<4>
アラシヤマは総帥室の扉の外で深呼吸した。
ようやくマジックから解放され、一気に憑物が落ちたような気分だった。勿論、たかだか数時間後には会議でもう一度顔をあわせなくてはならないわけだが、とりあえずは自由の身である。
アラシヤマは、唇の端に滲んだ血を拳でぐいっと拭った。
「――ウィローはん、待ってはるやろな」
ここからなら、書庫へは、βエリアに移動して第四エレベーターで行くのが最も手っ取り早い。
しみる傷に僅かに顔をしかめ、アラシヤマはその場を立ち去った。
「……砒素 arsenic、窒素属元素、原子番号三三、原子量七四・九二。天然では硫化物となりやすく、化合物は単体より毒性が強まる……」
机の上には、カボチャのぬいぐるみ。
シンタローはウィローを膝の上に乗せ、ページを開いた『最新劇毒物事典・1』を読み上げていた。彼にとっては面白くもなんともない。
当のウィローは何が楽しいのか、きゃあきゃあ笑いながらシンタローの髪で遊んでいる。
「こら! 引っぱるなっ。コタローはそんなことしねえぞ! おとなしくしてねぇと読んでやらんっ!」
「嫌だぎゃあーっっ!!」
ウィローは、もみじの手でシンタローの頬をむにっとひっつかんだ。同時に、壁に掛かっていた額縁がシンタローの後頭部をしこたまひっぱたき、またもとの場所に戻った。
「てめえッ!!」
シンタローが手を引き剥がそうとした時、アラシヤマが閲覧室に入室してきた。
「ウィローはん、おまっとうさんー」
「♪♪♪」
ぴん、と耳と尻尾を立て――無論比喩である――ウィローはアラシヤマの姿を見て、にこぱっと笑った。
「あれ……? シンタローはん、何であんさんまでおらはるんどす?」
「あのなァ……っ」
シンタローはウィローを抱いて立ち上がった。保護者が来たことだし、早々に渡して退散してしまうに限る。きゃいきゃいとウィローはシンタローの髪の毛をいじっていた。
「おや、シンタローはんに遊んでもろうとったんどすか、よろしおしたなぁ、ウィローはん」
「違うわっっ!!」
能天気なアラシヤマの声音に、シンタローは噛みつくように怒鳴った。
「アラシヤマ、お前の目は節穴かっ! これの何処が遊んでやってるように見えるんだよ!」
「……せやけど、そないにウィローはんは楽しそうやし。よう似合うてはりますがな。そうして抱いてはると何やおふくろさんみたいどすわ」
「待てよ、おめー……」
むにょっ。
ウィローは満面の笑顔で、シンタローの右耳を掴んでそれを振った。
「でーっ!!」
手を離し、きゃぱきゃぱと打ち合わせる。少なくともウィローが喜んでいるのだけは事実である。
ひくひくとシンタローは引きつっていた。我慢の限界だ。
「アラシヤマぁ~~?」
「……何どすか?」
「保護者はお前だったよなァ? こいつを拾ったのはお前、だったよな……?」
訊ねる声がうねっている。
「そうどす」
アラシヤマは首肯した。シンタローはずいっとウィローを突き出した。
「……やる。」
「ああッ、そんな、シンタローはん!」
しっかりウィローの身柄は受け取ってかき抱き、アラシヤマは叫んだ。
「見捨てはるんどすかっ!! 子供には母親が必要どす!」
「誰が母親だ! 誰がッッ!!」
ごく近い将来、シンタローが南国少年の『お母さん』をやることになるとは、知るはずもない彼らであった。
「うおぉ~~~っ! 男手ひとつで育てろなんて、あんさんは冷たいお人やーっっ!!」
「だから何で俺が母親にならなきゃいけないんだっ! 父親ならまだしも!」
心なしか会話が脱線しかけている。
「せやかて、わてがお母さんになるよりマシどっしゃろ。シンタローはん、料理得意やし」
「けど、お前の方がぱっと見、母親だぞ?」
……完全に脱線していた。
シンタローは突然はっと息を飲んだ。
漫才になっていたことに気付いたらしい。彼は拳を振り下ろした。
「とにかくっ! 保護者はお前なんだからな! 責任持って面倒みろよ!!」
言い捨てて、シンタローは身を翻した。追いすがる間もない。 書庫を出ていきざま、言葉を投げる。
「十五時からの会議、忘れんじゃねえぞ! そいつを連れて出てきやがったらぶん殴るぜ!?」
「……判っとりますがな」
一拍後、既にシンタローの姿は視界から消えていた。
「やれやれ、気の短いお人や」
アラシヤマは、ページが開きっぱなしになっている本の置かれた机の方へ近付いた。引かれたままの椅子にウィローごと腰を下ろす。
「さてと、他にも仕事がたてこんどるんで長居はできまへんけど、読書の続きにしまひょかいな?」
ウィローは自分に与えられている研究室に立っていた。
「……どえりゃあやっとかめみてゃあな気がするなも(すごく久しぶりのような気がするな)」
ぬいぐるみを机の上に乗せ、彼は半ば無意識に呟いた。
考えてみれば、一昨日までは、ドクター高松の研究助手を務めるか、稀に軍隊の出征に同行する以外、殆どここに籠もりっきりの生活をしていたのだ。こんなにこの部屋を離れて過ごすことになるとは思いもよらなかった。
アラシヤマは今、緊急会議中である。そうすぐに終わるものでないことは自分自身経験しているので、ウィローは待ち時間に自分の研究室を訪れたのだった。
心持ちひんやりした、独特の空気。雰囲気とでも称すべき匂い。やはりここが一番落ち着く。
高松に、自分が誤って服用してしまった薬の中和薬の調合を依頼したものの、ウィローは相手任せにしておくことができなくなっていた。高松を信用していないわけではない。その反対だ。
自分自身でも努力しなければ、相手に申し訳が立たない。そうウィローは考えていた。もっとも、無差別にその申し訳を発揮するつもりはさらさらないところが、彼の彼たる部分である。
そのままでは届かない為、木組みの椅子を使って、一冊の本を取り出す。あちこち擦り切れ、ページをめくるだけでも一苦労のような古書だ。
ウィローは左綴じのその本の、前から三分の一程のページを開いた。
ちょうど、魔力を持った薬の作り方の項だ。それらを基に、独自の実験を重ね、彼は新しい薬を生み出していたのである。
ここでもう一度いくつかの魔法薬を作ってみれば、もしかしたら忘れてしまった中和薬の必要材料と調合法を思い出せるかもしれない。かけらでも記憶を喚び戻すことができれば、あとはそれに則って逆作用に対比させてゆけばなんとかなる。そう思ってのことだった。
ウィローは本を置いた。軽く目を閉じ、精神を安定させるためにゆっくりと深呼吸する。
「ラゥ・フォルカ・キリア……我、幽幻の現し身にして彼の地を繋ぐ。あまねく在りし者、杳き光纏いし同胞、我が言の葉を請けよ――」
ウィローは抑揚を絞った声音で唱えた。ふわりと、異種の空気が彼の周囲にまとわりつく。一種の防御のようなものだった。そうしないと背反する魔力の反発を受けることがあるのだ。
ウィローは材料を手に取った。
「……まずは痺れ薬だぎゃあ」
一転して、音符を飛ばさんばかりに楽しそうな口調である。
ヒヨスの汁を水を満たした壷に垂らし、ウィローは乾燥したコウモリの羽根を放りこんだ。
「火にかけて……と。ここで宮きしめんの粉末……」
一掴み加え、しばらく待つ。ときどき掻き混ぜながら、ウィローは幾度かに分けて粉をふるった。
どろりとしてきたら八割方できたも同然である。あとは沸騰直前に仕上げだ。
「最後に守口漬……」
ウィローは切れ端をぽとりと落とした。瞬間的に吹きこぼれそうになった液体は、すぐに鎮まり、代わってぷつぷつとした小さな泡を出しはじめた。
これで完成である。効力には自信があった。
「水に混ぜてまや、判れせんぎゃあ。何処で使ったろみゃあか(水に混ぜてしまえば判らないぜ。何処で使ってやろうか)」
何が何でも他人を使って実験したがる性癖は健在であった。はた迷惑、という言葉は、彼の辞書には載ってはいるが塗りつぶされているらしい。とはいえ、師である高松のように、自分に都合の悪い単語を根本的に削除していないだけ、まだましと言うべきだろうか。
ウィローは壺を火元からおろした。
今度はトカゲに変えた人間を元の姿に戻す薬だ。対象者がいない以上、実際に作っても材料を無駄にするだけなので、思考シミュレーションするにとどめる。妙なところで名古屋人の倹約性分が出てしまう彼であった。
ネズミの尻尾を煮立てて、なごやんの皮だけを入れ、火を止める。冷めたら味噌カツの黒焼きを一つまみ。そして仕上げはないろ。
口の中で復唱する。これも完璧だ。試すまでもなく効果は確実だった。
ウィローは大きく息をついた。この調子なら大丈夫そうだ。
己れの作った変化薬の組成をもう一度思い返す。……をちこちとなごやんとゆかりときしめんパイときんさんぎんさんのブロマイドを、カエルの足を『名古屋の水』で煎じたものに入れ、必要成分が抽出されたら、ういろう。それは確かである。
では、自分が大人に戻るには……?
をちこちに対比するもの――。
「――……」
ウィローは言葉を失った。
何一つ、確かな記憶が出てこない。
「あ……あれ……。おかしいぎゃあ。ワシ、まんだ焦っとるんか……? まっぺん勘考して――」
声がうわずってかすれる。頭の中が真っ白だった。膝ががくがくと震える。
「………」
焦りすぎて自分を追いつめたせいで思い出せなかっただけ、のはずなのに。何故まだ記憶が蘇らないのだろう。
「何で……覚えとれせんの……?」
自失に近いほど茫然と独語し、ウィローは力が抜けたようにしゃがみこんだ。
「……っ!」
涙がこぼれてくる。抑えたくても止められなかった。
ウィローは膝を抱え、丸まった形に身体を縮めた。涙の粒が床に跳ねた。
一切声をたてず、彼は泣いていた。それは、これまでの無遠慮な幼児の泣き喚き方とは正反対に位置していた。
独りっきりの部屋の中、誰もいないのに、声をおし殺して泣く―。
それこそが本来の彼の、名古屋ウィローの泣き方であるのかもしれなかった。淋しがり屋の、けれど誰も傍にいてはくれない孤独な子供の涙の流し方。
「……元に戻りてゃあぎゃあー……」
ほんのわずかに嗚咽の呼吸だけを洩らしながら、ひたすらにウィローは涙を溢れさせていた。
「すっかり遅うなってしもたなぁ」
アラシヤマはひとりごちた。
午後九時、一日の仕事を終え、団員宿舎へ戻る途中である。ウィローはアラシヤマにおぶわれていた。
ぽとりと、ぬいぐるみが落ちる。
「あーあ、あきまへんえ。……ウィローはん?」
背中のウィローが突然重くなったような気がして、アラシヤマは首を後ろに向けた。
くー……すぴー……
「なんや、寝てしまいはったんか……」
ウィローは、アラシヤマに体を預け、無防備に寝入っている。疲れたのらしい。アラシヤマはぬいぐるみを拾い、ウィローを背負い直した。
「それにしても……ウィローはん、いつまでこのまんまなんどっしゃろなぁ……」
ふと、悪魔の誘惑にかられる。
「いや、待てよ……いっそのこと、ずっと子供のままでもええかも――」
それなりに苦労は多いだろうが、このままならウィローを完全に自分に懐かせ、友達にすることができる。自分好みに育てることもできるかもしれない。プリンセスメーカー逆バージョンである。
……そこまで愛に飢えているのか、アラシヤマ。哀れを誘う思考だった。
「――はっ、あかん! わてはなんちゅうことを考えとるんや」
アラシヤマはぷるぷると頭を振った。
幼児化が進行しているとはいえ、中身はあくまで『ガンマ団団員・名古屋ウィロー』なのだ。自分のさもしい考えが通用するはずがなかった。
彼の不穏な思考回路を知らず、ウィローは安心しきって熟睡していた。
アラシヤマは小さくため息をつき、宿舎の門扉をくぐった。
――ボンッ
白々と明ける光がカーテンの隙間から漏れてくる研究室で、薄煙が上がった。
「ふっ……ふっふっふっ……」
高松は満足そうに笑った。丸二日の夜を徹しての実験と調薬の疲れの翳りは微塵もない。
「遂に完成できたか……」
彼の握り締めた試験管の中で、何色ともつかない液体が小さな泡をたてていた。
早朝、突然響いたエマージェンシー・コールに、アラシヤマは跳ね起きた。
「……警報!?」
第二級臨戦警戒警報。いったい何が起こったのか。敵襲でもあったというのだろうか。
睡魔は一瞬で消し飛んでいた。傍らで眠っていたウィローに目をやる。ウィローは部屋中に響きわたる――全部屋、防音設備は完璧だ――コールに、ぬぼーっと上半身を起こしていた。本人は起きているつもりなのだろうが、身体がついていっていない。
アラシヤマは素早く身仕度をととのえた。一分の隙もなく、いつでも動ける状態まで、その間百五十秒。だてに何度も実戦の修羅場をくぐり抜けてきたわけではない。
彼が、まだ目を覚ましきっていないウィローの着替えを手伝ってやろうと手を伸ばしたところで、急に、ぷっつりと音が止まった。
「………?」
普通なら延々鳴り続ける筈の警報音が途切れたことに不審を抱いて、アラシヤマはドアを開け、廊下の様子を覗いた。
「え?」
そこには誰もいなかった。何事もなかったかのように、静まり返っている。まだ誰一人身仕度を終えていない、ということではあるまい。他の部屋には警報は鳴らなかったのだ。
「どうゆうことや……?」
アラシヤマが戸惑って呟いた途端、今度は、各部屋に設置されている電話回線のベルが鳴った。
ドアを閉め、アラシヤマは四コール目で受話器を取った。
彼がまだ一言も口を開かないうちに、回線の向こうから聞き覚えのある声が流れ出てきた。
『しっかり目は覚めているようですね。さすがに、今やガンマ団有数の能力の持ち主と呼ばれるようになっているだけのことはありますねー』
「どっ……ド……ドクターッ!?」
アラシヤマは送話口に向かって叫んでいた。明るい声が肯定してのける。
『そうですよ』
「……まさか……ひょっとして……わての部屋だけにエマージェンシー・コールを流しはったのは……っっ」
『無論、私です。いい目覚ましになったでしょう?』
受話器を握り締める手に力が篭もる。相手が目の前にいたら、極楽鳥の舞で黒焦げにしてやりたいところだ。目覚まし時計代わりに警戒警報を鳴らすなど、非常識以前の問題だった。
「一体全体何の用どす!」
『御挨拶ですねぇ。わざわざ君に直接連絡をとる必要のある用件なんて、決まっているじゃありませんか』
アラシヤマは、反射的にウィローを見た。やっと本格的に目を覚ましつつあるらしい。
受話器の向こうで、高松は声の調子を少し真面目なものに変えた。
『――中和薬ができました。名古屋くんを連れて本部まで来て下さい。そうですね……検診も行ないたいので、私の研究室ではなく、医務室の方にお願いします』
「はいっっ!!」
力強く、アラシヤマは返事をした。
通話を切り、ウィローに向き直る。
「ウィローはん、喜びなはれ! 薬が完成したそうどすわ!」
ウィローはぱちぱちとまばたきした。一瞬、何を言われたのかが判らない。
「……薬……? 中和薬ができたんきゃあも?」
「その通りどす!」
アラシヤマは、ウィローをぎゅっと抱き締めた。
「ほんまによろしおしたなぁ……」
腕にすっぽりと納まって、ウィローはむしろぼんやりとした口調でひとりごちる。
「ワシ……本当に元に戻れるんきゃあ……?」
アラシヤマは手を離し、ウィローを促した。
「さ、支度しまひょ。ぼけっとしとる暇はありまへんえ。本部に行かなあかんのどすよってに」
ずっとこのままで、と内心願い続けていたアラシヤマにとっては、少し物寂しい思いがなかったと言えば嘘になるだろう。だが、最も良い結末を純粋に祝う気持ちの方が、はるかに多くを占めていたのだった。
「……早かったですね」
医務室に入ってきたアラシヤマと抱かれたウィローに、高松はゆとりの笑みを見せた。カルテをデスクの上に置く。
かたわらには、吐きそうな表情の、シャツの胸をさらけだした武者のコージがいた。子供の姿ではない。
「コージはん?」
アラシヤマはコージをしげしげと眺めた。完成した薬で元に戻れたのだ。
ちょうど検査を受け終わったところなのだろう。コージは制服のボタンをとめているところだった。時々さすっている手枷の痕が痛々しい。
アラシヤマは傍に歩み寄り、ウィローを下ろした。あくまで執着するので、ハロウィンカボチャも一緒である。
ウィローはぬいぐるみを両手で抱えて高松を見た。
「ドクター……」
高松は微笑み、杯ほどの小さなコップを差し出した。そこに陽炎のように揺らめく薬が満たされていた。
「試作薬No.9……これが頼まれていた中和薬です。やっとできましたよ、名古屋くん」
ウィローは左手で薬を受け取った。高松が自信を持って渡す以上は、危険性は殆どないはずだ。
「これが……中和薬……」
容器の中味を見つめる。甘い香りのする液体にウィローは口を付けた。
こっくんっ
ウィローは薬を飲み込んだ。これで全てが終わるのだ――これで……。
瞳に映る世界が瞬間的に揺らいだ。
高松達が息を詰めて自分に視線を向けているのが判る。彼らの姿が閃光の中に融けた。
「………・」
――ぽんっ
煙がウィローの全身を霞のように取り巻いた。
薄煙が拡散した時、発生の中心にいたウィローは、床に膝をついていた。
「ウィローはん!」
アラシヤマの感極まった声。ウィローは自分の身体を眺めまわした。まとったマント。上衣の袖。スラックスの裾。布地が余りすぎていたはずの自分の服は、身ごろ幅以外正寸だ。
ウィローは恐る恐る立ち上がった。目線の高さが違う。そうだ、これは本当の自分がいつも目にしていた視界……。
「戻っ……た?」
同席者を見回したウィローは、飛び跳ねんばかりになって声を上げた。
「ワシ、元に戻れたんだぎゃあーっ!!」
ウィローは高松に目を止め、その手を握り締めた。
「ドクターのおかげだがや! どんだけ感謝しても足りーせんくりゃあだて! ワシ……ワシ……っっ!!」
「どういたしまして」
高松はにっこりと微笑した。嫌味な嗤いではない。信頼している相手の礼を受けとめる笑い方だった。アラシヤマはすっとウィローの肩に手を置いた。
「よろしおしたな」
いささか見上げる位置から、ウィローはアラシヤマを見た。破顔する。
「おみゃあさんにもえれえ世話になってまったなも」
高松はウィローのカルテを引き出し、ボールペンの後ろ側でとんとんと叩いた。再検査の前に聞いておかねばならないことがある。
「さて……。名古屋くん、中和薬の調合の仕方、思い出しましたか?」
言われて、ウィローは一瞬目を細めた。この薬の組成は――。 頭の中にかかったままだった靄が晴れていた。
「……イモリの舌を煎じて、千なりときよめ餅とかしわとダイナゴンとわかしゃち国体のメモパッドを加えて、ないろを仕上げに一切れ入れるんだがや」
「う……っ」
原料名を聞いた瞬間、コージは屈み込んで口を押さえた。飲んだ薬の異様な甘さの正体はこれだったのだ。急激に嘔吐感がよみがえる。
「ぐ……」
コージはよれよれと洗面台の方に這っていった。アラシヤマは下からくぐらせるようにして肩を貸し、連れていってやった。
「大丈夫どすか、コージはん」
アラシヤマは、洗面台に突っ伏して吐いているコージの背中をゆるく撫でさすった。
「……げ……」
「コージはん……気持ちは判るんどすけど、少し我慢した方がええのとちゃいますやろか……。あんまりもどすと、その――薬の効果が……」
コージはぴたりと動きを止めた。
「………」
襲い来る吐き気を懸命にこらえ、コージは肩で息をしていた。アラシヤマはずっと背中をさすってやっている。
最初からコージのことなど眼中にないらしい高松は、ウィローの返答に満足気に頷いた。彼自身はそのものを使ったわけではなく、成分合成したのだが。
「記憶も戻ったようですね。では、問診を行いましょうか。椅子に腰掛けてらっしゃい」
「判ったがや。……あ、待ってちょー」
ウィローは床に落ちたぬいぐるみを見やった。静かに拾い上げる。笑っているカボチャの顔をしばし注視していたウィローは、小さく微笑んだ。
彼はアラシヤマの前に立った。
「……返すぎゃ」
ようやく吐き気の治まったらしいコージから手を離し、アラシヤマは首を振った。
「ええんどす。あんさんにあげますわ」
「そうじゃ、もらっとけ。他人の好意は素直に受けるものじゃけんのー」
まだ少し顔色は悪いが、普段の声調でコージは同意した。
「ほんじゃ、受け取らせてまうわ(それじゃ、受け取らせてもらうよ)」
ウィローはにこっと笑った。その表情は、子供になっていた間を彷彿させるものだった。アラシヤマは腕の中に抱いていた幼いウィローの面影を見たように思った。
ウィローはマントを翻し、高松のもとに引き返した。
もう自分の『保護』はいらない。アラシヤマはコージと連れ立って医務室の扉の方に向かいかけた。
その耳に、浮き立ったウィローと高松の不穏な会話が飛び込んでくる。
「……おかげで元に戻れたがや。これで安心して新しい薬を作れるぎゃあ 」
「そうですか、私もなかなか楽しませていただきましたよ。近いうちに二人で共同して新薬開発にあたってみましょうか?」
「そらええ考えだなも。今から歯が鳴るて(今から待ちどおしいよ)」
「本当に楽しみですねぇ♪」
「作ろみゃあ、作ろみゃあ♪」
ぷつりとアラシヤマの神経の糸が切れた。アラシヤマは燃え盛らんばかりの勢いで怒鳴った。
「まーだ懲りとらんのどすか、あんさんはーっっ!!」
こうして、さまざまな思い出を残して、ちび騒ぎの二日半はそこそこ大団円に幕を閉じたのだった。
そう、一部の例外を残して……。
その頃、高松の研究室では例外が肩を寄せ合っていた。
トットリとミヤギは囚われたまま泣き叫んだ。
「それにしても……僕達……」
「いつになったら元に戻れるんだべーッッ!!」
二人の叫びは部屋にこだまし、虚しく消えた――。
アラシヤマは総帥室の扉の外で深呼吸した。
ようやくマジックから解放され、一気に憑物が落ちたような気分だった。勿論、たかだか数時間後には会議でもう一度顔をあわせなくてはならないわけだが、とりあえずは自由の身である。
アラシヤマは、唇の端に滲んだ血を拳でぐいっと拭った。
「――ウィローはん、待ってはるやろな」
ここからなら、書庫へは、βエリアに移動して第四エレベーターで行くのが最も手っ取り早い。
しみる傷に僅かに顔をしかめ、アラシヤマはその場を立ち去った。
「……砒素 arsenic、窒素属元素、原子番号三三、原子量七四・九二。天然では硫化物となりやすく、化合物は単体より毒性が強まる……」
机の上には、カボチャのぬいぐるみ。
シンタローはウィローを膝の上に乗せ、ページを開いた『最新劇毒物事典・1』を読み上げていた。彼にとっては面白くもなんともない。
当のウィローは何が楽しいのか、きゃあきゃあ笑いながらシンタローの髪で遊んでいる。
「こら! 引っぱるなっ。コタローはそんなことしねえぞ! おとなしくしてねぇと読んでやらんっ!」
「嫌だぎゃあーっっ!!」
ウィローは、もみじの手でシンタローの頬をむにっとひっつかんだ。同時に、壁に掛かっていた額縁がシンタローの後頭部をしこたまひっぱたき、またもとの場所に戻った。
「てめえッ!!」
シンタローが手を引き剥がそうとした時、アラシヤマが閲覧室に入室してきた。
「ウィローはん、おまっとうさんー」
「♪♪♪」
ぴん、と耳と尻尾を立て――無論比喩である――ウィローはアラシヤマの姿を見て、にこぱっと笑った。
「あれ……? シンタローはん、何であんさんまでおらはるんどす?」
「あのなァ……っ」
シンタローはウィローを抱いて立ち上がった。保護者が来たことだし、早々に渡して退散してしまうに限る。きゃいきゃいとウィローはシンタローの髪の毛をいじっていた。
「おや、シンタローはんに遊んでもろうとったんどすか、よろしおしたなぁ、ウィローはん」
「違うわっっ!!」
能天気なアラシヤマの声音に、シンタローは噛みつくように怒鳴った。
「アラシヤマ、お前の目は節穴かっ! これの何処が遊んでやってるように見えるんだよ!」
「……せやけど、そないにウィローはんは楽しそうやし。よう似合うてはりますがな。そうして抱いてはると何やおふくろさんみたいどすわ」
「待てよ、おめー……」
むにょっ。
ウィローは満面の笑顔で、シンタローの右耳を掴んでそれを振った。
「でーっ!!」
手を離し、きゃぱきゃぱと打ち合わせる。少なくともウィローが喜んでいるのだけは事実である。
ひくひくとシンタローは引きつっていた。我慢の限界だ。
「アラシヤマぁ~~?」
「……何どすか?」
「保護者はお前だったよなァ? こいつを拾ったのはお前、だったよな……?」
訊ねる声がうねっている。
「そうどす」
アラシヤマは首肯した。シンタローはずいっとウィローを突き出した。
「……やる。」
「ああッ、そんな、シンタローはん!」
しっかりウィローの身柄は受け取ってかき抱き、アラシヤマは叫んだ。
「見捨てはるんどすかっ!! 子供には母親が必要どす!」
「誰が母親だ! 誰がッッ!!」
ごく近い将来、シンタローが南国少年の『お母さん』をやることになるとは、知るはずもない彼らであった。
「うおぉ~~~っ! 男手ひとつで育てろなんて、あんさんは冷たいお人やーっっ!!」
「だから何で俺が母親にならなきゃいけないんだっ! 父親ならまだしも!」
心なしか会話が脱線しかけている。
「せやかて、わてがお母さんになるよりマシどっしゃろ。シンタローはん、料理得意やし」
「けど、お前の方がぱっと見、母親だぞ?」
……完全に脱線していた。
シンタローは突然はっと息を飲んだ。
漫才になっていたことに気付いたらしい。彼は拳を振り下ろした。
「とにかくっ! 保護者はお前なんだからな! 責任持って面倒みろよ!!」
言い捨てて、シンタローは身を翻した。追いすがる間もない。 書庫を出ていきざま、言葉を投げる。
「十五時からの会議、忘れんじゃねえぞ! そいつを連れて出てきやがったらぶん殴るぜ!?」
「……判っとりますがな」
一拍後、既にシンタローの姿は視界から消えていた。
「やれやれ、気の短いお人や」
アラシヤマは、ページが開きっぱなしになっている本の置かれた机の方へ近付いた。引かれたままの椅子にウィローごと腰を下ろす。
「さてと、他にも仕事がたてこんどるんで長居はできまへんけど、読書の続きにしまひょかいな?」
ウィローは自分に与えられている研究室に立っていた。
「……どえりゃあやっとかめみてゃあな気がするなも(すごく久しぶりのような気がするな)」
ぬいぐるみを机の上に乗せ、彼は半ば無意識に呟いた。
考えてみれば、一昨日までは、ドクター高松の研究助手を務めるか、稀に軍隊の出征に同行する以外、殆どここに籠もりっきりの生活をしていたのだ。こんなにこの部屋を離れて過ごすことになるとは思いもよらなかった。
アラシヤマは今、緊急会議中である。そうすぐに終わるものでないことは自分自身経験しているので、ウィローは待ち時間に自分の研究室を訪れたのだった。
心持ちひんやりした、独特の空気。雰囲気とでも称すべき匂い。やはりここが一番落ち着く。
高松に、自分が誤って服用してしまった薬の中和薬の調合を依頼したものの、ウィローは相手任せにしておくことができなくなっていた。高松を信用していないわけではない。その反対だ。
自分自身でも努力しなければ、相手に申し訳が立たない。そうウィローは考えていた。もっとも、無差別にその申し訳を発揮するつもりはさらさらないところが、彼の彼たる部分である。
そのままでは届かない為、木組みの椅子を使って、一冊の本を取り出す。あちこち擦り切れ、ページをめくるだけでも一苦労のような古書だ。
ウィローは左綴じのその本の、前から三分の一程のページを開いた。
ちょうど、魔力を持った薬の作り方の項だ。それらを基に、独自の実験を重ね、彼は新しい薬を生み出していたのである。
ここでもう一度いくつかの魔法薬を作ってみれば、もしかしたら忘れてしまった中和薬の必要材料と調合法を思い出せるかもしれない。かけらでも記憶を喚び戻すことができれば、あとはそれに則って逆作用に対比させてゆけばなんとかなる。そう思ってのことだった。
ウィローは本を置いた。軽く目を閉じ、精神を安定させるためにゆっくりと深呼吸する。
「ラゥ・フォルカ・キリア……我、幽幻の現し身にして彼の地を繋ぐ。あまねく在りし者、杳き光纏いし同胞、我が言の葉を請けよ――」
ウィローは抑揚を絞った声音で唱えた。ふわりと、異種の空気が彼の周囲にまとわりつく。一種の防御のようなものだった。そうしないと背反する魔力の反発を受けることがあるのだ。
ウィローは材料を手に取った。
「……まずは痺れ薬だぎゃあ」
一転して、音符を飛ばさんばかりに楽しそうな口調である。
ヒヨスの汁を水を満たした壷に垂らし、ウィローは乾燥したコウモリの羽根を放りこんだ。
「火にかけて……と。ここで宮きしめんの粉末……」
一掴み加え、しばらく待つ。ときどき掻き混ぜながら、ウィローは幾度かに分けて粉をふるった。
どろりとしてきたら八割方できたも同然である。あとは沸騰直前に仕上げだ。
「最後に守口漬……」
ウィローは切れ端をぽとりと落とした。瞬間的に吹きこぼれそうになった液体は、すぐに鎮まり、代わってぷつぷつとした小さな泡を出しはじめた。
これで完成である。効力には自信があった。
「水に混ぜてまや、判れせんぎゃあ。何処で使ったろみゃあか(水に混ぜてしまえば判らないぜ。何処で使ってやろうか)」
何が何でも他人を使って実験したがる性癖は健在であった。はた迷惑、という言葉は、彼の辞書には載ってはいるが塗りつぶされているらしい。とはいえ、師である高松のように、自分に都合の悪い単語を根本的に削除していないだけ、まだましと言うべきだろうか。
ウィローは壺を火元からおろした。
今度はトカゲに変えた人間を元の姿に戻す薬だ。対象者がいない以上、実際に作っても材料を無駄にするだけなので、思考シミュレーションするにとどめる。妙なところで名古屋人の倹約性分が出てしまう彼であった。
ネズミの尻尾を煮立てて、なごやんの皮だけを入れ、火を止める。冷めたら味噌カツの黒焼きを一つまみ。そして仕上げはないろ。
口の中で復唱する。これも完璧だ。試すまでもなく効果は確実だった。
ウィローは大きく息をついた。この調子なら大丈夫そうだ。
己れの作った変化薬の組成をもう一度思い返す。……をちこちとなごやんとゆかりときしめんパイときんさんぎんさんのブロマイドを、カエルの足を『名古屋の水』で煎じたものに入れ、必要成分が抽出されたら、ういろう。それは確かである。
では、自分が大人に戻るには……?
をちこちに対比するもの――。
「――……」
ウィローは言葉を失った。
何一つ、確かな記憶が出てこない。
「あ……あれ……。おかしいぎゃあ。ワシ、まんだ焦っとるんか……? まっぺん勘考して――」
声がうわずってかすれる。頭の中が真っ白だった。膝ががくがくと震える。
「………」
焦りすぎて自分を追いつめたせいで思い出せなかっただけ、のはずなのに。何故まだ記憶が蘇らないのだろう。
「何で……覚えとれせんの……?」
自失に近いほど茫然と独語し、ウィローは力が抜けたようにしゃがみこんだ。
「……っ!」
涙がこぼれてくる。抑えたくても止められなかった。
ウィローは膝を抱え、丸まった形に身体を縮めた。涙の粒が床に跳ねた。
一切声をたてず、彼は泣いていた。それは、これまでの無遠慮な幼児の泣き喚き方とは正反対に位置していた。
独りっきりの部屋の中、誰もいないのに、声をおし殺して泣く―。
それこそが本来の彼の、名古屋ウィローの泣き方であるのかもしれなかった。淋しがり屋の、けれど誰も傍にいてはくれない孤独な子供の涙の流し方。
「……元に戻りてゃあぎゃあー……」
ほんのわずかに嗚咽の呼吸だけを洩らしながら、ひたすらにウィローは涙を溢れさせていた。
「すっかり遅うなってしもたなぁ」
アラシヤマはひとりごちた。
午後九時、一日の仕事を終え、団員宿舎へ戻る途中である。ウィローはアラシヤマにおぶわれていた。
ぽとりと、ぬいぐるみが落ちる。
「あーあ、あきまへんえ。……ウィローはん?」
背中のウィローが突然重くなったような気がして、アラシヤマは首を後ろに向けた。
くー……すぴー……
「なんや、寝てしまいはったんか……」
ウィローは、アラシヤマに体を預け、無防備に寝入っている。疲れたのらしい。アラシヤマはぬいぐるみを拾い、ウィローを背負い直した。
「それにしても……ウィローはん、いつまでこのまんまなんどっしゃろなぁ……」
ふと、悪魔の誘惑にかられる。
「いや、待てよ……いっそのこと、ずっと子供のままでもええかも――」
それなりに苦労は多いだろうが、このままならウィローを完全に自分に懐かせ、友達にすることができる。自分好みに育てることもできるかもしれない。プリンセスメーカー逆バージョンである。
……そこまで愛に飢えているのか、アラシヤマ。哀れを誘う思考だった。
「――はっ、あかん! わてはなんちゅうことを考えとるんや」
アラシヤマはぷるぷると頭を振った。
幼児化が進行しているとはいえ、中身はあくまで『ガンマ団団員・名古屋ウィロー』なのだ。自分のさもしい考えが通用するはずがなかった。
彼の不穏な思考回路を知らず、ウィローは安心しきって熟睡していた。
アラシヤマは小さくため息をつき、宿舎の門扉をくぐった。
――ボンッ
白々と明ける光がカーテンの隙間から漏れてくる研究室で、薄煙が上がった。
「ふっ……ふっふっふっ……」
高松は満足そうに笑った。丸二日の夜を徹しての実験と調薬の疲れの翳りは微塵もない。
「遂に完成できたか……」
彼の握り締めた試験管の中で、何色ともつかない液体が小さな泡をたてていた。
早朝、突然響いたエマージェンシー・コールに、アラシヤマは跳ね起きた。
「……警報!?」
第二級臨戦警戒警報。いったい何が起こったのか。敵襲でもあったというのだろうか。
睡魔は一瞬で消し飛んでいた。傍らで眠っていたウィローに目をやる。ウィローは部屋中に響きわたる――全部屋、防音設備は完璧だ――コールに、ぬぼーっと上半身を起こしていた。本人は起きているつもりなのだろうが、身体がついていっていない。
アラシヤマは素早く身仕度をととのえた。一分の隙もなく、いつでも動ける状態まで、その間百五十秒。だてに何度も実戦の修羅場をくぐり抜けてきたわけではない。
彼が、まだ目を覚ましきっていないウィローの着替えを手伝ってやろうと手を伸ばしたところで、急に、ぷっつりと音が止まった。
「………?」
普通なら延々鳴り続ける筈の警報音が途切れたことに不審を抱いて、アラシヤマはドアを開け、廊下の様子を覗いた。
「え?」
そこには誰もいなかった。何事もなかったかのように、静まり返っている。まだ誰一人身仕度を終えていない、ということではあるまい。他の部屋には警報は鳴らなかったのだ。
「どうゆうことや……?」
アラシヤマが戸惑って呟いた途端、今度は、各部屋に設置されている電話回線のベルが鳴った。
ドアを閉め、アラシヤマは四コール目で受話器を取った。
彼がまだ一言も口を開かないうちに、回線の向こうから聞き覚えのある声が流れ出てきた。
『しっかり目は覚めているようですね。さすがに、今やガンマ団有数の能力の持ち主と呼ばれるようになっているだけのことはありますねー』
「どっ……ド……ドクターッ!?」
アラシヤマは送話口に向かって叫んでいた。明るい声が肯定してのける。
『そうですよ』
「……まさか……ひょっとして……わての部屋だけにエマージェンシー・コールを流しはったのは……っっ」
『無論、私です。いい目覚ましになったでしょう?』
受話器を握り締める手に力が篭もる。相手が目の前にいたら、極楽鳥の舞で黒焦げにしてやりたいところだ。目覚まし時計代わりに警戒警報を鳴らすなど、非常識以前の問題だった。
「一体全体何の用どす!」
『御挨拶ですねぇ。わざわざ君に直接連絡をとる必要のある用件なんて、決まっているじゃありませんか』
アラシヤマは、反射的にウィローを見た。やっと本格的に目を覚ましつつあるらしい。
受話器の向こうで、高松は声の調子を少し真面目なものに変えた。
『――中和薬ができました。名古屋くんを連れて本部まで来て下さい。そうですね……検診も行ないたいので、私の研究室ではなく、医務室の方にお願いします』
「はいっっ!!」
力強く、アラシヤマは返事をした。
通話を切り、ウィローに向き直る。
「ウィローはん、喜びなはれ! 薬が完成したそうどすわ!」
ウィローはぱちぱちとまばたきした。一瞬、何を言われたのかが判らない。
「……薬……? 中和薬ができたんきゃあも?」
「その通りどす!」
アラシヤマは、ウィローをぎゅっと抱き締めた。
「ほんまによろしおしたなぁ……」
腕にすっぽりと納まって、ウィローはむしろぼんやりとした口調でひとりごちる。
「ワシ……本当に元に戻れるんきゃあ……?」
アラシヤマは手を離し、ウィローを促した。
「さ、支度しまひょ。ぼけっとしとる暇はありまへんえ。本部に行かなあかんのどすよってに」
ずっとこのままで、と内心願い続けていたアラシヤマにとっては、少し物寂しい思いがなかったと言えば嘘になるだろう。だが、最も良い結末を純粋に祝う気持ちの方が、はるかに多くを占めていたのだった。
「……早かったですね」
医務室に入ってきたアラシヤマと抱かれたウィローに、高松はゆとりの笑みを見せた。カルテをデスクの上に置く。
かたわらには、吐きそうな表情の、シャツの胸をさらけだした武者のコージがいた。子供の姿ではない。
「コージはん?」
アラシヤマはコージをしげしげと眺めた。完成した薬で元に戻れたのだ。
ちょうど検査を受け終わったところなのだろう。コージは制服のボタンをとめているところだった。時々さすっている手枷の痕が痛々しい。
アラシヤマは傍に歩み寄り、ウィローを下ろした。あくまで執着するので、ハロウィンカボチャも一緒である。
ウィローはぬいぐるみを両手で抱えて高松を見た。
「ドクター……」
高松は微笑み、杯ほどの小さなコップを差し出した。そこに陽炎のように揺らめく薬が満たされていた。
「試作薬No.9……これが頼まれていた中和薬です。やっとできましたよ、名古屋くん」
ウィローは左手で薬を受け取った。高松が自信を持って渡す以上は、危険性は殆どないはずだ。
「これが……中和薬……」
容器の中味を見つめる。甘い香りのする液体にウィローは口を付けた。
こっくんっ
ウィローは薬を飲み込んだ。これで全てが終わるのだ――これで……。
瞳に映る世界が瞬間的に揺らいだ。
高松達が息を詰めて自分に視線を向けているのが判る。彼らの姿が閃光の中に融けた。
「………・」
――ぽんっ
煙がウィローの全身を霞のように取り巻いた。
薄煙が拡散した時、発生の中心にいたウィローは、床に膝をついていた。
「ウィローはん!」
アラシヤマの感極まった声。ウィローは自分の身体を眺めまわした。まとったマント。上衣の袖。スラックスの裾。布地が余りすぎていたはずの自分の服は、身ごろ幅以外正寸だ。
ウィローは恐る恐る立ち上がった。目線の高さが違う。そうだ、これは本当の自分がいつも目にしていた視界……。
「戻っ……た?」
同席者を見回したウィローは、飛び跳ねんばかりになって声を上げた。
「ワシ、元に戻れたんだぎゃあーっ!!」
ウィローは高松に目を止め、その手を握り締めた。
「ドクターのおかげだがや! どんだけ感謝しても足りーせんくりゃあだて! ワシ……ワシ……っっ!!」
「どういたしまして」
高松はにっこりと微笑した。嫌味な嗤いではない。信頼している相手の礼を受けとめる笑い方だった。アラシヤマはすっとウィローの肩に手を置いた。
「よろしおしたな」
いささか見上げる位置から、ウィローはアラシヤマを見た。破顔する。
「おみゃあさんにもえれえ世話になってまったなも」
高松はウィローのカルテを引き出し、ボールペンの後ろ側でとんとんと叩いた。再検査の前に聞いておかねばならないことがある。
「さて……。名古屋くん、中和薬の調合の仕方、思い出しましたか?」
言われて、ウィローは一瞬目を細めた。この薬の組成は――。 頭の中にかかったままだった靄が晴れていた。
「……イモリの舌を煎じて、千なりときよめ餅とかしわとダイナゴンとわかしゃち国体のメモパッドを加えて、ないろを仕上げに一切れ入れるんだがや」
「う……っ」
原料名を聞いた瞬間、コージは屈み込んで口を押さえた。飲んだ薬の異様な甘さの正体はこれだったのだ。急激に嘔吐感がよみがえる。
「ぐ……」
コージはよれよれと洗面台の方に這っていった。アラシヤマは下からくぐらせるようにして肩を貸し、連れていってやった。
「大丈夫どすか、コージはん」
アラシヤマは、洗面台に突っ伏して吐いているコージの背中をゆるく撫でさすった。
「……げ……」
「コージはん……気持ちは判るんどすけど、少し我慢した方がええのとちゃいますやろか……。あんまりもどすと、その――薬の効果が……」
コージはぴたりと動きを止めた。
「………」
襲い来る吐き気を懸命にこらえ、コージは肩で息をしていた。アラシヤマはずっと背中をさすってやっている。
最初からコージのことなど眼中にないらしい高松は、ウィローの返答に満足気に頷いた。彼自身はそのものを使ったわけではなく、成分合成したのだが。
「記憶も戻ったようですね。では、問診を行いましょうか。椅子に腰掛けてらっしゃい」
「判ったがや。……あ、待ってちょー」
ウィローは床に落ちたぬいぐるみを見やった。静かに拾い上げる。笑っているカボチャの顔をしばし注視していたウィローは、小さく微笑んだ。
彼はアラシヤマの前に立った。
「……返すぎゃ」
ようやく吐き気の治まったらしいコージから手を離し、アラシヤマは首を振った。
「ええんどす。あんさんにあげますわ」
「そうじゃ、もらっとけ。他人の好意は素直に受けるものじゃけんのー」
まだ少し顔色は悪いが、普段の声調でコージは同意した。
「ほんじゃ、受け取らせてまうわ(それじゃ、受け取らせてもらうよ)」
ウィローはにこっと笑った。その表情は、子供になっていた間を彷彿させるものだった。アラシヤマは腕の中に抱いていた幼いウィローの面影を見たように思った。
ウィローはマントを翻し、高松のもとに引き返した。
もう自分の『保護』はいらない。アラシヤマはコージと連れ立って医務室の扉の方に向かいかけた。
その耳に、浮き立ったウィローと高松の不穏な会話が飛び込んでくる。
「……おかげで元に戻れたがや。これで安心して新しい薬を作れるぎゃあ 」
「そうですか、私もなかなか楽しませていただきましたよ。近いうちに二人で共同して新薬開発にあたってみましょうか?」
「そらええ考えだなも。今から歯が鳴るて(今から待ちどおしいよ)」
「本当に楽しみですねぇ♪」
「作ろみゃあ、作ろみゃあ♪」
ぷつりとアラシヤマの神経の糸が切れた。アラシヤマは燃え盛らんばかりの勢いで怒鳴った。
「まーだ懲りとらんのどすか、あんさんはーっっ!!」
こうして、さまざまな思い出を残して、ちび騒ぎの二日半はそこそこ大団円に幕を閉じたのだった。
そう、一部の例外を残して……。
その頃、高松の研究室では例外が肩を寄せ合っていた。
トットリとミヤギは囚われたまま泣き叫んだ。
「それにしても……僕達……」
「いつになったら元に戻れるんだべーッッ!!」
二人の叫びは部屋にこだまし、虚しく消えた――。
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