Auf die Hande kust die Achtung,
「──ごめんなさい、好きなんです」
言いながら、リキッドは俺の手に口づける。まるでそれが貴重なものででもあるかのように恭しく押し頂き、深く頭を垂れて、何度も。
リキッドの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。その傍らでこの、いわゆる『愛の告白』に一方的に興奮してもいるらしく、赤くなったり青くなったりを繰り返した。
リキッドは何度も謝りながら、何度も「好き」と繰り返す。百面相と相俟って、それは微妙に滑稽な状況にも見えていた。謝るくらいなら最初から言うなよ、と俺は内心呆れたが、元々が迂闊で考えなしなこの馬鹿のことだ。なにかの拍子に、うっかり普段の物思いが口から出てしまったのだろう。
そのきっかけがなんだったのか、つい先程のことなのに、この突拍子もない状況のせいか、俺にはよく思い出すことができなかった。そもそもが、俺にとっては、気にもならないほど、ごく些細なことだったのかもしれない。でも、リキッドにとってはそうではなかったのだろうなにか。──それとも、リキッドにとっても、やはりそれは些細な、そして思いがけないきっかけだったのだろうか。
一度口にしてしまった後、リキッドはまるで箍が外れたかのように「好き」を繰り返した。呆気に取られた俺がなにも言えないでいるうちに、いつの間にか俺の左手を取って、口づけまで始めていた。その必死さに思わず圧倒されて、俺はいつもの拳も、《眼魔砲》も、怒鳴り声すら出せずにいた。
──正直な話、リキッドの気持ちには、とっくの昔に気がついていたんだ。ひょっとしたら、こいつが自覚するよりも、先に。
元々、俺は周囲から向けられる感情には敏感だった。ただ、それをまともに受け止めることを滅多にしないだけで。むしろ、それらの感情を、意図して避けてきたと言ってもいい。なぜなら、俺に対する感情は、好意や敵意、尊敬や憧憬や嫉妬、侮蔑、愛情等々、幅広く豊富で奥深かったが、そのくせ、そのほとんどが、《ガンマ団総帥の息子》あるいは《秘石眼を持たない一族の出来損ない》という肩書きに向けられたものだったからだ(また、後に知ったことによると、その中の一部は、俺によく似たある死者へと向けられたものでもあったらしい──もう、文句の言いようもないほど昔の話だが)。
幼いころは、父親の愛情がそれらの感情から俺を遠ざけていた。士官学校入学以降は、周囲の感情の雑多さ、煩雑さに、おだてられ、貶められ、反発し、やがて鈍感に振舞うことを覚えるようになった。当然のようにガンマ団に入ってからは、意識してそれらの感情を切り捨ててきた。──最終的に、ガンマ団や青の一族全てを捨てて逃げ出したように。
そうして一時的に逃げ込んだ、かりそめの居場所だったはずのこの島は、しかし、俺が今まで見たことも経験したこともない世界でもって、俺の全てを覆してしまった。
パプワ島とその住人は、それまで重い肩書きやいわれない偏見──それは俺自身の思い込みも含まれていた──で雁字搦めにされ、閉じこめられていた『シンタロー』を、もう一度呼び戻してくれたのだ。
パプワ島にはなんの枷もない。俺はただ、『シンタロー』でありさえすればよかった。パプワとチャッピーの傍にいてやれば、それで十分だった。向けられる人ならぬものの感情もまた、それが良いものであれ悪いものであれ、どれも裏表なく真っ直ぐで、俺はいつも安心していられた。そして、自分の感情を閉じこめずにいられるということが、どれほど心地よいものかということも。
俺がパプワ島で得たものは、島を失ってもパプワと離れても、ずっと心の中に残っていた。だからこそ俺は、パプワとパプワ島のないあちらの世界でも、生きていくことができたのだ。
だがこうして再びパプワ島に戻ることができた今、やはりここは違うな、と思わずにはいられなかった。
リキッドの気持ちに気づいたのも、パプワ島だったからこそ、なのだろう。俺が俺でいられる場所、人の感情に、なんの裏も偽りもなく信じられる場所だからこそ。
最初は憧れや羨望のようなものだろうと思っていた。あいつは番人としても家政夫としても半人前以下だったから、パプワの親友で、なんでもできる俺を羨んでいるのだろう、と。そう思うことは気分が良かったし、なにより自分の手下がいるという状況が気に入っていた。そしてリキッドの努力に主に鉄拳で報いる俺に対して、まさかあんな感情が生まれるなどとは、思いもしなかったのだ。
リキッドの感情が恋に変わっていることに気づいたのはいつだっただろう、とぼんやり思う。それとも、俺が勘違いしていただけで、それは最初から恋以外のなにものでもなかったのだろうか。
間抜けなことに、リキッドはごく最近まで、自分自身のその感情に気づかずにいた。それを知らず、俺が勝手に呆れたり動揺したり困惑したり勘繰ったりしている間に──結局は。
リキッドが自分の気持ちを自覚したことは、すぐにわかった。なぜならそのころには、なんだかんだで俺自身も、また──
パプワ島には他にまともそうな人間がいないから、と自嘲してもいい。相手の健気さに絆されてしまったのだと言い訳するのもいい。だが自分の中に現にあるこの感情を、目の前のリキッドのそれを、否定してなかったことにしてしまうことは、もう決してできはしない。
──パプワ島は人を変える。それがすべからく『いい方向』への変化であるがゆえに、変えられた当人の自覚など微塵も存在しないのだ。
これもまた変化の一部なのだろうか、とリキッドの手の温もりを感じながら思う。心地よいと感じるこの温もりを、遠くない未来に必ず手放さなければならないことを、すでに俺は知っている。──かつて、かけがえのない存在だったパプワに対して、そうしなければならなかったように。
こいつはそれをわかっているのだろうか、と訝しみ、だがすぐさまそれは愚問だなと気づく。──わかっているのだろう、たぶん。リキッドはそんなに愚かではない。だからこそこいつはこのように悔い、謝罪し、泣いているのだ。そして、ほどなく訪れるのだろうつらい結末を、うかつにも招き寄せたことへの懺悔を──
だが、それがいったいなんになるのだろう、と、俺はもはや意味のなさぬ言葉を繰り返すリキッドを見ながら、ひどく冷えた頭で思う。すべてはもう、動き出してしまっていたのだ。リキッドが口をすべらせてしまったのも、俺がその手を拒まないでいることも、全ては一つの流れのうちにあるように思える。
この気持ちの、これから先の関係の結末など、確かに目に見えて明らかなことなのかもしれない。けれど、それが俺たちの心に、どのような影響を及ぼすのかなどということは、それこそやってみなくてはわからないことだ。
だから、告白したことを後悔する必要などないのだ、と俺は思う。もしあの瞬間に告白しなかったのだとしたら、そのことがこの先、別れた後に、俺たちの中に暗い影を落とす、なんてことも、ひょっとしたらあるのかもしれないのだから。
「リキッド──リキッド!」
意を決した俺は、半ば自分の世界に入りこんでしまっているらしい馬鹿を、少しきつい口調で呼び戻した。はじかれるように頭を上げたリキッドの表情は叱られたときの犬にも似て、それだけで俺は済崩し的に全てを許してしまいそうな気持ちになる。
リキッドの眼はいつの間にか涙で濡れていた。俺の手の上にもいくつか、生温い濡れた感触がある。まさか涎や鼻水じゃないだろうな、と思いながら、俺はなるべく冷静に、気をしっかり持ってリキッドの眼を見つめ返した。
「……お前の気持ちはよくわかった。わかったから……だから、最初っからちゃんともう一度やり直せ」
「へっ!?──ええ……え?」
唖然としたリキッドの顔は、なかなか見物だった。
「え……し、シンタローさん、や、やり直すって……え、な、なにを……?」
顔に血を上らせ、どもりながら、やたら人の手ばかり握り締めてくるリキッドに、俺は軽くため息をついた。
「……じゃあな、まずは、手を放せ」
リキッドはそのときになって、ようやく俺の手を握りっ放しだったことに気づいたらしい。赤い顔をさらに赤くして、慌てて手を放した。
「次に、顔を拭け」
リキッドが上着の裾でそそくさと顔を拭いている隙に、俺もさりげなく濡れた手を服にこすりつける。
顔を拭き終えたリキッドが、俺の顔色を窺うように見た。俺はことさら普段どおりに、横柄に傲慢に見える態度を装った。
「終わったか?」
「お、終わりました……」
「なら、さっさと続きをしろ」
「……」
リキッドは押し黙って、物問いたげな眼で俺のことを見ていた。
……きっと、その単純な頭の中では、つまらないことをくどくどと考えているのだろう。どうして拳が飛んでこないのだろうかとか、さっきのいろいろな失態は許してもらえたのだろうかとか、やり直すってなにをどうすればいいのかとか、そもそも告白の返事を期待してもいいものだろうかとか。
こいつは本当に馬鹿だよな、と俺は忌々しいような気持ちで思う。良く言えば気が優しいということなのだろうが、こういう場合、それは相手を苛立たせる要素にしかならないものだろう。この状況での『遠慮』は、相手に対して『お前には恋愛対象としての価値がない』と言っているのと同じことだからだ。
「難しく考えんな。さっきと同じことすりゃいいんだよ」
「……お、同じ、って」
リキッドは落ち着きなく視線を左右に動かした後、つい先程の記憶を探るように考えこんだ。その顔が再び赤く染まっていくのを、俺はどこか投げやりな気持ちで見守る。そしていい加減、普段通り一発殴っておいた方がこいつのためなのかもしれないと俺が思い始めたころ、へたれなりに決心を固めたらしいリキッドが、ようやく顔を上げた。
「しっ、シンタローさん!」
真っ赤な顔でどもりながら、それでも場の勢いでか気合いでか、リキッドは真正面から俺を見つめてくる。そしていつもの優柔不断さが嘘かと思うほど素早く、俺の左手を取った。
「お、俺、おれはっ、あ、あなたのことが──」
「ふざけてんじゃねえぞこの馬鹿たれが」
おそらく一世一代の大告白と当人は思っているのだろうそれをあっさり無視して、俺はその面を思いっきり殴った。無残で間抜けな悲鳴を残して、無防備だったリキッドは軽く横にふっ飛ぶ。
地面に叩きつけられて、しばらくは立ち直れないかと思いきや、なかなかどうして、この馬鹿は意外なところでしぶとかった。
「──……ひ、ひどいやシンタローさん……お、俺の純情を弄んだんですね!?」
悲劇の主人公ぶって横座りの姿勢で頬を押さえ、さめざめと泣くリキッドに、やはり最初から普段通りにやるのだったと俺は少し後悔する。そしてそれをふまえ、俺は一人で奈落の底へと落ち込んでいく鬱陶しい馬鹿の肩を、苛立ちをこめて蹴りつけた。
「俺は『ちゃんとやり直せ』って言っただろうが。聞いてたのか、馬鹿ヤンキー」
その耳は飾りか?と皮肉ると、リキッドは「だって」とか「でも」とか、見苦しい言い訳をし始めようとする。
「言い訳すんな。男らしくねえ」
「で、でも、俺は、ちゃんと──」
潔くないヤンキーの口を塞ぐべく、俺は今度は顔面を蹴った。
「……な、なにすんですか、シンタローさん!」
当人にとっては、理不尽としか思えぬのだろう仕打ちに、さすがのリキッドも真顔になる。それは涙と鼻血がなければ、うっかり惚れても良さそうだと思えるような面構えだった。
「もうッ! いったいなんなんですか! 嫌なら嫌なんだって、はっきり言っちゃってくださいよ!! こんなからかって馬鹿にするみたいなこと、いくら俺が恋の奴隷であんたの下僕で、シンタローさんが暴君だからって、あんまりっす! わかってたんですよ! どうせ最初っから見込みのない恋だってことぐらい、とっくに俺にはわかってたんだから! 本当なら一生言うつもりだってなかったんだ!……それなのに……それなのに……!!」
だが、その素敵な憤りの激しさも一過性のものだったらしく、リキッドはうつむいてまた涙をこぼす。
「し、シンタローさんが……お、俺に希望を持たせるようなこと言うから……言うから……」
だからよけいに辛くなった、とこの世界の中心で愛を叫ぶ馬鹿は言う。俺はため息をついた。
「……本っ当に馬鹿だよな、お前はよ」
「……知ってますよ。でもどうにもならないんですもん。しょうがないじゃないですか、馬鹿なんだから」
だからシンタローさんのことも好きになっちゃうんだ、と開き直ったらしいリキッドは自嘲気味に笑う。
「……お前、それは俺のことも馬鹿にしてんだって、わかって言ってんのか?」
俺が睨むと、リキッドは押し黙った。俺はまたため息をついて、リキッドの前にしゃがみこむ。
「お前がいくら馬鹿で間抜けだからって、俺がこんな繊細な問題でからかうと思うのかよ。ふざけて言ってるんならともかくよ」
「……」
「俺は『最初からちゃんとやり直せ』って言っただろうが。どこの世界に、左手を握って愛の告白をする馬鹿がいるよ?」
少なくとも西洋ではいないはずだ。左には『不吉』だとか『背徳』、『裏切り』、『反逆』等々の、負の印象がこびりついてるからな。そしてリキッドはアメリカ人だ。この常識を知らないとは言わせない。
俺の言葉に、リキッドは唖然としたようだった。
「……だって……利き手を取ったら、不味いかなって、思って……」
「阿呆か。決闘するわけじゃあるまいし。状況を考えろっての」
俺は苛立ちまぎれに、自分の前髪を乱暴にかき回した。本当なら目の前の阿呆面を思いっきり殴ってやりたかったのだが、それをするとまたリキッドがいらんことを考えだしそうだったので、なんとか自重したのだ。
「……じゃあ……シンタローさん」
真摯な声に、不意に顔を上げると、そこには、血と涙にまみれた間抜け面にしては、これ以上ないくらい真剣な顔をしたリキッドがいた。俺がその表情にらしくもなく気圧されていると、その隙にリキッドは今度はちゃんと右手を握った。
「シンタローさん……俺は、あなたのことが、好き、です……」
言いながら、少し困ったみたいに笑って、リキッドは俺の手に恭しく口づける。
「好きなんです……本当に。自分でも、びっくりするくらい」
「……」
「なんか、こんな変な状況での告白になっちゃったけど……俺の気持ち、聞いてくれて、ありがとうございました。……せっかく好きになったのに、シンタローさんのこと、特別に想うようになったのに、状況が悪いとか、未来がないとか、そういう理由を受け入れて否定したり、あきらめてなかったことにしたりするのは、やっぱりすごく悲しいし、寂しかったから」
俺の気持ちを知ってくれて、ありがとうございます、と、リキッドはまた俺の手に口づける。
……言いたいことならいくらでもあった。俺だって自分の気持ちには驚いているんだとか、こいつも馬鹿なりにちゃんと大事なことはわきまえてるんだなとか、そういうこいつを好きになったのは、まんざらでもないのかもしれないとか、今の告白は、正直、かなり効いたよなとか──
だが、それらの言葉は、一つも声にならなかった。俺はただ、つかまえられた右手でリキッドの手を握り返して、軽く引くような仕草をした。
「……シンタローさん……?」
リキッドが不思議そうに俺を見る。
「……違う」
「え?」
「……違う。そこじゃない」
言いながら手を引く俺に、リキッドは戸惑ったような顔をした。
「……シンタローさん……」
「……最後の最後で間違えるな。馬鹿」
呟いて、俺は顔を背けた。頬が火照っているのが嫌でもわかる。……自分の甘ったるい思考回路に、我ながら呆れ果ててしまうほどだ。
……俺にここまで言わせておいて、十数えてもまだ、リキッドの馬鹿野郎が理解しなかったなら、絶対に殴る──て言うか、《眼魔砲》だ。
手への口づけは尊敬──その有名な言葉も、知らないとは言わせない。俺への『好き』が尊敬の『好き』だなんて、絶対に言わせない。
「……シンタローさん」
火照った頬に、今は冷たいとさえ言えるリキッドの手が触れる。
「……シンタローさん、好きです──」
始めて触れたリキッドの唇は、震えていて泥臭くて、生臭い血の味がした。
「……すいません、シンタローさん」
軽く触れ合わせただけの口づけの後、リキッドはまた項垂れて、力なく言う。
「……なんだよ」
「……だって、血の味のするキスなんて、最低……」
初キスに対して、いくらか夢を見ていたらしいリキッドは、あからさまにしょぼくれていた。その原因を作ってしまった俺が、珍しく罪悪感なんてものに駆られるくらいには。
「シンタローさん、後でまた、キスし直してもいいですか?」
口の傷が治ったら、と真面目な顔で言うリキッドを、俺は鼻で笑う。
「……お前が無傷でいる日なんかあるのかよ」
いっつもなんだかんだで血を流しているくせに。パプワとかチャッピーとかウマ子とか……俺とかのせいで。
「努力します。……だからシンタローさんも協力してくださいよ」
なるべく《眼魔砲》はやめて、殴るにしても顔じゃないとこにしてください。
どこまでも『ちゃんとしたキス』を求めて止まないヤンキーに、俺は呆れて──同時に、なんとも言いようのない気持ちで一杯になった。
その感情のままに、俺は未だ繋がれたままの右手を引く。あっさり倒れこんできたリキッドに、今度は自分から口づけた。
「……別に俺は、気になんねえけどな、血の味くらい」
お前の味には違いないから、とからかい半分、これ見よがしに唇の端を舐めて笑えば、リキッドの顔が面白いくらいに赤く染まる。
そして俺が殴ってもいないのに鼻血を出して倒れた家政夫は、今度こそなかなか立ち直りそうになく、ましてやいつになったら望み通りの『ちゃんとしたキス』ができるのか、見当もつかなかった。
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(06.11.26.)
「──ごめんなさい、好きなんです」
言いながら、リキッドは俺の手に口づける。まるでそれが貴重なものででもあるかのように恭しく押し頂き、深く頭を垂れて、何度も。
リキッドの顔は今にも泣き出しそうに歪んでいた。その傍らでこの、いわゆる『愛の告白』に一方的に興奮してもいるらしく、赤くなったり青くなったりを繰り返した。
リキッドは何度も謝りながら、何度も「好き」と繰り返す。百面相と相俟って、それは微妙に滑稽な状況にも見えていた。謝るくらいなら最初から言うなよ、と俺は内心呆れたが、元々が迂闊で考えなしなこの馬鹿のことだ。なにかの拍子に、うっかり普段の物思いが口から出てしまったのだろう。
そのきっかけがなんだったのか、つい先程のことなのに、この突拍子もない状況のせいか、俺にはよく思い出すことができなかった。そもそもが、俺にとっては、気にもならないほど、ごく些細なことだったのかもしれない。でも、リキッドにとってはそうではなかったのだろうなにか。──それとも、リキッドにとっても、やはりそれは些細な、そして思いがけないきっかけだったのだろうか。
一度口にしてしまった後、リキッドはまるで箍が外れたかのように「好き」を繰り返した。呆気に取られた俺がなにも言えないでいるうちに、いつの間にか俺の左手を取って、口づけまで始めていた。その必死さに思わず圧倒されて、俺はいつもの拳も、《眼魔砲》も、怒鳴り声すら出せずにいた。
──正直な話、リキッドの気持ちには、とっくの昔に気がついていたんだ。ひょっとしたら、こいつが自覚するよりも、先に。
元々、俺は周囲から向けられる感情には敏感だった。ただ、それをまともに受け止めることを滅多にしないだけで。むしろ、それらの感情を、意図して避けてきたと言ってもいい。なぜなら、俺に対する感情は、好意や敵意、尊敬や憧憬や嫉妬、侮蔑、愛情等々、幅広く豊富で奥深かったが、そのくせ、そのほとんどが、《ガンマ団総帥の息子》あるいは《秘石眼を持たない一族の出来損ない》という肩書きに向けられたものだったからだ(また、後に知ったことによると、その中の一部は、俺によく似たある死者へと向けられたものでもあったらしい──もう、文句の言いようもないほど昔の話だが)。
幼いころは、父親の愛情がそれらの感情から俺を遠ざけていた。士官学校入学以降は、周囲の感情の雑多さ、煩雑さに、おだてられ、貶められ、反発し、やがて鈍感に振舞うことを覚えるようになった。当然のようにガンマ団に入ってからは、意識してそれらの感情を切り捨ててきた。──最終的に、ガンマ団や青の一族全てを捨てて逃げ出したように。
そうして一時的に逃げ込んだ、かりそめの居場所だったはずのこの島は、しかし、俺が今まで見たことも経験したこともない世界でもって、俺の全てを覆してしまった。
パプワ島とその住人は、それまで重い肩書きやいわれない偏見──それは俺自身の思い込みも含まれていた──で雁字搦めにされ、閉じこめられていた『シンタロー』を、もう一度呼び戻してくれたのだ。
パプワ島にはなんの枷もない。俺はただ、『シンタロー』でありさえすればよかった。パプワとチャッピーの傍にいてやれば、それで十分だった。向けられる人ならぬものの感情もまた、それが良いものであれ悪いものであれ、どれも裏表なく真っ直ぐで、俺はいつも安心していられた。そして、自分の感情を閉じこめずにいられるということが、どれほど心地よいものかということも。
俺がパプワ島で得たものは、島を失ってもパプワと離れても、ずっと心の中に残っていた。だからこそ俺は、パプワとパプワ島のないあちらの世界でも、生きていくことができたのだ。
だがこうして再びパプワ島に戻ることができた今、やはりここは違うな、と思わずにはいられなかった。
リキッドの気持ちに気づいたのも、パプワ島だったからこそ、なのだろう。俺が俺でいられる場所、人の感情に、なんの裏も偽りもなく信じられる場所だからこそ。
最初は憧れや羨望のようなものだろうと思っていた。あいつは番人としても家政夫としても半人前以下だったから、パプワの親友で、なんでもできる俺を羨んでいるのだろう、と。そう思うことは気分が良かったし、なにより自分の手下がいるという状況が気に入っていた。そしてリキッドの努力に主に鉄拳で報いる俺に対して、まさかあんな感情が生まれるなどとは、思いもしなかったのだ。
リキッドの感情が恋に変わっていることに気づいたのはいつだっただろう、とぼんやり思う。それとも、俺が勘違いしていただけで、それは最初から恋以外のなにものでもなかったのだろうか。
間抜けなことに、リキッドはごく最近まで、自分自身のその感情に気づかずにいた。それを知らず、俺が勝手に呆れたり動揺したり困惑したり勘繰ったりしている間に──結局は。
リキッドが自分の気持ちを自覚したことは、すぐにわかった。なぜならそのころには、なんだかんだで俺自身も、また──
パプワ島には他にまともそうな人間がいないから、と自嘲してもいい。相手の健気さに絆されてしまったのだと言い訳するのもいい。だが自分の中に現にあるこの感情を、目の前のリキッドのそれを、否定してなかったことにしてしまうことは、もう決してできはしない。
──パプワ島は人を変える。それがすべからく『いい方向』への変化であるがゆえに、変えられた当人の自覚など微塵も存在しないのだ。
これもまた変化の一部なのだろうか、とリキッドの手の温もりを感じながら思う。心地よいと感じるこの温もりを、遠くない未来に必ず手放さなければならないことを、すでに俺は知っている。──かつて、かけがえのない存在だったパプワに対して、そうしなければならなかったように。
こいつはそれをわかっているのだろうか、と訝しみ、だがすぐさまそれは愚問だなと気づく。──わかっているのだろう、たぶん。リキッドはそんなに愚かではない。だからこそこいつはこのように悔い、謝罪し、泣いているのだ。そして、ほどなく訪れるのだろうつらい結末を、うかつにも招き寄せたことへの懺悔を──
だが、それがいったいなんになるのだろう、と、俺はもはや意味のなさぬ言葉を繰り返すリキッドを見ながら、ひどく冷えた頭で思う。すべてはもう、動き出してしまっていたのだ。リキッドが口をすべらせてしまったのも、俺がその手を拒まないでいることも、全ては一つの流れのうちにあるように思える。
この気持ちの、これから先の関係の結末など、確かに目に見えて明らかなことなのかもしれない。けれど、それが俺たちの心に、どのような影響を及ぼすのかなどということは、それこそやってみなくてはわからないことだ。
だから、告白したことを後悔する必要などないのだ、と俺は思う。もしあの瞬間に告白しなかったのだとしたら、そのことがこの先、別れた後に、俺たちの中に暗い影を落とす、なんてことも、ひょっとしたらあるのかもしれないのだから。
「リキッド──リキッド!」
意を決した俺は、半ば自分の世界に入りこんでしまっているらしい馬鹿を、少しきつい口調で呼び戻した。はじかれるように頭を上げたリキッドの表情は叱られたときの犬にも似て、それだけで俺は済崩し的に全てを許してしまいそうな気持ちになる。
リキッドの眼はいつの間にか涙で濡れていた。俺の手の上にもいくつか、生温い濡れた感触がある。まさか涎や鼻水じゃないだろうな、と思いながら、俺はなるべく冷静に、気をしっかり持ってリキッドの眼を見つめ返した。
「……お前の気持ちはよくわかった。わかったから……だから、最初っからちゃんともう一度やり直せ」
「へっ!?──ええ……え?」
唖然としたリキッドの顔は、なかなか見物だった。
「え……し、シンタローさん、や、やり直すって……え、な、なにを……?」
顔に血を上らせ、どもりながら、やたら人の手ばかり握り締めてくるリキッドに、俺は軽くため息をついた。
「……じゃあな、まずは、手を放せ」
リキッドはそのときになって、ようやく俺の手を握りっ放しだったことに気づいたらしい。赤い顔をさらに赤くして、慌てて手を放した。
「次に、顔を拭け」
リキッドが上着の裾でそそくさと顔を拭いている隙に、俺もさりげなく濡れた手を服にこすりつける。
顔を拭き終えたリキッドが、俺の顔色を窺うように見た。俺はことさら普段どおりに、横柄に傲慢に見える態度を装った。
「終わったか?」
「お、終わりました……」
「なら、さっさと続きをしろ」
「……」
リキッドは押し黙って、物問いたげな眼で俺のことを見ていた。
……きっと、その単純な頭の中では、つまらないことをくどくどと考えているのだろう。どうして拳が飛んでこないのだろうかとか、さっきのいろいろな失態は許してもらえたのだろうかとか、やり直すってなにをどうすればいいのかとか、そもそも告白の返事を期待してもいいものだろうかとか。
こいつは本当に馬鹿だよな、と俺は忌々しいような気持ちで思う。良く言えば気が優しいということなのだろうが、こういう場合、それは相手を苛立たせる要素にしかならないものだろう。この状況での『遠慮』は、相手に対して『お前には恋愛対象としての価値がない』と言っているのと同じことだからだ。
「難しく考えんな。さっきと同じことすりゃいいんだよ」
「……お、同じ、って」
リキッドは落ち着きなく視線を左右に動かした後、つい先程の記憶を探るように考えこんだ。その顔が再び赤く染まっていくのを、俺はどこか投げやりな気持ちで見守る。そしていい加減、普段通り一発殴っておいた方がこいつのためなのかもしれないと俺が思い始めたころ、へたれなりに決心を固めたらしいリキッドが、ようやく顔を上げた。
「しっ、シンタローさん!」
真っ赤な顔でどもりながら、それでも場の勢いでか気合いでか、リキッドは真正面から俺を見つめてくる。そしていつもの優柔不断さが嘘かと思うほど素早く、俺の左手を取った。
「お、俺、おれはっ、あ、あなたのことが──」
「ふざけてんじゃねえぞこの馬鹿たれが」
おそらく一世一代の大告白と当人は思っているのだろうそれをあっさり無視して、俺はその面を思いっきり殴った。無残で間抜けな悲鳴を残して、無防備だったリキッドは軽く横にふっ飛ぶ。
地面に叩きつけられて、しばらくは立ち直れないかと思いきや、なかなかどうして、この馬鹿は意外なところでしぶとかった。
「──……ひ、ひどいやシンタローさん……お、俺の純情を弄んだんですね!?」
悲劇の主人公ぶって横座りの姿勢で頬を押さえ、さめざめと泣くリキッドに、やはり最初から普段通りにやるのだったと俺は少し後悔する。そしてそれをふまえ、俺は一人で奈落の底へと落ち込んでいく鬱陶しい馬鹿の肩を、苛立ちをこめて蹴りつけた。
「俺は『ちゃんとやり直せ』って言っただろうが。聞いてたのか、馬鹿ヤンキー」
その耳は飾りか?と皮肉ると、リキッドは「だって」とか「でも」とか、見苦しい言い訳をし始めようとする。
「言い訳すんな。男らしくねえ」
「で、でも、俺は、ちゃんと──」
潔くないヤンキーの口を塞ぐべく、俺は今度は顔面を蹴った。
「……な、なにすんですか、シンタローさん!」
当人にとっては、理不尽としか思えぬのだろう仕打ちに、さすがのリキッドも真顔になる。それは涙と鼻血がなければ、うっかり惚れても良さそうだと思えるような面構えだった。
「もうッ! いったいなんなんですか! 嫌なら嫌なんだって、はっきり言っちゃってくださいよ!! こんなからかって馬鹿にするみたいなこと、いくら俺が恋の奴隷であんたの下僕で、シンタローさんが暴君だからって、あんまりっす! わかってたんですよ! どうせ最初っから見込みのない恋だってことぐらい、とっくに俺にはわかってたんだから! 本当なら一生言うつもりだってなかったんだ!……それなのに……それなのに……!!」
だが、その素敵な憤りの激しさも一過性のものだったらしく、リキッドはうつむいてまた涙をこぼす。
「し、シンタローさんが……お、俺に希望を持たせるようなこと言うから……言うから……」
だからよけいに辛くなった、とこの世界の中心で愛を叫ぶ馬鹿は言う。俺はため息をついた。
「……本っ当に馬鹿だよな、お前はよ」
「……知ってますよ。でもどうにもならないんですもん。しょうがないじゃないですか、馬鹿なんだから」
だからシンタローさんのことも好きになっちゃうんだ、と開き直ったらしいリキッドは自嘲気味に笑う。
「……お前、それは俺のことも馬鹿にしてんだって、わかって言ってんのか?」
俺が睨むと、リキッドは押し黙った。俺はまたため息をついて、リキッドの前にしゃがみこむ。
「お前がいくら馬鹿で間抜けだからって、俺がこんな繊細な問題でからかうと思うのかよ。ふざけて言ってるんならともかくよ」
「……」
「俺は『最初からちゃんとやり直せ』って言っただろうが。どこの世界に、左手を握って愛の告白をする馬鹿がいるよ?」
少なくとも西洋ではいないはずだ。左には『不吉』だとか『背徳』、『裏切り』、『反逆』等々の、負の印象がこびりついてるからな。そしてリキッドはアメリカ人だ。この常識を知らないとは言わせない。
俺の言葉に、リキッドは唖然としたようだった。
「……だって……利き手を取ったら、不味いかなって、思って……」
「阿呆か。決闘するわけじゃあるまいし。状況を考えろっての」
俺は苛立ちまぎれに、自分の前髪を乱暴にかき回した。本当なら目の前の阿呆面を思いっきり殴ってやりたかったのだが、それをするとまたリキッドがいらんことを考えだしそうだったので、なんとか自重したのだ。
「……じゃあ……シンタローさん」
真摯な声に、不意に顔を上げると、そこには、血と涙にまみれた間抜け面にしては、これ以上ないくらい真剣な顔をしたリキッドがいた。俺がその表情にらしくもなく気圧されていると、その隙にリキッドは今度はちゃんと右手を握った。
「シンタローさん……俺は、あなたのことが、好き、です……」
言いながら、少し困ったみたいに笑って、リキッドは俺の手に恭しく口づける。
「好きなんです……本当に。自分でも、びっくりするくらい」
「……」
「なんか、こんな変な状況での告白になっちゃったけど……俺の気持ち、聞いてくれて、ありがとうございました。……せっかく好きになったのに、シンタローさんのこと、特別に想うようになったのに、状況が悪いとか、未来がないとか、そういう理由を受け入れて否定したり、あきらめてなかったことにしたりするのは、やっぱりすごく悲しいし、寂しかったから」
俺の気持ちを知ってくれて、ありがとうございます、と、リキッドはまた俺の手に口づける。
……言いたいことならいくらでもあった。俺だって自分の気持ちには驚いているんだとか、こいつも馬鹿なりにちゃんと大事なことはわきまえてるんだなとか、そういうこいつを好きになったのは、まんざらでもないのかもしれないとか、今の告白は、正直、かなり効いたよなとか──
だが、それらの言葉は、一つも声にならなかった。俺はただ、つかまえられた右手でリキッドの手を握り返して、軽く引くような仕草をした。
「……シンタローさん……?」
リキッドが不思議そうに俺を見る。
「……違う」
「え?」
「……違う。そこじゃない」
言いながら手を引く俺に、リキッドは戸惑ったような顔をした。
「……シンタローさん……」
「……最後の最後で間違えるな。馬鹿」
呟いて、俺は顔を背けた。頬が火照っているのが嫌でもわかる。……自分の甘ったるい思考回路に、我ながら呆れ果ててしまうほどだ。
……俺にここまで言わせておいて、十数えてもまだ、リキッドの馬鹿野郎が理解しなかったなら、絶対に殴る──て言うか、《眼魔砲》だ。
手への口づけは尊敬──その有名な言葉も、知らないとは言わせない。俺への『好き』が尊敬の『好き』だなんて、絶対に言わせない。
「……シンタローさん」
火照った頬に、今は冷たいとさえ言えるリキッドの手が触れる。
「……シンタローさん、好きです──」
始めて触れたリキッドの唇は、震えていて泥臭くて、生臭い血の味がした。
「……すいません、シンタローさん」
軽く触れ合わせただけの口づけの後、リキッドはまた項垂れて、力なく言う。
「……なんだよ」
「……だって、血の味のするキスなんて、最低……」
初キスに対して、いくらか夢を見ていたらしいリキッドは、あからさまにしょぼくれていた。その原因を作ってしまった俺が、珍しく罪悪感なんてものに駆られるくらいには。
「シンタローさん、後でまた、キスし直してもいいですか?」
口の傷が治ったら、と真面目な顔で言うリキッドを、俺は鼻で笑う。
「……お前が無傷でいる日なんかあるのかよ」
いっつもなんだかんだで血を流しているくせに。パプワとかチャッピーとかウマ子とか……俺とかのせいで。
「努力します。……だからシンタローさんも協力してくださいよ」
なるべく《眼魔砲》はやめて、殴るにしても顔じゃないとこにしてください。
どこまでも『ちゃんとしたキス』を求めて止まないヤンキーに、俺は呆れて──同時に、なんとも言いようのない気持ちで一杯になった。
その感情のままに、俺は未だ繋がれたままの右手を引く。あっさり倒れこんできたリキッドに、今度は自分から口づけた。
「……別に俺は、気になんねえけどな、血の味くらい」
お前の味には違いないから、とからかい半分、これ見よがしに唇の端を舐めて笑えば、リキッドの顔が面白いくらいに赤く染まる。
そして俺が殴ってもいないのに鼻血を出して倒れた家政夫は、今度こそなかなか立ち直りそうになく、ましてやいつになったら望み通りの『ちゃんとしたキス』ができるのか、見当もつかなかった。
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(06.11.26.)
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