「シンタローはん」
愛しい人を呼ぶ(自分の名を呼ぶその声が)
「あんだよ」
応えてくれる(気に入っている、と思う)
Nth Degree Of Hapiness
「シンタローはん」
「シンタローはん」
「シンタローはん」
「シンタローは・・・」
「だから何だよ」
先ほどから繰り返し繰り返し彼 アラシヤマの唇に乗せられている己が授かった己の名。
彼に名を呼ばれるのは嫌いではない。
本人には決して言わないが、むしろ好きの範囲に入るのだろう。
しかし物事には限度がある。
最初の内はしっかりと返事をしていた。
が。
「何でもおまへんよ」
帰って来るのはこれのみ。
いい加減に腹が立ってきた。
ガンマ団総帥に着任してからというもの、以前とは比べ物にならない程に丈夫になった堪忍袋がそろそ
ろ限界を見始めている。
「喧嘩売ってんなら買うぞコラ」
「いやどすなあ、わてがシンタローはんに勝てるわけありまへんよ」
当たり前だ、と思う。
こんなほにゃりと笑う男に負けてたまるものか。
「・・・・だったら何なんだよ、さっきから」
「幸せどすなあ」
「オイ」
脈絡がないだろう。
「たとえシンタローはんが、仕事が忙しゅうて全然会えへん恋人と折角一緒に居るのに
構ってくれなくても」
「・・・悪かったな」
けれど自分から行動に移した事など皆無に等しい。
いつも彼から行動するか、または促してくれるのだから。
今回もそれを待っていた。
今更自分からなんて、恥ずかしい事この上ない。
「だったらこれから構っておくれやすv
名前を呼んで反応があるだけで幸せ、やなあと」
「安い幸せだな」
半分以上本気でそう言う。
そんなのは共に居れば何時だって出来る。
当たり前の幸せ。
「そうどすなあ、せやけど安い幸せが大切だとわては思うんどす」
ふ、と目を細めて言葉を続けた。
「大きな幸せの前ではこんな些細な幸せは感じなくなってまう。
より大きな方に溺れてくんどすな」
まるで風の流れのようだ、と言ったのは誰だったか。
自分に他者を屠って生きる術を教えた師匠だっただろうか。
今となってはそれも遠すぎて分からない。
「それの何がいけないんだよ。人間がより良いモノを求めるのは当然だろ。
幸せでも、なんでも。
向上心を失ったらそれまでだ」
こんな風に当たり前だと、それが普通だと言える愛しい彼は、なんと暖かな処で生きてきたのか。
彼の父が何の汚いモノも見せないで育ててきたからか。
何の仇為すモノからも護って遠退けてきたからか。
「何もいけない事はありまへんよ。
ただ、無くした時の事を考えると堪らなくなるんどす。
大きなものに慣れてしもうたら小さなものは見え難うなるものでっしゃろ?
わてはそれが寂しゅうて仕方ないんどす」
きっと他の幸せなど見つけられないから。
見つけたくもないから。
「・・・・マジで何なんだよ、お前」
黙って俯いていた彼がポツリと呟いた。
自惚れではなく、自分でなければ聞き逃してしまいそうな。
「シンタローはん?」
少し戸惑いながら声を掛ける。此処でも名を呼ぶ。
途端、長い髪を瞬かせて顔を上げ、口を大きく開いた。
その大きさの口をそんなに大きく開けたりしたら、裂けてしまうんではないだろうか。
「この俺が一緒に居てやってんのに、ドコが小さいんだよこのボケッ!アホ!ふざけんな!」
興奮からか、込み上げてくるその感情からか。
彼の一族から見れば異端の黒眼が潤んで常より更に輝いていた。
「ああ・・・シンタローはん、泣かないでおくれやす。
誰もあんさんとおる事が小さいだなんて言っておりまへんがな。寧ろわいには大きすぎるわ。
頼んますから泣き止んでおくれやす。
あんさんが泣きよりますとわてまで悲しゅうなってきまんねん」
「泣いてねえ!それにお前の場合は自業自得だ!お前の所為なんだからな!!」
ぽたり、ぽたりと頬を伝って前総帥と同じ紅のブレザーに落ちる液体。
部屋の明かりに反射しては、きらきらきらきら。
「・・・・わての・・・・・・所為でっか?」
「他に誰が居んだよ!?」
「嬉しゅうおすなあ・・・」
「は・・・・!?」
精密な創りの顔が盛大に顰められ、此方を凝視する彼。
綺麗な顔をしているのに勿体無い、と思うものの、自分の発言を考えると仕方の無い事かもしれないと
も思う。
呆けだの阿呆だのと怒鳴られて嬉しいなどとのたまったのだから。
「好きな人が自分のした事で感情を返してくれはったら、嬉しゅうて、嬉しゅうて。
この気持ちを覚えておけば、シンタローはんに棄てられてもちょっとの間は生きていけます」
こうゆう事を自分の中に留めておきたい。
棄てられて、また独りになっても今度は生きていく自信はない。
師に教え込まれた術では、自分はもう生きてはいけない。
彼、という自分には過ぎた大きな幸せを覚えてしまったのだから。
だから自分は少しずつ昇華するのだ。
寒さに凍えて死にそうになったら思い出して。
総て昇華してしまったその時は、自分が死ぬ時。
「・・・棄てられたら死んじまうくらいの事、言えないのかよ」
腹の底が熱い。
胸の奥が、熱い。
目の前のにこやかに穏やかに笑っている男に体中が怒りを覚えている。
「そうなったら冗談抜きで死にとうなるんやろうけど、そしたらあんさんが気にしますえ?
死ぬ時は少し時期をずらそう思いましてなあ。
せやから大きなものだけやのうて小さなものも全部シンタローはんの事は覚えておきまんのや。
そうしたらシンタローはんを想いながら死ねるさかい。
そのくらいは、堪忍しれおくれやす?」
この男はどうして。
「アラシヤマ・・・・」
にこり。
子供のような無邪気な笑顔。
自分の前以外で彼のこんな表情は見た事がない。
「ほら、また一つ。
わて、シンタローはんの名前呼ぶのも、シンタローはんに名前呼ばれんのも好きなんどす。
棄てられてもうたらこんな事もでけへんさかい」
この男は本当にどうして。
自分が何時か彼の隣以外を望むと見当違いな未来を見ているのか。
「アラシヤマ」
今度は 自分から名を呼ぶ。
「はい」
嬉しそうに更に笑みを深くするその顔。
口には出さないが、こんなにも想っているのに伝わらないのがどうにも口惜しい。
「アラシヤマアラシヤマアラシヤマアラシヤマ!!」
「はい」
「自惚れんなよ、てめえ!」
「はい?」
ずっと微笑みに彩られた目と表情が変わったのを見た時のそれは歓喜。
彼のはにかんだ様な優しい表情は好きだが、あんな何もかもを悟って諦めたような笑みは要らない。
この自分が傍に居たいと思ってやっているのに何を諦める事があるのか。
「お前がその辺でのたれ死んで俺が気にするわきゃねーだろうが!」
「そうどすか?そないハッキリ言われますと傷つきますわあ」
「だから・・・だから、そんないつ来るか、来ないかもしれない可能性の未来の事なんか考えてんなよ。
つーかそんな暇あったら俺に棄てられないように努力してろよ。
そしたら棄てないでやらない事もねえ」
嘘だ。
何処かで自分が言う。
そんな事は言われないでも知っている。
自分が彼を離すわけがない。
そして死なせる事も。
「シンタローはん・・・・」
この人は。
「お前は先の事なんて気にしてねえで俺の有り難みを感じ入ってりゃいーんだよ」
そうして己だけを想え。
そう言っている。
「はあー・・・」
感嘆の息が漏れる。
この人はどうしてこんなにも自分を幸せにしてくれるのだろう。
繰り返し繰り返し。
あまりにも幸せをくれるものだから、己の中の容量をいつか超えてしまうのではないだろうか。
折角溜めた幸せが溢れ出て。
いつか自分はもっと、もっとと求めてしまうようになるかもしれない。
「あんだよ文句あんのかよ」
「いやあ、シンタローはんは亭主関白やなあと」
「お前がヘタレてっからだ」
「そうどすかぁ?せやったらこれから遠慮無く強気でいかせてもらいますえー」
だって解放を促したのは貴方。
我慢をするな。自分を求めろ。
そう言って扉をこじ開けた。
貴方の為に我侭は何時も自分の中に仕舞い込んでいたのに。
『貴方が欲しいんです。何時何時までも一緒にいたいんです』という想いと共に。
「あ゛?」
「可愛え可愛え恋人に、『自分だけを見てろ』言われて攻めなかったら男が廃るゆうもんでんなあ」
「言ってねえよンな事!!」
「よう覚悟しておいておくれやす」
「き・・・・っ聴けよ人の話!!!」
「あんまり叫びなはるとその口塞がせてもらいますえ?」
「・・・・・・・!(開き直ったヘタレはタチ悪ぃんだよチクショウ!」
終わりの時まで傍に立っていられるよう、精々悪足掻きさせていただくとしますえ。
往生してくれなはれ、シンタローはん?
初☆カップリング駄文です。
アラシヤマ×シンタローでお送りさせていただきましたv
ナニが書きたかったんでしょうね、私・・・・・・・・・・・・・・・。(遠目)
あ、公式の身長差なんて私の頭の中には存在してませんからv(死)
あと肌の色も。(笑)
シンタローはアラシヤマより背ぇ低いんですよ。
元は色白なんですよ。
笑って許して流してクダサイ・・・・。(汗)
そして正しい京都弁を教えてください。
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夏は暑いものと決まっているけれど。
暑すぎるのは困りもの。
涼しさ得るのは水浴び…怪談…冷たい食べ物?
いえいえやっぱりここは当然ッ!――クーラーでしょう!!
「あっちぃ」
地の底を這うような声を出しながら、シンタローは、バタバタと手にもっているものを盛大に仰いでいた。
だが、汗だらけの顔に生ぬるい風を送ったところで、焼け石に水程度しかならない。茹だる暑さにむかつき、しかめっ面にされていた顔は、さらに凶悪さを増していた。
「ちッくしょう!……誰だよ、こんな暑苦しい服を総帥服にした馬鹿はッ」
ついには着ている服まで八つ当たりである。
見た目も暑い真っ赤なそれは、襟ぐりが大きく開いているとはいえ、当然長袖のために、その腕にびっしりと汗を噴出させている。腕まくりはすでにされているが、それでも布で覆われている部分は、どうしようもない。
「うがあぁぁあ!!!」
手にもっていたうちわをこれでもか、というほど上下動かすが、生ぬるい風は僅かな涼を与えてくれるだけだ。その上、疲れて手を止めれば、反動とばかりにどっと汗が噴出してくる。堂々巡りで暑さは変わらない。
「あ~~~エアコンまだ直んないのかよぉ」
こもる熱でうろんになりがちの視線を、朝から沈黙したままの機械に向ける。けれど、ぼやいたところでそれが動く気配はなかった。空調設備は全て停止したままなのだ。それも自家発電を稼動中の研究棟以外、ガンマ団本部のほとんどがである。
夏も真っ盛りというのに、これは痛手だった。
ちなみに停止の原因は、例によって例のごとく、あの馬鹿博士である。
「ここには、扇風機もないのか!」
誰もいない部屋で、ひとり怒鳴るものの、そんなものがあれば、すでにお目見えしているはずである。
冷暖房完備な本部内では、そんなものを使われたことはなく、よって、扇風機などもちろん存在してはいなかった。
あるのは昨年ガンマ団盆祭り大会で配布された団扇だけである。現在それは、団員に無料配布中だ。しかし、すでに文明の利器の恩恵に浸り続けていたために、この程度の涼で満足できるものなど誰もいない。むしろ、僅かしかえられぬ涼に、苛立ちが募るばかりだ。
逃れられない暑さに、仕事が進むわけがなく、机の上に突っ伏して茹だっていれば、目の前の扉が開いた。むあっとした空気が部屋になだれ込む。
「シンタローはん、入りますえ」
「ど~ぞ」
すでにやる気ありません、といわんばかりの声に促され、部屋へ足を踏み入れたのは、アラシヤマだった。
書類らしきものを片手にもったアラシヤマに、シンタローは視線を向け、一瞥する。そのとたん眉をひそめた。
「お前、暑くねぇのか?」
「はあ、あつうおますな」
こちらの疑問に当たり前のように返事を返してきたアラシヤマだが、シンタローの目から見れば、全然そうには見えなかった。
「嘘だろ?」
「なして疑うんどす?」
「だって…なぁ」
相手は、きっちりと襟元までボタンを留めた隊服を着込み、さらに鬱陶しげな前髪が右目を覆っている。それでダラダラと汗をかいていればわかるのだが、見たところ、額の方が少しばかり汗ばんでいるか? と思うぐらいだ。
すでにぐったりするほどの大量の汗を流しているシンタローにとっては信じられない姿だった。
「………お前、不感症か?」
思わず零れた言葉に、けれど敏感にアラシヤマは反応した。ぴくんとアラシヤマの眉が跳ね上がる。
「何言うとりますのん。わてがそうじゃないことは、あんさんがよーっくしっておりますやろ?」
にーっこり微笑んで見せる相手に、シンタローは瞬時にサッと顔を引きつらせた。
(墓穴を掘ったか?)
その作り物めいたにこやかな笑みを向けられたとたんに、汗が引き、変わりにたらりと冷や汗が背中を落ちていく。
どうやら、自分はヤバイ発言をしたようである。
「シンタローはん♪」
なにやらはずむ声が聞こえたと思えば、アラシヤマは机を挟んで、自分のすぐ前に移動していた。瞬きほどの動揺の合間に、詰め寄られてしまっていたのだ。相手は、こちらにひたりと視線を定めたまま、机の上に腰をのせてくる。さらに縮まる距離にとっさに引いた顎を、相手の指先が触れた。あの暑苦しい特異体質のくせに、ひんやりと冷たい指に、思わず逃げることを忘れていれば、汗ばんだ顎の裏をくすぐるように撫でられた。
「随分と汗をかいとりますなぁ。シャワーでも浴びたらどうどす?」
間近に迫っていた顔にある愉悦を含んだ瞳が、ゆっくりと細められる。そのまま顔が傾いて、耳元へと唇が寄せられた。
「わてもお供いたしますえ」
「ッ!」
耳の奥へと息を吹きかけるように告げられた言葉に、ビクリと身体が反応する。だが、それに流されるわけにはいかなかった。
さらに自分を絡めようと伸ばされる腕を避けるために、座っていた椅子のまま後方に退き、距離をあける。
「え、遠慮いたします」
そのまま腕を伸ばし手を広げると、キッパリとお断りの言葉を告げた。
汗でベタベタになった身体に、シャワーは魅力的だが、目の前の相手と一緒に入るなどという無謀なことはできない。そんなことをすれば、あの密室とも言える中で何をされるかわかったもんじゃない―――否、分かりきってしまって怖い。
「そうどすか? わてもあんさんとならもっと汗をかいてもええと思うとりますんやで?」
「却下いたします。―――つーか、これ以上暑くなったら、俺が死ぬ。絶対イヤだからな」
ただでさえ、暑さで頭が朦朧としているというのに、これ以上運動をして熱があがってしまえば、ぶっ倒れるそうである。赤くなったり青くなったりと目まぐるしく顔の色を変えながらも、必死の拒絶をする相手に、アラシヤマは、物分りよく頷いてみせた。
「わかりましたわ」
「わかってくれたか!」
素直に引いてくれた相手につい喜びの笑みを浮かべてしまう。が、引いて押すのが恋の駆け引きというもので、そう簡単に相手が引き下がるはずもなかった。
「その代わり―――今晩、あんさんの部屋に行きますよって、部屋をしっかり冷やしておいておくれやす」
告げられた言葉は、すでに実行予定と言わんばかりのもので、さらにさらに、それを告げた相手の視線は、獲物を逃さぬ獣のそれ。
「えっ…と」
それはもう確定ですか?
と、尋ねたいが、どうせ返事は『是』で間違いないだろう。
(嘘だろ…)
後悔してももう遅い。今晩の予定は決められた。
思い切って今の約束をすっぽかしてもいいのだが、その後の報復が怖い。経験済みのために分かってしまう。逃れることは絶対不可能。
「そうそう。これは、さっきグンマはんから頼まれた現段階での空調に関する状況説明と修理終了時間の目安どすえ。夕刻には終わるようどすから、宜しゅう頼みますわ」
やはり暑さを感じていないだろう、と思うほど涼やかな表情でそう告げると、相手はそのまま去っていく。
一人取り残されたシンタローは、当然の呟きを口にした。
「…………何を宜しくしろと?」
――――――いっそ風邪ひくほどの部屋を冷やしておくべきか?
暑すぎるのは困りもの。
涼しさ得るのは水浴び…怪談…冷たい食べ物?
いえいえやっぱりここは当然ッ!――クーラーでしょう!!
「あっちぃ」
地の底を這うような声を出しながら、シンタローは、バタバタと手にもっているものを盛大に仰いでいた。
だが、汗だらけの顔に生ぬるい風を送ったところで、焼け石に水程度しかならない。茹だる暑さにむかつき、しかめっ面にされていた顔は、さらに凶悪さを増していた。
「ちッくしょう!……誰だよ、こんな暑苦しい服を総帥服にした馬鹿はッ」
ついには着ている服まで八つ当たりである。
見た目も暑い真っ赤なそれは、襟ぐりが大きく開いているとはいえ、当然長袖のために、その腕にびっしりと汗を噴出させている。腕まくりはすでにされているが、それでも布で覆われている部分は、どうしようもない。
「うがあぁぁあ!!!」
手にもっていたうちわをこれでもか、というほど上下動かすが、生ぬるい風は僅かな涼を与えてくれるだけだ。その上、疲れて手を止めれば、反動とばかりにどっと汗が噴出してくる。堂々巡りで暑さは変わらない。
「あ~~~エアコンまだ直んないのかよぉ」
こもる熱でうろんになりがちの視線を、朝から沈黙したままの機械に向ける。けれど、ぼやいたところでそれが動く気配はなかった。空調設備は全て停止したままなのだ。それも自家発電を稼動中の研究棟以外、ガンマ団本部のほとんどがである。
夏も真っ盛りというのに、これは痛手だった。
ちなみに停止の原因は、例によって例のごとく、あの馬鹿博士である。
「ここには、扇風機もないのか!」
誰もいない部屋で、ひとり怒鳴るものの、そんなものがあれば、すでにお目見えしているはずである。
冷暖房完備な本部内では、そんなものを使われたことはなく、よって、扇風機などもちろん存在してはいなかった。
あるのは昨年ガンマ団盆祭り大会で配布された団扇だけである。現在それは、団員に無料配布中だ。しかし、すでに文明の利器の恩恵に浸り続けていたために、この程度の涼で満足できるものなど誰もいない。むしろ、僅かしかえられぬ涼に、苛立ちが募るばかりだ。
逃れられない暑さに、仕事が進むわけがなく、机の上に突っ伏して茹だっていれば、目の前の扉が開いた。むあっとした空気が部屋になだれ込む。
「シンタローはん、入りますえ」
「ど~ぞ」
すでにやる気ありません、といわんばかりの声に促され、部屋へ足を踏み入れたのは、アラシヤマだった。
書類らしきものを片手にもったアラシヤマに、シンタローは視線を向け、一瞥する。そのとたん眉をひそめた。
「お前、暑くねぇのか?」
「はあ、あつうおますな」
こちらの疑問に当たり前のように返事を返してきたアラシヤマだが、シンタローの目から見れば、全然そうには見えなかった。
「嘘だろ?」
「なして疑うんどす?」
「だって…なぁ」
相手は、きっちりと襟元までボタンを留めた隊服を着込み、さらに鬱陶しげな前髪が右目を覆っている。それでダラダラと汗をかいていればわかるのだが、見たところ、額の方が少しばかり汗ばんでいるか? と思うぐらいだ。
すでにぐったりするほどの大量の汗を流しているシンタローにとっては信じられない姿だった。
「………お前、不感症か?」
思わず零れた言葉に、けれど敏感にアラシヤマは反応した。ぴくんとアラシヤマの眉が跳ね上がる。
「何言うとりますのん。わてがそうじゃないことは、あんさんがよーっくしっておりますやろ?」
にーっこり微笑んで見せる相手に、シンタローは瞬時にサッと顔を引きつらせた。
(墓穴を掘ったか?)
その作り物めいたにこやかな笑みを向けられたとたんに、汗が引き、変わりにたらりと冷や汗が背中を落ちていく。
どうやら、自分はヤバイ発言をしたようである。
「シンタローはん♪」
なにやらはずむ声が聞こえたと思えば、アラシヤマは机を挟んで、自分のすぐ前に移動していた。瞬きほどの動揺の合間に、詰め寄られてしまっていたのだ。相手は、こちらにひたりと視線を定めたまま、机の上に腰をのせてくる。さらに縮まる距離にとっさに引いた顎を、相手の指先が触れた。あの暑苦しい特異体質のくせに、ひんやりと冷たい指に、思わず逃げることを忘れていれば、汗ばんだ顎の裏をくすぐるように撫でられた。
「随分と汗をかいとりますなぁ。シャワーでも浴びたらどうどす?」
間近に迫っていた顔にある愉悦を含んだ瞳が、ゆっくりと細められる。そのまま顔が傾いて、耳元へと唇が寄せられた。
「わてもお供いたしますえ」
「ッ!」
耳の奥へと息を吹きかけるように告げられた言葉に、ビクリと身体が反応する。だが、それに流されるわけにはいかなかった。
さらに自分を絡めようと伸ばされる腕を避けるために、座っていた椅子のまま後方に退き、距離をあける。
「え、遠慮いたします」
そのまま腕を伸ばし手を広げると、キッパリとお断りの言葉を告げた。
汗でベタベタになった身体に、シャワーは魅力的だが、目の前の相手と一緒に入るなどという無謀なことはできない。そんなことをすれば、あの密室とも言える中で何をされるかわかったもんじゃない―――否、分かりきってしまって怖い。
「そうどすか? わてもあんさんとならもっと汗をかいてもええと思うとりますんやで?」
「却下いたします。―――つーか、これ以上暑くなったら、俺が死ぬ。絶対イヤだからな」
ただでさえ、暑さで頭が朦朧としているというのに、これ以上運動をして熱があがってしまえば、ぶっ倒れるそうである。赤くなったり青くなったりと目まぐるしく顔の色を変えながらも、必死の拒絶をする相手に、アラシヤマは、物分りよく頷いてみせた。
「わかりましたわ」
「わかってくれたか!」
素直に引いてくれた相手につい喜びの笑みを浮かべてしまう。が、引いて押すのが恋の駆け引きというもので、そう簡単に相手が引き下がるはずもなかった。
「その代わり―――今晩、あんさんの部屋に行きますよって、部屋をしっかり冷やしておいておくれやす」
告げられた言葉は、すでに実行予定と言わんばかりのもので、さらにさらに、それを告げた相手の視線は、獲物を逃さぬ獣のそれ。
「えっ…と」
それはもう確定ですか?
と、尋ねたいが、どうせ返事は『是』で間違いないだろう。
(嘘だろ…)
後悔してももう遅い。今晩の予定は決められた。
思い切って今の約束をすっぽかしてもいいのだが、その後の報復が怖い。経験済みのために分かってしまう。逃れることは絶対不可能。
「そうそう。これは、さっきグンマはんから頼まれた現段階での空調に関する状況説明と修理終了時間の目安どすえ。夕刻には終わるようどすから、宜しゅう頼みますわ」
やはり暑さを感じていないだろう、と思うほど涼やかな表情でそう告げると、相手はそのまま去っていく。
一人取り残されたシンタローは、当然の呟きを口にした。
「…………何を宜しくしろと?」
――――――いっそ風邪ひくほどの部屋を冷やしておくべきか?
朝になれば葉の上に小さな雫が生まれるように、これは自然の営みで、止められるものではなくて。
それがただの言い訳だと分かっていても、生まれるこの雫を受け止めて欲しい。
これは、決して涙ではないのだから。
「そうか」
部下からの報告を受け、シンタローは一言そう告げると、手を振り上げジェスチャーで彼を下がらせた。
パタン。
ドアが閉められると広い部屋の中、一人きりになる。シンタローは、椅子から立ち上がった。身体を捻り、背後にある窓に身体をよせ、透明なガラスに手のひらを押し付ける。高層に建てられた本部の一室にある総帥室は、最上階に近い部分に置かれているために見晴らしがいい。
遠く高い空。
青くどこまでも澄み渡る空。
全ての地を包み込む空。
けれど、ここにいれば、そんな空に近づけた気がして、そこに向かって手をのばせば、触れられるような、そんな思いに駆られる。実際に、空をつかめたことなど一度たりともないけれど。
シンタローは、ガラスに押し付けていた手を握りしめた。
その手に空はない。
その手の中は空(から)だ。
「――悪かったな」
呟く声。
思い浮かぶのは、先ほど報告を受けた書類の中にいた人物。けれど、この手の中のもののように、存在していなかった。少なくてもこの世には、もういない。あの世に旅立ってしまっている。
先日、任務先で亡くなったのだ。
「……ご苦労様」
彼の死は、望んだものではなかったが、それでも任務は滞りなく予定通りにすんだという。そう報告を受けた。亡くなった団員については、いつもどおり事務的に処理されるだろう。
そう。こんなことは初めてではない。
それでも、報告を受けるたびに湧き上がる感情は変わらない。
「ふっ………くっ」
ぼろっ、と目から零れ落ちる雫。
声を押し殺し、ただ涙という名の露が生まれては落ちる。
ただ、それだけは今は許して欲しかった。
「それでも、俺は………」
自分の部下が任務でなくなったことに負い目を感じるな、とキンタローには言われた。
泣くことなど許さない、と。
確かにそうだ。その任務を命じたのは自分なのだから、おためこぼしの涙など必要ない。自分が泣くのはおかしい。
それでも――それでも、目から雫は生まれ、勝手に零れ落ちるのだから仕方ないだろ。
止められない。
自然の営みから生まれてくるこの雫を。
自分は、ただ零し続けていくだけだ。
いつかは、この雫も枯れはて、零れ落ちることを忘れるだろう。
人には、慣れというものがある。
だが、それまで――生まれるそれを否定したくはなかった。
パサリ。
不意に頭の上から何かが降ってきた。
「あっ?」
振り返れば、意外な人物がそこにいた。
「アラ…シヤマ…?」
いつ部屋に入ってきたのだろうか。気付かなかった。
顔をあげれば、投げつけられたものがずるりと顔にかかるように下がった。よく見れば、それはガンマ団が支給している制服の上着で、たぶんそれはアラシヤマのものだった。
「泣くのはかまいまへんが、泣き顔だけは、他の部下にはみせんといてくだはれ。あんさんは、これでも総帥でっしゃろ」
「俺……泣いてるのか?」
泣いているに決まっている。
けれど、泣くつもりはなかった。泣きたいと思って泣いているわけではなかった。
ただ、自然にこみ上げてきた感情の発露が涙という形になって現れたわけで―――それは、単なる言い訳ではないのだけれど、それでもそんな馬鹿なことを尋ねてみれば、呆れたような溜息を大仰に漏らされた。
「はあ。ま、わてはどうでもええんどすが。泣いてないと思うなら、その目から零れ落ちてるもんをさっさと拭って、この書類に目を通しなされ。けど―――」
アラシヤマの手が伸びた。
それは、こちらの隙をついた素早いもので、あっさりと引き寄せられて、相手の肩に顔を押し付けるような格好になってしまった。
「まだ泣きたらんのやったら、わての肩を貸ますえ」
唐突なそれに、驚いてしまったが、自分の目から零れるものは、勢いよくアラシヤマの服を濡らし始めていた。突き放すことは出来なかった。それは、あまりにもそこが居心地よかったため。背中に回るぬくもりが、余計に露を零させるのだけれど、同時に胸を塞ぐ思いもまた外へ逃げていくのを感じた。
「泣いてねぇよ」
それでも、肩に目を押し付けたまま言い張ってみせた。
それだけは、認めるわけにはいかない。
いくら肩を借りている状態だとはいえ、事実でないことは否定しなければならない。
「そうどすか?」
それに対する、相手の怪訝な声なのだけれど、そこだけは譲らない。
「そうだ。これは、ただの目から生まれる露だ」
涙などではない。
自分はこんなことでは泣かない。泣いてはいけないのだから。
ただこれは、自然に生まれ零れ落ちる露である。
「そうどすか」
「だから――ちょっと止まるまで、そこにいろ」
傲慢な命令に、相手がどう思ったか知らない。ただ、一言だけ、
「了解どすわ」
そうして、身体を小さく身じろぎさせ、頷いたのがわかった。
肩を貸し続けるアラシヤマが、何を感じているかわからない。それでも、離れることのないその肩に、シンタローは、目を押し続ける。
いつか、それが乾くまで。
―――――それでもこれは涙じゃないと分かってるか?
それがただの言い訳だと分かっていても、生まれるこの雫を受け止めて欲しい。
これは、決して涙ではないのだから。
「そうか」
部下からの報告を受け、シンタローは一言そう告げると、手を振り上げジェスチャーで彼を下がらせた。
パタン。
ドアが閉められると広い部屋の中、一人きりになる。シンタローは、椅子から立ち上がった。身体を捻り、背後にある窓に身体をよせ、透明なガラスに手のひらを押し付ける。高層に建てられた本部の一室にある総帥室は、最上階に近い部分に置かれているために見晴らしがいい。
遠く高い空。
青くどこまでも澄み渡る空。
全ての地を包み込む空。
けれど、ここにいれば、そんな空に近づけた気がして、そこに向かって手をのばせば、触れられるような、そんな思いに駆られる。実際に、空をつかめたことなど一度たりともないけれど。
シンタローは、ガラスに押し付けていた手を握りしめた。
その手に空はない。
その手の中は空(から)だ。
「――悪かったな」
呟く声。
思い浮かぶのは、先ほど報告を受けた書類の中にいた人物。けれど、この手の中のもののように、存在していなかった。少なくてもこの世には、もういない。あの世に旅立ってしまっている。
先日、任務先で亡くなったのだ。
「……ご苦労様」
彼の死は、望んだものではなかったが、それでも任務は滞りなく予定通りにすんだという。そう報告を受けた。亡くなった団員については、いつもどおり事務的に処理されるだろう。
そう。こんなことは初めてではない。
それでも、報告を受けるたびに湧き上がる感情は変わらない。
「ふっ………くっ」
ぼろっ、と目から零れ落ちる雫。
声を押し殺し、ただ涙という名の露が生まれては落ちる。
ただ、それだけは今は許して欲しかった。
「それでも、俺は………」
自分の部下が任務でなくなったことに負い目を感じるな、とキンタローには言われた。
泣くことなど許さない、と。
確かにそうだ。その任務を命じたのは自分なのだから、おためこぼしの涙など必要ない。自分が泣くのはおかしい。
それでも――それでも、目から雫は生まれ、勝手に零れ落ちるのだから仕方ないだろ。
止められない。
自然の営みから生まれてくるこの雫を。
自分は、ただ零し続けていくだけだ。
いつかは、この雫も枯れはて、零れ落ちることを忘れるだろう。
人には、慣れというものがある。
だが、それまで――生まれるそれを否定したくはなかった。
パサリ。
不意に頭の上から何かが降ってきた。
「あっ?」
振り返れば、意外な人物がそこにいた。
「アラ…シヤマ…?」
いつ部屋に入ってきたのだろうか。気付かなかった。
顔をあげれば、投げつけられたものがずるりと顔にかかるように下がった。よく見れば、それはガンマ団が支給している制服の上着で、たぶんそれはアラシヤマのものだった。
「泣くのはかまいまへんが、泣き顔だけは、他の部下にはみせんといてくだはれ。あんさんは、これでも総帥でっしゃろ」
「俺……泣いてるのか?」
泣いているに決まっている。
けれど、泣くつもりはなかった。泣きたいと思って泣いているわけではなかった。
ただ、自然にこみ上げてきた感情の発露が涙という形になって現れたわけで―――それは、単なる言い訳ではないのだけれど、それでもそんな馬鹿なことを尋ねてみれば、呆れたような溜息を大仰に漏らされた。
「はあ。ま、わてはどうでもええんどすが。泣いてないと思うなら、その目から零れ落ちてるもんをさっさと拭って、この書類に目を通しなされ。けど―――」
アラシヤマの手が伸びた。
それは、こちらの隙をついた素早いもので、あっさりと引き寄せられて、相手の肩に顔を押し付けるような格好になってしまった。
「まだ泣きたらんのやったら、わての肩を貸ますえ」
唐突なそれに、驚いてしまったが、自分の目から零れるものは、勢いよくアラシヤマの服を濡らし始めていた。突き放すことは出来なかった。それは、あまりにもそこが居心地よかったため。背中に回るぬくもりが、余計に露を零させるのだけれど、同時に胸を塞ぐ思いもまた外へ逃げていくのを感じた。
「泣いてねぇよ」
それでも、肩に目を押し付けたまま言い張ってみせた。
それだけは、認めるわけにはいかない。
いくら肩を借りている状態だとはいえ、事実でないことは否定しなければならない。
「そうどすか?」
それに対する、相手の怪訝な声なのだけれど、そこだけは譲らない。
「そうだ。これは、ただの目から生まれる露だ」
涙などではない。
自分はこんなことでは泣かない。泣いてはいけないのだから。
ただこれは、自然に生まれ零れ落ちる露である。
「そうどすか」
「だから――ちょっと止まるまで、そこにいろ」
傲慢な命令に、相手がどう思ったか知らない。ただ、一言だけ、
「了解どすわ」
そうして、身体を小さく身じろぎさせ、頷いたのがわかった。
肩を貸し続けるアラシヤマが、何を感じているかわからない。それでも、離れることのないその肩に、シンタローは、目を押し続ける。
いつか、それが乾くまで。
―――――それでもこれは涙じゃないと分かってるか?
ひらり…。
揺れるように落ちてきたそれが視界に入り込んだ。
「火の粉?」
にしては、少し大きすぎる火の塊は、手を伸ばし触れる手前で跡形もなく霧散する。どこから落ちてきたのかと、頭上を見上げれば、真後ろに立つ大樹の上に人影が見えた。太い幹にもたれかかるようにして、空を見上げる形で、どこか遠くを見据えたまま、小さな炎を生み出している。
それは、よく見れば、蝶々の形をして見えた。
どうやら、自分の元に落ちてくる最中に、形が崩れてしまったらしい。
どれほど心を現から飛ばしているのか、こちらなど気付きもせずに、炎の蝶を飛ばしては空へ放ち、あるいは握りつぶし、またあるものは放り出したとたん崩れ落ちていた。
一体何をしているのだろうか。
こちらの存在には気付かぬまま、それは繰り返されていた。
声をかけようかと、迷いが生まれた。
いつもならば、こちらが彼に気付かない時から、激しい自己主張とともに、近寄ってくるのを、そのままそ知らぬ顔で通り過ぎたりしていた。こちらから声をかけたことは、そう言えばほとんどなかった。
そうしなくても、彼が自分の姿を見つけた瞬間、声をかけてくるからだ。
けれど、今は違っていた。
自分がこんなにも彼に近づいているのに、あちらは気付いていないのか、気付いても無視しているのか、声をかけてくることはなかった。
(…なんだよ)
自分を見ないアラシヤマに、ほんのかすかだが、もやもやとした例えようのない気持ちが生まれてしまう。
何をしているのか――気になる。
それでも、声をかけるまでには至らなかった。
いつもならば、声どころか容赦のなく眼魔砲を撃つこともありえるというのに、なぜ、自分はただ黙って、彼の姿を見ていなければいけないのだろうか。
何よりも、気に食わないのが、彼が未だに自分の存在に気付いてくれないということだろう。
蝶は、アラシヤマの周りを舞う。それでも、無限に羽ばたくことは出来ないようで、空に放たれ、周りを回っていたものも、少しずつ、形を失い落下していった。目の前に落ちてきた炎の蝶へ、そっと手を伸ばしてみた。
「ッ!」
やはり炎は炎だったようで、軽く触れた瞬間、指先を軽く焼けどしてしまった。その指を庇うように包み込みながら、上を見上げれば、やはり自分には気付かないまま、自分が生んだ蝶をはべらせていた。
消えた蝶の変わりは、また新たな蝶で補われている。
本当に何をしているのかわからない。
わからないから、気になって、気になるから、動けなかった。
堂々巡りのそれに、立ち尽くしたままという愚かな行動から抜け出せないでいた。
ほんの一声、発することができれば、彼の意識が、こちらに向けられれば、変わるのだろうけれど、なぜか、今のアラシヤマには声をかけられない。声をかけてしまえば、今までの何かが変わってしまうような、そんな予感がするのだ。
それが、ただの杞憂だと笑い飛ばしてしまえば、簡単なことだけれど、それすらも出来なかった。
こくりとツバを飲み込む。意外に大きく自分の体の中に響いてしまい、それが相手に聞こえなかったかと、慌てて様子を伺ってしまった。けれど、彼の視線は相変わらずこちらにはない。ずっとずっと遠くへあり、すぐ近くにある自分の姿など欠片も映していなかった。
自分の存在など元々なかったかのように―――。
自分の存在など忘却の果てに流してしまったかのように――。
彼には、自分の存在など必要なくなったのだろうか。
じりじり…焼け付くのは、先ほど触れた炎に焦げた指先か、それとも――。
「アラシヤマッ!」
気付いた時には、自分は彼の名前を叫んでいた。叫んだ瞬間、思い切り後悔してしまったが、もう遅い。
相手の顔がゆるゆると向けられる。濃密な闇を含む宵の瞳が自分を姿を映しこむ。
ドクリと大きく心臓が脈打った。
「シンタローはん」
はんなりと笑みを浮かべ、名前を告げられたとたん、自分は捕らわれた。相手は、手を伸ばしても自分には触れられる位置にはいないにもかかわらず、その名を呼ぶことで、自分を縛したのだ。
しまったと思った時には遅かった。
ひらり…。
アラシヤマの手で生み出されたばかりの炎の蝶が、アラシヤマが伸ばした手の中に舞い戻り、その手によって握りつぶされる。瞬間に、あれは自分だ、と思った。
アラシヤマによって燃やされた炎が、当然のごとくアラシヤマの中へと吸い込まれる。胸の内に燃やされた炎もまた、アラシヤマに引き寄せられる。
ひらり…。
目の前にアラシヤマが舞い落ちる。炎を握りつぶした手が差し出される。何も告げない。告げる必要もない。
もう全ては決まってしまった。
その手に握り締められた瞬間、蝶と同じ運命を辿った。
「……ひ、久しぶりやから、緊張しはりますなあ」
アラシヤマは、目の前に立ちふさがる扉を見上げつつ、ドキドキと高鳴る胸を押さえた。
この扉の向こうには、愛しい人がいるのである。
だが、その愛しい人と会うのは、実に一ヶ月ぶりだった。
アラシヤマは、胸に押し当てていた手を目の前で絡めるように組み合わせ、ぎゅっと祈りを捧げるポーズをとる。そして、感慨ぶかげに目を閉じた。
「長かったどす……ほんまに、シンタローはんのためだとわかりはってても、こんなに長く離れ離れになるなんて……ああ、思いだしただけでまた涙が」
閉じた目から、ほろほろと涙がこぼれる。それを指先でそっとぬぐった。
アラシヤマにとって、これまでの一ヶ月間は、辛い辛いものでしかなかった。
「次の任務は、まだ決まってないようですし、今回は、長くここにおれたらよろしいどすが…」
もうここ一年以上、ゆっくりと愛しい人と過ごした記憶が、アラシヤマにはない。
なぜだか知らないが、常に、辺境のしかもお仕置きなどと甘ったるいことが通用しなさそうな激戦区ばかりに送られるアラシヤマにとって、愛しい人と会う時間は極端に短かったのである。
一応長期任務を終えると、同時に長期休暇も与えてもらえてはいるのだが、その半分以上が、過酷な任務で負ってしまった怪我の治療に使われるのである。そうして、ようやく治ったと思ったら、また、飛ばさるという繰り返し。
だが、今回の任務は、調査ミスだったのか、事前に与えられていた資料よりもずっと簡単に事が運び、さらに、ほとんど無傷で帰還できた。
そのため、任務結果の報告と称して、真っ先に愛しい人に会うために、ここにきたのである。
「ふふふっ。でも、シンタローはんに頼られるというのも辛うおますなあ」
毎回遠くに飛ばされるたびに、泣きながら別れを惜しむアラシヤマだが、それでも、こうして任務を遂行してくるのは、愛しい人に、「お前しか出来ない任務なんだ。頼む」と直接頼まれるからだ。
そこまで言われれば、男アラシヤマ。「まかせなはれっ」といわないわけにはいかないだろう。
実際、毎回毎回そう言って旅立っているのだ。
「今回も、ちょっとばかり死にそうな目にあわはったけど、無事に、あんさんのために、わて帰ってきましたえ」
そう言うと、ようやくアラシヤマは、決意を決めたように、扉の横に設置されているインターホンを押した。
総帥室へ入るドアは、常に厳重にロックされており、中に入るにはシンタローに開けてもらわなければいけないのだ。
(ああ、ドキドキどす)
久しぶりのせいか舞い上がってしまっている自分を抑えられずにいるアラシヤマに、その声は聞こえてきた。
『誰だ?』
(シンタローはんの声!!)
それは紛れもなく、アラシヤマにとって誰よりも何よりも大切で愛しい人の声だった。
感激で喉が詰まる。
『あん? 悪戯か』
沈黙が10秒も続けば向こう側から不機嫌そうな声が聞こえてくる。
(はっ! わてときたら)
感激に浸りすぎである。
久しぶりの愛しいお方の声の余韻に浸ってしまったアラシヤマだが、ようやく口を動かした。
だが、あまりの感激のあまりに、そこから零れた言葉は、まことに正直な言葉だった。
「わ、わてどすっ。アラシヤマどす。シンタローはん愛してますぅぅぅ!」
プツゥ―。
「はうっ…ちょ、ちょっとまってくれなはれ。シンタローはん。シンタローはん!」
行き成り、勢いに乗って愛の告白をしてしまったアラシヤマに、無情にも通話が切れる。
慌てて、何度もボタンを押せば、たっぷり数分後。不機嫌そうな声が返ってきた。
『あのなあ。お前、誰がいるかもわからないところで、そんな馬鹿なこと言うなよ』
「すんまへん。すんまへん。もういいまへんから、ここを開けてくれはりませんか」
まだ、姿も見てないのに、ここで帰ることなど、出来るはずがない。
涙声で必至に懇願すると、大きな溜息が一つ聞こえてきた。
「入れよ」
シュンと、軽い機械音がして、扉が左右に開く。その奥には、重厚感漂う執務机があり、そこには一人の青年が座っていた。
「シンタローはん!」
その姿を見たとたん、アラシヤマは飛びつくように中へ入っていった。
「眼魔砲」
ドゴォン!
だが、同時に凄まじい熱球がこちらに向けられ、アラシヤマはとっさに床に伏せた。
部屋がビリビリと震える。
床に伏せたままのアラシヤマは、そっと背後を振り返り、頬を引き攣らせた。
壁の一部が、一メートルほどの半径をもって赤くなっている。
確か、総帥室は、眼魔砲でも耐えられるほどの強度をもっている、ということをきいたことがある。その言葉どおり壁には穴はあいてはいない。しかし、高熱を帯、赤くなっているのである。
これが、人に当たったことを想像すれば、ぞっとする。
「な、何しますの、シンタローはん」
「黙れ。あやしい奴が飛びかかろうとすれば、攻撃するのは当たり前だろうが」
冷徹な表情で、そういい切られたアラシヤマは、がばりと起き上がり、抗議の声を出した。
「あやしい奴やて……そ、そんな。わてはあんさんの恋……ひっ!」
ドゴォン!
タメなしで放たれた眼魔砲をもう一度間一髪で再び床に倒れ、避ける。
「避けるな。俺が疲れるだろうが」
「そんなん言うても、避けな、わてが死にますやろ?」
立ち上がるのもまずいと見たのか、匍匐前進で前に進みだすアラシヤマに、シンタローは椅子に座りなおした。
「で、用件は?」
ギシッと椅子をきしませ、背もたれに身体を預けたシンタローは、両腕をからませ、匍匐前進中のアラシヤマに視線を向けた。
「えっ……えーっと、報告書をもってきたんどす」
その冷ややかな視線に、アラシヤマは、慌てて立ち上がり、取り繕うように服をはたくと、シンタローの目の前に、ようやくもっていた報告書を置いた。
「ああ、ご苦労さん。今回は、お前がもってきてくれたんだな」
片眉をもちあげ、意外そうな顔を見せたシンタローに、アラシヤマは、嬉しそうに顔をほころばした。
(やっぱり生のシンタローさんはええどすなあ。相変わらず可愛ええどすっ!)
口にすれば、速攻でぶん殴られそうな言葉は、もちろん懸命に心の中で叫ぶだけで留めた。
「そうどす。今回の任務は、結構楽に終わったんどすよ。久しぶりにほとんど無傷でしたし」
「ふーん」
アラシヤマの言葉をききながら、シンタローは報告書をめくる。
そこにびっしりと書き込まれている情報に目を走らせる。
「本当に、運がよかったどす。あそこで、ジュディちゃんがおらへんかったら、また、大怪我負うところどしたわ」
ぴくん。
アラシヤマの会話から固有名詞が出たとたん、シンタローは、ぴたりと視線を止めた。
「ジュディちゃん? 誰だ、それ。俺は聞いてないぞ。そんな奴がいたなんて」
それでも、視線は紙面に向けられたままである。
「はあ。そりゃあ、ガンマ団のお方では、ないどすからな」
「………ほおう」
ちらりと視線を向ければ、アラシヤマは、どこか遠くを見るような視線で、両手を組み合わせた。
「ジュディちゃんがいてくだはったから、わては命を救われたんどすえ。まさに、命の恩人。ええ方どすわ」
うるうると遠い彼方にいるジュディちゃんを思い、感謝の涙で瞳を濡らすアラシヤマに、シンタローは頬を引き攣らせつつも、さりげなく書類に視線を向ける。が、すぐに耐え切れないように、顔をあげ、言い放った。
「へぇ~…………………………で、誰だよ」
「はっ? なんどすか?」
とぼけた顔で問い返され、ぴきぴきと額の血管が引き攣るような音がする。
「……………………だから、そのジュディって奴だよ!」
「ああ。アゴヒゲトカゲのジュディちゃんのことでっか?」
「あっアゴヒゲトカゲだぁ…?」
思っても見なかった言葉に、がくんとシンタローの顎が下がる。
だが、それには気づかずに、アラシヤマは嬉しそうな顔で答えてくれた。
「そうどす。名前の通り喉あたりにあるアゴヒゲおような襞が特徴的な可愛いトカゲですわ。それが、丁度わての足元を通りすぎようとしはって、慌てて避けたところに敵の砲弾が飛んできたんどす。間一髪でしたわ」
「……………アホらしい」
「何言うとりまんの! ジュディちゃんがいなかったら、わては死んでたかもしれへんどすんやで。これを見なはれ。間一髪で、避けた時についた傷どす。ジュディちゃんのおかげどうすわ。ふふっ。やっぱりもつべきものは友どすなぁ」
身体を傾け右腕を見せ付けるアラシヤマに、視線を向けたシンタローは、ケッと言い放った。
「それはよかったな。一生ジュディちゃんとやらと友達ごっこしてればいいだろう。つーか、そいつと恋人にでもなってこい」
「そんなことできるはずないでっしゃろ!」
とんでもないことである。
友達はたくさん欲しいが、恋人は一人で十分だ。ただ、一人。
「わての恋人は、あんさん一人どす」
目の前に存在する彼がいればいい。
アラシヤマは、机の横を通りぬけシンタローの傍に立つと、相手の顔に手で触れた。
「………何してる?」
そのまま触れた手をすべられ、顎を掴んだ相手にシンタローは問いかける。ふっと目元を和らげたアラシヤマは、シンタローへと引き寄せられるように顔を寄せた。
「久々でっしゃろ? キスしまひょ♪」
15センチの距離での会話。
楽しげに顔を綻ばせ、そう告げるアラシヤマに、シンタローは、眼光鋭く相手をにらみつけたあと、手にもっていた書類を自分とアラシヤマの前にあった空間に割り込ませた。
「俺は仕事中だ。忘れたわけじゃないだろうが。仕事中は、こういうことは一切やらないという約束事を」
もちろん忘れたわけではない。
アラシヤマだってその約束は覚えている。
だが、久々なのだ。
一ヶ月間、彼と触れてないのである。
書類でふさがれた視界を、手でやんわりとどける。
「せやけど、キスぐらいええでっしゃろ。あんさんは、わてのこと嫌いでっか?」
そう告げて、相手を覗き込めば、
「約束を守らねぇ奴は嫌いだ」
顎をつかまれたままのために、顔をそらせないが、それでも唇を尖らせ、視線を撥ね退ける。
相手の頑固さは知っているが、こういう時に融通がきかせてくれないのは、寂しいものである。
だが、そこで引き下がるほど、アラシヤマも物分りのいい人間ではなかった。むしろ、このままでは終わらせない勢いである。
「それなら、たった今から、休憩時間としまひょ。それならええでっしゃろ? シンタローはん」
「できないっ」
きっぱりと拒絶する相手に、にーっこり笑みを浮かべるとアラシヤマは相手の頬をかすめるように顔を掠めると近づいた耳元に囁いた。
「愛してますえ、シンタローはん」
「っ! ……何をいって」
一気に耳元が真っ赤に染め上げられる。
アラシヤマは、相手がこちらを見る余裕がないのを知っていて、にまぁとしまりのない笑顔を浮かべた。
何度も告げているにもかかわらず、こうして変わらずに初心な反応をしてくれる恋人が愛しくてたまらない。
「キスしまひょv」
耳元ギリギリで吐息とともに囁きいれる。
ふるりと相手の身体が震えるのがわかる。
「だから……んなこと」
声に躊躇いが生まれてきた。もう一押しである。
「キスだけどすえ。それ以外はしまへんから。ええやろ?」
「……………」
「シンタローはん」
相手が弱い、低く響く声音で名を呟けば、観念したように、溜息を一つついた。
「…………キスだけだからな。しかも一度だけだっ!」
「もちろん。きちんと約束は守りますわ」
ようやく許可をもらったアラシヤマは、もう一度「愛してます」と呟くと相手に口付けを落とした。
(結局いつも流されてるよなぁ)
なんだかんだいいつつ、最後にはアラシヤマに口付けの許可を与えてしまっていた。
それでも、それを嫌って抵抗していたわけではない。
自分とて、久々にアラシヤマに会えたことに喜んでいるのでる。
恋人なのだ。
自分だっていつでも彼に会いたいと思っている。もっと傍にいて欲しいし、こうして彼を感じていたいのだ。
それでも、決めた自分の道を貫くためには、それもままならい。その上、なまじ実力があるために、常にアラシヤマを危険区域に送り出さなければいけないのだ。
怪我をして帰ってくるたびに、胸を痛ませているのだけは、相手には悟られないようにしているが、どうせ、妙に気のつく男である。そんな自分の思いなど、たぶんわかっているのだろう。
一度たりとも、仕事を断ったことはない。
「んっ」
唇が交わる。それだけで終わるかと期待してみたが、それはあっさりと裏切られた。
唇を舌で撫でられる。それは、口を開けという合図だ。一瞬拒絶しようかと思ったが、それでも久々のそれである。受け入れるように口を開けば、水を得た魚のごとく、素早く侵入し、口内を犯すように動き回りはじめた。
「ふっ……んく」
くちゅりと卑猥な音が耳に入り込む。
そのとたん、じんと背中に走る甘い痺れに、シンタローは、くらくらと眩暈がしそうになった。久しぶりのそれに、あっさりと流されていく自分がわかる。
(まずい……)
抵抗できないまま、身体の熱が徐々に高まっていく。早く口付けが終われと祈るのに、一度だけ、と言ったのが悪かったのか、それは長すぎる。時折息継ぎに唇がずらされることはあるが、決して離れはしなかった。離れてしまえば、キス1回が終わるからだ。
「ぅん…ぁ……んん」
どこで学んだのだか、アラシヤマはキスが上手い。いつだってこちらが翻弄されるのである。
柔らかな舌が、凶暴さを露にし口内を侵す。キスだけでこんなに敏感に反応する自分は、どこかおかしいのだろうか、と焦ってしまうほど、どくどくと体中の熱が内側から溢れだすのがわかる。
「やぁ……ちょっ……」
息継ぎの合間に、静止の声をあげるがもちろん相手に聞く姿勢はみられない。
(やばっ…)
このまま行けば、キスだけでは満足できなくなる。
そうなると仕事に支障が……。
内心焦りまくりつつも、どうしようもなくなってきた時、転機が訪れた。
シュン。
行き成り総帥室の扉が開いたのである。
そうして、当然のように、そこから人が入ってきた。
「総帥、書類を―――――」
「○★△■×!!!!」
シンタローは、先ほどまで支配されていた甘い感覚を一気に消して、目を見開いた。
そこから入ってきたのは、自分の秘書を担当してくれるティラミスである。
もちろん、自分が相手を認識したということは、相手も同じようにこちらを見ているということで―――――当然ながら、総帥とその部下の情事をばっちりと彼は目撃したのだった。
すぐにアラシヤマと身体を離していたが、すでに時遅しである。
誤魔化しようがない。
いつのまにか衣服すらも乱されていれば、決定打だ。
「あっ……のぉ…その…お邪魔で……」
じりじりとティラミスの足が後ろへと下がる。
シンタローは、瞼を閉じ、そして深呼吸を一つした。
「がっ…」
深い呼吸の後、シンタローの唇から声が吐き出される。
「が?」
それに反応したアラシヤマが、こちらを向いた。
だが、振り返った時には、もう遅かった。
「眼魔砲~~~~~~~~~~~~~~!」
それは閃光を放ち、目の前にいたアラシヤマに直撃した。
「よろしかったんですか?」
「ああ? なんだ」
もってきた書類を処理しているシンタローに躊躇いがちにティラミスが声をかける。
「アラシヤマさんのことです」
「ああ。かまわないだろ」
手加減はちゃんとしてやった。
至近距離であったが、命は取り留めているはずである。
現在集中治療室行きとなっているが、まだ、死亡したと連絡が入ってないのだから、生きているのだろう。
「すいません…間が悪い時にきてしまったようで」
恐縮そうにするティラミスに、シンタローは、きっぱりと言い放った。
「お前は悪くない」
「はあ」
「いいから、気にすんな。あいつがあそこにいるのはいつものことだ」
確かにいつものことかもしれない。
だが、ガンマ団本部内で、そんな場所に入るほどの傷を負ったのは初めてのはずだった。
(すいませんでした、アラシヤマさん)
ティラミスは、そっと心の中で謝罪する。
直接の原因となってしまった自分としては、謝らなければ気がすまない。
(もう少し、私が遅れて入ってきていたら………もっとまずいことになっただろうか)
もしかしたら、自分がみた場面というのが、まだキスまでだったというのは、幸いだったのかもしれない。
(けれど、仕事中ということもあるし、鍵もかけずにまさか……そこまではやらないだろう………いや、でも………)
なんだか心中複雑になってきてしまったが、ティラミスは、とりあえず自身と相手の不幸に涙したのだった。