どちらが先に根負けするか
「──あんたが最初から、ちゃんと俺のことを見ててくれれば、それだけで良かったのに」
口にしたとたん、馬鹿なことを言った、と思った。これではまるで泣き言のようじゃないか。こいつの前で泣くなんて、子供のときでもしたことがないのに。
しかし実際、俺の頭の中はぐちゃぐちゃで、勝手に出てくる涙をこらえるので精一杯だった。
かつてあんたは俺のことなどなんとも思っちゃいなかった。せいぜいが兄の子供である、ただそれだけの存在だった。ひょっとしたら、憎んでいた時期もあったのかもしれないな。あんたが嫌いなあの男に似ている、ただそれだけの理由で。でもそれは、どちらも俺に向けての関心じゃない。あんたは俺を通して、兄弟を、あるいは憎いあの男を見ていたんだ。あんたにとって、俺自身はどうでもいい人間だった。なんらかの特別な感情を持つ価値さえない、ガラクタ程度の重みさえない生き物だった。
──でも、そうだったからこそ、俺はあんたの好意を信じていられたんだ。
それがこの世に存在するはずのないものだからこそ、俺はそれを信じた。そこには信じる余地があった。なにもないからこそ、思うことも夢見ることも自由だった。本物ではないかもしれない、飢えもおさまらないかもしれないけれども、俺はそれで十分満足していたんだ。そのままで良かった。強烈な現実よりも、生温いまどろみのままで。
──それが今や、あんたは俺のことが好きだと言う。俺のことが欲しいのだと。
……あるはずのないものが現実になったのなら、それを信じていた俺は考えを変えなければならない。
あんたの俺に対する好意は存在する。だからもう、それを信じることはない。
「──ああ、そうだ。俺の気持ちは確かにちゃんとここにある。だから信じる必要はない。受け入れるか、拒絶するかだ」
そう言って不敵に笑うこの男を、俺は心底嫌いだと思った。
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「──いったい、あんたのなにを信じろって言うんだ」
そう言い捨てて、素直じゃない甥は、真一文字に結んだ唇を、無理矢理笑みのかたちに歪めた。いったいそこになにを押し隠すつもりなんだか、と俺は思う。隠したところで、お前の考えなんざ、こっちは全部お見通しなんだよ。
「──ああ、そうだ。俺の気持ちは確かにちゃんとここにある。信じるとか信じないとかの問題じゃねえ。受け入れるか拒絶するかだ。お前は論点をすり替えて、自分を誤魔化してるだけなんだ。逃げるんじゃねえよ、今更。嫌なら拒め。でなけりゃ俺を受け入れろ。二つに一つだ。簡単なことだろうが? お前が決断しないってんなら、俺は自分の都合のいいように、勝手にやらせてもらうぜ?」
甥がこちらを睨んでくる、その鋭い目つきがいっそ心地良いくらいだった。他の誰かなら秒殺だろうが、あいにくと俺にはそれは通用しない。その程度の威嚇など痛くも痒くもないし、むしろかえって無茶をしたくなるというものだ。
とは言え、甥が一言「嫌だ」と言いさえすれば、俺は本当に引き下がるつもりだった。拒まれてなお無理を通そうとするほど、俺はもう若くないし馬鹿でもない。ただ歳を取った分、そこそこ狡賢く、なにより臆病になっていた。俺はたかがこの程度のごり押しで、家族でもある甥との絆が最後の一つまで切れてしまうことを、内心ひどく恐れていたのだ。
──もしかしたら、甥も同じことを考えているのかもしれない。だからこそ、普段のようにあっさりと俺を拒絶することなく、こうして口を噤んでいるのだろうか。
だが、それだけでなく、甥がこのやりとりに二の足を踏むのも当然だと、俺は自嘲気味に考えていた。……俺にはかつて、こいつとのささやかな信頼関係を反故にした前科があるのだ。
それはこいつには全く責任のない、俺の一方的な思い込みにすぎなかったのだが、当時、未だ幼かった甥は、俺の思う以上に、そのことに傷ついていたのだろう。だからもう二度と同じことは御免だと、こうして必要以上に警戒しているのだ。
──そのことごとくが裏目に出ているのは、やはりまだ純真なのだと言うべきか。
この場合、否定は肯定となり、拒絶は享受と同意だ。自分が隠された本当の心情を吐露していることに気づかず、ただ傷つきたくないのだと心を鎧うこいつを、ひどく愛しく思う。俺の手で傷つけたのなら、同じ俺の手で癒せないものかと願う。……昔どこかで、それは可能だと聞いた覚えがあるのだが。
まだ喉の奥に隠している言葉があるのなら、さっさとそれを吐き出してしまえばいい。腐ってから吐き出されても、困るのはお互い様だからな。
しかしこの頑固な甥は、腐った言葉でもそのまま腹に納めてしまいかねなかった。最後にはそれで苦しむことがわかっていても、咄嗟に目の前のプライドを優先させるタイプだ。──俺自身、人のことは言えないが。
だからこういうとき、俺は自分が傍若無人と評されるような人間であることを思い出すようにしている。甥の心に無造作に踏み込んでも、俺が相手なのだからどうしようもないのだと、強引に納得させられる都合のいい評価だ。
「──答えはなしか? いい加減、時間切れだぜ」
事態を先へ進めるべく、俺は痺れを切らしたふりをした。甥が黙ったままなのをいいことに、俺は少々乱暴にその顎をつかむと、素早く唇を重ね合わせる。突然のことに呆然とそれを受け止めた甥が、我に返って逃れようとするのを、がっちりと押さえつけた。触れた部分から甥の震えが伝わってきて、それに意外なほど興奮させられる。ことさらゆっくりと舌を這わせ、反応を促すよう時折唇をゆるく噛んでみても、なかなか甥は陥落しない。なにも感じていないはずはないのだが、これは思った以上に手間がかかりそうだった。俺は苦笑しながら唇を離し、鼻が触れ合うほど近くから甥の目を覗きこんだ。甥の心情そのままに不安定に揺れ動く視線を捉えながら、俺は甥の右手を取って自分の左胸、心臓の真上に引き寄せる。
「……お前があくまで『信じていたかった』ってんなら、かまわねえぜ。そうするといい。余計な現実を──俺をこの世から消しちまえよ。今なら、一発ですむ。ごく弱い《眼魔砲》でもな」
俺がそう言うと、甥は目を見開いて身体を強張らせた。
「俺がいなくなれば、その後でなにをどう想おうがお前の勝手だ。好きにしろ。──いや、むしろそうしたいんだろうが?」
ほら、と俺が促すと、甥は泣きそうに顔を歪めて緩く首を横に振る。掴まれたままの右手を振りほどこうともがくが、俺は自分の左胸に押し当てたそれを決して離さなかった。
──自分も諦めるのだから、俺もまた諦めれば、全ては丸く納まるとでも思っていたのだろうか。そうだというのなら、それは大きな間違いだ。そこに確かにあるものを消そうとするのに、なるべく傷つかず、汚れずになどという甘いことが、今更通用するはずもない。なによりこれこそが、お互いに傷を恐れ真実を誤魔化そうとした結果だというのに。
俺たちが押し殺し続けてきた感情は復讐を要求する。もはや傷つくことを逃れる手立てなどありはしない。
どちらにしろ傷はつく。だがどうせつく傷なら、甥の分まで俺自らがつけた方がマシだった。──例えそれが俺の傲慢にすぎないのだとしても。
「お前がなにもしないんなら、俺は俺の好きにさせてもらうぜ」
もう譲歩はしねえ、と俺は再び甥に口づける。甥は一瞬、俺を鋭く睨んだ。暴れる素振りも見せたが、俺の方も容赦する気はなかった。身動きできぬほどしっかりと押さえ込み、いささか乱暴に唇を貪る。執拗な愛撫にやがて力尽きた甥は、口づけが深く重なるにつれ、諦めたようにゆっくりとその視線を閉ざした。
閉ざされた目蓋の隙間から零れ落ちる涙を、俺はじっと見つめていた。口づけを次第に優しいものに変えながら、俺は、甥が今回のことは全て俺のせいにしてしまえばいいと願った。嫌がる甥に、俺が無理強いしたのだと。甥はただの被害者でしかないのだと。
幼いとき、俺が甥のことを一方的に傷つけてしまったように、縒りを戻すのも俺の我儘で、甥はただそれに振り回されているだけなのだと。
──だが、聡く潔い甥がそのような欺瞞を受け入れることは、決してないだろう。
たとえ俺が、そもそもの原因を作った責任を、一身に負うつもりなのだとしても。
「──あんたが最初から、ちゃんと俺のことを見ててくれれば、それだけで良かったのに」
そう言いながら結局甥は、俺のことだけは許してしまうのだ。
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(07.03.09.)
「──あんたが最初から、ちゃんと俺のことを見ててくれれば、それだけで良かったのに」
口にしたとたん、馬鹿なことを言った、と思った。これではまるで泣き言のようじゃないか。こいつの前で泣くなんて、子供のときでもしたことがないのに。
しかし実際、俺の頭の中はぐちゃぐちゃで、勝手に出てくる涙をこらえるので精一杯だった。
かつてあんたは俺のことなどなんとも思っちゃいなかった。せいぜいが兄の子供である、ただそれだけの存在だった。ひょっとしたら、憎んでいた時期もあったのかもしれないな。あんたが嫌いなあの男に似ている、ただそれだけの理由で。でもそれは、どちらも俺に向けての関心じゃない。あんたは俺を通して、兄弟を、あるいは憎いあの男を見ていたんだ。あんたにとって、俺自身はどうでもいい人間だった。なんらかの特別な感情を持つ価値さえない、ガラクタ程度の重みさえない生き物だった。
──でも、そうだったからこそ、俺はあんたの好意を信じていられたんだ。
それがこの世に存在するはずのないものだからこそ、俺はそれを信じた。そこには信じる余地があった。なにもないからこそ、思うことも夢見ることも自由だった。本物ではないかもしれない、飢えもおさまらないかもしれないけれども、俺はそれで十分満足していたんだ。そのままで良かった。強烈な現実よりも、生温いまどろみのままで。
──それが今や、あんたは俺のことが好きだと言う。俺のことが欲しいのだと。
……あるはずのないものが現実になったのなら、それを信じていた俺は考えを変えなければならない。
あんたの俺に対する好意は存在する。だからもう、それを信じることはない。
「──ああ、そうだ。俺の気持ちは確かにちゃんとここにある。だから信じる必要はない。受け入れるか、拒絶するかだ」
そう言って不敵に笑うこの男を、俺は心底嫌いだと思った。
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「──いったい、あんたのなにを信じろって言うんだ」
そう言い捨てて、素直じゃない甥は、真一文字に結んだ唇を、無理矢理笑みのかたちに歪めた。いったいそこになにを押し隠すつもりなんだか、と俺は思う。隠したところで、お前の考えなんざ、こっちは全部お見通しなんだよ。
「──ああ、そうだ。俺の気持ちは確かにちゃんとここにある。信じるとか信じないとかの問題じゃねえ。受け入れるか拒絶するかだ。お前は論点をすり替えて、自分を誤魔化してるだけなんだ。逃げるんじゃねえよ、今更。嫌なら拒め。でなけりゃ俺を受け入れろ。二つに一つだ。簡単なことだろうが? お前が決断しないってんなら、俺は自分の都合のいいように、勝手にやらせてもらうぜ?」
甥がこちらを睨んでくる、その鋭い目つきがいっそ心地良いくらいだった。他の誰かなら秒殺だろうが、あいにくと俺にはそれは通用しない。その程度の威嚇など痛くも痒くもないし、むしろかえって無茶をしたくなるというものだ。
とは言え、甥が一言「嫌だ」と言いさえすれば、俺は本当に引き下がるつもりだった。拒まれてなお無理を通そうとするほど、俺はもう若くないし馬鹿でもない。ただ歳を取った分、そこそこ狡賢く、なにより臆病になっていた。俺はたかがこの程度のごり押しで、家族でもある甥との絆が最後の一つまで切れてしまうことを、内心ひどく恐れていたのだ。
──もしかしたら、甥も同じことを考えているのかもしれない。だからこそ、普段のようにあっさりと俺を拒絶することなく、こうして口を噤んでいるのだろうか。
だが、それだけでなく、甥がこのやりとりに二の足を踏むのも当然だと、俺は自嘲気味に考えていた。……俺にはかつて、こいつとのささやかな信頼関係を反故にした前科があるのだ。
それはこいつには全く責任のない、俺の一方的な思い込みにすぎなかったのだが、当時、未だ幼かった甥は、俺の思う以上に、そのことに傷ついていたのだろう。だからもう二度と同じことは御免だと、こうして必要以上に警戒しているのだ。
──そのことごとくが裏目に出ているのは、やはりまだ純真なのだと言うべきか。
この場合、否定は肯定となり、拒絶は享受と同意だ。自分が隠された本当の心情を吐露していることに気づかず、ただ傷つきたくないのだと心を鎧うこいつを、ひどく愛しく思う。俺の手で傷つけたのなら、同じ俺の手で癒せないものかと願う。……昔どこかで、それは可能だと聞いた覚えがあるのだが。
まだ喉の奥に隠している言葉があるのなら、さっさとそれを吐き出してしまえばいい。腐ってから吐き出されても、困るのはお互い様だからな。
しかしこの頑固な甥は、腐った言葉でもそのまま腹に納めてしまいかねなかった。最後にはそれで苦しむことがわかっていても、咄嗟に目の前のプライドを優先させるタイプだ。──俺自身、人のことは言えないが。
だからこういうとき、俺は自分が傍若無人と評されるような人間であることを思い出すようにしている。甥の心に無造作に踏み込んでも、俺が相手なのだからどうしようもないのだと、強引に納得させられる都合のいい評価だ。
「──答えはなしか? いい加減、時間切れだぜ」
事態を先へ進めるべく、俺は痺れを切らしたふりをした。甥が黙ったままなのをいいことに、俺は少々乱暴にその顎をつかむと、素早く唇を重ね合わせる。突然のことに呆然とそれを受け止めた甥が、我に返って逃れようとするのを、がっちりと押さえつけた。触れた部分から甥の震えが伝わってきて、それに意外なほど興奮させられる。ことさらゆっくりと舌を這わせ、反応を促すよう時折唇をゆるく噛んでみても、なかなか甥は陥落しない。なにも感じていないはずはないのだが、これは思った以上に手間がかかりそうだった。俺は苦笑しながら唇を離し、鼻が触れ合うほど近くから甥の目を覗きこんだ。甥の心情そのままに不安定に揺れ動く視線を捉えながら、俺は甥の右手を取って自分の左胸、心臓の真上に引き寄せる。
「……お前があくまで『信じていたかった』ってんなら、かまわねえぜ。そうするといい。余計な現実を──俺をこの世から消しちまえよ。今なら、一発ですむ。ごく弱い《眼魔砲》でもな」
俺がそう言うと、甥は目を見開いて身体を強張らせた。
「俺がいなくなれば、その後でなにをどう想おうがお前の勝手だ。好きにしろ。──いや、むしろそうしたいんだろうが?」
ほら、と俺が促すと、甥は泣きそうに顔を歪めて緩く首を横に振る。掴まれたままの右手を振りほどこうともがくが、俺は自分の左胸に押し当てたそれを決して離さなかった。
──自分も諦めるのだから、俺もまた諦めれば、全ては丸く納まるとでも思っていたのだろうか。そうだというのなら、それは大きな間違いだ。そこに確かにあるものを消そうとするのに、なるべく傷つかず、汚れずになどという甘いことが、今更通用するはずもない。なによりこれこそが、お互いに傷を恐れ真実を誤魔化そうとした結果だというのに。
俺たちが押し殺し続けてきた感情は復讐を要求する。もはや傷つくことを逃れる手立てなどありはしない。
どちらにしろ傷はつく。だがどうせつく傷なら、甥の分まで俺自らがつけた方がマシだった。──例えそれが俺の傲慢にすぎないのだとしても。
「お前がなにもしないんなら、俺は俺の好きにさせてもらうぜ」
もう譲歩はしねえ、と俺は再び甥に口づける。甥は一瞬、俺を鋭く睨んだ。暴れる素振りも見せたが、俺の方も容赦する気はなかった。身動きできぬほどしっかりと押さえ込み、いささか乱暴に唇を貪る。執拗な愛撫にやがて力尽きた甥は、口づけが深く重なるにつれ、諦めたようにゆっくりとその視線を閉ざした。
閉ざされた目蓋の隙間から零れ落ちる涙を、俺はじっと見つめていた。口づけを次第に優しいものに変えながら、俺は、甥が今回のことは全て俺のせいにしてしまえばいいと願った。嫌がる甥に、俺が無理強いしたのだと。甥はただの被害者でしかないのだと。
幼いとき、俺が甥のことを一方的に傷つけてしまったように、縒りを戻すのも俺の我儘で、甥はただそれに振り回されているだけなのだと。
──だが、聡く潔い甥がそのような欺瞞を受け入れることは、決してないだろう。
たとえ俺が、そもそもの原因を作った責任を、一身に負うつもりなのだとしても。
「──あんたが最初から、ちゃんと俺のことを見ててくれれば、それだけで良かったのに」
そう言いながら結局甥は、俺のことだけは許してしまうのだ。
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(07.03.09.)
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