「シンタロー! コタロー!」
「親父――ッツ!」
私は金髪の子供の手を取り、抱きしめた。
かわりに、お前の指先が空を切って、青の中に堕ちていく。
これはきっと罰なのだと思う。
私はお前に嘘をついた代わりに、お前を失った。
それなのにお前は、笑った。自らは命を落すかもしれないのに、心底嬉しそうに笑った。
また、繰り返す。あの痛みが。私を。
指先と笑顔。
<指先と笑顔>
さんざしの花が、咲いている。
長雨の切れ間で、私道の石畳に残る透明の筋は、大地が流した涙のようだった。
立ち昇る水蒸気。かげろうのように薄い景色。すぐにまた雨が来る、雲の向こうの予感。
ここは私邸の庭だ。やさしい緑に、白に重なり咲き乱れる赤と青と黄。
生垣の向こうには、霧でかすむ森。水の香り、ゆるやかな時間。
ぼやける視界。綿毛の上を踏みしめるような、奇妙な感触。
自分自身が透明な幽玄の存在になってしまったような、浮遊感。
私は一歩、二歩、歩いてから、立ち止まった。
霧の中から、小さな足音が聞こえたような気がしたからだ。
目を見張る。
もやが濃くなって、やがてかたちになって、黒髪の子供が駆けてくるのが見えた。
私に向かって、駆けてくる。
小鳥のはばたきのような、楽しげな足音がする。
その黒い瞳。期待に満ちた無邪気な輝き。
それはただ太陽から光を受けて視覚する凡百の瞳ではなく、自ら光を放つ強い瞳だった。
一度見たら、目を逸らすことはできない。私を永遠に捉え続ける、その瞳。
駆けてくる子の幼い唇が動く。
私を呼ぶ声。愛しい響き。
――シンタロー。
私の右腕は自然に上がり、手の平が揺れ、子供に答える仕草をしたのだけれど。唇は、言葉を紡ぎかけたのだけれど。
同時に、頭の隅では、こう考えている。
これは夢だ。夢でしかない。
なぜならシンタローは、飛空艦から落ちて、ここにはいないのだから。
私の目の前で、コタローを抱きしめる私を置いて、空に消えた。
生死ですら、はっきりしない。
これは夢だ。夢なのだ。このシンタローは幻なのだと。
そう、私は理性で思うのだけれど。
幼子のシンタローが、小さな足で走ってきて、小さな手を元気に振って、大きな瞳で私を見つめてくれば、どんどん、どんどんと、私の意識は歪んでいくのだった。
歪む。歪んで、くにゃりと折れ曲がりそうになる。
蝋細工が溶けるように、私の心が溶ける。溶解する。
溶けて液体となって、私は溜息をつく。『ああ』と。
液体の溜息も、おそらくは液体で、いつしかその声も床に這いつくばって、ぴちゃりぴちゃりと揺れている。
そして長雨を飲み込んだばかりの石畳の隙間に、我先にと堕ちていくのだった。
すべるように堕ちて、ぬるつく硬い石のはざま、暗闇の中で、私は寂しくなる。
頭上からは、ぱたぱたとシンタローの可愛らしい足音が聞こえている。
私が溶けてしまったものだから、そのまま通り過ぎて、遠くへと駆けていってしまったのだ。
再び、溜息をつかずにはいられない。
『ああ』
その瞬間に夢からさめて。
私は現実へと戻るのだけれど、やはりここは暗闇であることには、変わりがないのだった。
かすかに身をよじる。肩先まで落ちた毛布が、やわらかくしなる。
ベッドの中。静寂だけが、暗い部屋を包んでいる。
私は、一人きりだった。
誰も私に向かって、駆けてきたりはしないのだ。
喉が渇く。舌も乾ききっていた。
……今、何時なのだろう。
部屋の厚いカーテンは閉めきられていて、その合わせ目からは淡い夕陽が、闇に薄い切れ込みを入れていたから、だいたいの予測はつくのだけれど。
そう思って手を伸ばした、サイドボードの置き時計は、爪をかすって床へと落ちた。陶器が小さく悲鳴をあげる音。
私は、まるで初めて出会った存在を見るように、自分の手に視線を遣った。
指の感覚が、鈍い。
老いた牝牛の肌のように、ざらつく世界の中に、私はいた。
再び溜息をつこうとして……やめにした。
私は、熱を出したのだった。
睡眠不足と過労が原因だというのが医師の判断で、安静を言い渡され、この状態に至る。
大事無いと主張したのだが、秘書たちに強制的に仕事を取り上げられ、自室に押し込められた。仕方なく、床についた。
それがおそらくは昨晩のこと。
「……」
自覚していた以上に、私は疲れていたようだ。こんなに眠っていたなんて。
記憶を手繰り寄せれば、ずきずきと頭の奥が痛む。
私は手の平で額を押さえ、あの昔は雛鳥のようだった秘書たちも強くなったものだ、いや私が一度引退して、弱くなったのかな等と、とりとめのないことを考えながら、再び深く枕に頭を沈めた。
頭痛が酷い。耳鳴りまでが、洞窟の木霊みたいに押し寄せる。
グンマやキンタローには、自分の体調のことは、知らせるなと言ってある。
余計なことに神経を使わせたくはなかったからだ。
開発にかかりきりの彼らは、いつものように研究室に泊り込みで、今夜も自宅には戻らないだろうから、支障はない。
あの子たちも体を壊さないといい。シンタローを救い出す前に、こちらが参ってしまってはどうしようもないのだから。
私たち家族は、廊下ですれ違うとき、仕事の合間に食事を共にするとき、忙しいさなかに、ふと思い出したように顔を見合わせるとき。
短い言葉で、静かな目線で、わずかに動かす口元で。
互いの意志を伝えあい、慰めあい、労わることで、お互いの存在を確認していた。
それだけの関係をこの4年で築いてきたのだと考えれば、それは喜ばしいこと。
それだけ切羽詰り、余裕がないのだと考えれば、それは物悲しいこと。
シンタローを失ってからは、ナイフの刃先を渡るような、ぎりぎりの生活を私たちは続けてきた。
私は、気だるく息を吐いた。
小さく声が漏れて、やけに錆付いているなと思った。掠れていた。そして重かった。
身の内に篭る熱が、じわじわと全身を侵食し苛みだす。
手足の関節が、鉛を溶かし込んだように痺れた。
ふと、それとは別に。
胸がきしむような感覚に襲われた。
「……?」
私は少しだけ背を丸め、その感情が自分から去るのを待った。
じっと身を固くする。
しかし感情は私を呑み込んだまま、高まりこそすれ、一向に去ろうとはしないのだった。
私は、自問する。
これは、何だ。
だが、この胸の痛みには覚えがあると、私はぼんやりと感じている。
幼い頃、四人の兄弟で暮らしていた頃、悲しいことがあると、泣くのを我慢していたことを思い出す。
夕暮れ時には弟たちに食事をさせてからと思い、夜には寝かしつけてからと思い、結局は疲れて自分も寝入って朝になり、朝には朝で、では明日になったら泣こうと心の溝に蓋をする。
悲しい気持ちは積み重なるばかりで、私の内に居座ったまま、出て行こうとはしないのだった。
父さんが、早く帰ってきますように、と。
ただ、そればかりを祈っていた、ちっぽけな自分。
その時の気分と、今の気分は、よく似ていた。
幾年経とうと、結局は私は成長してはいないのだと、自嘲気味に一人笑う。
きっと私は、死ぬまでそうなのだ。
どれだけ表面を飾ろうが、周囲がどう見ようが、本質的な私は何も変わってはいない。
演技だけが上手くなり、上塗りの厚さだけが膨大になり、内側に隠れた本当の私はどんどんと臆病になっていく。
ひどく臆病なのだ。臆病で、脆く弱くなっていく。
私はそして、シンタローを求めてしまう。
――シンタロー。お前がいないと、こんなにも私は、無力。
早く、帰ってきて。
私は駄目になってしまう。早く、早く、帰ってきて。
痺れた指を、私は唇でなぞる。
指の冷たい温度と、乾いた唇の感触が、同時に、脳裏で重なる。
誰もいない部屋で、私は呟いてみる。
「私は、お前のことを愛しているけれども」
呟きは白い蝶のように、ひらりと闇に待って、闇の濃い場所に飛んで消えた。
「……これは……本当に愛なのかな……」
もう、眠った方がよいのだろうと思う。
だよね、シンタロー。お前がもしここに居たのなら、きっとそう言う。私以上に悲しい表情で、言うだろう。
お前を失ってから、私は夜は眠ることができなかったから。
常以上に精神の均衡を失っているのだろうかと、まどろむ意識の中で考えている。
おやすみ、シンタロー。
私は、目を閉じた。
雨が、降っている――
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これはきっと罰なのだと思う。
あの日の朝、私は、コタローが出て行くのを見過ごした。
そしてお前に嘘をついた。あの子はまだ寝ているよと、遠征中のお前を騙そうとした。
私は愚かだ。
南国のあの島以前――コタローを監禁したときと、何ら変わってはいないメンタリティ。
私は醜い。
いつだって同じ酷いことをする。
私は、コタローに、逃げられたと感じた。
いつかの秘石を奪って逃げたお前と、姿が重なった。あのときの衝撃が、私には忘れられない。
自分は逃げられて当然の人間なのだと、私は思った。昔も、今も。
――この世界の初めには、まず美しさがあって。
私は自分の醜悪さを意識するとき、必ずその美しさを基準に、自らがどれぐらいそこからかけ離れているかを考える。
美に対して、私は醜かった。
そして愛とは、私にとっては美の権化だったから、私は自分自身の身に潜む愛が、信じられなかった。
いつも、まがい物ではないかと疑った。
いつもいつも、シンタロー、お前に対して愛を感じていながら、必ず危ぶんだ。
いつもいつもいつも、側にいたいと思うのに。片時も離したくないと、抱きしめていたいと、焦がれるように感じているのに。
愛していると呟くたびに、自分がわからなくなる。
お前が愛しくてたまらなくなるたびに、私は自己嫌悪の淵に堕ち込んで行く。
自分勝手に救われようとしているだけなのではないかと、お前は私の自己保存のための道具にすぎないのではないかと、自問する。
喜ばせたいと思ったときもある。
泣かせたいと思ったときもある。
そしてあのとき――お前の命が失われたのではないかと、気も狂いそうになった。
これは、愛していると、いうことなのだろうか。
花を見れば、花を美しいと感じるお前を思い出す。
あの子を見れば、あの子を可愛いと感じるお前を思い出す。
これは、愛、なのか?
愛とはもっと、輝かしい、一点の曇りもない尊いものであればよいのに。
私などが、抱くこともできないような、そんな高みにあるものであれば、よかったのに。
いっそ、愛さなければ、よかったのに。
瞼の裏にいつも映るのは、あの記憶。
シンタローが、自分を犠牲にして、私がコタローを救うことを望み、笑顔で落ちていった記憶。
のがした指先、最後の笑顔。
ああ、また、この二つが私を。いつだって、指先と笑顔なのだ。
私の背は、ぞくりと震えた。
指先と、笑顔。
私の醜悪に対して、シンタローの行為は美しさそのものだった。私がまねなどできないような、自己犠牲。
シンタロー、お前が私の美であるならば、私などが抱くこともできないような、そんな高みにあるものであれば、よかったのに。
うつらうつらと、とりとめのない思考が、巡る。眠る私を通り過ぎ、また戻り、記憶が巡る。過去と現在が、熱に浮かされた私の中を、巡っていく――
――私の父親は、太陽のような人であった。
ずば抜けた長身、優れた体格に口数の少ない雄雄しい気質であったが、長い遠征から帰還の際には、出迎える私たちに向かって輝くような笑顔をくれた。
力強い。優しい。暖かい。限りのない愛情。
言葉に尽くすことのできない幸福のかたちをした彼の笑顔。
彼の部下たちが、けして彼は他所では笑うことはないのだと口を揃えて言うたびに、私はその笑顔を自慢に思い、彼の息子であるという誇りそのものだと感じていた。
父は、戦場では不死身と言われたそうである。私はついにその姿を見ることはなかった。
私の心に残る彼の姿は、いつまでも笑顔のまま、黄金の輝きの中に佇んでいる。
今、私が及ばずながらも親の立場になってみれば、おそらく彼は子供たちの記憶に、自らを笑顔のままで残したかったのだろうと思う。
いつ果てるともしれぬ軍人、そのすべてを統率する総帥という職にある親であれば、誰でも皆そう考える。
私もかつてはそう――考えていた。
小さな頃の私は、失敗してばかりだった。
『私の留守中は、おまえが家族を守るんだ』
肩に置かれた熱い手と共に、かけられたその言葉は、私の幼い心の支柱となった。
それからの私の胸には、常にこの言葉があった。
どうしたらいいのかわからないとき。迷ったとき。寂しくてたまらないときには。この言葉を思い出し、明日は泣こう、明後日は泣こうと、悲しみを先送りにして、ついには泣かない子供になった。
年端もゆかぬ子供のことであるから、父は私に長男としての心構えを説いただけであったろうし、万全の期待など抱いていたはずはなかったろう。
家庭の維持など、子供一人の力でできるはずもない。実際は周囲の大人たちの手を借りなければ、とてもやっていけるものではなかったし、そのことは当時の私とて、わかっていたことだった。
それでも幼い私は、様々なことを気に病んだ。双子が風邪をひくことをまるで自分の責任のように感じ、すぐ下の弟の情操教育にやっきになった。
レシピを見て料理を覚え、父の好きなプティングにスパイスを入れ忘れたと落ち込み、双子の靴下の汚れを気にするあまりに、自分は左右逆の靴下を履いて、ルーザーに指摘されたりする始末。
父の遠征中に、花壇のクレマチスや蔓薔薇を枯らしたといっては謝罪の手紙を書き、帰還中には、食事の際に双子のマナーが悪いと叱りつけ、その勢いで自分が皿を落として割ってしまったりした。
父が亡くなってからは、私は徐々に失敗することを忘れた。
いや、失敗はしていたのだろうが、それを意識しなくなっただけのかもしれない。
最近になって、ふと思うことがある。
父は、私の失敗こそを、愛していたのかもしれないと。
――追憶が、雨糸となってしたたり落ちる音を、私は窓越しに聞いていた。
遠い日のことばかり、思い出す。
そう、あれも、雨が窓に銀の縞模様を入れていた日のことだ……
ハーレムとサービスが、仔猫を抱えてきたことがあった。
庭塀の隅で力尽きていたのだという。どこからか迷い込んできたらしい。
屋根付きのテラスで遊んでいて、最初にサービスが汚れた塊に気付き、ハーレムが飛び出して、雨の中で抱き上げた。
猫は、ずぶぬれになった毛糸の鞠のように見えたが、鞠ではない証拠に、うっすらと背中が膨らんだり萎んだりしていた。
息をしているのだと、その上下運動を眺めて、私は遅まきながらに気が付いた。
私は動物は好きな方だったけれど、家庭を預かる者には厳然たる優先順位というものがあり、私にとっては突然湧き出てきた猫などよりも、濡れ鼠になった双子の風邪を心配する方が、やはり先だった。
猫より鼠。
その頃の私は、憧れであった父に家族を任されたという気負いばかりで、生きていたのだから。
双子の衣服を脱がせて、熱いシャワーを浴びせながら、私は浴室で、この鞠を洗った。
人差し指でそっと泥を落とし、洗面器に張ったぬるめの湯で毛をさすり、それから乾いたタオルで拭き取った。
灰色だと思った鞠は、乾かせば白い毛玉であったことが判明した。
暖かいココアを飲みながら、双子は私に向かって、この物体を家で飼うのだと主張した。私は困って、首を傾げる。
すると視界の端に、居間の隅のソファで事態を遠望していたルーザーが、肩を竦めるのが見えた。
やれやれです。
声には出さないが、やけに優美な仕草でそう聞こえた。実に彼らしかった。
すでに夜だったから、明日の朝に獣医を呼べばいいだろう。
広い居間の隅に、タオルでとりあえずの寝床を作ってやってから。私は家裏の倉庫に向かう。
物持ちよく仕舞ってあった、双子が数年前まで使っていた哺乳瓶――ハーレムなどは哺乳瓶離れがサービスより遅かったのだが、このことは、双子の間の激しいケンカの種だった――を、取り出してくる。一番小さなものを選んだ。
仔猫の周りをうろうろしていたハーレムは、哺乳瓶を見ると目を見開き、それから照れたような顔をし、サービスは今はからかっていいような場面ではないと考えたのか、賢く黙っていた。
人間用のミルクでは栄養が足りないのだろうが、今はこれで間に合わせるしかない。
湯で薄め、人肌程度にさましたものを、瓶に注ぐ。こぽこぽという懐かしい音がする。
部屋に甘い香りが漂った。双子が、小さな鼻を鳴らした。
しかし仔猫は、哺乳瓶の乳首には見向きもしない。
口に押し付ければ、力をようよう振り絞って、くしゃくしゃの顔を背けるほどで。ますます、鞠みたいだ。
ゴムの匂いが、いけないのだろうか。私はゴムを柔らかくもみほぐして、白く薄い液体を指に滲ませながら、考える。
それから、今度は猫の歯のないぺったりした口をこじ開けてから、乳首を捻じ込んだ。
だが生き物は、自ら顎を動かす元気もないのか、ゴムをくわえたまま、目をつむっているのだった。
お手上げだ。
『困ったね』と、私は、心配そうな双子に向かって、言ったのだったか、どうだったか。
とにかく仔猫から目を離した隙に、ちろりとざらついた感触がしたのだ。
猫が、私のミルクに濡れた指先の方に、吸い付いていた。
猫は、それからいくらかのミルクを舐めて、ミイ、と小さく、鳴いた。
双子が、それはそれは嬉しそうに笑った。
仔猫の体力が削がれるから、あまりベタベタ触ってはいけない、手は出していけないという私の言いつけをよく守り、二人とも、不自然なきおつけの体勢をして、にこにこ笑っていた。
精一杯に首を伸ばして、覗き込んでいる。
私はこの白い鞠に愛情を感じたのは、双子のきちんと腰の横に揃えた指先を、見たときだったのかもしれない。
その夜、仔猫は息を引き取った。
私は今でも、猫の力なく垂れた髭や、半開きになった白い眼、温度の失われていく気配を思い出すことができる。
柔らかい毛皮が、粘土のように冷たくなって乾いていく様を、思い出すことができる。
私の傍らでは、双子はもう眠っている。ダメだというのに、自室から居間に毛布を持ち出してきていて、それに仲良く包まって、すうすうと幸せな寝息をたてているのだった。
普段は喧嘩しいのくせに、こんなときは呆れるくらいに仲が良い。明日は早くに起きて、一緒に獣医に会うのだと。張り切っていた彼ら。
なんと説明すればいいのか。
すると、ふ、ふ、と。寝息の合間に、ハーレムとサービス、どちらかがたてた笑い声が、聞こえたような気がして。
私が思い出すことができるのは――目に映った、眠る双子の笑顔。夢の中で天に召された仔猫と遊んでいるのだろう、その笑顔。
そして、私の背後からすっと伸びて、仔猫の半開きになった目蓋を下ろした、ルーザーの指先。
……猫が生きているときは、近付こうとはしなかった癖に。
私がそう呟くと、手をハンカチーフで拭いながら、弟は。
死んだら別です、生き物は嫌いですが、それは物です、と静かに呟いた。
私にとって、死とは、いつも指先でめくられていく何者かであり、笑顔の裏に潜む暗闇だった。
笑顔にぬくもり油断しきった心に、死は不意をついて、私に痛みを与える。
そのうちに、痛みを痛みとして感じなくなるぐらいに。
何度も何度も、麻痺してしまうほどに。
幸福の先に、必ず死は存在する。
そう、あのときも――
父の太陽のような笑顔があった。
私たち兄弟を抱きしめようとする強い腕。
ねえ、父さん。
僕たちは、いつも、あなたを待っているんです。早く帰ってきてと。
ずっとずっと待って、やっと父さんが帰ってきてくれた。私たちの待つ場所へと、帰ってきてくれたんだ。
父さん。父さん、僕の話を聞いて。僕、ちゃんとできていますか。弟たちは元気です。
一緒にこうして、お出迎えしています。みんな、いい子です。
金色に輝く長い髪、燃える炎の色の軍服、僕たちの誇りの父さん。
ずっと、待っていました……
ゆっくりと光が、近付いてくる。
兄弟は、その燦然とした輝きに包まれる瞬間を、予期した。
懐かしい指先が、私の肩を掠めた。私は息を飲む。
父の優しい長い指が、描く軌跡を、私はずっと見ていた。
その軌跡が私の肩を通り過ぎ、すぐ下の弟の髪を通り過ぎ、ハーレムの不思議そうな唇を通り過ぎ、サービスの見開かれた瞳を通り過ぎ、地に落ちるまでを、丹念に視線で追っていた。
父の最期の姿を、見逃すことのないように、
私の肩を指先が掠めた瞬間、私には父が死ぬのだということが、わかっていた。
それはどうしようもない直感で、本能で、血で深く結ばれた者同士だけが感じることのできる、引き裂かれるという鈍痛だった。
幸せの中に潜む不安。漫然として、おぼろげに生活を包む恐怖。
それは私に、指先と優しい笑顔というかたちで、暗示をかける。
愛なんて、一度得たら、失うものなんじゃないのか。
ねえ、シンタロー。
失うのが怖い。
いつか、私はお前を置いて死ぬのだと思う。
だから、いつも感じているよ、今だけは私を愛してほしい。
今だけでいいから一瞬でいいから、私に、愛していると言って。
どうしてこんなに私はお前を愛してるのだろうね。わからないよ。
ただ、風の冷たい春の日に、愛を感じた。
愛してなお、自分を疑い続けている。
――あれはそう、前夜式を終えた後。
牧師が父の棺の前で聖書を読んで、神の導きと助けを口にしていた。
その記憶を辿りながら、喪服を着た私は、三人の弟たちと一緒に身を寄せ合っている。
賛美歌のメロディが、鼓膜の内で木霊していた。
広間の壁に掲げられた十字架。十字架が見下ろす、棺。
手向けられた花さえ余所余所しい。その内に眠る体。かつて父親だった肉塊。
しんと静まり返った大理石の床、なだらかなその向こうには、軍服を纏う男たちが深刻な顔を突合わせている。
左胸、その喪章の輝きが、鈍い。
彼らは、何事かを相談しながら、私の方をちらちら眺めていた。
注がれる視線を感じながら、私は俯き、弟たちの金髪を撫でる。
運命は動き、予想もしなかった運命の頁がめくられた。
これからの打算と駆け引き、大人たちの計略の道具になるということ、利用されるということ、諦念と恐怖。
明日は葬儀だった。
この日が最後なのだと、私は感じていた。
葬儀を終えれば、私はこの雛鳥たちを残して、別世界へと向かわなければならないのだった。
喪服の裾を掴むハーレムの小さな手、俯くサービスのやわらかな金髪、憔悴したルーザーのいつにも増して青白い頬。
今は同じぬくもりの中にいる私たち兄弟。
このぬくもりを守らなければならなかったから、私は旅立たねばならないのだ。
さよなら、だ。私の少年時代も、終わる。
私は、陽は必ず昇るものだと思い込んでいた。
陽は沈めども、地の裏側をぐるりと回り込み、旅をし、必ずまた私たちの住む世界の地平線を、赤く染めてくれるのだと信じていた。
私を輝かしい光で照らしてくれる、強い強いあの人が。
大理石の白く冷たい部屋の、棺の中で。闇に包まれる、光が闇に呑み込まれる、そんなこと。
想像なんて、できなかった。
私は広間の隅で、もう一度、弟たちの体を抱きしめる。彼らはもう笑わない。泣き過ぎた目元が、痛々しい。
子供のやわらかい肌、その体温を感じながら、目を瞑れば――
輝きが失われる瞬間、父の笑顔、指先。
脳裏に焼きついて、それは死の予兆として私に穿たれた刻印。
私は怯えながらも、弟たちの小さな身体を抱きしめながらも、ただ、座っていることしかできないのだった。
そう、いつでも座して待つことしかできない。無力ばかりを。
やがて来る未来に漠然とした不安を抱きながら、乾いた心で待つことしかできないのだった。
いつだって。数十年の時を経ても。
――目を開くと。
赤い光の中で、シンタローが、空き缶を蹴っていた。
カラカラと缶は不恰好に回転を繰り返しながら、転がっていく。
私が、ベンチに座ったままなものだから。
口を閉ざしているものだから。
お前は怒って。少し離れた場所で。
たった一人で、錆ついた鉄柵に体を凭せかけて、沈む夕陽を見ていた。
海の見える港の公園、今日は珍しく早く仕事がひけたと、お前が言ったから。
ここに一緒にやってきたのだけれど。
折角の二人きりなのに、私たちのムードは最悪。
気まずい空間は、水鳥たちが、小さな羽音をたてるばかり。
沈む太陽。
視界の中、お前の背中は逆光に縁取られ、どこか荘厳。転じて私の愚鈍。
可愛い背中。お前の背中。
気のない振りをしていても、お前が背後を意識していることを、私に教えてくれる背中。
いつだってお前は。どうしてか、私を意識しているんだよね。全身の毛を逆立てる動物のように。
やがて、黄金に墨を掃いたように黒髪が散って、ひとすじひとすじが光を掠めて、揺れて、くるりと背中が振り向き、もっと可愛い顔が私を見つめてくる。
可愛い顔。お前の顔。
私はうっとりとして、その顔に見惚れている。心が吸い付けられる。優しくされたいと感じる。
シンタローはたまりかねたといった様子で、ぶっきらぼうに口を開く。
「…なあ、なんで黙ってんだよ」
私はそれでも沈黙していた。
じっと相手の可愛い顔を見ていた。
彼の機嫌はますます悪化し、唇がみるみる尖って、それから、呆れたというように両手が振りかざされて。
「チッ」
舌打ちの音と一緒に、彼は両手をぶんと勢いよく振り下ろす。
両手を振り下ろした後の彼は、振り下ろす前よりも、少し肩が落ちていた。
怒り顔が、困り顔になっていた。
しばらく私を見つめて、夕陽の中に立ち尽くした後、お前は。
私の隣に、座ったんだったね。
「……どうしたんだよ」
ほら。こうやって、少し首をかしげて、聞いてくれるんだ。
優しいよね。
私が黙っていると、お前は優しい。
だからだよ。
優しくされたくて、黙ってる。
「なあ、なんか言えよ」
「……」
「なあ」
「……」
「なあったら」
「……」
「なんかあったのかよ」
次第に強気のヴェールが剥がれていくお前。きつい眉が、下がっていく。
眺めていると、ごめんね、可哀想になってくるほどに可愛いよ。
何でもない素振りで、お前はいつも私に認められたくて、一生懸命なのだった。
私を知りたいと、感じてくれているのだった。
知ってる? 私は、お前のこと、可哀想だって思うことがある。
よくそう思うよ。
私に好かれて、可哀想だなって、感じている。
「なあ……」
そろそろ、違う表情も見たくなったから。
私はやっと口を開いたのだけれど。
「さっき、ケンカしたばかりだから」
そう、平凡な答えを返したら。
「フ、フン」
ちょっと安心したのを悟られたくないのか、お前は急いで鼻で笑って、他所を向いた。
私たちの目の前で、赤い夕陽がゆっくりと沈んでいく。
沈む光。輝き。明日の朝、またこの太陽に出会うことができるのだろうか。
「…ぎゅっとしていい?」
私がそう言うと、お前は振り向いて、ギッと私を睨みつけた。
「ああ? っていうか、さっきのケンカはアンタが悪いんだぜ! まずそれを謝れよ!」
さっきのケンカ。
でも私は、喧嘩をしたことは覚えているけど、何についての喧嘩だったかは、まるで記憶してはいないのだった。
私の脳裏に残るのは、いつもお前の表情ばかり。
喧嘩する顔、怒っている顔、困っている顔。たくさんたくさん、覚えているよ。
お前の顔は、私は永遠に忘れない。生きている限り、忘れない。
「まーた、だんまりかよ」
「ぎゅっとしていい?」
「アンタ、な。いい加減に」
「ぎゅっと、したい」
「……」
今度はお前が黙った。口をへの字に曲げている。
それを勝手に了承と受け取って、私は、彼の肩を抱き寄せた。
最初に薄いセーターの手ざわりがして、それからすぐにお前の肉体の感触。
少し痩せた気がする。無理もない。不眠不休で働いているのだから。
私の代わりに、総帥になってくれたんだよね。忙しいんだよね。
わずかの時間でも、私とこうして一緒にいてくれることが、嬉しいな。
心細い落日を、一緒に見てくれるのが、楽しいな。
抱きこまれたお前は、大人しかった。
近くで見たお前の顔は、やはり可愛いと思う。
頬のなめらかさがいいね。のぞきこむ私に、伏し目がちになる様子がいい。耳たぶのかたちが、素敵だと思う。
お前の匂いがする。距離が近い。私はそれだけで、どうでもよくなってしまう。
時間が止まる。揺れていた木の葉は囁きを止める。風は凪ぐ。
陽は水平線で立ち止まり、水鳥ははばたきと呼吸を止め、海の波も凝固する。
私の心臓は凍りつき、今このまま砕け散ってしまうのではないかと、気も触れそうになる。
シンタローの体を感じると、私は、もうそれだけでよくなってしまう。
お前さえいればいいと。
私はお前が生まれてからすべての日々に、そう感じている。感じ続けているんだよ。
お前を強く抱きしめる。私は、それだけで。
「…アンタが、悪いんだぜ」
俯いていた彼が、私を見上げた。そう口を開いて、黒髪が揺れた瞬間。
時間が、動き出した。
芽吹きの季節にゆっくりと伸びをする獣のように、時間は無から動へと鼓動を始める。
陽は世界の裏へと滑り出し、水鳥は羽を散らし、波は寄せる。
私は、息をする。
シンタロー。
お前だけが、私の時間を操ることができるんだ。
お前だけが。今ここにある私の生と死を、過去を、未来を。無自覚に、支配していく――
私は黙って、お前のすぐ側にある指先を見つめる。
どこか遠くに行きたいけれども、けして行くことのできないもどかしさ、お前の指の先。
爪のかたちが、可愛いと思う。
特別な手入れをしている訳ではないのに、その爪は、日々お前が触れる何事か、何者か、何物かに擦れて削れて、自然のままに綺麗なかたちになる。私にとって、美しいかたちになる。ひどく健全だ。太陽の香りがする。
不思議だ。私たちの前で、この世界の夕陽は沈もうとしているのに。
お前のすべてからは、太陽の香りがする。沈みゆくはずの光が、今ここにある。
お前を想うとき、私はいつもその香りに包まれて。
目を、閉じる。
「愛しているよ」
自然に私の唇からは、言葉が漏れ出でて。
そんなときはいつも。
一瞬の間の後、お前の怒ったような、拗ねたような、怯えたような声が、返ってくるのだ。
「くっ……誤魔化すな!」
そう、いつだって、私たちはこんな調子だ。誤魔化してなんか、いないのに。
私はお前の隣で、目を瞑るのが好き。
お前の気配を感じながら、お前の動きを想像するのが好き。
私の想像の中のお前が、好き。
勝手な男だろう、好きになってごめんね。
「……この、目なんか閉じやがって」
腹立たしげな声と共に、瞼を閉じた私の目元に、熱い感触がした。
それはお前の指先なのだろう。
お前が、私の目元を、触っている。悪戯半分、本気半分で、私の目蓋を開こうとしているのだ。お前の優しいのは、爪で私が傷つかないように、指の腹でちゃんと触れてくるところ。
指が触れてくる。私は、心の中で、呟いてみる。
ああ、これはお前の人差し指、皮膚が固くなっている、これは薬指。少し長い、これは中指……
――熱い。
お前の指先は、まるでそれ自体が感情をもっているかのように、熱い。お前の内に溢れる感情のように熱い。
お前は情熱家。他の人間の前では、理想の自分を演じてはいるけれど。私の前ではそれを演じきれずに、最後は感情を露にしてしまう。怒る。泣く。笑う……
熱い指先を通して、お前は世界に触れる。
私はそのたびに、嫉妬せずにはいられない。
私は、自分がお前の指先だったらいいのにと、考えることがある。
お前の指先になって、お前の黒髪を撫でられたらいいのにと思う。
お前が怒ったときに、お前がどうしたらいいのかわからないときに、お前が寂しいときに。
いつだって、撫でてあげたいのに。そうして、お前が心地よさに瞳を閉じる瞬間を、私は何度でも味わうのさ。
指先だったら、私はいつもお前と一緒にいられるのに。
お前の生活すべてを助けることができるのに。
御飯だって食べさせてあげられるよ。寝るときに、シーツを整えてあげることだってできるよ。読書のときにはページをめくってあげるし、退屈なときには、テーブルをこつこつ叩いて、気を紛らわしてあげることだってできる。
私が、お前の指先だったらいいのに。
そうしたら、お前が生を終えるまで、ずっと共にあることができるのに。
お前の側にいられる時間は短すぎて、私はまたどうすればいいのかわからなくなる。
ただ、こうして座って――
やがて来る未来に漠然とした不安を抱きながら、乾いた心で待つことしかできない――のだろうか?
私は運命を受け入れるだけなのだろうか。
愛しいものが、いつか失われるまで。
「……親父」
ようやく、私の目蓋をこじ開けるのは無理だと感じたらしいお前が、私を呼んだ。
困ったような声音に、私はまた可哀想になって、ゆっくりと目を開ける。
視界に、目を閉じている間に沈みきった夕陽の残した淡い光と、お前の黒い瞳が映る。
世界の陰影。濃くなり薄くなり、やがて輪郭となる。
お前と私の視線が、出会う。火花も散らず、電流も走らず、ただ穏やかに、瞳が出会う。
言葉。
「チッ……やっと、目、開きやがって」
私はその瞬間、お前が口元をほころばせるのだと気付いた。
唇が、優しいかたちに弧を描いて。動く……
シンタロー。いけない。
私は咄嗟に。
そのやわらかい唇を、塞いだ。
口付ける。
笑わないで。
シンタロー。そんな風に、笑わないで。
不安になるから。怖い。私はお前が怖い。可愛いから、怖い。
私に、笑顔を見せないで。
私はこの恐怖に打ち勝てない。暗示のもたらす不安に恐ろしくなる。
お前が消えてしまいそうで、怖い。
いつか失われるお前。
だからお前に口付ける。
びっくりして目を丸くしたお前は、笑うのを止めて、かわりに目を閉じた。
黒い睫毛。夕暮れの斜光を弾いて、近付くたびに意外なほどに長い。
寄せた眉毛で、一生懸命な表情になるお前。
それで、いい。
そう思いながら、私も目を閉じた。
――会いたいよ。シンタロー。
どうしてお前は、今ここにいないのだろう。あの空の狭間に、落ちて行ったのだろう。
やはりお前は、失われてしまったのだ。指先と笑顔の余韻を残して、消えてしまったのだ。
これは罰なのか。
私が悪い。そうだ、私のために、お前はいつも自己犠牲を。
シンタロー……
実の子じゃなくたって、実の子のように愛しい、恋人のように可愛い、愛人のように身も心も投げ出したい。
私とお前の関係って、どんなだろうね。
出会った頃は父と子で、いつの間にか恋愛に堕ちた。
思い出す――
出会った頃の、まだ小さなお前、大きな黒い目、すぐ熱を出すお前。
私はお前に会いたくて、一生懸命だったよ。私だってお前に負けないぐらい、本当は一生懸命なんだよ。お前が聞いたら驚くくらいに、一生懸命なんだ。
総帥の職務の傍ら、お前の側へ行く時間を作るとか、そんなことは当然として。ねえ、シンタロー。
私はお前に好かれたくって、一生懸命だった。
親子関係は、私には慣れない。
かつてはそれを、呆気なく失い、その幸せな思い出を忘れようとしてきたから、私の頭はからっぽだった。
だからお前にどうしてあげればいいのかが、わからなかった。
初恋みたいに、どうすればいいのかわからなかったんだよ。ただ愛しかった。
小さなお前を愛しく感じれば感じるほど、私は不安になった。
たとえば、亡き父を考えるに。
私は自然に父を愛していたし、父も私を愛してくれていたのだと思う。
だが、私の場合は。
同じようにお前が、父として私を愛してくれる自信など、なかった。
私は人殺しだったから、人を殺すために遠い地に行き、人を殺して帰ってくることを繰り返していた。
別に楽しくもなく辛くもなく、特に感慨もなく、単純作業を繰り返していた。
ただ、人を殺すときだけは、お前のことは考えなかった気がするね。
なんだか考えれば、罪のような気がして。
お前、このことは覚えているのかな。お前とは、こんな記憶を話し合ったことはないけれど、覚えているのかな。
幼いながらに、私が人殺しであることを感じ取っていたお前は、私が仕事へ行くときに、何でもない顔をすることをまず覚えた。
私が、本当にこの子は何でもないのかな、と思ってしまうぐらいに、上手に興味のない振りをした。
でも、あるとき。
遠征中の私に、部下から連絡が入って、心配になった私は予定を切り上げて、お前の元に戻ったんだ。
お前は一人きりの部屋で、ベッドの中、ぬいぐるみを抱きしめて、震えていた。
怯えたように私を見上げて、それから必死に『何でもない顔』をしようと努力していた。
部下の連絡によれば、お前は、突然『パパがしんじゃう』と泣きじゃくり、部屋に閉じこもってしまったのだというのに。
今の今まで、泣いていたのじゃないのか。
お前は精一杯の努力の後、赤い目をして、私に言った。
「……パパ、おかえり」
子供の白い喉は、ゆっくりと上下して、あの仔猫の鞠のような体を思わせた。
私が困って、頷くと。
お前はまた努力して、だけど安堵の入り混じった、泣きはらした顔で。
笑ったんだ。
……幸せであるのに。
私は、お前の笑顔と指先を見るたびに、どうしようもない不安に襲われる。
お前を想うとき、私はとても幸せな光に包まれる。
そんなとき、二度と人を殺すまいと思う。
私はお前だけではなく、すべての家族を愛しているのだと感じる。
この世界を愛しているのだと考える。
嘘いつわりのない真情が、私の胸に満ちる。
だが、お前がここにいないと感じるとき。
私は冷たい世界に取り残された一本の立ち木のように、世のはかなさを感じる。
この世すべてが凍りつき、風もひからびて色彩を失い、尖った修羅の心ばかりが私を襲う。
お前がいないのなら、すべてが無に還ればいいのだと感じる。
私とお前だけがいれば、いいのだと感じる。
すべてが無価値。無価値なものが存在するのは不快だったから、消えればいいのだ。
世界はお前を境目に、愛と憎悪に変わる。
こんな私の気持ちをお前が知ったら、怒るだろうって、わかっているのにね。
ごめんね。
だが私は、お前がそうして怒ってくれないと、この気持ちを抑えることはできないのだと思う。
お前がいてくれなければ。私は。
お前を失う予感、それは自分自身を失う予感と同義。
「シンちゃん、ゆびきりをしよう」
幼いお前を前にした私は、その笑顔を見た後に、こう言ったのだっけね。
「……ゆび、きり」
小さな口が不思議そうに動いて、黒い目が私を見上げた。
私はベッドに腰掛け、お前の小さな体を抱き上げて、膝に乗せる。
「約束を、するんだよ。小指と小指で、約束を」
「ん……」
「パパ、必ず帰ってくるから」
「……」
「きっと帰ってくるから。お前が待っていてくれるなら。約束だよ」
「……」
お前の顔が、くしゃりと歪んで、それから大粒の涙が、ぽろりと落ちた。
「親父――ッツ!」
私は金髪の子供の手を取り、抱きしめた。
かわりに、お前の指先が空を切って、青の中に堕ちていく。
これはきっと罰なのだと思う。
私はお前に嘘をついた代わりに、お前を失った。
それなのにお前は、笑った。自らは命を落すかもしれないのに、心底嬉しそうに笑った。
また、繰り返す。あの痛みが。私を。
指先と笑顔。
<指先と笑顔>
さんざしの花が、咲いている。
長雨の切れ間で、私道の石畳に残る透明の筋は、大地が流した涙のようだった。
立ち昇る水蒸気。かげろうのように薄い景色。すぐにまた雨が来る、雲の向こうの予感。
ここは私邸の庭だ。やさしい緑に、白に重なり咲き乱れる赤と青と黄。
生垣の向こうには、霧でかすむ森。水の香り、ゆるやかな時間。
ぼやける視界。綿毛の上を踏みしめるような、奇妙な感触。
自分自身が透明な幽玄の存在になってしまったような、浮遊感。
私は一歩、二歩、歩いてから、立ち止まった。
霧の中から、小さな足音が聞こえたような気がしたからだ。
目を見張る。
もやが濃くなって、やがてかたちになって、黒髪の子供が駆けてくるのが見えた。
私に向かって、駆けてくる。
小鳥のはばたきのような、楽しげな足音がする。
その黒い瞳。期待に満ちた無邪気な輝き。
それはただ太陽から光を受けて視覚する凡百の瞳ではなく、自ら光を放つ強い瞳だった。
一度見たら、目を逸らすことはできない。私を永遠に捉え続ける、その瞳。
駆けてくる子の幼い唇が動く。
私を呼ぶ声。愛しい響き。
――シンタロー。
私の右腕は自然に上がり、手の平が揺れ、子供に答える仕草をしたのだけれど。唇は、言葉を紡ぎかけたのだけれど。
同時に、頭の隅では、こう考えている。
これは夢だ。夢でしかない。
なぜならシンタローは、飛空艦から落ちて、ここにはいないのだから。
私の目の前で、コタローを抱きしめる私を置いて、空に消えた。
生死ですら、はっきりしない。
これは夢だ。夢なのだ。このシンタローは幻なのだと。
そう、私は理性で思うのだけれど。
幼子のシンタローが、小さな足で走ってきて、小さな手を元気に振って、大きな瞳で私を見つめてくれば、どんどん、どんどんと、私の意識は歪んでいくのだった。
歪む。歪んで、くにゃりと折れ曲がりそうになる。
蝋細工が溶けるように、私の心が溶ける。溶解する。
溶けて液体となって、私は溜息をつく。『ああ』と。
液体の溜息も、おそらくは液体で、いつしかその声も床に這いつくばって、ぴちゃりぴちゃりと揺れている。
そして長雨を飲み込んだばかりの石畳の隙間に、我先にと堕ちていくのだった。
すべるように堕ちて、ぬるつく硬い石のはざま、暗闇の中で、私は寂しくなる。
頭上からは、ぱたぱたとシンタローの可愛らしい足音が聞こえている。
私が溶けてしまったものだから、そのまま通り過ぎて、遠くへと駆けていってしまったのだ。
再び、溜息をつかずにはいられない。
『ああ』
その瞬間に夢からさめて。
私は現実へと戻るのだけれど、やはりここは暗闇であることには、変わりがないのだった。
かすかに身をよじる。肩先まで落ちた毛布が、やわらかくしなる。
ベッドの中。静寂だけが、暗い部屋を包んでいる。
私は、一人きりだった。
誰も私に向かって、駆けてきたりはしないのだ。
喉が渇く。舌も乾ききっていた。
……今、何時なのだろう。
部屋の厚いカーテンは閉めきられていて、その合わせ目からは淡い夕陽が、闇に薄い切れ込みを入れていたから、だいたいの予測はつくのだけれど。
そう思って手を伸ばした、サイドボードの置き時計は、爪をかすって床へと落ちた。陶器が小さく悲鳴をあげる音。
私は、まるで初めて出会った存在を見るように、自分の手に視線を遣った。
指の感覚が、鈍い。
老いた牝牛の肌のように、ざらつく世界の中に、私はいた。
再び溜息をつこうとして……やめにした。
私は、熱を出したのだった。
睡眠不足と過労が原因だというのが医師の判断で、安静を言い渡され、この状態に至る。
大事無いと主張したのだが、秘書たちに強制的に仕事を取り上げられ、自室に押し込められた。仕方なく、床についた。
それがおそらくは昨晩のこと。
「……」
自覚していた以上に、私は疲れていたようだ。こんなに眠っていたなんて。
記憶を手繰り寄せれば、ずきずきと頭の奥が痛む。
私は手の平で額を押さえ、あの昔は雛鳥のようだった秘書たちも強くなったものだ、いや私が一度引退して、弱くなったのかな等と、とりとめのないことを考えながら、再び深く枕に頭を沈めた。
頭痛が酷い。耳鳴りまでが、洞窟の木霊みたいに押し寄せる。
グンマやキンタローには、自分の体調のことは、知らせるなと言ってある。
余計なことに神経を使わせたくはなかったからだ。
開発にかかりきりの彼らは、いつものように研究室に泊り込みで、今夜も自宅には戻らないだろうから、支障はない。
あの子たちも体を壊さないといい。シンタローを救い出す前に、こちらが参ってしまってはどうしようもないのだから。
私たち家族は、廊下ですれ違うとき、仕事の合間に食事を共にするとき、忙しいさなかに、ふと思い出したように顔を見合わせるとき。
短い言葉で、静かな目線で、わずかに動かす口元で。
互いの意志を伝えあい、慰めあい、労わることで、お互いの存在を確認していた。
それだけの関係をこの4年で築いてきたのだと考えれば、それは喜ばしいこと。
それだけ切羽詰り、余裕がないのだと考えれば、それは物悲しいこと。
シンタローを失ってからは、ナイフの刃先を渡るような、ぎりぎりの生活を私たちは続けてきた。
私は、気だるく息を吐いた。
小さく声が漏れて、やけに錆付いているなと思った。掠れていた。そして重かった。
身の内に篭る熱が、じわじわと全身を侵食し苛みだす。
手足の関節が、鉛を溶かし込んだように痺れた。
ふと、それとは別に。
胸がきしむような感覚に襲われた。
「……?」
私は少しだけ背を丸め、その感情が自分から去るのを待った。
じっと身を固くする。
しかし感情は私を呑み込んだまま、高まりこそすれ、一向に去ろうとはしないのだった。
私は、自問する。
これは、何だ。
だが、この胸の痛みには覚えがあると、私はぼんやりと感じている。
幼い頃、四人の兄弟で暮らしていた頃、悲しいことがあると、泣くのを我慢していたことを思い出す。
夕暮れ時には弟たちに食事をさせてからと思い、夜には寝かしつけてからと思い、結局は疲れて自分も寝入って朝になり、朝には朝で、では明日になったら泣こうと心の溝に蓋をする。
悲しい気持ちは積み重なるばかりで、私の内に居座ったまま、出て行こうとはしないのだった。
父さんが、早く帰ってきますように、と。
ただ、そればかりを祈っていた、ちっぽけな自分。
その時の気分と、今の気分は、よく似ていた。
幾年経とうと、結局は私は成長してはいないのだと、自嘲気味に一人笑う。
きっと私は、死ぬまでそうなのだ。
どれだけ表面を飾ろうが、周囲がどう見ようが、本質的な私は何も変わってはいない。
演技だけが上手くなり、上塗りの厚さだけが膨大になり、内側に隠れた本当の私はどんどんと臆病になっていく。
ひどく臆病なのだ。臆病で、脆く弱くなっていく。
私はそして、シンタローを求めてしまう。
――シンタロー。お前がいないと、こんなにも私は、無力。
早く、帰ってきて。
私は駄目になってしまう。早く、早く、帰ってきて。
痺れた指を、私は唇でなぞる。
指の冷たい温度と、乾いた唇の感触が、同時に、脳裏で重なる。
誰もいない部屋で、私は呟いてみる。
「私は、お前のことを愛しているけれども」
呟きは白い蝶のように、ひらりと闇に待って、闇の濃い場所に飛んで消えた。
「……これは……本当に愛なのかな……」
もう、眠った方がよいのだろうと思う。
だよね、シンタロー。お前がもしここに居たのなら、きっとそう言う。私以上に悲しい表情で、言うだろう。
お前を失ってから、私は夜は眠ることができなかったから。
常以上に精神の均衡を失っているのだろうかと、まどろむ意識の中で考えている。
おやすみ、シンタロー。
私は、目を閉じた。
雨が、降っている――
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これはきっと罰なのだと思う。
あの日の朝、私は、コタローが出て行くのを見過ごした。
そしてお前に嘘をついた。あの子はまだ寝ているよと、遠征中のお前を騙そうとした。
私は愚かだ。
南国のあの島以前――コタローを監禁したときと、何ら変わってはいないメンタリティ。
私は醜い。
いつだって同じ酷いことをする。
私は、コタローに、逃げられたと感じた。
いつかの秘石を奪って逃げたお前と、姿が重なった。あのときの衝撃が、私には忘れられない。
自分は逃げられて当然の人間なのだと、私は思った。昔も、今も。
――この世界の初めには、まず美しさがあって。
私は自分の醜悪さを意識するとき、必ずその美しさを基準に、自らがどれぐらいそこからかけ離れているかを考える。
美に対して、私は醜かった。
そして愛とは、私にとっては美の権化だったから、私は自分自身の身に潜む愛が、信じられなかった。
いつも、まがい物ではないかと疑った。
いつもいつも、シンタロー、お前に対して愛を感じていながら、必ず危ぶんだ。
いつもいつもいつも、側にいたいと思うのに。片時も離したくないと、抱きしめていたいと、焦がれるように感じているのに。
愛していると呟くたびに、自分がわからなくなる。
お前が愛しくてたまらなくなるたびに、私は自己嫌悪の淵に堕ち込んで行く。
自分勝手に救われようとしているだけなのではないかと、お前は私の自己保存のための道具にすぎないのではないかと、自問する。
喜ばせたいと思ったときもある。
泣かせたいと思ったときもある。
そしてあのとき――お前の命が失われたのではないかと、気も狂いそうになった。
これは、愛していると、いうことなのだろうか。
花を見れば、花を美しいと感じるお前を思い出す。
あの子を見れば、あの子を可愛いと感じるお前を思い出す。
これは、愛、なのか?
愛とはもっと、輝かしい、一点の曇りもない尊いものであればよいのに。
私などが、抱くこともできないような、そんな高みにあるものであれば、よかったのに。
いっそ、愛さなければ、よかったのに。
瞼の裏にいつも映るのは、あの記憶。
シンタローが、自分を犠牲にして、私がコタローを救うことを望み、笑顔で落ちていった記憶。
のがした指先、最後の笑顔。
ああ、また、この二つが私を。いつだって、指先と笑顔なのだ。
私の背は、ぞくりと震えた。
指先と、笑顔。
私の醜悪に対して、シンタローの行為は美しさそのものだった。私がまねなどできないような、自己犠牲。
シンタロー、お前が私の美であるならば、私などが抱くこともできないような、そんな高みにあるものであれば、よかったのに。
うつらうつらと、とりとめのない思考が、巡る。眠る私を通り過ぎ、また戻り、記憶が巡る。過去と現在が、熱に浮かされた私の中を、巡っていく――
――私の父親は、太陽のような人であった。
ずば抜けた長身、優れた体格に口数の少ない雄雄しい気質であったが、長い遠征から帰還の際には、出迎える私たちに向かって輝くような笑顔をくれた。
力強い。優しい。暖かい。限りのない愛情。
言葉に尽くすことのできない幸福のかたちをした彼の笑顔。
彼の部下たちが、けして彼は他所では笑うことはないのだと口を揃えて言うたびに、私はその笑顔を自慢に思い、彼の息子であるという誇りそのものだと感じていた。
父は、戦場では不死身と言われたそうである。私はついにその姿を見ることはなかった。
私の心に残る彼の姿は、いつまでも笑顔のまま、黄金の輝きの中に佇んでいる。
今、私が及ばずながらも親の立場になってみれば、おそらく彼は子供たちの記憶に、自らを笑顔のままで残したかったのだろうと思う。
いつ果てるともしれぬ軍人、そのすべてを統率する総帥という職にある親であれば、誰でも皆そう考える。
私もかつてはそう――考えていた。
小さな頃の私は、失敗してばかりだった。
『私の留守中は、おまえが家族を守るんだ』
肩に置かれた熱い手と共に、かけられたその言葉は、私の幼い心の支柱となった。
それからの私の胸には、常にこの言葉があった。
どうしたらいいのかわからないとき。迷ったとき。寂しくてたまらないときには。この言葉を思い出し、明日は泣こう、明後日は泣こうと、悲しみを先送りにして、ついには泣かない子供になった。
年端もゆかぬ子供のことであるから、父は私に長男としての心構えを説いただけであったろうし、万全の期待など抱いていたはずはなかったろう。
家庭の維持など、子供一人の力でできるはずもない。実際は周囲の大人たちの手を借りなければ、とてもやっていけるものではなかったし、そのことは当時の私とて、わかっていたことだった。
それでも幼い私は、様々なことを気に病んだ。双子が風邪をひくことをまるで自分の責任のように感じ、すぐ下の弟の情操教育にやっきになった。
レシピを見て料理を覚え、父の好きなプティングにスパイスを入れ忘れたと落ち込み、双子の靴下の汚れを気にするあまりに、自分は左右逆の靴下を履いて、ルーザーに指摘されたりする始末。
父の遠征中に、花壇のクレマチスや蔓薔薇を枯らしたといっては謝罪の手紙を書き、帰還中には、食事の際に双子のマナーが悪いと叱りつけ、その勢いで自分が皿を落として割ってしまったりした。
父が亡くなってからは、私は徐々に失敗することを忘れた。
いや、失敗はしていたのだろうが、それを意識しなくなっただけのかもしれない。
最近になって、ふと思うことがある。
父は、私の失敗こそを、愛していたのかもしれないと。
――追憶が、雨糸となってしたたり落ちる音を、私は窓越しに聞いていた。
遠い日のことばかり、思い出す。
そう、あれも、雨が窓に銀の縞模様を入れていた日のことだ……
ハーレムとサービスが、仔猫を抱えてきたことがあった。
庭塀の隅で力尽きていたのだという。どこからか迷い込んできたらしい。
屋根付きのテラスで遊んでいて、最初にサービスが汚れた塊に気付き、ハーレムが飛び出して、雨の中で抱き上げた。
猫は、ずぶぬれになった毛糸の鞠のように見えたが、鞠ではない証拠に、うっすらと背中が膨らんだり萎んだりしていた。
息をしているのだと、その上下運動を眺めて、私は遅まきながらに気が付いた。
私は動物は好きな方だったけれど、家庭を預かる者には厳然たる優先順位というものがあり、私にとっては突然湧き出てきた猫などよりも、濡れ鼠になった双子の風邪を心配する方が、やはり先だった。
猫より鼠。
その頃の私は、憧れであった父に家族を任されたという気負いばかりで、生きていたのだから。
双子の衣服を脱がせて、熱いシャワーを浴びせながら、私は浴室で、この鞠を洗った。
人差し指でそっと泥を落とし、洗面器に張ったぬるめの湯で毛をさすり、それから乾いたタオルで拭き取った。
灰色だと思った鞠は、乾かせば白い毛玉であったことが判明した。
暖かいココアを飲みながら、双子は私に向かって、この物体を家で飼うのだと主張した。私は困って、首を傾げる。
すると視界の端に、居間の隅のソファで事態を遠望していたルーザーが、肩を竦めるのが見えた。
やれやれです。
声には出さないが、やけに優美な仕草でそう聞こえた。実に彼らしかった。
すでに夜だったから、明日の朝に獣医を呼べばいいだろう。
広い居間の隅に、タオルでとりあえずの寝床を作ってやってから。私は家裏の倉庫に向かう。
物持ちよく仕舞ってあった、双子が数年前まで使っていた哺乳瓶――ハーレムなどは哺乳瓶離れがサービスより遅かったのだが、このことは、双子の間の激しいケンカの種だった――を、取り出してくる。一番小さなものを選んだ。
仔猫の周りをうろうろしていたハーレムは、哺乳瓶を見ると目を見開き、それから照れたような顔をし、サービスは今はからかっていいような場面ではないと考えたのか、賢く黙っていた。
人間用のミルクでは栄養が足りないのだろうが、今はこれで間に合わせるしかない。
湯で薄め、人肌程度にさましたものを、瓶に注ぐ。こぽこぽという懐かしい音がする。
部屋に甘い香りが漂った。双子が、小さな鼻を鳴らした。
しかし仔猫は、哺乳瓶の乳首には見向きもしない。
口に押し付ければ、力をようよう振り絞って、くしゃくしゃの顔を背けるほどで。ますます、鞠みたいだ。
ゴムの匂いが、いけないのだろうか。私はゴムを柔らかくもみほぐして、白く薄い液体を指に滲ませながら、考える。
それから、今度は猫の歯のないぺったりした口をこじ開けてから、乳首を捻じ込んだ。
だが生き物は、自ら顎を動かす元気もないのか、ゴムをくわえたまま、目をつむっているのだった。
お手上げだ。
『困ったね』と、私は、心配そうな双子に向かって、言ったのだったか、どうだったか。
とにかく仔猫から目を離した隙に、ちろりとざらついた感触がしたのだ。
猫が、私のミルクに濡れた指先の方に、吸い付いていた。
猫は、それからいくらかのミルクを舐めて、ミイ、と小さく、鳴いた。
双子が、それはそれは嬉しそうに笑った。
仔猫の体力が削がれるから、あまりベタベタ触ってはいけない、手は出していけないという私の言いつけをよく守り、二人とも、不自然なきおつけの体勢をして、にこにこ笑っていた。
精一杯に首を伸ばして、覗き込んでいる。
私はこの白い鞠に愛情を感じたのは、双子のきちんと腰の横に揃えた指先を、見たときだったのかもしれない。
その夜、仔猫は息を引き取った。
私は今でも、猫の力なく垂れた髭や、半開きになった白い眼、温度の失われていく気配を思い出すことができる。
柔らかい毛皮が、粘土のように冷たくなって乾いていく様を、思い出すことができる。
私の傍らでは、双子はもう眠っている。ダメだというのに、自室から居間に毛布を持ち出してきていて、それに仲良く包まって、すうすうと幸せな寝息をたてているのだった。
普段は喧嘩しいのくせに、こんなときは呆れるくらいに仲が良い。明日は早くに起きて、一緒に獣医に会うのだと。張り切っていた彼ら。
なんと説明すればいいのか。
すると、ふ、ふ、と。寝息の合間に、ハーレムとサービス、どちらかがたてた笑い声が、聞こえたような気がして。
私が思い出すことができるのは――目に映った、眠る双子の笑顔。夢の中で天に召された仔猫と遊んでいるのだろう、その笑顔。
そして、私の背後からすっと伸びて、仔猫の半開きになった目蓋を下ろした、ルーザーの指先。
……猫が生きているときは、近付こうとはしなかった癖に。
私がそう呟くと、手をハンカチーフで拭いながら、弟は。
死んだら別です、生き物は嫌いですが、それは物です、と静かに呟いた。
私にとって、死とは、いつも指先でめくられていく何者かであり、笑顔の裏に潜む暗闇だった。
笑顔にぬくもり油断しきった心に、死は不意をついて、私に痛みを与える。
そのうちに、痛みを痛みとして感じなくなるぐらいに。
何度も何度も、麻痺してしまうほどに。
幸福の先に、必ず死は存在する。
そう、あのときも――
父の太陽のような笑顔があった。
私たち兄弟を抱きしめようとする強い腕。
ねえ、父さん。
僕たちは、いつも、あなたを待っているんです。早く帰ってきてと。
ずっとずっと待って、やっと父さんが帰ってきてくれた。私たちの待つ場所へと、帰ってきてくれたんだ。
父さん。父さん、僕の話を聞いて。僕、ちゃんとできていますか。弟たちは元気です。
一緒にこうして、お出迎えしています。みんな、いい子です。
金色に輝く長い髪、燃える炎の色の軍服、僕たちの誇りの父さん。
ずっと、待っていました……
ゆっくりと光が、近付いてくる。
兄弟は、その燦然とした輝きに包まれる瞬間を、予期した。
懐かしい指先が、私の肩を掠めた。私は息を飲む。
父の優しい長い指が、描く軌跡を、私はずっと見ていた。
その軌跡が私の肩を通り過ぎ、すぐ下の弟の髪を通り過ぎ、ハーレムの不思議そうな唇を通り過ぎ、サービスの見開かれた瞳を通り過ぎ、地に落ちるまでを、丹念に視線で追っていた。
父の最期の姿を、見逃すことのないように、
私の肩を指先が掠めた瞬間、私には父が死ぬのだということが、わかっていた。
それはどうしようもない直感で、本能で、血で深く結ばれた者同士だけが感じることのできる、引き裂かれるという鈍痛だった。
幸せの中に潜む不安。漫然として、おぼろげに生活を包む恐怖。
それは私に、指先と優しい笑顔というかたちで、暗示をかける。
愛なんて、一度得たら、失うものなんじゃないのか。
ねえ、シンタロー。
失うのが怖い。
いつか、私はお前を置いて死ぬのだと思う。
だから、いつも感じているよ、今だけは私を愛してほしい。
今だけでいいから一瞬でいいから、私に、愛していると言って。
どうしてこんなに私はお前を愛してるのだろうね。わからないよ。
ただ、風の冷たい春の日に、愛を感じた。
愛してなお、自分を疑い続けている。
――あれはそう、前夜式を終えた後。
牧師が父の棺の前で聖書を読んで、神の導きと助けを口にしていた。
その記憶を辿りながら、喪服を着た私は、三人の弟たちと一緒に身を寄せ合っている。
賛美歌のメロディが、鼓膜の内で木霊していた。
広間の壁に掲げられた十字架。十字架が見下ろす、棺。
手向けられた花さえ余所余所しい。その内に眠る体。かつて父親だった肉塊。
しんと静まり返った大理石の床、なだらかなその向こうには、軍服を纏う男たちが深刻な顔を突合わせている。
左胸、その喪章の輝きが、鈍い。
彼らは、何事かを相談しながら、私の方をちらちら眺めていた。
注がれる視線を感じながら、私は俯き、弟たちの金髪を撫でる。
運命は動き、予想もしなかった運命の頁がめくられた。
これからの打算と駆け引き、大人たちの計略の道具になるということ、利用されるということ、諦念と恐怖。
明日は葬儀だった。
この日が最後なのだと、私は感じていた。
葬儀を終えれば、私はこの雛鳥たちを残して、別世界へと向かわなければならないのだった。
喪服の裾を掴むハーレムの小さな手、俯くサービスのやわらかな金髪、憔悴したルーザーのいつにも増して青白い頬。
今は同じぬくもりの中にいる私たち兄弟。
このぬくもりを守らなければならなかったから、私は旅立たねばならないのだ。
さよなら、だ。私の少年時代も、終わる。
私は、陽は必ず昇るものだと思い込んでいた。
陽は沈めども、地の裏側をぐるりと回り込み、旅をし、必ずまた私たちの住む世界の地平線を、赤く染めてくれるのだと信じていた。
私を輝かしい光で照らしてくれる、強い強いあの人が。
大理石の白く冷たい部屋の、棺の中で。闇に包まれる、光が闇に呑み込まれる、そんなこと。
想像なんて、できなかった。
私は広間の隅で、もう一度、弟たちの体を抱きしめる。彼らはもう笑わない。泣き過ぎた目元が、痛々しい。
子供のやわらかい肌、その体温を感じながら、目を瞑れば――
輝きが失われる瞬間、父の笑顔、指先。
脳裏に焼きついて、それは死の予兆として私に穿たれた刻印。
私は怯えながらも、弟たちの小さな身体を抱きしめながらも、ただ、座っていることしかできないのだった。
そう、いつでも座して待つことしかできない。無力ばかりを。
やがて来る未来に漠然とした不安を抱きながら、乾いた心で待つことしかできないのだった。
いつだって。数十年の時を経ても。
――目を開くと。
赤い光の中で、シンタローが、空き缶を蹴っていた。
カラカラと缶は不恰好に回転を繰り返しながら、転がっていく。
私が、ベンチに座ったままなものだから。
口を閉ざしているものだから。
お前は怒って。少し離れた場所で。
たった一人で、錆ついた鉄柵に体を凭せかけて、沈む夕陽を見ていた。
海の見える港の公園、今日は珍しく早く仕事がひけたと、お前が言ったから。
ここに一緒にやってきたのだけれど。
折角の二人きりなのに、私たちのムードは最悪。
気まずい空間は、水鳥たちが、小さな羽音をたてるばかり。
沈む太陽。
視界の中、お前の背中は逆光に縁取られ、どこか荘厳。転じて私の愚鈍。
可愛い背中。お前の背中。
気のない振りをしていても、お前が背後を意識していることを、私に教えてくれる背中。
いつだってお前は。どうしてか、私を意識しているんだよね。全身の毛を逆立てる動物のように。
やがて、黄金に墨を掃いたように黒髪が散って、ひとすじひとすじが光を掠めて、揺れて、くるりと背中が振り向き、もっと可愛い顔が私を見つめてくる。
可愛い顔。お前の顔。
私はうっとりとして、その顔に見惚れている。心が吸い付けられる。優しくされたいと感じる。
シンタローはたまりかねたといった様子で、ぶっきらぼうに口を開く。
「…なあ、なんで黙ってんだよ」
私はそれでも沈黙していた。
じっと相手の可愛い顔を見ていた。
彼の機嫌はますます悪化し、唇がみるみる尖って、それから、呆れたというように両手が振りかざされて。
「チッ」
舌打ちの音と一緒に、彼は両手をぶんと勢いよく振り下ろす。
両手を振り下ろした後の彼は、振り下ろす前よりも、少し肩が落ちていた。
怒り顔が、困り顔になっていた。
しばらく私を見つめて、夕陽の中に立ち尽くした後、お前は。
私の隣に、座ったんだったね。
「……どうしたんだよ」
ほら。こうやって、少し首をかしげて、聞いてくれるんだ。
優しいよね。
私が黙っていると、お前は優しい。
だからだよ。
優しくされたくて、黙ってる。
「なあ、なんか言えよ」
「……」
「なあ」
「……」
「なあったら」
「……」
「なんかあったのかよ」
次第に強気のヴェールが剥がれていくお前。きつい眉が、下がっていく。
眺めていると、ごめんね、可哀想になってくるほどに可愛いよ。
何でもない素振りで、お前はいつも私に認められたくて、一生懸命なのだった。
私を知りたいと、感じてくれているのだった。
知ってる? 私は、お前のこと、可哀想だって思うことがある。
よくそう思うよ。
私に好かれて、可哀想だなって、感じている。
「なあ……」
そろそろ、違う表情も見たくなったから。
私はやっと口を開いたのだけれど。
「さっき、ケンカしたばかりだから」
そう、平凡な答えを返したら。
「フ、フン」
ちょっと安心したのを悟られたくないのか、お前は急いで鼻で笑って、他所を向いた。
私たちの目の前で、赤い夕陽がゆっくりと沈んでいく。
沈む光。輝き。明日の朝、またこの太陽に出会うことができるのだろうか。
「…ぎゅっとしていい?」
私がそう言うと、お前は振り向いて、ギッと私を睨みつけた。
「ああ? っていうか、さっきのケンカはアンタが悪いんだぜ! まずそれを謝れよ!」
さっきのケンカ。
でも私は、喧嘩をしたことは覚えているけど、何についての喧嘩だったかは、まるで記憶してはいないのだった。
私の脳裏に残るのは、いつもお前の表情ばかり。
喧嘩する顔、怒っている顔、困っている顔。たくさんたくさん、覚えているよ。
お前の顔は、私は永遠に忘れない。生きている限り、忘れない。
「まーた、だんまりかよ」
「ぎゅっとしていい?」
「アンタ、な。いい加減に」
「ぎゅっと、したい」
「……」
今度はお前が黙った。口をへの字に曲げている。
それを勝手に了承と受け取って、私は、彼の肩を抱き寄せた。
最初に薄いセーターの手ざわりがして、それからすぐにお前の肉体の感触。
少し痩せた気がする。無理もない。不眠不休で働いているのだから。
私の代わりに、総帥になってくれたんだよね。忙しいんだよね。
わずかの時間でも、私とこうして一緒にいてくれることが、嬉しいな。
心細い落日を、一緒に見てくれるのが、楽しいな。
抱きこまれたお前は、大人しかった。
近くで見たお前の顔は、やはり可愛いと思う。
頬のなめらかさがいいね。のぞきこむ私に、伏し目がちになる様子がいい。耳たぶのかたちが、素敵だと思う。
お前の匂いがする。距離が近い。私はそれだけで、どうでもよくなってしまう。
時間が止まる。揺れていた木の葉は囁きを止める。風は凪ぐ。
陽は水平線で立ち止まり、水鳥ははばたきと呼吸を止め、海の波も凝固する。
私の心臓は凍りつき、今このまま砕け散ってしまうのではないかと、気も触れそうになる。
シンタローの体を感じると、私は、もうそれだけでよくなってしまう。
お前さえいればいいと。
私はお前が生まれてからすべての日々に、そう感じている。感じ続けているんだよ。
お前を強く抱きしめる。私は、それだけで。
「…アンタが、悪いんだぜ」
俯いていた彼が、私を見上げた。そう口を開いて、黒髪が揺れた瞬間。
時間が、動き出した。
芽吹きの季節にゆっくりと伸びをする獣のように、時間は無から動へと鼓動を始める。
陽は世界の裏へと滑り出し、水鳥は羽を散らし、波は寄せる。
私は、息をする。
シンタロー。
お前だけが、私の時間を操ることができるんだ。
お前だけが。今ここにある私の生と死を、過去を、未来を。無自覚に、支配していく――
私は黙って、お前のすぐ側にある指先を見つめる。
どこか遠くに行きたいけれども、けして行くことのできないもどかしさ、お前の指の先。
爪のかたちが、可愛いと思う。
特別な手入れをしている訳ではないのに、その爪は、日々お前が触れる何事か、何者か、何物かに擦れて削れて、自然のままに綺麗なかたちになる。私にとって、美しいかたちになる。ひどく健全だ。太陽の香りがする。
不思議だ。私たちの前で、この世界の夕陽は沈もうとしているのに。
お前のすべてからは、太陽の香りがする。沈みゆくはずの光が、今ここにある。
お前を想うとき、私はいつもその香りに包まれて。
目を、閉じる。
「愛しているよ」
自然に私の唇からは、言葉が漏れ出でて。
そんなときはいつも。
一瞬の間の後、お前の怒ったような、拗ねたような、怯えたような声が、返ってくるのだ。
「くっ……誤魔化すな!」
そう、いつだって、私たちはこんな調子だ。誤魔化してなんか、いないのに。
私はお前の隣で、目を瞑るのが好き。
お前の気配を感じながら、お前の動きを想像するのが好き。
私の想像の中のお前が、好き。
勝手な男だろう、好きになってごめんね。
「……この、目なんか閉じやがって」
腹立たしげな声と共に、瞼を閉じた私の目元に、熱い感触がした。
それはお前の指先なのだろう。
お前が、私の目元を、触っている。悪戯半分、本気半分で、私の目蓋を開こうとしているのだ。お前の優しいのは、爪で私が傷つかないように、指の腹でちゃんと触れてくるところ。
指が触れてくる。私は、心の中で、呟いてみる。
ああ、これはお前の人差し指、皮膚が固くなっている、これは薬指。少し長い、これは中指……
――熱い。
お前の指先は、まるでそれ自体が感情をもっているかのように、熱い。お前の内に溢れる感情のように熱い。
お前は情熱家。他の人間の前では、理想の自分を演じてはいるけれど。私の前ではそれを演じきれずに、最後は感情を露にしてしまう。怒る。泣く。笑う……
熱い指先を通して、お前は世界に触れる。
私はそのたびに、嫉妬せずにはいられない。
私は、自分がお前の指先だったらいいのにと、考えることがある。
お前の指先になって、お前の黒髪を撫でられたらいいのにと思う。
お前が怒ったときに、お前がどうしたらいいのかわからないときに、お前が寂しいときに。
いつだって、撫でてあげたいのに。そうして、お前が心地よさに瞳を閉じる瞬間を、私は何度でも味わうのさ。
指先だったら、私はいつもお前と一緒にいられるのに。
お前の生活すべてを助けることができるのに。
御飯だって食べさせてあげられるよ。寝るときに、シーツを整えてあげることだってできるよ。読書のときにはページをめくってあげるし、退屈なときには、テーブルをこつこつ叩いて、気を紛らわしてあげることだってできる。
私が、お前の指先だったらいいのに。
そうしたら、お前が生を終えるまで、ずっと共にあることができるのに。
お前の側にいられる時間は短すぎて、私はまたどうすればいいのかわからなくなる。
ただ、こうして座って――
やがて来る未来に漠然とした不安を抱きながら、乾いた心で待つことしかできない――のだろうか?
私は運命を受け入れるだけなのだろうか。
愛しいものが、いつか失われるまで。
「……親父」
ようやく、私の目蓋をこじ開けるのは無理だと感じたらしいお前が、私を呼んだ。
困ったような声音に、私はまた可哀想になって、ゆっくりと目を開ける。
視界に、目を閉じている間に沈みきった夕陽の残した淡い光と、お前の黒い瞳が映る。
世界の陰影。濃くなり薄くなり、やがて輪郭となる。
お前と私の視線が、出会う。火花も散らず、電流も走らず、ただ穏やかに、瞳が出会う。
言葉。
「チッ……やっと、目、開きやがって」
私はその瞬間、お前が口元をほころばせるのだと気付いた。
唇が、優しいかたちに弧を描いて。動く……
シンタロー。いけない。
私は咄嗟に。
そのやわらかい唇を、塞いだ。
口付ける。
笑わないで。
シンタロー。そんな風に、笑わないで。
不安になるから。怖い。私はお前が怖い。可愛いから、怖い。
私に、笑顔を見せないで。
私はこの恐怖に打ち勝てない。暗示のもたらす不安に恐ろしくなる。
お前が消えてしまいそうで、怖い。
いつか失われるお前。
だからお前に口付ける。
びっくりして目を丸くしたお前は、笑うのを止めて、かわりに目を閉じた。
黒い睫毛。夕暮れの斜光を弾いて、近付くたびに意外なほどに長い。
寄せた眉毛で、一生懸命な表情になるお前。
それで、いい。
そう思いながら、私も目を閉じた。
――会いたいよ。シンタロー。
どうしてお前は、今ここにいないのだろう。あの空の狭間に、落ちて行ったのだろう。
やはりお前は、失われてしまったのだ。指先と笑顔の余韻を残して、消えてしまったのだ。
これは罰なのか。
私が悪い。そうだ、私のために、お前はいつも自己犠牲を。
シンタロー……
実の子じゃなくたって、実の子のように愛しい、恋人のように可愛い、愛人のように身も心も投げ出したい。
私とお前の関係って、どんなだろうね。
出会った頃は父と子で、いつの間にか恋愛に堕ちた。
思い出す――
出会った頃の、まだ小さなお前、大きな黒い目、すぐ熱を出すお前。
私はお前に会いたくて、一生懸命だったよ。私だってお前に負けないぐらい、本当は一生懸命なんだよ。お前が聞いたら驚くくらいに、一生懸命なんだ。
総帥の職務の傍ら、お前の側へ行く時間を作るとか、そんなことは当然として。ねえ、シンタロー。
私はお前に好かれたくって、一生懸命だった。
親子関係は、私には慣れない。
かつてはそれを、呆気なく失い、その幸せな思い出を忘れようとしてきたから、私の頭はからっぽだった。
だからお前にどうしてあげればいいのかが、わからなかった。
初恋みたいに、どうすればいいのかわからなかったんだよ。ただ愛しかった。
小さなお前を愛しく感じれば感じるほど、私は不安になった。
たとえば、亡き父を考えるに。
私は自然に父を愛していたし、父も私を愛してくれていたのだと思う。
だが、私の場合は。
同じようにお前が、父として私を愛してくれる自信など、なかった。
私は人殺しだったから、人を殺すために遠い地に行き、人を殺して帰ってくることを繰り返していた。
別に楽しくもなく辛くもなく、特に感慨もなく、単純作業を繰り返していた。
ただ、人を殺すときだけは、お前のことは考えなかった気がするね。
なんだか考えれば、罪のような気がして。
お前、このことは覚えているのかな。お前とは、こんな記憶を話し合ったことはないけれど、覚えているのかな。
幼いながらに、私が人殺しであることを感じ取っていたお前は、私が仕事へ行くときに、何でもない顔をすることをまず覚えた。
私が、本当にこの子は何でもないのかな、と思ってしまうぐらいに、上手に興味のない振りをした。
でも、あるとき。
遠征中の私に、部下から連絡が入って、心配になった私は予定を切り上げて、お前の元に戻ったんだ。
お前は一人きりの部屋で、ベッドの中、ぬいぐるみを抱きしめて、震えていた。
怯えたように私を見上げて、それから必死に『何でもない顔』をしようと努力していた。
部下の連絡によれば、お前は、突然『パパがしんじゃう』と泣きじゃくり、部屋に閉じこもってしまったのだというのに。
今の今まで、泣いていたのじゃないのか。
お前は精一杯の努力の後、赤い目をして、私に言った。
「……パパ、おかえり」
子供の白い喉は、ゆっくりと上下して、あの仔猫の鞠のような体を思わせた。
私が困って、頷くと。
お前はまた努力して、だけど安堵の入り混じった、泣きはらした顔で。
笑ったんだ。
……幸せであるのに。
私は、お前の笑顔と指先を見るたびに、どうしようもない不安に襲われる。
お前を想うとき、私はとても幸せな光に包まれる。
そんなとき、二度と人を殺すまいと思う。
私はお前だけではなく、すべての家族を愛しているのだと感じる。
この世界を愛しているのだと考える。
嘘いつわりのない真情が、私の胸に満ちる。
だが、お前がここにいないと感じるとき。
私は冷たい世界に取り残された一本の立ち木のように、世のはかなさを感じる。
この世すべてが凍りつき、風もひからびて色彩を失い、尖った修羅の心ばかりが私を襲う。
お前がいないのなら、すべてが無に還ればいいのだと感じる。
私とお前だけがいれば、いいのだと感じる。
すべてが無価値。無価値なものが存在するのは不快だったから、消えればいいのだ。
世界はお前を境目に、愛と憎悪に変わる。
こんな私の気持ちをお前が知ったら、怒るだろうって、わかっているのにね。
ごめんね。
だが私は、お前がそうして怒ってくれないと、この気持ちを抑えることはできないのだと思う。
お前がいてくれなければ。私は。
お前を失う予感、それは自分自身を失う予感と同義。
「シンちゃん、ゆびきりをしよう」
幼いお前を前にした私は、その笑顔を見た後に、こう言ったのだっけね。
「……ゆび、きり」
小さな口が不思議そうに動いて、黒い目が私を見上げた。
私はベッドに腰掛け、お前の小さな体を抱き上げて、膝に乗せる。
「約束を、するんだよ。小指と小指で、約束を」
「ん……」
「パパ、必ず帰ってくるから」
「……」
「きっと帰ってくるから。お前が待っていてくれるなら。約束だよ」
「……」
お前の顔が、くしゃりと歪んで、それから大粒の涙が、ぽろりと落ちた。
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