただ咥えているだけでさえ、煙草からは独特の乾いた強い香りが漂ってくる。それは簡単にシャツの残り香をかき消してしまった。いつものように煙草を吸い続ければ、その香りはあっという間にシャツへと染み付いてしまうだろう。そしてそうした方が、俺にはきっとずっと過ごしやすい。──だがなぜだか、煙草を吸う気にはなれなかった。
俺は苛立ちも顕わに煙草を箱に戻した。このまま煙草を吸わないでいるなど考えられない。今すぐに着替える必要があったが、あいにく服は飛行船に汚れ物がいくつかあるだけ。新しいものを買おうにも金はない。部下から巻き上げるか、親族にたかるかする必要がある。
飛行船にいるであろう部下たちも、昨日久しぶりに顔を合わせたばかりの親族も、おそらく俺が煙草を口にしていないことに気づくだろう。そのことをいちいち指摘するほど間抜けな奴らではないだろうが、気づかれたというだけで十分不快な出来事だ。
単純にシャツを脱いでしまえばいいのに、俺はそれもしなかった。室内の空調は万全で、ことさら外にでなければならない理由もなかったにもかかわらず。
俺はしばらく抵抗したあと、言い訳がましく携帯電話を手に取った。甥が電話口に出るまでに、袖を通す前から服が違うことにはとっくに気づいていましたという態度を整えておかねばならなかった。
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(07.07.02.)
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自分の失敗に気がついたのは、間抜けにもかなり時間が経ってからのことだった。
総帥室に入り、座りなれた椅子に腰を落ち着けたとたん、鼻先をかすめた香りに、俺は顔をしかめた。
──それは、もうほとんど奴自身の体臭と化してしまったような、苦味のある煙草の香りだった。
一瞬、奴の体臭が移ったか、とも思ったが、それにしては香りがきつすぎる。確かに昨夜は奴と一緒にいたが、こんなふうに直接燻されたのかと思うほど大量の煙草を吸っていた覚えはなかった。俺が眠った後の奴の行動までは保障できないが、朝早くにシャワーは浴びてきたし、それにこれは移ったというような生易しい香りではない。
……おまけに、数日間着続けた服特有の──ついでに言えば中年男特有の──汗と脂の微妙な臭いまでして、俺はすぐさま総帥服の下に身につけたシャツを脱ぎ捨てたくなった。
だが、それをしようにも、あいにく替えのシャツはない。相棒や秘書に連絡して持ってこさせようかとも思ったが、その理由を説明するのが面倒でやめた。このことに関しては、いくら双子同然の相棒や勝手知ったる秘書とはいえ──いや、だからこそ、聡い相手に少しでも察知されたくはないと思うのだ。
俺は椅子の上で身じろぎした。気づいたとたん、やたらシャツが肌にまとわりつくような気がする。不潔なものを身につけているという嫌悪感よりもむしろ、意識せざるを得ない強烈な煙草の香りが容易に昨夜の記憶を引き連れてきて、整然とした職場で俺は頭を抱えたくなった。
今日一日、この状態で仕事をするのか。いやむしろその後、このシャツをどう処分したらいいのか。
洗って返すのではなんだか俺が奴の家政婦みたいで苛立たしい。それにシャツを返すという口実で、あまり間を置かずに奴と顔を合わせることになるのもどうか。奴が返せと言ってくるのならともかく。
かといって、このシャツをすぐさま捨ててしまうのも、なんだか後ろめたいような気がする。──あくまでもシャツに対して、だが。
つまらないことを真剣に考えて興奮したせいか、体温に煽られて煙草の香りがさらにきつくなったように思う。汗で肌に張り付いたシャツは、いっそう俺をいたたまれない気持ちにさせた。
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違和感に気づいたのは、甥が部屋から出て行ったあと、煙草でも吸うかと、いつもの習慣で無意識にシャツのポケットを探ったときのことだった。
ポケットの中に目的のものはなかった。──当然だ。ことが終わって眠る甥の隣で一服したあと、脇卓に放り投げておいたままだったのだから。
だが、問題はそんなことではなかった。
かすかではあるが、妙に清潔感のある爽やかな香りに、俺は眉をひそめた。この香りには覚えがあると思い、俺はすぐさまその答えにたどりついた。なぜなら、その香りは、昨夜身近で嗅いだばかりのものだったのだから。
俺は舌打ちして、乱暴に頭をかき回した。服を取り違えるなんざ、ずいぶんとだらしなく寝ぼけていたものだ。先に着替えたのは甥の方なのだから、間抜けなのはあちらの方で、自分に非はないとも言えるが、それにしたって袖を通した時点で気づくぐらいできるだろう。
軽くて肌触りのいいシャツに、今更のように落ち着かなくなる。甥が着て行ってしまったらしい自分のシャツは、ここ数日着替えた覚えがないもので、そうとう汚れくたびれていたはずだ。綺麗好きの甥がいつまでもそのことに気づかないなんてことはないだろう。速攻ゴミ扱いか、良くて洗濯機直行か──どちらにしろすぐさま脱ぎ捨てられるに違いないと思うと、当然のことではあるのになぜだかやたら腹が立った。
甥がなにか言ってくるまで、俺は知らぬふりを決め込むことにした。向こうが勝手に俺のシャツを捨てるのなら、こちらが甥のシャツを勝手に失敬したところでかまわないはずだ。着るものを特別気にしたことはない。むしろ仕立てのいいシャツを手に入れられて、得したと言ってもいいくらいだ。
俺は脇卓の煙草に手を伸ばし、一本咥え火をつけようとして──やめた。火をつけずにただ咥えているだけでさえ、煙草からは独特の乾いた強い香りが漂ってくる。それは簡単にシャツの残り香をかき消してしまった。いつものように煙草を吸い続ければ、その香りはあっという間にシャツへと染み付いてしまうだろう。そしてそうした方が、俺にはきっとずっと過ごしやすい。──だがなぜだか、煙草を吸う気にはなれなかった。
俺は苛立ちも顕わに煙草を箱に戻した。このまま煙草を吸わないでいるなど考えられない。今すぐに着替える必要があったが、あいにく服は飛行船に汚れ物がいくつかあるだけ。新しいものを買おうにも金はない。部下から巻き上げるか、親族にたかるかする必要がある。
飛行船にいるであろう部下たちも、昨日久しぶりに顔を合わせたばかりの親族も、おそらく俺が煙草を口にしていないことに気づくだろう。そのことをいちいち指摘するほど間抜けな奴らではないだろうが、気づかれたというだけで十分不快な出来事だ。
単純にシャツを脱いでしまえばいいのに、俺はそれもしなかった。室内の空調は万全で、ことさら外にでなければならない理由もなかったにもかかわらず。
俺はしばらく抵抗したあと、言い訳がましく携帯電話を手に取った。甥が電話口に出るまでに、袖を通す前から服が違うことにはとっくに気づいていましたという態度を整えておかねばならなかった。
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(07.07.02.)