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m3


 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 



大体、マジックという男は救いようのないバカなのだ。


 


 


フリルの付いたエプロンの裾をはためかせ、ベランダと寝室を何往復かした彼は最後の一つを干し終わると満足げに盛大な伸びをして任務の完了を天に向かってアピールしていた。


手伝おうと思った気持ちは、随分前に挫けている。


彼は家事全般が得意で好きだから、どれほどシンタローが自分で出来ると主張しても一度たりと引いたことがなかった。


二人が共に暮らし始めて、一月が過ぎようとしている。


世話になるばかりでなにも返せないのは辛い。生来がまめで体を動かすことを苦にしない性質なので、座っているだけという状況はありがたくはないし、恩ばかりたまっていくのは承服できない。言えば必ず『シンちゃんは、傍にいてくれるのが仕事』と言い返され、ミルク味のキャンディーを渡されるのが落ちだった。


子供扱いしたいのは分かった。


確かに彼から見れば自分は子供で、養われているのも事実だ。けれど望まぬまでもほぼ自立していた意識がそう簡単に切り替わる訳もなく、あしらわれているような態度には正直腹が立つのだ。


忍耐力はある。我慢強い方だと思う。けれどマジックとの口喧嘩は日常的に起こることで、いまや会話の半分は喧嘩腰になっていると言っても過言ではない。


尤も、そう思っているのはシンタローだけであり、当のマジックは、怒り心頭で文句を並べ立てる唇を『よく動いてかわいいなぁ』と思っているのだから彼にとっては遣りきれまい。


とにかくマジックはシンタローを甘やかすことに命を懸けている。…のだそうだ。


たとえばシンタローが、いますぐ地球の裏側に行って“愛している”と叫べと言えば、間髪いれずに実行できる自信があるという。


誰がそんな馬鹿な要求をするものかと突き放してやっても、なにが嬉しいのか『照れちゃってもぉー』とクネクネされるから最近では文句を言うことも少なくなったがしかし。


 「あー、幸せだよー」


まただ。


ベランダで吼えている。


ここが地上から遥か離れた高層階だからいいものの、二メートル近い大男が両腕を振り上げ叫んでいるところなど目撃されては良心的なシンタローとして恥以外の何物でもない。


ソファーに両足を上げ、コーヒー片手に雑誌を見ていたシンタローは海より深い溜め息を吐いた。幸せなのは結構だ。結構だがいちいち報告してくれなくてもいい。


 「これで今夜はフカフカの布団で眠れるよ」


 「よくもまあ、あんなでかいマットレスまで運び出したもんだ」


 「何事も勢いだよ」


勢いで、トリプルサイズのマットレスを、ベランダまで運び出すバカがどこにいる。続けて口にしようと思った台詞を寸でのところで飲み込み、ついでに温くなったコーヒーも飲み干してしまう。


所謂“せんべい布団”にしか寝た記憶のないシンタローが、必要ないのは分かっていても天日に干した布団の気持ちよさを語ってしまったのがそもそもの間違いなのであって、自分にも非があると認めている話題なだけにこれ以上の突っ込みは不要だった。


ベッドパッドだけ干せば十分だろうに、運び出されたマットも自分が何者なのか悩んでいるに違いない。


間もなく土曜の正午になる。


空は麗らかに晴れていて、油断すると眠くなってしまうような、平和に過ぎる昼だった。


 


 


 


 


 


 


あの夜。


 


身動くことを恐れているようなシンタローを宥めつつカウンターに戻ったマジックは、冷めてしまった料理を手早く温めなおすと再度シンタローに勧めてきた。


隣にかけて、ひとつひとつの料理について説明をしてくる。材料はどこから手に入れたのか、どこに拘りがあるのか、どうやって食べるのが一番美味しいか。シンタローは、どう思うか。


低く、甘みの多い声が耳元をくすぐるたびに切ないような、くすぐったいような気持ちになってどれもまともに答えられはしなかったけれど、大切にされていることが幸せだった。


その反面、もしこのあと手酷く裏切られるようなことになったらと思うと、その度に箸が止まりそうになる。期待して、頼って、けれどその気持ちを“冗談だ”と躱されたら。図々しいと嘲笑われたら。どうしよう。


縋るような目で見ていたのかもしれない。


目が合うと、マジックは自分も傷付いたような目で見返し、それから優しく微笑んだ。なにも言わずシンタローの背を叩いてくれた。遠い記憶の父親の温もりはこんなだっただろうか。


こみ上げるものを飲み込みながら、彼の心尽くしの料理を黙々と食べ続けた。


 


案内された浴室は、当然の如くの広さで思わずきょろきょろ見回してしまう。


大柄な彼が使うのだから、湯船も洗い場もこの程度の広さを要求されるのだろうが、狭い風呂に慣れた身には堂々と真ん中を占める度胸はなく、知らず隅の方へ寄ってしまった。


風呂から上がれば彼が作ったというレモネードが差し出された。


金持ちはこんなものを日常的に口にしているのかと感心しながら、彼のために少し甘めの味付けがされたそれを飲んでいると寝室の用意が出来たからと手招かれる。


浴室で耐性は出来たつもりだった。


けれど寝室と言われたその部屋だけで、シンタローが暮らす狭い戸建て住宅の総延べ床面積はあろうかという規模を目の当たりにした瞬間、素直に思考は停止しその場に立ち尽くす羽目となった。


なんでも、客を招く予定もなく、かといってゲストルームを作らないのもおかしなものだからという理由で作られたその部屋は、家具や装飾品のすべてに至るまで豪奢で、“まるで絵に描いたような金持ちの家”だと固まりかけた思考で辛うじて判断する。


その部屋に自分が泊まるという事実は、たとえそれが目の前にあっても納得できるものではない。なにより、こんなところに通され“さあどうぞ”と言われても眠れるはずがない。


いつまでも入室しないシンタローを訝しげに見ていたマジックは、やがてポンと手を打つと頷きながら彼の手を取りベッドの傍まで連れて行った。


子守唄を歌うのは、人生において初の体験だと言いながら抱えたシンタローを軽々と寝かしつける。固まっていたため反応の遅れたシンタローが我が身に起きたことを理解したときには、既に柔らかな毛布は首元まで引き上げられ、マジック自身は万全の添い寝体勢を整えたあとだった。


これで眠れたら奇跡だ。


そう思った。


実際、照れやら怒りやらの感情が乱れ縺れて眩暈がする。“うー”とか“あー”とか自分でもよく分からない呻き声を上げるのが精一杯で、いよいよ耳元にやたらと響く声音の子守唄が注ぎ込まれるにあたってシンタローの思考回路は一番楽な逃げ道を選択することを余儀なくされた。


眠れない、では通らない。


眠れ。眠るのだ、俺。


これは夢だ。すべてが夢では困るが、この状況だけは夢なのだ。そうに決まっている。


色々と有り得ないことが続き、目が覚めたらいつもの狭く、冷たい自室なのかもしれないけれど、添い寝と子守唄の部分だけを抜き取ればその方がいっそ幸せかもしれない。


いや待て。


この年になって“抱っこ”で“ねんね”で“シューベルトの子守唄”でも、あの暮らしからすれば数百倍もマシなのではないか。色々問題はあるがあっちよりこっちの方が断然幸せだと思う。なにせ寒くない。狭くない。ひもじくない。


諸々の葛藤に押し潰され、思考の許容量はあっという間に満ちてしまう。


まん丸に見開いていた目が力尽きたように緩み、視界が滲むに連れシンタローは眠りの底へと落ちていった。


生涯において、睡眠という人間に課せられたシステムがこれほどまでにありがたかったことはなかった。


 


目が覚めたとき、まずいつもと違う高い天井に首を捻る。


それから、優しく体を拘束する腕に目が点になる。


夢も見ずに眠った気がするし、ひどく安心していたのも確かだけれど、今現在自分のおかれた状況を掴むまでに十数秒も要してしまった。


そして我に返る。


思わず悲鳴を上げたところで、シンタローのことをぬいぐるみかなにかのように抱き締めていたマジックが目を覚ました。固まったまま自分を凝視している彼に気付くと、まるで長く繰り返されたことのような自然さで『おはよう』と微笑みかけてくる。ぎこちなく頷き返せばこれもまた当然のように頬や額に口付けられ、シンタローは再度哀れな悲鳴を上げさせられた。


マジック曰く。


 『私は“外人”だからねぇ。挨拶にキスは当然だよ』


言葉もなく、ふるふると首を振ったが受け入れられはしなかった。その後も挨拶と称されたキスは、朝も昼も夜も、シチュエーションに関わることなくマジックのしたいときに施されることとなった。抵抗したところでこの体格差では高が知れているし、疲れるだけなのだから早々に諦めるしかなく、他の諸々とあわせシンタローは“忍耐”ということを覚える羽目に陥った。


 


一日の基本は朝食からと、昨夜に続いて豪華な食卓が設えられる。


夕べと違う点は洋食でまとめられたということで、なんでも材料が乏しいからだそうだ。これのどこが乏しいのだろうと首を捻りつつ、厚めに切られたハムを齧りながら卵料理だけで三つも乗せられた皿を眺めおろす。


ゆで卵のスライス、スクランブルエッグ、チーズオムレツ。


普段はクロワッサン程度で済ませてしまうというマジックは、シンタローが出されたものを綺麗に片付けていく様を嬉しそうに眺めながら今日の予定を聞いてきた。


嫌なことを聞く。


自分に予定があるとすれば、あの、冷たいばかりの家に戻り課せられた仕事をこなすだけのことだ。今日は休日だからやることは山ほどあって、昨日不在だった分も合わせて機嫌の悪い叔母の相手をしながら働くのは憂鬱以外の何物でもない。


溜め息を吐いたシンタローに、まったく動じることなく微笑んだままのマジックが重ねてどこか行きたいところはないかと尋ねてきた。


テレビや、人の話で聞いた楽しそうな場所はいくつか知っている。けれど実際に自分が行けるはずのないことも知っていたので、どこかと言われても答えようがない。それに食事が済んだらこの家を辞さなければならないのだ。夢などというものは、早々に忘れるに限る。


帰る、と。


両手を合わせ、ごちそうさまと呟いたあとに続けてそう言った。


ありがとう、と。


椅子から降りて、少し躊躇って、それからマジックの隣に回ると頭を下げた。泊めてもらった礼と、食事を振舞ってくれた礼。昨日の分の、助けてもらった礼ももう一度付け加え、突然鉛でも埋め込まれたかのように重くなった体を反転させる。


シンタローのことを黙って見詰めていたマジックは、彼がダイニングを出ようとする辺りで立ち上がり、足早に近付いてきてこう言った。『送っていくよ』、と。


 


送っていく。


ありがたいけれど、嬉しくはない。


あんなところに戻るのは嫌だ。まるで拾われた捨て犬が、飼いきれないからとまた元の場所に戻されるようなもの。一度味わった温もりを忘れるのは容易ではないし、どうせ手放すなら拾ってほしくなどなかった。縋ってしまったのは自分だから、彼を責める資格はないけれどそれでも平気でいられるほどにシンタローは強くない。


首を振って拒んだが、大きな手が肩を抱き歩き出す。


なにも言えなくなって、部屋を出て、エレベーターに乗って、地下駐車場に停めてあるやたらと大きな車に乗せられるまで俯いたままでいた。道案内をするよう言われたから、仕方なく口を開いたけれどそれ以外の言葉はなにも浮かばなかった。


 


見えてきた二階家を指差すと、車は静かに止まった。


道中黙り通したシンタローにマジックもなにも言わなかったので、静寂が耳に痛いほどだった。


小さく、ありがとう、と言ってドアを開ける。足を伸ばし車外に出ると、なぜかマジックも運転席から外へと出てきた。周囲を見回し、それからシンタローに向かって微笑みかけた。


 


友達のところに泊まったことにしてあるから、マジックと連れ立ち戻ったシンタローに嫌味の一つも言ってやろうと待ち構えていたらしい叔母は毒気を抜かれたように妙な愛想笑いを浮かべ取り敢えず立ち話もなんだからと二人を客間へ促した。


なにを言うつもりなのだろう。


予想外の展開に戸惑うシンタローにウィンクをして見せたマジックだが、それまでとまったく変わりのない妙に自信に溢れた態度に感心している余裕はなかった。


叔母に呼ばれ、惰眠をむさぼっていたらしい叔父が慌てて入ってくる。狭い日本の建売住宅の客間は、突然の異国人の来訪におかしな緊張感を張り巡らせていた。


 


開口一番、マジックはシンタローがしようとしていた“バイト”の話を始めた。


これにはシンタローも驚いたが、黙っていろと口止めしなかった自分にも非がある。慌ててマジックの袖を引き、必死の思いで首を振ったが彼が口を閉ざすことはなく、それどころか益々饒舌に、低い声で朗々と語り倒す。


 


未成年がこのような仕事をしようと思い立つ理由は、遊ぶ金ほしさが筆頭に来るのだろうが聞けば彼は学費のために仕方なく、と言った。


どのような経済状態にしろ保護者として子供の育成を法的に任された者であれば責任のある行動を取るのが当然でありこれは明らかに児童福祉法に抵触する事態だ。


奨学金を受けるというような道を示してやることもなく、短絡的に人として踏み外すような行為を選ばせた責任は保護者にあるのだから、知ってしまった以上見過ごすわけにはいかない。


 


たとえば叔父に、『そういうあなたは誰ですか』と尋ねる勇気があれば事態は変わっていただろう。


赤の他人であり、法曹界に従事するものでもない。永住権は得ているのかも知れないが、突如現れたマジックに好き放題言われ、返答次第では児童相談所に通報するぞとまで脅されるのは本来、それこそ不当だろうとも思われる。


けれど彼らは良くも悪くも一般大衆であり、脛に傷持つ身であったがために気の毒なほど恐れ入ってひたすら謝るという加害側へ回ってしまった。


まあ、分からなくはない。


マジックを見て恐れ入らない者はないだろう。彼には無言のうちに人を従わせる空気があり、それは体格であったり蒼い目であったりするのだがとにかく、視線の遥か上からものを言われ屈服しない方が難しい。隣で聞いていたシンタローも思わず納得しそうになる淀みのない、しかも難しげな単語はすっかり二人を萎縮させ、最終的には『ではどうすればいいのでしょうか』という有り得ない言葉を引き出す結果となった。


 


マジックが提示したのは、シンタローを引き取りたいというただそれだけだった。


 


そんなことは初耳だが、彼はシンタローの両親を知っているのだと言う。勿論それが嘘なのは分かっていたが、あまりに堂々と言い放つのでもしかしたら本当なのかも、と思ってしまうほどだった。


息子が一人残された聞き、どうしているだろうと思っているところで偶然にも廻り合えた。これこそなにかの縁だろう。


自分には家族というものがなく、シンタローを養うには余りある財力も、時間もある。友人の息子が哀れに身を持ち崩していくのを黙って見ていることなど出来るはずもないから、すぐにでも引き取り自分の手元で育てると。


 


 『諸々、世間に知れると困ることもあるだろうから、私の方は認めさえすればすべてを不問に処す用意があるが…いかがかな。』


 


 


世の中には騙される人が多く、意志の弱さを責められることもあるが、やっぱり騙す側だけが悪いに違いない。


生きるためのローカルルールを一つ仕入れ、シンタローは少し、大人になった。


そして、昨日までより大きな幸せを手に入れた。


 


運んできたのは大きな人。


その人ですら両手に抱えきれないほどの幸せを、そっと、そっと、贈られた。


 



 

 


      きのう、みた、ゆめ


 


 


 


 



 「やだ!絶対にここじゃなきゃダメ!」


 「行くのは俺だぞ!」


 「ヤダッたらヤダーッ!」


じたばた。


じたばた。


ジタバタ。


 


相手が子供だとしても苛付くに違いない、手足を振り回すという古典的な抵抗を繰り広げるマジックにこめかみが痛くなるシンタロー。


 「やだよぉ、ここじゃなきゃパパ、認めないからねっ」


 「…誰がパパだ」


涙ぐんで、あたかも虐められているような被害者ぶった顔で。唇まで尖らせた彼は間違いなく自分より大人だ。さらに言うなら保護者でもある。


 「シンちゃんの意地悪。ひどいよ、シンちゃんひどいよ」


責める言葉を口にしつつ、立ち上がった彼が向かう先にはソファーに凭れるシンタローがいる。腕を伸ばして、捕まえられて、たちまち抱き込まれる我が身の不運を嘆いてはみるが余計な抵抗をして事を荒立てる愚を冒さない程度には学習した彼である。


こうなったら暫くは、好き勝手にさせておくしか手はない。


 「シンちゃんのおバカ。パパはどーっしても、ぜっ、―――ったいに!認めないよ」


 「あっそ」


ぎゅうぎゅうと締め付けられて苦しいけれど、我慢。


いまはただひたすらに、我慢。


 「毎日ちゃんと車で送るから、遠くたって問題ないよ。ね」


 「………」


 「帰りだって迎えにいくよ。まあ、行けない時もあるかもしれないけど、でもその時はタクシー使っていいから」


 「………」


 「なんならタクシー券を買っておこう。そうすれば安心でしょ」


 「………」


 「あっそれよりハイヤーの契約をすればいいんだ。朝はパパ、帰りはハイヤー。で、パパが迎えに行けるときは門のところで待っててあげる」


名案。


痛んで仕方ないこめかみに口付けられ、シンタローは海より深い溜め息を吐いた。


後悔は後から来るから後悔だけれど、自分の選択は誤りだったのかもしれない。いや、あの時はシンタローに選択の余地はなかったし、なにより選択肢を提示してもらった記憶もない。我に返ったときには決まっていたのだ。


ここで、こうして、彼と暮らすということが。


マジックとともに生活するということが。


 「とにかく座れ。ちゃんと座って、一から話し合おう」


 「一を千まで話したって、私の鉄壁の意志が撤回されることはないよ」


きっ、と表情を引き締め、けれどシンタローと目が合っているという事実にすぐにとろけそうな笑顔に戻る。スキスキ、と繰り返しつつ腕の中に抱えた体をさらに強く抱き締める。


日本には、そんな恥ずかしい習慣はない。


そこをいくら説明したところで彼はこの国の者ではないし、仮に純度百パーセントの日本人であったとしてもこの人格が覆るとは思えない。


ああ。


ああ、嫌だ。


本当に嫌だ。


すっごく嫌だ。


でも。


 「あーもーシンちゃんってどうしてこんなに可愛いのかなぁ」


 「…目が腐ってるんじゃねぇか」


 


隠して見せない、心の一番深いところで、嫌がっていない自分が一番。


イヤダ。


 


 


 


 


 


シンタローの叔父夫婦を、明らかな脅しとはったりで言いくるめたマジックは、彼を自分の手元に引き取ることを強引に決定しその通りにしてしまった。


冷静に考えればおかしなことだが、シンタローとしても彼が自分を騙そうとしている訳ではないと本能で理解していたし、なによりあの家を出て求めてくれる相手と暮らすことに異存はまるでなかった。


いい暮らしがしたい訳ではない。


ただ傍にいたかった。好きだと言ってほしかった。必要だと。


誰にも理解してもらえず、また理解されようとも思わなかった。一人でいいと決めていたし、そうやって生きていくのだと思っていた。


けれどいつでも寂しく、冷たく凍えた体を持て余していたシンタローは、彼に出逢い、ふれあうことで優しさを知ってしまったから。認め合える存在だと逸る心が決めてしまったから。だから“うちにおいで”と改めて言われたとき、黙って頷いてしまったのだ。


彼と生きると、決めてしまった。


だからそれ自体を悔やむことはない。いまだって、彼の言っていることも分かる。譲歩できる部分はしなければならないとも思う。


でも。


それでも!


 


 「公立に入れるのにわざわざ金のかかる私立に行く必要はない!」


 「でもその公立高校に行きたい明確な理由もないんでしょ」


 「それはっ、だから…近いし、滑り止めなくても受かるって言うし」


 「こっちもそうでしょ。合格圏内だよ」


ほら、と言って指し示されたのはテーブルの上の学力調査票で、そこには先日の模擬テストの結果と希望校への合格率が印字されている。


抱きついていたマジックは、なんとかシンタローを膝の上に抱き上げようとしているから、それには無言の抵抗をしながら調査票の隣に広げられたパンフレットを顎で示す。


 「だから、ここから遠い」


 「送っていく」


 「あのなぁ」


 「送っていく。迎えも万全」


パパ完璧。


得意げに、ふふんと鼻で笑いつつえい、とばかりシンタローの脇に差し入れた腕に力を籠める。こうなると抱え上げられるのは必至で、まんまと彼の膝へと座らされた。


こんな姿、誰にも見せられない。


 「あんたが、」


 「パパ」


 「…マジックが、」


 「パパ」


 「…おま、」


 「パ、パ。パパ。父親のパパ。ダディのパパ。パーパのパパ」


 「…ぱっぱらぱーの、パー」


また可愛いこと言ってぇ、チュウしちゃうぞ。


と言いながら実行してくる。唇は死守しているが、頬やこめかみや額などは既に触れられていない部分がないほどに侵略されている。


外国人との接触がなかったゆえにシンタローが知らないだけで、これが一般的なのかもしれない。ふとそう考えてもみたが周囲の基準はどうでもいい。キスをされまくるという事実だけが重要なのだ。


外では一切するなと言い聞かせ、確かにそれは守っているためこれ以上の文句は付けられない。なにかを禁止すればその代替案を必ず提示してくるやつなのだ、マジックという男は。


ご機嫌でシンタローを膝に座らせたマジックは、片手を伸ばしパンフレットを取り上げると彼にも見えるよう一番初めのページをめくった。


 「ほら、まずパパがこの学校に通って欲しい一番の理由はこれだよ!」


ビシッと指先で示されたのは、これは絶対に生徒じゃなくてプロのモデルだろうと言いたくなるような見目麗しい少年が、いかにもお金持ちのご令息だけが通える伝統ある学校に相応しいといった感じの制服に身を包み談笑しているシーンの写真だ。


学年で違うのか、好きな色が選べるのか知らないが、グレー、ベージュ、ダークブルーの三種三色を基準に構成された作りで、ジャケットは無地だがズボンとネクタイはチェック柄になっている。これに冬はショールのようなものがついたコート、夏は基本色をパステルに置き換えたサマーセーターが付属品となるらしい。


身嗜みには気を使うが、おしゃれには無頓着なシンタローにとってお仕着せがましいそのスタイルは敬遠したい出で立ち以外のなにものでもない。


 「シンちゃんがこれを着たら…って想像すると、パパはもう気が遠くなるほど嬉しいよ」


 「だからっ!着ないって。ってその前に誰がパパだ!」


 「私」


 「あア?」


 「私。パパだよ」


 


この男のずるいところを、シンタローは既にいくつか見てきたけれど、一番ずるいと思うのはこれだ。


ふざけて、バカで、大人のくせにガキで、むかついて。


 「私のこと、パパだと思って欲しいんだ」


なのにこうして、突然穏やかに、けれど決して逆らえない威厳のようなものを籠めた眼差しで見詰めてくる。シンタローのすべてを見透かすような蒼い眼で真っ直ぐ覗き込まれるから、だからなにも言えなくなる。飲まれたように、据えた視線がはずせない。


大きくて強い腕なのに、抱き締めてくる指は驚くほど繊細だ。


いまも、まるで大きな蛇が獲物を締め付けるような音のない拘束をどんどん強めてきているのに逃げ出したいという意志すら奪われる。捕らわれる。


子供なのは確かでも、簡単に触れて、愛玩されるような幼さはない。だからシンタローにとってこれは不快なことのはずなのに、相手が彼だと思うだけで許してしまう。失くしてしまった甘えたい心を、小さかった自分を、取り戻せるような気がして。


いつもいつも後悔するのだけれど、それでも彼の腕の中は温かいから。幸せだから。


抱き込まれて、目を閉じてしまうのは、だから仕方のないことだと自分自身に言い訳して。


 


 「ねえ、シンタロー。私たち、親子になろうよ」


 「…おや、こ」


 「そう。私はきみを愛しているよ。その寂しそうな目を見ると心が痛む。なにと引き換えにしても守りたいと思う。私がきみに、一番に幸せを与えられる存在でありたい」


髪を撫でながら、唇は額やこめかみに触れる。


接触自体に不慣れなシンタローはその度に肩が跳ねそうになるけれど、それがマジックだと思うと安心できたし、嘘ではないと信じられた。


なぜたろう、彼は、どうしてここまで自分を愛してくれるのだろう。


なにもかもを認め求めてくれる。


無償の思いは、確かに博愛の域すら超えている。


 「だめかな。私では足りない?家族にはなれない?」


 「…そんなの…分からない…」


 「それは考えられもしないということ?それとも、」


 「分からないって!ここに来てからまだ二ヶ月も経ってないのに、急にそんなこと言われても…分かるわけ、ないだろ…」


マジックとの暮らしはなにもかも順調で、すべてがうまくいっている。自分ではそう思う。彼にしても、こうして親子になろうなどと言ってくるのだから自分を本当に必要だと思ってくれているのは分かる。同情だけではないと信じられる。


それでも。


 「答えは急がなくてもいいよ。でも、私の気持ちは変わらないからね。私はシンタローのことを一番身近に感じている。血の繋がりより強いものがあると思う。だから、嘘は言わないで。逃げないで。どんな答えであっても手放したりしないから、ゆっくり考えて決めなさい」


 「ここに…いていいなら、同じだろ」


 「違うよ」


向かい合うように抱え直され、指先が頬を撫でる。


 「ただ傍にいるだけではだめなこともある。血縁であっても、そんなものにはなんの意味もないことだって、あるんだよ」


 「じゃあ親子になっても、それも意味なんかないかも知れない」


 「そんなことはない。だって私はシンちゃんを愛しているからね。だからこの気持ちを形にしたいと思う」


 「かたち?」


 「そう。私たちは一緒にいるんだよって。心を繋げているんだよって。誰にでも言えるように、見えるようにしておきたい」


微笑むマジックを遣る瀬無い気持ちで見詰める。彼はシンタローを寂しそうだと言ったけれど、彼の蒼い目だって悲しげに見えることがある。まるで氷のように冷たくて、自分自身の冷たさに凍えるような。そんな悲しみが伝わることがあるのだ。


愛されたいと叫んでいる、その声を聞いた気がもう幾度もしている。


 「考えてくれるかな?」


少し、自信のなさそうな笑み。彼には似合わない。


 「分かった。考えておく」


 「ありがとう」


言って、また抱き締める。


彼が好んで使うコロンの香りが、全身に染み込むようだった。


すぐに返事の出来なかったことを詫びる気持ちを籠め、回した両腕で彼の首にしがみついた。ともにありたいと願う心は同じだと分かってほしくて。嘘ではないと信じてほしくて。


嬉しいと、ありがたいと伝えたくて。


 


幸せになる。


きっと、二人で。


 


 


 


 「んー、シンちゃん、いい匂いぃ~」


 「わっ!くんくんすんなっ」


高い鼻が首筋を這い回る感触に背筋が震える。


このバカは。


せっかくの感動的シーンを自分で台無しにしやがって!


心の中で悪態を吐きながら、それでもやっぱり、大して嫌がっていない自分はひたすらに隠しつつ握った拳で彼の頭をポコポコ叩く。


 


この分だと、来春からあの制服を着た自分が誕生するのは間違いないような気がする、ちょっと早まったかな?と思わずにはいられないシンタローであった。 



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