出口のない迷路を歩き続けている
出口に気付いているのにそれに気付かないふりをして――
『おはよう』――そんないつもの挨拶が空々しく聞こえる。
『シンちゃん』――いつも通りに名を呼ばれても、それは以前と同じ響きを持っているようには聞こえない。
顔を合わせることが恐いだなんて笑ってしまう。
逃げるように遠征に出かける自分を、あの男はどう思っているのだろうか――。
5.電話
「――出ないのか?」
幾分眉間に皺を寄せたキンタローの声に、シンタローは顔を上げた。
何を言われているのかをよく理解していないままに、問うような視線を向ければキンタローは呆れたような溜息を付きながら、机の脇に置いてあった携帯電話を指差した。
「え、あ、ああ――…」
そうまでされてやっと我に返ったシンタローは、携帯を取ろうとしてその手が止まった。
表示されている名前を目にした瞬間に、身体が凍ったように動かなくなる。
着信音を消していなかった携帯に、全く気付かなかった理由は一つだ。
シンタロー自身が発信者の全てを拒絶していたから。
それは音でさえ当てはまっていたらしく、その存在全てを否定するかのようにシンタローの脳内には届いていなかったようだ。
その音がようやくシンタローの耳に届いた頃には、長い事出ることのない持ち主に諦めを見たのか――携帯は静かになっていた。
「シンタロー?」
従兄弟の不審そうな顔に、シンタローはわざと呆れたような顔を作って『いつものことだ』と言い切った。
着信音で相手が誰であったのかは、目の前のキンタローもわかっただろう。
無視をすることも多かったので、外見上は何ら不審を持たれるようなことをした覚えはない。
なのに、キンタローは電話に出なかったことが意外とでも言うように『いいのか?』と念を押してきた。
「…別に、大した用事じゃねーだろ」
何かを見透かされているようなその問いに、シンタローは内心で動揺しながらも平静を保ったまま答えた。
「……」
しかしシンタローの返答にキンタローは納得をしていないらしく、じっと此方を見続けていた。
「なんだヨ?」
若干の苛立ちを込めて睨みあげると、キンタローは溜息を付いた。
その態度がさらにシンタローの苛立ちを深める。
「何か言いたいんだったらはっきり言えよ」
遠回しな表現は癪に障る。
直球ストレートな表現をすることが多い、この従兄弟にしては珍しい態度に、シンタローの背に嫌な汗が伝う。
「いや、ただ――いつもならばお前が出るまで何度でもかけ直してくる伯父上が珍しいと思っただけだ」
「あん?」
眉を顰めさせたシンタローに、キンタローは『気付いてないのか?』と、それこそ意外だという顔をした。
「留守番電話に切り替わってもすぐにかけ直してくるだろう?お前が出るまで。着信拒否にすればこの部屋の電話に直接かけてくるし、それすらも無視すれば今度は、団内の回線をフル活用してお前の声を聞くまで諦めない。そう、お前の声を聞くまでは絶対に諦めんだろう」
だからこそ嫌々携帯番号を教えたはずだ。
教えなければ下らない電話の応対に団員達が迷惑を被るどころか、下手すると館内放送まで使って『シンちーーーゃん』と叫ばれてしまうのだ。
だから最初は無視しても、二回三回としつこくかけ直してくるその電話に、シンタローは仕方なしに出る。
ほんの一言二言交わしただけで切ってしまうことが多かったが、一度声を聞けば相手は暫くの間は大人しくなる。
だからこそキンタローは不審に思ったのだろう。
一度の呼び出しだけで諦めてしまったあの男に。
普段であれば二度でも三度でも――それこそ数十回でも諦めずにコールしてくる相手が、たった一回の呼び出しだけでその後がない。
「いいかシンタロー。あの伯父上がだ。何が何でもお前の声を聞くまで諦めた事のなかったあの人が、たった一度の電話で諦めたことなど、今までに一度だってなかったはずだ。いいか、一度だってだ」
無駄に記憶力がいいだけに、そんなどうでもいいようなことまでしっかりと覚えている従兄弟を、シンタローは今ほど恨めしく思ったことはない。
「うるせーな。たまたまだろーが!」
「しかし――」
「次の目的地に着くまで片付けるモンがいっぱいなんだろ?邪魔すんなよ」
さらに言い募ろうとしたキンタローに、見せ付けるように卓上の書類を指で弾いてみせると、キンタローは納得のいかない顔のまま押し黙った。
シンタローはそれ以上何も言わせないようにと、無言で書類を引き寄せてその文字を目でなぞる。
そんなシンタローに、キンタローは何か言いたげな視線を暫くの間送っていたが、やがて諦めたのか深い溜息を付いた後に部屋から出て行った。
「―――ふぅ…」
キンタローの足音が徐々に遠ざかっていくのを感じて、シンタローは息を付いた。
手にしていた書類の内容は最初から頭に入ってなどいない。
無造作にそれを机の上に放り出して、椅子の背もたれに体重をかけた。
本部にある総帥室とは違い、無機質な作りの執務室の天井を見上げてもう一度息を付いた。
遠征先に向かう艦隊の中で、一番振動の少ない場所に設置されたこの部屋には窓がない。
しかしそれに不満はなかった。
どちらかと言えば今は外を見たくはなかった。
空を飛んでいるのだから当たり前なのだが、窓の外に見えるのは雲か青空のどちらかだ。
雲の中にいるのならばいい。
真っ白な空間は普通であれば苦痛になるが、今のシンタローにとっては青い空間より余程いい。
それほど昔でもない以前に、青い空を見上げた事が数回あった。
その頃に感じた青と、今感じている青は似ているようで違う。
迷路に嵌ってしまったと思っていたあの頃は、今思えばその入り口付近に居ただけにすぎなかった。
そして今、抜け出せない迷路の真っ只中で自分は―――
「…情けねぇ…」
シンタローは小さく呟いた。
声に出すべきではないその弱音を、思わず口にしてしまったのは、そうでもしなければ見えない何かに押し潰されてしまいそうだったからだ。
『何か』――ずっと胸に引っ掛かっていたそれは、いつの間にか大きな固まりとなって、シンタローの全身を飲み込もうとしている。
その『何か』が何であるかを気付いてしまっているのに、それを認める事が出来ずに気付かないふりをし続けていた。
そうしなければならないと思うこと事態で、それを認めているも同じだというのに、必死に何も知らないのだと自身に思い込ませようと足掻いている。
自分の非を認めることの出来ない愚かな大人。
自分の我侭を通そうとする無邪気な子供。
そのどちらとも取れる今の自身の状況に、シンタローは口元を歪ませた。
どんなに仕事を増やしても、脳裏にちらつく男の顔が、シンタローの思考の全てを支配していく。
考えないようにしようとすればするほど、深みにはまっていくというのにそれを止める術はない。
父親の仮面を必死にかぶって見せてみせるあの男と、顔を合わせなくなってから何日が過ぎただろうか――。
最後に聞いた言葉は『いってらっしゃい』だ。
遠征に行く前はいつも『寂しい』や『一緒に行く』と散々駄々をこねる男は、今回の遠征でもやはり同じようにわめき散らした。
いつもながらの光景に呆れた様子の団員も、完全に無視をきめこんでいるキンタローもグンマも――何一つ変わらない光景だった。
その中でシンタローのみがいつもとは違っていた。
男の顔を見る事が出来ずに、動揺する素振りは決して見せないようポーカーフェイスを決め込むだけで精一杯だった。
無視をすることはよくあることであったから、他人の目から見ればシンタローのその様子は普段通りに見えたはずだ。
例えその時――シンタローの心音が通常の二倍の速度で音を刻んでいたとしても…。
おそらくその事にあの男は気付いている。
『いってらっしゃい』と、顔を見ることなく耳に届いていたその声色は、あの時と同じ響きを持っていた。
『私はお前が私の事をどう思っているのか――知りたいだけだよ…』
そう――扉越しに聞いたあの声と同じ響きを――。
「父親面したいんだったらッ、もっと完璧にやりやがれ…ッ!」
絞り出すように口から発せられた言葉は虚しく室内に響くだけである。
あの時、いつものように『ふざけんな』とでも言って眼魔砲放っていれば、今のように苦しい思いをしなくてすんだのであろうか。
あの時ああしていれば――そんな今更どうしようもない思いだけが浮かんでは消えていく。
そんな考えはただの悪あがきにしかすぎない。
そんなことはわかっている。
起こってしまった出来事を戻す事なんて出来やしない。
それがわかっているのに、同じ思いをいつまでも胸の中に巣食わせている。
後ろ向きすぎる自身の姿に情けなくて仕方がなかった。
このまま一生あの男と向き合わずに生きていく事など不可能だ。
あの男は己の失態に気付き、必死に下手な芝居をしている。
そしてシンタローはといえば、それに気付いてこれ以上踏み込まないようにと逃げ回っている。
解決策は、シンタロー自身も気付かないふりをして――そう、何もなかったのだと――今まで通りの『親子』に戻る事だろうか――?
「――そうじゃねーだろ…ッ」
自分の考えたあまりにも陳腐な案に笑いすら出てこなかった。
どうやったって自分はもう、今までのようには戻れないのだから。
融通の利く性格でないことくらいよくわかっているのだ。
以前のような関係に戻れる器量があるのであれば、あの男の言葉を聞いた時点で眼魔砲をぶっ放していた。
どうすればいいのかをわかっているのにわからない――矛盾という一言で片付けられるほど、シンタローの心情は簡単なものではなかった。
ドロドロと渦巻く感情の沼から這い上がるには、自分自身でそれを望まなければならない。
自分と向き合うこと――。
自分はどうしたいのか。
自分はどうして欲しいのか。
自分は何故逃げているのか。
それらの答えを答えればいいだけの話だ。
偽りなく、心の底から感じた答えを。
感情は答えの出る数式のように簡単なものではない。
割り切ろうとして割り切れるものでもない。
他人に話すことによって答えを見出せるかもしれない。
でもそれは今回に限っては出来ない事だった。
誰にも話すことなど出来ない。
自分の中の理解不能な感情を、どう説明しろというのだろう。
他人に説明できるくらいならとっくに自分で解決策を見つけている。
父親ではなくなってしまった男と対面した時に、自分がどうなってしまうのかがわからない。
あの男の瞳は人の命を奪う時に見せた残忍さを持ったものではなかった。
弟を閉じ込めた時に見せた厳しい瞳でもない。
シンタローの行動の全てを異常なまでに支配しようとしていた頃のものとも違う。
ただひたすらに優しく――そして哀しみを湛えていた瞳。
ほんの一瞬に垣間見たあの瞳こそが、あの男の本心。
怒りを表したわけでもなく、恨みを込めたものでもない。
そんな負の感情に感じた恐怖よりも、初めて感じた強い恐怖。
こんな恐怖があるだなんて知らなかった――…。
あの日から意図して思考から削除している言葉がある。
その言葉は、今のシンタローにはあまりにも重過ぎて考えることすらしたくない。
その言葉一つで全てが変わる。
その言葉を認めることによって、おそらくシンタローは泥沼から這い上がって出てこられる。
その言葉を認めることによって、おそらく自分自身と向き合う事が出来る。
でもそれは諸刃の剣のようなもので――。
その言葉一つで全てが壊れてしまうのだ。
今まで気付きあげてきたものが全て。
そう、何もかも。
―― 『父さん』 ――
やっと一つになれた、夢見ていた温かな家族。
これからだ。
まだまだ足りない。
やっと皆が一つになってこれから築いていくはずだったもの。
それはシンタロー自身が、何よりも望んでいたもの――。
――それらを全て引き換えにしてしまうほどに、その言葉には大きな力がある。
その言葉を伴う感情をシンタローは今、生まれて初めて感じていた。
「くそ…ッ」
シンタローは頭を抱えてきつく目を瞑った。
何もかもが煩わしいと思う。
嘘吐きな男も。
はっきりとしない自分自身も。
正面を切って向き合う勇気もないくせに、助けて欲しいと叫びたい衝動にかられる日々。
たった一言で終わってしまった穏やかな日々。
自分はあの頃に戻りたいのか。
それとも―――。
痛む胸を誤魔化すように閉じていた瞳を開いて、視線を机に戻せば着信があったことを知らせる携帯の光が目に映った。
シンタローはのろのろと手を伸ばしてそれを手にする。
履歴を見なくてもわかる相手は、電話に出ないことをどう思ったのだろうか――。
普段であれば従兄弟が言ったとおりに、何度も何度もかけ直してくる相手。
なのに何故、今回に限って一度だけで諦める?
履歴に残るその名前を見てシンタローは口元を歪ませた。
もし今目の前に鏡があるとしたら、それに映る現在の自分の顔は見るに耐えないものだろう。
何もかもを壊してしまった、たった一つの言葉。
簡単でいて、それでいて重いもの。
『好き』
その言葉に伴う感情は――『恋情』。
出口を開く鍵は未だ見つからない―――。
END
2007.03.19
出口に気付いているのにそれに気付かないふりをして――
『おはよう』――そんないつもの挨拶が空々しく聞こえる。
『シンちゃん』――いつも通りに名を呼ばれても、それは以前と同じ響きを持っているようには聞こえない。
顔を合わせることが恐いだなんて笑ってしまう。
逃げるように遠征に出かける自分を、あの男はどう思っているのだろうか――。
5.電話
「――出ないのか?」
幾分眉間に皺を寄せたキンタローの声に、シンタローは顔を上げた。
何を言われているのかをよく理解していないままに、問うような視線を向ければキンタローは呆れたような溜息を付きながら、机の脇に置いてあった携帯電話を指差した。
「え、あ、ああ――…」
そうまでされてやっと我に返ったシンタローは、携帯を取ろうとしてその手が止まった。
表示されている名前を目にした瞬間に、身体が凍ったように動かなくなる。
着信音を消していなかった携帯に、全く気付かなかった理由は一つだ。
シンタロー自身が発信者の全てを拒絶していたから。
それは音でさえ当てはまっていたらしく、その存在全てを否定するかのようにシンタローの脳内には届いていなかったようだ。
その音がようやくシンタローの耳に届いた頃には、長い事出ることのない持ち主に諦めを見たのか――携帯は静かになっていた。
「シンタロー?」
従兄弟の不審そうな顔に、シンタローはわざと呆れたような顔を作って『いつものことだ』と言い切った。
着信音で相手が誰であったのかは、目の前のキンタローもわかっただろう。
無視をすることも多かったので、外見上は何ら不審を持たれるようなことをした覚えはない。
なのに、キンタローは電話に出なかったことが意外とでも言うように『いいのか?』と念を押してきた。
「…別に、大した用事じゃねーだろ」
何かを見透かされているようなその問いに、シンタローは内心で動揺しながらも平静を保ったまま答えた。
「……」
しかしシンタローの返答にキンタローは納得をしていないらしく、じっと此方を見続けていた。
「なんだヨ?」
若干の苛立ちを込めて睨みあげると、キンタローは溜息を付いた。
その態度がさらにシンタローの苛立ちを深める。
「何か言いたいんだったらはっきり言えよ」
遠回しな表現は癪に障る。
直球ストレートな表現をすることが多い、この従兄弟にしては珍しい態度に、シンタローの背に嫌な汗が伝う。
「いや、ただ――いつもならばお前が出るまで何度でもかけ直してくる伯父上が珍しいと思っただけだ」
「あん?」
眉を顰めさせたシンタローに、キンタローは『気付いてないのか?』と、それこそ意外だという顔をした。
「留守番電話に切り替わってもすぐにかけ直してくるだろう?お前が出るまで。着信拒否にすればこの部屋の電話に直接かけてくるし、それすらも無視すれば今度は、団内の回線をフル活用してお前の声を聞くまで諦めない。そう、お前の声を聞くまでは絶対に諦めんだろう」
だからこそ嫌々携帯番号を教えたはずだ。
教えなければ下らない電話の応対に団員達が迷惑を被るどころか、下手すると館内放送まで使って『シンちーーーゃん』と叫ばれてしまうのだ。
だから最初は無視しても、二回三回としつこくかけ直してくるその電話に、シンタローは仕方なしに出る。
ほんの一言二言交わしただけで切ってしまうことが多かったが、一度声を聞けば相手は暫くの間は大人しくなる。
だからこそキンタローは不審に思ったのだろう。
一度の呼び出しだけで諦めてしまったあの男に。
普段であれば二度でも三度でも――それこそ数十回でも諦めずにコールしてくる相手が、たった一回の呼び出しだけでその後がない。
「いいかシンタロー。あの伯父上がだ。何が何でもお前の声を聞くまで諦めた事のなかったあの人が、たった一度の電話で諦めたことなど、今までに一度だってなかったはずだ。いいか、一度だってだ」
無駄に記憶力がいいだけに、そんなどうでもいいようなことまでしっかりと覚えている従兄弟を、シンタローは今ほど恨めしく思ったことはない。
「うるせーな。たまたまだろーが!」
「しかし――」
「次の目的地に着くまで片付けるモンがいっぱいなんだろ?邪魔すんなよ」
さらに言い募ろうとしたキンタローに、見せ付けるように卓上の書類を指で弾いてみせると、キンタローは納得のいかない顔のまま押し黙った。
シンタローはそれ以上何も言わせないようにと、無言で書類を引き寄せてその文字を目でなぞる。
そんなシンタローに、キンタローは何か言いたげな視線を暫くの間送っていたが、やがて諦めたのか深い溜息を付いた後に部屋から出て行った。
「―――ふぅ…」
キンタローの足音が徐々に遠ざかっていくのを感じて、シンタローは息を付いた。
手にしていた書類の内容は最初から頭に入ってなどいない。
無造作にそれを机の上に放り出して、椅子の背もたれに体重をかけた。
本部にある総帥室とは違い、無機質な作りの執務室の天井を見上げてもう一度息を付いた。
遠征先に向かう艦隊の中で、一番振動の少ない場所に設置されたこの部屋には窓がない。
しかしそれに不満はなかった。
どちらかと言えば今は外を見たくはなかった。
空を飛んでいるのだから当たり前なのだが、窓の外に見えるのは雲か青空のどちらかだ。
雲の中にいるのならばいい。
真っ白な空間は普通であれば苦痛になるが、今のシンタローにとっては青い空間より余程いい。
それほど昔でもない以前に、青い空を見上げた事が数回あった。
その頃に感じた青と、今感じている青は似ているようで違う。
迷路に嵌ってしまったと思っていたあの頃は、今思えばその入り口付近に居ただけにすぎなかった。
そして今、抜け出せない迷路の真っ只中で自分は―――
「…情けねぇ…」
シンタローは小さく呟いた。
声に出すべきではないその弱音を、思わず口にしてしまったのは、そうでもしなければ見えない何かに押し潰されてしまいそうだったからだ。
『何か』――ずっと胸に引っ掛かっていたそれは、いつの間にか大きな固まりとなって、シンタローの全身を飲み込もうとしている。
その『何か』が何であるかを気付いてしまっているのに、それを認める事が出来ずに気付かないふりをし続けていた。
そうしなければならないと思うこと事態で、それを認めているも同じだというのに、必死に何も知らないのだと自身に思い込ませようと足掻いている。
自分の非を認めることの出来ない愚かな大人。
自分の我侭を通そうとする無邪気な子供。
そのどちらとも取れる今の自身の状況に、シンタローは口元を歪ませた。
どんなに仕事を増やしても、脳裏にちらつく男の顔が、シンタローの思考の全てを支配していく。
考えないようにしようとすればするほど、深みにはまっていくというのにそれを止める術はない。
父親の仮面を必死にかぶって見せてみせるあの男と、顔を合わせなくなってから何日が過ぎただろうか――。
最後に聞いた言葉は『いってらっしゃい』だ。
遠征に行く前はいつも『寂しい』や『一緒に行く』と散々駄々をこねる男は、今回の遠征でもやはり同じようにわめき散らした。
いつもながらの光景に呆れた様子の団員も、完全に無視をきめこんでいるキンタローもグンマも――何一つ変わらない光景だった。
その中でシンタローのみがいつもとは違っていた。
男の顔を見る事が出来ずに、動揺する素振りは決して見せないようポーカーフェイスを決め込むだけで精一杯だった。
無視をすることはよくあることであったから、他人の目から見ればシンタローのその様子は普段通りに見えたはずだ。
例えその時――シンタローの心音が通常の二倍の速度で音を刻んでいたとしても…。
おそらくその事にあの男は気付いている。
『いってらっしゃい』と、顔を見ることなく耳に届いていたその声色は、あの時と同じ響きを持っていた。
『私はお前が私の事をどう思っているのか――知りたいだけだよ…』
そう――扉越しに聞いたあの声と同じ響きを――。
「父親面したいんだったらッ、もっと完璧にやりやがれ…ッ!」
絞り出すように口から発せられた言葉は虚しく室内に響くだけである。
あの時、いつものように『ふざけんな』とでも言って眼魔砲放っていれば、今のように苦しい思いをしなくてすんだのであろうか。
あの時ああしていれば――そんな今更どうしようもない思いだけが浮かんでは消えていく。
そんな考えはただの悪あがきにしかすぎない。
そんなことはわかっている。
起こってしまった出来事を戻す事なんて出来やしない。
それがわかっているのに、同じ思いをいつまでも胸の中に巣食わせている。
後ろ向きすぎる自身の姿に情けなくて仕方がなかった。
このまま一生あの男と向き合わずに生きていく事など不可能だ。
あの男は己の失態に気付き、必死に下手な芝居をしている。
そしてシンタローはといえば、それに気付いてこれ以上踏み込まないようにと逃げ回っている。
解決策は、シンタロー自身も気付かないふりをして――そう、何もなかったのだと――今まで通りの『親子』に戻る事だろうか――?
「――そうじゃねーだろ…ッ」
自分の考えたあまりにも陳腐な案に笑いすら出てこなかった。
どうやったって自分はもう、今までのようには戻れないのだから。
融通の利く性格でないことくらいよくわかっているのだ。
以前のような関係に戻れる器量があるのであれば、あの男の言葉を聞いた時点で眼魔砲をぶっ放していた。
どうすればいいのかをわかっているのにわからない――矛盾という一言で片付けられるほど、シンタローの心情は簡単なものではなかった。
ドロドロと渦巻く感情の沼から這い上がるには、自分自身でそれを望まなければならない。
自分と向き合うこと――。
自分はどうしたいのか。
自分はどうして欲しいのか。
自分は何故逃げているのか。
それらの答えを答えればいいだけの話だ。
偽りなく、心の底から感じた答えを。
感情は答えの出る数式のように簡単なものではない。
割り切ろうとして割り切れるものでもない。
他人に話すことによって答えを見出せるかもしれない。
でもそれは今回に限っては出来ない事だった。
誰にも話すことなど出来ない。
自分の中の理解不能な感情を、どう説明しろというのだろう。
他人に説明できるくらいならとっくに自分で解決策を見つけている。
父親ではなくなってしまった男と対面した時に、自分がどうなってしまうのかがわからない。
あの男の瞳は人の命を奪う時に見せた残忍さを持ったものではなかった。
弟を閉じ込めた時に見せた厳しい瞳でもない。
シンタローの行動の全てを異常なまでに支配しようとしていた頃のものとも違う。
ただひたすらに優しく――そして哀しみを湛えていた瞳。
ほんの一瞬に垣間見たあの瞳こそが、あの男の本心。
怒りを表したわけでもなく、恨みを込めたものでもない。
そんな負の感情に感じた恐怖よりも、初めて感じた強い恐怖。
こんな恐怖があるだなんて知らなかった――…。
あの日から意図して思考から削除している言葉がある。
その言葉は、今のシンタローにはあまりにも重過ぎて考えることすらしたくない。
その言葉一つで全てが変わる。
その言葉を認めることによって、おそらくシンタローは泥沼から這い上がって出てこられる。
その言葉を認めることによって、おそらく自分自身と向き合う事が出来る。
でもそれは諸刃の剣のようなもので――。
その言葉一つで全てが壊れてしまうのだ。
今まで気付きあげてきたものが全て。
そう、何もかも。
―― 『父さん』 ――
やっと一つになれた、夢見ていた温かな家族。
これからだ。
まだまだ足りない。
やっと皆が一つになってこれから築いていくはずだったもの。
それはシンタロー自身が、何よりも望んでいたもの――。
――それらを全て引き換えにしてしまうほどに、その言葉には大きな力がある。
その言葉を伴う感情をシンタローは今、生まれて初めて感じていた。
「くそ…ッ」
シンタローは頭を抱えてきつく目を瞑った。
何もかもが煩わしいと思う。
嘘吐きな男も。
はっきりとしない自分自身も。
正面を切って向き合う勇気もないくせに、助けて欲しいと叫びたい衝動にかられる日々。
たった一言で終わってしまった穏やかな日々。
自分はあの頃に戻りたいのか。
それとも―――。
痛む胸を誤魔化すように閉じていた瞳を開いて、視線を机に戻せば着信があったことを知らせる携帯の光が目に映った。
シンタローはのろのろと手を伸ばしてそれを手にする。
履歴を見なくてもわかる相手は、電話に出ないことをどう思ったのだろうか――。
普段であれば従兄弟が言ったとおりに、何度も何度もかけ直してくる相手。
なのに何故、今回に限って一度だけで諦める?
履歴に残るその名前を見てシンタローは口元を歪ませた。
もし今目の前に鏡があるとしたら、それに映る現在の自分の顔は見るに耐えないものだろう。
何もかもを壊してしまった、たった一つの言葉。
簡単でいて、それでいて重いもの。
『好き』
その言葉に伴う感情は――『恋情』。
出口を開く鍵は未だ見つからない―――。
END
2007.03.19
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