卒業まであと三日と迫っていた。
後三日すればこの学校ともお別れ。
大嫌いな授業も、喜びも悲しみも分かち合った仲間達とも。
それに………
……シンタロー先生とも。
結局シンタローとは進展しないまま一年は簡単に過ぎ去って、彼を振り向かせるどころか相手にもされていない。
軽くあしらわれるのは自分がガキだから、だろうか。
落書きしまくり、文字掘りまくりの自分の机に頬杖をつき、溜息を漏らす。
窓の外ではこの間迄枯れ葉一つついていなかった桜の木の枝の先っぽにピンクの蕾がぽつんとついていた。
きっとあの花が咲く頃、自分はもう居ない訳だから、シンタローは又違う生徒をいつものように教えるのだろう。
リキッドは教鞭を取り、ネクタイをキッチリ締めて、黒いズボンでストイックに国語の授業を教えるシンタローを思い出した。
国語教師とは思えない鍛え抜かれた体は、ボディービルダーのそれとは違い引き締まったしなやかな体を持っている。
黒く長い髪を一つに縛り、同じく真っ黒な瞳に見つめられるとリキッドはいつも照れてしまう。
そんなシンタローに後三日で会えなくなるのだ。
そりゃ、永遠の別れではないのだが毎日会えないし、リキッドの進路は泣く子も黙る特選部隊という組織の入隊である。
かなり過酷な部隊らしいので、一週間に一回とか、一ヶ月に一回とかも会えなくなるかもしれないのだ。
それを思うと辛い。
特選部隊の人達は皆独身だという。
きっと色恋沙汰なんて出来ない位過酷な部隊なのだろう。
「はぁ…」
どんどんネガティブになって、リキッドは溜息を漏らした。
出した息は空気に溶け込む。
そして又窓ごしに外を眺めるのだ。
光に反射した窓ガラスに手を延ばす気にはなれない。
こんな事を考えている間にシンタローに会いに行けばいいのだが、会いに行っても又邪険にされるだけ。
でも会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。……触りたい。
自分がアクションを起こさない限りシンタローとの仲が深まる事は決してないと言う事は分かっている。
シンタローも振り向かせてみせろと言ったではないか。
でも、行ったとして、忙しい今時期迷惑になったら悪いなとも思う。
リキッドは悪く言えばヘタレなのだが、彼がヘタレてしまう理由は優し過ぎるからだと伺える。
相手に迷惑がかかるのは申し訳ないのだ。
「はぁ…」
本日二度目の溜息。
この調子だと彼の幸せは消えうせてしまうかもしれない。
悩んでいても仕方がない。
リキッドはスック!と立ち上がる。
迷惑だと言われたら土下座して謝ろう。
後三日!後三日しかないんだから!!
そのままリキッドは教室を出た。
卒業間近な為、授業はなく、尚且つ半日。
その為、校舎に残っている人間なんて僅かしかいない。
春麗らかな日差しの廊下を職員室に向かって走る。
は、は、と息をきらせ、少しだけ気温は寒いのだが、リキッドは少し額に汗をかく。
バシッ!
「いてッッ!!」
頭を押さえてぶつかった方を見ると真っ黒い何か。
そこには白い文字が書いてあり、それが出席簿だと分かった。
視線を緩やかに上げると見知った顔が少し怒っている。
「シ…シンタロー先生…」
そこに立っていたのは今まさに会いに行こうとしていたシンタロー自身。
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてリキッドはシンタローを見つめる。
「廊下は走るナ。」
それだけ言うとシンタローはスタスタと歩き出した。
慌ててリキッドはシンタローを止める為に素早く手を出し、シンタローの腕を掴む。
グ、と掴まれて、まさかリキッドがこんな大胆な事をするとは思っていなかったシンタローは少し驚いたが、振り向いた時には既に冷静ないつもの顔。
「あんだよ。」
ギロ、と睨まれ一瞬たじろいた。
が、腕は放さない。
「あ、あの、シンタロー先生今暇ですか?」
捨てられた子犬のように詰め寄られたのだが、シンタローはいつもの顔で「見てわかンねーか。忙しいに決まってんダロ。」とだけ言う。
リキッドはうなだれ「そうですか…」と呟く。
やはり邪魔か、と諦めて、手を離そうとした時。
「あんだよ。なンか用か?」
そう言われたので慌てて又手に力を入れた。
「シ…シンタロー先生、あの、」
そこまで言ってハタと思う。
ただシンタローに会いたかっただけで何を話すかなんて考えて来なかった。
えっと、と、頭の中でぐるぐるしていると、シンタローが口元を緩ませる。
その顔に魅入ってしまう。
「特戦部隊入団おめでとう。あそこの上司は俺の叔父だからよく言っておいてやるヨ。」
そう言って頭をくしゃくしゃと撫でられる。
それはそれでうれしいのだが、もう少し大人の扱いをして欲しい、とも思う。
青年の心は複雑なのだ。
「あ、ありがとうございます…あ、あの、シンタロー先生から見て、俺ってどう見えます?」
オドオドするものの、目線だけはシンタローから外さない。
そんなリキッドの態度を見て、珍しいナ、とシンタローは思う。
あの日告白を受けてから、アプローチらしいアプローチはされていない。
前より話し掛けてくるようになった。
ただそれだけ。
だが、シンタローはそれでいいと思っていた。
思春期の過ちと考えを改め、自分から去っていく。
本心を言えば淋しいような気もするが、それが当然。常識なのだ。
そもそも男同士というのは常識はずれもイイトコロ。
白い目で見られる事が遥かに多いだろう。
リキッドにそんな思いをさせたくない。
それは教師としてもあるし、それを省いた一人の男としても思う事である。
辛い思いをするのは俺一人で充分。
そう心の中で唱えてから、カラッとした笑顔でリキッドに笑いかける。
「ま、まだまだガキだけど、イイ面構えにはなったんじゃねーの?」
ハハハ、と笑うと、リキッドは苦しそうに眉を潜めた。
「そうじゃなくて!」
いきなり大声を出されてシンタローはびっくりした。
しかし、シンタロー以上に大声を出した張本人リキッドが1番びっくりしたらしい。
口元を手の平で覆った。
少しだけ無言が続き、リキッドは目を伏せ、すぐにシンタローの目を見た。
青い瞳が黒い瞳とぶつかる。
「大声出してスンマセン…でも、そうじゃないんです…」
リキッドの少年のような声がシンと静まりかえった校舎の廊下に響く。
窓の外はまだ明るく、春の日差しが窓ガラスから優しく二人を照らす。
風が吹き、カタカタと窓ガラスを揺らす音が聞こえた。
「そうじゃねぇって、じゃあどうなワケ?」
いらついたようなシンタローの声がリキッドの聴覚を支配した。
シンタローの顔はいたって真面目で、イヤ、少し怒っている。
眉を潜め、睨みつけるようにリキッドを見据えていた。
「だ、だから、恋愛感情としてっていうか……」
シンタローの気迫に圧倒されたらしくしどろもどろになりながら懸命に言葉を紡ぎ出すリキッド。
言葉を投げかけたがシンタローの反応はない。
なんで、と、リキッドは心の中で歯を食いしばる。
もしかして、俺の想いをシンタロー先生は蔑ろにしているのかもしれない。
そんな思い迄込み上げる。
「俺、シンタロー先生に言いましたよね…?」
疑問符で投げ掛けてもシンタローはうんともすんとも言わない。
馬鹿にしてるんスか?俺の事。
何も言わないシンタローにリキッドは苛立ちを覚える。
「あの!」
「だから?」
リキッドが言いかけた所で、揚々のないシンタローの声が間に割り込む。
言われた意味が解らず、リキッドは虚を突かれたようにシンタローを見た。
「だからって……?」
「だから何って言ってんだ。確かにお前は勢い任せで俺に告白した。それがどうかしたのか。」
余りの冷たい言い方に、リキッドは凍り付いた。
頭に冷水を浴びせられたよう。
シンタロー先生ってこんなに冷たい人だった?
俺が好きになった人ってこんな?
優しさを感じさせない言い方にリキッドは目を見開いた。
ようは馬鹿にされたのだ。
自分の初めての甘酸っぱい思い、熱い気持ち、全て。
ショックでリキッドはうなだれる。
サラリと金髪の髪が前にかかり、外の太陽がその金髪をキラキラと照らす。
「もぉいいっス。」
苦しくてたまらなくて。
そう言うだけで今のリキッドは精一杯だった。
本当は言葉すら話したくはない位なのだが、それだけは絞り出せた。
シンタローの元から去って行こうと背を向けた時。
「ムカつくんだよ。テメーみたいな奴。」
後ろから罵声とも取れる言葉を投げ付けられ、流石のリキッドもプチンと切れた。
すぐさまクルリとシンタローに向き直り、ギッ!とシンタローを睨み付ける。
「なんなんスか!その言い方ッッ!!馬鹿にしてるんスか!?」
悔しくて悔しくて、食ってかかる。
「さっきから聞いてれば、アンタなんなんスか!?嫌いなら最初から期待持たせるような事言うんじゃねーよッッ!!」
泣きそうだった。
でも、涙だけは見せられない。
それはプライド。
怒鳴って、肩で息をし、それでもシンタローから目を離さない。
すると、シンタローもギッ!と、リキッドを睨みつける。
「何被害者ぶってんだテメェ!確かにテメーは俺に告白した。だがな!テメーはその後何をした?何にもしてねぇじゃねぇか!自分から何もしてねぇ癖に答ばっか求めやがって!テメーのそーゆー所がムカつくんだよッッ!!」
手は上げられなかった。
しかし、それよりリキッドの心は痛かった。
さっきまでの痛みとは違う、真実を突き付けられた痛み。
怒鳴られて、泣きそうな顔をして、リキッドはまだシンタローを見つめる。
「俺はその時こう言ったはずだ。“振り向かせてみせろ”と。そんでお前はこう言った。“絶対アナタを俺に振り向かせて見せる”と。実際テメーは一体何をした?」
そう突き詰められ、リキッドは何も言い返せなかった。
あれから自分はこれといって何もしていない。
恥ずかしい。
何も努力していないでシンタロー先生に勝手に怒って怒鳴り散らした。
俯いていると、シンタローが溜息を付いたのが解り、ビクッ!と体が強張る。
「怒鳴って悪かったナ。」
そう聞こえたかと思うと、コツコツと遠ざかる足音。
バッ!と顔を上げると、シンタローはリキッドを置き、すれ違い歩いて行ってしまう。
止めようと思うのに声がカラカラに渇いて声が出ない。
手と足が接着剤をつけたかのように動かない。
足音はそんなリキッドにお構いなしに段々遠ざかっていく。
頑張れ俺!今頑張んないでいつ頑張るんだ!出ろよ声!動けよ足ッッ!!
今シンタローとこのまま別れてしまったらもう一生会えないと思う。
それは本能。
「待って下さいッッ!」
体は動かなかったけれど、声だけは出た。
コツ……。
足音も止まった。
今二人は背中と背中を向き合わせている。
くる、と、リキッドがシンタローへ振り向く。
振り向く事が出来たのは、多分さっき声を出せたおかげで体の緊張の糸が解けたからだと理解する。
「愛しています。シンタロー先生…」
駆け出す足。
スローモーションにかかったかのようにゆっくりと感じる。
シンタローの肩を掴み抱き寄せる。
制服ごしに温かい体温を感じた。
黒い髪からはシャンプーのいい臭い。
思わずクラッときた。
シンタローはいつものように攻撃的ではなく、黙ってされるがままに抱きしめられていた。
グッ、と、力を入れてシンタローを振り向かせるが、シンタローは顔を伏せている。
「俺って矛盾してンのナ。お前に普通の恋愛して欲しいって思ってンのに、こんな事言っちまってヨ。」
自笑気味に笑うシンタローに、リキッドは悲しくなると同時に嬉しくもあった。
シンタローが自分の思いを真剣に考えてくれていたんだと言う事。そして、そのせいで悩み苦しんでいたんだと言う事。
そんな複雑な気持ちの中、リキッドはシンタローの顎を指で上げた。
薔薇色の唇が微かに息を吸っているのがわかる。
ゴクリ。
生唾を飲み、喉が上下に動いた。
理性と欲望の葛藤の結果、欲望が勝ち、シンタローのふっくらとした唇に自分の唇を押し当てようとした。が。
「マセガキッッ!」
グイッ!と、手の平で顎を上に持ち上げられた。
いや、持ち上げた、というより、殴られたと言った方が近いかもしれない。
おかげでキスする事は叶わず、舌を噛みそうになった。
「キッ!キスなんてなぁ!10年早いんだヨッッ!!」
真っ赤になって怒鳴るシンタローに、リキッドはキョトンとした。
自分の年齢は18歳。
三日後には学校すら卒業だ。
キスなんて、大体の人間はもうしたであろう年齢。
そこでリキッドはある考えにたどり着く。
あのシンタローの慌てよう。
そして、顔の赤さ。
……もしかしてシンタロー先生って、何の経験もないんじゃあ……。
その考えに達した瞬間、リキッドの顔が瞬間湯沸かし機のように、ボン!と赤くなった。
マジかよ…。
リキッドは不良だっただけあって、経験はあった。
しかもリキッドはアメリカ人。
キスなんて挨拶だし、まぁ、恋人同士のようなキスはしないが、恋人は居た事がある。
勿論興味津々、背伸びをしたいお年頃。
最後迄した事も無きにしもあらずなのだ。
「……シンタロー先生。」
「……あんだヨ。」
「シンタロー先生って童貞なんで…」
バキッ!リキッドの頬にシンタローの拳がクリティカルヒットした。
「な、な、な、何言ってやがるッッ!変態ッッ!!」
「ヘ、へんた…」
過剰なシンタローの反応に、リキッドは少し怯んだ。
むしろ、暴言にちょっぴり傷ついた。
「……お前、こーいった事したことあンの。」
「は、はあ、まあ…それなりに…」
ヘタレのくせにッッ!!
シンタローは心の中で悪態をついた。
八つも年下のこの男に経験があって自分にはない。
それが少なからずとも年上の男としての自尊心を傷つけられる。
「シンタロー先生はしたことないんですか?」
「いうな。」
ヒュルリラー。と、何処からともなく傷心のシンタローの黒髪が風になびく。
何処か遠くを見ているようなその瞳は虚ろだ。
そして、そんなシンタローを見て可愛いな、なんて思う。
俺って重症かも。
今更ながらに思う。
「シンタロー先生。」
「あん?」
リキッドの声が聞こえたので、そちらへ向き直る。
リキッドの真剣な瞳とかちあった。
「初めてが俺じゃ、やっぱ嫌ですか…?」
少し眉を下げて、悲しそうに言うので、シンタローはグッと、言葉が詰まり何も言えない。
その瞳は何だか捨てられた仔犬のよう。
くぅーん、くぅーん、捨てないで~、捨てないで~、と、泣いている幻聴まで聞こえる。
「嫌っていうか、そのぉ、なんだ…」
困って右の頬を人差し指でかく。
こうゆう態度を取られると、どうしても邪険にできない。
「……だぁぁッッ!!」
そして頭を掻きむしり、奇声を発する。
バッ!!と、リキッドを見つめる。
ドキン!リキッドの心臓が高鳴った。
「オマエが嫌とかじゃねぇんだ!だが、今!したくない!」
「な…何スかそれッッ!」
「付き合ってもいねーのにできるかッッ!!」
「じゃあ付き合って下さいよ!て、ゆーか、前から言ってるじゃないですかッッ!!」
「馬鹿野郎ッッ!テメェ、じゃ、何か?キスしたいから付き合うのか?ああ?」
「好きだったらキスしたいし、それ以上の事だって望みますよッッ!」
はーはーはー
お互い言い合いの為、肩で息をする。
だが、どっちもひかない。
シンタローは俺様だし、リキッドだって目の前の御馳走に真剣なのである。
「いいか、リキッド。例えばの話しだからな!例えばのッッ!」
ズビシ!と、指先をリキッドの鼻の前にかざす。
例えば、と、何度も言い、それが例え話しだとしつこ過ぎる位言った後、シンタローが本題を話し出す。
「俺とお前が今、この瞬間から付き合い出したとしよう。しかし、オマエおかしいと思わねーのか?」
「何がですか?」
「お付き合いした瞬間からキスする事だよ!俺は嫌だ!絶対にッッ!」
「……じゃあ、いつならいいんスか。」
リキッドにはキスが特別ではあるのだが、シンタローが思っているそれ程ではないのだ。
何たってアメリカン。
テキサス州生まれなのだから。
日常茶飯事にキスなんて見てきたし、してきた。
恋人になったその瞬間からする事だって少なくない。
リキッドの質問にシンタローは顔をリキッドから背ける。
じっと見ていると、耳が赤い。
どうしたのだろうか、と思い声をかけようとしたその時。
「結婚したら。」
「は?」
「ッッ!だ、だから!結婚式の時まで俺はしねぇんだヨ!」
最後は半ば自暴自棄になりながら怒鳴り声を上げる。
耳が赤かったのは、顔も赤かったから。
そんなシンタローを見て、リキッドは口元を手の平で隠す。
可愛い!可愛い過ぎるよこの人ッッ!!
しかし、そう言われてしまえば今すぐはできない。
「じゃあ、二年後ならオッケーですね!」
「何故そうなる。」
「だって俺、シンタロー先生と結婚式してるはずですから。」
エヘヘ、と、悪戯っ子みたいに笑う。
シンタローがため息を吐くと、リキッドが今度はシンタローに指を指した。
「お前に普通の恋愛して欲しいって思ってンのに、こんな事言っちまってヨ。」
それは先程シンタローがリキッドに言った台詞。
「これって、俺、自惚れていいって確信してます。」
そう言われてシンタローは舌打ちをした。
それは苛立ちからではなく照れからくるもので。
しかし、上手を取られムカつくと思う気持ちは無きにしもあらず。
「ばぁか!」
それだけ言うと、シンタローははにかんで笑う。
やっと春が来たのだと、リキッドは自分の胸を押さえるのであった。
「俺様に指指しやがったな。お仕置きの尻バットだ。」
「ぎょー!!バットから釘が出てるぅッッ!!たぁすけてぇえぇ~!!」
終わり
後三日すればこの学校ともお別れ。
大嫌いな授業も、喜びも悲しみも分かち合った仲間達とも。
それに………
……シンタロー先生とも。
結局シンタローとは進展しないまま一年は簡単に過ぎ去って、彼を振り向かせるどころか相手にもされていない。
軽くあしらわれるのは自分がガキだから、だろうか。
落書きしまくり、文字掘りまくりの自分の机に頬杖をつき、溜息を漏らす。
窓の外ではこの間迄枯れ葉一つついていなかった桜の木の枝の先っぽにピンクの蕾がぽつんとついていた。
きっとあの花が咲く頃、自分はもう居ない訳だから、シンタローは又違う生徒をいつものように教えるのだろう。
リキッドは教鞭を取り、ネクタイをキッチリ締めて、黒いズボンでストイックに国語の授業を教えるシンタローを思い出した。
国語教師とは思えない鍛え抜かれた体は、ボディービルダーのそれとは違い引き締まったしなやかな体を持っている。
黒く長い髪を一つに縛り、同じく真っ黒な瞳に見つめられるとリキッドはいつも照れてしまう。
そんなシンタローに後三日で会えなくなるのだ。
そりゃ、永遠の別れではないのだが毎日会えないし、リキッドの進路は泣く子も黙る特選部隊という組織の入隊である。
かなり過酷な部隊らしいので、一週間に一回とか、一ヶ月に一回とかも会えなくなるかもしれないのだ。
それを思うと辛い。
特選部隊の人達は皆独身だという。
きっと色恋沙汰なんて出来ない位過酷な部隊なのだろう。
「はぁ…」
どんどんネガティブになって、リキッドは溜息を漏らした。
出した息は空気に溶け込む。
そして又窓ごしに外を眺めるのだ。
光に反射した窓ガラスに手を延ばす気にはなれない。
こんな事を考えている間にシンタローに会いに行けばいいのだが、会いに行っても又邪険にされるだけ。
でも会いたい。顔が見たい。声が聞きたい。……触りたい。
自分がアクションを起こさない限りシンタローとの仲が深まる事は決してないと言う事は分かっている。
シンタローも振り向かせてみせろと言ったではないか。
でも、行ったとして、忙しい今時期迷惑になったら悪いなとも思う。
リキッドは悪く言えばヘタレなのだが、彼がヘタレてしまう理由は優し過ぎるからだと伺える。
相手に迷惑がかかるのは申し訳ないのだ。
「はぁ…」
本日二度目の溜息。
この調子だと彼の幸せは消えうせてしまうかもしれない。
悩んでいても仕方がない。
リキッドはスック!と立ち上がる。
迷惑だと言われたら土下座して謝ろう。
後三日!後三日しかないんだから!!
そのままリキッドは教室を出た。
卒業間近な為、授業はなく、尚且つ半日。
その為、校舎に残っている人間なんて僅かしかいない。
春麗らかな日差しの廊下を職員室に向かって走る。
は、は、と息をきらせ、少しだけ気温は寒いのだが、リキッドは少し額に汗をかく。
バシッ!
「いてッッ!!」
頭を押さえてぶつかった方を見ると真っ黒い何か。
そこには白い文字が書いてあり、それが出席簿だと分かった。
視線を緩やかに上げると見知った顔が少し怒っている。
「シ…シンタロー先生…」
そこに立っていたのは今まさに会いに行こうとしていたシンタロー自身。
鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をしてリキッドはシンタローを見つめる。
「廊下は走るナ。」
それだけ言うとシンタローはスタスタと歩き出した。
慌ててリキッドはシンタローを止める為に素早く手を出し、シンタローの腕を掴む。
グ、と掴まれて、まさかリキッドがこんな大胆な事をするとは思っていなかったシンタローは少し驚いたが、振り向いた時には既に冷静ないつもの顔。
「あんだよ。」
ギロ、と睨まれ一瞬たじろいた。
が、腕は放さない。
「あ、あの、シンタロー先生今暇ですか?」
捨てられた子犬のように詰め寄られたのだが、シンタローはいつもの顔で「見てわかンねーか。忙しいに決まってんダロ。」とだけ言う。
リキッドはうなだれ「そうですか…」と呟く。
やはり邪魔か、と諦めて、手を離そうとした時。
「あんだよ。なンか用か?」
そう言われたので慌てて又手に力を入れた。
「シ…シンタロー先生、あの、」
そこまで言ってハタと思う。
ただシンタローに会いたかっただけで何を話すかなんて考えて来なかった。
えっと、と、頭の中でぐるぐるしていると、シンタローが口元を緩ませる。
その顔に魅入ってしまう。
「特戦部隊入団おめでとう。あそこの上司は俺の叔父だからよく言っておいてやるヨ。」
そう言って頭をくしゃくしゃと撫でられる。
それはそれでうれしいのだが、もう少し大人の扱いをして欲しい、とも思う。
青年の心は複雑なのだ。
「あ、ありがとうございます…あ、あの、シンタロー先生から見て、俺ってどう見えます?」
オドオドするものの、目線だけはシンタローから外さない。
そんなリキッドの態度を見て、珍しいナ、とシンタローは思う。
あの日告白を受けてから、アプローチらしいアプローチはされていない。
前より話し掛けてくるようになった。
ただそれだけ。
だが、シンタローはそれでいいと思っていた。
思春期の過ちと考えを改め、自分から去っていく。
本心を言えば淋しいような気もするが、それが当然。常識なのだ。
そもそも男同士というのは常識はずれもイイトコロ。
白い目で見られる事が遥かに多いだろう。
リキッドにそんな思いをさせたくない。
それは教師としてもあるし、それを省いた一人の男としても思う事である。
辛い思いをするのは俺一人で充分。
そう心の中で唱えてから、カラッとした笑顔でリキッドに笑いかける。
「ま、まだまだガキだけど、イイ面構えにはなったんじゃねーの?」
ハハハ、と笑うと、リキッドは苦しそうに眉を潜めた。
「そうじゃなくて!」
いきなり大声を出されてシンタローはびっくりした。
しかし、シンタロー以上に大声を出した張本人リキッドが1番びっくりしたらしい。
口元を手の平で覆った。
少しだけ無言が続き、リキッドは目を伏せ、すぐにシンタローの目を見た。
青い瞳が黒い瞳とぶつかる。
「大声出してスンマセン…でも、そうじゃないんです…」
リキッドの少年のような声がシンと静まりかえった校舎の廊下に響く。
窓の外はまだ明るく、春の日差しが窓ガラスから優しく二人を照らす。
風が吹き、カタカタと窓ガラスを揺らす音が聞こえた。
「そうじゃねぇって、じゃあどうなワケ?」
いらついたようなシンタローの声がリキッドの聴覚を支配した。
シンタローの顔はいたって真面目で、イヤ、少し怒っている。
眉を潜め、睨みつけるようにリキッドを見据えていた。
「だ、だから、恋愛感情としてっていうか……」
シンタローの気迫に圧倒されたらしくしどろもどろになりながら懸命に言葉を紡ぎ出すリキッド。
言葉を投げかけたがシンタローの反応はない。
なんで、と、リキッドは心の中で歯を食いしばる。
もしかして、俺の想いをシンタロー先生は蔑ろにしているのかもしれない。
そんな思い迄込み上げる。
「俺、シンタロー先生に言いましたよね…?」
疑問符で投げ掛けてもシンタローはうんともすんとも言わない。
馬鹿にしてるんスか?俺の事。
何も言わないシンタローにリキッドは苛立ちを覚える。
「あの!」
「だから?」
リキッドが言いかけた所で、揚々のないシンタローの声が間に割り込む。
言われた意味が解らず、リキッドは虚を突かれたようにシンタローを見た。
「だからって……?」
「だから何って言ってんだ。確かにお前は勢い任せで俺に告白した。それがどうかしたのか。」
余りの冷たい言い方に、リキッドは凍り付いた。
頭に冷水を浴びせられたよう。
シンタロー先生ってこんなに冷たい人だった?
俺が好きになった人ってこんな?
優しさを感じさせない言い方にリキッドは目を見開いた。
ようは馬鹿にされたのだ。
自分の初めての甘酸っぱい思い、熱い気持ち、全て。
ショックでリキッドはうなだれる。
サラリと金髪の髪が前にかかり、外の太陽がその金髪をキラキラと照らす。
「もぉいいっス。」
苦しくてたまらなくて。
そう言うだけで今のリキッドは精一杯だった。
本当は言葉すら話したくはない位なのだが、それだけは絞り出せた。
シンタローの元から去って行こうと背を向けた時。
「ムカつくんだよ。テメーみたいな奴。」
後ろから罵声とも取れる言葉を投げ付けられ、流石のリキッドもプチンと切れた。
すぐさまクルリとシンタローに向き直り、ギッ!とシンタローを睨み付ける。
「なんなんスか!その言い方ッッ!!馬鹿にしてるんスか!?」
悔しくて悔しくて、食ってかかる。
「さっきから聞いてれば、アンタなんなんスか!?嫌いなら最初から期待持たせるような事言うんじゃねーよッッ!!」
泣きそうだった。
でも、涙だけは見せられない。
それはプライド。
怒鳴って、肩で息をし、それでもシンタローから目を離さない。
すると、シンタローもギッ!と、リキッドを睨みつける。
「何被害者ぶってんだテメェ!確かにテメーは俺に告白した。だがな!テメーはその後何をした?何にもしてねぇじゃねぇか!自分から何もしてねぇ癖に答ばっか求めやがって!テメーのそーゆー所がムカつくんだよッッ!!」
手は上げられなかった。
しかし、それよりリキッドの心は痛かった。
さっきまでの痛みとは違う、真実を突き付けられた痛み。
怒鳴られて、泣きそうな顔をして、リキッドはまだシンタローを見つめる。
「俺はその時こう言ったはずだ。“振り向かせてみせろ”と。そんでお前はこう言った。“絶対アナタを俺に振り向かせて見せる”と。実際テメーは一体何をした?」
そう突き詰められ、リキッドは何も言い返せなかった。
あれから自分はこれといって何もしていない。
恥ずかしい。
何も努力していないでシンタロー先生に勝手に怒って怒鳴り散らした。
俯いていると、シンタローが溜息を付いたのが解り、ビクッ!と体が強張る。
「怒鳴って悪かったナ。」
そう聞こえたかと思うと、コツコツと遠ざかる足音。
バッ!と顔を上げると、シンタローはリキッドを置き、すれ違い歩いて行ってしまう。
止めようと思うのに声がカラカラに渇いて声が出ない。
手と足が接着剤をつけたかのように動かない。
足音はそんなリキッドにお構いなしに段々遠ざかっていく。
頑張れ俺!今頑張んないでいつ頑張るんだ!出ろよ声!動けよ足ッッ!!
今シンタローとこのまま別れてしまったらもう一生会えないと思う。
それは本能。
「待って下さいッッ!」
体は動かなかったけれど、声だけは出た。
コツ……。
足音も止まった。
今二人は背中と背中を向き合わせている。
くる、と、リキッドがシンタローへ振り向く。
振り向く事が出来たのは、多分さっき声を出せたおかげで体の緊張の糸が解けたからだと理解する。
「愛しています。シンタロー先生…」
駆け出す足。
スローモーションにかかったかのようにゆっくりと感じる。
シンタローの肩を掴み抱き寄せる。
制服ごしに温かい体温を感じた。
黒い髪からはシャンプーのいい臭い。
思わずクラッときた。
シンタローはいつものように攻撃的ではなく、黙ってされるがままに抱きしめられていた。
グッ、と、力を入れてシンタローを振り向かせるが、シンタローは顔を伏せている。
「俺って矛盾してンのナ。お前に普通の恋愛して欲しいって思ってンのに、こんな事言っちまってヨ。」
自笑気味に笑うシンタローに、リキッドは悲しくなると同時に嬉しくもあった。
シンタローが自分の思いを真剣に考えてくれていたんだと言う事。そして、そのせいで悩み苦しんでいたんだと言う事。
そんな複雑な気持ちの中、リキッドはシンタローの顎を指で上げた。
薔薇色の唇が微かに息を吸っているのがわかる。
ゴクリ。
生唾を飲み、喉が上下に動いた。
理性と欲望の葛藤の結果、欲望が勝ち、シンタローのふっくらとした唇に自分の唇を押し当てようとした。が。
「マセガキッッ!」
グイッ!と、手の平で顎を上に持ち上げられた。
いや、持ち上げた、というより、殴られたと言った方が近いかもしれない。
おかげでキスする事は叶わず、舌を噛みそうになった。
「キッ!キスなんてなぁ!10年早いんだヨッッ!!」
真っ赤になって怒鳴るシンタローに、リキッドはキョトンとした。
自分の年齢は18歳。
三日後には学校すら卒業だ。
キスなんて、大体の人間はもうしたであろう年齢。
そこでリキッドはある考えにたどり着く。
あのシンタローの慌てよう。
そして、顔の赤さ。
……もしかしてシンタロー先生って、何の経験もないんじゃあ……。
その考えに達した瞬間、リキッドの顔が瞬間湯沸かし機のように、ボン!と赤くなった。
マジかよ…。
リキッドは不良だっただけあって、経験はあった。
しかもリキッドはアメリカ人。
キスなんて挨拶だし、まぁ、恋人同士のようなキスはしないが、恋人は居た事がある。
勿論興味津々、背伸びをしたいお年頃。
最後迄した事も無きにしもあらずなのだ。
「……シンタロー先生。」
「……あんだヨ。」
「シンタロー先生って童貞なんで…」
バキッ!リキッドの頬にシンタローの拳がクリティカルヒットした。
「な、な、な、何言ってやがるッッ!変態ッッ!!」
「ヘ、へんた…」
過剰なシンタローの反応に、リキッドは少し怯んだ。
むしろ、暴言にちょっぴり傷ついた。
「……お前、こーいった事したことあンの。」
「は、はあ、まあ…それなりに…」
ヘタレのくせにッッ!!
シンタローは心の中で悪態をついた。
八つも年下のこの男に経験があって自分にはない。
それが少なからずとも年上の男としての自尊心を傷つけられる。
「シンタロー先生はしたことないんですか?」
「いうな。」
ヒュルリラー。と、何処からともなく傷心のシンタローの黒髪が風になびく。
何処か遠くを見ているようなその瞳は虚ろだ。
そして、そんなシンタローを見て可愛いな、なんて思う。
俺って重症かも。
今更ながらに思う。
「シンタロー先生。」
「あん?」
リキッドの声が聞こえたので、そちらへ向き直る。
リキッドの真剣な瞳とかちあった。
「初めてが俺じゃ、やっぱ嫌ですか…?」
少し眉を下げて、悲しそうに言うので、シンタローはグッと、言葉が詰まり何も言えない。
その瞳は何だか捨てられた仔犬のよう。
くぅーん、くぅーん、捨てないで~、捨てないで~、と、泣いている幻聴まで聞こえる。
「嫌っていうか、そのぉ、なんだ…」
困って右の頬を人差し指でかく。
こうゆう態度を取られると、どうしても邪険にできない。
「……だぁぁッッ!!」
そして頭を掻きむしり、奇声を発する。
バッ!!と、リキッドを見つめる。
ドキン!リキッドの心臓が高鳴った。
「オマエが嫌とかじゃねぇんだ!だが、今!したくない!」
「な…何スかそれッッ!」
「付き合ってもいねーのにできるかッッ!!」
「じゃあ付き合って下さいよ!て、ゆーか、前から言ってるじゃないですかッッ!!」
「馬鹿野郎ッッ!テメェ、じゃ、何か?キスしたいから付き合うのか?ああ?」
「好きだったらキスしたいし、それ以上の事だって望みますよッッ!」
はーはーはー
お互い言い合いの為、肩で息をする。
だが、どっちもひかない。
シンタローは俺様だし、リキッドだって目の前の御馳走に真剣なのである。
「いいか、リキッド。例えばの話しだからな!例えばのッッ!」
ズビシ!と、指先をリキッドの鼻の前にかざす。
例えば、と、何度も言い、それが例え話しだとしつこ過ぎる位言った後、シンタローが本題を話し出す。
「俺とお前が今、この瞬間から付き合い出したとしよう。しかし、オマエおかしいと思わねーのか?」
「何がですか?」
「お付き合いした瞬間からキスする事だよ!俺は嫌だ!絶対にッッ!」
「……じゃあ、いつならいいんスか。」
リキッドにはキスが特別ではあるのだが、シンタローが思っているそれ程ではないのだ。
何たってアメリカン。
テキサス州生まれなのだから。
日常茶飯事にキスなんて見てきたし、してきた。
恋人になったその瞬間からする事だって少なくない。
リキッドの質問にシンタローは顔をリキッドから背ける。
じっと見ていると、耳が赤い。
どうしたのだろうか、と思い声をかけようとしたその時。
「結婚したら。」
「は?」
「ッッ!だ、だから!結婚式の時まで俺はしねぇんだヨ!」
最後は半ば自暴自棄になりながら怒鳴り声を上げる。
耳が赤かったのは、顔も赤かったから。
そんなシンタローを見て、リキッドは口元を手の平で隠す。
可愛い!可愛い過ぎるよこの人ッッ!!
しかし、そう言われてしまえば今すぐはできない。
「じゃあ、二年後ならオッケーですね!」
「何故そうなる。」
「だって俺、シンタロー先生と結婚式してるはずですから。」
エヘヘ、と、悪戯っ子みたいに笑う。
シンタローがため息を吐くと、リキッドが今度はシンタローに指を指した。
「お前に普通の恋愛して欲しいって思ってンのに、こんな事言っちまってヨ。」
それは先程シンタローがリキッドに言った台詞。
「これって、俺、自惚れていいって確信してます。」
そう言われてシンタローは舌打ちをした。
それは苛立ちからではなく照れからくるもので。
しかし、上手を取られムカつくと思う気持ちは無きにしもあらず。
「ばぁか!」
それだけ言うと、シンタローははにかんで笑う。
やっと春が来たのだと、リキッドは自分の胸を押さえるのであった。
「俺様に指指しやがったな。お仕置きの尻バットだ。」
「ぎょー!!バットから釘が出てるぅッッ!!たぁすけてぇえぇ~!!」
終わり
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