穏やかな午後の―ひととき。
「たいくつだ」
大あくびの後にもらしたその言葉に、部屋の主は、軽く額を押さえながら振り返った。先ほどからその声は何度も聞こえてきていた。一応無視していたのだが、何度も何度も繰り返されれば、振り返らずにはいられない。
ピンと張られた背筋を折り曲げ、腰を捻るようにして後ろをみれば、そこには、怠惰な姿で転がっている声の主がいた。思わず視線を遠くへ翳すように目が細くなってしまう。現実逃避がわずかにあった。
「そないいうなら、他のところへ行った方がええと違いまっか? 総帥。わてはお相手できまへん、言うとりましたやろ?」
そう言うアラシヤマの手には、ペンが握られているし、利き手と反対の手は、まだ書きかけの書類の上にある。
完璧に仕事中であった。
ただ、普段と違うのは、ここがガンマ団本部ないある自分のデスクではなく、アラシヤマ自身の自室であるという点だろう。だが、それさえ覗けば、仕事の最中であることは間違いなかった。
和に統一されたアラシヤマの部屋の床は、当然畳敷きだった。そこへ、総帥服を着用したままのシンタローが、服が皺になるのも関わらず、無造作に転がっている。幹部連中あたりなら驚きもしないだろうが、これが一般団員ならば、羨望の眼差しと溜息が送られるのは、間違いなしの状況である。
東側に置かれている文机にて、正座をし、書類作成をしていたアラシヤマとしては、いまだに彼が何しにここへ来たのかがわからなかった。
たぶん、本当に単なる暇つぶしで、息抜きなのだと思うのだが、生憎こちらは仕事中である。とりあえず、今かかりきりになっているものをとっとと仕上げなければ、彼の話し相手にもなれなかった。
もっとも、彼が自分を話し相手として認めてくれるかは疑問ではあるが。
哀しいことだが、長年彼の傍にいれば、そういうことに関して必要とされているかされていないかは、わかってくるものなのである。
「他ってどこだよ。キンタローはグンマとともに学会でいねぇし。ミヤギ、トットリ、コージは、外勤だ。ここに残っているのは、お前ぐらいなもんなんだよ」
「そうでしたなぁ…」
つまらなそうに、それでもきっぱりと言われたその言葉に、アラシヤマはわずかに肩を落とした。
確か自分と彼とは恋人同士だったはずである。
それも一年は確実に立っている間柄にもかかわらず、自分に対する接し方は、昔とちっとも変わらない気がする。
いつもの照れ隠しだと言うのは、さすがに何年も傍にいればわかってくるのだが、やはりそういわれてしまえば少し切ない気分を味わってしまうのである。
「いいから、とっとと仕事をしろよ」
「へえ」
畳の上に膝を立て横たわった姿での横柄な態度、どちらが部屋の主かわからない。
最初に『たいくつだ』と喚いて、こちらの邪魔をしたのはあちらの方だが、もちろんそんなことを口に出していうほど、命知らずではなかった。
そうして、時間は確実に過ぎていく。
それ以後口を開くことなく、畳の上でごろごろしてくれていた方がいた御かげで、仕事もあっさりと終わりとなった。
「はぁ、やれやれ。終わったですわ」
握りすぎて筋張ってきそうだった手をペンから解放する。ぺンはそのまま文机の上を転がっていった。
脳みそ筋肉のコージや顔だけ阿呆のミヤギなどよりは、こういう手合いの仕事をこなすことを苦にすることはないが、それでも慣れないことに肩がこった。コキコキっと左右交互に肩を持ち上げ、凝りを解すように腕を回したりしてみれば、むくっと寝ていた相手が起き上がった。
「仕事、それで終わったか?」
「終わりましたえ」
今度は、相手に笑みを見せられる。全ての仕事が終わったわけではなく、まだ他にもやることはあったが、けれど急ぎの書類はこれで終わりだ。シンタローの話相手ぐらいをする時間はできた。
それならば、まずはお茶でも入れてこようかと、立ち上がりかければ、それを制する様に、シンタローが言葉を発した。
「よし、んじゃ―――ここに、寝ろ」
「……………はっ?」
その光景に、アラシヤマは目を丸くした。
ぽんぽんと叩いて指し示す場所――それは、シンタローの……膝の上であった。
畳の上に、斜めに傾くように座り込んだシンタローは、その太ももの上を叩いている。それを間近で見たアラシヤマは、その場で硬直するしかなかった。
「なんだよ、イヤなのかよ」
「そ、そないなこと……」
あるわけがない。
むしろ、嬉しすぎて二の句が告げないほどである。もしやこれは夢幻だろうか、と頬をつねりたい気分でもあった。
もちろんこれが現実であることは、しっかりと分かっていた。第一、叩いている本人の顔が――かなり真っ赤なのである。少し俯き加減のまま、先ほどからこちらと視線はまったくあわせてくれない。自分がなかなか動かないことに、不機嫌そうな雰囲気は伝わってくるが、多分に羞恥のせいもあるだろう。
恥かしいのならば、そんなことをしなければいいのに、と思ってしまうのだが……たぶん、これは――。
(わてが睡眠不足やてわかっとったみたいどすなぁ)
自分のために違いなかった。
最近ずっと内勤であったが、面倒なことに士官学校生の講師なども引き受けたために、色々と細かいことまでやることが増え、睡眠時間を削っていた。戦闘中なら、睡眠の不足は任務に支障をきたすために、きちんととることが義務付けられているが、内勤ならば、多少の不足は、こちらの気力しだいでどうにかなる。そう思っていれば、ついつい睡眠は不足しがちになっていた。
きっとそれを知っていたのだろう。だから、唐突すぎるものの、こんなことを言い出したのだ。
(それなら、素直に『寝ろ』といってくだはればええのに)
そう言えないのが、彼というべきか。あまりにも愛しすぎる行動である。いっそ、そのまま「愛してますえ、シンタローはんVvv」と抱きつきたいところなのだが、おそらくそれをやれば、眼魔砲を間違いなく食らわされるに違いなかった。
ここは、彼の言うとおりにするべきだろう。
確かにこれは美味しいシチュエーションだった。
だが、アラシヤマには、それを手放しで喜べなかった。このまま自分が寝てしまえば、確実にあることが起きる。それを懸念したのだが、ふっと目の前が暗くなった。
目隠しをされたのだ。彼の手が、自分の眼に覆いかぶさった。
「いいから、寝ろよ…」
ぐいっっと額を下へと押されれば、それにつられるようにして身体が傾けられる。けれど、畳の固い感触よりも先に、弾力性のあるものに後頭部が触れた。
それは、たぶんシンタローの膝。
「そうどすな」
ここまでされれば、もう抵抗は無駄である。その後のことは、その時に考えればいい。
アラシヤマは、全てを委ねるように目を閉じた。
それから数時間後。
「っ…あっ……くっ……アラシヤマ。も、もう…やめぇ…手…放せ…」
「けど、シンタローはんこれがええんでっせ」
自分の下でシンタローは、身体を捩らせ身悶えしている。けれど、アラシヤマはその手を休めることはしなかった。その言葉に反発するように、さらに手の力を込める。とたんに、大きく背をそるようにして、シンタローが跳ねた。
「あっ…う、動くな…そんなに力を込めたら……やぁあッ…」
「気持ちええでっしゃろ?」
そう言って、ニィと笑みを浮かべたとたん、シンタローの拳が顔めがけて飛んできた。
「なわけあるかぁぁああ!! ―――――足ッ! 足に触るなッッ!」
それでも中途半端な姿勢のおかげで、向かってきた拳はなんなくよけられたアラシヤマは、自分に膝枕をしたせいで、すっかり痺れてしまった両足を、むんずと掴んで見せた。
とたんに「ぎゃぁあ!」と悲鳴があがる。
心配したとおりだ。
(あんなふうに眠られたら、足が痺れるのは当たり前でっしゃろうに)
アラシヤマは、完全に血の気を失い痺れたシンタローの足のマッサージを再び開始する。
「くっそぉ~~…あとで覚えてやがれ」
恨みがましげにもらされる言葉。自業自得というべきか…。
―――――せやけど、痺れたら足を揉むのが効果的なんどすえ?
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ポタポタポタポタ……。
アップビートな速さで落ちてくる水滴をぼんやりと眺めながら、アラシヤマは黒ずんだ空を見上げていた。ガンマ団施設のひとつである建物の軒下で、雨垂れの音が耳に響く。その向こう側は紗のかかった景色。
(ついていないどすな…)
鼻のシワが寄せられる。
屋外の訓練場へと行こうとしたら、にわか雨に出会ってしまったのだ。
出かける前についうっかり空模様を確認しなかったのが悔やまれる。雨が顔にあたってから、土砂降りへと変わるまで、間はなかった。すぐさま近くの軒へと非難したために、びしょ濡れの被害はまぬかれたものの、そのまま足止めをくらっていた。
これならば、最初から室内訓練場へと向かえばよかった。
だが、出来ればあちらは遠慮したかったのだ。あそこには、常に他の仕官生達がつるんでいる。人付き合いの苦手な自分としては、それがあまり好ましくなかった。だからこそ、いくつかある中でも一番遠く、あまり利用されることのない、野外に設置されたと訓練場へと向かおうとしたのだが、結果がこれである。
(ほんま、運の悪い)
せっかくの空き時間が、これで台無しだ。
もちろんにわか雨ならば、すぐに上がるだろう。
耳をすませば、先ほどよりも大分雨音が弱まっている。空模様も、幾重にも重なり厚くなっていた雲の大半は、すでに西へと逃げていっていた。
もう少しすれば、完全に雨がやむはずだ。
それでも、野外の訓練場となれば、雨が上がっただけでは、すぐに使えるとは限らない。ぬかるみに足を取られ、足首でも捻れば、阿呆呼ばわりをされるだけである。もちろんそんな愚かな真似はする気はないが、そういうのははずみだ。気をつけていたからといって、万全ではない。
「これは帰った方が賢明でっしゃろうな」
刻々と移り変わる空の様子を眺めつつ、アラシヤマは、諦めの溜息をもらした。地面に視線をおとせば、土の大地の上に大小さまざまな水溜りが出来ている。僅かに明るくなった空のお陰で、ぬかるみを表明するように薄く光っていた。
きっと訓練場にいっても同じことになっているだろう。地面の具合は、すこぶる悪い状態だった。
雨が止んだのを見計らってから、回れ右をした方が正解のような気がする。
(そろそろ止みそうなんやけどなぁ)
アラシヤマは、手を軒下から差し出した。
見た目でも分かっていたが、指先に触れる雨に、先ほどの叩きつけるような強さはもう感じられない。そろそろ雨も終わりだ。
それでもまだもう少し、完全に雨が止むまでまとうと視線をあたりに巡らせたアラシヤマだが、その視線がふと止まった。
誰かが来る気配を感じたのだ。そして、ほどなくその目にも気配の主が映る。
「あれは……」
アラシヤマは、それに軽く目を見張った。
そこへいたのは意外な人物。
「シンタローはん」
思わず漏れた声に、俯き加減のまま、目の前を通過しようとしていた彼が振り返った。自分がここにいたことに気付かなかったのか、かなり大仰な振り返り方で、ひとつに結ばれていた髪が、鞭をしならせるようにして、大きくうねった。
「あ?」
癖なのか、常に相手との視線を避けがちの自分に向かって、真っ直ぐと強い眼差しが向けられる。その瞳に、大きく自分が映った。それが何度か、瞬かれた。
「アラシヤマか。んなとこで、何してるんだよ」
「雨宿りですわ。シンタローはんこそ………この雨ん中、傘もささんで、何してはるんどす」
相手は、全身びしょ濡れ状態だった。
いつから、その状態で外に出ていたのかは知らないが、稽古着は、すでに肌にぴったりと張り付いており、ちょっと絞れば大量に水が滴り落ちそうなほど濡れそぼっていた。
雨の中にいなければ、どこの水溜りに落ちたのだろうかと疑うほどである。
けれど、アラシヤマの質問に、
「傘をもってねぇからに決まっているだろ」
何をバカなことを言っているのだと、言わんばかり返答が返ってきた。
相変わらず傲岸不遜げな態度で、顎を持ち上げ、自分を見下ろすように見つめるが、その前髪からは、未だに降り注ぐ雨により、雫が零れ落ち、それを鬱陶しげにかき上げた。
もっとも、そんな動作も無駄に近い。髪に落ちた雨は、額からにじみでて、いくつもの枝となって別れ、顔へと流れ込んでくる。目に雨が入り込むのか、こするような動作を何度も繰り返していた。
(そりゃまあ、確かに、傘をもってへんから、濡れているんでしゃろうけど)
アラシヤマは、その姿に、憮然とした表情を浮かべた。
こちらからすれば、傘ももってないのに雨の中を歩き回るのは、どうなのか、というものである。
「風邪ひきまっせ?」
普通に考えれば、そう思うだろう。
確かに季節は夏とはいえ、こうまで盛大に雨が降り注げば、蒸し焼きにされそうな暑さも逃げ、肌寒さすら感じる。濡れれば、それはさらに増すだろう。その気温差に、体調を崩さないとは限らない。
だが、自分の気遣いも、相手はただの杞憂と跳ね飛ばした。
「んな、やわじゃねぇよ」
「そうどすか?」
「平気だろ。こんなもん、シャワーと思えば気持ちいい―――っくしょん」
しかし、とたんに盛大なくしゃみを目の前でやられてしまった。大きく前のめりになるようにして、飛び出したくしゃみは、幸いこちらまではツバは飛んでこなかったが、だからといって、見過ごせるものではない。まだ、雨は降っている。
(阿呆どすか)
先ほどの言葉は、単なる強がりなだけである。たぶん濡れ具合からして、雨が降り出してからずっと外へ出ていたのだろう。もしかすると、自分が向かおうとしていた訓練場に彼はいたのかもしれない。方向からいえば、それはかなりの確信を得るものだった。
だとすれば、雨が降り出したのでこちらへ戻ってきた、というのが正解だろう。
しかし、そうなれば、運動後の火照っていた身体が一気に雨で冷やされたのである。それが身体にいいわけがなかった。
(まったく、ほんまにこういうことは考えなしどすな)
彼を何でもこなせる完璧な人間だと思っていた―――出会って最初の三ヶ月間ほど。
入学早々にあった実力テストも全て完敗、その後の実技でも自分は敗者。幼い頃から厳しい師匠の元で修行をつんでいたために、かなりの自尊心を携えていたが、それを打ち壊されるほど、全てにおいて彼に敵わなかった。現総帥の息子という血統ゆえに、それは仕方がないとさえ、思っていた。
だが、そんな彼も完璧ではないと気付いたのは、三ヶ月ほど経ってからの事だった。
全寮制の学校である。四六時中共にいれば、その本質も見えてくる。
青の一族とも呼ばれる完璧なる血筋。だが、彼は、生まれ持ったその血筋のせいで、トップにいるわけではなかった。
人の背負う重さなど他人には分かり合えない。どれほど近しい人間でも、その背中に背負ってみないことには、その苦しみは分からない。だから、これは自分の推測でしかないのだけれど、彼は自分よりもはるかに重いものを背負っているようだった。おそらく、絶対的な権力とカリスマを持った父の子という重みであろう。その重みに押しつぶされないように、彼は自分よりも高みに立てるほどの努力をしていた。
彼は、何でも出来る完璧な人間ではなかった。
それができるまでに血の滲むような努力と搾り出した気迫とで手に入れていたのだ。
それに気付いてから、彼を見る目が少しだけ変わっていた。
とはいえ、根本的なことは変わらない。
努力をしていようがしていまいが、自分の前に目障りなものとして存在していることは確かなのだ。自分はそれを払いのけ、追い抜こうという目標を抱えているのだから、彼が努力の人であろうとなかろうとさしたる問題はない。
ただ、うらやむことだけはやめた。彼は全てにおいて恵まれた人間だと信じ込んでいた自分を捨てた。そうでないことが分かったのだから、それは当然のことで、それゆえに、その少しだけ変化した目で、彼を真っ直ぐに見ることができるようになった。
「誰か、俺の噂をしてるとか?」
飛び出たくしゃみの痕跡を隠そうとするように口元を覆うけれど、出て行ってしまったものは取り戻せない。
「そんなわけあらしまへんやろ。まったく、この雨はシャワーには冷たすぎどすえ」
くしゃみと同時に身体を震わせたのを見てしまった。
だからだろう。考えるよりも先に、足を一歩前へと踏み出していた。
小雨となったものの、肌に冷たい雫がいくつも触れる。けれど、アラシヤマは、それを厭わず、そのまま腕を伸ばし、雨の中に立ち尽くしていた相手の手をとり、力いっぱい引っ張った。
「なっ」
驚きの声と驚きの表情。
自分の行動が以外だったのか、あっさりと相手はこちらの思い通りに動いてくれた。遠慮なく引っ張ったお陰で、身体は、真っ直ぐと自分にぶつかるようにやってくる。だが、もちろんそれはかわした。
びしょ濡れの相手を抱きとめてあげるほど自分は、親切な人間ではない。あちらも、そのまま建物にぶつかるという間抜けなことはせずに、壁ギリギリで足を踏ん張りそれを止めた。
「…にしやがる、てめぇ!」
ふわっ。
そうしてすぐさま怒鳴るために振り返ることは予想していた。だから、アラシヤマはそれよりも先に自分の肩にかけておいたものを相手の頭の上に落とした。
「ッ!? …なんだ…タオルじゃねぇかよ」
「そうどすえ。これで濡れた髪と顔を拭きなはれ」
視界を塞いだ白いものを、慌てて掴んだシンタローは、それを持ったまま、こちらとそちらの交互を見やる。
「なんで?」
「タオルは、そういうためにあるもんでっしゃろ」
シンタローへと投げたタオルは濡れていない。雨に濡れる前に、避難していたおかげである。
「いや…だから、なんでお前が、んなことするんだよ」
確かに、訝しげな表情をされてもおかしくはない。
自分とシンタローは、同期というだけで、親しい友人ではない。それどころか、互いに成績を争う、いわばライバルのようなもの。ここまで親切な行動をしたのもは、アラシヤマも初めてだった。
けれど、理由を尋ねられても困る。
タオルを貸してあげたいと思ったのは、彼が目の前でくしゃみをしたからだったが、風邪をひかれたくなかったというわけではない。
そんなことは欠片も思わなかった。
「さあ? わてにもわかりまへんわ。ただ、わてが濡れてないタオルを持っていて、あんさんがびしょ濡れな上にくしゃみをしたからどすえ」
「ふぅ~ん」
そんな説明でわかったのか分からなかったのか、こちらには判別しにくい返事を返される。
「ま、サンキュな」
それでも、掴んでいたタオルを頭に置くと、がしがしっと荒っぽく拭いていく。ついでに、タオルの端で顔を拭って、それから、結んでいた髪のヒモをほどいた。
それは何気ない動作で、隣にいたアラシヤマは、判然としない視線で、それを映していたが、その衝動で、髪に滴っていた雫のひとつが自分の眼に飛んできた。
思わず目を瞑り、押さえる。それに気付いた相手は、動きを止め、こちらを見た。
「あ、悪ぃ。かかったか?」
「気をつけてくれまへんか。目に入ったんどすえ」
痛みは一瞬。大したものではない。それでも恨みがましい言葉を漏らせば、すかさず言葉を返された。
「だから、悪いって謝ったじゃねぇかよ。大体、濡れてる奴のそばにいれば、濡れるのは分かるだろうが。離れとけよ」
確かに彼の言うとおりである。
今いる場所は、前後の幅は狭いものの横は長い。少なくても雫が飛ばない場所までの移動はできる。けれど、そうしななかったのは、単に面倒だっただけで、そこまで考えが及ばなかっただけだ。
それで動くのは、なんとなく癪だったから、その場に留まったまま、視線を向ける。とたんに、こちらを見ていたのか、相手の視線とがっちりと合ってしまった。
「何、みてんだよ?」
「なんでもあらしまへん」
タオルの隙間から、じろりと睨まれて慌てて視線をそらす。
人の眼は苦手だった。
それは小さい頃のトラウマが残っているためだ。
うわべだけはいい親を演じつつも、実は、特異体質だった自分を化け物のように見ていた両親。先生も友人も、自分が持つこの力を知れば、同じような視線に変えていた。
恐怖と拒絶の視線。
それにさらされ続けたお陰で、他人の視線というものに、怯えがのこる。師匠に引き取られてからは、徐々に人の眼におびえることはなくなっていったのだが、それでも大勢の視線にさらされるのは、まだ少し怖い。
けれど、彼の眼は少し違う。
苦手だけれど―――嫌いではない。
それはたぶん、彼の視線が誰よりも分かり易いためだ。
真っ直ぐと向けるそれは、いつもそこにある感情だけを映しこむ。
本心を押し隠した目は向けない。凝った負の感情はない。もちろん怒りの感情は、あったけれど、それはストレートな怒りのものだけで、陰湿や陰険なものはなかった。
同じ漆黒の瞳をしていても、宿る感情で全然違うものに見えるということは、彼の瞳で初めて知った。
それだけは、ライバルとして敵意を燃やしている彼に、感謝したいものだった。
「雨、止んだな」
その言葉に、いつの間にか物思いにふけり、沈んでいた頭が急いで上げられた。
気付かないうちに、確かに雨は止んでいた。
キラリと眩しい光が目に刺さる。ぼぉとしている間に、雨はすっかり上がり、暗雲は去り、ついでやってきた白い雲の合間から、太陽が覗いていた。
濡れた地面が、キラキラと光を乱反射させている。広がる晴れ間に、アラシヤマは目を細めた。
「んじゃ、俺行くわ」
そうして空へと現を浮かしていれば、すでにポツンポツン…と名残のように雨垂れる軒下から、シンタローが飛び出した。手には、あのタオルを持ったまま。太陽が彼の頭上から光を注ぎ込む。その明るい日差しの中で、彼は笑った。今まで、一度とも自分に向けたことのない笑顔をこちらへと向ける。
「タオル、サンキュな!」
ドキッ。
そのとたん、アラシヤマの胸が大きく高鳴った。
(え?)
唐突過ぎる、その大きな鼓動。その意味を考える暇もなく、
「洗って返すから、もうちょい借りとくぜ」
「あっ」
眩しげな笑顔が遠のいていく。こちらが言葉を紡ぐ前に、あっという間に行ってしまった。
それは本当にわずかな間の出来事で、自分に向けられたあの笑顔は幻だったと思えるほど。
「――なんですのん」
一人その場に取り残された自分の口からは、思わずそんな言葉が漏れでた。
高鳴った胸は、今はドキドキと少しだけ鼓動を早め打ち付けている。
その理由がわからない。
否――原因はひとつ。彼の存在。
けれど、それはほんの僅かな間だった。
彼がそこにいたのは、雨が止むほんの少しの時間。
「なんですのん」
アラシヤマは、自分の頬に手をやった。
自分の顔は、真っ赤に染まっているはずである。頬がとても熱かった。
「こんなん変どすわ。……こんなん、まるでわてがあん人を―――」
その先は言えない。言えば認めてしまいそうだから。だから言葉には出来ない。
たぶんこれは一時のもの。通り雨に打たれて、少し風邪を引いてしまっただけだ。
そう思い込み、アラシヤマは、洗われたばかりの真っ青な空を眩しげに見上げた。
カタリ。
小さな音を立て、引き出しを開けたシンタローは、そこに無造作に置かれていた装身具を取り出した。
コロリと手の平の中で転がるのは、小さなサファイアのピアス。
直径二ミリほどのその丸い宝石がついたそれは、誕生日に叔父のサービスから贈られたものだった。似合うだろうという理由だけで、放り投げるように渡されたそれは、大好きな叔父からの物だというだけで、嬉しく思っていたのだけれど、なかなかそれをつけるための穴を開けるチャンスが見つからずに、そのままにしていた。
それをしばらく眺めていたシンタローは、決意を込めるように握り締めた。
手の中で主張する二つの玉。
二つで一つの装身具。
シンタローは、思いつめたように、その一つを手にすると、何の用意もなく、それを耳に突き刺した。
じくじくと右耳が痛む。
その耳には無理やり刺したピアスがはまっていた。
簡単に消毒はしたけれど、それだけだった。
それは、衝動的な行為ではない。
いや、そう言うものもあったのかもしれない。けれど、自分の中に確固たる想いがあって、その想いを形にするために、ピアスをはめた。
しかし、それは片方だけだ。もう片方は自分の手の中にある。
片割れのピアスを眺めていると、ドアが開いた。
「シンタローはん。ちょっとええどすか?」
部屋に入ってきたのはアラシヤマだった。
事前に彼が来ることをしっていたシンタローは、「入れ」という一言で促した。
アラシヤマの服装は、ガンマ団本部で着る制服ではない。機能性を重視した戦闘服であった。
数刻後、アラシヤマは特別に選抜された部隊とともに遠征へと出かけるのである。部隊長に任命されたアラシヤマは、それを報告するために、総帥であるシンタローの部屋まで来たのだ。
部屋には、シンタローとアラシヤマしかいなかった
他のものは、シンタローが用事をいいつけ追い出したのだ。
シンタローは、ピアスを手の内で押し隠すように握りしめ、アラシヤマを呼んだ。
「ちょっとこっちに来い」
「なんですのん?」
なんのためらいもなく、呼ばれて来たアラシヤマに、シンタローは、その首に手を伸ばし引き寄せた。突然の行為のせいか、あっさりとよろめきながらも傍へとよったアラシヤマの髪をかき上げると、右耳を露にさせる。
「シンタローはん?」
怪訝な声。
けれど、それには答えずに、シンタローは、手の中にもっていたピアスをその右耳へ突き刺した。
「痛っ!」
アラシヤマの身体が跳ねる。
けれど、それでもかまわず、突き刺したそれを、後方から金具で止めた。
「なっ…」
アラシヤマの手が動き、痛むだろう耳に添えられた。
血が流れている。
その異変を感じたのだろう。何か言おうと口を開ける。
「シン…っ」
だが、それよりも先にシンタローは、その口を手で押さえつけた。
「悪ぃ」
突然のこの行動に、相手が驚かないはずがない。怒らないはずはない。
それでも、シンタローは、それを言って欲しくはなかった。
まだ――――。
シンタローは、見開かれたままのアラシヤマのその目を覗き込んだ。そして、言葉を吐きだした。
「後でだ………抗議の言葉は、後でゆっくり聞いてやる。怒りの言葉も、責めの言葉も聞いてやる。……だから、帰って来い。ちゃんと、ここに戻って来い。そして、こいつを俺の元に返しに来い。いいなっ」
願いを込めて、口にする。
(帰って来い)
その想いを。
アラシヤマが、今回の遠征内容の他に任務をおっていることを知ったのは偶然だった。
仮眠をとるために、横になっていると隣の部屋から声が漏れ聞こえてきたのだ。ドアは無用心にも開いたままで、アラシヤマの姿だけはそこから覗けた
自分がいることを気づかずに、交わされた契約。
自分が与えた任務よりもさらに過酷なそれ。
下手をすれば、命さえも落とす―――否、それを遂行するならば、命を落としても当然のような任務だった。
任務を下したのは、現役を退いたはずのマジックである。
断ればいいものを引き受けてアラシヤマに内心怒りすら覚えたが、それでも黙認したのは、自分が口出しする部分ではないと思ったからだった。
マジックも「断ってもかまわない」と告げていた。それでも、選んだのはアラシヤマだった。その任務を受けることを。
誇らしげに笑みすら浮かべて、それを承諾した。
ならば、それを取り消すことは、自分にはできなかった。
それでも、失う気はなかった。
死すら覚悟した彼をここへと戻ってこさせるために、シンタローは、ピアスを彼の耳に押し付けた。
二つで一つの装身具だから。
欠けてしまえば使えぬものだから。
返しに来いと無茶なことを告げる。
戻って来いと暗に告げる。
それを選ぶかどうかは、アラシヤマしだいだけれど、それでも願いは一つだった。
(っ~~~~~!!)
アラシヤマは、突然の痛みに、仰け反った。
耳たぶが、痛い。いや、痛いというか、じんじんと燃えるような熱さを感じた。
(何してくれはったんや?)
暴挙とも言うべき行動の後のその痛み。
「なっ…」
そこに思わず手を添えると、そこにはついさきほどまでは存在していなかった異物が収められていた。
ありえないそれに、
「シン…っ」
抗議の声を出そうとしたアラシヤマだが、それよりも早くその口を相手の手のひらでふさがれた。
もごもごと口を動かすが、声にはならない。
睨み付けるように相手を見れば、シンタローもまた、苦しげに自分を見上げていた。
「後でだ………抗議の言葉は、後でゆっくり聞いてやる。怒りの言葉も、責めの言葉も聞いてやる。……だから、帰って来い。ちゃんと、ここに戻って来い。そして、こいつを俺の元に返しに来い。いいなっ」
その言葉に、アラシヤマは息を呑んだ。
知っていたのだ、シンタローは。自分が課せられた任務は、シンタローから命じられたものだけではなく、元総帥であるマジックから受けた、命すら危ぶむ危険な命が含まれていることを。
もしかしたら、自分が死ぬ気でいることも見抜いているのかもしれない。
それでもその任務を引き受けたのは、のちのちの彼のためになるからと判断したためだ。
彼が進むべき道の過酷なそれの負担を少しでも減らせるのならばと承諾した。
アラシヤマはシンタローを見た。
その耳に、血がこびりついているのが見えた。そして、そこに押し込まれたものも。
(わての耳にもあれが?)
もう一方の耳には、何もつけられていないのだから、そう見るのが正しいだろう。
二つで一つの装身具。
それを二人の人間が一つずつつけられた。
(シンタローはん………?)
それは誤解をしてもいいというものだろうか。
彼の自分に対する気持ち。
耳の痛みはまだ、ひいてはいない。
自分はまだ、何もシンタローには言っていない。
だが………全ては後からなのだ。
再び彼と出会えた時に、その思いを告げればいい。
怒りや責めよりもなによりも、彼に対する自分の想いも。
「覚悟しておきなはれ。わては恨みがましい人でっせ」
「ああ、覚悟しとくよ」
ニヤリと互いに笑みを交わし会うと、自然と近かった顔が、さらに距離を縮めた。
ふっと吐息を吐き、吸い込むそれに合わせるように、互いの唇が重なった。
「ん~っ、眠らせろ、俺は疲れてんだよ」
触れるアラシヤマの手を邪険に払いのけ、柔らかなベットに身を投げ出す。
ポンッと小さく跳ねた身体はそうしてゆっくりとベットに沈む。そのたんに、どろりとした眠気が身体を覆っていく。
今日も激務だった。
朝から時計の晩まで―――それこそ日付が変わるその少し前まで仕事をしていた。
けれど、ようやく眠れるというところで、ちょうどアラシヤマと出会ってしまったのだ。
運が悪いと思ったが、どうしようもない。こちらは、疲れきっているために、ろくに抵抗もできずにいると、図々しくも相手は、一緒に部屋へと入ってきたのである。
「寝ててええどす。わてが勝手にやりますから」
優しげな声でそう言われるが、だが、気持ちよく横たわる上から、アラシヤマが覆いかぶさってくる。
「重たいっ、どけっ」と言う気力もなく、うつぶせ状態のままでいれば、乱れてあらわになったうなじに口付けを落とされた。
「んっ……だぁから」
疲れ切った身体に、とろとろとろと眠気が襲ってくる。睡魔に支配されていく身体。なのに、一方ではざわざわと妙な熱が目覚めてくる。
微妙なところの口付けは、素直に眠りに入るのを妨げる。
さらに、アラシヤマの手も、シンタローの身体に悪戯を仕掛けてくる。
脇腹をなぜ、髪を掬い、決して痛い思いはさせないが、けれど、反対にくすぐったいようなむず痒いような気持ちが強くなる。
「アラシヤマ~~」
やめろ~という言葉は、当然のように無視される。
うなじに口づけられた後は、今度は背中へと下りていた。シャツはめくられ、そこに頭を突っ込むようにして、直接触れられる。
ぴくんと背筋が反るように反応する。
「っ……やだっ、てぇ」
それは気持ちいいというよりもくすぐったくて、身を捩じらせていれば、つぅと背骨を伝うように、上から下に舐められる。
「くっ……んぁ」
先ほどとは違う、ゾクリとする甘い痺れに、思わず身体を震わせる。
それが面白いのか、何度もやられていれば、否応なしに眠気など、逃げていく。
熱は体中に回り始め、吐く息までも、甘い熱がこもる。
「シンタローはんv」
ころあいを見計らい、至近距離で名を呼ばれた。
わざとに違いない、耳元ぎりぎりからの声。
ふっと息を吹きかけられ、ぺろりと耳の形をなぞるように舌が這う。
「ふっ…くっ……ん、なんだよ」
言いようにあしらわれているのが判るから、悔しくて頬にカッと急激に血が上る。
ジロリと相手を睨みつけてみれば、くくっと喉を鳴らして笑われた。
「いいえ。すいまへんでした。お休みなはい」
(なんだとっ?)
その言葉に、驚いて振り返った額に唇を押し付けると、あっさりと離れていくアラシヤマ。
慌てたのは、シンタローの方だった。
「ちょ、ちょっとまて。てめぇ、それで終わりかよ」
慌てて起き上がり、ベットからおりかけていたアラシヤマの腕を掴む。
引き止めれば、相手は振り返り、可笑しそうに笑みを浮かべて言い放った。
「眠いんでっしゃろ?」
おやすみなさい。
何事もなかったかのようにそう告げるアラシヤマに、シンタローは悔しげに眉を寄せた。
完全に相手の思うツボにはまっているのが、わかる。
確かに眠たかった。
ついさっきまでは、瞼を閉じれば10秒後には、眠り込んでいただろう。けれど、今は違う。
「っ! 眠れるわけねえだろ」
「そうどすか?」
飄々と言い放ったアラシヤマをさらにきつく睨んでみせる。
眠気なんてとおに吹き飛んでしまっている。疲れているはずなのに、けれど身体は休みを欲してない。
欲しているのは―――。
「なんででっしゃろねぇ?」
そう言うその目は、弓なりに笑っていて、それがかなりむかついたが、負けているのはこっちだった。
このまま、眠れと言われても、眠れそうにはない。
疼くような熱が中心から渦巻くように溢れてくる。この熱は、ちょっとやそっとでは収まりそうになかった。
かくなる上、そうしてくれた相手に責任をとってもらうしかないだろう。
「てめぇのせいだろうがっ! ちゃんと俺が眠れるようにしやがれっ」
握っていた腕を力の限り引っ張ってやる。
そうすれば、容易くその身体は自身の元に戻ってくる。
当たり前だ。あいつも、口ではそういいつつも、部屋に戻る気はなかったはずである。
「ええんどすか?」
得たりと笑われるのは気に食わない。
相手の策略にまんまとはまったのは酷くムカつく。
それでも、眠りよりも欲しいものを得てしまっては、仕方がない。その後の安眠のために、ここは素直になっておくべきである。
「ああ…俺を眠らせろ」
「おおせのままに」
その言葉を恭しく告げると、アラシヤマはゆっくりと覆いかぶさっていった。
浮かれたざわめき。
遠く聞こえるお囃子の音。
威勢と調子のいい香具師の声。
「おい、次はあれ食べるぞっ!」
はしゃいだ声でそう言ったのは、世界に名だたる暗殺集団―――改め、お仕置き軍団をまとめあげるガンマ団総帥のシンタローである。
だが、今は、彼が、そんな存在であることなど誰もわからないだろう。
藍色の無地の浴衣を着て、袖をまくりあげて手を振り上げる姿は、どこから見ても無邪気な子供のようなものだった。
一応名目は護衛として彼の傍にいるアラシヤマは、そんな姿を微笑ましげに眺めていると、早速お目当てのものを買ってきた彼が、嬉しそうな顔で、こちらに戻ってきた。
「見ろ! 上手そうなイカ焼だろ」
自慢げに見せてくれたのは、ここからでも食欲をくすぐらせるいい匂いをさせていたイカ焼きである。タレの香ばしい香りが、アラシヤマの鼻にも刺激する。
「シンタローはん。食べすぎですわ。お腹壊しまっせ?」
それでも、アラシヤマに口から出たのは、忠告だった。
すでに彼は、いくつもの食べ物をその腹の中に収めてるのだ。
確かに美味しそうなのだが、それで体調を崩されてしまったら、なんのための護衛なのか分からない。
だが、そう告げるととたんにシンタローは、唇を尖らせ、顔を顰めてた。
「心配すんなよ。これぐらいで、腹壊すかよ。っと……あっ!」
それでも、すでに手にはたこ焼きにカキ氷をもっているシンタローである。にもかかわらず、さらに買い元めてきたイカ焼きを食べようとしたとたん、バランスを崩して、全てを地面にばら撒きそうになった。
「危ないどすっ」
だが、その前に、アラシヤマがそれを救出した。
斜めにずり落ちそうになった、たこ焼きとカキ氷を危ういところでキャッチすると、自分が変わりに持った。
「悪ぃ」
さすがにばつが悪いのか、申し訳なさそうな顔をこちらの向けたシンタローに、アラシヤマは、ふっと苦笑をし、そうして、危ういバランスの中にいた、たこ焼きとカキ氷を自分の手でしっかりと持った。
「それはかましまへんが、よかったらわてがこのまま持ってまひょうか?」
アラシヤマの手には、先ほどシンタローが掬ってきたヨーヨーがかかっているだけで、ほとんど手ぶら状態である。そのくらいをもったところで、シンタローのようにこぼしそうな羽目には陥らない。
「そうだな。持っててくれるか? つーか、それ食べていいから」
すでに、こちらは飽きてしまったのだろうか。こんがり焼けたイカ焼きに嬉しそうにかぶりつき始めたシンタローの顔を苦笑まじりで眺めつつ、アラシヤマは頷いた。
「そうどすな。そんならわても頂きますわ」
「うっし! じゃあ、次は何をすっかな」
アラシヤマにお荷物を押し付けると、くるりと楽しげに視線をめぐらせる。
そんな、生き生きとしているシンタローに、アラシヤマは、そっと嬉しげな笑みを浮かべた。
(誘ってみて正解どしたな)
この祭りに連れてきたのは、アラシヤマだった。
しかし、それは半ば無理やりのようなものだったのである。
仕事仕事で詰まっていたシンタローに息抜きだと言い張って、ティラミス達に浴衣を用意させると、強引に祭りにつれてきたのだ。
最初はどうなることかと心配もしていたのだが、祭り会場にきたとたんこれである。
計画した本人も驚くほどのはしゃぎっぷりだ。
聞けば、幼い頃は、このくらいの小さな祭りには、よく両親につれてきてもらっていたらしい。それならば、納得である。
(ああ、祭り万歳どすな)
シンタローの浴衣姿をみつつ、アラシヤマは、しまりのない笑みを浮かべた。
露になった二の腕は、崩れかけて除ける鎖骨辺りも普段ならば見られない光景なのだ。
ここぞとばかりの目の保養である。
「何やってんだ、アラシヤマ。行くぞ」
「あ、まっておくれやす」
それに、こうやって二人っきりで歩いていれば、デートである。
(シンタローはんとデート!)
夢のようどす………ほんまに―――夢どすけど。
アラシヤマは、自分の言葉に、そっと涙をぬぐった。
「あっ、そこにいただべか、シンタロー」
「あー、シンタロー。いいもん食べちょるだっちゃわいや」
(あいつらさえ、いなければ~~~~!!)
あっという間にシンタローにまとわり付いてきたのは、ミヤギとトットリである。
この祭りには、彼らも一緒に来たのだ。
もちろん当初の予定では、二人っきりで祭りにいくつもりだったのである。
なのに、気づけば邪魔者三人がついてきた。
(んっ? そう言えば、コージはんは)
もう一人の邪魔者はどうしたのかと思っていると、「うわぁ」とシンタローの悲鳴が聞こえてきた。
「どうしはったんどす!」
慌てて振り替えれば、そこには半分以下になったイカ焼きを振り回すシンタローの姿があった。
「コージてめぇ、俺のイカ焼き食ったな」
「油断大敵じゃけんのォ、シンタロー」
もごもごと口を動かしつつ笑みを浮かべるコージに、シンタローは、悔しそうな顔をして、べしっとその額を叩いている。
どうやら、あのイカ焼きをコージに食べられたようだった。
「ちくしょ。やられたぁ~!」
「いいだべぇな、コージ。シンタロー、オラにも一口くれねぇべか?」
「僕も食べたいっちゃ」
「てめぇら、欲しけりゃ買ってこい!」
まとわり付く二人に一蹴するシンタロー。
それは普通の光景であった。
周りの人達も、年の近い友人達がじゃれあっているようにしか見えないだろう。しかし、それを見ていたアラシヤマのその瞳に奥にぼっと炎が燃えあがった。
(なんやのんあれはっ!!)
ごく何気ない光景。だが、それはアラシヤマにとっては許されないことであった。
(シンタローはんのイカ焼きを………コージはんが食べるなんて…………シンタローはんと間接キスどすかっ!!! コージの分際で、わてのシンタローはんに、間接キスどすかぁ~~~!!!!!!)
そう。アラシヤマ視点から見れば、それは紛れもなく、愛しい人が邪魔者に間接キスを奪われた光景であった。
「あんさん、何しとりますのん!」
(わてのシンタローはんにぃ~~~~~~!!)
「どうしたっちゃ? アラシヤマは」
「何怒っとるんだべ?」
アラシヤマの怒りをまったく理解できてない二人が不思議そうにこちらを見るが、そんなものは無視である。
怒りの炎は、コージだけに向けられている。
「なんじゃ、アラシヤマ。わしが何かしたんか?」
「何かしたじゃあらしまへんっ!」
(シンタローはんと間接キスやて、そんな………そんな羨ましいことぉ~~~~~~!!!)
なんのことはない、自分がそれをしたかっただけのことである。
ちなみに、アラシヤマの手には、まだシンタローの食べかけのたこ焼きだのかき氷だのあるが―――もっともカキ氷は怒りの炎をあげた時点で溶けてしまっていたが―――それが間接キスにつながることは気づいていなかった。
「あんさんは、シンタローはんのイカ焼きを食べはったじゃありまへんかっ!!!」
「それが、どうかしたんか?」
コージにしてみれば、ただ単に食い意地が張っての行動である。本人に怒られるならまだしも、無関係なはずのアラシヤマに怒られるとは思っても見なかっただろう。理由がわからず、怪訝な表情になるのは当たり前だった。
だが、そんなことはアラシヤマには関係ない。
「許しまへんっ! ――――平等院…」
「まてまて、アラシヤマ。ほらっ」
嫉妬の燃え、さらに必殺技まで引っ張り出してきたアラシヤマに、けれど、行き成り口元にイカ焼きが突きつけられた。
「へっ?」
(シンタローはん?)
何のつもりだろうか。
つきつけられたそれをじっと眺めていると、シンタローは、はぁとため息を一つつき、仕方なさそうな表情でアラシヤマの口元に、それを押し付けた。
「お前も食べたかったんだろう? これが。んなら、そう言えよ。ここに連れてきてくれたのはお前だからな。それぐらいおごってやる」
「いや、わてはあんさんのイカ焼きが」
(コージはんに食べられたのに怒っていたんやけど……)
「だから、食べかけでよかったらやるって。それとも新しいのがいるのか?」
引っ込めようとしたそれを慌ててアラシヤマは、止めた。
「それがええどすっ!!」
シンタローの食べかけだからこそ価値があるのだ。
すでに、コージに対しての怒りはすっかりと忘れている。
(これで、わてもシンタローはんと間接キスどすっvvv)
天にも昇る心地とはこのことやろうか…。
うっとり夢見がちで、それを口にくわえると、シンタローが、それから手を放し、言った。
「んじゃ、やるよ。―――――――コージの奴が、思いっきり食べやがったから、かなり減ったけどな」
ひくり。
その瞬間。イカ焼きを口にいれたまま、思いっきり頬が引き攣らせた。
幸せの絶頂からしゅるしゅると音を立てて降りてくる。
(間接キス……間接キス……コージはんと?)
確かにその通りである。
口にくわえたイカ焼きをその前に食いちぎったのは、シンタローではなく、コージだ。
間接キスの相手が誰だと問われれば、皆、コージだと答えてくれるだろう。
(そんな……………)
「なんでやぁ~~~~~~~!!」
その空しい叫びを理解できた者は、残念だから皆無だった。