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逃げれるものなら逃げてご覧

 その梅は、高松がくれたのだと言う。温室に植えてあるものが、一足早く花をつけたから、と。
 お前のところにも飾ってあるからね、と微笑む兄貴の部屋の卓には、当然のように白梅の一輪挿しがあった。こんな調子で、家族の部屋一つ一つに梅が置いてあるのだろう。相変わらずまめなことだ、と俺は軽く肩をすくめ、あいさつもそこそこに、戦利品の酒を持って兄貴の部屋を出た。
 くわえ煙草で廊下をふらふらと歩きながら、近頃落ち着きの悪かった感情が、あっさり酒をせしめられたからという理由ばかりでなく、少し和んでいるのを俺は感じ取っていた。一族を背負う要職にいる兄貴が、時折見せるこうしたひどく所帯じみた行為を、俺は必ずしも嫌いではない。
 久しぶりに自分の部屋へと入る。不在の間もこまめに手入れされているらしい部屋は、いつ帰ってきてもいいように清潔に整えられていた。それは俺が散らかし放題にして出て行った後でも変わらない。普段なら楽だとか便利だとしか思わないそのこと、時折家族の思いやりを感じて面映くなったりもするそのことが、今日に限って素気なく、よそよそしい様子に見えるのは、たぶん俺自身が少し神経質になっているからだろう。──もしくは、部屋に漂う蠱惑的な香りのせいか。
 閉め切っていた部屋の中は、今や、梅の香りで一杯だった。いささかきついが、決して不快ではない。むしろもっとその香りを求めたくなるような気にさせられる甘い空気。明かりも点けぬまま、足早に歩み寄った卓には、兄貴のところと同じように、花瓶に活けられた梅の花があった。兄貴のところよりも香りが強いのは、部屋を閉め切っていたせいばかりでなく、花の数の違いだろう。俺の部屋の梅には、二本の枝に十近い花が今を盛りと咲き誇っている。暗闇の中、わずかな明かりすらない状況で、甘い香りと共に、梅の花だけが白々と浮かび上がって見えた。
 ──それは、まるで花がひっそりと健気に俺を待っていたかのようで、俺は変に落ち着かないような、今すぐここから逃げ出したいような気分になった。
 ……もし俺が今日帰らなかったなら、なにかの気まぐれでどこか遠くに旅立ってしまい、ずっと戻らずにいたなら、この花はやがて枯れて、最初から存在しなかったように片付けられてしまったのだろうか。──確かにそこにあったことを、俺に欠片も知られることなく、永遠に。
 その想像は、妙に俺を寒々とした気持ちにさせた。実際、ほんの数時間前までは、出先からそのままふらりとまたどこかへ行ってしまうつもりでいたのだ。それが家へと戻ってきてしまったのは、どうにも酒が飲み足りなかったからにすぎない。タダ酒を飲みに戻ってきただけの部屋で、俺は今しか咲いていない梅の花を見る。──そこには嫌な偶然があるような気がして、俺は乱暴に長椅子に座ると、持ってきた酒瓶に直接口をつけた。
 今だ明かりも点けぬまま、俺は次々に酒を呷る。そして時折、別に見たくもない梅に目をやる。酒の香りに梅のそれが混じる。煙草に火を点けても、煙を掻い潜って梅の香りは届く。その甘く爽やかでいて人の心を蕩かすような香りは、俺の中のなにか穏やかならぬものを呼び覚ましそうで、それを無視するべく、俺は酒を飲み、煙草を吸う。そのくせ、気がつくと梅を見ている。その香りを求めている。
 紅梅ほど艶やかでもないくせに、と俺は一人毒づく。香りしか取柄のない白梅のくせに、桜ほど絢爛としてもいないくせに、どうして──
 ふと、この場所で、同じように俺を待っていたかもしれない存在のことが頭に浮かんだ。本当ならあいつが俺を待つ理由はない。だが、ほんの数ヶ月前に、俺は自らその理由を作り、うかつにも相手に与えてしまっていた。
 駄目だ、と俺は思う。こんなことを思い出しては駄目だ。勢い良く首を横に振る。酒を飲む。酔いに任せて忘れてしまおうとしていたのに、今頃になってそれは逆効果だったのだと気づく。酒のせいで、閉め切っていた記憶の扉がゆるんでいた。あのときの、地味な黒髪が艶やかに照り映えるさま、甘い鬱金色の肌のことも、あいつが誰よりも華やかな表情をすることも、もうとっくに俺は──
 いや、駄目だ。そんな考えはらしくない。この梅を飾ったのは兄貴であってあいつではない。あいつがそんな、可愛げのあることをするはずがない。
 そもそもあいつにとってすら、あのことは早く忘れ去りたい事実のはずだ。ならば、それが行われたこの部屋へやって来るはずがない。まして梅を飾るなど。──だが。
 だが、俺があいつを残したまま闇雲に部屋を出たあと、誰がこの部屋を整えたというのだろう?
 俺がこの家へ、まして自分の部屋へと、他人を連れ込むことなどありえない。それは家族の誰もがそうで、昔から暗黙の了解のようになっていた。
 もし家政婦の誰かがこの部屋を掃除したというのなら、俺が誰かを連れ込んだことは一目瞭然だろう。最悪、あいつと寝たことも知られてしまうかもしれない。しかし、先程会った兄貴からは、そのことを知っているような様子は微塵もなかった。知っていて隠しているというふうでもなかった。職業柄、いくら弟とはいえ、どんな理由があっても、兄貴は俺が他人を家に連れ込むことを許さないだろう。仮に俺とあいつが寝たことを知っていた場合でも、他のことならいざ知らず、兄貴があいつに関することで知らぬふりをするなど、そんな回りくどい対応ができるとは思えなかった。家政婦が知っていながら黙っているということもない。使用人は兄貴に絶対服従しているし、隠した後のことの方がよほど恐ろしいと、全員身をもって知っているからだ。
 そうだとすると、俺の部屋を整えたのは、やはり──?
 いや、それよりもなによりも、酒を理由に、俺がこの家に、この部屋にのこのこ戻ってきてしまったのは、それは──
 俺のゆるんだ思考回路に、梅の香りが忍び込む。梅の香りが俺を包む。俺の息を詰まらせ、つまらないことばかりを思い出させるその香りは、なにかにとてもよく似ていた。どこかで、梅の香りとしてでなく、楽しんだことがあるはず──
 鼻先に、ひやりとした滑らかな感触が蘇るようだった。かつて、艶やかなそれがうねるたびに、梅に似た甘い香りが漂っていた。
 ……奴の髪の香りは、どんなだっただろうと俺は思い返す。先の情事の際、抱きしめてその髪に顔を埋めた、そのときの香りは──
 俺は長椅子から立ち上がった。自分でも驚くような唐突な行動だった。空の酒瓶が絨毯の上に転がり、わずかに残っていた酒が小さな染みを作る。
 確かめなければ、と思った。あいつの髪の香りはもとより、身体の奥でくすぶっていた情欲の理由も、あいつがなにを考えているのかも、この先なにをなすべきなのかも──全てを。
 そのために帰ってきたのでないなら、俺は今すぐここから立ち去らなければならない。なにもなかったことにして、逡巡も欲望も後悔も捨て、あいつと以前通りの関係に戻らなければならない。──それが不可能であることはわかりきっていたし、逃げるつもりもさらさらなかったが。
 たちこめる梅の香りは、もはや紛い物でしかなかった。これが奴の罠なのだとしたら、自分自身に関して、ずいぶんと自信過剰になったものだ、と俺は笑う。
 シンタローを襲おう。今すぐに──
 もはや用のない梅の香りを振り切るように、俺は足早に部屋を後にした。


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(07.01.19.)
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