作・渡井
金魚の泳ぐ場所
去年の夏、まだ暑さの残る夕方。
神社の鳥居の下で、リキッドはシンタローを待っていた。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう)
さっきまで同じ人待ち顔で、リキッドと並ぶように立っていた女の子は、どうやら連れが来たらしい。急に笑顔になって走っていってしまった。
目も合わせず会話も交わした訳ではないが、心細さが増してくる。
―――あの、シンタローさん、あの、あの、お祭りに行きませんか!?
緊張のあまり上擦っていたに違いない昨夜の電話に、シンタローは簡潔に「行く」と答えた。
嬉しくて嬉しくて待ち合わせの時間より随分と前に来てしまったら、どんどん不安になってきた。
彼は約束は必ず守る人だから、きっと来てくれるだろう。しかし。
何を話せば喜んでくれるだろうか。
何をすれば喜んでくれるだろうか。
自分は、あの人を喜ばせることなど出来るのだろうか。
「あ」
シンタローを見つけた。
最寄りの駅に電車が着いたのであろう、神社へと向かってくる人波は一気に膨らんだが、そんな中でも彼を見つけるのは容易い。
どんなに多くの人がいても、シンタローは埋もれたりしない。
藍色の浴衣に和風のサンダルをつっかけ、長い黒髪は首のところで一つに束ねられている。俯いていた目が上がって、リキッドを捉えた。
―――この瞬間がたまらなく好きだ。
「シンタローさん!」
大きく手を振ると、顔をしかめられた。恥ずかしいことしてんじゃねえよ、というところだろう。
意志の強さをはっきりと示した黒い目に、自分が映っている。それだけで先ほどまでの不安も吹き飛んでしまうくらい幸せになる。
約束の時間ぴったりに鳥居について、シンタローはリキッドをじろじろと見た。
「…へえ。思ったよりサマになってるじゃねえか」
「そ、そっすか!?」
声が裏返った。
知人が作ってくれた白っぽい浴衣を見下ろし、リキッドは頬が緩むのを何とか抑える。
「シンタローさんは似合いますね、浴衣」
「おう」
「親父さんの手作りですか?」
訊ねたらぎろりと睨まれた。
「テメー、俺にハートマークが乱舞するピンクの浴衣を着ろってか?」
―――そんな浴衣、作ってるんだ…。
「だってシンタローさん背が高いから、既製のじゃ合わないでしょ。俺だって探したけどなかったもん」
「今着てんのは?」
「Gが縫ってくれました」
熊柄にしようとするのを泣き落としで説得したことを付け加えたら、シンタローは口端をにやりと上げて笑った。
「どいつもこいつも、だな」
自信に満ちた皮肉っぽい笑みが彼にはよく似合って、リキッドの胸を高鳴らせる。
神社の境内に立ち並ぶ屋台を冷やかして歩く。匂いにつられて焼きもろこしを買ったら、シンタローに「ガキかテメーは」と言われた。
他意はないのだろうが、年下なのが密かにコンプレックスだから、ちょっと辛い。
「…あ、金魚」
端まで歩いていったときに、シンタローがぽつんと呟いた。
もうすぐ近くの海に花火が上がる。この境内からが一番よく見える。ごった返す人波はそれを目当てにしたものだ。
端からは角度の問題で見にくくなるから、自然に人波はそこで途切れていた。
人いきれから解放されて大きく息をつき、リキッドはシンタローに合わせて金魚すくいの前にしゃがみ込んだ。
「やりたいんですか?」
「こういうの、あんま得意じゃねーんだよな…苛々するんだよ」
「屋台の金魚なんて、あんま長生きしませんよ」
つまらなそうに店番をしている若い男に聞こえないようにささやくと、シンタローはしばらく考えてから、財布を取り出した。
「いい。やる」
「あ、お金なら俺が」
「黙って見とけ」
和紙を貼った網を片手に、シンタローは真剣に水の中を覗き込んでいる。
(金魚すくい、いいかもしれない)
何においても負けず嫌いなシンタローのこと、無論こんな遊びでも集中している。横顔をリキッドが見つめていることにも気づかない。
普段はこんな近くで見ることなど出来ないから、存分に目の保養をさせていただくことにした。
告白したのは一ヶ月前のこと。「俺と付き合ってください」という言葉に、シンタローは呆気ないほど簡単に頷いた。しばらくは信じられなかった。
シンタローは多忙だから、なかなか会えない。この前、少しだけ時間が取れて一緒に食事をして、別れ際に短いキスをした。
好きだと言ってもらったことは、まだない。
「取れた!」
網はぼろぼろになっていて、もう止めるよう言うべきかどうかリキッドが迷い始めた頃、シンタローが歓声を上げた。器の中で黒っぽい金魚がひらひらと泳いでいた。
やる気のない店番がビニールの袋に金魚と少しの水草を入れてくれて、シンタローは飽きずに目の前に掲げている。
「すっげー、俺生まれて初めてだ、金魚とったの」
皮肉めいた笑みもいいけれど、子どもみたいな無邪気な笑顔にも惹かれる。一挙一動に目を奪われる。
こんな顔を見ていると、自分の抱えている不安なんてどうでも良くなってしまう。自分という存在が、たとえシンタローにとっては気まぐれだろうと暇つぶしだろうと、そんなのはちっぽけなことだ。
一緒にいられればそれでいいと思う。
「シンタローさん、可愛い」
なんて浮かれていたら、思わず本音が口をついて出た。
やべえ、と口を押さえる暇もない。シンタローは立ち止まって、目を丸くしている。
ふざけんなと怒られる覚悟を決めてぎゅっと目を閉じたが、いつまでたっても怒声は聞こえてこない。
おそるおそる目を開けてみたら、耳を赤くしている想い人がいた。
もしかして、もしかすると。
可愛いって言われて、照れてたりするんだろうか?
―――え、ちょ、それ、反則でしょ。我慢できねっつうの。
「あの…シンタローさん」
「…何だよ」
「あの……背中、憑いてます。変なのが」
は? と振り向いたシンタローの目に、今度こそはっきりとした怒気が浮かび上がる。
「アラシヤマーッ!! テメー後ろから人にひっついてんじゃねーよ!!」
「せやかてシンタローはん、浴衣姿も素敵すぎどす~」
邪魔さえ入んなきゃ我慢しねーんだけどなー、と遠い目をするリキッドをよそに、シンタローはアラシヤマにぎゃんぎゃん怒鳴っている。
「だいたい何でテメーがここに居んの!」
「嫌やわあ、お祭りを見に来ただけどすえ。シンタローはんをお見かけしたさかい、ご挨拶をしとこうと思ったんどす」
「背中にべったりくっついて胸撫で回すのがテメーの挨拶か」
「ああん心配しはらんくてもそれはシンタローはん限定v」
「マーカーどこ行った! 居るんだろうテメー、ちゃんと躾しとけっ!」
げ、やっぱ居んのかよ。
悠然とした足取りで歩いてくるマーカーから、思わず目を逸らしてしまうリキッドである。旧知の仲というのは、イコール会えて嬉しい仲とは限らない。
「うちの不出来な弟子が粗相をしたようで」
「引きこもりを祭りに連れてくるんじゃねえ、家で鎖に繋いどけ」
「コレがどうしても花火が見たいと駄々をこねるのですよ。そちらは坊やの子守りですか?」
ここで「誰が坊やだ」なんて言ったら、100倍になって嫌味が返ってくる(身をもって学習している)。リキッドはひたすら遥かな夜空を見つめ続けた。
「シンタローだべ」
「アラシヤマの奴、まーたシンタローを困らせてるっちゃ」
背後からは別の知り合いが声をかけてくる。こちらにはシンタローも愛想よく手を挙げていた。
「おお、シンタロー、浴衣がよう似合うとるの」
「ようコージ、お前は一人かよ」
「妹と来とるんじゃが、はぐれてしもうたんじゃ」
「どっちもデカいからすぐ見つかるっちゃ」
「よーうリッちゃん、おにーさんとナンパしに行かねー!?」
「………うむ」
「あっマジック先生のバカ息子!」
「位置が違ェよ、バカマジックの息子と言え」
えーと、俺は今日大好きなシンタローさんとお祭りに来てるんだよな? もうこれ以上の幸運は人生においてないかもしれないってくらい素晴らしい日なんだよな?
わらわらと人が増えていく中で、リキッドは必死で自分に問いかけていた。
史上最高に幸せな日だってのに、何でこんなに邪魔されるんだ!? デカゴツい男どもが揃って花火なんか見に来てんじゃねーよ!!
ちなみにこの場合、自分とシンタローだって十分にデカゴツい男であることは範囲に入っていない。
「あーっシンちゃんだ!!」
極め付けがこれだ、と既に諦めきった表情で振り向く。
予想通り、そこにはグンマとキンタローの姿があった。
「何だ、お前らも来たのか?」
「えへへ、高松にお小遣い貰っちゃった」
彼らはシンタローの従兄弟である。家族を大切にしている(一部例外を除く)シンタローにとっては、親友でもあるらしい。
だがグンマはいつでも柔和な笑顔でいるわりに掴みどころがなく、キンタローはいつでも無表情に近い。リキッドにとってはどちらも近寄りがたい人物である。
シンタローと待ち合わせて、一緒に金魚すくいをしたところで、自分の運は使い果たしてしまったのかもしれない。それでもお釣りが来るくらい幸せだったけど。
と、総論をまとめに入りつつあるリキッドだった。
「んーやっぱりその浴衣、すっごく似合うよ。間に合って良かったね!」
「…おう」
「でも帰ったらシンちゃんが引っ張り出してきた家中の浴衣、ちゃんと片付けてね」
「………」
「ね、ね、リキッドくん」
「あーッ! ちょっと待て、グンマ!!」
名前を呼ばれたと思ったら急にシンタローが叫んで、リキッドはクエスチョンマークを顔に浮かべたまま固まる。
「大変だったんだよー、シンちゃんたら昨日の夜からありったけの浴衣を並べて、あれでもないこれでもないってさぁ」
「グンマ! てめ余計なこと言ってんじゃねえ!!」
掴みかかろうとしてキンタローに宥められているシンタローは気づいていない。
自分の大声で思い切り注目を集めていることも、それに負けじと張り上げるグンマの声がよく通ることも。
「結局朝イチでデパートに行って浴衣選んだんだよ、それも丈が合わないから今日中に直せって無理言って。うちがお得意さんだから向こうも何とかしてくれたんだけど、頼んだときの台詞、何だと思う?」
「グンマ!!」
「『大事なデートなんだから、死んでも間に合わせろ』だよ!?」
気づいたら、みんなニヤニヤした顔でこっちを見ていた。マーカーやキンタローでさえ。
隣でシンタローも固まっていると思うのだが、ちょっと今は顔を見ることが出来ない。見たら何を言ってしまうか分からない。
「えーと、そういう訳で、リキッドくんて一人暮らしだよね」
「は、あ」
「僕たち先帰るけど、面倒だから鍵閉めちゃうねー、シンちゃん帰ってこないでねー」
ひらひらと金魚のように手を振って、グンマが踵を返す。
すぐ後をキンタローが、こちらはさすがに小声で「伯父貴には俺が上手く言っておく」とリキッドに囁いていった。
「アラシヤマ、花火が始まるぞ」
「へえ、楽しみどすなあ」
「ミヤギくん、場所が埋まるとまずいわいや」
「だべ。花火は場所取りが肝心だかんな」
「お、ウマ子じゃ、ウマ子ー!」
「あっ浴衣がめちゃめちゃ似合うバンビーナ発見。行くぞG!」
「山崎くん、マジック先生の新刊を探しに本屋に寄ってもいいかな」
口々に理由を(それも相当にわざとらしい理由を)つけて、みんながくるりと背中を向ける。
彼らが歩き去り、静かになったところでちらっと横を窺うと、案の定シンタローが赤くなったり青くなったりしていた。
「…シンタローさん」
「うるさい!」
勇気を出して声をかけたら、怒鳴られた。
わっと歓声が上がったので上を見たら、花火が上がり始めた。花火の明るさを利用して顔を見てやろうと思ったのに、シンタローは空に背を向けてしまう。
背中は神社の方へずんずん歩き出した。歩き方に混乱と怒りと羞恥が現れている。
「シンタローさん、そっち行ったら花火見えないっすよ、木の陰になって」
「うるさいっ」
「シンタローさん、振り回したら駄目ですよ、金魚」
「うるさいっ」
「シンタローさん、好きです」
「………」
太い幹を背中にしたシンタローの前に回りこみ、屈むようにして下から覗き込む。
「怒んないで下さいよ、大事なデートなんだから」
「…調子乗りすぎ。お前」
拗ねた声で言われたって、ちっとも怖くない。
「今夜締め出される予定らしいっすよ、どうします?」
「ふん。夏なんだから一晩くらい外にいたってどうってことねえよ」
派手な音がするたび、拍手が聞こえてくる。ここの花火の上げ方は豪快らしかった。
「そりゃ、風邪ひいたりはしないだろうけど、徹夜すんですか?」
随分と長い間、シンタローは黙っていた。
悔しそうに唇を噛みしめた顔があまりに愛しくて、リキッドは時間も忘れて見つめていた。
ようやく開いた唇は、少しだけ笑っていた。
「俺は別に行きたかねーけど、こいつが―――こんなビニール袋じゃ、可哀想だから」
視線が落ちるビニール袋の中で、金魚が揺らめいている。
「んじゃ風呂に冷水、張ります。そこなら広々と泳げますよね、こいつ」
「広すぎだろバカ」
境内が明るく光った。一瞬遅れて、太い音が腹に響く。
大きな花火が幾つも空に咲く。どよめきが起きる。
後で聞いたことだが、天候が怪しくなってきたため、間を置いて上げていた花火を連続して一気に打ち上げたらしい。何とも迫力満点で、みんな大歓声で騒いでいたのだとか。
リキッドとシンタローは知らない。
今にも崩れそうな天気に負けずに最後の花火が打ち上がるまで、目は閉じていたし唇は塞がっていたから。
もうすぐ、また夏祭りが来る。
リキッドは朝顔型の金魚鉢を買った。黒い金魚は、元気に泳いでいる。
年下の恋人が次は赤い金魚が欲しいと言うので、シンタローは今年も金魚すくいをするつもりでいる。
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「リキシンと愉快な仲間たち」が書きたかっただけの設定なしパラレル。
なぜか山南さんつき。
ちなみにギャラリーの中でカップルなのはマカアラとミヤトリです。
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