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 泣けばいい―――そう思う



 他者を拒絶する冷たい背中に、躊躇いがちに、それでも確かに感じるほどに触れる。
 ぴくりとも動かぬ背中。自分が触れることなど、とおにわかっていたというように、静かに滑らかに振り返られた。
「シンタローはん」
 わずかに下瞼を持ち上げるようにして、ゆるりとした笑みを浮かべる。嬉しそうに声は少し弾ませて、触れてくれた相手に喜びを見せる。
 逆にこちらは、眦を吊り上げ、への字に口をへし曲げる。眉間に皺を何重も作り、不機嫌さも露わな表情を見せる。
「………どないしはりましたん? なんぞ、わてがあんさんの機嫌を損ねるようなことしはったんやろか」
 気遣うような眼差し。こちらの心情を慮る様子に嘘はなく、だからこそ、腹立たしい。
「シンタローはん?」
 一言も発しない自分に、訝しげな表情が強くなる。
(泣けばいい)
 何があったのかは知らない。けれど、全身から悲哀を滲み出していた背中を見れば、泣きたくなるほどのことがあったことは想像がつく。それでも、その顔に涙がひとつも浮かんでないことはわかっていた。いや、おそらくそうであろうと予想していた。実際、彼の顔を見るまで、泣いていたかどうか、明確な判断は出来なかった。
 そして、今は、その予想が当たっていたことがわかった。
(なぜ、泣かない?)
 泣けないほど哀しいことがあったのだろうか。
 確かに、限界以上の哀しさに襲われると人は泣けなくなる。泣くことすら忘れてしまうのだ。
 アラシヤマもそうなのだろうか。
 だが、我を忘れるほどの哀しみの中にいるようには見えない。自分を前にして、気遣うように様子を伺う様は、深い哀しみに囚われているようには見えなかった。
 だから、きっと彼の持つ哀しみは、泣ける哀しみなのだ。
 けれど、涙は見当たらない。
(なぜ、泣けない?)
 自分がいるせいだろうか。いいや、自分がいない時にも、彼は泣いている様子はなかった。ならば―――それは。
「シンタローはん」
 優しく名前を呼んでくれる相手の瞳を見つめる。やんわりと笑み形作るその瞳は、いつもと変わらぬままで―――泣くことなど忘れているようで―――けれど、そうではないのだ。
(ああ、こいつは泣き方を知らないんだ)
 それは、確かな真実であることを確信し。
「シンタローはん、わてがなんかしましたやろか?」
 何かしたのではなく、何も―――泣くことをしない相手に、シンタローは沈黙を保ったまま、一粒涙を流した

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 とろりと零れる赤い液体。触れればぬるりと肌を滑る。それほどの量が流れていた。
「馬鹿……が」
 罵倒の言葉。けれど、呟かれたそれに力はなかった。赤く濡れた肌に、触れていた指先も小刻みに震えているのが分かる。そのために、そっと表面をなぜるつもりが、軽く皮膚を押してしまった。
「ッ!」
 そのとたん零れた、痛みを堪える音に、慌てて手を離す。
「悪ぃ」
 即座に漏れた謝罪の言葉。だが、受け取った相手は、無理やりだと分かる笑顔を浮かべて、首を横へと小さく振った。
「かましまへん。せやけど……ちょっと…離れてくれまへんか? あんさんが汚れてしまう」
 途切れ途切れに零れる言葉は、そのつど苦しげな吐息が吐かれる。 
 一瞬、泣きそうな表情な表情が浮かぶものの、シンタローは、その言葉を無視して、アラシヤマを抱きかかえた。それで楽になるとは思わないが、不衛生な地面にそのまま寝転がらせるのも躊躇ったのだ。
 アラシヤマを抱きかかえたことで、深緑の制服が、見る間に黒い染みとなる。
「……わての血が」
「煩い、黙ってろ!」
 妙なことを気にする相手に、シンタローは、叱咤するように言い放った。
 じりじりと焦りが内を焦がす。
 自分が、今は役立たずな存在であることは、痛いほどわかっていた。大怪我を負った彼に、早く手当てをするべきなのだろうことはわかっている。けれど、自分が出来る応急処置は、すでに終えてしまっていた。それでも、血が――止まらない。
 医療班が来るのは、もう少し先である。その間に、手遅れになってしまったら―――。
 ぞくり……。
 背筋が凍る。それを想像したとたん、根底から揺さぶられるほどの恐怖を感じた。
「シンタローはん? 寒いんでっか。なんなら、わてが炎を出して…」
「するなッ!」
 震えた自分を気遣ってくれたのだろうが、そんなことをすれば、かろうじて取り留めている命などあっという間に消えてしまう。そんなことは許されるはずがなかった。
「お願いだから…しゃべるな……じっとしておいてくれ」
 その身体を抱き寄せ、覆いかぶさるようにして懇願する。触れた身体は、冷たく感じて、それに直結してしまう『死』という存在が恐ろしかった。
 彼を失うことが、こんなにも怖いこととは思わなかった。自分の身体を制御できないほど震えてしまう。
「アラシヤマ」
 名を呼べば、いつものように笑みを浮かべてくれる。だが、それが酷くぎこちなく弱弱しく見えた。いったい、この身体の中でどれほどの勢いで、生命の灯火が揺らめいているのだろう。容易く消えてしまいそうな、そんな想像をしてしまうほど、急速に力が抜けていく体を、必死で抱きしめる。その命ごと引き止めるように。
「アラシヤマ」
 名を呼んでも、声は返ってこない。
「アラシヤマ」
 抱えた身体の重みが増す。
「神様ッ!」
 シンタローは、天を仰いだ。そこに、何かがいると信じて願う。奇跡を与えてくれる存在があると信じて乞う。
(天に召します神様。どうか、どうかお願いだから、こいつを連れていかないでくれ)
 自分から、彼を奪わないで欲しい。
 そう必死に、希う。何度も何度も同じ言葉を祈り続けた。
 神の存在など、必要な時しか思い出さない。ただ、身勝手な願いを口にするばかりで、叶うことなど期待はしていなかった。
 だが、今は違う。
「神様……神様、お願いだから―――」
 シンタローは、目を瞑り、純粋に神へ祈りを捧げる。
(天に召します神様。どうか、どうかお願いだから、こいつの命を助けてくれ)
 それ以上、他に望みは口にはしない。今、ここにある消え行く命を救ってくれれば、二度と願いはしないから。



 ―――――天に召します神様……どうか救いの手を
 

 漆黒の帳に隠されたもの。それを見れる特権は限られた者だけ――それが、喜ばしいことかどうかは置いておき、シンタローは、久しぶりに露になったそれを、しみじみと眺めた。
「やっぱ、両目を晒すと違和感ありまくりだな」
「へえ」
 自分の顔にいちゃもんをつけられたというのに、気のない返事が帰ってくる。それも仕方ないだろう。毎回、自分の両目を眺めるたびに言われているのだ。
 書類を持って、総帥室へ入ると、珍しく秘書官達の姿はなかった。そのせいか、退屈しのぎとばかりに、普段は前髪で隠れている右目を露わにされてしまった。
 たまにやられることがある。もちろん、誰もいないことが大前提だ。それゆえにアラシヤマの方も抵抗しなかった。
 両の目に愛する人の姿が映るが、どことなくぶれて見えてしまう。普段は使わない右目もその姿を映そうとしているせいだ。
 だから嫌なのだ、この右目でものを見る行為が。
(ほんま、使えへんわ)
 折角愛しい人を間近で拝めるチャンスだというのに、この目は正しく像を結んではくれない。
 それに苛立っていると、ふっと左方面から影が生まれた。
「ッ!」
 行き成り左目が、シンタローの手に塞がれる。わずかながらも狼狽してしまったことに羞恥を覚えつつ、アラシヤマは、ぼやけた視界で、シンタローを見上げた。
「何しますのん?」
「いや、こうするとほとんど見えねぇのかなぁと思ってな」
「ほんまにほとんど見えまへんで? けど、そないなことあんさんには分かりまへんやろ」
 右目の視力は、ほとんどなかった。それは昔の自分の愚かな行動の罰である。生み出した炎の強い光で、右目だけが焼かれてしまったのだ。それから、ほとんど右目はものをよく映さなくなり、強い光にもダメになった。だからこそ、普段は前髪で覆っているのだ。
「ん~。確かにそうだよなぁ」
「ッ!?」
 シンタローの顔が近づき、吐息が触れるほどの距離になる。
 しかし、それもわずかの間だけだった。すぐに、その顔は去っていく。
「わかるぜ。見えてねぇのはよ」
 そう言うと、可笑しそうにくすくすと身体を揺すって笑いだす。左目を覆っていた右手も、するりと自分からはずれた。
「見えてる状態のお前だったら、この状況で何もしないわけがないだろ?」
 そう断言されて、アラシヤマは、思わずはあ、と溜息をついた。
 確かにそうかもしれない。あの美味しい状況ならば、自分も唇を近づけただろう。だが、先ほどは出来なかった。像が上手く結ばれないから、シンタローとの距離も唇の位置もきちんと把握できなかったのだ。
 それでも、外さないという気持ちもあったが、それで万が一外してしまった時が怖かった。
 まだ可笑しそうに笑うシンタローがすぐ傍にいる。アラシヤマは、乱れていた前髪を直した。再び、右目に漆黒の壁が作られる。
 これで元通り。
「ほなら、今はされて当然ということどすな」
「ッ!?」
 しっかりと愛しい人の距離と位置を掴んだアラシヤマは、遠慮なくシンタローに口付けた。
「てめッ!」
「ほな、ごちそうはん♪」
 当然のごとく、眼魔砲を打つ動作を始めた可愛い人に、アラシヤマはそう言うと、さっさと退出した。長居は無用。というよりも、素早く退出しなければ命の危険である。
 その直後に、ドアが爆発音とともに盛り上がったのが見えたが、もちろん、その原因は言わずもがなである。けれど、先に悪戯をしかけたのは、あちらの方なのだから、こちらは謝る言われはない。
「けど…あんさんだけでっせ」
 自分の右目は、認めたくない自分の中の弱み。けれど、それをさらけ出しても怒らないのは、シンタロー限定である。
 気付いているのだろうか――気付いているに違いない。だからこそ誰もいない場所で、自分の右目を眺めるのだ。その特権に愉悦を覚えるために。
「ほんま、可愛いお人どすなぁ」
 漆黒の髪の上から役に立たない右目を撫でる。だがそれを見れのが、これのおかげだとすれば十分存在価値があった

 
『何が欲しい?』


 そう訊ねて、返って来た答えは、「あんさんが傍にいてくれはるだけで十分どす」だった。
 ここにいるだけで、もう何もいらない。満足している。そう言ってくれた。
「―――つまんねぇ奴」
 その言葉に、俺ははっきりきっぱり切り捨てた。




「………シ、シンタローはん?」
 恐る恐るといった感じで、こちらに視線を向けるのは、アラシヤマだ。長く伸びた前髪で片目が覆われ、隠されているために、俯き加減のまま、こちらをそろりと見上げる姿は、実に鬱陶しい。
「ああ? なんだよ」
 眼光鋭く睨みつけ、不機嫌そのものといった態度でそう答えれば、さっと視線をそらし、しっかりと俯いたまま、ぼそぼそとしゃべり出した。
「あの……その……なんで、わての部屋に居座っておりますのん?」
 ここは、アラシヤマの部屋だ。幹部に与えられている部屋は、他の団員に比べて格段に広い上に部屋数もある。勝手に畳みを持ち込み、純和風の部屋にしているアラシヤマの部屋の一室に、朝からシンタローは居座っていた。別にここが気に入っているわけではない。確かに、畳の部屋は落ち着くが、畳の部屋なら自分の住居にもある。ただ、ここにアラシヤマがいるから、いるだけである。その相手は、朝からずっと書類作成に追われていた。
「俺が邪魔か?」
 そう訊ねれば、飛び跳ねるようにして否定する。
「そないなことは! ……ありまへんのやけど」
 けれど、語尾が酷く濁っていた。確かに、何も言わずに部屋に上がりこんでから、説明もないままアラシヤマの傍にいるのだ。不審に思わない方がおかしい。
 もちろん訪れた時、もてなすつもりお茶などを出そうとしたが、それは全てて理由なく断られた。はっきりとした拒絶に、それ以上押し付けるわけにもいかず、手持ちぶたさになったために、仕事を続けていたのだが、それもそろそろ限界だった。
「その………なして、シンタローはんはここに?」
 ようやく訊ねられた質問。ここに来てから、軽く三時間は経過していた。
 溜息つきたくなるが、それを押し込んで、シンタローは、その質問に答えてあげた。
「―――お前がいったんだろ?」
「は?」
 心当たりがまったくありませんという顔。その顔に拳をめり込ませたくなったが、それも我慢した。深呼吸して、改めて口を開く。
「この間、『何が欲しい?』ってお前に聞いたら、俺が傍にいるだけでいいって言ったじゃないか」
 だから、その通りに行動してやっているのである。まさか、実際そうしてくれるとは思っていなかったようである。
「………ほ、本気どすか?」
「ああ、本気だとも。今日一日お前の傍にいてやるよ。傍にいるだけだがな!」
 うろたえる相手に向かって、そうしっかりと宣言した。
 けれど、他に何かをしてやるということはない。言葉どおり、ただ、黙ってアラシヤマの半径二メートル以内に居続けるつもりだった。
「せやけどシンタローはん、ちっとも楽しそうな顔してまへんけど……」
「そりゃあ、別に楽しくないからな」
 正直、面倒にはなってきた。ただ、黙って傍にいるだけなのだが、何もしないと落ちつかない。ぐるりと部屋を見回す。綺麗に掃除が行き届いている。洗濯物もなさそうだ。残るは、料理だけだが、今日だけはアラシヤマのために料理などする気にもなれなかった。
 本気で本当に、アラシヤマの傍にいるだけにすると決めたのだ。
 それを望んだのがアラシヤマなのだから、つべこべ言わす気はない。まだ、何か言いたそうなアラシヤマを鋭い視線で串刺しにして、黙らせた。
「……それにしてもあっちぃーな」
 アラシヤマの部屋にはクーラーがない。人工的な冷風が嫌いだそうで、つけられていないのである。かろうじて扇風機だけはあって、回っているが、生温い風を拡散させられても涼しさは、あまり望めない。健康にはいいが、じっとりと汗ばんでくるのは不快である。
 南国のパプワ島で過ごした時と同じ涼しげな格好でいるものの、あそこの暑さとは全然違い、このべたつく湿気にはうんざりする。
 だが、ちらりと横にいるアラシヤマを見上げれば、相手は汗ひとつかいてなかった。それもそのはず。炎を身体から自在に生み出す彼は、体温調節に長けているのだ。お陰で、クーラーいらずだが、客のことも考えて欲しいものである。
(……って、こいつには招く相手がいないか)
 だからこそ、クーラーいらずのままでいられるのだ。
 自分だけ涼しい顔をしているのが、かなりイラつく。
(あ~~、今度無理やりつけさせようか)
 だが、そうなると今度は、この部屋に来なくてはいけなくなりそうである。そこまで考えてから、クーラー取り付け案は、却下した。
「あちぃ~」
 一応、窓も全開に開けられていて、かすかだが風も入ってくるのだが、それでも室温は、冷暖房完備の他の施設に比べて高いはずである。
 耐え切れず、シンタローは、降ろしたままの髪を束ねた。幾分か首裏が涼しくなる。これに気をよくし、シンタローは、アラシヤマの部屋を物色し、たぶん着物の帯紐だろう、棚の上に無造作に置かれていたそれを勝手に拝借して、ポニーテールの要領で髪をかきあげると、それで結んだ。
「シンタローはん……」
 そこまでやって、アラシヤマがこちらをずっと見ていたことに気がついた。眉根をきゅっと寄せており、何か言いたげな視線である。
「なんだよ。この紐借りたらいけなかったのか?」
 首元が快適になったばかりだというのに、返す気はない。
「それは差し上げますが……そうやのぉて」
 歯切れの悪い口調。
「なんだよ」
 なかなかはっきりと物を言わないアラシヤマに、苛立つようにシンタローは、手で顔を仰いだ。首元は涼しくなったが、やはりまだ暑い。それだけでは足りなくて、バサバサとタンクトップの首元を掴んで、腹の方に空気を送る。
「シ、シンタローはん!」
 とたんに慌てた様子で、ひとりバタバタとする相手に、シンタローはじとりとねめつけるような眼差しを送った。
「だから、なんだよ」
 先ほどから、煩い。
 もしかして、自分が傍にいることが煩わしくなったのだろうか。それならそれで、はっきり言って欲しいものである。
「お前の願いをきいて、傍にいてやってるんだ。文句があるなら言え! 特別に、あと一回ぐらい言うこと聞いてやってもいいぞ」
「文句やなんて……」
 やはり、はっきりとしないまま、もごもごと口を動かし、言葉にしないまま、それは閉じられた。それでも、ちらちらと時折こちらを見る視線は、うざったい。いったい、なんだというのだろうか。
 不満があれば、さっさと言って欲しかった。こちらとしても、それほど楽しいことではないのだ。
(………別に、こいつの傍にいたくないわけじゃねぇけどさ)
 不本意ながら、相手は恋人で。世の中間違っている気がするけれど、惚れてる相手で。だから、傍にいたくないわけではない。お互い仕事が忙しくて、一緒にいられる時間など短くて、本当ならば、もっと喜ばなければいけない状況なのである。
 けれど、つまらない。
(大体、こいつが悪いんだ! 俺が親切にもこいつのために何かしてやろうと思ったにもかかわらず、つまんねぇ答えをするから……)
 期待していたのは、そんなもんではなかった。大それたことなど言えないことはわかっていたけれど、それでも、何か―――それこそ、本当に他愛のない、料理を作って欲しいとか、一緒にデートして欲しいとか、キスして欲しいとか―――そういう答えを考えていたのだ。
 自分が、相手のために何かした、という満足感が得られるものを。
 けれど、相手が望んだのは、傍にいてくれるだけでいい、という単純明快、あっさりとしたもの。シンタローにとっては、それは、当たり前のことで、彼のために何か尽くしてやろうという気持ちを打ち砕くものだった。
 もっとも、こっちが勝手に期待して、かってに落ち込んでいるだけなのだが。
 けれど、気持ちが収まらないので、腹いせも交じって、朝からアラシヤマの部屋に押し入って、傍にくっついていたのだった。



 すっとアラシヤマが立ち上がる気配がした。動くその姿を追うように見上げると、先ほどまで作成していた紙の束を持っている。
「出かけるのか?」
「へえ。これを出しに」
 仕上げた書類の束をかかげてそう言った。幹部であるから、内線で秘書課のものを呼びつければ、すぐに取りに来るのだけれど、人の手を借りるということを基本的に知らないこの男は、自分で持って行くのである。
「ふぅ~ん」
 気のない返事をしつつ、シンタローも立ち上がった。もっとも、久しぶりに身体を動かせるために、自然と表情は緩まっている。視線を感じて、つっと首を回せば、困ったような顔のアラシヤマの姿があった。
「シンタローはん……その格好で外に出はるんどすか?」
「悪ぃか?」
 確かに、お上品な服装とはいえないが、別に女性職員がいるわけでもなく、むさい男たちばかりの職場である。セクハラ問題などには発展しないはずだ。けれど、アラシヤマの方は、納得いかないようだった。やはり、ちらちらとこちらを見ては、居心地悪そうに視線をそらせる。
 だが、決定的なことは何も言わない。いい加減に、苛立ちも頂点に達する。
「煩いっ。俺のことは気にせず、お前の用事を済ませろッ!」
 怒鳴りつけて、蹴り出す勢いで、外へと出させた。

 
「おい、なんでこっちの道なんだ?」
 さくっと柔らかな芝の感覚が足元から伝わる。頬を撫でる風は、木陰に入っているせいか、爽やかで気持ちよかった。だが、書類を提出するのに、外へ出る必要はないはずである。
「朝から、部屋の中にこもっとりましたから、外の空気が吸いたくなったんどす」
「ふぅ~ん」
 中庭と呼ばれるここは、もちろん東棟から西棟へと通りぬけができるように作られている。一度下まで降りないといけないために、遠回りにはなるものの、それでもここから書類を提出しに行くには不都合はない。
「あっ」
 アラシヤマの後ろを歩いていたシンタローは、思わず声をあげて立ち止まった。アラシヤマが振り返る。傍にいるためについていかなければいけないのだが、自分の声のために立ち止まったのをいいことに、シンタローは、声をあげた原因を見つめた。
「綺麗に咲いたな」
 視線の先にあったのは、一輪の薔薇だった。この中庭は、中央が小さなバラ園になっていた。数種類の品種と色を植えてあるその中で、目に留めたのは、純白の薔薇だった。
「染みひとつない、綺麗な白薔薇どすな」
「ああ」
 何度か、このバラ園を覗いていたのだが、決まって白い薔薇は、染みが入っていたり、花びらの一部が枯れていたりしていた。外で栽培されているために、仕方がないとは思うが、いつか完璧な純白の薔薇が見て見たいと思っていたのだが、それが目の前にあった。
「赤とか黄色もいいけどさ、白薔薇ってこう、他の色みたいに鮮やかというより、凛とした気高さがあっていいよな」
 光沢のある滑らかな花びらが太陽の光を受け、細かな煌きをちらしている。シンタローは、すっと腰を屈め、それに口付けた。
「………シンタローはん」
 その声に、はっと顔をあげる。しまった。今日は、何も言わず、何もせず、アラシヤマの傍にくっつくつもりだったのである。にもかかわらず、自分の都合で足を止めさせていた。
「ああ、書類だしに行くんだろ」
「そうやのうて―――――あと、一度だけ、わての願いを叶えてくれはるって言いましたなぁ?」
「え? ああ」
 確かに、そう言った。ようやく、自分の存在がうとましくなったのだろうか。
「………その薔薇に、わても触れてもええどすか?」
「へっ?」
 それは、かなり意外な願い事だった。
「い、いいけど」
 というか、その薔薇はシンタローのものではない。許可など取る必要はなかった。それでもアラシヤマは、酷く真剣な顔をして、白薔薇に触れた。それは、丁度シンタローが触れた場所だった。
 恭しく。まるで、姫の手に唇を触れる騎士のように、敬虔なる面持ちで、それに触れる。
 カァと頬が火照ってきた。なにやら見てはいけないものを見た気持ちである。もぞもぞするような、居心地が悪い。
「シンタローはん」
「あ?」
「………ずっと言おうとは思うとりましたけど」
「え?」
「………………そない可愛らしい顔せぇへんでくれまへんか。わての理性もギリギリどすえ?」
「は?」
 言われた内容がすぐには把握できず、呆然とした間抜け面をさらすはめになった。
 それにアラシヤマが補足してくれる。
「髪なんぞかきあげ、綺麗なうなじを見せられたり、シャツを引っ張ったりして、美味しそうな鎖骨や腹を見せ付けてくれたりして………。今かて、そうどす。ここで――――襲ってもええどすか?」
「ば、馬鹿ッ! いいわけあるかッ!!!」
 即座に拒絶をすれば、惜しそうな顔をしつつ、言い放った。
「せやったら、そない挑発せんでくだはれ」
「俺は、した覚えはない!」
「してますわ!」
 両者にらみ合いのまま、一歩も譲らぬ構えである。だが、とうとうシンタローが先に折れた。
「―――なら、今すぐ着替えてくる」
「いけまへん!」
「なんでだよ」
 こんな格好をするな、といったのはアラシヤマの方である。なぜ、止めるのか。不審な顔を見せれば、アラシヤマの口元ににんまりとした笑みを作られた。何か、謀を巡らせた時に見せる表情である。警戒しつつ、動向をうかがえば、歌うように軽やかに言葉が放たれた。
「シンタローはんが、言うとったことどすえ。今日、一日わての傍にいてくれはりますんやろ? 離れたらあきまへん」
「……………」
 先ほどとは全然違う眼差しで、こちらを見つめる。どうやら完全に開き直ったようである。
「さっ、さっさと書類を出して、また部屋でまったりしまひょ♪」
 言葉どおり速やかに歩き出すアラシヤマ。どうやら、自分はその後をついていかなければいけないようである。
 だが、この後はどうなるのか………… 今度はこちらの理性が試されそうであった。




 ……………ネガイを叶えるのは一回だけだってことを忘れるなよ?
0
lo
 ザー…。
 雨だ。絶え間なく雨が降りしきる。立ち尽くす自分を包み込み浸らせる。天を仰げば目に染みた。
「シンタローはん」
 呼ばれる声に顔をあげた。
「アラシヤマ…」
 そこに立っていたのは自分が呼んだ相手だった。手にもっていた傘がこちらに傾けられる。だがそれを拒絶した。それは自分にとって不要なものだ。あって欲しくはないものだった。
 一歩後ろに下がれば手にしていた傘をたたんだ。アラシヤマの髪に、肩に雨があたる。黙ってそれを見つめた。
「なんぞあったんどすか?」
 行きなりこんなところに呼び出した自分に当然の言葉をかける。声が聞きづらい。雨のせいで声がこもるのだ。それでも、意味はなんとなく読み取れたから、言葉を繋ぐことができた。
 こくりと唾を飲み込んでから口を開く。
「ああ、大事な話があるんだ」
 堅い声音。緊張していた。
 雨は止まない。そればかりか、強くなってきた気がする。肌を滑る雫が冷たかった。なのに寒さはちっとも感じなかった。そんな感情はすでに麻痺していた。その状態で、ここに読んだ理由を告げた。
「俺と……別れてくれ」
 そう言った瞬間、目の前の顔が凍り付くのがわかった。痛いぐらい真剣な眼差しが突き付けられる。口が開いて何かを言っていた。だが耳に聞こえるのは雨の音だけだった。アラシヤマの声は、はるか遠くにある。それがわかっていたから、今日、この日この場所を選んだのだ。
「勝手で悪い――だからお前にまでこっちの気持ちを強制はしない。俺を愛してるならそれでもかまわない――けど俺はもう……お前を求めない」
 雨で霞む視界の中でアラシヤマを見る。目頭が熱かった。
「お前を呼ばない」
 雨水が目にはいりぼやける視界がさらにゆがんだ気がする。
「お前の傍にはいかない」
 水気は辺りに滴るほどあるのに、なぜか喉が乾いた。からからにひからびているようだ。喉も熱かった。
「……お前が悪いわけじゃない。悪いのは全て俺だ」
 雨音でアラシヤマの声は全然聞こえない。遥か遠くにいるようだった。
「お前を…愛してる、アラシヤマ。……それはたぶんこれからも変わらない。――けど、だからこそ苦しいんだ。辛いんだ! お前から愛されている時は幸せだった。優しく暖かい気持ちを注がれるのは心地よかった。でも俺はそれだけでは満たしなくなったんだ。けど俺が求めるものはお前にとって理不尽であり望まないものであるはずないから、俺が諦める…だから、わかれよう」
 本当にこれは自分の身勝手な決意だ。
 いつからだろう。アラシヤマの優しさに疑問を持ちはじめたのは。
 いつも包み込むような優しさをくれ、暖かい気持ちで愛しんでくれる相手。けれど、それはもしかするとアラシヤマ自身が得られなかった、家族愛を自分に求めているのではないだろうかと思いだした。
 何をしても許される――変わらず伸ばされる手に、自分はいつしか苛立ちを感じてしまうようになったのだ。だからその手を拒絶した。
 自分が欲しいのは、家族愛ではないから――ただ、それだけの理由で。
 なんて傲慢なことだろうか。
 シンタローは、今でも愛する人を見つめた。
 別れたくない。手放したくない。でもそれ以上に自分のエゴで縛りたくなかった。そのことによって幻滅されたくはないためだ。否、エゴでなんでもいい、相手を無理やりでも自分に縛りつけなければ、耐え切れなくなっていた自分が怖かった。それにより、全てを失ってしまえば、自分は生きていけなくなる。だから、その前に手放すことに決めた。
「ありがとう…アラシヤマ」 
 優しい相手に礼を告げる。今まで幸せを与えてくれた相手に、感謝の気持ちを述べる。でもまだ言わなければいけない言葉があった。
 だが唇がわななく。胸が苦しくて焼けるように熱い。それから逃れたくて乾いた喉から別の言葉が出そうになる。
 でも駄目だ。これ以上はアラシヤマを苦しめたくない。解放――自分からやるべきことである。
 そう決意して―――言葉を紡いだ。
「アラシヤマ――さようなら」
 その後、雨の塩辛さがが口の中に広がった。
 雨はまだ止んでいなかった。冷たい雫が全身から滴っている。
 それなのに、雨の音は耳に入ってこなかった。
 煩いほどだったその音が消えたのだ。
 否、全ての音が消えていた。
 その中で、アラシヤマが何か叫んでいるような気が……した。





 ―――――いつか…遥か遠くからでもいい、お前の声を聞くことはできるだろうか?

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