目の前に存在するそれに、アラシヤマは、薄く三日月形に目を細めた。そのまま視線を固定する。
それからただ無為に時間だけが経って行った。
いつまでそうするつもりだろうか。
馬鹿みたいに突っ立っている自分に、冷静に突っ込みをいれてみるが、それでも動けない自分がいた。
指先がチリチリと痛い。
数分前、自分は一つの行動を起こしていた。
目の前に指先を翳す。
その結果がこれだ。
熱を持ち、火傷を負っている自分の指先に視線だけを向ければ、口元が大きく歪んだ。
部屋に入った時、彼は眠っていた。
ひどく疲れていた様子で、自分が入ってきても起きる気配はまったくなかった。 真新しい書類の束を枕に涎を少したらしつつ、瞼を硬く閉じている彼の姿に、自分は、無意識に手を伸ばしていた。
その時の自分の感情はよく覚えていない。
ただ、無防備な顔で存在していた彼に、制御できないほどの感情が沸きあがり、身体から炎が溢れ出し、彼に向かっていった。
「阿呆どすな」
唇に浮んだ笑みは、自らをあざけるもので。相手に攻撃するはずの炎を自身で受け止めたその愚かさを笑う。
目の前の相手は無傷だ。
当然である。あふれ出した炎は、寸前で、指先で無理やり止めてしまった。行き場の失ったそれは、普段ならば自分自身を傷つけないとはいえ、オーバーヒートを起こしてしまい、結果、指先を火傷するはめになった。
たいしたことではないのだが、チリチリとした痛みは鬱陶しい。
幼すぎて炎の制御できなかった頃から、随分と久しぶりに作ってしまった水ぶくれに、アラシヤマは、懐かしい痛みだと、舌で舐めた。
どうしてこんなことをしようとしたのだろうか。
相手を自分の炎で燃やすつもりなど全然なかった。
それなのに、無防備な彼を見たとたんに、燃やし尽くしたい気分が生まれたのだ。
「阿呆どすえ」
いっそう本当に、目の前の存在を自身の炎で燃やし尽くしてしまえば、楽になれるものを。
できないのは、自分の弱さか、それとも――――彼の存在自体を愛しているためか。
阿呆らしい。
どちらにしても、彼の存在がいる限り、この痛みからは逃れられないのだ。
彼が、自分のものにならない限り、このジレンマに悩まされる。
そして、それがすでに確定されていることに、泣くことも笑うことも怒ることもできない。
彼の心が、自分以外に向けられていることは、先刻承知。
それでも。
どうしても。
思うことをやめられず。
「わてのもんになりまへんか?」
そんな願いを口にしてしまい、チリリと痛む指先を振って、慌てたように、部屋に来た目的である、提出すべきファイルを机の端に置き、退出した。
―――――――――どうしても手に入れられないならいっそ全てを消してもええどすか?
それからただ無為に時間だけが経って行った。
いつまでそうするつもりだろうか。
馬鹿みたいに突っ立っている自分に、冷静に突っ込みをいれてみるが、それでも動けない自分がいた。
指先がチリチリと痛い。
数分前、自分は一つの行動を起こしていた。
目の前に指先を翳す。
その結果がこれだ。
熱を持ち、火傷を負っている自分の指先に視線だけを向ければ、口元が大きく歪んだ。
部屋に入った時、彼は眠っていた。
ひどく疲れていた様子で、自分が入ってきても起きる気配はまったくなかった。 真新しい書類の束を枕に涎を少したらしつつ、瞼を硬く閉じている彼の姿に、自分は、無意識に手を伸ばしていた。
その時の自分の感情はよく覚えていない。
ただ、無防備な顔で存在していた彼に、制御できないほどの感情が沸きあがり、身体から炎が溢れ出し、彼に向かっていった。
「阿呆どすな」
唇に浮んだ笑みは、自らをあざけるもので。相手に攻撃するはずの炎を自身で受け止めたその愚かさを笑う。
目の前の相手は無傷だ。
当然である。あふれ出した炎は、寸前で、指先で無理やり止めてしまった。行き場の失ったそれは、普段ならば自分自身を傷つけないとはいえ、オーバーヒートを起こしてしまい、結果、指先を火傷するはめになった。
たいしたことではないのだが、チリチリとした痛みは鬱陶しい。
幼すぎて炎の制御できなかった頃から、随分と久しぶりに作ってしまった水ぶくれに、アラシヤマは、懐かしい痛みだと、舌で舐めた。
どうしてこんなことをしようとしたのだろうか。
相手を自分の炎で燃やすつもりなど全然なかった。
それなのに、無防備な彼を見たとたんに、燃やし尽くしたい気分が生まれたのだ。
「阿呆どすえ」
いっそう本当に、目の前の存在を自身の炎で燃やし尽くしてしまえば、楽になれるものを。
できないのは、自分の弱さか、それとも――――彼の存在自体を愛しているためか。
阿呆らしい。
どちらにしても、彼の存在がいる限り、この痛みからは逃れられないのだ。
彼が、自分のものにならない限り、このジレンマに悩まされる。
そして、それがすでに確定されていることに、泣くことも笑うことも怒ることもできない。
彼の心が、自分以外に向けられていることは、先刻承知。
それでも。
どうしても。
思うことをやめられず。
「わてのもんになりまへんか?」
そんな願いを口にしてしまい、チリリと痛む指先を振って、慌てたように、部屋に来た目的である、提出すべきファイルを机の端に置き、退出した。
―――――――――どうしても手に入れられないならいっそ全てを消してもええどすか?
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「シンタローはん! ただいま帰りましたわ」
シュン、と機械音を立て、何の脈絡もなく扉が開いた。
一瞬、ここのセキュリティはどうなったのか、と思ったが、よく考えてみるとこの部屋に入るパスを以前自分が教えたのだから、これは仕方がない。
わずかな距離だというのに、満面の笑みで、こちらに駆け寄ってきた相手に、シンタローは、とりあえずギロリと睨んであげた。
しかし、相手はそんなものに怯むような相手ではなかった。
トンと両手を総帥デスクにつけると、覗き込むように顔をこちらに近づける。久しぶりに見るその顔が、見慣れた表情を向ける。
「ただいまどすv 元気そうで安心ですわ」
それはこっちの台詞だろうが。
その言葉に、即座に突っ込みを返す。
それはそれは嬉しそうにそう言ってくれた相手には悪いが、ずっとガンマ団内部で仕事をこなしていた自分に、元気も何もないだろう。
ここにいれば、万全の管理がなされているのだ。
咳一つしただけで、大騒ぎである。
それよりも、元気なのか?と尋ねたいのは、こちらの方である。
満身創痍と言った方が早いのだろうか、アラシヤマの戦闘服は、焦げたり切り裂かれたりと無残なものである。当然ながら、その下の肌もざっくりときられている。重傷そうなのはすでに手当てがなされているが、頬に走った傷など、少し垂れたまま血が固まっていた。
「アラシヤマ……医務室へ行け」
とりあえず、それが無難な台詞だろう。
その他にも、服を着替えろとか風呂に入れとか言う言葉も浮かんだが、それよりもまずは、全ての傷の手当てが先だろう。
どうせ、この男のことである。任地先でも、たいしたことない、の一言で収めて、そのまま戻ってきたのだ。
(どうしてこいつは……)
苛立つように、相手を見る。
シンタロー自身の身体の心配は、誰よりもするくせに、そのくせ自身の傷など、まったく省みないのだ。
「医務室どすか? でも、もう手当てしてまっせ?」
シンタローの思いもまったく伝わらずに、理解できません、という風に首を傾げるアラシヤマに、イライラをあらわす様に、指先で、机の上を叩いた
それだけでは不十分なのだと、なぜわからないのだろうか。
見ているこちらが、痛みすら覚えるというのに――――。
「他の細かい傷も見てもらえ。とりあえず、消毒とかして綺麗にしてもらえよ」
「はあ。まあ、シンタローはんがそういわはるなら、後でも」
「今すぐだ。すぐに行けっ!」
「今すぐでっか~?」
心底嫌そうな顔をするアラシヤマに、きっぱりとした態度を見せる。
「いいから、行けよ」
早く手当てしてもらってこい。
こっちの安寧のためにも、さっさと行動して欲しいのだが、相手は、やはりしぶとかった。
ぐずぐずとその場に留まり、医務室へと向かおうとはしない。
「そんな傷を負うお前が悪いんだろ。ったく、もっと身体をいたわらないと死ぬぞ」
「それは、ありまへんわ。シンタローはんを置いて死ねるわけあらしまへんやろ。誰を犠牲にしてでも、生き延びてみせますわ」
涼やかな笑顔を見せるアラシヤマに、くらりと眩暈がするような感覚を覚えた。
(馬鹿だ)
本気で思ってしまう。心の底からそう実感してしまう。
「シンタローはん?」
「俺の命令が聞けないのかよ」
「シンタローはんの命令でしたら、なんでもききますわ」
「それなら―――」
すぐに行けよ、という言葉よりも先に、アラシヤマの声がかぶさった。
「そやけどまだ、言ってもらってまへんで?」
(はっ?)
何を言ってないというのだろうか。
どことなく恨みがましげにこちらを見られている。
(なっ、なんだよ、その目は)
たじろぐ相手に、じとりとした視線をぱっと消して、アラシヤマはにこりと笑顔を向けた。
「わては、『ただいま』って言ったんどすえ?」
「あっ…ああ……そうか。悪ぃ」
忘れていた。
入ってきたアラシヤマがあんまりにも傷だらけだったために、当り前の言葉を言うのを忘れていたのだ。
たったそれだけ、とは言わない。
その言葉が、どれだけ嬉しいものなのか、自分だって分かってる。
それは、ここに戻ってきたくれたことを喜ぶ言葉だ。
「『おかえり』、アラシヤマ」
「はいなv シンタローはん♪」
その言葉と同時に、ぐいっとアラシヤマが身体を乗り出してくる。
そのまま器用に顎とつかまれ、その唇にキスをされた。
唇に残る少しばかり鉄サビの味。どうやら、唇の方も少し切っていたようである。
「これは、ただいまのキスどですわv じゃあ、わては医務室に行ってきますわ」
そのままひらりと自分の前から消え去って、素直にそのまま退出をしようとするその背中に呼びかけた。
「ああ、アラシヤマ。終わったらここに戻って来いよ」
アラシヤマが怪訝な顔で振り返る。
「こんなんじゃ、全然足りねぇからな」
ちょいちょいと唇を指先で叩くようにすれば、相手も理解してくれた様子で、ニィと深い笑みを刻んだ。
「当たり前どす。覚悟しなはれ、シンタローはん。離れた分はきっちり取り戻しますよって」
「おぅ。望むところだ」
こっちだって会えない分、色々と積もらせてきたものがあるのだ。
どちらが先にギブアップするかやってみるのもまた一興だろう。
「さてと。んなら、仕事をさっさと片付けておくかな」
この調子だと明日の業務まで支障をきたすかもしれない。キンタローあたりは文句を言うだろうが、そこは上手く丸め込む自信がある。
目の前に詰まれた書類を手に、素早くペンを走らせていった。
―――――どれほどキズだらけでもお前に『おかえり』と告げることができるなら喜んでもいいだろう?
シュン、と機械音を立て、何の脈絡もなく扉が開いた。
一瞬、ここのセキュリティはどうなったのか、と思ったが、よく考えてみるとこの部屋に入るパスを以前自分が教えたのだから、これは仕方がない。
わずかな距離だというのに、満面の笑みで、こちらに駆け寄ってきた相手に、シンタローは、とりあえずギロリと睨んであげた。
しかし、相手はそんなものに怯むような相手ではなかった。
トンと両手を総帥デスクにつけると、覗き込むように顔をこちらに近づける。久しぶりに見るその顔が、見慣れた表情を向ける。
「ただいまどすv 元気そうで安心ですわ」
それはこっちの台詞だろうが。
その言葉に、即座に突っ込みを返す。
それはそれは嬉しそうにそう言ってくれた相手には悪いが、ずっとガンマ団内部で仕事をこなしていた自分に、元気も何もないだろう。
ここにいれば、万全の管理がなされているのだ。
咳一つしただけで、大騒ぎである。
それよりも、元気なのか?と尋ねたいのは、こちらの方である。
満身創痍と言った方が早いのだろうか、アラシヤマの戦闘服は、焦げたり切り裂かれたりと無残なものである。当然ながら、その下の肌もざっくりときられている。重傷そうなのはすでに手当てがなされているが、頬に走った傷など、少し垂れたまま血が固まっていた。
「アラシヤマ……医務室へ行け」
とりあえず、それが無難な台詞だろう。
その他にも、服を着替えろとか風呂に入れとか言う言葉も浮かんだが、それよりもまずは、全ての傷の手当てが先だろう。
どうせ、この男のことである。任地先でも、たいしたことない、の一言で収めて、そのまま戻ってきたのだ。
(どうしてこいつは……)
苛立つように、相手を見る。
シンタロー自身の身体の心配は、誰よりもするくせに、そのくせ自身の傷など、まったく省みないのだ。
「医務室どすか? でも、もう手当てしてまっせ?」
シンタローの思いもまったく伝わらずに、理解できません、という風に首を傾げるアラシヤマに、イライラをあらわす様に、指先で、机の上を叩いた
それだけでは不十分なのだと、なぜわからないのだろうか。
見ているこちらが、痛みすら覚えるというのに――――。
「他の細かい傷も見てもらえ。とりあえず、消毒とかして綺麗にしてもらえよ」
「はあ。まあ、シンタローはんがそういわはるなら、後でも」
「今すぐだ。すぐに行けっ!」
「今すぐでっか~?」
心底嫌そうな顔をするアラシヤマに、きっぱりとした態度を見せる。
「いいから、行けよ」
早く手当てしてもらってこい。
こっちの安寧のためにも、さっさと行動して欲しいのだが、相手は、やはりしぶとかった。
ぐずぐずとその場に留まり、医務室へと向かおうとはしない。
「そんな傷を負うお前が悪いんだろ。ったく、もっと身体をいたわらないと死ぬぞ」
「それは、ありまへんわ。シンタローはんを置いて死ねるわけあらしまへんやろ。誰を犠牲にしてでも、生き延びてみせますわ」
涼やかな笑顔を見せるアラシヤマに、くらりと眩暈がするような感覚を覚えた。
(馬鹿だ)
本気で思ってしまう。心の底からそう実感してしまう。
「シンタローはん?」
「俺の命令が聞けないのかよ」
「シンタローはんの命令でしたら、なんでもききますわ」
「それなら―――」
すぐに行けよ、という言葉よりも先に、アラシヤマの声がかぶさった。
「そやけどまだ、言ってもらってまへんで?」
(はっ?)
何を言ってないというのだろうか。
どことなく恨みがましげにこちらを見られている。
(なっ、なんだよ、その目は)
たじろぐ相手に、じとりとした視線をぱっと消して、アラシヤマはにこりと笑顔を向けた。
「わては、『ただいま』って言ったんどすえ?」
「あっ…ああ……そうか。悪ぃ」
忘れていた。
入ってきたアラシヤマがあんまりにも傷だらけだったために、当り前の言葉を言うのを忘れていたのだ。
たったそれだけ、とは言わない。
その言葉が、どれだけ嬉しいものなのか、自分だって分かってる。
それは、ここに戻ってきたくれたことを喜ぶ言葉だ。
「『おかえり』、アラシヤマ」
「はいなv シンタローはん♪」
その言葉と同時に、ぐいっとアラシヤマが身体を乗り出してくる。
そのまま器用に顎とつかまれ、その唇にキスをされた。
唇に残る少しばかり鉄サビの味。どうやら、唇の方も少し切っていたようである。
「これは、ただいまのキスどですわv じゃあ、わては医務室に行ってきますわ」
そのままひらりと自分の前から消え去って、素直にそのまま退出をしようとするその背中に呼びかけた。
「ああ、アラシヤマ。終わったらここに戻って来いよ」
アラシヤマが怪訝な顔で振り返る。
「こんなんじゃ、全然足りねぇからな」
ちょいちょいと唇を指先で叩くようにすれば、相手も理解してくれた様子で、ニィと深い笑みを刻んだ。
「当たり前どす。覚悟しなはれ、シンタローはん。離れた分はきっちり取り戻しますよって」
「おぅ。望むところだ」
こっちだって会えない分、色々と積もらせてきたものがあるのだ。
どちらが先にギブアップするかやってみるのもまた一興だろう。
「さてと。んなら、仕事をさっさと片付けておくかな」
この調子だと明日の業務まで支障をきたすかもしれない。キンタローあたりは文句を言うだろうが、そこは上手く丸め込む自信がある。
目の前に詰まれた書類を手に、素早くペンを走らせていった。
―――――どれほどキズだらけでもお前に『おかえり』と告げることができるなら喜んでもいいだろう?
紅の液体を注がれたグラスが目の前に、掲げるように見せ付けられた。
その液体の中に、小さな錠剤がぽとんと落ちる。
その衝撃に、たぷんと波打つそれに、目を奪われる。
「何を入れはったんどすか? シンタローはん」
その錠剤は、あっと今に液体に混ざり、消えてしまっていた。
「ん? 【毒】だ」
さらりと告げられたその言葉に、アラシヤマはすっと目を細めた。
冗談にしてはきつすぎるそれ。だが、相手を見れば、それが冗談なのか本当のことなのか分からない。
口元に笑みを浮かべている彼は、けれどその眼は笑ってはいない。
自分の手で入れた、それが、その液体の中でしっかりと溶け込んでいくのを確認していた。
「それをどうするつもりでっか?」
その液体をもしもその場で煽ると言うならば、たとえそれで相手が傷つくとしても、それを阻止するだろう。
だが、相手はそれほど愚かではない。
確実に止める相手がいる前で、死を選ぶことなどありえない。
ならば―――――。
「お前にやる」
もう随分と前から変化のなかった互いの距離が、その言葉で縮まった。
一歩足を進め、さらにもう一歩前に出れば、そのグラスが、自分の手に届く範囲まで来てしまった。
「これをわてにくだはって、どうしろと?」
「んー、飲めよ」
今、考え付きました、とばかりに提案されたその言葉に、なるほど、と頷く。
確かに、【毒】入りということを抜かし、これを渡されたなら、中に入っている液体を飲むしかない。
洋酒は詳しくないが、それでもその紅色の液体は、上物と呼ばれる品であったはずである。
酒が嫌いではないし、味見するのも悪くはない。
ただし、それは確実に【毒】入りだ。
命をかけての味見をする価値があるものかどうか―――考えるわけでもなく答えは出る。
「それで、わてが死んだろどうするんどすか?」
「えっ? 死ぬだろ。だって【毒】入りだし」
当たり前のように言われて答えに、アラシヤマは、憮然とした表情をしてしまった。
「無駄な殺生はあきまへんで、シンタローはん」
「うん。そうだな。でも、俺がお前を要らないといったら? いらないから、これ飲んで死ねっていったらどうする?」
どうするも何も、実際、今の状況がそれではないのか、といいたいが、言ったところで、別に何も変わりはしないから―――どちらにしても、自分は【毒】を飲んで死ぬのだ―――アラシヤマは、シンタローの質問に答えた。
「死にますえ。シンタローはんが、わての存在を消したいというならば、それならそれで従いますわ」
「そっか。じゃあ、はい。これをやる」
笑顔を浮かべて、差し出されたそのグラスを受け取った。
【毒】入りの液体がゆらゆらとその中で揺れる。
飲めば死がおとずれる、魅惑の液体。
アラシヤマの手にそれは存在した。
「もう一度聞きますえ。シンタローはんは、今ここで、わてに死んで欲しいんどすな?」
「ああ、そうだ」
躊躇いもなく答えられたそれに、アラシヤマは嘆きとも安堵ともつかぬ溜息を非一つつき、グラスを顔の前に近づけた。
「それなら―――――」
パリンッ………。
手の中で、グラスが砕け散った。
キラキラと輝きながら、ガラスの破片が散っていく。
同じように、真紅の液体が、自分の体内から零れた同じ色あいのそれと混じりあい、飛散し、床に赤い滲みを点々と作る。
「このっ馬鹿っっっっ!!!」
刹那、空気を震わせ、シンタローの身体が自分の身体に絡みついた。
「っ!」
「行き成り飛び出さんといてくだはれ、シンタローはん。ああ、もう。手に傷をつけてしもうたじゃありまへんか」
慌てて、手にもっていたそれを投げ出し、アラシヤマは、傷ついたシンタローの手の甲に唇を寄せた。
チャリンと小さな音を立てて、血をつけたグラスの欠片が、床に落ちた。
「てめぇが悪いんだろっ。何、ガラスで首掻っ切ようとしてんだよっ!」
飲めと差し出したワイングラス。
なのに、相手はそれを手の中でくだき、手ごろな大きさのガラスの破片をつかむと、自分の頚動脈をめがけて、切りかかった。
それに気付いて自分が止めていなければ、今頃は、辺り一体血の海である。
自分の手の甲を少しばかりかすっただけで事なきを得たのは重畳だった。
「そないなこと言わはっても、死ねっていうたのはシンタローはんでっせ」
血が止まったのを見計らい、アラシヤマが唇を離せば、シンタローは、むぅと唇を曲げたまま、こちらを見ていた。
「本気で死ねっていったわけじゃない!」
「それならそうと先に言いなはれ。わては確認しましたえ、わてに死んで欲しいかどうかと」
「うっ………あれは、成り行きだ」
「まったく、こういう後先考えずに行動する癖は、まだなおっとりまへんのやな」
あからさまに呆れたような溜息一つついてみれば、一気に顔を赤らめて相手が、機嫌を損ねた顔をして、怒鳴りだした。
「冗談の通じないお前が悪いっ!」
「責任転換どすか?」
「煩ぇ。こういう時は黙って飲んで、『僕は死にませーん』って言うぐらいユーモアを見につけろ」
「そのネタ古すぎますわ、シンタローはん。知っとる人ほとんどいないと違いまっか?」
「うっ…煩い、いいんだよ。とにかく、俺のやったワインを素直に飲まないお前が、悪い」
てめぇだって傷ついてるじゃねぇか。
握りつぶした時に、ガラスの破片で手のひらの中は、かなり傷ついている。
シンタローがその手を伸ばすのを察すると、アラシヤマは、さっと手をひいた。その行動に、機嫌を損ねてみせるが、先ほどの自分の行動と同じことはさせられなかった。
「これは、今から治療しに行きますわ。汚した床は後で掃除にきますよって、そのままにしておいてくだはれ」
ガラスの欠片が残っているかもしれない手を舐めてもらうわけにはいかない。
その手を抱えるようにして、ドアへと向かう。だが、その足をぴたりと止めた。
(………泣いてますやろうな)
あちらが勝手にしかけたことで、こちらが思惑を無視してしまったから、結果こんなことになったことを、彼が後悔していないわけがない。
どちらが悪いかと言えば、無茶な行動をとった自分にも非はあるけれど、冗談に思えない状況を作ったあちらが事の発端で、元凶である。
そうは思っているのだが。
(なんで、わては怒れないんでっしゃろ)
いらぬケガさえしたというのに、怒りはちっともわいては来ずに、逆に愉悦さえ感じてしまうのだから、困ってしまう。
もちろんその理由もちゃんと分かっている。
アラシヤマは、ドアの前で立ち止まり、けれど振り返らずに、その場で声を発した。
「シンタローはん。わては、全然気にしてまへんから、後で、飲みそこねたワインを飲ましておくれやす――――毒入りでもええですから」
たぶん泣きたいぐらい傷ついてて、でも、それを見せないために必死でそれを押し隠そうとしている彼の努力を無駄にしないためにも、顔を見ずにそう言えば、しばらく間を置いて、言葉が返ってきた。
「ちゃんと用意する。―――――アラシヤマ、悪かったな」
その言葉を聴いてから、ドアを開いてパタンとしめる。
その顔には、笑みが灯っていた。
こっちこそすみまへん。
本当の本当に悪いのは、実は自分の方なんです。
シンタローの自分に対する思いを知りたくて、【毒】入りだと嘯くワインを飲んだところで、相手のそれを知ることなどできないことはわかっていたから、わざとグラスを砕いて、もっと確実に自分の命がとれるような行動をしてみせた。
本気でやってたら、彼の止める暇など与えなかっただろう。
彼の手を傷つけてしまったことは誤算だが、後は思惑通りだった。
さきほどからジンジンと痛む傷に、アラシヤマは、満足げに笑った。
「ま、この程度の傷で、あん人のわてへの執着を見せてもらえたなら、上々ってとこどすな」
―――――それでも、わてはあんさんのためならいつでも死ねるって知っておりまっか?
その液体の中に、小さな錠剤がぽとんと落ちる。
その衝撃に、たぷんと波打つそれに、目を奪われる。
「何を入れはったんどすか? シンタローはん」
その錠剤は、あっと今に液体に混ざり、消えてしまっていた。
「ん? 【毒】だ」
さらりと告げられたその言葉に、アラシヤマはすっと目を細めた。
冗談にしてはきつすぎるそれ。だが、相手を見れば、それが冗談なのか本当のことなのか分からない。
口元に笑みを浮かべている彼は、けれどその眼は笑ってはいない。
自分の手で入れた、それが、その液体の中でしっかりと溶け込んでいくのを確認していた。
「それをどうするつもりでっか?」
その液体をもしもその場で煽ると言うならば、たとえそれで相手が傷つくとしても、それを阻止するだろう。
だが、相手はそれほど愚かではない。
確実に止める相手がいる前で、死を選ぶことなどありえない。
ならば―――――。
「お前にやる」
もう随分と前から変化のなかった互いの距離が、その言葉で縮まった。
一歩足を進め、さらにもう一歩前に出れば、そのグラスが、自分の手に届く範囲まで来てしまった。
「これをわてにくだはって、どうしろと?」
「んー、飲めよ」
今、考え付きました、とばかりに提案されたその言葉に、なるほど、と頷く。
確かに、【毒】入りということを抜かし、これを渡されたなら、中に入っている液体を飲むしかない。
洋酒は詳しくないが、それでもその紅色の液体は、上物と呼ばれる品であったはずである。
酒が嫌いではないし、味見するのも悪くはない。
ただし、それは確実に【毒】入りだ。
命をかけての味見をする価値があるものかどうか―――考えるわけでもなく答えは出る。
「それで、わてが死んだろどうするんどすか?」
「えっ? 死ぬだろ。だって【毒】入りだし」
当たり前のように言われて答えに、アラシヤマは、憮然とした表情をしてしまった。
「無駄な殺生はあきまへんで、シンタローはん」
「うん。そうだな。でも、俺がお前を要らないといったら? いらないから、これ飲んで死ねっていったらどうする?」
どうするも何も、実際、今の状況がそれではないのか、といいたいが、言ったところで、別に何も変わりはしないから―――どちらにしても、自分は【毒】を飲んで死ぬのだ―――アラシヤマは、シンタローの質問に答えた。
「死にますえ。シンタローはんが、わての存在を消したいというならば、それならそれで従いますわ」
「そっか。じゃあ、はい。これをやる」
笑顔を浮かべて、差し出されたそのグラスを受け取った。
【毒】入りの液体がゆらゆらとその中で揺れる。
飲めば死がおとずれる、魅惑の液体。
アラシヤマの手にそれは存在した。
「もう一度聞きますえ。シンタローはんは、今ここで、わてに死んで欲しいんどすな?」
「ああ、そうだ」
躊躇いもなく答えられたそれに、アラシヤマは嘆きとも安堵ともつかぬ溜息を非一つつき、グラスを顔の前に近づけた。
「それなら―――――」
パリンッ………。
手の中で、グラスが砕け散った。
キラキラと輝きながら、ガラスの破片が散っていく。
同じように、真紅の液体が、自分の体内から零れた同じ色あいのそれと混じりあい、飛散し、床に赤い滲みを点々と作る。
「このっ馬鹿っっっっ!!!」
刹那、空気を震わせ、シンタローの身体が自分の身体に絡みついた。
「っ!」
「行き成り飛び出さんといてくだはれ、シンタローはん。ああ、もう。手に傷をつけてしもうたじゃありまへんか」
慌てて、手にもっていたそれを投げ出し、アラシヤマは、傷ついたシンタローの手の甲に唇を寄せた。
チャリンと小さな音を立てて、血をつけたグラスの欠片が、床に落ちた。
「てめぇが悪いんだろっ。何、ガラスで首掻っ切ようとしてんだよっ!」
飲めと差し出したワイングラス。
なのに、相手はそれを手の中でくだき、手ごろな大きさのガラスの破片をつかむと、自分の頚動脈をめがけて、切りかかった。
それに気付いて自分が止めていなければ、今頃は、辺り一体血の海である。
自分の手の甲を少しばかりかすっただけで事なきを得たのは重畳だった。
「そないなこと言わはっても、死ねっていうたのはシンタローはんでっせ」
血が止まったのを見計らい、アラシヤマが唇を離せば、シンタローは、むぅと唇を曲げたまま、こちらを見ていた。
「本気で死ねっていったわけじゃない!」
「それならそうと先に言いなはれ。わては確認しましたえ、わてに死んで欲しいかどうかと」
「うっ………あれは、成り行きだ」
「まったく、こういう後先考えずに行動する癖は、まだなおっとりまへんのやな」
あからさまに呆れたような溜息一つついてみれば、一気に顔を赤らめて相手が、機嫌を損ねた顔をして、怒鳴りだした。
「冗談の通じないお前が悪いっ!」
「責任転換どすか?」
「煩ぇ。こういう時は黙って飲んで、『僕は死にませーん』って言うぐらいユーモアを見につけろ」
「そのネタ古すぎますわ、シンタローはん。知っとる人ほとんどいないと違いまっか?」
「うっ…煩い、いいんだよ。とにかく、俺のやったワインを素直に飲まないお前が、悪い」
てめぇだって傷ついてるじゃねぇか。
握りつぶした時に、ガラスの破片で手のひらの中は、かなり傷ついている。
シンタローがその手を伸ばすのを察すると、アラシヤマは、さっと手をひいた。その行動に、機嫌を損ねてみせるが、先ほどの自分の行動と同じことはさせられなかった。
「これは、今から治療しに行きますわ。汚した床は後で掃除にきますよって、そのままにしておいてくだはれ」
ガラスの欠片が残っているかもしれない手を舐めてもらうわけにはいかない。
その手を抱えるようにして、ドアへと向かう。だが、その足をぴたりと止めた。
(………泣いてますやろうな)
あちらが勝手にしかけたことで、こちらが思惑を無視してしまったから、結果こんなことになったことを、彼が後悔していないわけがない。
どちらが悪いかと言えば、無茶な行動をとった自分にも非はあるけれど、冗談に思えない状況を作ったあちらが事の発端で、元凶である。
そうは思っているのだが。
(なんで、わては怒れないんでっしゃろ)
いらぬケガさえしたというのに、怒りはちっともわいては来ずに、逆に愉悦さえ感じてしまうのだから、困ってしまう。
もちろんその理由もちゃんと分かっている。
アラシヤマは、ドアの前で立ち止まり、けれど振り返らずに、その場で声を発した。
「シンタローはん。わては、全然気にしてまへんから、後で、飲みそこねたワインを飲ましておくれやす――――毒入りでもええですから」
たぶん泣きたいぐらい傷ついてて、でも、それを見せないために必死でそれを押し隠そうとしている彼の努力を無駄にしないためにも、顔を見ずにそう言えば、しばらく間を置いて、言葉が返ってきた。
「ちゃんと用意する。―――――アラシヤマ、悪かったな」
その言葉を聴いてから、ドアを開いてパタンとしめる。
その顔には、笑みが灯っていた。
こっちこそすみまへん。
本当の本当に悪いのは、実は自分の方なんです。
シンタローの自分に対する思いを知りたくて、【毒】入りだと嘯くワインを飲んだところで、相手のそれを知ることなどできないことはわかっていたから、わざとグラスを砕いて、もっと確実に自分の命がとれるような行動をしてみせた。
本気でやってたら、彼の止める暇など与えなかっただろう。
彼の手を傷つけてしまったことは誤算だが、後は思惑通りだった。
さきほどからジンジンと痛む傷に、アラシヤマは、満足げに笑った。
「ま、この程度の傷で、あん人のわてへの執着を見せてもらえたなら、上々ってとこどすな」
―――――それでも、わてはあんさんのためならいつでも死ねるって知っておりまっか?
絶対という言葉がありえないというのならば、きっとという言葉に言い換えよう
きっと貴方の元へ―――――参ります。
「認めまへん………」
ざらざらに乾いた舌先から漏れた言葉は、自分以外誰も聞き取れないほどの掠れたかすかな声。
その思わぬ頼りなさに、発した自身が、眉を顰めて見せた。
心まで気弱になりそうな声を自分が出したとは思いたくない。
今の状況でそれは、あまりにも絶望的なものを得てしまうからだ。
(そんなこと認めまへんで)
声に出すことは拒絶して、心中でしっかりとその言葉を刻む。
言霊に誓うように、願うように、その言葉に思いを込める。
「………っぅ」
(ふざけんで欲しいわ)
どうしようのない苛立ちがこみ上げる。
少し動くだけで、脳天突き破るほどの激痛。
どうして、自分がそこまでのケガを被い、さらに悲壮なほど危機的状況におかれなければいけないのだろう。
その思考は、すでに八つ当たりの部類に入っているのだが、仕方ない。
味方ゼロ。
救援未定。
敵多数。
くらくらしそうなほどの素敵な状況。
任務はかろうじて成功というところが、まだしも慰めになるだろうか。
否、なるはずがなかった。
生きるか死ぬかのこの状態では、そんなものは何も役には立たない。
役に立つのは、仮に自分がここで命を落とした後だ。それも、無駄な死ではなかったと讃えられるだけである。
そんなもの、どうでもよかった。
今の自分が願うのは、未来への生命。
今のところ敵に見つかってないからこそ、かろうじて生き延びられているという状況に、感謝だけはしている。
それでも、硬直状態が続いており、状況の悪化もなければ好転もありえてないのは否めなかった。
(帰られへんかも―――――って、そんなこと認めまへん、言うといりますやろっ!)
自分の中で生まれる気弱を即座に突っ込み入れて、怒鳴り返す。
そうでなければ、最悪の結果ばかりが脳裏をかすむ。
はあ、と苦しげにもらされた吐息。
同時に伝う血の苦味。
外側に受けた傷だけでなく、内側もかなり傷ついているのがわかる。
じくじくと痛む内の傷とズキズキと痛む外の傷。
区別するのも面倒なのだが、それでも両方とも感じてしまうその痛みが心底むかつく。
いっそ、痛みで意識を飛ばしてしまいたいのだが、そうなると自分の死期が早まるだけだ。そんなことは、ごめんである。
(わては、帰るんでっせ。あの人の元へ)
約束したのだ―――――戻ってくると。
約束は、破るためにするものではない。必ず守りとおすために、されるものだ。
相手を信頼しているからこそ結ばれる誓い。
何があろうとも、その約束を貫き通せる隙があるのならば、どれほどの困難が待ち受けよとも、叶えなければいけない。
少なくても、自分が愛する人は、それを実行し、実現させている。
ならば、自分もそれに準じなければいけない。
決して相手に引けをとらないために。
相手に見くびられないために。
相手に相応しい人間になるために。
約束は必ず守る。
「わては、生きて帰りますえ。あんさんのところへ―――きっと」
だから、今は生きる。
大切なのはそのことで、アラシヤマは、状況を十分判断してから立ち上がった。
戦場は、まだ続いていて、巻き起こる砂煙でかすむ大地の中を、確実に一歩ずつ進む。
血を大量に流れたせいで、かすむ視界の中で、必死に大地を踏みしめる。
「きっと…………きっと、わては…………あんさんのところへ」
――――戻るから。
願いは空へ。
思いは風に。
身体は前に。
全ての力を振り絞り。
かすむ未来を確かに掴んで。
望む先はあの人の元。
――――だって、待ってくれてますやろ?
きっと貴方の元へ―――――参ります。
「認めまへん………」
ざらざらに乾いた舌先から漏れた言葉は、自分以外誰も聞き取れないほどの掠れたかすかな声。
その思わぬ頼りなさに、発した自身が、眉を顰めて見せた。
心まで気弱になりそうな声を自分が出したとは思いたくない。
今の状況でそれは、あまりにも絶望的なものを得てしまうからだ。
(そんなこと認めまへんで)
声に出すことは拒絶して、心中でしっかりとその言葉を刻む。
言霊に誓うように、願うように、その言葉に思いを込める。
「………っぅ」
(ふざけんで欲しいわ)
どうしようのない苛立ちがこみ上げる。
少し動くだけで、脳天突き破るほどの激痛。
どうして、自分がそこまでのケガを被い、さらに悲壮なほど危機的状況におかれなければいけないのだろう。
その思考は、すでに八つ当たりの部類に入っているのだが、仕方ない。
味方ゼロ。
救援未定。
敵多数。
くらくらしそうなほどの素敵な状況。
任務はかろうじて成功というところが、まだしも慰めになるだろうか。
否、なるはずがなかった。
生きるか死ぬかのこの状態では、そんなものは何も役には立たない。
役に立つのは、仮に自分がここで命を落とした後だ。それも、無駄な死ではなかったと讃えられるだけである。
そんなもの、どうでもよかった。
今の自分が願うのは、未来への生命。
今のところ敵に見つかってないからこそ、かろうじて生き延びられているという状況に、感謝だけはしている。
それでも、硬直状態が続いており、状況の悪化もなければ好転もありえてないのは否めなかった。
(帰られへんかも―――――って、そんなこと認めまへん、言うといりますやろっ!)
自分の中で生まれる気弱を即座に突っ込み入れて、怒鳴り返す。
そうでなければ、最悪の結果ばかりが脳裏をかすむ。
はあ、と苦しげにもらされた吐息。
同時に伝う血の苦味。
外側に受けた傷だけでなく、内側もかなり傷ついているのがわかる。
じくじくと痛む内の傷とズキズキと痛む外の傷。
区別するのも面倒なのだが、それでも両方とも感じてしまうその痛みが心底むかつく。
いっそ、痛みで意識を飛ばしてしまいたいのだが、そうなると自分の死期が早まるだけだ。そんなことは、ごめんである。
(わては、帰るんでっせ。あの人の元へ)
約束したのだ―――――戻ってくると。
約束は、破るためにするものではない。必ず守りとおすために、されるものだ。
相手を信頼しているからこそ結ばれる誓い。
何があろうとも、その約束を貫き通せる隙があるのならば、どれほどの困難が待ち受けよとも、叶えなければいけない。
少なくても、自分が愛する人は、それを実行し、実現させている。
ならば、自分もそれに準じなければいけない。
決して相手に引けをとらないために。
相手に見くびられないために。
相手に相応しい人間になるために。
約束は必ず守る。
「わては、生きて帰りますえ。あんさんのところへ―――きっと」
だから、今は生きる。
大切なのはそのことで、アラシヤマは、状況を十分判断してから立ち上がった。
戦場は、まだ続いていて、巻き起こる砂煙でかすむ大地の中を、確実に一歩ずつ進む。
血を大量に流れたせいで、かすむ視界の中で、必死に大地を踏みしめる。
「きっと…………きっと、わては…………あんさんのところへ」
――――戻るから。
願いは空へ。
思いは風に。
身体は前に。
全ての力を振り絞り。
かすむ未来を確かに掴んで。
望む先はあの人の元。
――――だって、待ってくれてますやろ?