(ちょっと女性向け?)
久しぶりに見た空は曇っていた。
彼は仕事の合間の息抜きに、久しぶりに屋上に出て空を眺めた。青い空は懐かしい南国の島での出来事を彼に思い出させ、それは彼に寂寥と郷愁をもたらすのだが、今日のような曇った灰色の空はまったく別の事柄を喚起させた。いくら南国の島だからとは言え、晴れの日ばかりではなく、曇りの日も雨の日もあったはずだ。それでも彼の記憶に残っているのは目眩がするほどの青空で、晴天と島の記憶は彼の頭の中で直結していると言って良かった。
だからもし、今日彼が屋上に出て仰いだ空が青く晴れ渡っていたら、彼は懐かしむ視線でどこか遠くを眺め、少しばかりの感慨に浸り、あの暑い島へ後ろ髪を引かれる思いを味わいながらも、まっすぐ前を向いて静かに笑ったことだろう。
だが曇り空の下で彼は、何かが複雑に絡み合った、自らの内部を眺めて自嘲するような、見る人が見れば奇妙に思える笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐにかき消した。
彼は処分しようとポケットにねじ込んで忘れたままの、くしゃくしゃになった煙草を取り出した。封を開けて大分経った煙草は、すっかり湿気て、火をつけて一口吸うと寝ぼけたような味がする。
曇天と煙草で思い出すのは、忌々しいことに叔父のことだった。
そもそも彼が叔父を思い出したのは、特戦部隊が出て行った日が、今にも泣き出しそうな曇り空だったことに起因しているのかもしれない。喧嘩別れのようなものなのだから、当然見送ることはしなかったが、叔父の離脱に対して何がしかの感情の揺れがあったことは確かなようで、彼はその日はずっと窓の外を見ていた。
仕事が立て込んでいた時期だったので、窓の外を見ていたのが仕事中だったのか、それとも今のように休憩中だったのか、はたまた遠征に向かう艦の中からだったのか、わずか一ヶ月前のことなのにすでに記憶は定かではない。それでも降り出しそうで降らなかった陰鬱な空の色だけは妙に覚えていた。
網膜に映った降るとも降らないとも曖昧な色が、彼が名前を付けずに誤魔化したままで放置した感情と、重なる部分があったせいかもしれない。
「くそっ、晴れとけよ」
天気に八つ当たりしても虚しいだけで、彼は空を眺めるのを諦めて大人しく手元の煙草に集中した。
叔父が愛煙していたものと銘柄は違ったが、煙草独自の紙の焼ける匂いや渦巻く煙は、一人の男を鮮明に思い起こさせるのには十分で、その逆効果に苦笑が漏れる。
扱いに手を焼いていた特戦部隊が離脱したからといって、組織として特に困ったことはなく、元からそんな部隊は無かったかのように日々はただ過ぎていく。団員達の間で口の端に上ることあったが、それとて特にどうと言うことのない根拠のない噂ばかりで、気にかけるほどの物ではなかった。
今ごろ自棄酒でも飲んでいるであろう叔父対する彼の感情は、結局宙に浮いたままで、今になっても解答は出てこない。
答えを出すことはとうの昔に諦めたはずだったのに、今ごろになって気になるのは、曇り空と煙草のせいだと彼は自らに言い分けする。休憩に屋上へ向かったのも、煙草を取り出したのも、どちらも自業自得な面がある辺り、言い訳しても仕方ないとは分かっていたが、認めるようとしないのは、叔父との関係においての対処法かもしれなかった。
「禁煙すっかなー」
どうせたまにしか吸ってなかったし、と呟いて残る本数を数えて彼は煙草をポケットに戻し、代わりに携帯用灰皿を取り出した。白い灰は軽々と落ちていき、むき出しになった穂先は赤々と燃えていた。ふっと頭を掠めた記憶を、掘り起こすことなくどうにかやり過ごし、彼は半分ほどの長さになった煙草を口に咥える。
彼と叔父の関係は、叔父と甥と言う親戚関係における親愛や情愛などの、そんな感情ではなかったことは確かだった。そして好きや嫌いといった、単純に二分出来るようなものでもない。
既存の言葉のどれを選んでも違和感は残り、それゆえにお互いに中途半端な関係を望んだ。結局仕事面での意見の食い違いの末に、それは終結したが、結末を迎えてもなお残るはっきりしない感情に、逆らう術はないのかもしれない。
「いてもいなくても厄介なオッサンだぜ、ほんと」
酒の飲みすぎてくたばっちまえ、といない叔父に悪態をつく。憎まれ口に本音を隠し、プライベートでは仕事の話を出さないのが二人の暗黙の了解になっていたが、それが不透明な関係に拍車をかけていたのだろう。
仕事のことで言い争いをしたその夜に、お互いに酒を酌み交わしていた時さえあり、いがみ合っていたのが本当だったのか、気安く酒を飲んでいたのが本当だったのか、思い起こせば混乱を招く。
感情ばかりか行動までも矛盾しており、どうにも身動きがとれなくなっての、離脱だったのかもしれない。そう考えた彼は、煙草の火を灰皿に押し付けて、その可能性を打ち消した。
「あー、くそっ」
まとまらない考えも、心に澱む感情も、全てはこの天気のせいにして、彼は二本目の煙草を取り出す。どれだけ誤魔化そうと、どれだけ気付かない振りをしても、叔父一人分の空白は彼の内部に確かに存在していた。
(2006.11.8)
(2007.6.22)再up
戻る
久しぶりに見た空は曇っていた。
彼は仕事の合間の息抜きに、久しぶりに屋上に出て空を眺めた。青い空は懐かしい南国の島での出来事を彼に思い出させ、それは彼に寂寥と郷愁をもたらすのだが、今日のような曇った灰色の空はまったく別の事柄を喚起させた。いくら南国の島だからとは言え、晴れの日ばかりではなく、曇りの日も雨の日もあったはずだ。それでも彼の記憶に残っているのは目眩がするほどの青空で、晴天と島の記憶は彼の頭の中で直結していると言って良かった。
だからもし、今日彼が屋上に出て仰いだ空が青く晴れ渡っていたら、彼は懐かしむ視線でどこか遠くを眺め、少しばかりの感慨に浸り、あの暑い島へ後ろ髪を引かれる思いを味わいながらも、まっすぐ前を向いて静かに笑ったことだろう。
だが曇り空の下で彼は、何かが複雑に絡み合った、自らの内部を眺めて自嘲するような、見る人が見れば奇妙に思える笑みを一瞬だけ浮かべ、すぐにかき消した。
彼は処分しようとポケットにねじ込んで忘れたままの、くしゃくしゃになった煙草を取り出した。封を開けて大分経った煙草は、すっかり湿気て、火をつけて一口吸うと寝ぼけたような味がする。
曇天と煙草で思い出すのは、忌々しいことに叔父のことだった。
そもそも彼が叔父を思い出したのは、特戦部隊が出て行った日が、今にも泣き出しそうな曇り空だったことに起因しているのかもしれない。喧嘩別れのようなものなのだから、当然見送ることはしなかったが、叔父の離脱に対して何がしかの感情の揺れがあったことは確かなようで、彼はその日はずっと窓の外を見ていた。
仕事が立て込んでいた時期だったので、窓の外を見ていたのが仕事中だったのか、それとも今のように休憩中だったのか、はたまた遠征に向かう艦の中からだったのか、わずか一ヶ月前のことなのにすでに記憶は定かではない。それでも降り出しそうで降らなかった陰鬱な空の色だけは妙に覚えていた。
網膜に映った降るとも降らないとも曖昧な色が、彼が名前を付けずに誤魔化したままで放置した感情と、重なる部分があったせいかもしれない。
「くそっ、晴れとけよ」
天気に八つ当たりしても虚しいだけで、彼は空を眺めるのを諦めて大人しく手元の煙草に集中した。
叔父が愛煙していたものと銘柄は違ったが、煙草独自の紙の焼ける匂いや渦巻く煙は、一人の男を鮮明に思い起こさせるのには十分で、その逆効果に苦笑が漏れる。
扱いに手を焼いていた特戦部隊が離脱したからといって、組織として特に困ったことはなく、元からそんな部隊は無かったかのように日々はただ過ぎていく。団員達の間で口の端に上ることあったが、それとて特にどうと言うことのない根拠のない噂ばかりで、気にかけるほどの物ではなかった。
今ごろ自棄酒でも飲んでいるであろう叔父対する彼の感情は、結局宙に浮いたままで、今になっても解答は出てこない。
答えを出すことはとうの昔に諦めたはずだったのに、今ごろになって気になるのは、曇り空と煙草のせいだと彼は自らに言い分けする。休憩に屋上へ向かったのも、煙草を取り出したのも、どちらも自業自得な面がある辺り、言い訳しても仕方ないとは分かっていたが、認めるようとしないのは、叔父との関係においての対処法かもしれなかった。
「禁煙すっかなー」
どうせたまにしか吸ってなかったし、と呟いて残る本数を数えて彼は煙草をポケットに戻し、代わりに携帯用灰皿を取り出した。白い灰は軽々と落ちていき、むき出しになった穂先は赤々と燃えていた。ふっと頭を掠めた記憶を、掘り起こすことなくどうにかやり過ごし、彼は半分ほどの長さになった煙草を口に咥える。
彼と叔父の関係は、叔父と甥と言う親戚関係における親愛や情愛などの、そんな感情ではなかったことは確かだった。そして好きや嫌いといった、単純に二分出来るようなものでもない。
既存の言葉のどれを選んでも違和感は残り、それゆえにお互いに中途半端な関係を望んだ。結局仕事面での意見の食い違いの末に、それは終結したが、結末を迎えてもなお残るはっきりしない感情に、逆らう術はないのかもしれない。
「いてもいなくても厄介なオッサンだぜ、ほんと」
酒の飲みすぎてくたばっちまえ、といない叔父に悪態をつく。憎まれ口に本音を隠し、プライベートでは仕事の話を出さないのが二人の暗黙の了解になっていたが、それが不透明な関係に拍車をかけていたのだろう。
仕事のことで言い争いをしたその夜に、お互いに酒を酌み交わしていた時さえあり、いがみ合っていたのが本当だったのか、気安く酒を飲んでいたのが本当だったのか、思い起こせば混乱を招く。
感情ばかりか行動までも矛盾しており、どうにも身動きがとれなくなっての、離脱だったのかもしれない。そう考えた彼は、煙草の火を灰皿に押し付けて、その可能性を打ち消した。
「あー、くそっ」
まとまらない考えも、心に澱む感情も、全てはこの天気のせいにして、彼は二本目の煙草を取り出す。どれだけ誤魔化そうと、どれだけ気付かない振りをしても、叔父一人分の空白は彼の内部に確かに存在していた。
(2006.11.8)
(2007.6.22)再up
戻る
PR