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WILLOW PATTERN


 それはもしかすると、夢みた日々……。


 波の打ち寄せる音。夜の海岸。今夜はよく晴れている。
 そこにみんなが集まっていた。自分にとっては、久しぶりに彼らと顔をあわせたことになる。
「なぁ~んで、オラたちまでいなけりゃならねえんだべ。おめ、立場を忘れとるんでねえだか? なあ、トットリ」
「そうだわいや。僕達が刺客だってことを忘れてるんだらぁか?」
 不本意そうに、けれど実はそれなりに嬉しそうに言い募る二人組。彼らは以前からずっと親友同士だ。
「来ておいて何を言ってやがる。仕方ねえだろ、パプワがやりたがったんだ! ギャラリーは多いに越したことはないんだから」
 腰に手を立てて、長い黒髪の青年は二人を見やる。
「おまえらでも、少しはにぎやかしの役には立つからな」
 彼らはぐるりとかつての仲間を見回した。星明かりで随分と明るいから、充分に相手の顔は判別できる。
「言っとくが、今日は諸々の事情は忘れとけ。いいか、今日だけ停戦だぞ! これに乗じて内輪もめなんかしやがったらぶっとばすぜ」
「判っとるべ。何なら生き字引の筆を外すべさ」
 刀剣用の鞘を背負った青年が、ヤシの木の根元にそれを置いた。
「僕はミヤギくんの言うとおりにするっちゃ」
「あのぉー……ところで、シンタローはん」
 自分がその肩に乗せてもらっている青年が、おずおずと呼びかける。その手には、前もって渡された仮面。
「何だよ? アラシヤマ」
「……やっぱりわてがオニなんどすか……?」
「ったりめーだろ。おめー以外に誰がオニをやるんだよ」
 当然、といった顔で、訊ねられた方はあっさりと答えた。
「………。ええんどすええんどす、どうせわてははみだし者なんどす」
 すねた口調が、自分の耳元で聞こえる。
 ふと、月のない夜空を仰ぐ。
 漆黒に近いミッドナイトブルーを埋め尽くす、たくさんの星。その輝き。
 自分がかつて見慣れていたそれは、いつも薄く煙っていて、こんな冴えた夜空など、考えも及ばなかった。これが、本当の星空……。
 圧倒されるような星の群れ。見たことのないその星図はあまりに鮮やかすぎて、恐怖すら覚える。
「――……」
 呑み込まれそうな幻覚に、傍らの青年の髪にきゅっとしがみつく。
「……どうしはりました? ウィローちゃん?」
 左肩にいる自分に、彼は穏やかな眼差しを向けた。手を伸ばし、抱き寄せるように撫でてくれる。柔らかく微笑う彼が、ただ人付き合いに不器用なだけで、本当はとても優しい心の持ち主だということを、自分はずっと前から知っていて……。
「シンタロー! まだか? 早く始めろ!!」
 少年の声が、澄んだ空気に響いた。
「はーいはいはい! んじゃ、始めようぜ。準備はいいか?」
「わーい、豆まき豆まきー。ぼくとチャッピーはいつでもいいぞー」
「オラたちもだべ」
「テヅカくん、ウィローちゃん、どいとっておくれやす。危のうおますよってな」
 言われて、ばさりと羽を広げ、空中に飛び上がった。自分を慕ってくるコウモリと手をつなぎ、みんなを眺める。
 そうだ、自分はこんな風に過ごしたかったのだ。こうやって、もう一度みんなで……。


 ずっと夢みていた日々。遥かな憧れの地。


 南の島のパーティー・ナイト――。




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s1
WEEPING WILLOW


 楽園を、夢みていた。
 崩れてしまった過去。取り残された自分。遠い南の島――そこに喪った日々があるのだろうか。
 ……いつまでもみんなでいたかった。


 名古屋ウィローは総帥室にいた。
 世界最強、という修飾を冠せられることもある、殺し屋集団、ガンマ団。それを統べる、ただひとりの存在が彼の前に座っていた。
「マジック総帥……」
 そうウィローは呼びかけた。マジックは、不敵な笑みを絶やさないまま、両の視線でウィローを射抜く。
「ワシにお話しというのは……?」
 ウィローは問うた。
 ……答えを聞きたくはなかったけれど。
 訊ねるまでもなく、予測はあらかじめついている。次々とここに呼ばれ、去り、そして戻ってこなかった者たち――彼らと同じことを、自分は聞かされることになるのだ。おそらくは付加価値までつけて。
 ウィローには不可能なことを、マジックは命じるのだ――。
「ウィロー副参謀長」
 反射的に身体をこわばらせてしまう。マジックは指を組み、デスクに肘をついた。
「……いや『魔術師・名古屋ウィロー』、君に指令だ」
 その名で呼ばれることは、すなわち暗殺者としての任務を告げられるということだ。ウィローは自分の予想の正しさを悟らざるを得なかった。
「君も知ってのとおり、一昨年シンタローが秘石を奪って逃走した。そして、それを捕えるべく、幾人もの団員がシンタローの逃げ込んだパプワ島に向かった――だが、誰一人として任務に成功して戻っては来ん。島に居つく者まで出る有様だ」
 マジックは一旦言葉を切った。双眸が怪しい光をたゆたわせる。
「……我がガンマ団は脱走も任務の失敗も許さん。脱落者は斃さねばならない――判るな?」
 ウィローは無言のままその言葉を聞いていた。
 マジックはふっと嗤った。冷酷な、高処に立つ者の表情。
「シンタローを殺せ」
 溺愛している息子さえ、彼は縊ることができるのだろうか……?
 マジックは指を組み替えた。
「――ついでに、他の連中も始末してこい」
「しかし……っ!」
「何か不都合でもあるのか? 異議は聞かん」
 弟に逢いたくて、総帥一族の宝である秘石を盗み、脱走したシンタロー。彼と共に今パプワ島にいるはずの、ミヤギ、トットリ、アラシヤマ、コージ……。彼らは皆、かつてウィローと関わりを持っていた者たちだった。
 殺す……?
 彼を? 彼らを……?
「………」
 できるはずがなかった。
 自分の好いている人々。彼は――彼らは、仲間、なのだから。
「君なら、万単位の人間を殺せる毒薬を作ることも簡単だろう。連中に一服盛れば済むことだ」
 マジックは、デスクを挟んで彼の前に立つ部下を直視した。その瞳の力に、ウィローは気圧される。
 射竦められ。ウィローは視線を反らした。
「別に死体はいらん。とにかく確実に彼らを処分してこい」
 ウィローは唇を噛んだ。この部屋に立った時から……否、それより遥か前から知っていた言葉。守ることの能わぬ命令。
「――いいな?」
 念を押すように、マジックはウィローを絶対的な力の差で呪縛する。
 殺す……。
 彼を。彼らを……!
「承知したぎゃ……」
 歯向かうことの不可能な、絶対者の言に、ウィローは首肯した。
「必ず――奴らを仕留めてみせるがや。……絶対……」
 彼のその声は、内心の葛藤を偲ばせる、重くかすれたものだった。


 ウィローは魔法薬の材料を睨みつけた。
 彼に与えられている、慣れ親しんだ本部の研究室。もしかしたら、もう二度とここに戻ることはないかもしれない。
 二律背反の苦しみが、彼の心中でせめぎあっていた。任務を遂行すべきだと、理性が言い募る。そんなことはできないと、感情が反論する。永久機関のように繰り返す思考。
 ウィローは自分が手にかけるべき者たちの顔を思い出していた。
 ――もう二年近くも前、自分が誤って幼児と化してしまったことがあった。それは、まだ皆が揃っていた頃の、誰一人欠けることなど思いもよらなかった頃の記憶。最後の日々……。
『僕が面白いものをあげるっちゃよ。ほら、紙ナプキンで折ったキツネの顔だわいや』
『泣かしちまった詫びに、オラの定食のエビ天、おめにやるべ』
『どうじゃ、遠くまで見えるじゃろ。肩車ぐらい、いつでもしちゃるけん』
『仕方ねぇ、本を読んでやる。でも、ちょっとだけだからなっ!』
『ウィローはん、ちゃんと布団を被りなはれ。そうそう、さあ、一緒に寝まひょなぁ』
 ――――……
 彼らの言葉が蘇る。あの時向けられた皆の本質的な優しさを、ウィローは忘れてはいなかった。
 目を閉じ、幾度かの呼吸ののち開く。その瞬間、意志は定まっていた。
 ウィローは薬の材料を手に取った。
 マジックの命令は絶対だ。だが、自分には彼らを殺すことなどできない。
 ならば――。
「――無力な生物に変えてしまえばいい……」
 低くウィローは呟いた。
 みんなを、何の力も持たない存在に変えてしまえばいいのだ――ほとぼりが醒めるまでの間、彼らを。
 そうすれば誰にも判らない。彼らの存在が消えれば、やがて、追撃者は諦めねばならなくなる。他の誰にも、彼らに手を出させはしない。
 ……それが、ウィローの決意だった。
 時が過ぎて、何があったかさえ忘れられてしまう頃、彼らの変化は解ける。彼らを元の姿に戻す。そして、自分はいつまでもみんなと一緒に暮らすのだ。今は喪われた日々のように。……全てを捨てて。
 ウィローは壺に材料を落とした。まどろむように微笑む。
 みんなで楽しく過ごそう……遠い遠い、ずっと夢みたあの島で。
 とこしえの南国楽園で――。




<4>


 アラシヤマは総帥室の扉の外で深呼吸した。
 ようやくマジックから解放され、一気に憑物が落ちたような気分だった。勿論、たかだか数時間後には会議でもう一度顔をあわせなくてはならないわけだが、とりあえずは自由の身である。
 アラシヤマは、唇の端に滲んだ血を拳でぐいっと拭った。
「――ウィローはん、待ってはるやろな」
 ここからなら、書庫へは、βエリアに移動して第四エレベーターで行くのが最も手っ取り早い。
 しみる傷に僅かに顔をしかめ、アラシヤマはその場を立ち去った。



「……砒素 arsenic、窒素属元素、原子番号三三、原子量七四・九二。天然では硫化物となりやすく、化合物は単体より毒性が強まる……」
 机の上には、カボチャのぬいぐるみ。
 シンタローはウィローを膝の上に乗せ、ページを開いた『最新劇毒物事典・1』を読み上げていた。彼にとっては面白くもなんともない。
 当のウィローは何が楽しいのか、きゃあきゃあ笑いながらシンタローの髪で遊んでいる。
「こら! 引っぱるなっ。コタローはそんなことしねえぞ! おとなしくしてねぇと読んでやらんっ!」
「嫌だぎゃあーっっ!!」
 ウィローは、もみじの手でシンタローの頬をむにっとひっつかんだ。同時に、壁に掛かっていた額縁がシンタローの後頭部をしこたまひっぱたき、またもとの場所に戻った。
「てめえッ!!」
 シンタローが手を引き剥がそうとした時、アラシヤマが閲覧室に入室してきた。
「ウィローはん、おまっとうさんー」
「♪♪♪」
 ぴん、と耳と尻尾を立て――無論比喩である――ウィローはアラシヤマの姿を見て、にこぱっと笑った。
「あれ……? シンタローはん、何であんさんまでおらはるんどす?」
「あのなァ……っ」
 シンタローはウィローを抱いて立ち上がった。保護者が来たことだし、早々に渡して退散してしまうに限る。きゃいきゃいとウィローはシンタローの髪の毛をいじっていた。
「おや、シンタローはんに遊んでもろうとったんどすか、よろしおしたなぁ、ウィローはん」
「違うわっっ!!」
 能天気なアラシヤマの声音に、シンタローは噛みつくように怒鳴った。
「アラシヤマ、お前の目は節穴かっ! これの何処が遊んでやってるように見えるんだよ!」
「……せやけど、そないにウィローはんは楽しそうやし。よう似合うてはりますがな。そうして抱いてはると何やおふくろさんみたいどすわ」
「待てよ、おめー……」
 むにょっ。
 ウィローは満面の笑顔で、シンタローの右耳を掴んでそれを振った。
「でーっ!!」
 手を離し、きゃぱきゃぱと打ち合わせる。少なくともウィローが喜んでいるのだけは事実である。
 ひくひくとシンタローは引きつっていた。我慢の限界だ。
「アラシヤマぁ~~?」
「……何どすか?」
「保護者はお前だったよなァ? こいつを拾ったのはお前、だったよな……?」
 訊ねる声がうねっている。
「そうどす」
 アラシヤマは首肯した。シンタローはずいっとウィローを突き出した。
「……やる。」
「ああッ、そんな、シンタローはん!」
 しっかりウィローの身柄は受け取ってかき抱き、アラシヤマは叫んだ。
「見捨てはるんどすかっ!! 子供には母親が必要どす!」
「誰が母親だ! 誰がッッ!!」
 ごく近い将来、シンタローが南国少年の『お母さん』をやることになるとは、知るはずもない彼らであった。
「うおぉ~~~っ! 男手ひとつで育てろなんて、あんさんは冷たいお人やーっっ!!」
「だから何で俺が母親にならなきゃいけないんだっ! 父親ならまだしも!」
 心なしか会話が脱線しかけている。
「せやかて、わてがお母さんになるよりマシどっしゃろ。シンタローはん、料理得意やし」
「けど、お前の方がぱっと見、母親だぞ?」
 ……完全に脱線していた。
 シンタローは突然はっと息を飲んだ。
 漫才になっていたことに気付いたらしい。彼は拳を振り下ろした。
「とにかくっ! 保護者はお前なんだからな! 責任持って面倒みろよ!!」
 言い捨てて、シンタローは身を翻した。追いすがる間もない。 書庫を出ていきざま、言葉を投げる。
「十五時からの会議、忘れんじゃねえぞ! そいつを連れて出てきやがったらぶん殴るぜ!?」
「……判っとりますがな」
 一拍後、既にシンタローの姿は視界から消えていた。
「やれやれ、気の短いお人や」
 アラシヤマは、ページが開きっぱなしになっている本の置かれた机の方へ近付いた。引かれたままの椅子にウィローごと腰を下ろす。
「さてと、他にも仕事がたてこんどるんで長居はできまへんけど、読書の続きにしまひょかいな?」



 ウィローは自分に与えられている研究室に立っていた。
「……どえりゃあやっとかめみてゃあな気がするなも(すごく久しぶりのような気がするな)」
 ぬいぐるみを机の上に乗せ、彼は半ば無意識に呟いた。
 考えてみれば、一昨日までは、ドクター高松の研究助手を務めるか、稀に軍隊の出征に同行する以外、殆どここに籠もりっきりの生活をしていたのだ。こんなにこの部屋を離れて過ごすことになるとは思いもよらなかった。
 アラシヤマは今、緊急会議中である。そうすぐに終わるものでないことは自分自身経験しているので、ウィローは待ち時間に自分の研究室を訪れたのだった。
 心持ちひんやりした、独特の空気。雰囲気とでも称すべき匂い。やはりここが一番落ち着く。
 高松に、自分が誤って服用してしまった薬の中和薬の調合を依頼したものの、ウィローは相手任せにしておくことができなくなっていた。高松を信用していないわけではない。その反対だ。
 自分自身でも努力しなければ、相手に申し訳が立たない。そうウィローは考えていた。もっとも、無差別にその申し訳を発揮するつもりはさらさらないところが、彼の彼たる部分である。
 そのままでは届かない為、木組みの椅子を使って、一冊の本を取り出す。あちこち擦り切れ、ページをめくるだけでも一苦労のような古書だ。
 ウィローは左綴じのその本の、前から三分の一程のページを開いた。
 ちょうど、魔力を持った薬の作り方の項だ。それらを基に、独自の実験を重ね、彼は新しい薬を生み出していたのである。
 ここでもう一度いくつかの魔法薬を作ってみれば、もしかしたら忘れてしまった中和薬の必要材料と調合法を思い出せるかもしれない。かけらでも記憶を喚び戻すことができれば、あとはそれに則って逆作用に対比させてゆけばなんとかなる。そう思ってのことだった。
 ウィローは本を置いた。軽く目を閉じ、精神を安定させるためにゆっくりと深呼吸する。
「ラゥ・フォルカ・キリア……我、幽幻の現し身にして彼の地を繋ぐ。あまねく在りし者、杳き光纏いし同胞、我が言の葉を請けよ――」
 ウィローは抑揚を絞った声音で唱えた。ふわりと、異種の空気が彼の周囲にまとわりつく。一種の防御のようなものだった。そうしないと背反する魔力の反発を受けることがあるのだ。
 ウィローは材料を手に取った。
「……まずは痺れ薬だぎゃあ」
 一転して、音符を飛ばさんばかりに楽しそうな口調である。
 ヒヨスの汁を水を満たした壷に垂らし、ウィローは乾燥したコウモリの羽根を放りこんだ。
「火にかけて……と。ここで宮きしめんの粉末……」
 一掴み加え、しばらく待つ。ときどき掻き混ぜながら、ウィローは幾度かに分けて粉をふるった。
 どろりとしてきたら八割方できたも同然である。あとは沸騰直前に仕上げだ。
「最後に守口漬……」
 ウィローは切れ端をぽとりと落とした。瞬間的に吹きこぼれそうになった液体は、すぐに鎮まり、代わってぷつぷつとした小さな泡を出しはじめた。
 これで完成である。効力には自信があった。
「水に混ぜてまや、判れせんぎゃあ。何処で使ったろみゃあか(水に混ぜてしまえば判らないぜ。何処で使ってやろうか)」
 何が何でも他人を使って実験したがる性癖は健在であった。はた迷惑、という言葉は、彼の辞書には載ってはいるが塗りつぶされているらしい。とはいえ、師である高松のように、自分に都合の悪い単語を根本的に削除していないだけ、まだましと言うべきだろうか。
 ウィローは壺を火元からおろした。
 今度はトカゲに変えた人間を元の姿に戻す薬だ。対象者がいない以上、実際に作っても材料を無駄にするだけなので、思考シミュレーションするにとどめる。妙なところで名古屋人の倹約性分が出てしまう彼であった。
 ネズミの尻尾を煮立てて、なごやんの皮だけを入れ、火を止める。冷めたら味噌カツの黒焼きを一つまみ。そして仕上げはないろ。
 口の中で復唱する。これも完璧だ。試すまでもなく効果は確実だった。
 ウィローは大きく息をついた。この調子なら大丈夫そうだ。
 己れの作った変化薬の組成をもう一度思い返す。……をちこちとなごやんとゆかりときしめんパイときんさんぎんさんのブロマイドを、カエルの足を『名古屋の水』で煎じたものに入れ、必要成分が抽出されたら、ういろう。それは確かである。
 では、自分が大人に戻るには……?
 をちこちに対比するもの――。
「――……」
 ウィローは言葉を失った。
 何一つ、確かな記憶が出てこない。
「あ……あれ……。おかしいぎゃあ。ワシ、まんだ焦っとるんか……? まっぺん勘考して――」
 声がうわずってかすれる。頭の中が真っ白だった。膝ががくがくと震える。
「………」
 焦りすぎて自分を追いつめたせいで思い出せなかっただけ、のはずなのに。何故まだ記憶が蘇らないのだろう。
「何で……覚えとれせんの……?」
 自失に近いほど茫然と独語し、ウィローは力が抜けたようにしゃがみこんだ。
「……っ!」
 涙がこぼれてくる。抑えたくても止められなかった。
 ウィローは膝を抱え、丸まった形に身体を縮めた。涙の粒が床に跳ねた。
 一切声をたてず、彼は泣いていた。それは、これまでの無遠慮な幼児の泣き喚き方とは正反対に位置していた。
 独りっきりの部屋の中、誰もいないのに、声をおし殺して泣く―。
 それこそが本来の彼の、名古屋ウィローの泣き方であるのかもしれなかった。淋しがり屋の、けれど誰も傍にいてはくれない孤独な子供の涙の流し方。
「……元に戻りてゃあぎゃあー……」
 ほんのわずかに嗚咽の呼吸だけを洩らしながら、ひたすらにウィローは涙を溢れさせていた。



「すっかり遅うなってしもたなぁ」
 アラシヤマはひとりごちた。
 午後九時、一日の仕事を終え、団員宿舎へ戻る途中である。ウィローはアラシヤマにおぶわれていた。
 ぽとりと、ぬいぐるみが落ちる。
「あーあ、あきまへんえ。……ウィローはん?」
 背中のウィローが突然重くなったような気がして、アラシヤマは首を後ろに向けた。
 くー……すぴー……
「なんや、寝てしまいはったんか……」
 ウィローは、アラシヤマに体を預け、無防備に寝入っている。疲れたのらしい。アラシヤマはぬいぐるみを拾い、ウィローを背負い直した。
「それにしても……ウィローはん、いつまでこのまんまなんどっしゃろなぁ……」
 ふと、悪魔の誘惑にかられる。
「いや、待てよ……いっそのこと、ずっと子供のままでもええかも――」
 それなりに苦労は多いだろうが、このままならウィローを完全に自分に懐かせ、友達にすることができる。自分好みに育てることもできるかもしれない。プリンセスメーカー逆バージョンである。
 ……そこまで愛に飢えているのか、アラシヤマ。哀れを誘う思考だった。
「――はっ、あかん! わてはなんちゅうことを考えとるんや」
 アラシヤマはぷるぷると頭を振った。
 幼児化が進行しているとはいえ、中身はあくまで『ガンマ団団員・名古屋ウィロー』なのだ。自分のさもしい考えが通用するはずがなかった。
 彼の不穏な思考回路を知らず、ウィローは安心しきって熟睡していた。
 アラシヤマは小さくため息をつき、宿舎の門扉をくぐった。



 ――ボンッ
 白々と明ける光がカーテンの隙間から漏れてくる研究室で、薄煙が上がった。
「ふっ……ふっふっふっ……」
 高松は満足そうに笑った。丸二日の夜を徹しての実験と調薬の疲れの翳りは微塵もない。
「遂に完成できたか……」
 彼の握り締めた試験管の中で、何色ともつかない液体が小さな泡をたてていた。



 早朝、突然響いたエマージェンシー・コールに、アラシヤマは跳ね起きた。
「……警報!?」
 第二級臨戦警戒警報。いったい何が起こったのか。敵襲でもあったというのだろうか。
 睡魔は一瞬で消し飛んでいた。傍らで眠っていたウィローに目をやる。ウィローは部屋中に響きわたる――全部屋、防音設備は完璧だ――コールに、ぬぼーっと上半身を起こしていた。本人は起きているつもりなのだろうが、身体がついていっていない。
 アラシヤマは素早く身仕度をととのえた。一分の隙もなく、いつでも動ける状態まで、その間百五十秒。だてに何度も実戦の修羅場をくぐり抜けてきたわけではない。
 彼が、まだ目を覚ましきっていないウィローの着替えを手伝ってやろうと手を伸ばしたところで、急に、ぷっつりと音が止まった。
「………?」
 普通なら延々鳴り続ける筈の警報音が途切れたことに不審を抱いて、アラシヤマはドアを開け、廊下の様子を覗いた。
「え?」
 そこには誰もいなかった。何事もなかったかのように、静まり返っている。まだ誰一人身仕度を終えていない、ということではあるまい。他の部屋には警報は鳴らなかったのだ。
「どうゆうことや……?」
 アラシヤマが戸惑って呟いた途端、今度は、各部屋に設置されている電話回線のベルが鳴った。
 ドアを閉め、アラシヤマは四コール目で受話器を取った。
 彼がまだ一言も口を開かないうちに、回線の向こうから聞き覚えのある声が流れ出てきた。
『しっかり目は覚めているようですね。さすがに、今やガンマ団有数の能力の持ち主と呼ばれるようになっているだけのことはありますねー』
「どっ……ド……ドクターッ!?」
 アラシヤマは送話口に向かって叫んでいた。明るい声が肯定してのける。
『そうですよ』
「……まさか……ひょっとして……わての部屋だけにエマージェンシー・コールを流しはったのは……っっ」
『無論、私です。いい目覚ましになったでしょう?』
 受話器を握り締める手に力が篭もる。相手が目の前にいたら、極楽鳥の舞で黒焦げにしてやりたいところだ。目覚まし時計代わりに警戒警報を鳴らすなど、非常識以前の問題だった。
「一体全体何の用どす!」
『御挨拶ですねぇ。わざわざ君に直接連絡をとる必要のある用件なんて、決まっているじゃありませんか』
 アラシヤマは、反射的にウィローを見た。やっと本格的に目を覚ましつつあるらしい。
 受話器の向こうで、高松は声の調子を少し真面目なものに変えた。
『――中和薬ができました。名古屋くんを連れて本部まで来て下さい。そうですね……検診も行ないたいので、私の研究室ではなく、医務室の方にお願いします』
「はいっっ!!」
 力強く、アラシヤマは返事をした。
 通話を切り、ウィローに向き直る。
「ウィローはん、喜びなはれ! 薬が完成したそうどすわ!」
 ウィローはぱちぱちとまばたきした。一瞬、何を言われたのかが判らない。
「……薬……? 中和薬ができたんきゃあも?」
「その通りどす!」
 アラシヤマは、ウィローをぎゅっと抱き締めた。
「ほんまによろしおしたなぁ……」
 腕にすっぽりと納まって、ウィローはむしろぼんやりとした口調でひとりごちる。
「ワシ……本当に元に戻れるんきゃあ……?」
 アラシヤマは手を離し、ウィローを促した。
「さ、支度しまひょ。ぼけっとしとる暇はありまへんえ。本部に行かなあかんのどすよってに」
 ずっとこのままで、と内心願い続けていたアラシヤマにとっては、少し物寂しい思いがなかったと言えば嘘になるだろう。だが、最も良い結末を純粋に祝う気持ちの方が、はるかに多くを占めていたのだった。



「……早かったですね」
 医務室に入ってきたアラシヤマと抱かれたウィローに、高松はゆとりの笑みを見せた。カルテをデスクの上に置く。
 かたわらには、吐きそうな表情の、シャツの胸をさらけだした武者のコージがいた。子供の姿ではない。
「コージはん?」
 アラシヤマはコージをしげしげと眺めた。完成した薬で元に戻れたのだ。
 ちょうど検査を受け終わったところなのだろう。コージは制服のボタンをとめているところだった。時々さすっている手枷の痕が痛々しい。
 アラシヤマは傍に歩み寄り、ウィローを下ろした。あくまで執着するので、ハロウィンカボチャも一緒である。
 ウィローはぬいぐるみを両手で抱えて高松を見た。
「ドクター……」
 高松は微笑み、杯ほどの小さなコップを差し出した。そこに陽炎のように揺らめく薬が満たされていた。
「試作薬No.9……これが頼まれていた中和薬です。やっとできましたよ、名古屋くん」
 ウィローは左手で薬を受け取った。高松が自信を持って渡す以上は、危険性は殆どないはずだ。
「これが……中和薬……」
 容器の中味を見つめる。甘い香りのする液体にウィローは口を付けた。
 こっくんっ
 ウィローは薬を飲み込んだ。これで全てが終わるのだ――これで……。
 瞳に映る世界が瞬間的に揺らいだ。
 高松達が息を詰めて自分に視線を向けているのが判る。彼らの姿が閃光の中に融けた。
「………・」
 ――ぽんっ
 煙がウィローの全身を霞のように取り巻いた。
 薄煙が拡散した時、発生の中心にいたウィローは、床に膝をついていた。
「ウィローはん!」
 アラシヤマの感極まった声。ウィローは自分の身体を眺めまわした。まとったマント。上衣の袖。スラックスの裾。布地が余りすぎていたはずの自分の服は、身ごろ幅以外正寸だ。
 ウィローは恐る恐る立ち上がった。目線の高さが違う。そうだ、これは本当の自分がいつも目にしていた視界……。
「戻っ……た?」
 同席者を見回したウィローは、飛び跳ねんばかりになって声を上げた。
「ワシ、元に戻れたんだぎゃあーっ!!」
 ウィローは高松に目を止め、その手を握り締めた。
「ドクターのおかげだがや! どんだけ感謝しても足りーせんくりゃあだて! ワシ……ワシ……っっ!!」
「どういたしまして」
 高松はにっこりと微笑した。嫌味な嗤いではない。信頼している相手の礼を受けとめる笑い方だった。アラシヤマはすっとウィローの肩に手を置いた。
「よろしおしたな」
 いささか見上げる位置から、ウィローはアラシヤマを見た。破顔する。
「おみゃあさんにもえれえ世話になってまったなも」
 高松はウィローのカルテを引き出し、ボールペンの後ろ側でとんとんと叩いた。再検査の前に聞いておかねばならないことがある。
「さて……。名古屋くん、中和薬の調合の仕方、思い出しましたか?」
 言われて、ウィローは一瞬目を細めた。この薬の組成は――。 頭の中にかかったままだった靄が晴れていた。
「……イモリの舌を煎じて、千なりときよめ餅とかしわとダイナゴンとわかしゃち国体のメモパッドを加えて、ないろを仕上げに一切れ入れるんだがや」
「う……っ」
 原料名を聞いた瞬間、コージは屈み込んで口を押さえた。飲んだ薬の異様な甘さの正体はこれだったのだ。急激に嘔吐感がよみがえる。
「ぐ……」
 コージはよれよれと洗面台の方に這っていった。アラシヤマは下からくぐらせるようにして肩を貸し、連れていってやった。
「大丈夫どすか、コージはん」
 アラシヤマは、洗面台に突っ伏して吐いているコージの背中をゆるく撫でさすった。
「……げ……」
「コージはん……気持ちは判るんどすけど、少し我慢した方がええのとちゃいますやろか……。あんまりもどすと、その――薬の効果が……」
 コージはぴたりと動きを止めた。
「………」
 襲い来る吐き気を懸命にこらえ、コージは肩で息をしていた。アラシヤマはずっと背中をさすってやっている。
 最初からコージのことなど眼中にないらしい高松は、ウィローの返答に満足気に頷いた。彼自身はそのものを使ったわけではなく、成分合成したのだが。
「記憶も戻ったようですね。では、問診を行いましょうか。椅子に腰掛けてらっしゃい」
「判ったがや。……あ、待ってちょー」
 ウィローは床に落ちたぬいぐるみを見やった。静かに拾い上げる。笑っているカボチャの顔をしばし注視していたウィローは、小さく微笑んだ。
 彼はアラシヤマの前に立った。
「……返すぎゃ」
 ようやく吐き気の治まったらしいコージから手を離し、アラシヤマは首を振った。
「ええんどす。あんさんにあげますわ」
「そうじゃ、もらっとけ。他人の好意は素直に受けるものじゃけんのー」
 まだ少し顔色は悪いが、普段の声調でコージは同意した。
「ほんじゃ、受け取らせてまうわ(それじゃ、受け取らせてもらうよ)」
 ウィローはにこっと笑った。その表情は、子供になっていた間を彷彿させるものだった。アラシヤマは腕の中に抱いていた幼いウィローの面影を見たように思った。
 ウィローはマントを翻し、高松のもとに引き返した。
 もう自分の『保護』はいらない。アラシヤマはコージと連れ立って医務室の扉の方に向かいかけた。
 その耳に、浮き立ったウィローと高松の不穏な会話が飛び込んでくる。
「……おかげで元に戻れたがや。これで安心して新しい薬を作れるぎゃあ 」
「そうですか、私もなかなか楽しませていただきましたよ。近いうちに二人で共同して新薬開発にあたってみましょうか?」
「そらええ考えだなも。今から歯が鳴るて(今から待ちどおしいよ)」
「本当に楽しみですねぇ♪」
「作ろみゃあ、作ろみゃあ♪」
 ぷつりとアラシヤマの神経の糸が切れた。アラシヤマは燃え盛らんばかりの勢いで怒鳴った。
「まーだ懲りとらんのどすか、あんさんはーっっ!!」
 こうして、さまざまな思い出を残して、ちび騒ぎの二日半はそこそこ大団円に幕を閉じたのだった。
 そう、一部の例外を残して……。


 その頃、高松の研究室では例外が肩を寄せ合っていた。
 トットリとミヤギは囚われたまま泣き叫んだ。
「それにしても……僕達……」
「いつになったら元に戻れるんだべーッッ!!」
 二人の叫びは部屋にこだまし、虚しく消えた――。


<3>

 カチャカタ チャカ
 パサッ ガタン カタ……ピィーッ
「んー……」
 ウィローは音と限局性の灯りに薄目を開けた。
 深夜三時――
 大騒ぎの一日が過ぎ、その夜、ガンマ団の団員宿舎でのことである。ウィローがいるのはアラシヤマの部屋のベッドだ。本来は二人部屋なのだが、人数の都合と、誰も同室希望を出さないという二点に於いてアラシヤマは個室扱いとなっていたから、他人の邪魔にはならない。
 先だってアラシヤマはウィローに夜は自室に戻るよう勧めたのだが、必要なものだけ取ってくると、アラシヤマの部屋に強引にウィローは居据わったのだった。
「うにゃ……?」
 ウィローは寝ぼけまなこをこすりこすり、むくりと起き上がった。抱えている、枕にもなりそうな大きなジャック・オ・ランタン――ハロウィンカボチャのぬいぐるみは、何故かアラシヤマの所有物である。今年のガンマ団新年パーティーで引き当てたのだ。捨てるわけにもいかず、部屋の置物になっていたのだった。
「な……に?」
 アラシヤマは備え付けのライティングデスクに向かい、真剣な顔をしている。
 袖と裾を何重にもまくりあげたパジャマ――自前である――姿のウィローは、制服の襟元のボタンを二つほど外しただけで昼間と変わらぬ格好のアラシヤマをぽやーっと見やった。
「起こしてしもたんか。堪忍してや。まだ寝とってええんどすよ」
「何しとりゃあすの?」
「……報告書の作成どす。提出するはずやった書類が水浸しになってしまいよったんでな。バックアップデータは完成の時点で破棄する規則やし、一から打ち直しどすわ」
 まだ半分眠っているウィローに律儀に答えながら、アラシヤマはノートパソコンのキーを叩いた。
「まあ、フォーマットも文章も、今あるとおりに写せばいいだけましどすけど――、……ああ、まちごうたっ」
 決してできないわけでも性に合っていないわけでもないが、日頃戦場を飛び回っているアラシヤマにとって、こういった事務系の入力作業は勝手が違う。時々不意に押すべきキーの場所を見失ったり、罫線を引き損ねたりの連続で四苦八苦することになるのだった。
 おまけに内容が出征に際してのものであるから、余計に気が重くならざるを得ない。実感を伴わない単なる数字で表されてゆく出兵費用、損害額、そして敵味方の戦死者・負傷者数……。
 彼が自ら手を下した敵兵。血の泥濘の中でこときれていた幾人もの部下。……記憶はあまりにも鮮明であるのに、その結果はただの数字に置き換えられてしまうのだ。
 ガンマ団に籍を置いている者にとって、例外なく、戦闘は空気と同じで……。戦うことは簡単だったけれど、そこに隠れている部分に目をつぶることはアラシヤマにはできなかった。
「第二中隊生還率八七パーセント……うち軽傷者数……。げ、また打ち間違いや」
 アラシヤマは舌打ちして削除キーを押した。途端に、どう失敗したものか、三行分ばかり一気に消してしまう。
「わーっ!!」
 悪戦苦闘するアラシヤマの背中を、ようやく覚醒したらしいウィローはあきれ顔で眺めていた。
「とろくせゃあ……(ばかばかしい……)。ほんなことでは朝までかかっても終われせんがや」
 アラシヤマはくるりと振り向いた。
「慣れとらんのどす!」
「……だったら部下にやらせやええが。どうせそれを作ったのはおみゃあでねゃあんだろ?」
 その言葉に、アラシヤマの脳裏に、いつも二人一組で行動している凸凹コンビ、中村と南が浮かぶ。この書類の作成担当は彼らの筈だ。
「濡らしたのはわての責任どす。関係ないものをやり直しさせられしまへん」
 ウィローは姿勢を変え、机の上のバックライト液晶画面に目をやった。
「しゃあねゃあな。ワシが手伝ったろみゃあか」
「はぁ?」
 ウィローはベッドから降り、アラシヤマの傍まで行った。
「その水浸しにはワシも噛んどるぎゃあ。関係者が手を貸すのはええんだろ?」
 アラシヤマの発言を逆手に取ったウィローであった。
「退きゃあ。打ち込みしたるでよ」
 アラシヤマは不得要領なまま、言われたとおり椅子から離れた。ウィローはよじ登るようにその椅子に腰掛ける。
「でも、ウィローはん、あんさん、キー打ちできるんでっか……?」
 ウィローは気分を害した様子で、発言者をはすに睨んだ。
「打てるに決まっとるがや。おみゃあさんたらあと一緒にしやあすな(お前達と一緒にするなよ)」
 おそらくはコージたちも含めているらしい複数形で、ウィローはアラシヤマに文句をつけた。せっかく親切心を出してやったものを、技術に疑いを持たれて嬉しい筈がない。
「せやけど……」
「まあ、見とりゃあ。……あ、書類の内容を読むのは許いたってちょ」
「それは構えしまへんけど……今更どすし」
 ウィローはパソコンの表示画面に視線を戻した。小さな手ゆえにキーのカバー範囲がいささか苦しそうな感はあるが、両手をホームポジションに置く。
 画面と、キーボードの左側に置かれている皺が寄って反り返った報告書を交互に瞳に映しながら、ウィローは的確に文書を入力していった。キーボードなど殆ど見ていない。
 それこそ魔法のようにウィローの指が動くのを、アラシヤマは感嘆の眼差しで見やった。
「すごいもんどすな……。ウィローはんにこないな特技があらはったなんて知りまへんどしたわ」
 別に得意げな表情を浮かべるでもなく、ウィローは一段落打ち終えたところで一旦手を止め、返事をした。
「特技のわけあらすか。これくりゃあできねゃあようでは、作戦案が立てれーせんて(特技のわけあるかよ。これくらいできないようでは、作戦案が立てられないぞ)」
 言われてみればそうである。大抵の場合は本部に残ったまま己れの研究に没頭しているとはいえ、一応、立場上は軍の参謀なのだ。出兵計画や細部の作戦など、文書の形で作成し上層部に提出したことの一度や二度ないはずがなかった。得体の知れない魔術を執り行っている印象が強すぎて、ウィローの役職を忘れていたアラシヤマであった。
 ウィローは書類のページを繰り、再び入力作業を開始した。背後に立ってそれを見物していたアラシヤマに、彼は鋭い言葉を投げた。
「邪魔だぎゃ。離れとってちょーすか(離れていてくれ)」
「はいはい……」
 部屋の主はすごすごとベッド脇に引き下がった。
 しかし、結構生真面目なところのあるアラシヤマは、自分がすべき仕事を他人にさせていることに申し訳なさを感じていた。まして、『子供の夜更かし』を奨励する気にはなれない。
「……けど、ウィローはん、三時半になったら寝とくれやす。あとはわてがやりますよってに」
「ワシが全部やったるぎゃあ。おみゃあに任いたるとほんとに終わりそうもねゃあで」
「ええんどす。今日――もうとうに昨日どすな――はいろいろあって疲れはったやろ? よう眠らなあきまへんわ。中途半端に起こしてしまってすんまへん」
「別にもう眠くねゃあわ」
「駄目どす!」
 アラシヤマが語気を強める。ウィローは不承不承といった雰囲気で頷いた。これだけは譲ってもらえそうもない。ならばそれまでに一行でも多く打ち込んでおこうと、彼はキーボードに神経を集中した。



 一方その頃――
「うーむ……やはり不確定要素が多いか」
「ドクターっ!」
 高松は、ウィローから受け取った薬と試験管の中の試作薬No.1の分析結果を注視していた。そこにかぶさるもはや悲鳴のような声音に、彼は声の主をじろりと横目で見た。
「何です、夜中に。寝ていればいいものを」
 視線の先に、子供に変えられた三人がいた。
「寝られるわけねぇべ! この鎖を外してけろ!!」
「なんで手枷足枷を付けるんじゃッ」
「これじゃ監禁みたいだわいや!」
 鎖をじゃらじゃら鳴らす彼らに、高松はうざったいと言わんばかりの表情で言葉を返した。
「みたいじゃなくて監禁してるんですよ」
 高松はデータ用紙を机上に置き、かすかに椅子にきしみをたてさせて向きなおった。
「そうでもしなきゃ逃げだすでしょうが、あんたら。……私は捕えた獲物はのがさない主義です」
 すっと、試験管を手に取り、椅子から立ち上がる。
「さて、と。どうデータを見ても失敗作ですが……せっかく三人とも起きていることですし、一応試してあげましょうか」
 無駄な抵抗とは知りつつも、歩み寄る高松から逃れようと、コージたちは後ずさった。ぴん、と、つながれた鎖が一杯に引っ張られる。
「まっ……待っちゃりい!」
「僕は飲みたくないっちゃー!」
「オラは嫌だべッッ!」
 真っ青になっている、自分の遥か後輩を、高松は却って優しいほどの目付きで眺め回した。
「遠慮しなくてもいいんですよ。さあ、誰に第一号の栄誉を担ってもらいましょうかねぇ……ふっふっふっふっ……」
 その十秒後、高松の研究室から、この世のものとも思えない叫び声が響き渡った――。


 午前三時五十分、机についていたアラシヤマは指を組み合わせて身体を伸ばし、己れのベッドを振り返った。
 ぬいぐるみを大事そうに抱え、ウィローは完全に眠りに落ちている。
 アラシヤマは満足気な吐息を残し、パソコン画面に再度目を戻した――。



「……まだ眠いぎゃあ……」
 ウィローはぽてぽてとアラシヤマの数歩前を歩いていた。よほど気に入ったのか、ぬいぐるみのカボチャを離さずに引きずっている。
「せやから、寝とって構えへんて言いましたやろ? 帰ってもええんどすよ?」
 事情が事情であるから、別にウィロー自身はガンマ団本部に出てこなくても許されるのだが、アラシヤマの出勤に彼はくっついてきたのだった。
「やーっ! ワシはおみゃあさんとおりてゃあんだぎゃあ」
 アラシヤマは結局完徹だったのだが、特に眠そうでもない。徹夜には慣れているのだ。むしろ一日二日の徹夜で寝不足を訴える者の方が少ない。
「やれやれ……」
 アラシヤマは右目を覆う前髪を手櫛で軽く後ろに流した。
 ぽてぽてぽ……ずるっ
 そういう擬音を伴って、前にいたウィローが転ぶ。履いていたブーツが脱げてしまったのである。
「~~~っっ……」
 床にうつぶせになって、ウィローは行き場のない怒りを循環させていた。
 アラシヤマはさもありなんと言いたげな表情で、ウィローを起こしてやった。ウィローのアラシヤマを見返す瞳がじんわり潤んでいる。
「やっぱりわてが抱いとった方がよろしおすなァ……」
 呟いて、アラシヤマはひょいっとウィローを抱え上げた。前日ずっと抱いていたこともあり、すっかりだっこに馴染んでしまった彼であった。ウィローはぬいぐるみごとおとなしく抱かれている。
「それにしても……。その恰好のままでは、歩くに歩けまへんわな。ウィローはんに合ったサイズの服があればええんどすけど……」
 いくら何でも子供の頃の衣服を未だに保管してあるわけもなく、ウィローはいつもの自前の魔法使いルックである。アラシヤマは寸法を直してやろうとしたのだが、マントから何から、それ自体に魔力を宿しているという、服の持ち主の強硬な反対に遭い、断念せざるをえなかったのだった。
「……とにかく報告書を届けんとあかんな。はよ総帥室に行かんと。ウィローはん、この封筒を持っとってや」
「任いてちょ」
 アラシヤマは両手でウィローを強く抱きかかえ、早足で歩きだした。
 彼らの通る先、何か恐ろしいものでもやってきたかのように、団員たちは皆、通路の端にへばりついて避けまくってゆく。まるでウィローとアラシヤマの全身に犬猫忌避剤でも振り撒かれていたかのような、見事な避けっぷりである。
 前日一日で彼らの脅威は知れ渡っていた。あえて余計な面倒ごとに巻き込まれたくないと思う気持ちは判らないでもない。
 邪魔をする→アラシヤマが怒る→黒焦げ
 ウィローが泣く→騒霊現象→直撃で昏倒
 ……そのいずれか一方、ないし両方が己れを襲う可能性があるとなれば、さわらぬ神に祟りなしを決め込みたいのも無理もなかろう。世界最強の殺し屋集団といえど、構成員も所詮人の子である。
 まるで海を二つに割ったモーゼのように開かれてゆく道を、ウィローを抱えたアラシヤマは鉄面皮のまま歩き過ぎていった。
 総帥室のあるエリア――各ブロックごとにいざという時には隔壁が下りるようになっているのだ――まで来たところで、不意にアラシヤマは後頭部をはたかれた。
「おい!」
「なっ……?」
 アラシヤマは力の加わった方面をキッと向いた。
「何をしはりますのん!」
 凶器らしい分厚いファイルを掴んだ黒髪の若い男が、左手を腰に当て、面白くもなさそうな顔で立っている。
「わては急いで――……シンタローはん!」
 見返していたのは総帥の長男であるシンタローだった。軍のナンバー2であるアラシヤマに唯一能力的に勝る人間――彼以外に、報復措置を気にせずアラシヤマに手を出せる存在がいる筈もなかった。
 シンタローはアラシヤマも含めてウィローを一瞥した。
「こいつがグンマが言ってた奴かよ」
「……珍しゅうおますな……」
 二重の意味でアラシヤマは独語した。
 一つは、存在そのものを無視することはあっても、シンタローがアラシヤマに声をかけるなど日頃はありえないということ。もう一つは――。
 父親であるマジックと半ば断絶状況にあるシンタローが、この辺りにいることはまずないということ。よほどのことでもなくては近付こうとはしないのだから。
 シンタローは敏感に双方の意味を感じ取ったらしい。
「けっ! うっせーよ。誰が好きでこんなところにいるかよっ。第一、用がなきゃてめぇなんざと関わりゃしねえ! ……十五時から、総帥直々に出席の緊急会議だ。九階第一会議室! 遅れたら減俸ものだぜ!」
 神妙にアラシヤマは頷いた。やけにシンタローの虫の居所が悪い理由がなんとなく推察できる。シンタローは、ウィローがぬいぐるみと一緒に大切そうに持っている報告書の封筒に目を止め、付け加えた。
「それと! ついでだから……あくまでついでだからな! 教えておいてやる。親……マジックが、未提出書類があるってんで、青スジ山程立てながらやたらめったらニコニコしてたぞ。せいぜい覚悟しとけよ」
 ざーっとアラシヤマの顔から血の気が失せた。
「うわー……」
 やばいなどというものではない。人間、一見機嫌が良さそうに思える時ほどえてして怖いのだ。マジックの秘められた怒りの程度が想像できる。
 がっくりと肩を落としたアラシヤマの頭を、ウィローはぽちゃっとした手で慰めるように撫でた。
 シンタローは言うだけ言っておいて、ズカズカと歩み去りかけた。逆行しようとしたアラシヤマは、そこでふと思いついた。その頭上に白熱電球が点灯する。古典的手法である。
「……そうや、シンタローはん!」
「何だよ!?」
 長居は無用とばかりに遠のきつつあったシンタローは、足を止め、自分を呼んだ者を睨んだ。
「あんさん、子供服って持ってはりまへんか?」
「子供服ぅ~?」
「そうどす。ウィローはんに着せてやりとうおましてな」
 シンタローは呆れたようにアラシヤマを見る。
「お前……俺がガキの頃の服をいつまでも保存してあるとでも思ってんじゃねえだろうな。とうの昔に捨てたぜ、そんな物」
「そうやあらしまへん! 弟さんのとか……手に入るんとちゃうかと思っただけどす。ウィローはんとそんなにサイズは変わらんやろし……。少々大きめなのの都合がつきまへんやろか」
 アラシヤマは腕の中にいるウィローと、自分の上位に立つ人間を見比べた。シンタローの表情に戸惑いが見え隠れする。
「コタローのか?」
 シンタローは困惑をにじませて呟いた。
「そりゃ……なくはないけど……」
 現在進行形で兄弟一緒に暮らしている、というならともかく、別離させられた弟の服を大事にとってある辺り、筋金入りのブラコン兄貴だ。それを見越して訊ねるアラシヤマもアラシヤマである。
「だけど、何でおめーに……」
 溺愛している弟、コタローの想い出の品を、シンタローがそう簡単に渡すはずがないのは、予測の内だ。アラシヤマは下手に出た。
「あんさんの大事なもんを借りようなんて、無理は承知の上どす。せやけど、ここは一つ、うんと言うてもらえまへんか」
 よしッ、もう一押し!
 妙に口車の発達している奴であった。独りぼっちの自分の部屋で鏡を相手に話し込んでいるという噂は、誇張こそあれ、あながち嘘ではないらしい。
「……コタロー……の―? でも……コタロー……」
 弟の名を繰り返すシンタローの目付きがいつのまにかどっかりと胡坐をかいていた。いや、体操座りか、はたまた横座りかもしれない。
「シンタロー、はん?」
「うおおぉぉ~~~ッツッ!! コタローッッ!!!」
 吠えるようなシンタローの声がフロアにこだました。
「コタロォー! お兄ちゃんは……お兄ちゃんはっ!」
「あ~……あのー、シンタローはん……」
「待ってろ!! お兄ちゃん、いつかきっとお前を迎えにいくからなーっっ!! ざけんな、クソ親父ッ!!」
 もはやあっちの世界の人だ。アラシヤマは頭を抱えてうずくまりたい衝動にかられた。
「……あかんわ、こりゃ」
 くるぅりと方向転換して、アラシヤマは本来の目的地をめざした。
「行きまひょか、ウィローはん……」
 立ち去るアラシヤマとウィローの背後で、シンタローの叫びが壁に響き渡っていた。
 総帥室の前で、アラシヤマはウィローを降ろした。
「なるだけ早う出てくるつもりどすけど、ちょっと時間がかかるかもしれまへんな……」
 マジックの怒りの度合いによっては、延々お説教か、場合によっては厳罰を食らわなくてはならないかもしれない。ウィローにここでじっと待たせるのは酷だ。
「行き先さえはっきりしとれば、どっかで遊んどってもええどすえ」
「だったら、ワシ、書庫に行っとるぎゃあ。ちーと読みてゃあ新刊が入っとるでよ」
「そうどすか。じゃあ、わてが送って――いく余裕はあらしまへんどしたな……」
 この期に及んでウィローの足代わりを務めようという辺り、一日で完全に保護者が染みついてしまったらしい。
「書庫で待っとっておくんなはれ。あとで迎えに行きますよってな」
「判ったぎゃ」
 扉の前を衛る、マジック直属の団員に敬礼し、アラシヤマは入室した。ウィローは小首を傾げて、保護者の消えた扉を眺めやっていた。
 それからウィローはぬいぐるみのカボチャと自分のマントで半分床掃除しながら図書閲覧室へむかった。



「……では、No.4にいってみましょうかね」
 高松は焦茶色の液体の入った試験管を揺すった。彼の前には目を白黒させながらぐったりと座り込んでいる被験体がいた。
「どうしました、三人とも。今はおやすみの時間じゃありませんよ」
「……き……気違い科学者だべ……」
 丸一日でげっそりとやつれたミヤギの独り言に、高松はきらりと目を光らせた。
「何か言いましたか?」
 ぶんぶんぶんっ
 ミヤギは脳みそが遠心分離器に掛かったのと同じ状態になるのでは、というほど頭を振った。ただでさえ憔悴しているところへやったために、目を回してぐらぁりと倒れかける。
「空耳とは思えませんでしたがね。……どうせですから君に飲ませてあげましょう。運が良ければ元の姿に戻れますよ。まあ、十中八九無理でしょうけど」
 判っているなら飲まさなければいいようなものだが、これもより完璧な中和薬を完成させるための大事なデータサンプル――もしくは単なる趣味であった。このバイタリティーは一体何処からくるのか。
 高松はミヤギの顎を掴み、強引に薬を流し込んだ。
「うぎゃらべれぬだげ~~~っ」
 日本語になっていない叫び声をあげて、ばったりとミヤギはぶっ倒れた。すぐ後ろにいたトットリが下敷きになる。
「おや、気絶してしまいましたねぇ。軟弱な。もう少し試し甲斐のある人間だと思っていたのに」
 コージはひくりと引きつりながら、逃げ腰に移動した。武士の誇りも何も、生きていればこそである。じゃらりと枷につながっている鎖が鳴った。
「たーか松っ」
 研究室のドアを開けた隙間から、淡い金髪を下の方で結わえた若者がひょこりと顔を覗かせる。ただ一人、この部屋に無許可で立ち入ることのできる人間だ。
「グンマ様」
 グンマは中に入ってきた。
「調子はどう? あまり無理しないでね」
「大丈夫ですとも♪ グンマ様に気遣っていただけるとは、光栄の至り」
「何言ってるのさ! ぼくが高松を心配するのは当然のことじゃないか♪♪」
「ああ、なんとお優しい……この高松、グンマ様を誠心誠意お育て申し上げた甲斐があったというものです」
 今の今まで地獄の使いのような嗤いをミヤギたちに向けていたくせに、高松はころりと態度を変えていた。『グンマオタクの変態科学者』の名がまかり通る所以である。
 取り敢えずコージの危機は先に延ばされたようだった。



 昨日独りでうろついていた時には不安が先立って、とても周囲を見る余裕がなかったのだが、いざ落ち着いてみると、この視界レベルというのもそれはそれで滅多にできない体験かもしれない、とウィローは考えた。既に開き直りの境地だった。
 すっ転ぶのは判りきっていたから、歩調はさして早くはない。ウィローは相変わらず通行者に自主的に道をあけさせながら、進んでいった。
 階段を一段ずつ昇る。ごく幼い子供がよくやる、一段ごとに両足で立つ昇り方である。
 踊り場までもうあと数段、というところで、
「わっ……」
 ぐらりと、ウィローの身体が後ろにかしぐ。
 子供というのは頭が重いので、重心が後方にかかりがちなのだ。幼児が急な階段の昇降を四つんばいですることがあるのは、転げ落ちないための自然の知恵である。もっとも、幼い頃さんざん落っこちたせいで、いい齢をして未だに、家庭内の階段は両手をつかないと昇れない筆者のようなトンマも時にはいるが、そういうのは例外にしておいてもらいたい。
「危ないっ!!」
 空中を自由落下しかけたウィローを、がしっと抱き止めた腕があった。
 目をぱちくりさせて、ウィローは救い主を仰ぎ見た。落ちながらもぬいぐるみを手放さなかったのはいっそ称賛に値するかもしれない。
「大丈夫かよ?」
 いつの間にあっちの世界から帰ってきたものか、シンタローが抱いたウィローを見下ろしていた。ウィローはシンタローの顔を直視した。
「………」
 息を詰めて、じぃっと見つめる。あまりにまっすぐな視線を向けられて、シンタローは眉間に皺を寄せた。
「何だよ!? 別にどこか打ったわけでもねえだろ」
 こっくん。
 ウィローは肯定した。その無防備な表情に、シンタローは軽く舌打ちの音を立てた。たとえ中身が何歳であれ、『子供』には弱い。
「ちっ、仕方ねぇ。また上から降ってこられても困るから連れていってやる。お前、何処に行くつもりなんだ? ……誤解するなよ! 俺は別に親切で言ってるわけじゃねえからな!」
「書庫だがや」
「図書室? ……なんだ、すぐそこじゃねえか」
 シンタローは片手でウィローを肩にかつぎ上げ、二段跳ばしで階段を上っていった。
「おもしれーぎゃあっ」
 ウィローは歓声をあげた。アラシヤマの壊れ物を扱うような抱き方も甘えられて好きだが、幾分乱暴なシンタローの動作も遊園地で遊んでいるような気分で結構楽しい。
「だーっ! 静かにしてろ! 地上まで投げ落とすぞ!!」
 シンタローは怒鳴った。びっくりしたように、ウィローがひゅっと息を飲む。
「ぶっ殺されてぇのかッ!!」
「う……うぇっ……」
 脅し文句に、ウィローはたちまち泣きだしそうに顔をぐしゃぐしゃにした。
「ふ……うぅ……ぴえぇ……」
 爆発寸前の嗚咽。
 景気よくウィローが泣き落とし戦法に出かけた時、肩に引っ掛けた彼をシンタローは慌てて揺さぶった。
「わーーっっ!! 泣くんじゃねぇ!」
 泣かれては分が悪い。焦った様子でシンタローはウィローをあやした。目線を合わせる。
「ほっ……ほーら、もうすぐ閲覧室だぞー! そうだ、俺が本を読んでやる! なっ!?」
「……ひゅぐっ……おぶおぶ」
 ぬいぐるみを抱えていない右手の指をくわえて、ウィローは涙をいっぱいにためた目でシンタローを見た。
「よーし! 行くぜ」
 シンタローは、一旦停止していた踊り場から更に階段を昇りだした。これを上がれば書庫フロアだ。
「いいか、男ってのはそう簡単に泣いちゃいけねぇんだぞ」
 誰に言うともなくシンタローは呟いた。
 ウィローはぽふっとジャック・オ・ランタンの目鼻の部分に顔をうずめた。いつも笑っているカボチャとにらめっこ、である。
 シンタローは最後の段差を三段跳ばしで飛び上がり、曲がり角を折れた。子供の扱いにはたけているガンマ団ナンバー1であった。
「ほれ! 着いたぞ」
 図書閲覧室内に足を踏み入れる。
 ウィローは身をよじり、シンタローの腕の中からぴょいっと飛び降りた。
 ……ずべしゃっ
 バランスを崩して、ウィローは、そのまま床に顔面衝突した。めりこまなかっただけ幸運である。
「をい?」
「うー……」
 ウィローはむくっと身を起こした。ぶつけた鼻の頭が赤い。
「ったく、マジに運動神経未発達なヤローだな。気をつけろ」
 ウィローの両脇の下を支えてぶら下げ、つかつかと机の方に近付いて、シンタローはそのお荷物を椅子に乗せた。転がっていたぬいぐるみを拾い、ウィローの膝の上に置いてやる。
「……で? 何を読みたいんだ? 絵本か?」
 果たして絵本がガンマ団に存在するかどうかは謎である。
「おみゃあさん、たーけたことこいてかんわ! 最新劇毒物事典だぎゃあ」
「あ……あぁ、そう……」
「それと『続・簡単に造れる中性子爆弾』が先週入っとるはずだでよ」
 がんっと、シンタローの顎が落ちる。
「そんな本読んでんじゃねェッッ!!」
 そんな本入れてんじゃねェッッ!! 思わずそうつっこみたくなるのは筆者だけだろうか。いやない(反語)。
 さすがに殺しのプロが集結する組織、本の品揃えも普通ではなかった。もっともそれ以前に、よくそんな本が発行可能だったものである。
「子供は子供らしく、素直におとぎ話とかのりもの図鑑とか見てろ! コタローは童話が好きだぞ!?」
「……ワシの勝手だがや」
 シンタローはこめかみを押さえた。無意識に弟の残像とウィローをすり替えていた彼にとっては、由々しき事態だった。
「俺……帰ろうかな」
 シンタローは背を向けた。
 一歩目を床に降ろす前に、無造作に束ねた黒髪が、ぎゅん、とひっぱられる。
「いてっ!」
 存外強い力に、シンタローは仰け反った。ウィローは掴んだ頭髪をあくまで離さない。
「……判ったよっ!」
 苦虫を噛みつぶしたような顔で、シンタローは吐き捨てた。シンタローのついた諦めのため息は、ケルマデック海溝最深部一万とんで四十七メートル級のものであった。




<2>

高松はふぅっと息を吐き出した。
「もう起きて結構ですよ」
 ウィローは検査台から身を起こした。頭をぷるぷると振る。
「……こんなもん、長ゃあこと受けとらんかったがや。ちーとびっくりこいてまったて」
「そうですね。年二回の総合健康診断はともかくとして、精密検査は――確か、君がガンマ団の団員候補生になってまもない頃以来ですか」
 当時、まだ子供の域を脱していなかったウィローを、連日連夜の研究実験に付き合わせ、過労で寝込ませたことのある高松である。もっともそれは、彼がウィローを半人前扱いせず、対等な研究仲間としてみていたということでもあったから、ウィローは負の感情は抱かなかった。むしろそこで、高松の絶対的な信奉者となったのだ。
「ほうだったなも」
「さて……そろそろアラシヤマくんが血相を変えて飛び込んでくる頃ですねぇ。一旦出ますか。ああ、グンマ様、また戻りますから機械はそのままにしておいて構いませんよ」
「うん、判った」
 グンマはモニターの傍を離れた。当然のように、高松に寄り添う。
「……名古屋くん、ひとつ訊きますが」
「?」
 高松に呼ばれて、検査台から降りようとしていたウィローはそちらを仰いだ。
「随分とアラシヤマくんのことを気に入っているようですが、何か特別な理由でもあるんですか?」
 ウィローは春の野原のような笑い方をした。
「内緒だぎゃ」



「あああ……ウィローはんどないなことされとるんやろ」
 律儀に壁拭きしてからぐしょ濡れの制服を替え、アラシヤマは医局フロアに引き返してきた。
 彼が室内に入ろうとするのと、検査室の扉が開くのとは同時だった。
 出てきたウィローはアラシヤマの姿を認めると、満面の笑顔になり、飛びついてきた。
 不安でどうしようもないまま本部をうろついた挙句に目にしたアラシヤマは、実はウィローにとって刷り込みに似た状態を催させる存在であったのだ。無論、親と思ったわけはないが、安心できる存在、保護してくれる存在として、ウィローの中では位置付けられていたのだった。
「ウィローはん! 何ともあらしまへんか!?」
 アラシヤマはウィローを抱き上げた。
「平気だぎゃあ。ドクターは名医だでよ」
「……そうですとも。本当に君には信頼されてませんねぇ」
 後から出てきた高松は不満そうな顔をしていた。もっと不満そうなのは傍らのグンマであったが。グンマにしてみれば、高松がパーフェクトなのだから。
「高松に失礼だろ!」
「かまいませんよ、グンマ様」
 むくれるグンマをなだめ、高松はウィローの方に目線をスライドさせた。
「もう少しで総合結果が出せますから、お茶でも飲んできて結構ですよ。……ところで、名古屋くん。例の薬はまだ残っているんですか?」
「ワシの研究室にあるぎゃあ」
「では、後で持ってきてもらえませんか。中和薬を作るのに、成分分析が必要ですから……」
「判ったがや。持ってくるて。行こみゃあかあ(行こうよ)」
 ウィローは自分を抱いているアラシヤマを促した。既に足代わりである。
 アラシヤマと彼に連れられたウィローの姿が見えなくなったところで、高松は吐息した。
「それにしても厄介ですねぇ……」
「どうしたの、高松?」
 きょんと、グンマは高松を見た。
「いえ……。別に安請け合いしたつもりはありませんが、名古屋くんの薬の作り方というのはかなり特殊ですから、私が再現するには少々苦労するかもしれないと思いまして」
 真面目な顔で、高松は答えた。たしかに、黒魔術に基づいた魔法薬を科学的見地から作り出すのは、いささか骨の折れる作業になるだろう。
 グンマはくすっと笑った。
「大丈夫だよ。僕の高松にできないことがあるわけないじゃないか」
「グンマ様……」
 部外者侵入不可の二人の世界。そこだけ空気は薔薇色に染められていた。



 とぷんと、全ての元凶の薬を小さな壺ですくう。
 背の高さが足りずに椅子に乗って甕の中に手をつっこんでいたウィローは、今度こそは失敗すまいと、きっちり蓋をしてから床に下りた。
 アラシヤマは薄ら寒そうに首をすくめ、ウィローの研究室を眺め回していた。
 飾り付けが不気味なだけではない。本棚に並んでいるのは、どれも怪しげな黒魔術の手引書である。古ぼけ、あちこち補修してあるところからいって、年代物なのは間違いない。
「それは爺っさまからもらったんだぎゃあ。ワシの爺っさまは大魔道士なんだて。いつかワシも、偉ぇ魔法使いになりてゃあんだわ」
「そ……そうなんどすか……。おきばりやす……」
 魔女狩り、中世ヨーロッパ、黒猫――そういった単語がアラシヤマの脳裏ではぐるぐると回転していた。所詮彼の想像力ではこれが限界である。
「あ~、えーと、ウィローはん、その薬はどんな材料でできとるんどすか?」
 ウィローをこの姿に変えてしまう効力をもつ薬だ。一体何が使われているのか。
「これきゃあ?」
 ウィローは薬壷をたぽんと揺らした。
「これはカエルの足を煎じた中に、をちこちとなごやんと坂角ゆかりときしめんパイときんさんぎんさんのブロマイドを入れて、最後にういろうで仕上げたんだぎゃあ。……それぞれを入れるタイミングがうまくいかんくって、なかなかできーせんかったんだけどよ」
 ……なるほど、黒魔術名古屋風である。
「もう用は済んだぎゃあ。出よみゃあ」
 ウィローの言葉に、アラシヤマはあからさまにほっとした表情を浮かべた。初めてこの部屋を訪れることになったわけだが、これを最後にしたいと彼は切実に思っていた。
「そうどすな、出まひょ出まひょっ」
 すったかすったか先にたって退出しようとするアラシヤマを、ウィローはその場に立ったまま仰ぎ見た。
「……おんぶ」
 アラシヤマは一呼吸のあいだ一時停止し、ウィローの方を振り向いた。
 元からかなり甘えん坊な性格が、子供化することで助長されたものらしい。
「はいはいはいっ」
 渋々といったていでしゃがみこみながら、結局ほのかな幸せをアラシヤマは感じていた。
 ウィローをおぶってやり、すっくと立ち上がる。重さなどないも同然だった。弾みをつけるように背負いなおして、アラシヤマは扉に手を掛けた。
 通路のつきあたりにある研究室を出、歩きだす。その髪の毛を、ウィローはくいっとひっぱった。
「腹減ったがや!」
 髪を掴まれたことに文句も言わず、アラシヤマは腕時計を見た。その間だけウィローを片手で支えることになってしまったが、それは致し方ない。
「ああ……もう昼をだいぶ回っとるんやな。そうどすな、ドクターがお茶にしてきてええて言うてはったことどすし、何か食べまひょか」
 アラシヤマの返事に、背中でぴょいぴょい跳ねるようにウィローが身動きする。
「あきまへんて、ウィローはん! 暴れたら危険やてさっきも注意したでっしゃろ?」
「……ん」
 ウィローは、アラシヤマの首にしっかりしがみついた。
「そうそう。したら、食堂に行きましょなァ」
 アラシヤマはウィローをおぶった状態で階段を昇っていった。ちびウィローが人混みにつぶされるのを懸念して、最初から、エレベーターを手段から排除する辺り、とことん他人を優先する彼であった。



「何か食べたいものはおますか?」
 アラシヤマは空いていたテーブルの一つに陣取り、帽子を膝の上に抱えたウィローに訊いた。
「お子さまランチーっ!」
「ウィローはん、ウィローはん……」
 アラシヤマは額を押さえた。
「そないなもんあらしまへん」
「嫌だぎゃあ! ワシ、ぜってゃあお子さまランチを食べてゃあんだがや! 味ねゃあもんは食わーせんぎゃあ!!(まずいものは食べないぞ!!)」
「ないもんはないんどすっ」
「ううぅ……」
 すねて、ウィローは上目遣いにアラシヤマを見た。アラシヤマは深いため息をついた。
 子供っぽい言動をするかと思えば意外と元のままで、大人としての態度を示しているかと思うと突然幼児性が顔を覗かせる。一体どちらが本物なのだろう。
「……だったらこうしまひょ」
 アラシヤマは、胸ポケットから支給品の手帳を取り出し、未使用のページを一枚破った。更にそれを分割しておいて、テーブルに置かれているケースの爪楊枝を抜き取り、縁を巻き付ける。
 その紙にペンで赤丸をかいて、アラシヤマはウィローの目の前にそれを差し出した。
「即興やけど、日の丸の旗どすわ。チキンライスか何か選んで、これを立てたら、少しは気分が出るんやありまへんか? これで我慢してや」
 嬉しそうに笑って、ウィローは頷いた。アラシヤマは安堵の吐息をこぼした。
「じゃあ、チキンライスと、あとオレンジジュースくらいで……わては日替わりランチにしとこかいなぁ……」
「プリンも欲しいぎゃあ!」
「あー、はいはい。デザートもいるんどすな」
「アラシヤマでねえべか」
 オーダーを考えているアラシヤマに、声がかけられた。
「え?」
 人の気配の方に視線を向けると、ミヤギとトットリがテーブルの前にいた。
 彼らがわざわざアラシヤマを呼ぶ。これがどれほど希有な事態に属する事柄であることか。日頃は完全に毛嫌いして無視してのけるのだから。この滅多にない状況を引き起こさせたのは、アラシヤマの隣で床に届かない足をぶらぶらさせているウィローに相違なかった。
「これが、子供にかえってしまったっちゅう、名古屋の外郎売りだべか?」
 ちなみに、知らない方へ。外郎売りとは別に名古屋名物『ういろう』を訪問販売しているわけではなく、一種の薬売りのことである。
「本当に小さな子供になってしまってるっちゃね」
 ウィローはじぃっと二人を見上げた。ずっと視線を揺るがせることがない。
「魔法使いもこうしとればただのガキだべなァ」
 ミヤギは指でウィローの額をつついた。
「なにしはるんどす! ウィローはんに手ぇ出さんでや!」
「ちっとぐらいええべさ」
 ミヤギは更にウィローをつんつくつつきまわそうとした。
 がぷっ。
「ぎゃっ!」
 ミヤギは手を引っ込めた。ウィローが思いきり指に噛みついたのだ。
「何すっべ! このクソガキ!!」
 ミヤギはウィローを怒鳴りつけた。
「人の指を噛むでねえ!!」
 ウィローはまっすぐにミヤギを見つめていたが、彼の握り拳を目にするとびくっと身を縮めた。
「う……う……うぅ……」
 顔をぐしゃぐしゃに歪める。
「ぴえええぇぇーっっ!!」
 ウィローは大きな泣き声をあげた。
 テーブル上の箸立てが突然宙に浮き、ミヤギの頬を掠めた。ふよふよとソース入れが空中で躍っている。殆どポルターガイストであった。
 アラシヤマは瞬時にウィローを抱え込んで、ミヤギをねめつけた。
「ウィローはんを泣かしはったな!」
「うええぇーっ!」
 騒霊現象はアラシヤマに庇護された時点ですぐにおさまったが、ぼろぼろと、次から次へと涙を量産させ、振りまきながら原因のウィローは泣きわめく。まったくよく泣く奴である。
「びえぇーん!!」
「……ミヤギくんが悪いんだっちゃよ」
 トットリはぼそっと呟いた。
「そんなこと言ってもオラは知らねえべ! 泣かそうと思ったわけでねえべよっ!」
「ウィローはんを……泣かしよったな……」
 地面から這い上がってくるようなアラシヤマの声音。ミヤギは硬直した。
「まっ……待つだよ、アラシヤマっ! 話せば判るべ!!」
「問答無用どすッ!! 平等院鳳凰堂極楽鳥の舞ッッ!!!」
「うぎゃあ~~っっ!」
「ふえーん!」
「わーっ! ミヤギくんが燃えちょるー!! ……いでよ、脳天気雲ォーって、しまった! 今、僕、ゲタ履いてなかったわいや!!」
 どうでもいいが、場所は昼日中の食堂である……。
 不幸にもその時そこにいた団員たちは、逃げるに逃げられず遠巻きにするよりなかった。これが、時に要人暗殺を請け負うこともあるガンマ団屈指のエリートたちのいさかいごととは、とても信じられない。
 場所限定で、決して周囲に被害が広がらないのが、特殊能力が完全にコントロールされている証拠なのだが、見ている方にとっては、だからといって心安まるはずもない。
 そんな時、騒ぎの中心部に、恐れる様子もなく悠然として近付いてゆく者がいた。
「うるせぇのー、ぬしら……。せっかくのメシが落ち着いて食えなくなるじゃろうが」
 カキフライ定食の盆を左手に乗せた武者のコージであった。コージは右親指で背後を指した。
「アラシヤマ、ええ加減、火を消しちゃりぃ。みんな怯えとるけんのォ」
「……コージはん」
 アラシヤマはくいっと手首を返した。同時にミヤギを焦がしていた炎が消滅する。
「ミヤギくん、大丈夫だっちゃか!?」
「ア……ア、アラシヤマ……おめ、今度覚悟しとけよ!」
 黒焦げ寸前で、へたりこんだミヤギはぜいぜいと肩で息をした。
「最初に悪いのはあんさんどす!」
 アラシヤマは、まだ燃やし足りないと言いたげな顔でミヤギを睨んでから、ウィローに向き直った。
「ウィローはん、もう怖くありまへんえ」
「うっく……ぐしゅ……ひゅぐひゅぐ……」
 ウィローはしゃくり上げていたが、アラシヤマに頭を撫でられると唇を引き結び、目をごしごしとこすった。
 ミヤギは床との親交を断ち切って立ち上がった。
 事の顛末を見届けてから、一人だけのどかな声をコージは出した。
「よーし、ここの所は丸くおさまったようじゃのぉ」
 これをおさまったといえるのかどうかは定かではないが、一応騒ぎは終息している。別に計算したつもりもなくコージは最良のタイミングで割って入ったのだった。
「ああ、どうせじゃから、みんなでメシにせんかの? わしも入らせてもらうけん」
 彼は盆をテーブルに置いた。さりげなく、さして意図したわけではなしにいざこざの再燃を阻止させる行動をとるコージであった。



「……で、何どすか、あんさんら! なんで医務室までついてくるんどす」
 アラシヤマはぎろりと同行者を睨みつけた。
「別に深い意味はねぇべ」
「僕はミヤギくんと一緒に歩いちょるだけだっちゃわいや」
「なんか面白そうじゃけんのー」
 過去の恐怖は何処へやら、かつてドクター高松のおもちゃにされた面々が、揃いも揃ってその元に向かっているのだった。
「知りまへんえ、どうなっても!」
 ウィローはアラシヤマに抱かれながら、ついてくる三人の顔をきょときょとと見比べていた。どうやら、アラシヤマ以外にだっこされるなら、他より飛び抜けて背の高いコージだな、と考えていたらしい。
 ウィローは身を乗り出して、コージの制服を掴もうとするように手を伸ばした。
「こら! ウィローはん、おとなしくしとりって何べんゆうたら判るんどす」
「だっこーっ!」
「しとるやろ?」
「ほうでねゃあて! あっち!」
 ウィローは左手でコージを指差した。アラシヤマは立ち止まり、腕の中の存在と指された相手とを交互に見た。
「コージはんに抱いとってほしいんどすか?」
 大きくウィローは頷いた。
「わては別にええどすけど……」
 自分にいつも変わらぬ調子で接してくる数少ない人間に、アラシヤマは窺うような目線を投げかける。豪快に笑ってコージは許諾した。
「おお、わしは構わんけん、来いや」
 アラシヤマは、それなら、という表情でウィローを託した。コージはウィローを抱き取ると、たかいたかいの要領でひょいっと掲げた。やっている者の身長が身長なだけに、通路の天井に届かんばかりだ。
「ほーれ、高いじゃろ」
 コージは目をまんまるくしているウィローに笑みを向けた。にこにことしたまま彼は話しかけた。
「ただ抱かれとーもつまらんじゃろ。肩車にするかのぉ? そうじゃ、そのまま肩に担いで座らせちゃろかの」
「肩車がええぎゃあ」
「コージはん、危ないことはやめておくんなはれ。ウィローはんもそんなことをねだらんといておくれやす」
 アラシヤマは渋い顔で豪放な同僚を仰視した。コージは臆した様子はない。
「わははは、アラシヤマ、ぬしも肝っ玉が小せぇのォ」
「そういう問題とちゃいます!」
「肩車、肩車ーっ!」
 ウィローはばたばたと手足をばたつかせた。行動パターンがどんどん本物の子供に近付いている。コージは掲げ上げていたウィローをすとんと両肩の間に下ろしてやった。
「ちゃんと支えてやっとればええんじゃろうが? 安心せい、気はつけとるけんのー」
 きゃいきゃいと喜んでいるウィローのはしゃぎぶりを目にして、アラシヤマは諦めたように呼気を漏らした。今更言っても無駄だ。
「何じゃったら、ぬしも乗せちゃるがの」
 至極何気なさそうなコージの言葉に、アラシヤマはびくぅっとした。うつむいて両手の人差し指の先をつつき合わせる。
「えっ、そんな……わてはっ……その」
 ……もじもじモジ文字明朝文字……
『ドキドキ』に次ぐよく判らない擬音を漂わせ、ちらちらとコージを盗み見る。ちょっと嬉しいかもしれない実は甘えんぼさんのアラシヤマであった。
「でもわては……えぇとォ……」
「何を赤うなっとんじゃ?」
 心底不思議そうにコージは問うた。自分のその言葉で相手がはにかむ、という心情が判らない。
「べっ、別に赤面なんかしとりまへんッッ」
 アラシヤマはそっぽを向いた。ミヤギは嫌味がちなからかい口調をかけた。
「アラシヤマ、おめ、照れとんだべー? ひねくれとるわりに単純だべな」
「……ミヤギはん……あんさん、もっと燃やされとうおますのんか……?」
「冗談だべっ!」
 必殺技の構えをとりかけるアラシヤマに、両手を前に突き出してストップポーズをミヤギがする。
 アラシヤマはちっと舌打ちした。
 彼は構えを解いて、ウィローを肩車した斜め上のコージを見、断りを入れた。
「わては――ええどす。遠慮しときますわ」
「そうか? 面白そうじゃと思ったんじゃがのぉ」
「とにかく急ぎますえ。時間は過ぎとるんどす」
 殊更に硬い声で告げ、複雑な面持ちで先を進む彼がそこにはいた。



「はあぁぁー……」
 医務室の前で、アラシヤマは深呼吸した。
 基本的に各部屋にオートロック機構が働いている中、解除の必要もなく二十四時間無制限に入室可能な、数少ないフロアである。何しろ急患は日常茶飯事なのだ。しかし好きこのんでやってきたくもなかった。
 アラシヤマはコージとその上に乗せられているウィローに向きなおった。
「……で、コージはん、そのまんまやとどんなに体を屈めてもウィローはんが上の壁にぶつかりまっせ」
「おー、そうじゃのォ」
 扉の高さは一・九メートル。常でも頭を低くして通り抜けることになるコージが他人を肩車していたら、相手は完璧に鴨居とでも呼ぶべきドアの上の仕切りに激突してしまう。
「待っちゃりい、今下ろすけん」
 コージは肩の上のウィローを頭の後ろから前へまわし、抱き直そうとした。それをすかさず奪うように、アラシヤマはウィローの身柄を受け取る。
「あ、こりゃ、ぬし……」
「はいはい、ウィローはん、わてがもっぺんだっこしたりましょなァ」
 アラシヤマはウィローを抱え込み、意を決したように扉を開けた。一歩進み出て光景を視界に映して、四半瞬戸惑う。
 瓦礫と浸水にみまわれたはずの室内は、きれいに修復されている。工部担当の団員の有能さがうかがわれた。
「随分とごゆっくりでしたねぇ。おまけに余分な付録まで引き連れて……」
 高松は椅子に深く腰掛け、泰然自若としてアラシヤマを迎えた。既に工作室に戻ったのだろう、グンマの姿はなかった。
「わてが連れてきたわけやあらしまへんっ!」
「まあいいでしょう。邪魔になるわけでもありませんから。……ところで、もう結果は出てますよ」
 アラシヤマは傍までやってきて、ウィローを患者サイドの椅子に下ろした。ぞろぞろと、他の三人も寄ってきた。
「それで、どうだったんきゃあも?」
 ウィローの問いかけに、組んでいた指を解き、高松はプリントアウトした紙を手にした。
「立派なものですね。オール異常なし。……ここまで一気に変化していて、身体的に何ら負担がかかっていないのは見事としか言いようがありませんね。薬の副作用といえるものもないようですし……。さすがですよ、名古屋くん」
 高松は優秀な弟子を誉める師の表情で返答した。用紙に視線を落とす。
「ただ……」
「ただ、何どす!?」
「六歳児基準としてもかなり血圧が低いですねぇ。元からですが、少々ヘマトクリット値に難がありますし。名古屋くん、偏食の癖、直しましょうね」
「……努力するぎゃあ……」
「あとは――運動能力ですが、やはり六歳児平均で少し劣りますか。まあ、体格が全面的にマイナス十パーセント範囲ですから、判らなくもありませんけどね」
 ウィローは首をすくめて、アラシヤマは固唾を飲んで、他の三人は興味半分に、高松の言葉を聞いている。
「それから――。実年齢でみて、IQ一四五……変わってませんねー♪」
「ひゃぐよんずうごォーっ? おめ、そんなに知能指数高かったんだべか!?」
 ミヤギは思わず怪しいものでも見るような目でウィローを見つめた。
 IQ一四五といったら、区分では『天才』にあたる。平均値を一〇〇として九〇~一一〇が普通とされるのだ。測り方によっても同一人で極端に差が出るものではあるが、入団テストに合格した者の平均値からの結果としての数値らしい。
「オラ、一〇〇ちょうどだべ」
「僕は九八だっちゃよ……?」
 ミヤギとトットリが呟いた一拍後に、もう一人の傍観者がぼそりと声を発した。
「……わしは……九一じゃ」
 一瞬空気が凍結した。
「だーっ! あんさんらのIQなんか、この際どうでもよろしおすがな!!」
 アラシヤマは振り返り、憤怒の形相で怒鳴った。
「そういうぬしはいくつなんじゃ」
「そうだわいや」
「教えるべ、アラシヤマ」
 アラシヤマは三人を等分に眺めやり、しばし無言を保った。それからつまらなそうに答える。
「……わては一二〇どす。それがあんさん達に何や関係あるんどすか」
「なんだとォ!?」
 ミヤギは疑わしげな声を出した。このやたら暗くてひねくれ者の京都人が自分の一・二倍の知能指数だとは。嫌っている相手が自分より優秀である時ほど憎いことはない。
「確か、アラシヤマくんは高等課程を二年ほど飛び級してますものね」
 高松はしたり顔で頷いた。ちなみにこれはオリジナル設定なので、本編とくい違っていてもとやかく言ってはいけない。個人的趣味というものである。
「それで、記憶のほうは……?」
「ああ、部分的な記憶の欠落は、薬そのもののせいというより、己れの変化に対する精神的衝撃の為でしょうね。焦れば焦るほど物事を思い出せない、という現象の大規模なものだと考えていいと思います。……検査結果はこんなところですね。そうそう、名古屋くん、例の薬は持ってきてもらえましたか?」
「これだがね、ドクター」
 ウィローは薬壺を差し出した。高松は受け取り、とっくり型のそれをしげしげと見やった。
「これが……。では、やってみましょう。二、三日中にできあがるといいんですが」
 高松は考え込むようなそぶりをした。
「しかし……実際に同条件で試行錯誤してみなくては、本当に中和薬として充分な効果を持つものになっているかどうか判りませんね。飲み直しさせるわけにはいかないし……」
 ……ちらり
 高松の生暖かい視線がミヤギ、トットリ、コージを薄切りハムのようにスライスした。
「え……?」
 音を立てずに高松は椅子から身を起こした。
「感謝しますよォ、アラシヤマくん。『余分な付録まで連れて』なんて言ったりして申し訳ありませんねぇ」
 高松は薬の蓋を開け、三人ににじり寄った。
「な、何だべさ、ドクターっ!」
「どうするんだっちゃか!?」
「何をする気じゃっっ!」
 彼らは後ろに下がろうとした。
「そりゃ勿論――」
 高松はにやりと悪魔の嗤いを刷いた。ちろっとヘビの舌が覗いたように思うのは気のせいだろうか。
「――こうするんですよッ」
 言いざま、高松は神業のごとき素早さで三人に魔法薬を飲ませた。
 ごっくん
 こくんっ
 ごくっ
「げええぇ~っっ!!」
 ムンクの『叫び』を実演するミヤギ。
 顔面蒼白のまま凍りつくトットリ。
 口元を押さえるコージ。
 彼らにとっては永遠にも近かったそれは、二秒に満たない時間だった。
 ……ボンッ ポン ボワンッ
 煙が立て続けに上がる。それが治まった時、そこにいたのは……。
「うーん、おみごと♪」
 高松はにぃーっこりと微笑んだ。完璧かつ速効性の、実に使い勝手の良い薬だ。
 彼の前には、やはり五、六歳児と思われる三人の『子供』がいた。うち一人は、それより年長と見るべきほどずば抜けて体格が大きい。無論、紛うかたなきコージである。そして平均値キープの東北ミヤギ、ちびウィローレベルのトットリだった。
「トットリぃー!」
「ミヤギくんーっ!」
 ミヤギとトットリはがしっと抱き合った。
「僕達……」
「子供になっちまったべーっっ!!」
 二人はおいおいと泣き叫んでいる。コージは高松を仰いだ。日頃は決してありえないアオリである。
「ドクター! なんてことをするんじゃッ!!」
 高松は、余裕の笑みをたゆたわせていた。
「君たちなら、試作薬を繰り返し与えても平気ですね。頑張ってモルモットになって下さい」
 死刑宣告にも似た発言だった。
「何しろ名古屋くんは私の大事な助手ですから、完成品でなくては、飲ませるわけにはいきませんのでね。なァ~に、中和薬完成の暁には君たちも元に戻れますよ」
 その前に怪しい試作薬を立て続けに投与されてこの世とおさらばしていなければ、の話である。
 アラシヤマは襲い来る眩暈と戦っていた。そうだ、高松はこういう人間なのだ……。
 水を得た魚、とはこういうものを指すのだろうか、マッドなドクターは被験体を手に入れて生き生きと楽しそうに眺め回している。この様子なら、無関係の実験にまで使い回すのではないだろうか。
 どうなっても知らない、と同僚三人に言った台詞が、現実のものとしてアラシヤマに重くのしかかっていた。
「ミヤギくーん! 僕、まだ死にたくないっちゃよーっ!」
「オラもだべー! オラたちどうなるんだべかーっ!!」
「早く元に戻さんとキヌガサくんが黙っとらんけんのー!!」
 三人は口々に喚いている。
「薬が完成するまで存分に試してあげますから、どうぞ安心して下さい」
 高松は大事そうにまだ残してある薬に封をして、にたりと嗤った。
「せいぜい期待していてもらいましょうかねぇ~」
「ああ……頭痛が痛い……」
 ウィローは高松の様子に眉をひそめるでもなく、興味深げに眺めやっている。結局いつも自分がやっていることと変わりないのだから、アラシヤマのように頭を痛めるはずもなかった。
「さてと、そういうことですから、名古屋くんとアラシヤマくん、引き取って結構ですよ。何か製薬上訊きたい事が出てくるか、中和薬ができあがったら呼びますから」
「ほうきゃあも。待っとるぎゃあ」
 首肯して、ウィローは椅子から下りた。
「行こみゃあ」
「そ……そうどすな……」
 アラシヤマは、子供の姿にむりやりさせられてしまった三人の同僚を、いたましげな眼差しで見やった。間接的に自分の責任がないとは言えない。
「許しとくれやす……」
 呟いて、入口に歩きだしかける。そこでアラシヤマははたと気付いた。
「あ、あの、ドクター? できあがったら、って、まさか、わて、それまで……」
「何です? 薬の完成まで、ちゃんと名古屋くんの面倒を見てて下さいよ」
「………。やっぱりそうなんどすな……」
 あくまで、高松に託すまでその世話をしてやっていたはずなのだが、最後までそうする羽目になったようだった。もっとも過剰なほどに保護者と化していた自分がいたことは否めない。
 アラシヤマはウィローの肩を押して医務室を出た。
「あ、ほうだったわ!」
 ウィローは退出したところでくるりと振り返った。
「ドクター、ワシ、いつも変化パターンの薬はういろう、元に戻すもんにはないろを使うんだがや。……役に立つかなも?」
「ないろ……」
 ほんの僅かな間高松は顔をこわばらせていたようだったが、すぐに笑みを浮かべた。
「判りました。試してみますよ。……しかし、ガンマ団購買部にありますかね……」
 ウィローとアラシヤマを見送ってから、高松は残った三人に獲物を見るような視線を向けた。
「さぁ~て、君たちをどう料理しましょうかねぇ……?」
 彼らの運命は風前の灯かもしれなかった。




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