きのう、みた、ゆめ
「なあ、もう泣くなよ」
ベッドの中で、横たわったまま背をそむけた男は微かに首を振り拒絶を表す。
嗚咽に引き攣る喉からは、小さく否定の言葉も漏れたが聞き取ることは出来なかった。ただ背を丸め、体を縮めて泣きじゃくる。まるで小さな子供のような仕草に胸は痛むが、どんな慰めの言葉も届かないと分かっているのも事実だ。
「泣くなよ…」
途方に暮れ、ベッドの端に腰を下ろす。伸ばした指で髪を梳くと、それすら拒むように振られる頭が遣る瀬無い。望むすべてを叶えてやれない、それが当たり前の世の中だけれど納得させることの困難さも知っているから虚しくなる。
溜め息を、ひとつ。
「ずっと一緒にいたいと思ってた。いられると思ってた。いまだってそれは変わらないしこの先もそうだと信じてる。だけど…だけどな、無理なんだよ。どうしても。どうしても無理なんだって…分かってくれ…」
激しく揺れる金の髪。
拒絶に振られる頭がその頑なさを教える。
一途に向けられる好意ゆえに強くなるその思い。それは自分だって同じなのに、分かろうとしない彼に腹が立つ。
だんだん。
本気で。
腹が立つ。
「てめぇコノヤロッ!こっち向け!」
「やだっ!」
ぶんぶんっと首が振られる。背を向けたままのマジックの肩を掴み、なんとかこちらを向くよう力を籠めるがいかんせん体格差に邪魔される。
「ええい、この図体ばかりデカいガキが!こっち向けって言ってるだろ!」
「私に振り向いて欲しいなら行かないって言って。じゃなきゃ絶対向かないよ」
「べつに、べつにいーけど。俺はこのままだっていいんだ。ぜーんぜん構わねぇよ。あー構わないとも」
ぺしっ、と後頭部を叩き立ち上がる。
「困るのはあんただからな」
「なんで私が困るの?」
「俺の顔を見ないでいいのか?見ておかなくて本当にいいのかよ」
「え、」
「いいんだな?じゃ、夕べ見た俺の記憶を最後に枕濡らして泣き寝入りでもなんでもしとけ」
「え、え、……ええっ!」
ガバッと身を起こし振り返る。
「シンちゃん!!やだよやだやだ、こっち向いてっ」
起き上がる気配と同時に立ち上がり後ろを向いてやったので、今度は彼から自分の顔を見ることが出来なくなる。まあ、シンタローとてマジックの顔を見られなかったのだから同じことだけれど、今更四日間見なかったところで痛くも痒くもないというのが本音だ。
「見て!パパのこと見て!」
「いいから寝てろよ。その図体で不貞寝なんて、可愛くもなんともないけど俺はいなくなるから鬱陶しいところを見ることもないし。好きにすれば?」
「ひどい。ひどいよ…パパを置き去りにするうえにその言い草…冷たいよ、シンちゃん冷たすぎるよ、悲しいよ…」
「置き去りじゃねぇ!」
振り向きそうになり、慌てて踏み止まる。売り言葉に買い言葉が習慣化した関係だけれど、ことシンタローに関するプライドなど持ち合わせていないマジックと違い、自分は理性も知性も忍耐もあるのだ。感情だけでは動かない。…と、思う。
「置き去りだよ。楢山節考だよ!」
「は?ならやま?」
「姥捨て山の物語」
「…ああ。つーかお前は“姥”か?」
「ううん。私の代名詞はダンディだよ」
「……へー」
突っ込みを入れたいが、背中を向けているので生温い相槌だけを打ってやる。ぞんざいに扱われることを嫌う彼だから、当然の如く文句を言ってよこすがそれも綺麗に無視して部屋を出るため前進する。
「待って!シンちゃんこっち向いて!」
慌ててベッドを飛び出し、追い縋る気配に心の中でほくそ笑む。本当にこの男は、マジックというやつは扱いやすい。
そんな風に、自分に対し自信が持てるようになったのはつい最近のことだが、彼がシンタローのことを髪一筋の歪みもなく愛しているのが分かるから、こうしてからかうことも出来るのだ。
呆れるほど愛されている。
同じだけの気持ちを抱えているが、どうにも意地っ張りの自分ではその感情が素直に現れることがないらしく、その度に一喜一憂する彼には申し訳ないとも思うけれどそれでも大の大人を惑わせている感覚というのは面白いし、可愛いと思ってしまうのでやめられない。
「シンちゃん、ね、待って。こっち向いて。パパのこと見て」
「俺は行くんだよ。それが認められないならダメだ」
「だって、だってシンちゃんがいなくなったら私はひとりだよ。一人ぽっちでこの家にいなきゃならない。そんなの堪えられない…堪えられないよ、寂しいよ、辛いよ、悲しいよ」
「泣き落としは効かないぜ」
「違うよ本当に泣いてるんだってば!」
確かに涙声の、縋る声音にまたひとつ笑いがこみ上げる。
まったくバカなんだから。
なにも分かっていない、バカなんだから。
ひとつ、大きく息を吸い、シンタローは振り向いた。
「たかが四日の校外学習で、よくもそんな大袈裟に騒げるもんだ」
新入生が校内やクラスメイトに馴染んできた五月の連休前に行われる校外授業は、学校保有の避暑地にある施設に教室を移し、四泊五日、寝食を共にすることで更なる調和と親睦を深めることを目的として行われる伝統行事の一つだった。
生徒募集要項にもそう記されていたため、マジックが知らないはずもなく、また入学当初は『楽しみだねぇ』などと言っていたのだから当然了承しているものと思っていた。
ところがいざ実施日が近付き、様々な準備を整え始めたシンタローを目の当たりにすると“自分だけ置き去り”という現実に漸く気付きゴネ始めたのだ。
そんなことだろうと思った、と取り合わないシンタローに、あの手この手で不参加を進めてくるマジックには本気で呆れもしたが、まあこの寂しがりがそう易々と納得するはずもないと諦め根気よく言い聞かせてきたけれど。
結局、出発当日の今日になっても、彼の中でゴーサインは出ないまま。
「全員参加だぞ。場所が変わるだけで授業はするんだから、行かなけりゃ休みになっちまうじゃないか」
「いいよ、休みでいいよ」
「アホか。俺は三年間皆勤と決めてるんだ」
「そんな誓い誰に立てたの?パパは認めてません」
「どこの世界に学校ズル休みを奨励する親がいるんだ!」
「別にズルじゃないよ。孝行息子がパパの傍にいてあげようとする美談じゃないか」
「行ってきます」
「ああっ!シンちゃん!」
くるりと回れ右をしたシンタローの元へ駆け寄ると、逃げられないよう抱き締めてしまう。
「行かせないよ!絶対に行かせないからね!」
「離せ」
「いやだぁ~」
「離せってば!」
「どうしても行くというなら、パパを倒してから行きなさい!」
「…………バカだバカだと思ってたけど、本当の本物の、混じりけなし天然百パーセント濃縮還元なしのストレートバカだったとはな」
呆れてものも言えないとは言うが、言わない限り話が進まないのだから仕方ない。
こんなこともあろうかと、出発の二時間前からパフォーマンスをしておいてよかったと内心で胸を撫で下ろす。既に三十分を費やしているが、あと三十分あればどうにか落ち着くだろう。いや、落ち着かせなければならない。
学校までは車で送ってもらうのが常だ。だから本来であればここまで早起きすることはないのだけれど、グズグズ言い募るマジックの隣に座って移動するのは疲れるし、なによりそのままどこかへ連れ去られそうな気もするので今日は電車を使うことに決めていた。
それもまた機嫌を損ねる原因となるだろうが、背に腹はかえられない。
むぎゅむぎゅと抱き締めてくるマジックに聞こえないよう溜め息をつき、それからポン、と彼の腕を叩いた。
「寂しいのは…俺だって同じだ」
「シンちゃん?」
「四日も逢えないなんて、そんなの、俺だって寂しいに決まってるだろ」
「じゃあ行かないでいいじゃない。ここでパパと過ごそう?どこかに行きたいなら連れて行くから。だからここにいて」
「そうできれば…俺だって、そうできればしたい。本当に、そう思ってるんだけど…」
「しようよ。大丈夫、学校にはパパが連絡してあげるから。急におなかが痛くなっちゃいましたって言えば諦めるよ。ね?」
必死に言い募る彼が、愛おしいけど、ばかばかしい。
大の大人が言うに事欠いて仮病を使えと。おなか痛くなっちゃいましたと。
それを聞かされる俺の頭が痛くなる。
言葉にも表情にも出さず、シンタローは心の中で笑ってやった。本当に、こいつはどこまで自分のことが好きなのだろう。
我がことながら理解に苦しむ。
「俺さあ、小学校の修学旅行って、行ってないんだよな」
「え、なんで?」
「金がないから」
事実だ。
「予め積み立てしておくんだけど、俺、親が死んで転校したし、引き取り先も変わったりしてゴタゴタしてたんだよな。で、気付いたら修学旅行が近くなってて、でもそんな急には払えないって言われて、行けなかった」
蒼い瞳が細められる。
「みんなが準備してるの見てた。出発の前に持ち物チェックするからって、学校に大きな鞄持ってきたりするの、ただ、見てた。友達もいなかったからひとりで、教室の隅でそれ、見てるだけだった」
着ていく服は新しく買ってもらったとか。お土産になにを頼まれたとか。消灯時間が来てもこっそり起きていようとか。
シンタローとは無関係に、楽しげに語らう級友をぼんやりと眺めるだけの時間。
「不参加のときは普通に登校するって決まりだから、図書室で自習させられた。俺と、知らないやつがひとりいて、二人とも黙って本を読んでた。静か過ぎて気味が悪かった」
マジックの腕が緩み、癒すように抱き締めてくる。
「帰ってきたあとはもっと惨めだったよ。元から俺だけ浮いてたのに、みんな益々仲良くなって旅行中の話で盛り上がって…なんで俺だけこんな目に遭うんだろうと思った。どうして俺はこうなんだろうって、死んだ両親のこと、恨んだりして…」
クラス全員からのお土産だといって渡されたキーホルダー。
哀れみの塊のようなそれを使うことができるはずもなく、机の中に入れてそれきりなくしてしまった。あのキーホルダーは、どんな形をしていただろう。
「言っただろ。学校なんて、隙を見せたら終わりなんだ。一度流れに逆らったら外れるだけなんだよ。もうやだ。あんなの、もう二度と、嫌だ」
ぎゅっ、とマジックの胸元を掴むと、大きな掌が背中を包む。無言でただ、撫でてくれる。
「いまのクラスはさ、俺のこと、変な目で見ることはなくなったけど、でもまだ話もしてないやついるし、よそよそしくされるし。だからチャンスなんだよ」
それも事実だ。
けれどシンタローは考え違いをしている。
クラスメイトたちはみな、成績も面倒見もよく、同い年でありながら包容力のようなものすら漂わせる彼に一目置いていたし、だからこそ近寄りがたいと思われているのだ。
まして彼の隣には、いつ何時であろうと“おまけ”が付いている。
アラシヤマという名の、鉄壁のディフェンスがへばりついている。
「ここで休んだりしたらもうだめだ。取り戻せない」
「シンちゃん…」
ぎゅうっと抱き締め、マジックは深く、長い吐息をつく。
「辛かったね。どうして、と言っても仕方のないことだけど、それでも私は、どうしてそのとききみに出逢えていなかったのか、そのことを心から悔やむよ」
「いいんだ。忘れるから。昔のことなんて思い出してもつまんないだけだし、忘れりゃいいんだから、そうする」
襟足を隠す髪を梳く指先が優しい。
マジックは優しい。
自分には、自分にだけは、無条件で。
「私はシンタローの幸せが一番大事だよ。自分のことよりお前の進む先の方が大切だ。本当にそう思ってる。いつも、願ってる」
「うん」
「その幸せはすべて私が作ってあげたいけど、それだけでは足りないよね。二人の間だけじゃなく、シンタローのいる場所であればどこでも、誰からも差し伸べられるべきだ。お前にはそれを要求する権利がある」
「権利とか…そんなの…」
「あるよ。あるんだ。なにもかもを望みなさい。願って、そして叶えなさい」
唇が、つむじの辺りに触れる。
安心感が全身を包む。
「行っておいで」
優しい声音が頭上から降り注ぐ。低いそれは心地よく、耳に、体に、染み渡る。
「楽しい思い出をたくさん作りなさい」
「…ありがとう」
子供のようにしがみついて、それから爪先立って彼の頬に口付ける。照れくさいそれもいまは抵抗なく与えられた。
とても幸せな気持ちになれた。
…話したことは事実だけれど、なんだか予定と変わっちゃったぞ。
こっそり覗き見る時計の針は予定より随分早い時間を示している。
策士、策におぼれるとはこのことか。
胸中で呟くその言葉に苦笑が漏れる。俺も汚れちまったもんだと嘯きながら、それでもマジックの温もりは本物だから、そっと目を閉じしがみつく力を強くした。
今日から四日間。
逢えない寂しさはシンタローも同様だということにマジックが気付いてくれるのは、一体いつになるのだろう。
きのう、みた、ゆめ
「席はここどす」
ふふ、うふふ…と薄気味悪い笑いを浮かべながらアラシヤマが手招きする。バスでの席は予め決められていて、嫌だと言っても今更変えようがないのが切ない限りだ。
大体、席順をどうするかを決めたのがクラスの副委員長であるアラシヤマなのだからその時点で逆らいようもないし、なにがなんでも隣に座ると涙目で言い張られた日には抵抗するのも虚しいだけだ。
自分は、その副委員長に唯一対抗できる委員長でありながら、既に彼に関するすべては諦め気味のシンタローにとって『んじゃそうするか』という言葉以外選びようがなかったのもまた事実で。
バスでの席順は“好きなもの同士”という、ここは女子高ですかと聞きたくなるような薄ら寒い表現で決められることとなってしまった。
因みに四人一組で作る班は、教師の提案で同じ数字を引いたものが組むという抽選方式が採られたが、ここでもシンタローは“四”という実に相応しい数を引き当て見事アラシヤマの隣席をしめることとなった訳であった。
「ったく、誰が“好きなもの”だっつの」
「なに?シンタローはん、なにか言いました?」
いそいそとショルダーバックの中を探っていたアラシヤマが耳聡く聞いてくる。
「いーえ、なんも言ってません」
「そうどすか?なあなあ、わて、お菓子ぎょうさん持って来ましたんえ。シンタローはんにも分けたげます」
「ぎょうさんって、それ全部か」
「へえ」
なんだか妙にもっさり膨らんだ鞄を訝しんではいたが、よもや中身がすべて菓子だとは思わなかった。持ってきたからと言って取り上げられる訳ではないだろうけれど、一応“おやつは五百円程度”と旅のしおりには記載されているし、読み合わせで音読したのはアラシヤマ本人だった。
「わてな、こうしてお菓子やお弁当を親友と分け合うのが夢だったんどす」
「…へー」
「ほら、みとくんなはれ。おたべどす。シンタローはんはなに持ってきはりましたの?なにと交換するつもりどす?」
交換するつもり自体がない。
と、言ってやりたいがにじり寄る気配が恐ろしい。
大体、“おたべ”がおやつに含まれているというのがまずおかしいだろう。しかもその鞄の中のどこに、どういう風に詰まっていたのか。ペロリと摘まみ出されたそれを視界に入れぬよう顔を背けながら、極力抑えた声で『腹、減ってないから、あとで』と返す。
「おたべは後どすか?ほんならなににしまひょ。瓦煎餅なんてどうやろ。雷おこしはわて、あんまり好きやないけど、東京に来た以上はこれも食べなあかんやろなあと、勇気を出して買うて来ましたんえ」
なんだ!
なんなんだ、その渋いチョイスは!
ぐおーっと喉元を掻き毟りつつ、それでもシンタローはどうにか堪えた。
この校外学習の旅を終えた頃、自分はいよいよクラスに馴染み誰とでも親しく、楽しく付き合えるようになっているはずなのだ。はずなのに!
「シンタローはん?なんや、喉渇いたん?それならわての抹茶ミルク分けたげまひょ」
「余計渇くわっ!」
「なんやの、そないに大きい声だして。心配しなくてもわてはずーっと隣にいてるから。な?」
な、じゃない。
それが嫌なんだ!とはさすがに怒鳴れず、握った拳で自分の頭を叩くことでどうにか抑える。アラシヤマという人間と、自分を含めたほかの人類すべては違う時間を生きているのだ。そう思えば納得できる…ような気がする。
「なんやのこの子は。わてと一緒にいられるのが嬉しいのは分かるけど、そないな喜びの表現は危険やわ。はいはい、手ぇ下ろして。塩飴あげるから落ち着きなはれ」
「…し、しおあ………」
アラシヤマの宇宙は、広い。
都心を離れ南へと進むバスは、やがて窓を閉めていても潮の香りを感じるようになった。
目的地は高校保有の施設が所在するには珍しい、全国的に有名なマリーナに程近い高台にあった。数名の生徒は『ここには父のヨットが係留されている』と言っていたが、年間の管理費だけで郊外に家が建つという、シンタローからすれば愚行に近いような贅沢さだ。
この国にも特権階級というものが実在するということを初めて実感したものだが、その子供たちと机を並べている自分が言っても説得力はあまりない。
尤も、マジックが所有するのは高級車とはいえ自宅マンションの駐車場に並んでいる三台の車だけだから、彼らよりは慎ましい(?)暮らしをしていると思う。
…聞いたことがないけれど、恐らく、車しか持っていないはずだ。
「でも…どうだろう。あいつ、なーんか色々ありそうだし」
隠している訳ではないのだろうが、自分から話をしない限り聞き出すことをしないシンタローの性格とうまい具合に重なって互いに知らない未知の部分というものがまだまだ存在しているような気がする。
それがいいことなのか、もどかしいと訴えるべきなのか、よく分からないけれど。
「見て。見てシンタローはん。海やわぁ、綺麗やなぁ」
「べつに…それほど珍しくないだろ」
「わて、海を見るのはこれで二回目どす」
「えっ!なんで」
「京都に海はありまへんえ」
「そりゃそうだけど…」
子供なら水遊びや海水浴は好きなものだろう。そう言おうとして思い留まる。箱入りなのは分かっていたが、加えて彼の生まれた家は個人の自由という考え方とは程遠いところに有りそうだし、なにより休日に家族サービスが行えるほど暇な父親ではないだろう。
まあそれを言うなら自分だって、暢気に海水浴を楽しめる環境にはなかったけれど。
「あれは幼稚園のときどす。おーちゃんが遊びに行こうて海に連れて行ってくれたんやけど、わて、クラゲに刺されましてなぁ…」
フフ…フフフ…
と、顔の上半分に縦線が入ったような暗い表情で笑い出す。
「わてはショックで意識不明の重体になるし、おーちゃん、慌ててクラゲを手ぇで引っ張りはって、それで自分もブツブツのビリビリですわ。覚えてへんけど、わてが死んだら自分も死ぬ言うてお父はんが暴れるから、なんや偉い人まで集まって大騒ぎになったそうどす」
おーちゃん…アラシヤマは三人兄弟の末っ子で、長兄は“おーちゃん”、次兄は“ちーちゃん”と呼んでいるらしい。因みに家族は彼のことを“あーちゃん”と呼んでいる。
このおーちゃんというのがアラシヤマの話の中に時折出てくるのだが、大抵は弟可愛さ故とはいえなにかしら騒動を起こしている要注意人物らしい。シンタローにとってはマジックの行き過ぎた溺愛だけで手一杯なのに、彼はそれに等しい愛情を二人分背負って生きているのだ。その点では十分同情の余地はあるし、戦友のような気さえする。
「それ以来、海はあかんてお母はんが言わはるし、ちーちゃんには死にたくなかったらお父はんとおーちゃんには気をつけろ言われるし、散々やわ」
「まあな、それはなんとなく分かる。うん」
シンタローが台所に立つと、やれ手を切るのじゃないか、やれ火傷を負うのじゃないかとウロウロするマジックに、余計に気が散って危ないからと怒鳴ったことは一度や二度ではない。心配は分かるけれど、炊事には慣れている自分にとって横から手を出される方が危険なのだ。親の心子知らずと言うけれど、子の心もまた親知らずと言えるだろう。
「そやけど今度は大丈夫やわ。危ないことあったら、シンタローはんが身を挺して守ってくれはるし」
「えっなんでっ!どうして俺が身を挺することになってんのっ」
「それはぁ、シンタローはんがぁ、わてのことぉ~」
もじもじ。
「す、き、や、か、ら」
きゃっ言ってしもた。
――――…タローはん
……ンタローはん
…シンタローはんっ
「シンタローはん!」
「はっ!」
ガバッと身を起こす。
「あーびっくりした。シンタローはん、大丈夫どすか?」
「え、あれ?俺、どうかした?」
「いきなり気ぃ失いはったんどす。なんやろ、車酔いやろか。先生呼びまひょか」
「いい!いいから、平気だから!つかもう俺に構うな、頼むからっ」
「なに言うてはるの。どんなときでもわてらは一心同体、仲良しグループどすえ。なんの遠慮もいりまへん、さ、言うておくれやす。わてになにをして欲しいのか」
「なんも。なーんもありません!あーっ近付くな、それ以上こっちに寄るなーっ!」
相変わらず仲良しですねぇ、という声が聞こえる。担任教師のその言葉が、言霊となり自分を呪縛していくようなこの感覚は果たして錯覚といえるだろうか。
「シンタローはん、わてとシンタローはんの仲どす。遠慮はいりまへんえ」
「ぎゃっー!腕を取るな!目を潤ませるなーっ!」
「とんだシャイボーイどすなぁ。ほんま、かぁいらしこと」
殴ってしまいたい。
きっとここじゃない何処かにいる自分なら、思う存分、徹底的に殴りつけているに違いないのに。
逃げ場もなく、伸ばされる腕をどうにか躱しながらシンタローは我が身を呪う。
家ではマジック、学校ではアラシヤマ。無償の愛と呼ぶには激しすぎるこの求愛は、果たして幸せといえるのだろうか、それとも。
一人ぽっちはもう嫌だけど、こんな異常な境遇に甘んじるのもどうかと思う。
四日間を無事に乗り切る自信はなくなった。
これはなにかの天罰なのだろうかと思わず涙ぐむ切ないシンタローであった。
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