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<1>

 三十分後、ウィローは、よろめいた足取りで本部の中をうろつき回っていた。姿勢のバランスがとりにくくて、歩きづらいこと甚だしい。
 彼が歩を進める度、周りからは、奇異なものでも見るような視線が降りそそぐ。
「おみゃあさんた、何見とらっせるの! おきゃあせ!(おまえ達、何を見てるんだよ! 放っとけ!)」
 不愉快極まれり、といった口調で、ウィローは一喝した。ただでさえ機嫌の悪いところへもってきて、見せ物状態なのだ。苛立ちはもっともだった。たとえその原因が自分にあろうとも、である。……それでも言葉遣いそのものは敬語的表現である辺り、律儀かもしれない。
「……ああ、ごがわくがや! 何で今日に限って顔見知りに会わーせんのきゃいも(ああ、腹が立つぜ! 何故今日に限って顔見知りに会わないんだろうな)」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ウィローは衆人環視の中を通り抜けていった。
 殆ど傲然として、けれど……。
 進んでゆけばゆくほど、不安ばかりが増大する。
 ……もう自分は元の姿には戻れないのだろうか?
 せめて知人を呼び止めることができればいくらか状況は改善されるのだろうが、困ったことに、遭遇するのは先刻から見ず知らずの者ばかりである。資料として記憶しているかどうかは別問題だ。
「ワシ……ずっとこのままなのきゃあ……?」
 ウィローは涙ぐみそうになって立ち止まった。いい加減息もあがってしまっている。これ以上さまようことはできそうになかった。
 立っていられなくなって、ぽてっと膝をつく。その時、
「――あ……」
 ウィローのぼやけかけた視界に、一つ向こうのエリアを横切る同僚の姿が映った。
「見つけたぎゃあ……」



 アラシヤマは書類束を抱えて通路を歩いていた。
 若いと言えど、既にガンマ団実戦部隊ナンバー2の実力者である。戦場にいる間の責任者としての立場はまだしも、帰還すればさまざまな報告書と関わらなくてはならない。もっとも事実上の作成は部下の仕事であり、彼はそれに目を通して修正してから更に上に提出するだけではあるのだが。
「やれやれ……こないなことなら、戦うとるほうがよっぽど気が楽や」
 ぼやきが口をついて出てしまう。ぼさついた髪の毛をぐしゃっとかきまわして、アラシヤマは角を曲がりかけた。その途端、
 くんっ
 服の袖が斜め下からひっぱられる。
「………?」
 アラシヤマは不自然な重力の元凶を見下ろした。視線の先にいるのは……。
「あんさん、誰や?」
 息を乱した五、六歳の男の子が、アラシヤマの上衣の袖を握り締めたまま彼を見上げていた。ただでさえ華奢な身体つきの上に紳士物の服をそのまま着ているらしく、ぶかぶかを通り越して生地が半分くらい余っている。帽子はともすればずり落ちかけ、まとっているマントなど、床を、男児の身の丈分ほどずるずると引きずっていた。
「やっとこさ知り合ぁに会えたわ……。ワシだぎゃ」
「は?」
 ボーイソプラノで、男の子はとんでもない喋り方をした。
「どえりゃあ、すたこいてまったて。……作った薬を、うっかり飲んでまったんだぎゃあ。助けたってちょー(すごく難航してしまったぜ。……作った薬を、うっかり飲んでしまったんだ。助けてやってくれよ)」
「へ?」
 状況が掴めず、アラシヤマはまじまじと男の子を見つめた。どう見ても幼稚園だ。この年頃で本部にいるということは、既に殺し屋としての命を受けていることになる。よほど優秀なのか、訳のある任務なのか―何にせよ、普通このような場所で見かけるはずのない子供だった。
「あきまへんえ、坊。……ここは、あんさんの来るところやおまへん」
 言葉に、ぶんぶんと、男の子は首をしきりに振る。殆ど脳味噌はシェイク状態ではなかろうか。
「違いますのんか? ほんなら……わてに何か用どすか?」
 どこかで見覚えがあると思いつつ、アラシヤマは訊ねた。サイドの髪だけ伸ばしてカールさせた男の子は、目に見えてむっとした。
「………」
「何処かで会うたことがありましたやろか」
「おみゃあさん、たーけきゃあも! ちーとにすねゃあ? まんだわっかーせんのきゃあ!?(おまえ、バカかよ! ちょっと鈍いんじゃねえの? まだ判らないのか!?)」
 その爆発的な口調に、アラシヤマは思わずしげしげと男の子を見やった。
「待っとくれやす。この外見……この服装……この喋り方……。まさか……ひょっとして、名古屋ウィローはん――」
 こくこくこく。
 男の子は何度も頷いた。シェイクされた脳味噌が流れ出すのではないかと思われる勢いである。
「――の隠し子……」
 ピシ……ッ
 空間に亀裂の入る音がする。男の子の、アラシヤマの服の袖を掴んだ拳はふるふると小刻みに震えていた。
 アラシヤマは気付かず、しきりに妙な感心をしている。
「……ウィローはんも隅に置けまへんな。こんな大きな隠し子がおらはったとは。それにしても、すると幾つの時の息子はんなんでっしゃろ……」
 てんてんてん……ぶつっ!
 怒りのオーラを背負った男の子から、革紐をぶち切ったような効果音が聞こえた。彼はアラシヤマの制服から手を離して一歩離れた。
 地鳴りが周辺で起こったかと思うと、突如、空間に綺麗に入ったひび割れの、その次元のはざまから、魔術師御用達の杖が出現した。
 げんっっ!
 触れる者もないまま、魔法使いの杖はアラシヤマの後頭部をしたたか殴りつけた。
「………っ!! ☆$@※#っっ!!」
 声にならない悲鳴。昏倒しなかっただけ、日頃の鍛え方がものを言ったというところである。
「なっ、何どすか?」
 頭を押さえて、アラシヤマは凶器を見た。杖は宙を飛んで、男の子の手の中に納まった。
「たーけたこと言っとりゃあすな! 本人だて!(バカなことを言ってんじゃねえよ! 本人だ!)」
「ほ・ん・に・ん?」
 身長差のせいで上目遣いにアラシヤマを睨みつける男の子。
 アラシヤマはまじまじと見なおした。
 目付きといい顔立ちといい髪型といい、あまりに幼くはあるが、血縁ではすまされないほど確かにそっくりである。
「ほんまのほんまにウィローはん……?」
「……最初からそう言っとるがね」
 アラシヤマは叫びだしそうになるのをこらえ、ひざまずいて、男の子――ウィローと目線の高さを合わせた。
「一体どうしはったんでっか!? 薬を飲んだ……て、どないなもんなんどす」
「大人を子供に変える薬だがや。ワシ、ずっとそれを作っとったんだわ」
「それを飲まはったんどすか?」
 ウィローは首肯した。
「それで、そないな姿に……。せやけど、いつもやったら誰ぞ実験台にしはるのに、今回は自分で試したんどすなァ。ええことどすわ」
「違うて! 間違えてまっただけだなも。薬を自分で飲むわけねゃあがや。ほんなおそぎゃあことしやあすか(間違えてしまっただけなんだ。薬を自分で飲むわけないじゃないか。そんな怖いことするかよ)」
 ウィローは心底不本意そうに否定した。自分で飲むのが恐ろしいような薬を、他人には平気で使う辺り、やはりガンマ団の人間の思考回路は常人のものではない。
「不可抗力どすか。……それにしても、いつまでも子供の姿でおるわけにはいきまへんやろ。元に戻る薬を作りはったらどないどす? ウィローはんやったら簡単にできますやろに」
 アラシヤマが深い心づもりもなくそう口にした途端、彼を見上げていたウィローの目にじわぁーっと涙が浮かび上がった。
「う……」
 今にも泣きだしそうに、しかし必死にこらえているらしいウィローの様子に、アラシヤマは泡を食った。
「ウ……ウィローはんっ!!」
「忘れたんだぎゃ……」
 小さな声でウィローは呟いた。涙声寸前である。
「忘れたって、何を――」
「……中和薬の作り方だぎゃあ……」
「えええぇぇーっっ?」
 思わずアラシヤマは大声を出した。何事かと、通行人がじろじろと彼を見てゆく。見かけない小さな子供と、しゃがみこんでいる実戦部隊幹部。目立つことは必至であった。
「まるきり覚えとれせんのだがや。ワシ……ワシ……」
 見る間に、溜まった涙が決壊しかける。
「……もう元に戻れーせんのだぎゃあーっ!」
 遂にウィローは泣きだしてしまった。左手にマジックワンドを握り締めたまま、抑えがきかないように声をあげている。
「うえぇーんっ。えぐえぐ」
「ウィローはん!」
「わぁーん! ひっく。ふえぇぇーん!」
 その泣き方は、幼児そのものだった。元から決して大人びた性格ではないが、少なくともこんなふうに泣くはずはなかった。外見年齢と共に、その意識も幼児退行を起こしているのかもしれない。
「ウィローはん、泣かんといてや……ウィローはんっ」
「うわあぁーん!」
 アラシヤマとウィローの周囲には人垣ができつつあった。
 このまま通路にとどまっていることはできない。盛大に泣きわめいているウィローを置いて立ち去ることは簡単だが――またわけの判らない攻撃がくることがなければ、の話だが――、アラシヤマの性格上、義理人情にもとる行為は不可能だった。
 子供になってしまい、中和薬の成分組成も忘れてしまって、おそらくウィローは、どうしたらいいのかパニック状態でガンマ団本部をさまよい歩いたのだろう。そしてその果てに知人であるアラシヤマの姿を見つけるまで、どれほど彼が心細かったことか……。そう思い、アラシヤマはいたわりを篭めてウィローの肩に手をかけた。
「わてにできる限りのことはさせてもらいますよって、泣きやんでおくれやす」
「……ほんときゃあ?」
 まだぼろぼろと涙をこぼしながら、ウィローはアラシヤマの顔を見た。
「ほんまどす。……そうや、ドクターのところに行きまひょ。あのお人やったら何とかしてくれはるかもしれまへんえ。それに、急激に若返ったことによる身体の拒否反応とか、薬の副作用とか、調べてもらわなあきまへんし。な?」
 アラシヤマは促した。こくん、と頷いて、ウィローは布地の余っているシャツの袖でごしごしと目をこすった。
「決まりや。ほな行くとしまひょか」
 アラシヤマはついと立ち上がった。
「しかし……この亀裂、何とかならんもんでっしゃろか」
 ウィローは持っている杖に目をやった。嗚咽の余韻を残す声で呪文を唱える。
「……ラゥ・シュゼア・グルス……幽き地よりいでし、魔に属するあまたのもの達よ、我が名、WILLOW――惑わせし幻影・Will-o'-the-wispの名のもとに命ずる。おのが地に還りてすべきことを為せ。然らざれば盟約に於いて、その身その魂は永劫の束縛を受けんものとせり。我が命に従え。さすれば暝闇の安息を与えん――」
 確かにその時、幼い彼の姿には『魔法使い名古屋ウィロー』の面影が重なっていた。
 ウィローがマジックワンドで次元の断層を指し示すと、空気の流れのようなものに応じて亀裂が少しずつ閉じていった。完全に裂け目が見えなくなったとき、彼の手にした杖も消滅した。
「……消したぎゃあ」
 術を行っている時の、元の姿を彷彿させる妖々とした雰囲気から一転して、ウィローは再び幼児と化していた。自分のいたずらの後始末をして親の裁定を待つ子供のような表情で、彼はアラシヤマを仰ぐ。アラシヤマはしばし悩んだ末、礼を述べた。
「……おおきに。さて、医務室に行きまっせ」
 ぽん、とウィローの頭をたたき、アラシヤマは目的地の方向へ足を向けた。
「ほらほら、あんさんら、邪魔どすえ! 退いてんか」
 アラシヤマは、周囲を取り囲んでいた団員たちを蹴散らすように道をつくった。そのままつかつかと通り過ぎる。
 ウィローは小走りにそのあとを追いかけようとして、大きすぎる着衣と靴に足をとられ、つんのめった。アラシヤマの姿を見つけるまでも散々繰り返して、実は既にボロボロである。
「………。」
 べしゃっとすっ転んだ状態のまま、ウィローは起き上がらなかった。何メートルか先に行ったところで振り返ったアラシヤマは、額を押さえ、深いため息をついた。出会った時ズタボロで荒い呼吸をしていた理由が痛いほど理解できる。
「よう判りました……わてが抱いて連れていかしていただきますわ」
 アラシヤマは一旦引き返し、ウィローをひょいと抱き上げた。
転んだ拍子に落ちた帽子を、拾ってかぶせ直してやる。
 まだその場に残っている者たちに、アラシヤマは鋭い視線を投げた。
「いつまでおるんどすか、ここは持ち場やあらしまへん。ちゃっちゃと仕事に戻りなはれ!」
 それから彼は、重さを感じていないような歩調で再び歩きだした。



「……でーれーたきゃあなも(すごく高いな)」
 医務室への道中、ウィローはアラシヤマに抱えられながら、はしゃいでいた。まだまつげが濡れているのがご愛敬である。
「ほらほら、ウィローはん、あんまり動くと危のうおまっせ」
 アラシヤマはたしなめるような口調をつくった。腕力には自信がある。五、六歳児がちょっとやそっと暴れたくらいでは、その身体をささえてやるのに何の支障もないのだが、彼はつい、ウィローの最上級の安全性を追求してしまうのだった。
 途中で、アラシヤマは直属の部下に出会った。嫌な予感を覚えつつ、相手の敬礼に答礼する。
「ア……アラシヤマさん、その子はっ?」
「もしかしてあなたの息子……!」
 やはり、であった。かけられる声にひくつきながら、アラシヤマは部下をねめつけた。
「ちゃうっ!」
 これで三回目だ。その度に否定しながら、疲労感だけが積み重なってゆく。何故、誰もかれも誤解してくれるのか。そう思いつつ、真っ先にちびウィローの存在を誤解したのが自分であることは、綺麗に忘却の彼方に追いやっているアラシヤマだった。
 アラシヤマの腕の中で、ウィローはまだきょろきょろと辺りを見回している。抱かれた180センチ相当の目線の高さというのは、幼児サイズになるまでもなく、彼にとって物珍しい光景であるのらしい。
「これは薬で子供になってしまった名古屋ウィローはんや! ええどすなっっ」
 強調しておいて、アラシヤマは片腕にウィロー、もう片手に書類封筒というさまで、すたすたと歩き去った。
「あれがウィロー参謀……。なるほどね、アラシヤマさん、本当はお人好しだから、ほっとけなかったんだろうな」
「子持ちだなんて……。オレ、密かにアラシヤマ副隊長に憧れてたのにーっ」
「……おい、おまえ、ちゃんとあの人のおっしゃったこと聞いてたか? でもいいなァ、ウィローさん、副部隊長にだっこされて……」
「ああ、子供がいたなんていたなんてーっっっ」
 まるで話を聞いていない平団員の嘆きは、無論アラシヤマの耳には届いていなかった。同僚からは嫌われ者でも、目下の人間には結構慕われている彼だった。ちなみに余談だが、この団員の名字が南と中村でありウィローと同郷であることは、ここだけの秘密である。
 二人から遠ざかってゆくアラシヤマの肩越しに、羨ましかろうと言いたげに、思いっきりウィローは彼らに向かって舌を出していた。
「何やっとらはるんどすか、ウィローはん?」
「何でもねゃあわ。……ほれより、肩車してほしいぎゃあ」
「駄目どす、ほら、ちゃんと掴まっとってや」
 置かれている状況を考えなければ、それはほのぼのとした光景だった――。



「さあ、着きましてん」
 医務室の前でアラシヤマは足を止めた。
 扉を開け、入室する。アラシヤマ一人であればまず間違いなく訪れたくはない恐怖の館だったが、ウィローのことがあっては尻込みするわけにはいかない。
「失礼します……」
 椅子に腰掛けていた医師は、来訪者に目を向けた。
 マッドサイエンティスト、スプラッタドクター、変態中年――さまざまな呼び声の高い、花も恥じらう四十三歳、もとい、当時四十一歳、素敵に無敵な我らが師匠、ドクター高松であった。この説明文の辺りに無駄なボンノーが見え隠れしているという説もあるが、気にしてはいけない。
「ああ、アラシヤマくん。ご無沙汰ですねぇ」
 ずずず……
 反射的にあとずさりそうになるのに耐え、アラシヤマはウィローを抱いたまま歩み寄った。
「ドクター、彼のことなんどすけど……」
「おや、君の隠し子ですか」
 ひくっ。
 アラシヤマは口元を痙攣させた。いい加減、言われるのも回数を重ねたが、どこをどう取ったら、このウィローが自分の子供に見えるというのだ。まるで似ていないではないか。
「これはウィローはんどす!」
 強調しながら、アラシヤマはウィローを下におろした。高松は、ほぅ、という表情になった。
「名古屋くんの子供? それにしてはまたかなり大きな……」
「違ぁーう!!」
「嘘はいけませんよ、アラシヤマくん。素直に自分の息子と認知してあげなくては。――青春時代の過ちは往々にしてあるものです、現実を認めなさい」
 ボ……ッ
 アラシヤマは燃え上がった。湯沸器でも点火までにはもう少しかかるだろう素早さだった。……次の瞬間、
 バシャッ!
 金属製の洗面器に満たされた手洗い用消毒液が、アラシヤマに浴びせられていた。
 一瞬で炎は消えた。逆に炎が大きくなりそうなものだが、特別配合であるらしい。
「ここは火気厳禁ですよ」
「ドッ……ドクター……」
 ぷすぷすとくすぶりながら、アラシヤマは高松を見返した。手にしたままの書類束はぽたぽたと雫を落としている。減菌処理はできただろうが、報告書としては使いものにはなるまい。先に提出しておけばよかった、とアラシヤマは心の片隅で思った。何にせよ、再作成で今夜は徹夜決定である。
「何しはるんでっか!」
 高松は不愉快そうな面持ちで手首を翻し、洗面器を傍らの台に戻した。
「まったく、冗談の通じない人ですね。これだから、最近の若者は……。隠し子でないことくらい最初から判ってますよ、名古屋くん本人でしょう」
「判っとらはるんやったら、そないなたちの悪い冗談はやめてんか! なあ、ウィローはん……。あれ? ウィローはん?」
 アラシヤマは医務室の中を見回した。
「名古屋くんならそこで、壁に絵を描いてますよ」
 アラシヤマは、高松のすらりとした指が差し示す先に目をやった。
 備品のサインペンを握り締め、ウィローは白い壁に楽しそうに落書きしていた。片腕に、ぬいぐるみのようなものを抱えている。
「何だかえらく可愛らしいオオコウモリを抱いてますねェ」
「……うおおぉぉーっ、わてのテヅカくん!!」
 アラシヤマは駆け寄った。
「キィーッ?」
 驚いたようにコウモリはウィローの腕の中から抜け出し、開け放されている窓からぱたぱたと飛び去っていった。
「あかんやろ、ウィローはん! 勝手にわてのテヅカくんを……あれ? テヅカくんて誰どしたかな」
 白昼の予知夢だった……。
「とにかく、ウィローはん、ここはお絵描きしてええ場所やありまへん。ほら、ドクターと話しまひょ」
「……判ったぎゃ」
 渋々ウィローは高松のもとに引き返した。
 向かい合う椅子に、ちょこんと腰を下ろす。
「ドクター、ワシ、こんなんなってまったんだぎゃあ」
「随分と若返りましたね。取り敢えず記憶の方はそのままのようで、いや重畳重畳。まあ、少々性格の幼児化は進行しているようですが――。……ああ、アラシヤマくん、その落書き、名古屋くんと話している間に消しておいて下さいよ」
「なしてわてがっ!」
「うるさいですよ、外野は黙ってて下さい。名古屋くん、君が新薬を開発していたのは知ってましたが……こういう効果を持つものだったとは」
 既にアラシヤマを無視して、高松はウィローと喋るつもりのようだった。アラシヤマはため息を洩らし、清掃道具入れから雑巾と液体洗浄剤を取り出した。生真面目ゆえに貧乏くじを引く青年の哀愁がそこにあった――。
「それにしても、自分の身で試すとは思い切ったことをしましたね。私はてっきり、新入りか学生の一人や二人、モルモットにするものだと……」
「……手違いだがや」
 ぼそりとウィローは呟いた。高松はカラカラと笑った。
「でしょうねぇ。でなきゃ、君が自分をサンプルにするはずがないと思いましたよ。実験データは他人でとってこそ意味があるものですからね」
「あたりこだわ(当然だ)。自分で自分の観察レポートをつけて何が楽しいんだて。薬は他人に試すで面白いんだがね」
「そうでしょうとも。私もバイオプラントの餌食を見つくろうのがまた愉快で……」
 要は二人とも同じ人種ということである。さすが世界に冠たるガンマ団、すばらしい性格の持ち主ばかりであった。壁の拭き掃除をしながら、二人の会話を聞き流そうとして、背筋にはしる悪寒を抑えきれなくなっていた京都出身者がフロアの一隅にいたことは言うまでもなかろう。特異体質はともかく、結構常識人の青年である。
 高松はふっとシニカルな嗤いを刻んだ。
「――さて、本題に移りましょうか。私にデータ記録をしてもらいたくて来たわけではないでしょう。用件は何です?」
「……中和薬の製造」
 初めて高松の表情に困惑の影が覗く。
「中和薬? 何故自分で作らないんです。君が調合できないわけは――」
「作り方を忘れてまったんだがや」
「忘れた――?」
「ほうだ。作ろうと思ったら、綺麗さっぱり忘れとったんだぎゃあ」
「それは……」
 高松は口ごもった。大人に戻る方法を忘れてしまっているとはご都合主義の極みである。しかし、そうでなくてはこの話自体が存在しないのだから仕方あるまい。
 高松は、確認を取るように訊ねた。
「記憶が欠如しているのはそれだけですか?」
 ウィローは肯定し、うつむき加減に答えた。
「どんだけ勘考しても、まるでわかれせんのだわ(どれだけ考えても、まるで判らないんだよ)」
 ようやく乾いたそのまなじりに、じわあっと涙がせりあがっている。
「ワシ……本当に困ってまって……ひっく……それで……えぐっ……ドクターに……」
 数秒間の沈黙。嵐の前の静けさとはこのようなものを指すのかもしれない。
「うわあぁーんっっ!」
 再びウィローは大泣きしだした。
「わーっ、ウィローはん!!」
 先刻までの悪寒もなんのその、壁をこすっていたアラシヤマは雑巾を放り投げ、慌ててとんできた。既に父性愛に目覚めつつあることに、本人は幸か不幸か気付いていない。
「泣かはったらあかん!」
 アラシヤマはかばうように手を伸ばした。ウィローはそれにぎゅっとしがみついた。
「うえぇぇ……っ」
「我慢しいや。きっと元に戻れますわ、せやから……なっ?」
「ううう……ぐすぐす……」
「よしよし、強いお人どすな」
 アラシヤマは、制服のポケットから出したハンカチでウィローの涙を拭ってやった。自作の手刺繍入りである。
 彼らの間に横たわるのは、殆ど保父と園児の関係かもしれなかった。
 早業でバックがパステルカラーに塗り替えられている上に、レインボーのシャボン玉まで飛び交っている。目の錯覚や見間違いという言葉に頼りたくなるほのぼの空間が、医務室に展開されていた。いつでもどこでもそれを出現させる特技が、南の島でコウモリ相手に活かされることになるとは、未だ知る由もないアラシヤマであった。
「……落ち着いたようですね」
 高松は、部屋を侵食しかねない空間をぐいっと押し開いて声をかけた。ウィローはべったりとアラシヤマに抱きついたまま、顔だけ高松の方に向けた。
「……事情は判りました。他ならぬ名古屋くんのためですから、この高松、一肌脱ぎましょう」
 その言葉を聞いた途端、アラシヤマは胡散臭そうな視線を高松に固定した。
「ちょっと待ってんか、ドクター。もしや、その白衣を脱いで、『五億でOK♪』とか言うんとちゃいますやろな」
「……失礼な。私がそんなことを言う筈がないでしょう」
 むっとした顔で高松は否定した。昂然と胸を張る。
「最低、十億はもらいます」
 お約束どおりのパターンであった。
「まあ、冗談はさておき――。いつまでもそのままでは、こちらも困りますしね」
 高松の生物兵器開発の際の助手の役目を、ウィローは負っているのだ。彼らの通った跡には怪しげな動植物しか蠢いていない、と恐れられる悪魔のコンビである。
「方面は微妙に違いますが、一応専門範囲ですから善処してみましょう」
「助かるぎゃあ」
 アラシヤマの制服にすっかりうずもれていたウィローは、身体を離した。
「では、取り敢えず精密検査といきましょうか。せっかくだからデータを集めなくては。自ら望んだことでないとはいえ、サンプルが一つあるんです。無駄にする気は初めからないんでしょう、名古屋くん?」
「決まっとるがや」
 さすがに転んでもただでは起きない連中である。
 高松はすっと立ち上がった。ウィローもぴょんと椅子から下りる。
「一時間で検査結果まで出ますよ。――こちらです」
「……待ちぃな! 結果どころか、精密検査の行程が一時間やそこらで終わるわけあらへんやろ!」
 もっともなアラシヤマの叫び。ああいうものは最低でも一日がかりにはなる筈である。高松は、ちらりと青年を一瞥した。
「私の伎倆とガンマ団医療機器開発スタッフが造り上げた新機器群があればそれくらい可能です。まあ、実際に作動させるのはこれが初めてですけどね」
「そんな信用の置けんもん、ウィローはんに使わんといてや!」
「本当にうるさいですねぇ。安全性の確立していないような機器を、私が名古屋くんに使用するわけないでしょう。君相手じゃあるまいし……。幾度にもわたる試験済みだから大丈夫ですよ。第一、この私の頭脳と技術が信用できない……と、君は言うんですか?」
 性・癖・が! というばかでかい書き文字をアラシヤマは背負った。
「ワシはドクターを信頼しとるぎゃあ」
 にぱっとウィローは笑顔を見せた。すっ転びそうになりつつも高松の後についてゆこうとする。
 アラシヤマは怒鳴った。
「あかんーっっ! 駄目駄目駄目駄目だめー!! ウィローはんをそないな危ない目には遭わせへんで!! 絶対に阻止したる!」
 最初に高松に頼ることを勧めたくせに、己れのトラウマが先立ってしまうアラシヤマである。
「……ふん。そんな偏狭なことだから、あんた、友達いないんですよ」
 高松は振り向きざまうっとうしそうに言葉を投げた。
 ぴきっ。
 ――ゴオォーッ
 再びアラシヤマは全身炎に包まれた。完全に頭に血が昇っている。
 その身から発する紅蓮の焔が、医務室の天井を焦がさんばかりに燃え上がった。炎は一直線に高松に襲いかかった。まさにその時、
 ドカッ!
 ばきっっ! ガラガラガラ!
 どんがらがっしゃーん!!
 すさまじい地響きと倒壊音が起こった。
 バシャン! ドドドドド……ッ!
「ぐぎゃっ!」
 圧倒的な水量がアラシヤマを打つ。水圧に、彼は壁に叩きつけられた。
「高松! 無事!?」
 消防車の放水ホースを掴んだ試作品ガンボットが、医務室の反対側の壁をぶち破って乱入してきたのである。
 そこから、まだ少年といった方がよいような幼さを残す若者が現れた。
「グンマ様」
 高松は名を呼んだ。グンマは水を止めて駆け寄ってきた。
「高松、大丈夫だった? 怪我はない?」
「勿論ですとも、グンマ様……。あなたがいらっしゃる限り、この高松は不滅です」
「わーい、高松ーっ♪」
 グンマは高松にひしっと抱きつく。空気がローズピンクに染まっていた。
「……あんさんら……」
 アラシヤマはげほがほと咳き込みながら、めりこんだ壁から身をはがした。
「人を無視して二人の世界を作らんといておくれやす!」
「……まだ生きてたんですか、あんた」
「当然どす!!」
 くすぶった煙をたてながら、アラシヤマは、殺されてたまるか、という表情でグンマ付きの高松を睨みつけた。
「剖検用死体が一つできたと思ったんですがねぇ。それはともかく、先刻も言ったでしょう、ここは火気厳禁です」
 この世に怖いものはないといった傲然とした雰囲気を漂わせ、高松は青年を見据える。根負けして、アラシヤマは目をそらした。力関係に弱い奴である。
 全身、びしょぬれなどという可愛らしい表現法では追いつかない濡れ鼠状態で、アラシヤマは頭髪からぼたぼたと水をしたたらせている。普段から隠している右目にかかる髪は貼りつき、おばけもかくやというおどろおどろしさであった。柳の下で、うらめしやぁ~~……とでもやったら、本物の幽霊が逃げてゆくかもしれない。
 対する高松は、羽織った白衣に水滴一つしみさせていなかった。
 アラシヤマは化け物を見た思いになった。いくら目標設定から外れていたとはいえ、どうしたらこの状態を保てるのだろう。
 そこまで考えて、はたと思い当たる。
「あ、そや! ウィローはん!」
 アラシヤマは近くを見回した。自分がふっとばされたくらいだ。小さな体のウィローが、医務室じゅう浸水するあの人為的鉄砲水に呑まれないはずがない。
「ウィ……ローは……ん?」
「何でゃあ?」
 口をぱくぱくさせるアラシヤマの視線の先で、ウィローは平然として立っていた。髪の毛一筋にすら水跳ねは見当たらない。
「何で濡れとらんのどす……」
 床に目を向けると、ウィローを中心として半径五十センチ内が乾いたままだった。
「ラゥ・ヴァルザ・リェイダ……我が元に再びあるべき姿を作り出せ」
 ウィローは口の中でそう唱え、軽く右手を振った。
 しゅるん……
 目に見えない防護壁のようなものが、どうやら消滅したらしい。床の水たまりがそこで初めてウィローの方に流れた。
「初歩の結界魔法だがや。おみゃあも護ったろうと思ったんだけどよ、触れとらんと他人は包みこめんのだわ。悪いなも」
「い……いや、それは別にええんどすけど……」
 結局、水の洗礼を受けたのはアラシヤマ一人ということである。自分だけ鈍かったといわれているようなものだ。
 彼は貼りついた右前髪をかきあげた。
「……まあ、何事ものうてよかったどすわ」
「へーえ……」
 グンマはようやく高松以外を眼中に収める気になったらしく、ウィローに目をやった。ウィローは大きな目で真っすぐにグンマと高松を見返した。専門分野は違えど、同じ頭脳派の団員として、先輩後輩にあたる。
「彼が名古屋ウィローくんの幼児バージョンなんだ……。結構可愛い……」
「私にとっては、グンマ様が宇宙一お可愛らしゅうございますよ」
「ほんと? 高松」
「当然です、グンマ様♪ それにしてもよくご存じですね、彼が名古屋くんだということを」
 また二人の世界に突入しながら、高松は問いかけた。
「だって、本部内でもう結構噂になってるもの」
 医務室まで来る間に、アラシヤマとウィローは散々他人の目に触れているのだ。噂の伝播は必然だった。
「ああ、なるほど。しかし、グンマ様、あまり下賤の者の風説に耳を傾けたりなさいませんよう。グンマ様はいつまでも清らかでいらっしゃらなくては」
「やだな、高松、大丈夫だよ♪♪」
「もしもォ~し……」
 いちゃいちゃという擬音が聞こえそうなアナザー・ワールドに、地の底を這いずる声が割り込む。高松は不快そうに発言者を目線で串刺しにした。
「邪魔するのが好きですね、あんた」
 声が行動できるのなら、げしっとアラシヤマに蹴りを入れていそうな口調である。高松はぽんと手を打った。
「ああ、そうだ、騒ぎで忘れるところだった。名古屋くんの精密検査をしなきゃいけませんでしたね。検査室は濡れていませんから、行きましょうか」
「判ったぎゃ」
「じゃあ、僕が機械の作動を担当するね。高松は指示とデータの読み取りをしてて」
「やっぱりグンマ様はお優しいですね。助かります」
「高松の役に立てるなら嬉しいな」
 そのまま行きかける三人に、とり残されたアラシヤマは声をぶつけた。
「こら! わてを無視して行かんといてや! ウィローはん、戻りなはれっ」
 高松は足を止め、肩越しにアラシヤマに冷たい視線を放り投げた。
「わめいてる間に服を着替えてきたらどうです? 検査室は水濡れ厳禁ですよ。それと、名古屋くんの落書き、まだ消し終わってませんね」
「………」
 アラシヤマの背後には、白い旗がぱたぱたとはためいていた……。



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