ああ、今日だ………。
9月12日。朝一番に確認したのは、その日付で、カレンダーを見ても、テレビを見ても、それは揺ぎ無かった。後、一ヶ月ぐらい後に、それがくればよかったのに、というのは正直な感想だったが、けれど、今日と言う日は、今日来るのは、当然のことで、今更、変更などきくはずもなかった。
それならば、今日をどうすればいいのか―――。
「シンタロー、今日は何かあるのか?」
ふっと視線を書類以外の場所へ向けたとたん、問いかけられたその言葉に、シンタローは、相手が驚くほどびくりと肩を震わせた。
「え? は?」
ガンマ団総帥として部下には見せられないほどのうろたえぶりである。補佐をしているキンタローも、呆れた顔で、そんな総帥を見ていた。
「……何をそんなに驚いているんだ」
「べ、別に」
平素を装うとしたはずなのに、思わずどもってしまい、『しまった』と心中で舌打ちするものの、そこはもう取り返しのつかないことである。どう誤魔化そうかと思考を必死にめぐらせるが、こういう時に限っていい案など浮かびはしなかった。
さらに慌てふためく相手に、
「今日はやけに、日付や時間を気にしているみたいだが、何かあるのか?」
キンタローは的確な質問をしてくれるが、シンタローは、グッと息を飲むものの、正直な答えを口にすることはできなかった。できるはずがない。今日、確かに『何か』はあるが、それは自分にとって大事なことであり、他者には決して知られたくないことなのである。
「なんでもねぇよ。さ、仕事仕事!」
これ以上追求されないように、わざとらしく大声を出しながら、まだ未決済の書類を、シンタローは握り締めた。
ああ、どうしようか……。
チチチチッ。時計の秒針は止まらずに動いている。なんて規則正しいのだろうか。少しばかりとまってくれればいいものを。その融通のなさが、苛立ったしまう。
「シンちゃん、どうしたの? じっと時計なんか見つめて。カップラーメンでも作ってる?」
その能天気な言葉に、胡乱な表情を浮かべたシンタローはゆっくりと顔をあげて、グンマに視線を向けた。
「カップラーメンなんてどこにあるんだよ、グンマ」
昼食が片付けられたダイニングテーブルの上には、それらしきものは、一切見当たらない。
「だって、それ以外に、そんなに真剣に時計を見る必要ってある?」
なくはないだろう、とは思うものの、具体的な例をあげることが出来なかったため、口を噤んだ。
もちろん、自分が時計を見つめる理由など教えられるはずもない。
「確かにないな。なんでもない。気にするな」
誤魔化すように、そう言い放って、シンタローは、立ち上がった。
ああ、決まらない……。
うろうろうろうろ。挙動不審極まりなく、あてもなく廊下を歩く。どこへ行けばいいのか、定めることができないまま、波間をたゆとうクラゲのごとく、ふらふらと歩き回る。
「シンちゃんv どうしたんだい? ヒマならパパと午後のお茶でもー――」
「眼魔砲ッ!」
駆け寄ってきたピンクスーツの男に、シンタローは、すっと右手を前に突き出して、必殺技を繰り出した。
暇などない。むしろ、焦りばかりが生まれて、どうしようもなくて、一箇所でじっとしていることもできずに、うろついてしまうのだ。
眼魔砲を放ったばかりの手を、シンタローは、じっと見つめた。その手には何も無い。今日、持つべきものが一つも無い。
「くそっ」
自分の手を握り締め、腹立ち紛れに、いつの間にか復活して忍び寄ってきた父親の顔を殴った。
ああ、情けない……。
9月12日。カレンダーがその日を示すのは、後わずか。
チチチチッ。時計が、明日を示すのは、ほんの数分後。
うろうろうろ。それでも目的地に足を止めることがなく、うろつきまわる足。
「……いい加減にしろよ、俺」
今日一日の行動を思い返して、自己嫌悪に陥ってしまう。
本当は、何をしたいのか。
最初から、分かっていたというのに―――――会いに行けばいいのだ。
それでも、決心はつかないために、揺れ動く心に身体が反応する。いい加減タイムリミットは近づいているというのに、いったいどうすればいいものか。
ガチャッ。
だが、不意に目の前のドアが開いた。
ビクッ!
盛大に戦慄く身体。とっさに逃げ出そうとしたが、けれど、すぐさまそこから覗かれた顔に、かろうじて留まった。
「シンタローはん?」
相手の心底驚いた顔に、シンタローはバツが悪げにふいっと顔をそらした。それでも逃げ出すことはなく、その場に留まったままでいられたのは、我ながら重畳といったところである。まだ、逃げたい気持ちがあるものの、それは必死に押さえ込んでいた。
「どないしはったん? こんな夜更けに」
人の気配がすると思い、気のせいかと思ったが、外へ出て見て驚いた。
思わぬ人が、そこにいたのだ。
「……………」
沈黙を保つ相手に、どういう言葉を告げればいいか迷ってしまう。いつもならば、こちらが何か言う前に、彼の方から自分を吹っ飛ばすのが常なのだ。もちろん手加減はしてくれるし、何よりそれが、彼の照れ隠しであることが分かっているのだが、今日は様子が少し違う。
「シンタローはん……?」
いったいどうしたというのだろうか。
首を傾げて考えてみるものの、理由が見当たらない。けれど、彼がそこにいつまでもいていいはずはないことは、理解していた。彼は、ガンマ団総帥である。誰よりも重い責任を持ち、そして、常に気を張って仕事に励んでいるのだ。その疲れは、自分の想像にも想像つかないもので、こんな場所で、無為に時間を過ごさせるわけにはいかなかった。それよりも、一時でもいい。彼には休んで欲しかった。
そのために、アラシヤマは口を開いた。
「もうすぐ、日付も変わる時間帯やし……何の用かわかりまへんが、大した用やなかったら帰りはった方が―――」
そう言った瞬間、自分の身体が大きく傾いたのを、アラシヤマは自覚した。とっさに体勢を元に戻そうとするが、それよりも早く、自分の顔目掛けて、何かがぶつかってきた。
チュッ。
小さく音立てたのは、自分の唇。
驚いて、目を丸くする自分の瞳に映ったのは、これ以上ないほど真っ赤な顔をした―――愛しい人の姿だった。
「―――誕生日おめでとう。アラシヤマ」
ようやく耳に届くほど、か細い声で告げられた言葉。
信じられないと一瞬脳裏で否定するが、けれど、耳に届いたのは紛れもなく、自分の誕生日を祝福する言葉だった。
そうだ。今日は9月12日―――自分の誕生日だった。
気付いたのは、彼の言葉を耳にした後だった。
「シ、シンタローはん………その言葉をわてに?」
頬を紅潮させたまま、仏頂面した様子の相手に、恐る恐るアラシヤマが訊ねれば、キッと睨みつけるような鋭い視線をもらった。
「プレゼントとか……わかんねぇし。お前、何も欲しがらねぇし―――でも、前に言ってただろ……だからだッ!」
そう怒鳴るように言い放つと、そのまま、くるりと回れ右をして、肩を怒らすようにして、ずんずんと遠ざかったっていった。その恋人の背中を茫然と見つめ、そして、その姿が消えたとたん、アラシヤマは、手近な壁に、とんと背中を預けた。
一気に気が抜けたのだ。
「なんですのん……」
そのまま、ずるりと座りこむ。それほど、自分は驚いていた。
恐る恐る自分の唇に触れる。
先ほど、ここに、初めて彼から口付けをしてもらった。いつもは、自分から。それも騙したり、不意打ちだったり、あるいはムードに酔わせて口付けしているばかりである。恥かしがりやな恋人は、自分かそうすることを、嫌がってばかりだったのだ。もちろん、相手からキスをしてもらいたいという願いは、持っていて、時折、ぽつりとそうして欲しいことは漏らしたことはあるが、期待などはしていなかった。
自分からのキスを拒まれさえしなければ、それでいいと納得していたのだ。
それなのに、まさか――――。
「あれは……わてのことを思ってのもんでっしゃろ?」
先ほどのキス。
それは、紛れもなく自分への誕生日プレゼントである。
自分が何を一番欲しているのか―――きっと一生懸命考えたゆえのプレゼント。
自然と綻ぶ顔。しまりのない笑みは、きっと見るものがいれば、喜色悪く感じるだろうが、かまわなかった。今、周りには誰もいないのだ。
だから―――。
「愛してますえ、シンタローはん。―――おおきに」
素敵な誕生日を届けるために、ここまで来てくれた恋人に、甘く囁くように言葉を捧げた。
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