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 バサバサッ。
 手元から大量の紙が落ちていく。床の一面を白と黒い点の羅列の模様が覆い、重ねられる。辺りに積もった幾枚もの紙。けれど、それを拾おうとする動作は、シンタローには出来なかった。
「……なんのつもりだ」
 押し殺した声。非難の眼差しが、眼前の相手に向けられていた。それも当然のことだろう。綺麗に閉じていたファイルを、全て床にばら撒いてしまった要因を作ったのが、この男なのだから。
(ったく、この忙しい時に。相変わらず場を読めねぇ奴だよな)
 行きなり執務室に乱入してきたと思えば、棚からちょうど必要なファイルを取り出した自分を囲むようにして、両腕を突き出してくれたのだ。不覚だが、それがあまりにも唐突過ぎて、うっかり手に取ったばかりのファイルを床にぶちまけてしまった。
 いったい何をしたくて、こんなことをしたのか―――考えるまでもなく、わかってしまうのも、どうかと思う。
(えーっとこれで、通算何度目でしょうねぇ)
 こんな状況でありながらも、頭の片隅では、つらつらと考えてしまう。毎度とは言いたくないが、とりあえず、片手では収まりきれないぐらいの数は、こなされているのだ。
「シンタローはん」
「あん?」
 鬱陶しさしか感じられない前髪に片方の目は隠されているために、さらされたひとつの瞳が、こちらを貫くようにまっすぐに見据えられる。真剣な表情。決意を込めた面持ちで、唇が開く。
「あんさんが、好きどすえ」
 決まりきった言葉。
 予想通り過ぎて、もうなんの感慨もない。
「ああ、わーったわーった。わーったから、さっさと退け」
 それ故に、あっさりとそういうと、犬猫を追い払うように、シッシッと手を振ってみせた。
 本当ならば、ここで眼魔砲を食らわせたいのだが、ここは自分の執務室だ。一応耐眼魔砲の防壁で囲まれているが、棚に収められたファイル類、机の上の未処理書類などは、もちろん耐え切れるはずがない。うかつに発動させるわけにはいかなかった。
 ここにキンタロー辺りがいれば、こいつをあっさりと追い出してくれるのだが、あいにくあちらは現在研究室篭り中だった。ここ数日は、遠征や出張の予定がないために、自身の知的好奇心を満たす研究へと没頭しているのだ。邪魔する理由もないので、本部にいる間は、他の秘書官らがこまごましたことはやってくれるものの、こういう場面では役には立たない。
 確か、一人秘書官が部屋にいたはずだったが、今は影も形もないのだから呆れるばかりだ。もっとも、ここにいたとしても、たいした抑制力になってくれないので、この状況を見られないだけマシと思わなければいけないのかもしれない。
「何を考えとりますのん? シンタローはん」
 つい気がそれてしまったが、それをすぐさま指摘された。指摘されたからといって、気にかけることでもないのだが、それでもシンタローは、わずかばかりバツの悪げに表情を歪めた。一応、特殊な状況下である――傍目から見れば、自分は逃げられぬよう囲われている身だ――そこで、気をそらしてしまうのも、危機感がなさ過ぎる。もっとも、この相手が、自分に何かをしでかすことなどありえないのだが。
 そう――何もしないのだ、この相手は。これ以上は。
「仕事のことに決まってるだろうが。わりぃーけど、言いたいこと言ったら、とっとと出てけよ。俺を睡眠不足にさせる気か?」
 仕事が遅れれば、その分直接睡眠時間に響くことは、この相手も知っていることである。上層部では、自分の仕事内容は、話の種にもなっているのだ。
 大体この男が、ここに来たのは、先週命じていた任務に対する結果報告書を提出するためである。別にわざわざ持ってこなくてもいいのだが、部下もいなければ――こいつの下で働きたいと望むものがいないので、いつも単独任務のみである――頼む相手もいないために、一応ガンマ団幹部の肩書きを持っていながらも、こんな雑用も自分ひとりでやる。とはいえ、嬉々として、この部屋にやってくるのだから、苦にはしていないのだろう。
 それはいい。それはいいが、部屋にくるたびに、こんな風に、自分に迫ってくるのは、いい加減やめて欲しいものである。意味のないこと、とは言わないが、時間の無駄は確かなことだ。
 鬱陶しさを見せ付けるように半眼にし、これ見よがしにため息をついてみせる。その姿に、相手は嫌な顔ひとつせずに、にっこりと笑ってみせてくれた。
「それはすんまへん。ほな、わてはもう行きますわ。あんさん、あんま無理せぇへんで頑張っておくれやす」
 それだけ言うと、スッと身体を引かれた。自分を囲っていた腕が、遠ざかる。
 そのとたんに、空調完備のこの部屋にいながら、寒さを感じた気がした。こいつの特異体質のせいだろう。炎を出現さえるのは抑えているもの、その余熱でか、傍にいればほんのり暖かい。わずかな間に、その温もりに、身体がなれていたのだ。
 それに気付いてしまい、シンタローは、チッとわずかに舌打ちをした。そのぬくもりを心地よいと感じ、そうして消えたことに、残念だと思ってしまったからだ。
 ふっと相手が視界から消えた。しゃがみこんだのだ。何をするかと思えば、床に散らばった紙を集めていた。
 自分のせいで、落ちてバラバラになったことは、分かっていたようである。けれど、やっていることは、ただ無造作に散った紙を集めるだけだった。
「すんまへん、シンタローはん。これ、どないしましょ?」
 ノンブルも何もない、その紙の束を、元に戻せというのは、どうやら無理のようである。
 先ほどの強気な表情は掻き消えて、困ったような表情を浮かべる相手に、シンタローは、気を緩めるように後ろの棚に身体を持たれかけさせ、腕組した状態で、言い放った。
「全部集めて机においとけよ。後で他の奴らに片付けさせとく」
 その言葉に、ほっと安堵したように頷き、相手は手早く紙を集めると、こちらの言葉どおりの行動をした。それでどうするかと、そのままの状態で見守っていれば、一言去り際の言葉として残すと、退出していった。
 あっさりとしたものである。
 先ほど自分に迫った態度とは思えないほど、淡々としてきたもんだった。入室の時は、乱入と思えるほどの勢いで入ってきて、こちらが身構えるよりも先に、自分を捕らえる。けれど、目的を果たしてしまえば、あっさり開放されるのである。
 けれど、いつもそうだ。
 いつもいつも同じことの繰り返し。
 飽きもせずに、自分を捕らえ、告げる言葉は、自身がどれほど『シンタロー』という存在を愛しているかだけである。
(言いたいこと言いやがって)
 こちらの答えなどはなから期待していないのだ。自分の気持ちが、決して同じように返ってくることなど、まったく信じていないのである。 
 だからいつも同じことばかりである。
 自己満足だけで、帰っていく。
 だからこちらも何もしない。相手の言いたいことを言わせておいて、言い終われば、さっさと追い出す。
 相手がそういうつもりならば、こっちも負けてはいられない。相手が自己満足だけで終えているまでは、こちらの本音を告げる気はなかった。
 すでに勝負である。
 相手は、知らないだろうけれど、シンタローの中ではすでに闘争心が湧き上がっている。
 追い詰められた方が負けなのだ。
 今の状況が苦しくなり、違う行動に出た時こそ、勝敗の分かれ道なのである。
「ったく。あいつもしぶといからな」
 こちらがどれほど冷淡な行動をとろうとも、相手はこりずに同じことを仕掛けてくる。こちらがよりよい反応を見せるまで、続ける覚悟なのであろう。
 けれど、あちらが代わらぬ態度を取り続けるうちは、自分も同じような態度をとると決めている。
 追い詰めらるのは、果たしてどちらか。

 けれど、まだだ。
 まだ、どちらも余裕がある。

 否―――。

「あ~、俺の方がヤバイか?」
 少しずつ…少しずつだが、今の状況に耐えられなくなっている気がする。なぜなら、自分の指は、先ほどから机の上をコツコツと叩いている。それは抑えきれない苛立ちを表しているのだ。


 追い詰められたのはどちらの方か。
 それは、まだ不明で。
 お互いの関係も、まだ不明のままで。




 ―――――どっちが先にギブアップするか、賭けてみるか?

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 シンシンシン……。
 雪が降る。
 降り始めはいつだったのだろうか。気付けば外の景色はうっすらと雪化粧がほどこされていた。
 大粒の雪が絶え間なく降り積もる。音もなくただ、白に白を重ね、全てを覆いつくし飲み込んでいく。
 その色は、穢れなき色。
 無垢を象徴する色。
 気がつけば、シンタローは外にいた。
 吐く息が凍りつくように、白い塊となって生まれて、溶けていく。風がほとんどないためだろうか、大気は凍て付くほどの冷たさを帯びているものの、思ったほど寒さは感じなかった。
 それでも半ば衝動的に部屋から出たその姿は、部屋着のままで、防寒はされてはいない。けれど、上着を取りに戻ろうとは思わなかった。
 雪が降り積もる。
 頭に肩に……白へ染めよと言わんばかりに、雪が覆いかぶさってくる。それを払いのけることはしなかった。むしろ、望むように手を広げ、その手のひらに落ちる雪を受け止める。けれど、手に触れる雪はすぐに溶けていき、なかなか積もることはできなかった。
 広げられた手は、変わらぬ色を保っている。
「―――白く染めることもできないほど汚れているとか…な」
 思わず呟かれた言葉。
 そんなはずはなく。それがわずかな熱にも溶けやすい雪の性質だとわかっているのだけれど。それでも自分の手を見ていると、染められぬことが哀しみとなって胸の奥に滲む。
 天にかざすその手は、皮膚の色そのままだけれど、シンタローの目には、それとは違った色に見えていた。
(何度、この手を鮮血で染めたっけ)
 もう覚えてなどいない。……多すぎて。 
 一番最初の時は、嫌になるほど鮮明に覚えてはいるのだけれど―――とろりと手首に伝う自分以外の血に、情けなくも悲鳴を上げて振り払った。振り払っても地面にこすり付けても、綺麗に落ちないその赤い色に、涙を流した。救いは誰もそれを聞くものがいなかったということだろう。人の形をしたものはいたが―――それ以降は、曖昧の中にあった。それは、忘れることを願った結果か、それとも思い出すのも煩わしいほど日常であったせいか、どちらとも言えないままに、記憶の澱となって沈んでいた。
 それでも、この手の色が何色であるかは、間違えることはなく、聞かれれば、正しく『赤』だと答えられる。
 雪は止むことはなかった。それどころか、夜が深まることで、さらに激しさをまし、闇すらも染め上げるがごとく、留まることなく降り注ぎ、地上を一色に塗りつぶしていく。
 頭や肩に落ちた雪は、かなりの厚みを帯びていた。
 けれど、相変わらずこの手に雪は積もらない。すでに感覚がなくなるほど、冷え切っているにもかかわらず、それでもまだ、雪は透明な水へと変わる。
 罪の色に染まりきったその手を今更に白に染め替えたところで、犯した過去から逃れることはできないのだけれど、それでも心は救われるのだろうか―――救って欲しいと願っているのだろうか。
(今更だよな…)
 そんな虫がいいことを考えるだけ愚かである。けれど、それならばなぜ、自分はここから動けないのだろうか―――。
「何しとりますのん、シンタローはん」
 凍て付いた大気を震わす声が、不意に聞こえてきた。寒さのために身体の機能はかなり麻痺をしており、ぎこちなく振り返ってみれば、そこに人影が見えた。
「……アラシヤマ?」
 薄暗い視界、しかも雪のために視界はほとんどゼロに等しい。それでも、その独特な言葉使いや抑揚は、彼以外しかいないだろう。ほとんど朧しか見えない姿だったが、それは、雪を踏みにじるように、どかどかとこちらへ向かってきた。なんとなく怒っている様子である。実際その通りで、後一歩で自分にぶつかるというところで足を止めた相手は、低く唸るような声を発した。
「そない姿で、何をしとりますのん」
 再び重ねられる言葉。
「何って、雪見だろ」
 それに、シンタローはそうそっけなく応えた。
 それ以外に、ここにいる理由はない。当たり前のことを当たり前のように言えば、相手の手がこちらに向かってきた。
「こない冷とぉなって、何が雪見どすえ」
 アラシヤマの手は、自分を殴るためでもなく、優しく両頬に触れてきた。その手は意外なほど温かみを帯びていた。冷え切った身体に血の気を失いかけていた頬に、確かな血の通いを感じさせてくれた。
「阿呆なこと、言わんといてくだはれ」
 怒っていたはずの顔が、辛そうに歪められていた。こちらに憐れみすら感じさせるその視線に、シンタローは、両頬をはさまれたまま、ふいっと横へと向いた。
 いたたまれない。
 そう思った。アラシヤマ相手に、そんなことを思う必要はないのだけれど、なんとなく、親に悪戯を見咎められてしまった子供のような気分になってしまう。
(なんだって、こんなとこに来るんだよ)
 わざわざこんな時間に、こんな空模様の中で、ここに来る者がいるとは思わなかった。それなのに、やってきた相手が、よりもよってアラシヤマである。
 だからこそ、失敗だった。常ならば、ここまで傍になど近寄らせないのに、油断してしていて、ここまで距離を縮めさせてしまった。
(こいつだけは、こんなに至近距離にいて欲しくねぇんだよ)
 なぜなら、自分を見透かしてしまうからだ。上手く隠しているはずの感情も、アラシヤマはあっさりと見抜いてしまう。だから普段は、傍に近寄らせない。折角隠した感情を露にして欲しくないからだ。
 けれど、ここまで近寄られれば無駄だ。逃げればいいのかもしれないが、それは自尊心が許さないし、追い払うにも、相手もここまで近寄れば、簡単には追い払われてはくれない。それにもう―――気付かれている。自分がここにいる理由を。
「シンタローはん」
 強い語調で名前を呼ばれ、そらしていた視線を少しだけ戻した。
「んだよ、煩ぇな。俺のことなんて、放って置けよ」
 バツが悪く、ぶすっとした顔で、そう言い放てば、相手は未だに離さない両頬を挟むように、ぐっと力を込めた。
「そないなこと、できるはずがあらしまへんやろ」
 まっすぐな視線がこちらを貫く。片目だけ露となっているその瞳に、こちらの両の目が集中する。二つ分の視線を、しっかりと受け止めて、アラシヤマは、肩に積もっていた雪を払いのけていった。
「こないに、雪を積もらせて」
 頬が冷たい。アラシヤマの手は、肩に触れ、そうして、頭に伸ばされていた。
 目の前を、ぱらぱらと雪の欠片が落ちていく。それを手で受け止めれば、溶けて水となった。
「シンタローはん?」
「……………」
 先ほどから黙ったままの相手に、アラシヤマは、小さくため息をついた。
「あんさんは、もう…また、妙なことで悩みはっとるどすなぁ」
 分かりきったその溜息と言葉がむかつくけれど、しっかりと的確に読み取られているのは間違いなかった。
「シンタローはん、温もりを持ってはるんは、人やからでっせ」
 アラシヤマの手にも雪が触れ、溶けて、水となっていく。その手にも、いくつもの血がこびりついていた――共に戦ったことがあるために、それは確実だ―――赤く染められる手を、けれどアラシヤマ、誇るように空に向かって広げた。
「あんさんは、この手を白に染められたら気がすむんどすか?」
 空を仰いでいた視線が、こちらへ向けられる。
 どうだろうか。白い手を取り戻せれば、自分の中の罪悪感は全て消え去れるのだろうか。
 そんなことはありえない。
 即座に出てきた答えに、シンタローは、顔をゆがめた。それは、本人は意識していなかっただろうが、幼子の泣く一歩手前の顔のように無防備で、アラシヤマは、右手を空から外すと、シンタローの頬に触れさせた。雪を何度も掴み、溶かしたはずの手は、けれど、冷え切ることなく、温もりを保っていた。それを、シンタローに感じさせる。
「せやけどな。あんさんは生きているんどすえ」
 この暖かさは、生きている証だと伝えるアラシヤマに、けれど、シンタローの瞳は、暗く淀んだままだった。
「多くの命を吸い取って、だからこの手は熱を持ち、こうして雪を溶かしているんだ―――なんてことをあんさんは思ってはるんどすか?」
 そうかもしれない。
 こんなに手が暖かいのは、あの熱い血潮に触れたためなのかもしれない。
「せやったら、赤子でも人を殺してはることになりますわなぁ」
 その言葉に、シンタローは、ハッと瞳を開いた。
(そう…か)
「間違ったらあきまへん。この手は、赤にも白にも染まりまへんのや。手は、ただの手どすえ。せやから、人の命を奪った贖いは、自分自身でせなあきまへんのや」
 雪には、その罪を雪ぐことは、不可能だと告げられる。
 けれど、それでよかった。愚かな想いに囚われていた自分を目覚めさせるには、十分だった。
「ああ、そうだな」
 馬鹿な思い違いをしたものである。
 アラシヤマの言う通り、この手にかぶった罪を背負うのも償うのは、自分以外いないのだ。他の何かに消してもらうことなど、できることではなかったのである。
「大丈夫ですわ。それが辛うとも、あんさんには、わてがついてますやろ? それに―――言うのも悔しいけんど、キンタローもグンマはんも、マジック元総帥やて、あんさんをいつでも支える準備は出来とりますわ。だから、大丈夫どすえ。シンタローはん」
 そういうと、両腕が回され抱きこまれる。抗う隙など、与えてくれなかった。それよりも先に、暖かな身体が、冷え切った身体を温め行く。その心地よさに、シンタローは、その場に留まることを選んだ。
 雪は変わらず、二人に降りかかる。けれど、触れるたびにそれは溶けていく。
 決して白には染められないのは、生きているためだ。罪をその身に背負いつつも、それでも生きることの証である。
「そっか―――そうだな」
 大丈夫だと、あいつが言うならば、大丈夫なのだろう。
 自分は、まだ罪を背負いながらも生きていける。罪を贖いつつ生きていける。
(大丈夫……か)
 何度も赤く染められた手を、雪に触れさせる。変わらず水となって溶けていくその光景をかみ締めて、シンタローは、暖かなその身体にしばし身を預けた。

 シンシンシンシン……。
 雪はまだ止むこともなく降り続いていた。


 ひとつ…ふたつ…みっつ……

「まだどすえ」
 
 息苦しさに仰向く顔を、指先を伸ばし、逃さぬように捕まえて。
 覆いかぶさり、再び落とす。

 よっつ…いつつ…むっつ……

「もうギブアップどすか?」
 
 喘ぐ吐息が耳元にかかり、触れる素肌は火傷するほど熱く。
 くすくすと笑いが零れるほどに、感じる全てが楽しくて仕方ない。
 それを見せ付けられた手の内にある愛しい人の睨みさえも、いとおしい。

 ななつ…やっつ…ここのつ……

「シンタローはん。愛してますえ」

 だから、もう止められない。
 想いの数だけ口付けを。
 愛しい貴方に落としましょう。

 でも―――。

 とお……では終わらぬ口付けに…貴方はどこまで耐え切れる?

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 聞こえるは遥か――久遠の音色。




 
 乾いた大地。
 黄土色の荒野が広がるそこには、まだらに赤が混じっていた。
 鼻に纏わりつくように漂うその匂い。嗅ぎ取った瞬間、不快を示すシワを寄せるよりも先に、シンタローは嘔吐していた。
(なんで今頃…)
 黄褐色に混じる赤。そこから立ち上る匂いは、もう随分と前から噎せ返るほどの濃密さで、そこにあった。それなのに、それに反応しているのは、今である。
「……ぐッ」
 胃がひっくり返るような感触。 傍にあった岩に、とっさに縋るように手をのばした。
 屈みこむ身体を支えるために、無意識にそれに手をつけば、手袋のないそれを熱せられた石が焼く。それに意識を向ける余裕もなく、腰を屈めて、喉を開いた。そこから吐き出されるゲル状の物質。
 傍にいた壮年の兵士が、呆れた顔をわずかに見せた後、思い切りそれをしかめて、ツバを吐き捨てた。
 もどしたばかりの汚物の上に、それが混ざる。視界に入り込み、再びこみ上げる嘔吐感。
 生理的にこみ上げる涙は、頬を伝うこともできずに、目尻の上で乾いていく。
 日差しが容赦なく上から降り注いでいるのだ。
 黒い髪。熱をよく吸収するのか、頭の奥の方から鈍い痛みとなって鳴り響く。
 グラグラする。
 目を開けることも辛く、固く瞑られた瞼の上を、涙と汗が混じる液体に濡れる。
 座り込むことはできなかった。そうすれば、楽だとわかっていても、その後、自分が立てる自身がなかった。
 今、かろうじてこうして立っていられるのは、自分が総帥の息子であるというプライド。そうしてプレッシャー。背中にかかる重みを支えようと、それだけに意識を向けるだけに立っていられる。
 それに屈して座り込んだ時は、自分は二度とこの場所には―――戦場には立てないという恐れがあった。否、自分自身がどこにも存在できぬだろう絶望に駆られた。
 そう、ここは戦場だった。
 今は――そうではない。
 戦いは、数分前に終えた。否、あれが戦いと呼べればだが……。
 初の実践的な戦闘。参加したシンタロー側は、圧倒的な人数と武力を誇っていた。命の心配などするヒマなどないほどに、予定通りの地区を制圧し終えた。
 最後に残ったのは、赤く染まった物体。そこから漏れ出す嘔吐を誘う臭気。
 戦闘中は、それすら気にする余裕などなかったのに、敵側を殲滅し、一応の終結を迎え、辺りが静かになったとたん、それは鼻にきた。
 それを自覚したとたん、堪え切れなかった。
 血の香をかぐのが初めてなわけではない。だが、辺りの大気を赤く染め上げるほどの血の匂いは、初めてだった。何よりも目の前に横たわるぬくもりのない人の身体。それを与えたのが自分でもあるという事実。
 一気に背筋が震え、冷水を浴びたように身体が冷え、胃が縮まり、そうして吐き気を覚えた。
 人の命を奪うという初めての行為。それに目を背けるようにして、こみ上げる嘔吐感とともにシンタローは、腰を深く折り曲げていた。
(それでも…俺は間違ってない)
 必死でいい聞かさなければ、自分を保てぬほど疲労している心。そうだとしても……だからこそ、強く自分に言い聞かせる。
(間違ってない)
 これは、必然の出来事である。
 自分の手で、人を殺す。
 それは自分の人生には、避けて通ることのできないことなのだ。少なくとも―――あの親父の背中を追うのだと決意した時から。
 辺りは、静かだった。 
 物音がしない。いや、遠くの方では人の声がちらほらと聞こえてくる。たぶん引き上げていっているのだ。総帥の息子である自分をここにおいていくことはありえないが、それでも、最後に合流するのは、彼らの好奇の視線にさらされることとなる。
 早く行かなければ。
 そう思うものの、岩にかけられた手がはずせない。足が思うように動かない。
(情けねぇ――――ん?)
 自分の情けなさに、先ほどの生理的な涙とは違うものが、目尻にこみ上げてきだしたその時、耳元で柔らかな音色が聞こえてきた。
「さくら~さくら~…」
 それは日本の歌。
 春を代表する優しい曲調の唄。
 遠く久しく聞いてない音。
 誰が歌っている?
(――アラシヤマ)
 それを口ずさんでいたのは、同じ部隊に配属されていた、アラシヤマだった。
 自分と同じように、今日が実践としての初の戦場にもかかわらず、見た目は平然としている。同じ体験をしたはずなのに、この違い。
 不意に羞恥を覚え、シンタローは、胃液で濡れた口元をすぐさま拭った。
 アラシヤマは、東の方へと顔を向け、こちらには背を見せていた。振り返ることなく、アラシヤマは、唄を止めると声をかける。
「行きますえ、シンタローはん。はよう帰らんと、桜の花を見逃しますわ」
 そう言えば、日本は丁度桜の花咲く時期だ。
 日本にある士官学校にも桜並木がある。そこでよくこっそり酒を持ち合い花見をやった。もっとも目の前の男は、その性格ゆえに、その仲間に加わったことはないが。それでも、一人桜の下で佇み、花見をしている姿は何度もみかけていた。
(ああ、そうだな)
 アラシヤマの言葉で思い出す。
 ここへ来たのはまだようやく梅が綻ぶころだった。けれど、もう日本では春爛漫の季節が訪れているのだ。
(見たいな……桜)
 あの淡い薄紅色の艶やかな姿。盛りを過ぎれば、ひらりと舞い散るその潔くも儚げな姿。
 思い出せば出すほど、その目で見たくなる。
(帰らないとな…)
 帰ると誓ったことを思い出す。
 戦場へ赴くと決まった時から、この結末は予期していたことのはずだった。それなのに、今の自分の醜態はどうだろうか。
 風が吹く、赤く濡れた大地を覆い隠すように、黄土色の風が巻き起こる。そこに含まれる匂いが、鼻腔をくすぐった。けれど、もう嘔吐することはなかった。
 目の前の現実から逃れるために、吐き出されたそれは、けれど自分が飲み込んでいかなければいけないことだと気付いたからだ。
「さくら~さくら~…」
 またアラシヤマが、歌いだす。けれど、その唄は、徐々に遠く遥かから聞こえてきだす。
 自分を置いて、部隊の方へと戻っていっているのだ。ただ、一言声をかけただけで、また戻っていく。
 だが、それでありがたかった。
 下手に手を出されれば、自分はその手にすがっていたかもしれない。一時ではなく、ずっとだ。
 そんなことは、自分は望まない。そして、相手も望んでいないのだろう。
「……行くか」
 嘔吐のおかげですっぱくなってしまった喉をいやすように、何度もツバを呑みこみ、シンタローは立ち上がった。
 立ち篭る血の香も、吹き荒ぶ風に薄れ、赤く染められた大地も巻き上がる砂煙によって消えかかっている。
 けれど、自分の手にはまだ、べったりとこびりついた血が残っていた。
 シンタローは、それを握り締める。
 恐れ、それを拭おうとした自分はもういない。
(これは、俺の血だ)
 その赤い血とともに、自分は生きていくと決めたのだ。それならば、もう目をそむけることはない。
「帰ったら、まずは花見に行こうか」
 日本へと続く青空をみあげ、シンタローは一歩前に歩きだした。
  
   
 





 ああ、今日だ………。


 9月12日。朝一番に確認したのは、その日付で、カレンダーを見ても、テレビを見ても、それは揺ぎ無かった。後、一ヶ月ぐらい後に、それがくればよかったのに、というのは正直な感想だったが、けれど、今日と言う日は、今日来るのは、当然のことで、今更、変更などきくはずもなかった。
 それならば、今日をどうすればいいのか―――。
「シンタロー、今日は何かあるのか?」
 ふっと視線を書類以外の場所へ向けたとたん、問いかけられたその言葉に、シンタローは、相手が驚くほどびくりと肩を震わせた。
「え? は?」
 ガンマ団総帥として部下には見せられないほどのうろたえぶりである。補佐をしているキンタローも、呆れた顔で、そんな総帥を見ていた。
「……何をそんなに驚いているんだ」
「べ、別に」
 平素を装うとしたはずなのに、思わずどもってしまい、『しまった』と心中で舌打ちするものの、そこはもう取り返しのつかないことである。どう誤魔化そうかと思考を必死にめぐらせるが、こういう時に限っていい案など浮かびはしなかった。
 さらに慌てふためく相手に、
「今日はやけに、日付や時間を気にしているみたいだが、何かあるのか?」
 キンタローは的確な質問をしてくれるが、シンタローは、グッと息を飲むものの、正直な答えを口にすることはできなかった。できるはずがない。今日、確かに『何か』はあるが、それは自分にとって大事なことであり、他者には決して知られたくないことなのである。
「なんでもねぇよ。さ、仕事仕事!」
 これ以上追求されないように、わざとらしく大声を出しながら、まだ未決済の書類を、シンタローは握り締めた。
 



 ああ、どうしようか……。

 
 チチチチッ。時計の秒針は止まらずに動いている。なんて規則正しいのだろうか。少しばかりとまってくれればいいものを。その融通のなさが、苛立ったしまう。
「シンちゃん、どうしたの? じっと時計なんか見つめて。カップラーメンでも作ってる?」
 その能天気な言葉に、胡乱な表情を浮かべたシンタローはゆっくりと顔をあげて、グンマに視線を向けた。
「カップラーメンなんてどこにあるんだよ、グンマ」
 昼食が片付けられたダイニングテーブルの上には、それらしきものは、一切見当たらない。
「だって、それ以外に、そんなに真剣に時計を見る必要ってある?」
 なくはないだろう、とは思うものの、具体的な例をあげることが出来なかったため、口を噤んだ。
 もちろん、自分が時計を見つめる理由など教えられるはずもない。
「確かにないな。なんでもない。気にするな」
 誤魔化すように、そう言い放って、シンタローは、立ち上がった。




 ああ、決まらない……。


 うろうろうろうろ。挙動不審極まりなく、あてもなく廊下を歩く。どこへ行けばいいのか、定めることができないまま、波間をたゆとうクラゲのごとく、ふらふらと歩き回る。
「シンちゃんv どうしたんだい? ヒマならパパと午後のお茶でもー――」
「眼魔砲ッ!」
 駆け寄ってきたピンクスーツの男に、シンタローは、すっと右手を前に突き出して、必殺技を繰り出した。
 暇などない。むしろ、焦りばかりが生まれて、どうしようもなくて、一箇所でじっとしていることもできずに、うろついてしまうのだ。
 眼魔砲を放ったばかりの手を、シンタローは、じっと見つめた。その手には何も無い。今日、持つべきものが一つも無い。
「くそっ」
 自分の手を握り締め、腹立ち紛れに、いつの間にか復活して忍び寄ってきた父親の顔を殴った。




 ああ、情けない……。


 9月12日。カレンダーがその日を示すのは、後わずか。
 チチチチッ。時計が、明日を示すのは、ほんの数分後。
 うろうろうろ。それでも目的地に足を止めることがなく、うろつきまわる足。
「……いい加減にしろよ、俺」
 今日一日の行動を思い返して、自己嫌悪に陥ってしまう。

 本当は、何をしたいのか。
 最初から、分かっていたというのに―――――会いに行けばいいのだ。

 それでも、決心はつかないために、揺れ動く心に身体が反応する。いい加減タイムリミットは近づいているというのに、いったいどうすればいいものか。

 ガチャッ。
 だが、不意に目の前のドアが開いた。

 ビクッ!
 盛大に戦慄く身体。とっさに逃げ出そうとしたが、けれど、すぐさまそこから覗かれた顔に、かろうじて留まった。
「シンタローはん?」
 相手の心底驚いた顔に、シンタローはバツが悪げにふいっと顔をそらした。それでも逃げ出すことはなく、その場に留まったままでいられたのは、我ながら重畳といったところである。まだ、逃げたい気持ちがあるものの、それは必死に押さえ込んでいた。
「どないしはったん? こんな夜更けに」
 人の気配がすると思い、気のせいかと思ったが、外へ出て見て驚いた。
 思わぬ人が、そこにいたのだ。
「……………」
 沈黙を保つ相手に、どういう言葉を告げればいいか迷ってしまう。いつもならば、こちらが何か言う前に、彼の方から自分を吹っ飛ばすのが常なのだ。もちろん手加減はしてくれるし、何よりそれが、彼の照れ隠しであることが分かっているのだが、今日は様子が少し違う。
「シンタローはん……?」
 いったいどうしたというのだろうか。
 首を傾げて考えてみるものの、理由が見当たらない。けれど、彼がそこにいつまでもいていいはずはないことは、理解していた。彼は、ガンマ団総帥である。誰よりも重い責任を持ち、そして、常に気を張って仕事に励んでいるのだ。その疲れは、自分の想像にも想像つかないもので、こんな場所で、無為に時間を過ごさせるわけにはいかなかった。それよりも、一時でもいい。彼には休んで欲しかった。
 そのために、アラシヤマは口を開いた。
「もうすぐ、日付も変わる時間帯やし……何の用かわかりまへんが、大した用やなかったら帰りはった方が―――」
 そう言った瞬間、自分の身体が大きく傾いたのを、アラシヤマは自覚した。とっさに体勢を元に戻そうとするが、それよりも早く、自分の顔目掛けて、何かがぶつかってきた。
 チュッ。
 小さく音立てたのは、自分の唇。
 驚いて、目を丸くする自分の瞳に映ったのは、これ以上ないほど真っ赤な顔をした―――愛しい人の姿だった。
「―――誕生日おめでとう。アラシヤマ」
 ようやく耳に届くほど、か細い声で告げられた言葉。
 信じられないと一瞬脳裏で否定するが、けれど、耳に届いたのは紛れもなく、自分の誕生日を祝福する言葉だった。
 そうだ。今日は9月12日―――自分の誕生日だった。
 気付いたのは、彼の言葉を耳にした後だった。
「シ、シンタローはん………その言葉をわてに?」
 頬を紅潮させたまま、仏頂面した様子の相手に、恐る恐るアラシヤマが訊ねれば、キッと睨みつけるような鋭い視線をもらった。
「プレゼントとか……わかんねぇし。お前、何も欲しがらねぇし―――でも、前に言ってただろ……だからだッ!」
 そう怒鳴るように言い放つと、そのまま、くるりと回れ右をして、肩を怒らすようにして、ずんずんと遠ざかったっていった。その恋人の背中を茫然と見つめ、そして、その姿が消えたとたん、アラシヤマは、手近な壁に、とんと背中を預けた。
 一気に気が抜けたのだ。
「なんですのん……」
 そのまま、ずるりと座りこむ。それほど、自分は驚いていた。
 恐る恐る自分の唇に触れる。
 先ほど、ここに、初めて彼から口付けをしてもらった。いつもは、自分から。それも騙したり、不意打ちだったり、あるいはムードに酔わせて口付けしているばかりである。恥かしがりやな恋人は、自分かそうすることを、嫌がってばかりだったのだ。もちろん、相手からキスをしてもらいたいという願いは、持っていて、時折、ぽつりとそうして欲しいことは漏らしたことはあるが、期待などはしていなかった。
 自分からのキスを拒まれさえしなければ、それでいいと納得していたのだ。
 それなのに、まさか――――。
「あれは……わてのことを思ってのもんでっしゃろ?」
 先ほどのキス。
 それは、紛れもなく自分への誕生日プレゼントである。
 自分が何を一番欲しているのか―――きっと一生懸命考えたゆえのプレゼント。
 自然と綻ぶ顔。しまりのない笑みは、きっと見るものがいれば、喜色悪く感じるだろうが、かまわなかった。今、周りには誰もいないのだ。
 だから―――。

「愛してますえ、シンタローはん。―――おおきに」

 素敵な誕生日を届けるために、ここまで来てくれた恋人に、甘く囁くように言葉を捧げた。

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