「じゃ、散歩行ってくるな」
そう言って戸を開けたシンタローの方に、リキッドは食器を洗う手を止めて向き直った。
「いってらっしゃいッす、シンタローさん」
ぱたんと閉まった音がしてから、リキッドは仕事を再開する。
けれど、その表情は何処か淋しげであった。
するとその時、再び背後の扉が開いた。
「忘れ物でもしたんすか、シンタローさん?」
くるりと振り返ったリキッドの様子は、まるで飼い主の帰宅を喜ぶ犬を思わせた。
しかし。
「残念やったな、シンタローはんやのうて」
「ア、アラシヤマッ!」
愛しい人と勘違いしてしまい、苛立ちと羞恥で顔を赤く染めたままリキッドは突然の訪問者を睨んだ。
「何の用だよ」
「勝負どす、リキッド!」
「勝負ぅ?」
リキッドは首を傾げた。
「そうどす」
「何でまた。コタローなら帰っちまったじゃねぇか」
「ちゃいますわ、今回はシンタローはんを賭けてどす!」
そう言って、アラシヤマは手を前に突き出してリキッドの顔面を指差した。
「シ、シンタローさんを?」
「そうどす。どちらがよりシンタローはんに似つかわしいかって事ですわ」
アラシヤマは少し口の端を持ち上げた。
「まぁ、何処の馬の骨とも知らんようなヤンキーなんかよりはこの気品漂うわてに決まってはるんやけど」
「あぁ?」
リキッドの眉が逆八の字となりつつある。
「んな事やってみなきゃわかんねぇだろ!」
「ほな、勝負するって事やな」
「いーぜ、やってやろうじゃねぇか!」
二人の周りを炎と電磁波が見事に包み上げていた。
「あぁっ!シンタローさんをめぐって勝負だなんてぇ~!!」
「アタシ達を忘れちゃわないでよね~!」
「平等院鳳凰堂極楽鳥の舞っ!!!!」
「電磁波ー!!!!」
「あ~れ~~ぇぇ~~」
いつの間にか乱入していたタンノとイトウは青空へと高く吹っ飛ばされていった。
「さて、邪魔者もいなくはったことやしそろそろ始めよか」
「あぁそうだな、じゃあ俺が勝ったらもうシンタローさんのストーカーはやめろよ」
「だったらわてが勝ったらパプワハウスから出てってもらうで」
二人はそうして、しばらく睨み合っていた。漫画的表現を許すのならその目と目の間には火花が飛んでいただろう。
「てな訳で、シンタローはんっ!」
「俺かアラシヤマか、選んで下さいッす!」
突然目の前にアラシヤマとリキッドが現れ、シンタローは数回瞬いた。
そして、無言のまま踵を返す。
「あーシンタローさんっっ!」
「待っておくんなましっ!」
「ひっついてくんじゃねぇっ!なんなんだよ、一体っ!!」
必死で足にしがみついた二人を払いのけようとシンタローは試みるが、離れる気配は微塵も感じられなかった。
「だーかーらー、どっちがよりシンタローさんに相応しいか決めて下さい!」
「何で」
「それが勝負方法だからどす!」
「はぁ?」
少し眉根を寄せたままのシンタローから離れると、目の前に二人は立ち並んだ。
「ほないきまっせ!シンタローはん、これ見てくれなはれ!」
「あぁん?」
見ると、アラシヤマの手にはどこから取り出したのか―おそらくアラシヤマの手製であろう―コタローの人形が握られていた。
「はあぁっ!コ、コタローッ!!」
「ふ、わての勝ちでんな」
人形に釘付けになっているシンタローに満足したように、アラシヤマはほくそ笑んだ。
「……シンタローさんっ!こっち見て下さい、こっちっ!!」
「……?」
リキッドはズボンのポケットから写真の束を取り出す。そこには全部コタローが映っていた。
「ああぁっ!そっちにもコタローがあぁっっ!!」
落胆した様子のアラシヤマを、今度はリキッドが笑う番だった。
「勝負は最後までわかんねぇんだよっ!」
「ちっ…」
舌打ちするとアラシヤマはシンタローの方を向いた。
「さぁ、シンタローはん選んでくれなはれっ!」
「俺ッすか?それともアラシヤマッすか??」
ずいっと詰め寄る二人にシンタローは後ずさってしまい、ついには背中に樹を感じた。
そして目の前にはコタロー人形とコタローの写真が突き付けられる。
「ほらシンタローはん、コタローはんどすえ~」
「あぁ…コタロー…」
「シンタローさん、こっちだってコタローですよ」
「こっちにもコタロー……」
「ほらほらシンタローはんっ!」
「シンタローさんってば!」
「あぁああぁ~~~っっ!俺はどうしたら…!!」
シンタローはそのまま座りこんで、膝に頭を埋めてしまった。その上に覆いかぶさるようにリキッドとアラシヤマは覗き込む。
「お兄ちゃんっ!」
「っ!?」
「お兄ちゃんってば!」
「コ、コタローっ!!」
伏せていた顔を上げると、シンタローは即座に立ち上がり二人を押し退けた。そして、一目散に声のした方へと走る。
果たして、そこには一人の金髪碧眼の少年が立っていた。
「コタローーッッッ!!!!」
「お兄ちゃんっ」
ぎゅうぅっとシンタローはコタローを抱きしめた。
「やっぱり生きてるのの方が良いなぁ…」
「苦しいよぉ、お兄ちゃんー」
「あぁごめんなー、コタロー」
置いてかれた二人は漸くシンタローに追い付き、そしてその光景をぽかんとしたまま突っ立って見ている。
「ああぁ…シンタローはん…」
「……にしてもなんでコタローがいるんだ?」
その時突然、まるで玉子の殻が割れるような―どこか不吉な―音が響いた。
そして、コタローの姿は崩れていき………。
「また同じ手にひっかかるとは、本当にどーしよーもないブラコンだな」
「パ…パプ……ワ…」
哀れ、シンタローは目を白黒させていた。
「腹がへったぞ!」
「……は…はぁ…」
衝撃が大きすぎたのか、シンタローは気の抜けたような返事をした。
「チャッピー」
「痛ーーっ!許して下さい、御主人様ーーー!!!!」
「なら早くおやつの用意をせんかいっ」
「はいーっ!急いで作らさせていただきますーー!!」
そう言うや否や、シンタローはパプワハウスへと駆けていった。その後に続くように、パプワはチャッピーに乗っていってしまう。
その場に取り残されたのは大人二人だけ。
「…………っ、こうなったら闘ってきめますえー!」
「へ、望むとこだよ!シンタローさんは絶対に渡さ」
ガサリと葉を揺らす音に二人は固まった。
「ウ……ウマ子……」
「御法度ーーーーッッッッ!!!!!!」
二つの悲鳴の後には、もはや何の音も存在しなかった。
終
そう言って戸を開けたシンタローの方に、リキッドは食器を洗う手を止めて向き直った。
「いってらっしゃいッす、シンタローさん」
ぱたんと閉まった音がしてから、リキッドは仕事を再開する。
けれど、その表情は何処か淋しげであった。
するとその時、再び背後の扉が開いた。
「忘れ物でもしたんすか、シンタローさん?」
くるりと振り返ったリキッドの様子は、まるで飼い主の帰宅を喜ぶ犬を思わせた。
しかし。
「残念やったな、シンタローはんやのうて」
「ア、アラシヤマッ!」
愛しい人と勘違いしてしまい、苛立ちと羞恥で顔を赤く染めたままリキッドは突然の訪問者を睨んだ。
「何の用だよ」
「勝負どす、リキッド!」
「勝負ぅ?」
リキッドは首を傾げた。
「そうどす」
「何でまた。コタローなら帰っちまったじゃねぇか」
「ちゃいますわ、今回はシンタローはんを賭けてどす!」
そう言って、アラシヤマは手を前に突き出してリキッドの顔面を指差した。
「シ、シンタローさんを?」
「そうどす。どちらがよりシンタローはんに似つかわしいかって事ですわ」
アラシヤマは少し口の端を持ち上げた。
「まぁ、何処の馬の骨とも知らんようなヤンキーなんかよりはこの気品漂うわてに決まってはるんやけど」
「あぁ?」
リキッドの眉が逆八の字となりつつある。
「んな事やってみなきゃわかんねぇだろ!」
「ほな、勝負するって事やな」
「いーぜ、やってやろうじゃねぇか!」
二人の周りを炎と電磁波が見事に包み上げていた。
「あぁっ!シンタローさんをめぐって勝負だなんてぇ~!!」
「アタシ達を忘れちゃわないでよね~!」
「平等院鳳凰堂極楽鳥の舞っ!!!!」
「電磁波ー!!!!」
「あ~れ~~ぇぇ~~」
いつの間にか乱入していたタンノとイトウは青空へと高く吹っ飛ばされていった。
「さて、邪魔者もいなくはったことやしそろそろ始めよか」
「あぁそうだな、じゃあ俺が勝ったらもうシンタローさんのストーカーはやめろよ」
「だったらわてが勝ったらパプワハウスから出てってもらうで」
二人はそうして、しばらく睨み合っていた。漫画的表現を許すのならその目と目の間には火花が飛んでいただろう。
「てな訳で、シンタローはんっ!」
「俺かアラシヤマか、選んで下さいッす!」
突然目の前にアラシヤマとリキッドが現れ、シンタローは数回瞬いた。
そして、無言のまま踵を返す。
「あーシンタローさんっっ!」
「待っておくんなましっ!」
「ひっついてくんじゃねぇっ!なんなんだよ、一体っ!!」
必死で足にしがみついた二人を払いのけようとシンタローは試みるが、離れる気配は微塵も感じられなかった。
「だーかーらー、どっちがよりシンタローさんに相応しいか決めて下さい!」
「何で」
「それが勝負方法だからどす!」
「はぁ?」
少し眉根を寄せたままのシンタローから離れると、目の前に二人は立ち並んだ。
「ほないきまっせ!シンタローはん、これ見てくれなはれ!」
「あぁん?」
見ると、アラシヤマの手にはどこから取り出したのか―おそらくアラシヤマの手製であろう―コタローの人形が握られていた。
「はあぁっ!コ、コタローッ!!」
「ふ、わての勝ちでんな」
人形に釘付けになっているシンタローに満足したように、アラシヤマはほくそ笑んだ。
「……シンタローさんっ!こっち見て下さい、こっちっ!!」
「……?」
リキッドはズボンのポケットから写真の束を取り出す。そこには全部コタローが映っていた。
「ああぁっ!そっちにもコタローがあぁっっ!!」
落胆した様子のアラシヤマを、今度はリキッドが笑う番だった。
「勝負は最後までわかんねぇんだよっ!」
「ちっ…」
舌打ちするとアラシヤマはシンタローの方を向いた。
「さぁ、シンタローはん選んでくれなはれっ!」
「俺ッすか?それともアラシヤマッすか??」
ずいっと詰め寄る二人にシンタローは後ずさってしまい、ついには背中に樹を感じた。
そして目の前にはコタロー人形とコタローの写真が突き付けられる。
「ほらシンタローはん、コタローはんどすえ~」
「あぁ…コタロー…」
「シンタローさん、こっちだってコタローですよ」
「こっちにもコタロー……」
「ほらほらシンタローはんっ!」
「シンタローさんってば!」
「あぁああぁ~~~っっ!俺はどうしたら…!!」
シンタローはそのまま座りこんで、膝に頭を埋めてしまった。その上に覆いかぶさるようにリキッドとアラシヤマは覗き込む。
「お兄ちゃんっ!」
「っ!?」
「お兄ちゃんってば!」
「コ、コタローっ!!」
伏せていた顔を上げると、シンタローは即座に立ち上がり二人を押し退けた。そして、一目散に声のした方へと走る。
果たして、そこには一人の金髪碧眼の少年が立っていた。
「コタローーッッッ!!!!」
「お兄ちゃんっ」
ぎゅうぅっとシンタローはコタローを抱きしめた。
「やっぱり生きてるのの方が良いなぁ…」
「苦しいよぉ、お兄ちゃんー」
「あぁごめんなー、コタロー」
置いてかれた二人は漸くシンタローに追い付き、そしてその光景をぽかんとしたまま突っ立って見ている。
「ああぁ…シンタローはん…」
「……にしてもなんでコタローがいるんだ?」
その時突然、まるで玉子の殻が割れるような―どこか不吉な―音が響いた。
そして、コタローの姿は崩れていき………。
「また同じ手にひっかかるとは、本当にどーしよーもないブラコンだな」
「パ…パプ……ワ…」
哀れ、シンタローは目を白黒させていた。
「腹がへったぞ!」
「……は…はぁ…」
衝撃が大きすぎたのか、シンタローは気の抜けたような返事をした。
「チャッピー」
「痛ーーっ!許して下さい、御主人様ーーー!!!!」
「なら早くおやつの用意をせんかいっ」
「はいーっ!急いで作らさせていただきますーー!!」
そう言うや否や、シンタローはパプワハウスへと駆けていった。その後に続くように、パプワはチャッピーに乗っていってしまう。
その場に取り残されたのは大人二人だけ。
「…………っ、こうなったら闘ってきめますえー!」
「へ、望むとこだよ!シンタローさんは絶対に渡さ」
ガサリと葉を揺らす音に二人は固まった。
「ウ……ウマ子……」
「御法度ーーーーッッッッ!!!!!!」
二つの悲鳴の後には、もはや何の音も存在しなかった。
終
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「ウフフ・・・わて、もしかしなくても天才でっしゃろか!?」
テーブルの上に広げられた写真を一枚手に取って眺めながら、男はニヤニヤと笑っていた。
「ほんま、よう撮れてますなァ・・・。特にっ、この角度のシンタローはん、ナイスショットどすえ~!!」
彼は、ペタリ、と写真をアルバムに貼った。
(それにしても、わてのシンタローはんコレクション、充実してきましたナ!どれもこれも命懸けの逸品ばかりどす)
テーブルの上の写真に視線を移し、彼は、腕を組んで何事か考え始めた。
久々にガンマ団に帰還したマーカーが廊下を歩いていると、よく見知った気配が30メートル程先の方角にあった。どうやら、角の所で待ち伏せしているらしい。
マーカーは、青龍刀の柄に手を掛けた。
「お師匠はーん!、お、お久し」
目に見えないぐらいの速さで飛んだ青龍刀は、どうにか避けたアラシヤマの髪を数本切り落とし、鈍い音を立てて後ろの壁に突き刺さった。
「外したか・・・」
舌打ちをすると、マーカーは笑顔で固まっているアラシヤマの横を通り過ぎ、壁に刺さっている刀を片手で引き抜いて鞘に収めた。
「何の用だ?」
「し、師匠ッツ・・・!久しぶりに会うた愛弟子に、随分なご挨拶ちゃいますの??」
「おまえの様な馬鹿を弟子に持った覚えはない」
「あっ、今ものすごく冷静にキッパリと言わはりましたナ!?相変わらず、コミュニケーションが苦手なお方どす・・・」
俯いて、アラシヤマは小声でブツブツと呟いていたが、顔を上げ、
「ま、それはともかく、今から少しお時間いただけます?ちょっとお師匠はんに見てもらいたいもんがありまして・・・」
と言った。
自動販売機や椅子などが置いてある休憩スペースに2人が入っていくと、そこに居たガンマ団員たちはギョッとした顔をし、自然な態度を装ってそそくさと出て行った。巻き添えをくって怪我でもしたらたまらない、というのがその場にいた団員達全員の胸中であったかもしれない。
「師匠、缶コーヒーか何か飲みはります?」
「いらん。さっさと用件を言え」
「へぇ、ほな早速本題なんどすが・・・」
椅子に座ったアラシヤマは、先ほどから大切そうに持っていた風呂敷包みをテーブルの上に置いた。そして風呂敷包みを解くと、『My Prince☆シンタローはんv⑲』と表紙に書かれたアルバムが出てきた。
「まぁ、見ておくんなはれッツ!」
何やら頬を染めてモジモジしている。マーカーは、そんな気持悪い弟子の姿を見ているのも嫌だったので、アルバムを開くと、どれもこれも新総帥の写真ばかり、であった。
(盗撮、か?倫理的にどうのこうのと言うつもりはないが・・・)
「お師匠はん、よう撮れてますやろ??シンタローはんの格好よさも可愛さも、あますことなく激写どすえー!!・・・ほんまやったら個展を開きたいぐらいなんやけど、わてのシンタローはんを狙う不埒者が今以上に増えても困りますしナ・・・」
得々と喋っていたアラシヤマは急に言葉を切ると、警戒したように辺りを見回した。しかし、団員たちは先程皆出て行ったので、彼とマーカー以外、部屋には誰もいなかった。
「勿論、新総帥の了承はとれているんだろうな?」
「―――師匠がそないに野暮なことを言わはる人や思いまへんでしたわ・・・」
嬉しさ一転、アラシヤマは、恨みがましそうにマーカーを見た。
その瞬間、マーカーによってアルバムは炎に包まれたはずであったが、少し表面がごくごく薄い茶色に変色しただけであった。
「あーッツ、わてのパワーが~!って、今回は大丈夫なんどすvvv師匠驚かはりました??実はコレ、最新の耐火・防水加工なんどすえ~!!」
アラシヤマが嬉しそうにそう言った瞬間、
「蛇炎流ッツ!!」
彼自身が炎に包まれて、黒焦げになった。
「―――まぁ、よく撮れている、と言えなくもない」
マーカーは立ち上がると、休憩室を後にした。
特戦の仲間達が集まっておそらく酒盛りをしているであろうロッドの部屋に行こうとすると、先程話題の人物であったシンタローが向こうからやってきた。
特に今まで彼に対して興味もなかったが、自分を見つけたシンタローが一瞬だけ嫌そうな顔をしたのが気にかかった。
「こんにちは、新総帥」
と、マーカーが声をかけると、彼の目が丸くなった。
「ああ」
返事はしたものの言葉が続かない。立ち止まり、子どものように目を丸くしたまま、マーカーを見ていた。
(新総帥は、特戦部隊にあまりよい感情をお持ちではないからな・・・)
無理もない、とマーカーは思ったが、反面、素直な表情を浮かべる彼を面白いとも思った。
「嫌な相手かもしれませんが、挨拶ぐらいでそれほどまで驚かれなくても。別に貴方をとって食ったりはしませんよ?」
相手が年長者であることを思い出したのか、シンタローはバツの悪そうな顔になった。
「悪ィ。アンタを見ると、ついアラシヤマを思い出しちまって。俺、そんなに嫌そうな顔をしてたか?」
(―――私とあの馬鹿弟子ごときを一緒くたにしていただとッツ・・・!?)
「お気になさらず。では、またお会いしましょう。シンタロー様」
少し片頬を吊り上げて笑い、一礼すると、マーカーは去っていった。
シンタローもそのまま総帥室に向かって足を進めたが、
(何だ?最後らへん、ものすごく不機嫌そうだったよナ・・・?)
マーカーの一癖も二癖もありそうな笑みを思い浮かべると、シンタロー自身理由は分からなかったが、何故か背筋に悪寒が走った。
「あんさん、わての前では絶対泣きまへんな。ほな、つらい時は何処で泣いてはるんどすか?」
情事の後、微かな夜明かりの中でアラシヤマは身支度を整えながら、ふと思い出したようにシンタローにそう聞いた。
ベッドの中からシンタローは、
「―――オマエだって、同じダロ?」
と少し掠れた声で言った。
「・・・アホなこときいてしもうたわ。かんにんどす」
声が離れたところから聞こえてきたので、シンタローが寝返りを打ってそちらの方を向くと、ドアを開けて出て行くアラシヤマの背中が見えた。
シンタローはベッドでまどろんでいたが、誰かの指が優しく髪を梳くのを感じていた。気持ちがよかったから、特に咎めずそのまま相手がしたい様にさせておいたが、ふと、指が止まり、首の辺りで彼の長い髪の毛を一つに束ねたので、目を閉じたままうっとうしげに手を払いのけ、
「オマエ、何で戻ってきたんだ?帰れヨ!」
そう言って、シーツに潜りこもうとすると、
「・・・シンちゃん、大人になっちゃったんだねぇ」
予想していたものとは違う声が上から降ってきた。
「えっ?なっ、親父ィ!?」
思わずシンタローが身を起こすと、
「パパは複雑な気持ちだヨ・・・」
ベッドサイドに腰掛けてシンタローを眺めているマジックがいた。
「―――テメェ、なんでこんなとこにいんだよ!?鍵はッツ?」
シンタローは、こんな時に絶対に会いたくない人物がすぐ傍にいたので、呆然とした後パニック状態に陥ったが、マジックは平然としていた。
「何でって、ただ、パパは久しぶりにかわいいシンちゃんの寝顔を見ようと思って」
「出て行けッツ!眼魔」
「シンちゃん、今は夜中で周りに迷惑ダヨ?どうどう、落ち着いて」
眼魔砲を撃つ寸前、マジックに抱きしめられたシンタローは暴れていたが、しばらくすると諦めたのか大人しくなった。
「ほんの少しだけど、硝煙のにおいがするね」
「いいから、さっさと離せヨ!」
再び、シンタローはマジックの腕の中から抜け出そうと身を捩らせた。
しばらくの間、マジックは何も言わずシンタローを抱きしめていたが、身を離し、
「シンタロー。もし、奴がお前を裏切ったら、パパがいつでも奴を殺してあげるよ?」
と静かに言った。
「親父・・・」
シンタローは少々不安気な面持ちで、冷たい表情のマジックを見つめた。マジックは取り繕っても無駄だと思ったのか、自分の表情が見えないように再びシンタローを抱き寄せ、ゆっくりと頭を撫でた。
「大丈夫。私は、シンちゃんが望まないことは基本的にはしないからね」
「・・・“基本的には”って、何だよソレ?」
「うーんと、まぁ、そこは色々ということで!」
ハハハと誤魔化すようにマジックは笑うと、座っていたベッドサイドから立ち上がり、
「おやすみ、シンちゃん」
そう言って、シンタローの額にキスをした。
「あぁ。おやすみ、父さん」
マジックが中々立ち去ろうとしないのでシンタローが訝しげにマジックを見ると、
「えっ?シンちゃんからキスはしてくれないのかい?」
とさも意外そうにそう聞かれた。
「何考えてんだ!?するわけねぇダロ!!」
「昔はしてくれたのになぁ・・・」
シンタローが残念そうなマジックに向かって枕を投げつけると、マジックは片手で枕をキャッチし、「枕は大切にネ」と、シンタローに枕を軽く投げ返した。去り際、マジックは、
「あっ、シンちゃん。あんまり奴をつけあがらせちゃだめだヨ!あれを見た瞬間、パパは思わず奴を始末しちゃおうかと思ったヨ」
と言った。
「?」
「もしかして、気づいてなかったのかい?うなじのキスマーク」
「あんの野郎ッツ・・・!!」
マジックが出て行った後、シンタローは、持っていた枕を思いっきり床に叩きつけた。
生命を維持する為に睡眠は不可欠だという。
一日の疲労を心身共に無くし、活力を蓄え、次の日へと繋ぐ重要な行為。
ならば、それを行っても鋭気を養えないのなら、眠る必要なんてないのではないだろうか。
ましてや、それによって、一層酷くなるのなら――。
眠れぬ子のための子守唄
幾つもの高層建築物が集まり構成されるここは、一体どれ程の人間が稼動していることだろう。
自然と生まれる日中の喧騒も、この時間になれば嘘のように静まりかえる。
ほとんどの者が就寝する時刻、活動しているのは24時間体制の警備員の他は、数えるくらい。
その少数派のひとりが、軽やかに弾いていたキータッチを止め、密やかに宣言した。
「でーきたっ。今日は終わりー。」
声だけ聞くとハスキーな女性と判断しがちだが、容姿もそれに見合い、ただ性別だけ立派な成人男子が、ふっと息を吐くとPCの電源を落とした。
すると、すかさず、
「終わったのか。」
隣席の、こちらは疑いようのない男声がした。
「うん。とりあえずはね。」
「では、送っていこう。」
がたりと椅子が鳴る。然程大きな音でなかったのに、この静寂な空間では響く。
尤も、現在自分たちしかいないのだから、気遣う必要もないが。
さも当然だと言わんばかりに立ち上がった長身に、グンマは僅かに苦笑した。
『送る』という発想を、何でまた自己に持つのか。
一般的にそれは、子供か女性、または高齢者が対象だろう。それの、どれにも属さない己がこういう扱いを受けるのは、とにかく気恥ずかしい。
だが、その心情を察しているので、無下に断ることもできない。
――元々彼は、そういったことをしなかった。
やり始めたのは最近。切欠は――『彼』がいなくなってからだ――。
本当は同じではないけれども、4年前と変らぬあの島へ向かった目的は果たされた。大きな代償と引き換えに。
それからキンタローとグンマは、再び島への道標を摸索している。
グンマはずっと研究員として所属しているのでともかく、キンタローは研究員と総帥補佐官の二足わらじだ。
いや、『だった』。
解任されていないとはいえ、実質、補佐の任には就かず、研究員のみに従事している。
「お父様のお手伝いをしなくていいの? キンちゃん、補佐官でしょ?」
現在、団に総帥は不在であり、前総帥が代行を務めている。
そうなれば、補佐官も代行に従ずるのではないかという、至極当然の質問を、
「・・・俺の総帥は、シンタローだけだ。」
短い返答に全てが込められていた。
グンマも、それ以上は言わなかった。
それに彼が専属となってくれれば、こちらとしても有難い。無作為に異次元空間を彷徨う彼の地を捉えることは、そうそう容易でないからだ。
彼の頭脳は強力な助けとなる。
目下ふたりは、総帥帰還という団最優先事項を任されている。
そうなると、ほぼ一緒に行動することとなったのだが、さすがに四六時中、共にいるわけではない。
ある日、所用で席を外したグンマは、それに思ったより時間を取られてしまった。
ラボに戻る途中、進行方向から見慣れた金の短髪が現れた。
「あ、キンちゃ~ん・・・。」
「グンマ! 何処へ行っていた!」
上げた手が半ばで固まった。
言葉を遮られ、それが滅多に見られない――というより、初めてではないだろうか。
何かこちらが事を起こす度に、時には真剣に、時には呆れながらの対応ならば日常なのだが、こんなに怒気を孕んだ彼は見たことがない。
驚愕に、ただただ双眸を見開き沈黙する従兄弟から、キンタローは、しまった、と失態を悔やむ貌で目を逸らした。
「・・・あ、ごめんっ。何かあったの?」
留守の間に非常事態が起こったのだろうか。だから、呑気に外出していた自分を怒鳴ったのだろう。
真顔で尋ねるグンマに、しかし、目の前の人物は目線を逸らしたままで、答えようとしない。
「キンちゃん・・・?」
常の彼らしくない態度に、少々不安になる。一体、何が起きたというのか?
じぃっと食い入るように見つめれば、やっと、訥々と喋り出した。
「・・・すまん・・・今のは八つ当たりだ・・・。」
「八つ当たり?」
「・・・オマエの帰りが遅いから・・・心配になって・・・。」
「え? ええ!? もしかして、探してくれていたの!?」
こくんと首肯する仕草が幼くて、外見とのミスマッチに可笑しくなる。
「やだなあ。僕、子供じゃないんだよ?
ちょっとね、打ち合わせが長引いちゃって――。」
と、笑い説明しながら、ふと、従兄弟の様子が何処となく異なることに気づいた。
明確な変化ではないのだが、例えれば泣きたいのを耐えているような――。
見上げる顔は、前髪に隠れてよくわからない。
「キンちゃん? どうしたの?」
小首を傾げた途端、上空から降ってきた逞しい両腕に抱えられていた。
「キ、キンちゃん?」
「――まで――。」
「え?」
「・・・オマエまで・・・いなくなったと・・・。」
後は感極まったのか、最後まで発されることはなかったが、それだけで充分グンマは理解できた。
傍から見れば、体格の差でキンタローがグンマを抱き締めているようだ。しかしながら、これは違う。怯え慄く子が親に縋りついているのだ。
考えてみれば、従兄弟はまだ実体験は、僅か4年。如何に優秀な頭脳の持ち主であろうと、それと情緒が比例するわけではないのだ。
こういうことは知能よりも経験の比が高い。そしてそれは、時間の長さが、ものを言う。
(心細かったんだ・・・。)
『彼』が取り残されたとわかったときも、団に戻ってからも、この従兄弟は取り乱さなかった。
ひたすら探索に打ち込む姿も、立派な『博士』にしか映らなかった。
全て『彼』を失った恐怖と不安と焦燥が、突き動かしていたのだろう。 見た目に惑わされて、彼の中を読もうとしなかった。
まだこんなに幼い心を抱えて――。
「・・・気づいてあげられなくて、ごめんね。僕はいなくなったりなんか、絶対しないから。」
ね?と、あやすように背中を叩く。出来れば頭を撫でてあげたかったが、残念ながらそこまで手が届かない、相手は大きな子供だった。
これ以来、グンマは可能な限りキンタローと行動を共にしている。それに安心したのか、キンタローも、以前よりもますます作業に専念しているようだった。
(専念――じゃないね。没頭している。)
一心不乱に座標を追う男には、鬼気迫るものさえ感じられる。不眠不休で、それこそ寝食もまともに取っていない。
「キンちゃん、少し休んだほうがいいよ。後は僕がやっておくから。」
そう進言しても、
「いや、俺は大丈夫だから。」
と、まるでそれが彼に与えられた唯一絶対の使命であるかのように、頑として譲らないのである。
このままでは、そう遠くないうちに倒れるだろうと容易に推し量れる日々の中、今夜も終了を告げたグンマに連れ添って退室する彼の、しかしその机上は雑然としたまま、機械も電源は入ったままである。
再び戻って続行することは明白。一日の終わりのいつもの光景に、グンマは、そっと溜息を吐いた。
人気の無い廊下は、いやに足音が木霊する。日中は多くの人間が行き交うこの場所も、今はふたりきりだ。
「・・・ね、キンちゃん。」
「何だ?」
律動的な歩調を崩さず、ただ前だけを見つめ進む、険しい横顔を見上げる。そこに宿っている瞳の強い光が、今は悲哀を湛えていると感じるのは何故だろう。
「・・・ちゃんと寝てるの?」
「ああ。」
即答が逆に不審を呼ぶ。
しかしながら、頭ごなしに否定することもできない。彼に、それこそ24時間付きっきりなわけではないのだから。
黙って凝視していると、幾分眉間の皺が薄れ、柔らかな表情を従兄弟は向けた。
「何か言いたそうだな。」
「だって・・・。」
夜はこうして毎日送ってくれる。朝、ラボに向かうと、既に彼は居るのだ。
自身もそんなに睡眠時間は長くはない。今も、とっくに日付は変って数時間だ。
ということは、本人の言い分を信じたとて、一体如何ほど眠っているというのか。
時に、『目は口ほどに物を言い』と例えられるように、グンマの思考は相手に届いた。
小さく息を吐きながら、微笑するキンタロー。
「・・・寝ているさ。残念ながらな。」
(・・・え?)
『残念』――その発言は何を意味するのか。僅かに顰めた従兄弟に気づくことなく、キンタローは続ける。
「こんなとき、人間であることが悔やまれる。機械ならば、疲労も空腹も感じることなく作業を続けられるというのにな。
今は一分一秒でも惜しい。心戦組が動いている。
早く助けに行かなければ、こうしている間も、アイツの身に危険が迫っているかもしれないんだ。
それなのに、のうのうと眠ってしまう自分が恨めしい。」
「キンちゃん!!」
何と恐ろしく哀しい考え方なのだろうか。
睡眠を罪だと言う。そこまで彼は追い詰められていたのかと愕然とした。
『彼』だけが残されたあのとき、従兄弟は先に艦橋へ赴いた。
それを悔いていることは知っている。時々覗く自嘲を、今も見せた乾いた笑いも知っている。
だがしかし、ここまで自責の念が強かったとは――!
ぐっと掴まれた二の腕に構うことなく、キンタローは、きょとんと青を見開き、
「・・・深夜だぞ。」
見れば、一族のプライベートゾーンに入っていた。この時間帯では好ましくない音量であると、暗に示唆している。
グンマの自室は目の前だった。
「それじゃ、おやすみ。」
踵を返し翻る白衣の行き先は、彼の私室ではなく復路へと続こうとしている。グンマは唇を噛み締めると、手に力を込めた。
「グンマ?」
訝しい声音を無視し、自室へ引き込む。
「お、おいっ!?」
この小柄な従兄弟が、実はとんでもない怪力の持ち主であることは記憶に新しい。
為すがままにキンタローは、とうとう彼の寝室まで連行された。
「何のつもりだ――。」
当人に断りもなく白衣を脱がせられ、
「いいから!」
と、肩口を押さえつけられて寝台に鎮座するはめになった。
「キンちゃん、今夜はここで寝ていいよ。」
「何を言っている――。」
「僕のことは気にしないでいいよ。このベッド、結構広いからふたりでも充分だし。」
「そういうことでは――。」
「それじゃ眠れないっていうなら、僕はソファで寝るよ。あれ、簡易ベッドにもなるんだよ。」
(話が噛みあっていない・・・。)
にこにこと、いつも絶えない笑顔で事を進める従兄弟に、キンタローは嘆息するしかない。
「・・・いいか、俺はまだ寝るつもりはない――。」
「寝るんだよ!!」
それまでと一転して、グンマは強い口調で叱りつけた。この4年間、窘められはしたものの、ここまで激怒した彼は初めてだ。
「グンマ・・・。」
「寝なきゃ・・・ダメだよ。キンちゃん、自分の顔、見てる?
そんなに疲れきった顔しているのに、それじゃ倒れちゃうよ・・・シンちゃんを迎えに行く前にさ・・・。」
そのやつれ憔悴しきった様は、偏に『彼』の為。『彼』を取り戻そうと、それだけがキンタローの原動力になっている。
ならば、力の源を引き合いに出せば、納得するであろうか。
――果たして、従兄弟は沈黙してしまった。俯く姿は、かなりの体躯の良さのはずが、脆弱に思えた。
グンマは隣に腰掛け、窺い見やる。
「・・・寝よう。キンちゃんの焦る気持ちもわかるけど、身体がもたないよ。」
今夜は何が何でも眠らせようと再度促すが、キンタローは、ゆるゆると力なく首を左右に振った。
「キンちゃん――!」
「・・・違う・・・。」
「え?」
「違うんだ・・・。」
「違うって・・・何が?」
4年前、この世に出現したての頃の従兄弟は、幼子のそれと同じで、感情を上手く表現できなかった。
そんな彼を根気強く引き出していったのは、グンマだ。
その時分に戻ったかのような錯覚を感じながら、優しく問う。
それに、ぽつりと。
「・・・怖いんだ・・・。」
「怖い・・・。」
反芻すると、従兄弟はこくりと小さく頷いた。
(怖いって・・・どういうこと?)
従兄弟の意図がわからない。ここは下手に質問するより、自発的に喋らせたほうが良いと判断し、グンマは耳を傾けた。
暫く無音が流れたが、その間に思考を組み立てたらしいキンタローが、やがて、ぼつぼつと途切れがちに話し出した。
「眠ろうとすると・・・嫌なことばかり浮かんでくる・・・。
もう・・・パプワ島を捉えることができないかもしれない・・・シンタローには、もう会えないかもしれない・・・。
・・・シンタローは・・・もう・・・。」
ぎゅ、と膝に乗せていた両手を組み握り締める。そして、気持ちを搾り出すような吐露があった。
「もう・・・生きていないかもしれない・・・!!」
「! そんなこと、あるわけないよ!」
「わかっている! アイツは何があっても死なない。それは、俺が良く知っているんだ!!」
勢いよく上げた顔は、切羽詰った悲壮感に溢れている。叩きつけた声音も余裕が無い。
それが、見る間にくしゃりと歪む。不安に怯える子供の貌へと変化する。
グンマは息を呑むしかなかった。
「わかっているんだ・・・どんなに馬鹿げた考えかということは・・・。
だけど、何かをしていないと、悪いほうへと考えてしまう・・・。」
両手で顔を覆い隠し、気持ちを代弁する重苦しい息がそこから生まれた。
「キンちゃん・・・。」
彼は幾度となく、現在この場にいない彼の人の無事を、確信を持った響きで言い放っていた。
ふたりの間には稀有な絆がある。
それは互いの出生に、そして4年前の死闘に根付いているもので、彼がそう宣言するのであれば間違いないであろうと、根拠のない安堵を周囲にもたらしていた。
だがしかし、それは誰よりも、自分自身に言い聞かせていたものだと知る。
「・・・眠れば夢を見る・・・やっと辿りついた島に・・・もう・・シンタローはいない・・・。
・・・シンタローだけじゃない。パプワも、ナマモノたちも、一緒に行ったはずのオマエもいないんだ!
気がつくと、俺だけがあの島に、あの破壊された島に!!」
「キンちゃん!! 落ち着いて!!」
しがみ付き恐怖を訴える――吼え吐き出す幼子をグンマは抱き締めた。
そう、彼はまだ子供だ。4年前にあの島で生まれ、あの場所から彼の人生は始まった。
そのときに父親を喪ったが、代わりに大切な言葉を貰った。
あれから4年、本人の意思に沿おうが反しようが、キンタローは様々なものを得た。――手に入ることばかりで、失うことを知らなかった――。
得たものを初めて失ったのは、皮肉にも、父を喪った場所。厳密に言えば同一ではないが、同じと見なして良いだろう。
しかも、失ったものが、あまりにも大きい。
彼の心は、あの破壊された光景が、虚無の象徴と捉えてしまったのだろう。
「眠りたくない・・・あんなものを見るくらいなら、俺は寝なくていい!」
『彼』から離れたことへの自責、悪夢からの強迫観念。それらがキンタローを不眠へと追い込んでいる。
「キンちゃん、大丈夫だよ! 僕はここにいる。
シンちゃんだって、きっと元気だよ。僕たちを――キンちゃんを待ってるよ!」
とにかく落ち着かせなければと、抱える腕に力を込める。心音を聞かせると子供は落ち着くと聞いたことがある。
「大丈夫。皆、いるよ。」と繰り返し囁けば、震え怯えていた身体が徐々に緩まっていくのがわかった。
「・・・落ち着いた?」
「・・・ああ・・・見苦しいところを見せたな。」
羞恥の色は滲ませていても普段の口調に戻っていることに、一先ず安心する。
「そんなことないよ。キンちゃん、疲れているんだよ。
今日はもう休んで、また明日から頑張ろうよ。」
『明日』は数時間後に迫っている。と心内で苦笑してしまうが、ここは言葉のアヤだ。
ところが、やはりキンタローは首を振った。
「キンちゃ・・・!」
「限界まで起きていれば、自ずと眠気は来る。いくら俺でも、何日も眠らずにいることは出来ないさ。
そうやっていつも寝ているから、安心しろ。」
そう、事も無げに言った後、
「これならギリギリまで作業はできるし・・・何より、あの夢を見ることもない・・・。」
何も考えず、ただ生存本能としてだけの睡眠を求める。その哀しいまでの心情が、グンマは遣る瀬無かった。
(そんなんじゃ、疲れは取れないよ・・・。)
寧ろ疲労は蓄積しているであろうに、それさえも感じなくなっているのだろうか。
どうにか彼を安眠に導きたい。頑なな心をほどく手立てはないものか――と、ふと懐かしい音律が頭を過ぎった。
『彼』の記憶を持つのならば、或いは――。
唐突に流れ出した歌に、深い青が大きく開く。
「その歌は――。」
「キンちゃんも覚えていたんだね。」
ふふ、と微笑する従兄弟に、記憶の中の人が重なった。
自分にも『彼』にも忘れられない、温もりを与えてくれた人――。
「静養していたから滅多に会えなかったけど、会えば歌ってくれたよね。この歌。」
「ああ・・・母さんだ・・・。」
「僕も、シンちゃんと一緒に伯母様に会うのが楽しみだった。
僕のお母様は、僕を産んでから直ぐに亡くなったって聞かされていたから、伯母様が母親のように思えたよ。――まあ、本当に母親だったんだけどね。」
悪戯っぽく笑うと、グンマは再びキンタローを抱き寄せた。
「こうしてさ――僕とシンちゃんを抱き締めて、歌ってくれた。
それでいつの間にか、僕たちは眠っていたんだよね――。」
思い出を再現するように、従兄弟がまた歌いだす。低く、密やかに。
『彼』を通して見上げた、穏やかな白い顔と流れる長い黒髪。柔らかな日差しと花の芳香。
そして、眠りへと誘う静かな歌声。
(母さん・・・。)
ゆるりと閉じた瞼の裏に、遠い記憶と共に、あの頃の温かな幸福が蘇ってくる。
心に沁み入る旋律に、いつしか恐怖も不安も姿を消していた。
胸に掛かる重みが増したことで、一旦口ずさみを止めると、微かな寝息が部屋を支配した。
「寝たんだ・・・。」
ほっと息を吐く。慎重に身体をずらして大柄を横たえさせ、毛布を掛けた。
薄暗い中、従兄弟の口元に浮かぶ笑みを認めて、小さく安堵する。
「皺も消えているしね。」
起こさないよう、そろり触れた眉根。きっと良い夢を見ていることだろう。
「さ、僕も寝なくちゃ。」
時計に目をやれば、夜明けまで幾時間もない。
自分だって慢性睡眠不足になっている。人のことは言えないのだ。
手早く寝巻きに着替え、ベッドの空きスペースに身を滑らせた。
隣では規則正しい寝息が聞こえる。その彼の、恐怖に怯える激白が耳から離れない。
(キンちゃん。僕もね、本当は怖いんだ。)
あの島に行って――『彼』が帰らないと言ったら――。
従兄弟の不安理由である、生死の安否も、もちろん考慮している。だけど、それを上回る恐怖は、『彼』自身の拒否だ。
4年前に彼の島で垣間見た『彼』は、生気に満ち溢れていた。
あの場所での生活を満喫し、その姿を喜ぶと同時に敗北感を味わった。
成長するにつれ、一族と異なる色彩に惑い、秘石眼の無さに悩み、それでも表には出さず、人知れず中傷と悪意と、独り闘っていた『彼』。
弟と引き離され、癒えぬ傷を抱える『彼』が、子供に還ったかのような笑顔を、あの島では浮かべていた。
――『一族』の所為で負傷した『彼』を、『一族』の己が癒し守れるなどと、傲慢な考えはない。
せめて、これ以上、傷を負わないようにと、どうか安寧でいられるようにと、ささやかに願ってきた。
その『彼』を完膚なきまでに蘇生させたのは、あの少年だ。
自分が長年為しえなかったことを――諦めかけていたことを、短期間で遂げた子供に、大人気ないながら密かに嫉妬した。
そんな『彼』が最後に選んだのは、『一族』。もう、しがらみから逃れても構わないはずなのに、敢えて『彼』は帰ってきた。
(それがどんなに嬉しかったか、シンちゃんは知らないでしょう。)
一時は破られ、だけれども、今度は新たな従兄弟が加わり、再び更に、忙しくも賑やかで安穏とした日々が続くと思っていた――。
それは、たった4年で終止符が打たれた。また、あの少年が『彼』を連れて行ってしまった。
末弟が、あの島に居るらしいと判明したときから、警鐘が鳴っていた。
――また、いなくなってしまう。
そんな不安感に苛まれながら、従兄弟たちが向かった後、居てもたってもいられず、自身も発ったのだが――。
(『運命の人』ってヤツなのかな。)
少女めいた発想に、我ながら可笑しくなる。
結局、自分も、誰も、彼らを離すことはできなかった――。
一度離した手を、二度目も離すとは限らない。
あの子供の手を振り切ってまで、『彼』がこちらに来るだけのものが、果たしてあるのか。
ツンと鼻頭が痛い。
(あーもう、ドロ沼だよ。寝よ寝よ。)
ぐい、と毛布を引き上げ、頭からすっぽりと被る。
何も考えたくないから眠らないという従兄弟とは反対に、自分は考えたくないからこそ、眠りに逃避する。
だから、『彼』がいなくなってから、安眠を感じたことは、一度もない。
幸い横で眠る従兄弟は、それを得たようで、安らかな寝顔だ。
(・・・僕にも子守唄が必要だよね。シンちゃんに歌ってもらわなきゃ。)
『彼』が戻ったら、これを最初にお願いすることに決め、グンマは固く目を閉じた。
時を刻む音だけが、やけに響く。
あと数時間で、新しくも変らない1日が始まる。『彼』がいない日の繰り返しが。
本当の夜明けは、まだまだ遠い。
『シンタロー』という名の太陽が昇らないうちは、僕らの心は闇に包まれたままだ。
――オチ
「・・・あ。電気点いたままだ。
消さないと経費が嵩むって、シンちゃんが怒り狂うな。」
グンマはラボに急行した。
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全く、ソイツはロクでもないことしか教えねえ。
コイツもコイツだ。俺はそんなことに付き合う暇は、ねえんだよ!
髪結い亭主
以上の意味を目一杯込めて睨む俺を、2組の青い瞳が、これまた、じとっとねめつけている。
同じ青でも微妙に色合いが異なる。例えて表現するならば、空の青と海の青だろうか。
そして、それらが含む感情も、2者で違う。
先刻から、じーっと俺を、正しくは俺の髪を、穴が開くほどに見つめる海の青。一点集中した熱視線が痛いんですけど。
ハゲたら、どうしてくれる。オマエのそれは秘石眼だから、シャレになんねえんだよ!
「・・・ンだよ。オメーだって、そんな暇はねえだろうーが!!」
苛立たしげに怒号すれば、デカイ図体が肩を落とした。
コイツは俺と対照的に、ほとんど感情を表立てしない。急速な教育の賜物だろうが、元々、素質もあったのだろう。
4年前は大差なかったのに、何とも劇的な変身だ。
そういうことで、一見、動じていないようだが、悄然とした内心は、俺にはわかる。
俺だけではない。一族と教育を施したドクターには、この微妙な変化が読める。
「シンちゃん! そういう言い方ってないでしょ! 子供の意欲を削ぐようなこと、言っちゃいけないんだよ!」
空の青が、育児書に掲載されるような文句で援護する。
・・・誰が子供なんだよ。オマエより、どう見たってデカイじゃねえか・・・。
というか、オマエ、育児書読んでんのか?
と、突っ込みたいところを、ぐっと耐えた。
確かに、そこの大男は外見は立派な紳士だが、中身は幼児だ。どんなに仕事ができようと、素晴らしい論文を書こうと、実生活面は4歳児だ。
天才と何とかは紙一重とは、良く言ったものだと思う。何しろここには、実例がふたりもいるのだ。
そのふたりが、揃って俺に無理難題を仕掛けてきた。
「あのなあ・・・キンタローのしたいことをさせるのは構わねえけどな、俺を巻き込むな。」
もういい。怒鳴っても堪えないコイツらだ。
所詮、天才様の思考回路は、凡人の俺には理解できねえよ。
とにかく、ここは穏便に引き下がってもらおうと、やんわり断った。
しかし、
「だってシンちゃんじゃないと適任者がいないんだもん。」
ねー、と、可愛らしく小首を曲げて隣人に同意を求めれば、相手も、これまたこくりと頷く。
おいおい。28歳の男の仕草じゃねえよ・・・。
話を戻して、コイツらの難題の条件を鑑みれば、俺は範囲内だ。うん、確かに。
だがしかし、俺だけではない。他にもいる。
「何も俺だけじゃねえだろ? それなら――ドクターにでも頼めよ。あの人なら鼻血出して喜ぶぜ。」
言った後で、あまりにもリアルに想像できて、自己発言ながら、げんなりとした。
ところが、すかさず反論がある。
「高松はダメだよ。拗ねちゃって、僕たちに会ってくれないもん。」
ああ、そういえばそうだったな。オマエらにお払い箱にされて、ここを出たんだったな。
研究所に篭ったとか何とか、サービス叔父様が言ってたっけ。
えーと、叔父様と同い年だから――47歳か。
いくら鼻血を垂れ流すくらいに溺愛するコイツらから用無しと言い渡されたからって、いい年したオッサンが拗ねんなよ。
待てよ。サービス叔父様も47歳・・・見えねえなあ。いつまでも綺麗だよな、叔父様――。
思考があらぬ方向へ飛んでいた俺を、ぼそりと零された言葉が現実に引き戻した。
「俺は、シンタローがいい・・・。」
控えめながら、しっかりとした主張の先には、大型犬がいた。
耳を垂れさせ、同じく垂れた尻尾が、ぱたんぱたんと床を叩く。
澄んだ青い目が構って欲しいと語っている――。
ああ、もう!
その命令待ちの犬のツラはよせと、いつも言っているのに――その表情に俺が弱いことを知った上での計算とわかっているのに――折れるしかねえじゃねーか!
重い溜息を吐き、決心して言ってやった。決心――というより、自棄だな。
「・・・仕事が溜まっているから、俺は休まねーぞ。だから、じっと大人しく協力、なんてしねえ。
それでよけりゃ、勝手にしろ。」
言い終わった後、少し後悔した。
キンタロー・・・何つー顔すんだよ。目を細めて、僅かに口元を綻ばせて。
グンマの、如何にも笑顔、とは違うが、滅多に見せない穏やかなそれが、却って歓喜を伝えている。
何か・・・こっちが照れる。
自制しようにも勝手に熱くなる頬を見られたくなく、椅子を回して身体ごとそっぽを向ければ、
「よかったねー、キンちゃん。」
と、能天気な声音が背後からした。
――どうやら気づかれなかったようだ。
ほっと胸を撫で下ろしていると、ふわり、髪を持ち上げられる感覚がした。
丁寧に、適度に引っ張り梳かれるそれは意外にも心地よく、思わず身を任せそうになる。
渋々承知した手前、そんなことはおくびにも出さず、むっつりと手にした紙面を追う視界の端で、金色がちらちらと揺れている。
キンタローは真後ろに陣取り、グンマが左隣に立って指導しているのだ。
「・・・オマエで充分、事足りてるんじゃねーのか? 何で俺を使うんだよ?」
頭は動かさず、上目遣いで示した金糸は、普段の巻き髪ではなく緩やかに波打っている。
指導者は自前を教材に提供したと言った。だったら、今もそれを使えよ。
俺の質問は至極当然だと思ったが、
「今回はレベルアップを目指して、ふたつに結い上げるの。これはバランスが難しいからね、僕も見えるほうがいいんだよ。」
・・・何の為のレベルアップなんだよ。
何事も出来ないよりは出来たほうがいいとは思うが、これが出来たからといって、オマエは何を得るというんだよ? キンタロー。
脱力感に心の中で突っ込んだ。が、またしても別の意味での追い討ちが俺を襲う。
「それにね、キンちゃんがシンちゃんの髪に触りたいって。」
なっ・・・!
絶句――今の心情を表すならば、この一言に尽きる。
何でわざわざ――疑問が思考を席巻し、書類の内容なんか、ちっとも頭に入ってこない。
触りたいって・・・そんなの、いつだって――。
触れているじゃないかと心内で続けた途端、状況も脳裏に浮かんで、もうその後は思考すらも止めたくなった。
そんな俺の葛藤を他所に、ふたりは頭上で「こうか?」だの「そうそう。あ、そっち側、少し崩れているよ。」だの、勝手に盛り上がっている。
それが、寧ろ救いだった。とにかく今は構わないで欲しい。
頬ばかりでなく顔全体赤くなっていると自覚しているのだ。絶対気づいてくれるな。
心持ち俯いて書類に没頭しているポーズを取る。左頭上から、くすりと笑う音がした気もするが、ただひたすら時間が過ぎることを願った。
それは、ものの10分程度だったろうが、俺には随分と長く感じられた。
「出来た。」
後方から満足げな声と弄られていた感触が無くなったことで、終了だとわかる。
「わー。キンちゃん、上手に出来たねえ。」
喜ぶグンマの姿は、幼子を褒める親だな。
俺も、漸くこの忍耐とおさらばのようで嬉しいぞ。
「ところで、俺はどんな頭になってんだよ?」
この頃には平静に戻っていたので、素直に気になる事柄を訊いた。
いやに頭頂が重い。自分ではあまり髪を上げないからな。
「はい。」
と、眼前に差し出された鏡を覗く――これは――熊、か?
熊の耳のように、ふたつのだんごが天辺に乗っかっている。――いや、そこから一部下ろしてあるな。
「セーラー○―ンにしてみました。シンちゃん、髪長いから、全部結うのは大変なんだよね。」
・・・セー○―ムーン・・・。
一拍後、俺は机に突っ伏した。何が悲しくて、ガンマ団総帥が美少女戦士にならなきゃならんのだ・・・。
心でさめざめと泣く俺はどうでもいいらしく、ふたりの話題は、キンタローの作品に向いている。
「キンちゃんは本当に器用だねー。これなら美容師になれるよ。『髪結いの亭主』だねっ。」
「それは違うぞ。グンマ。
『髪結い』は、妻に掛かるんだ。『髪結いの亭主』は、妻が美容師なんだぞ。」
「え? そーなの? じゃあキンちゃんは、『髪結い亭主』?」
何とも、のどかで馬鹿馬鹿しい会話が繰り広げられている。
『髪結いの亭主』でも『髪結い亭主』でも何でもいいから、早く帰れ・・・。
怒る気も失せている俺だったが、続くグンマのとんでもない発言に、気力を取り戻した。
というより、何だそれは!?
「で、シンちゃんが『髪結いの奥さん』だ。」
「はあ!?」
がばり跳ね起きた俺を、「あ、起きた。」などと呑気に構えるオマエの脳内、見せてみろ!
「どういう根拠なんだよ!」
噛みつく俺も何のその、逆に反論が心外とばかりに、むっと眉根を寄せる。
「だってシンちゃん、ご飯作ってくれるし、お洗濯もお掃除も上手だよ?」
「・・・そりゃ『奥さん』じゃなくて、『お母さん』だ・・・。」
やっぱりコイツはバカだ。天才と何とかの、何とかだ・・・。
激しく脱力しつつ訂正してやった。けれども、納得いかない表情のまま、何か言いたそうにしている。
不服だってのか? だったら、俺が充分納得できる理由を言ってみろよ。
「・・・何だ? 文句あるか?」
多少凄みをつけて促せば、もごもごと歯切れ悪く切り出した。
「んー・・・とね――。」
さっと先程の鏡を取り出し、再度俺が映るように見せる。
これが何だ? 別におかしい――いや、確かに髪型は笑えるが、まさかこれが理由ってワケじゃねーよな。
疑問一杯の自分の顔を眺めていると、つい、と首筋に指が当てられる像が映った。
「ここ。赤いよ?」
!!
瞬時に察した。慌てて手を宛がい隠すも、後の祭りだ。
声も出せずに見やるグンマは、苦笑いを返している。
「シンちゃん、気をつけなよ? 総帥服って襟合わせが開いているから、割合見えるんだよね。首とか胸元とか。
まあ、これはシンちゃんだけじゃなくて、キンちゃんも注意してね。」
「ああ、以後気をつける。」
傍から見ると、子供を窘めているようなんだが――なんだが、どうしてそんなに平常でいられるんだよ、オマエら!
特に、キンタロー!! 半分はオマエにも責任あンだぞ!!
ギッと睨みつける俺の視線に気づいたのか、
「そんなに怒るな。今後注意すればいいだろう。」
――って、何、澄ましてんだっ!!
殴ってやりたい衝動に駆られるが、それよりも先に確認しておかなくてはならないことがある。
出来れば知りたくないのだが、それで平然としていられるわけねえ。
「・・・グンマ・・・俺と・・・その、キンタローのことなんだが・・・オマエの他に、気づいているヤツは――。」
このときの俺は、とてつもなく情けない顔をしていることだろう。でも、背に腹は変えられない。
頼むから、コイツだけであって欲しいと藁をも縋る思いが、実に無残にも、最悪の事態であることを直後に知る。
「先刻も言った通りに、シンちゃん、丸見えなんだもん。近くにいる人は粗方気づいているんじゃない?
相手が誰だかわからなくてもさ、ふたりの雰囲気で、何となあ~くって。」
「以心伝心、熟年夫婦って感じだもんね。」と呆気らかんに答える兄が憎い。
いや、元はと言えば迂闊な自身が悪い。それとキンタロー。
ああ、そうさ。誰が悪いわけじゃない――だがな・・・ぎゃーっっ!!
私は貝になりたい・・・。
現実逃避を始めた俺の耳に、最も嫌な事実が。
「お父様も知っているよ。
『子供なんて、大きくなったら親よりも好きな男を選ぶもんだねえ。』って、この前、僕に泣きついてきたもの。」
親父・・・それは娘の場合に使うセリフじゃ・・・。
「そうか。では、マジック伯父貴にきちんと挨拶しないといけないな。こういうことは、けじめが大事だからな。」
天然も、そこまでくれば立派だぜ・・・キンタロー・・・。
全てがどうでもいいと投げやりな気分に陥った俺は、思考を無理やり停止させた。
「シンタロー!?」
「シンちゃん!?」
真っ白い視界の中で呼ばれているようだが、何もかも放棄して、ただただ、この悪夢から逃れる為に、強制的に眠りに落ちていった。
目覚めたときは、見慣れた天井、自分の部屋だった。
「目が覚めたか。」
振ってきた声に首を巡らすと、ベッドサイドに腰掛けた、薄闇の中でも仄かに輝く金髪が目に入った。
「驚いたぞ。急に倒れるから何事かと思ってな。軽い疲労だそうだ。休養をとれば、直に治る。」
「キンタロー・・・今、何時だ?」
「夜の7時を回ったばかりだ。」
げっ。まだ仕事終わってねえよ。今からなら、まだ間に合うな。
もぞもぞと起き出す俺の背に手が添えられる。病人ではないが、こういう気遣いは少し嬉しい。
だが、上半身を起こしきったところで、やんわりと肩を押さえられた。
「決裁のことならば心配しなくていい。俺が済ませておいた。
さすがに総帥でないといけないものは残してあるがな、微々たるものだ。」
コイツは俺の考えを読み取ることが出来る。24年間共にあったのだから、俺の思考パターンがわかるらしい。
それにしても、あの短時間で終わらせたというのか。グンマと一緒にやって来たのは、夕方に差し掛かった時刻だった。
あんなに幼稚な面があっても、仕事となると、その能力は凌駕している。
「そっか・・・サンキュ。」
一安心した俺の目の前に、骨太い指が翳される。ぼんやりと眺めていると、それが横にスライドして暗い視界が幾分明るくなった。
それで、顔に掛かった髪が払われたのだと理解した。
さすがに今は、あのふざけた髪型ではなく、いつもの下ろし髪になっている。指はそのまま身体に沿って髪を撫でながら下りていった。
意識を手放した後は、コイツが運んでくれたのだろうか。あ、グンマかもな。あのバカ力があるから。
しかし、疲労というより、心労だよなあ。
グンマの爆弾発言から時間が経ったおかげで、何とか冷静になれる。
覆水、盆に帰らずで、対処しようにも、もうどうしようもないのだと諦めの境地ができた。
遠くに目線を投げていると、不意に抱き締められた。包み込むように優しく、かといって逃れられるほど緩くはなく。
「根を詰めるな。倒れたときは、どうしようかと思ったぞ。」
肩口に顔を埋めて呟く声。
詰め込みで、こなしていることは認めるが、倒れたのは、それが原因ではない。
原因の半分でもあるこの男に真相を言ってやりたい気もしたが、心底案じている態度に、心に押し留め微笑して答えた。
「ああ、悪かった。」
こちらも腕を回して、広い背中をあやすように叩く。すると、ますます抱く力が増し、その手はゆっくりと上下した。
まるで俺の存在を確かめる如く。
不安――なんだろう。俺にも覚えがある。
コイツの中身と同じ年の頃、父親は絶対の存在だった。今はあんなアーパー親父でも、決して揺るぎなく堂々と立っている。そんな存在だったのだ。
その父が過労で倒れたことがあり、そのときの不安は筆舌できない程。
自分の世界が、自分を支えてくれているものが崩れてしまうと幼心に恐怖したのだ。
『キンちゃんにとって、シンちゃんはお母さんなんだよね。文字通り、シンちゃんから生まれたんだものね。』
いつだったか、そうグンマが比喩するのに、「馬鹿言ってんじゃねえ!」と一蹴したものだが、そうなんだろうなとも、おぼろげに納得した。
まだキンタローの世界は、俺という『母体』から独立できないでいるのだろう。
それでも、これでコイツの精神が安定するのなら、易いものだな――。
気が済むまで好きにさせていたが、ふと思いついた。
「・・・なあ。」
「・・・何だ?」
未だに緩めず動く腕は、撫でるというより髪を梳く状態になっている。それで、思い出したのだが。
「・・・オマエ、俺の髪に触りたいってグンマが言っていたよな? 何で改まって、そう言ったんだ? いつも――今だって触っているだろうが。」
あのときは、その質問をすれば自ずと俺たちの関係を暴露することに繋がる為、敢えて噤んだが、ずっと引っ掛かっていた。
今ここでなら、第三者に聞かれる心配はない。
尤も、先程もそれは杞憂に過ぎなかった。何しろ、第3の男は全てお見通しだったのだから。
そのことで、未練がましくも、ほんの少し溜息を漏らし、返答を待つ。
それが、ある意味墓穴を掘る結果になることとは。
「・・・いつもじゃない。」
小さく、囁きに近い答えが切ない色を含んでいると取れたのは、気のせいだろうか。
「は? 何言ってんだ? そりゃ・・・毎日ってワケじゃねーけど、結構・・・夜には・・・。」
ダメだ。これ以上言えない。如何に濁らせた表現だろうと、内容は、はしたない。
恥ずかしさに言葉を止めた俺を、再びキンタローが否定する。
「夜、だけだ。」
「え?」
「夜だけしか、こうしてオマエを抱き締められない。触れさせてくれない。
昼間少しでも触ろうものなら、オマエは避けるだろう?」
「あっ――!」
――たりめーだ!! 何処で誰が見てんのか、わかんねーんだぞ!
只でさえ、前回(「兄と弟」参照)のことがあンだぞ!
もっと恐ろしくおぞましい噂が立つに決まっているだろーが!!
以上を一気に捲し立ててやろうかと、身じろいで相手の顔を覗き込めば――大型犬がいた。
飼い主の勘気を感じ取って、気落ちしている犬だ。
俺はこの怒りを、大きな大きな溜息に変えて消し去るしかなかった。
「・・・あー、その、何だ。・・・仕事中は拙いけどよ、それ以外なら・・・な。あ、でも人前は止めろよ。」
譲歩しつつも釘を刺すことは忘れない。が、それでもまだ不満らしく、耳が垂れ下がったまま。
どうしろってんだよ! これでも破格の条件なんだぜ!
もうコイツの我儘に付き合ってらんねーよ。甘やかすとつけ上がる、この4歳児に。
子供相手に大人気ないと言いたきゃ、言え。ここで負けてたまるかと、俺は睨みつけ、強固な態度を示した。
すると、
「髪・・・。」
ぽつり零れた単語。
「髪?」
コイツは研究や仕事に関しては雄弁になるが、基本的にボキャブラリーが少ない。それは感情を伝える術が、発展途上である裏付けだ。
鸚鵡返しに問えば、俺の黒髪を一房掴んだ。
「オマエの髪を、毎朝俺に整えさせてくれないか? グンマが上手いと褒めてくれたから、腕は保証済だ。
それくらい、いいだろう?」
グンマの保証・・・ねえ・・・。
何だか怪しげだが、実際に目にした俺も器用なものだと感心した。まあ、ただ梳くだけに、腕も何もありゃしないのだが。
それに、実は俺くらいの長さになると、梳くだけでも結構厄介だったりする。他人にやってもらえれば、有難いといえば、有難い。
「別にいいけどな。あんなふざけた髪型にしないのならな。」
快諾したときのコイツの顔といったら――またあの笑みを浮かべる。
不覚にも見惚れているうちに、視界がゆっくりと動いて――キンタローの背後に天井が見えるんですけど。
「おっ、おいっ!!」
いつの間に乗り上がっているんだ!? つーか、この体勢はっ! って、待て待てっ!!
「俺っ、まだメシ食ってねえっ!!」
「安心しろ。俺もだ。」
何を安心しろってんだよ! こんなときまでテキパキと動きやがって! こらっ、脱がせんなっ!
必死で暴れていると、ぴたりキンタローの手が止まった。
?
不審に思い、見上げたそこには、見捨てないでと訴える犬の目と、ダメ押しの一言。
「嫌か・・・?」
~~~!!
わかっていて、わざと逃げ場のない訊き方してるだろ!!
そう言われて、俺が肯定するわけないと、コイツは確信している。しかもご丁寧に、俺の弱点をついた演技まで入れてやがる。
そこまで読めていながら拒絶できない自分が、恨めしいやら情けないやら。
「・・・痕、つけんなよ?」
意趣返しに今後の最重要事項を突きつけておく。
けれども、
「見えないところなら構わんだろう?」
と言い返してきやがった。
あーもー、生意気だな。自我が目覚める年頃だからな。第一次反抗期ってやつか?
軽く睨んでも、口端は笑みを象ってしまう。これでは効果なしだな。
無駄な抵抗は止め了承の意で瞼を閉じる際に、俺の目は、返すキンタローの微笑みと、ぱたぱたと忙しなく揺れる尻尾を捉えていた。
次の日から、俺に『髪結い亭主』が出来た。
この話は、びぃどろ広場のうりうさほ里さんが描かれた従兄弟マンガが元ネタです。
グンマがキンタローに三つ編みを教えたという内容なのですが、最終的な被害はシンタローへ(笑)
それを見て、ネタが浮かびました。
うりうさん、ありがとうございます~vv
そして、おまけ。その頃の親子
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