好きだよ、好き。お前が好きだよ。
愛している。命あるかぎり、お前を愛している。この世の果てでも、ずっと愛している。
ねえ、シンタロー?
きっと私たちの間には、とても長い長い時間が存在していて。
今この瞬間、この世でお前と私が触れ合う時間は、その長い長い時間の内の、わずか一瞬にすぎないのだろうと思うことがある。
私はその長い長い時間を苦しみの中に過ごし、お前を恋うて、求めてやまないのだろうと、本能的に感じている。
そしてやっと、今やっと、巡り会うことのできた瞬間を、私は大事にしなければならないと、お前を大事に大切にしなければならないと、わかっているのに。
でも、どうしたらいいのかがわからなくって、可愛がり方を知らなくって、いつでも過剰で過少で、気付かないところで冷酷で寂しがらせて、そして私はそのことを、お前の笑顔で初めて気付く。
お前の頬を、どうやって撫でればいいのかさえ、私は迷うのだ。
羽毛を揺らすほどに撫でればいいのか、皮膚を突き破り、肉を掻き毟るほどに撫でればいいのか、どちらがより私の愛情をお前に示すことになるのか…不安に襲われるんだよ。
過ちを犯した。
私は、あの子を。幼いコタローを、閉じ込めて。
失敗を意識しなくなっていた私は、お前に泣かれても、必死に止められても、最初はその過ちに気付くことすら、できなかった。
色々なことがあったね。
お前が、私から秘石を奪って、南国の島に行って。
青と赤の物語が、始まった。
――あのとき。
お前が私をかばってくれたときのこと、覚えてる?
「父さん!」
私の前に飛び出してきて、死んでしまったお前。
この瞬間になって初めて私は、お前は私のことを、愛してくれているのかもしれないと感じた。
だがその後すぐに私は、お前を殺そうと決めた。
だってお前は、赤の番人なのだと思ったからね。あのときは。
すぐにそれは間違いだったと気付いたから、良かったけれど。
でもあのとき、私は、お前を殺そうと決めたんだったなあ。
不思議なくらいに、何の躊躇もしなかったんだ。
敵ならば、お前を殺すしかないと、それは夏の空に塗りたくられた青のように、一つの色しかない絶対的な答えだった。
私は、お前を殺すことばかりを考えていた。
今でも自問することがあるよ。
お前が本当に赤の番人で、私が青の総帥で、そのままの立場であいまみえていたら、私はどうしていただろうか。
――おそらく、そのままお前を殺していたのだと思うよ。
きっと私はそうする。
だからあれ以来、そんな風に、私はお前を殺した夢を見る。
いつも闇の中で、目を開いている。
動悸を感じる、だが何故か意識の芯は冷静で、研ぎ澄まされたように静寂を感じている。
血溜りの中で、目を見開いたお前の死体が、返り血を浴びた私の前にあった。
まるであの男のように。その首は、がくんと垂れた。
醒めて、良かった。
夢で、良かった。
目覚めてからそう息をつく夢は、際限なく私を苦しめる。
私がお前を殺していた未来は、確実に存在するのだ。
その未来とは、無の世界なのだろうけれど。
シンタロー。
これは愛といえるだろうか。私のこの想いは、本当に愛といえるのか?
私はお前のことを、好きだと言い、好きだと言い、愛してるといい、愛してるといいと思う。
その反面、殺すことができるんだ。
おかしいよね。シンタロー。自分でもそう思う。
でも、これだけは本当だよ。
たとえこの気持ちが愛じゃなくたって、恋じゃなくたって、私はお前しか選べない。
お前がいなければ、あらゆる存在が色褪せて動きを止めるほどの絶対的な、それは真実。
お前のお陰で、すべての季節は、冬からお前の季節の夏へと変わり、冷たい雪は解けて花は咲き乱れ、私は甘い蜜の香りに身を委ねる。
お前だけなんだよ。
世界よりも、あまねくすべての金銀よりも、天よりも地よりも、私はお前が欲しい。
私を救うことができるのは、お前だけ。
焦がれる想いに身を焼くのは、お前だけ。
愛でなくても恋でなくても、側にいて。
――そして、私たちは――
あんなに抱き合ったのに。
私はまた、お前に隠し事をしたんだ。お前の信頼を、裏切った。
お前が再びいなくなってから。
コタローが、私を青い瞳で見上げたんだ。綺麗な髪を短く切ったばかりの、小さな頭。
「とう、さん」
私のことを『父さん』と呼び始めた子供は、必死な瞳で私に訴えた。
強くなりたいのだと。強くなって、シンタローを助けたいのだと。すがるような表情をした。
そして、細い腕をのばし、手を差し出す。
「父さん、約束」
少しためらった後、コタローは言った。
「ゆびきり……」
私は聞き返す。
「ゆびきり?」
遠い昔の記憶が、黒髪の子供の表情と、目の前の金髪の子供の表情に、重なっていく。
小さな口は動く。
「お兄ちゃんが、昔、教えてくれたんだ」
「父さん。一緒に、お兄ちゃんを、助けようよ」
あんな過去を持っている子であるのに。どうしようもない父親の私に向かって。
この子は真摯なまなざしで、私に言い募る。
「一緒に」
「……ああ」
私は、手を差し出した。そして答える。
「一緒に、シンタローを、助けよう」
私たちは、指先を絡ませて、約束をした。
その後、子供は、サービスと修行に旅立った。
「知ってるかよ、兄貴。コタローの奴、あの島じゃあ、すっげえイイ笑顔で笑うんだぜ」
ハーレムは、何かにつけてこう言う。
私とコタローの間のことを心配してくれているのは、何もシンタローばかりではない。
ハーレムばかりか、今回の特訓を引き受けてくれたサービスだって、そうだ。
「あいつ、強くなって帰ってくるぜ。なあ、兄貴、そうだろう」
この奔放な弟にそう言われるたびに、私は、コタローの笑顔なんて見たことはないなと、考える。
島から帰ってきてからのことを思い浮かべても。
どこか、あの子は、私の前では肩肘を張っている。緊張している。震えている。
気の強い子、しっかりした子であるはずなのに、私の前では。
だが、あの瞬間。
ゆびきりのとき、指を差し出してきたときだけは、違っていた。
毅然として――
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「……ッ」
長い夢から醒めた瞬間は、相変わらずの静寂だった。
側にはやはり、お前はいなかった。
私一人きりのベッド、暗い部屋。
置時計は、床に転がったままだった。
部屋の厚いカーテンは勿論閉めきられたままで、その合わせ目からは、もう夜の闇しか漏れ込んできてはいなかった。
身を、よじる。
未だ身体は重く、鈍く、頭の奥がじいんと痺れていた。
どれくらい眠ったのだろうか。
静寂は、雨音の静寂だった。
まだ、降り続けているのか。
しばらくベッドの中でうとうとした後、私は手を伸ばした。
床から、置時計を拾い上げる。
時計の針は、夜の10時から少し過ぎた辺りをさしていた。
私は、サイドボードにそれを戻そうとして。
日付表示に、気付いた。
5月24日――
「……」
他の年なら、決して失念している日付ではないのに。
この世の何処かで、お前は、誕生日を迎えているのだろうか……?
お前は今、何処にいるのか。
生きてはいるのだと、そう信じているけれど。
沢山の夢を――見た。
いつものことなのだけれど。
ぐっすりと眠ることのできない、断続的な意識の途切れ途切れに、私はいつも過去の夢を見る。
過去や、あり得た悲しい未来の夢を見る。
シンタロー。
どうしてお前は生まれてきてくれたのだろうね? 奇跡でしかない。
青と赤の秘石の思惑の狭間に、私を騙すために、お前は生まれて。作られて。
そして私の元に、送られてきた。
石のことはもういい、ただ、お前に、私は。
生まれてきてくれて、ありがとうと、言いたいのだけれど。
だけど、お前はここにはいないから。
冷たいベッド。一人きり。
そう感じる度に、私は悲しくなる。喪失感に、目を閉じる。
好きだよ、シンタロー。
私に限りのない悲しみと、限りのない喜びを与えてくれる、お前が好きだよ。
もう一度会いたい。
会えば、さらにもう一度会いたくなる。
そうして私は永遠にお前に会いたくなるってこと、わかっているのにね。
いつだって、私は、もう一度と。瞬間を望み、その瞬間を連ねることで永遠を願う。
最初から永遠を願うことなんて、私にはできない。失うことが怖いから。
お前は今、どこにいるの。
会いたいよ。会いたい。
お前に会いたい、シンタロー……
置時計の隣で、携帯が鳴った。
間を置いて。
うつろな意識で、私は手を伸ばす。
サービスからだと、心の切れ端で、考えた。
内容は、いつものように定期的なコタローの鍛錬具合の報告だった。
私は寝込んでいることを気取られないように、何でもないような声を作った。
何でもない振り、というのは、心に陰りがあるときにするものなのだと、今更ながらに実感する。
報告が終わり、珍しくその後、少しの間があった。
「どうした」
私が聞くと、
「いえ」
そしてサービスは、すぐに続けた。
「コタローが、兄さんにお話があると。代わってもいいですか」
『ああ』と答えた私の声は、わずかに常より低かった。
やがて少年の声が、聞こえてくる。
「父さん」
「……コタロー」
「父さん、あのね」
子供の声は、やはり緊張に震えていた。すでに条件反射なのだと思う。
無理もない。私はこの子に、怖がられるようなことをしたのだから、当たり前だと、考える。
「今日、お兄ちゃんの、誕生日だよね」
「ああ」
「グンマお兄ちゃんや、キンタローお兄ちゃんにも、電話したんだけど……」
「ああ」
「父さん、あの……」
コタローは言いよどみ、思い切ったように、大きな声を出した。
「ゆびきり! ゆびきり、覚えてる?」
「……ああ」
私はまた、同じ答えを返したのだけれど、すぐに言葉を付け足した。
「覚えているよ。お前が旅立つ前に、した約束。忘れてはいないよ」
私が多くの言葉を口にしたことで、少し心が軽くなったのか、子供は明るい声で言う。
「僕、強くなるよ。父さん。僕、強くなる。だから」
息を切って。
「一緒に、お兄ちゃんを助けようね! 絶対に助けようね! それで一緒に、お祝いしようね! ケーキ食べるんだ。プレゼントあげるんだ。おめでとうって、みんなで」
そう一気に叫んだ。
「……父さん?」
一向に答えを返さない私を不審に感じ、また不安になったのか、子供が声を落とした。
でも。おかしいだろうか。
私はただ、言葉が出なかったのだ。
「コタロー」
やっと口をついて出た私の声は、もう作り物の声ではなかった。
情けなくも発熱し、巡る夢にうなされて、それでいて青の一族で最も命を長らえている、ありのままの男の声だった。
「コタロー」
「なに。父さん、なに」
「ありがとう」
剥き出しの私が、子供に言うことができたのは、たったそれだけ。
しかし、最後に再び電話を代わった末の弟が、こう驚いたように言った。
「兄さん」
私は、目を瞑った。
耳元に携帯を当てたまま、遠い地を思い描き、ベッドに体を沈み込ませる。
「今、コタローは。笑ったよ。兄さんの言葉を聞いて、笑った」
その瞬間、稲妻が走ったのだ。
私は、目を開いた。
不思議なことが起こっていた。
世界が、変わっていた。
閉ざされた世界の中に、突然、未来が広がっていた。
「……」
これはどうしたことだろうと、私は自問する。
携帯を切った後の私は、ひどく幸福だった。
この感覚は、何だ。
指先が、熱のためではなく、歓喜で震えている。
自分で自分が信じられない。
新鮮な驚き。術が解けてみれば、なんて単純なこと。
今、私はすべてを理解した、と思った。
私は、また彼に向かって語りかけた。
シンタロー。信じられるかい。
私は信じられない。
今、私にかけられた呪いが、解けた――
指先と笑顔の刻印が、コタローによって、打ち消されようとしている。
私は、くつくつと一人笑った。
おかしくてたまらなかった。
どうして。こんなに、簡単なこと。
ここに辿り付くまでの困難、そして最後は簡単なこと。
それも私の力じゃない、あの金髪の子供の力。
符号の鎖は、断ち切られた。
今までの私の恐怖が、くつがえされようとしている。
私は、ベッドに転がった。そして想う。
シンタロー。今、何してる?
寒くはないかい。風邪をひいてはいないかい。
こちらは雨だ。ずっと雨が降っている。
そして私はみっともなくも寝込んでしまった。熱を出したよ。散々さ。
先刻まで、途方もなく寒かった。凍えていたんだ。どうしようもない、私だったよ。
でもね。
私は、一人きりじゃない。
そう感じたら。
あたたかい。とてもあたたかいよ。一人のベッドが、こんなにもあたたかいなんて。
不思議だね。
――私は変わる。
それは未来への予感。初めて指先と笑顔が、私に希望を、与えてくれた瞬間。
なんてことだ。コタローの笑顔と、指先でかわした約束の、一瞬で。
たった一瞬で。世界が変わった。いや、変わりつつあると表現した方が、正しいのかもしれないけれど。
私の人生を陰で操ってきた、呪われた暗示が、消え去る予感。
呪われた暗示とは、自己への不信、あきらめ、未来と結果へのくだらない理由付け。私の弱さ。
運命を受け入れるだけで、それを変えようとはしなかった私。臆病だった私。
だけれど、今、ある予感が私を襲い、捉えて離さない。
愛がすべてを変える。いつか愛が、私をすっかり変えてしまうとしたら。
やはりこれは、本物の愛なのだろうか。
こんな私にも、愛は存在したのだろうか。
愛なんて、一度得たら、失うばかりじゃなくて。
いつでもどんな瞬間にも、私の内に住む感情だったのではないかと、ふと気付いた。
変わることなどできないと思っていたから、私はその理由を、悲しい場面にはいつも存在した、指先と笑顔に求めていた。
そんな私に、コタローは、自分で闘うことを教えてくれた。
長い長い夜の中で、恋しい人がいることに気付く。
シンタロー、私はお前に会いたい。
すべてを投げ出して、お前に抱きしめて欲しい。お前を抱きしめたい。
私に最後の瞬間が訪れる時には、ただお前に、側にいて欲しい。
シンタロー。
また会えたらね…私を愛してくれる?
この金髪の子と一緒に、愛してくれる?
シンタロー、私の話を聞いて。
コタローが、私の言葉で、笑ったんだって。
私とコタローが、ゆびきりをしたんだよ。
指先を絡めて、お前を一緒に助けようって、誓った。
力をあわせて、お前に会いたいって、願ったんだ。
――シンタロー。
私には何かが欠けているのだと思う。弱い。馬鹿な男だ。いつも他の何かに、自分の運命の理由を求める。
お前がいなければ、生きていくことすらできない。
好きだよ。
とても好きだよ。
側にいるときは、あんなに不安を感じたお前の笑顔が、私は恋しくてたまらない。
シンタロー。
いつか会う日には。
私を待っていてくれるかい、シンタロー。
私に笑いかけてくれるかい、シンタロー。
シンタロー。
私は――お前に、嘘をついた。コタローのことで、嘘をついた。
代わりにお前を失ったのは、罰だったのだと思う。
それをつぐなうことは、できるだろうか。間違いを繰り返しても、またやり直すことができるだろうか。
醜いこと、寂しいこと、辛いこと、後悔すること、すべてが、お前への愛に変わるのだと、そう信じられるだろうか。
今度こそ、私は笑顔と指先を、信じることができるのだろうか。
またお前に出会えたとき、すべてが解決したときに、その私の自縄自縛の呪いは、消え去るのだろう。
幸せの中にある不安、失うことへの恐怖。
輝きが失われる瞬間は、いつも指先と笑顔。
私の脳裏に焼きつくそれは、死の予兆として私に穿たれた刻印。
これまでの私にとって、指先とは、死の頁をめくる何物かだった。
笑顔とは、私に隙を作らせ、より深い傷を与えるための道具だった。
だけどね――
今の私は、変わりゆく季節を感じている。
雨の後に差す光を、感じている。
今の私にとって。
指先とは、コタローと交わした未来への約束。
笑顔とは、まだ見ぬコタローの笑顔。
私たちは、自分の力で運命を切り開いて、お前に会いたいと、そう感じているんだ。
私の指先は、未来を自分で紡ぐことができたなんて。今まで、気付きもしなかった。
知らない間に、ゆびきりは、私からお前へ、お前からコタローへ、そしてコタローから私へと、巡ってきたのだった。
巡るのは悪い夢ばかりではない。明日への約束が、絡めた指を通して、巡る。
電話越しではなく、いつか本当にあの子の笑顔が見られるといい。お前を救い出したときに、いつか必ず。
ねえ、シンタロー。
お前を愛してる。
この子と一緒に、愛してる。
私の熱は、明日になればひくだろう。そうなったら、またお前に会いに行くために、私は頑張るよ。ねえ、頑張るから。不安なんて感じる間もないほどに、頑張るから。
待っていて。
私は、ベッドの中で、また目を閉じる。
辛い夢を見てもいい。辛い夢の後には、きっと、お前に会える幸せが待っているのだと、信じていたいから。
窓の外から、もう雨の降る音は、しなかった。
会いに行くよ。
会いに、お前にかならず会いに行くよ、シンタロー。
お前に、生まれてくれてありがとうと伝えるために、会いに行くよ。
失ったお前を、この手に取り戻すために。
そして、シンタロー。
私の元に、帰ってきてくれる?
私のいる場所、家族の待つ場所へと。
そして、可愛い笑顔を見せてくれる?
指先で私と、永遠の約束を、してくれる?
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