『何が欲しい?』
そう訊ねて、返って来た答えは、「あんさんが傍にいてくれはるだけで十分どす」だった。
ここにいるだけで、もう何もいらない。満足している。そう言ってくれた。
「―――つまんねぇ奴」
その言葉に、俺ははっきりきっぱり切り捨てた。
「………シ、シンタローはん?」
恐る恐るといった感じで、こちらに視線を向けるのは、アラシヤマだ。長く伸びた前髪で片目が覆われ、隠されているために、俯き加減のまま、こちらをそろりと見上げる姿は、実に鬱陶しい。
「ああ? なんだよ」
眼光鋭く睨みつけ、不機嫌そのものといった態度でそう答えれば、さっと視線をそらし、しっかりと俯いたまま、ぼそぼそとしゃべり出した。
「あの……その……なんで、わての部屋に居座っておりますのん?」
ここは、アラシヤマの部屋だ。幹部に与えられている部屋は、他の団員に比べて格段に広い上に部屋数もある。勝手に畳みを持ち込み、純和風の部屋にしているアラシヤマの部屋の一室に、朝からシンタローは居座っていた。別にここが気に入っているわけではない。確かに、畳の部屋は落ち着くが、畳の部屋なら自分の住居にもある。ただ、ここにアラシヤマがいるから、いるだけである。その相手は、朝からずっと書類作成に追われていた。
「俺が邪魔か?」
そう訊ねれば、飛び跳ねるようにして否定する。
「そないなことは! ……ありまへんのやけど」
けれど、語尾が酷く濁っていた。確かに、何も言わずに部屋に上がりこんでから、説明もないままアラシヤマの傍にいるのだ。不審に思わない方がおかしい。
もちろん訪れた時、もてなすつもりお茶などを出そうとしたが、それは全てて理由なく断られた。はっきりとした拒絶に、それ以上押し付けるわけにもいかず、手持ちぶたさになったために、仕事を続けていたのだが、それもそろそろ限界だった。
「その………なして、シンタローはんはここに?」
ようやく訊ねられた質問。ここに来てから、軽く三時間は経過していた。
溜息つきたくなるが、それを押し込んで、シンタローは、その質問に答えてあげた。
「―――お前がいったんだろ?」
「は?」
心当たりがまったくありませんという顔。その顔に拳をめり込ませたくなったが、それも我慢した。深呼吸して、改めて口を開く。
「この間、『何が欲しい?』ってお前に聞いたら、俺が傍にいるだけでいいって言ったじゃないか」
だから、その通りに行動してやっているのである。まさか、実際そうしてくれるとは思っていなかったようである。
「………ほ、本気どすか?」
「ああ、本気だとも。今日一日お前の傍にいてやるよ。傍にいるだけだがな!」
うろたえる相手に向かって、そうしっかりと宣言した。
けれど、他に何かをしてやるということはない。言葉どおり、ただ、黙ってアラシヤマの半径二メートル以内に居続けるつもりだった。
「せやけどシンタローはん、ちっとも楽しそうな顔してまへんけど……」
「そりゃあ、別に楽しくないからな」
正直、面倒にはなってきた。ただ、黙って傍にいるだけなのだが、何もしないと落ちつかない。ぐるりと部屋を見回す。綺麗に掃除が行き届いている。洗濯物もなさそうだ。残るは、料理だけだが、今日だけはアラシヤマのために料理などする気にもなれなかった。
本気で本当に、アラシヤマの傍にいるだけにすると決めたのだ。
それを望んだのがアラシヤマなのだから、つべこべ言わす気はない。まだ、何か言いたそうなアラシヤマを鋭い視線で串刺しにして、黙らせた。
「……それにしてもあっちぃーな」
アラシヤマの部屋にはクーラーがない。人工的な冷風が嫌いだそうで、つけられていないのである。かろうじて扇風機だけはあって、回っているが、生温い風を拡散させられても涼しさは、あまり望めない。健康にはいいが、じっとりと汗ばんでくるのは不快である。
南国のパプワ島で過ごした時と同じ涼しげな格好でいるものの、あそこの暑さとは全然違い、このべたつく湿気にはうんざりする。
だが、ちらりと横にいるアラシヤマを見上げれば、相手は汗ひとつかいてなかった。それもそのはず。炎を身体から自在に生み出す彼は、体温調節に長けているのだ。お陰で、クーラーいらずだが、客のことも考えて欲しいものである。
(……って、こいつには招く相手がいないか)
だからこそ、クーラーいらずのままでいられるのだ。
自分だけ涼しい顔をしているのが、かなりイラつく。
(あ~~、今度無理やりつけさせようか)
だが、そうなると今度は、この部屋に来なくてはいけなくなりそうである。そこまで考えてから、クーラー取り付け案は、却下した。
「あちぃ~」
一応、窓も全開に開けられていて、かすかだが風も入ってくるのだが、それでも室温は、冷暖房完備の他の施設に比べて高いはずである。
耐え切れず、シンタローは、降ろしたままの髪を束ねた。幾分か首裏が涼しくなる。これに気をよくし、シンタローは、アラシヤマの部屋を物色し、たぶん着物の帯紐だろう、棚の上に無造作に置かれていたそれを勝手に拝借して、ポニーテールの要領で髪をかきあげると、それで結んだ。
「シンタローはん……」
そこまでやって、アラシヤマがこちらをずっと見ていたことに気がついた。眉根をきゅっと寄せており、何か言いたげな視線である。
「なんだよ。この紐借りたらいけなかったのか?」
首元が快適になったばかりだというのに、返す気はない。
「それは差し上げますが……そうやのぉて」
歯切れの悪い口調。
「なんだよ」
なかなかはっきりと物を言わないアラシヤマに、苛立つようにシンタローは、手で顔を仰いだ。首元は涼しくなったが、やはりまだ暑い。それだけでは足りなくて、バサバサとタンクトップの首元を掴んで、腹の方に空気を送る。
「シ、シンタローはん!」
とたんに慌てた様子で、ひとりバタバタとする相手に、シンタローはじとりとねめつけるような眼差しを送った。
「だから、なんだよ」
先ほどから、煩い。
もしかして、自分が傍にいることが煩わしくなったのだろうか。それならそれで、はっきり言って欲しいものである。
「お前の願いをきいて、傍にいてやってるんだ。文句があるなら言え! 特別に、あと一回ぐらい言うこと聞いてやってもいいぞ」
「文句やなんて……」
やはり、はっきりとしないまま、もごもごと口を動かし、言葉にしないまま、それは閉じられた。それでも、ちらちらと時折こちらを見る視線は、うざったい。いったい、なんだというのだろうか。
不満があれば、さっさと言って欲しかった。こちらとしても、それほど楽しいことではないのだ。
(………別に、こいつの傍にいたくないわけじゃねぇけどさ)
不本意ながら、相手は恋人で。世の中間違っている気がするけれど、惚れてる相手で。だから、傍にいたくないわけではない。お互い仕事が忙しくて、一緒にいられる時間など短くて、本当ならば、もっと喜ばなければいけない状況なのである。
けれど、つまらない。
(大体、こいつが悪いんだ! 俺が親切にもこいつのために何かしてやろうと思ったにもかかわらず、つまんねぇ答えをするから……)
期待していたのは、そんなもんではなかった。大それたことなど言えないことはわかっていたけれど、それでも、何か―――それこそ、本当に他愛のない、料理を作って欲しいとか、一緒にデートして欲しいとか、キスして欲しいとか―――そういう答えを考えていたのだ。
自分が、相手のために何かした、という満足感が得られるものを。
けれど、相手が望んだのは、傍にいてくれるだけでいい、という単純明快、あっさりとしたもの。シンタローにとっては、それは、当たり前のことで、彼のために何か尽くしてやろうという気持ちを打ち砕くものだった。
もっとも、こっちが勝手に期待して、かってに落ち込んでいるだけなのだが。
けれど、気持ちが収まらないので、腹いせも交じって、朝からアラシヤマの部屋に押し入って、傍にくっついていたのだった。
すっとアラシヤマが立ち上がる気配がした。動くその姿を追うように見上げると、先ほどまで作成していた紙の束を持っている。
「出かけるのか?」
「へえ。これを出しに」
仕上げた書類の束をかかげてそう言った。幹部であるから、内線で秘書課のものを呼びつければ、すぐに取りに来るのだけれど、人の手を借りるということを基本的に知らないこの男は、自分で持って行くのである。
「ふぅ~ん」
気のない返事をしつつ、シンタローも立ち上がった。もっとも、久しぶりに身体を動かせるために、自然と表情は緩まっている。視線を感じて、つっと首を回せば、困ったような顔のアラシヤマの姿があった。
「シンタローはん……その格好で外に出はるんどすか?」
「悪ぃか?」
確かに、お上品な服装とはいえないが、別に女性職員がいるわけでもなく、むさい男たちばかりの職場である。セクハラ問題などには発展しないはずだ。けれど、アラシヤマの方は、納得いかないようだった。やはり、ちらちらとこちらを見ては、居心地悪そうに視線をそらせる。
だが、決定的なことは何も言わない。いい加減に、苛立ちも頂点に達する。
「煩いっ。俺のことは気にせず、お前の用事を済ませろッ!」
怒鳴りつけて、蹴り出す勢いで、外へと出させた。
「おい、なんでこっちの道なんだ?」
さくっと柔らかな芝の感覚が足元から伝わる。頬を撫でる風は、木陰に入っているせいか、爽やかで気持ちよかった。だが、書類を提出するのに、外へ出る必要はないはずである。
「朝から、部屋の中にこもっとりましたから、外の空気が吸いたくなったんどす」
「ふぅ~ん」
中庭と呼ばれるここは、もちろん東棟から西棟へと通りぬけができるように作られている。一度下まで降りないといけないために、遠回りにはなるものの、それでもここから書類を提出しに行くには不都合はない。
「あっ」
アラシヤマの後ろを歩いていたシンタローは、思わず声をあげて立ち止まった。アラシヤマが振り返る。傍にいるためについていかなければいけないのだが、自分の声のために立ち止まったのをいいことに、シンタローは、声をあげた原因を見つめた。
「綺麗に咲いたな」
視線の先にあったのは、一輪の薔薇だった。この中庭は、中央が小さなバラ園になっていた。数種類の品種と色を植えてあるその中で、目に留めたのは、純白の薔薇だった。
「染みひとつない、綺麗な白薔薇どすな」
「ああ」
何度か、このバラ園を覗いていたのだが、決まって白い薔薇は、染みが入っていたり、花びらの一部が枯れていたりしていた。外で栽培されているために、仕方がないとは思うが、いつか完璧な純白の薔薇が見て見たいと思っていたのだが、それが目の前にあった。
「赤とか黄色もいいけどさ、白薔薇ってこう、他の色みたいに鮮やかというより、凛とした気高さがあっていいよな」
光沢のある滑らかな花びらが太陽の光を受け、細かな煌きをちらしている。シンタローは、すっと腰を屈め、それに口付けた。
「………シンタローはん」
その声に、はっと顔をあげる。しまった。今日は、何も言わず、何もせず、アラシヤマの傍にくっつくつもりだったのである。にもかかわらず、自分の都合で足を止めさせていた。
「ああ、書類だしに行くんだろ」
「そうやのうて―――――あと、一度だけ、わての願いを叶えてくれはるって言いましたなぁ?」
「え? ああ」
確かに、そう言った。ようやく、自分の存在がうとましくなったのだろうか。
「………その薔薇に、わても触れてもええどすか?」
「へっ?」
それは、かなり意外な願い事だった。
「い、いいけど」
というか、その薔薇はシンタローのものではない。許可など取る必要はなかった。それでもアラシヤマは、酷く真剣な顔をして、白薔薇に触れた。それは、丁度シンタローが触れた場所だった。
恭しく。まるで、姫の手に唇を触れる騎士のように、敬虔なる面持ちで、それに触れる。
カァと頬が火照ってきた。なにやら見てはいけないものを見た気持ちである。もぞもぞするような、居心地が悪い。
「シンタローはん」
「あ?」
「………ずっと言おうとは思うとりましたけど」
「え?」
「………………そない可愛らしい顔せぇへんでくれまへんか。わての理性もギリギリどすえ?」
「は?」
言われた内容がすぐには把握できず、呆然とした間抜け面をさらすはめになった。
それにアラシヤマが補足してくれる。
「髪なんぞかきあげ、綺麗なうなじを見せられたり、シャツを引っ張ったりして、美味しそうな鎖骨や腹を見せ付けてくれたりして………。今かて、そうどす。ここで――――襲ってもええどすか?」
「ば、馬鹿ッ! いいわけあるかッ!!!」
即座に拒絶をすれば、惜しそうな顔をしつつ、言い放った。
「せやったら、そない挑発せんでくだはれ」
「俺は、した覚えはない!」
「してますわ!」
両者にらみ合いのまま、一歩も譲らぬ構えである。だが、とうとうシンタローが先に折れた。
「―――なら、今すぐ着替えてくる」
「いけまへん!」
「なんでだよ」
こんな格好をするな、といったのはアラシヤマの方である。なぜ、止めるのか。不審な顔を見せれば、アラシヤマの口元ににんまりとした笑みを作られた。何か、謀を巡らせた時に見せる表情である。警戒しつつ、動向をうかがえば、歌うように軽やかに言葉が放たれた。
「シンタローはんが、言うとったことどすえ。今日、一日わての傍にいてくれはりますんやろ? 離れたらあきまへん」
「……………」
先ほどとは全然違う眼差しで、こちらを見つめる。どうやら完全に開き直ったようである。
「さっ、さっさと書類を出して、また部屋でまったりしまひょ♪」
言葉どおり速やかに歩き出すアラシヤマ。どうやら、自分はその後をついていかなければいけないようである。
だが、この後はどうなるのか………… 今度はこちらの理性が試されそうであった。
……………ネガイを叶えるのは一回だけだってことを忘れるなよ?
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