手を伸ばせば、もしかしたらその身体に触れる事が出来るかもしれない。
それだけの距離。
足を一歩踏み出せば、もしかしたらその身体を感じられるかもしれない。
それだけの空間。
それなのに何故?
――――ここで立ち止まる自分がいるのだろう。
「どうした?」
余裕綽々といった風体で、言われるのが気に食わなかった。明らかに、今の状況を楽しんでますといわんばかりに、軽く細められた眼がむかついて堪らない。
それがそっくりそのまま表情まで出てしまい、むぅとふくれっ面になる自分がいるのがわかる。
けれど、嫌ならば、そこから去ってしまえばよかった。そうすれば、少なくても、気に食わない相手の顔を見ずにすむ。
それなのに、どうして出来ないのだろうか。
理由?
もちろん、自分の中で答えは出ている。それが分かるから、余計腹立たしいのだ。
「……どうもしねぇよ」
仕方がないから視線を逸らしてみても、その視界の端に、くくっと喉を鳴らしてこちらの反応を楽しむ相手の姿見えてしまう。
本当に、その顔面に眼魔砲のひとつでもくれてやりたい。
そう思った瞬間、反射的のように手の平に、覚えのある高濃度の熱が凝縮された。けれど、それを相手に放とうとする合間に、躊躇いが生じて霧散してしまう。さっきからこの繰り返し。馬鹿馬鹿しいったらありゃしない。
「約束しただろ? シンタロー総帥」
わざとらしく役職名を出してくれる。いけ好かないが、けれど言われていることは、正しくて、
「ああ、そうだな」
頷かなければいけない。不本意ながらも、それは間違いなかった。
『約束』
それが今、彼と自分とに、この距離を作っているのだ。
約束の元になったのは、『総帥』としての仕事からである。
ガンマ団が、依頼を受けていた仕事は、少々困難を極めるもので、より強い戦力が必要だった。だから、命じたのだ。特戦部隊に―――この戦乱をこれ以上長引かせることなく終わらせてくれ、と。
けれど、送り出すにも不安があった。常に彼らは破壊し過ぎたのである。それは、今のガンマ団の理念から大きく外れることで、それだけは止めたくて、とっさに約束してしまった。
『もしも、敵方を半殺しで留めることが出来たら、俺からキスしてやってもいいぜ? ハーレム』
それは、ちょっとした冗談のつもりでもあったのだ。こちらの命令を渋る相手に苛立って、半ばやけっぱちも含んで、そう言ったのである。
てっきり『何ふざけたことを言ってやがる』などといって、そのまま流されると思ったのだが、相手は逡巡もなく『わかった。お前の命令を聞いてやる。だから、俺が帰ってきたらてめぇからキスしろよ、シンタロー』と言い放ってくれたのだ。
男に二言は無い。
今更取りやめにもできずに、OKを出した。
そうして相手は、その言葉どおり実行してくれたのだった。見事なまでに、短期間のうちに、長く続いていた戦乱に終止符を打ってくれた。しかも半殺しでとめて、である。
それならば、今度はこちらが約束を守る番だ。
ハーレムへ、自分からキスをする。
たったそれだけ――それぐらい、たいしたことはないと思っていた。これまた不本意ながらも――それは単なる照れ隠しでの意味だが――目の前の相手とは、何度もそういうことをした間柄である。けれど、こんな状況は、初めてだった。
(…畜生ッ! 何やってんだよ、俺は。いつもは、こんなんじゃねぇだろッ)
自分からのキスだって初めてではない。初めてではないが、その少ない状況は、常に相手からの挑発に乗ったり、思考能力の乏しい状況下――ぶっちゃけ愛の営み中――だったりするもので、こんな風に素面の状況で、相手がただ黙って待っているという状況は、初めてだった。
ドクドクと煩いぐらい心臓が音を立てている。必死で隠しているが、身体は震えそうである。
怖がることではない。
怯えるところではない。
相手と微妙な距離をあけたまま硬直状態の自分に、片眉を持ち上げ不服そうにハーレムは口を開いた。
「そんなに俺にするのが嫌か?」
「なんでッ!」
どうして、そういう思考になるのだろうか。
間髪いれずに否定すれば、相手は驚いたような表情をしたが、すぐに満足げに頷いてくれた。こっちは、言ってしまった取り返しのつかない言葉に、赤くなった頬を隠すために、俯くしかない。もちろん、足はまだ動かなかった。
(……嫌なわけじゃないんだ)
イヤならば、とっくにこの場から逃げ出しているだろう。恥ずかしすぎて落ち着かないけれど、足が後方に下がることは決してない。
けれど、やはり………視線を上向ければ、ばっちりと重なり合う視線。こちらを真っ直ぐと見つめる瞳は、自分を欲しているのがまざまざと分かるから、羞恥が先にこみ上げる。さすがにこの状況で、これ以上相手に近づいて、というのは無理だった。
だから、最後の手段とばかりに言い放つ。
「目を瞑れッ! ハーレム」
「そんなことしたら、てめぇの顔が見れねぇだろうが」
すぐさまブーイングが来たが、聞く耳はもたなかった。
「いいから、瞑れッ!」
怒鳴るように言えば、少しばかり残念そうな表情を浮かばせながらも承諾してくれた。
「へーいへいへい」
そう言うと、すっと青い瞳が閉じられる。あの自分を見据える瞳が隠れただけだが、それでも、ようやく息苦しさも少しだけ弱まってくれた。
これで、前に進めそうである。
前に―――。
ただ、それだけなのだが。
(くッ……前線にいた時でさえ、前に進むのなんかこれほど怖くはなかったぞ)
先ほどから収まらなかった強い鼓動がさらに早さを増していた。意識すればするほど、それは早くなる。 けれど、それは嫌な早さではなかった。ただ、高揚感がまし、一歩踏み出しているはずなのに、空中に足を乗せたような、浮遊感がある。それでも、相手の距離をようやく縮めて、見上げる状態で、相手の顔を覗く。
しっかりと閉じられた瞳、こちらは思い切りドキドキしているのに、貰うのが当然とばかりの表情でそこにいるのがやっぱりムカついてしまう。
その頬を引っ張って見たい欲求に駆られたが、そこは我慢して、相手に手を伸ばした。
伸び上がらなければ届かぬ相手である。つま先立ちになるのに、バランスを取るためその肩に触れ、その胸に触れたとたん、先ほどの自分の苛立ちが誤解であることが分かった。
(……なんだよ)
せっかく収まった羞恥心がぶり返してしまう。こちらと同じぐらい早い鼓動。触れたとたん緊張感が伝わってくる。
たかがキス。
お互い何度も交わしたことがあるのに、なぜ、この一回がそんなにも胸ときめかすものになるのだろう。
理由も分からぬままに、とうとうその唇に触れた。
感じ慣れた、その厚みと形と質感。乾燥した地域にしばらくいたせいだろうか、少しばかり唇が荒れていて、ざらつき感がある。
触れるだけの口付け。
それだけなのに、どこか新鮮に感じるのは、それが酷く久しぶりだからで――。
(そっか……なんだかんだいって、一ヶ月ぶりなんだ)
そう思ったら、バランスを取るために肩においていた手が伸びていた。その手が、ハーレムの首の後ろへと回される。そうしてその身体をさらに自分の方へ引き寄せるようにして、もう一度、その唇を味わうように近づける。
けれど、触れるギリギリで留まり、
「待たせたな」
一言そう呟けば、パチリと開く青い瞳。間近にあった青玉の眼が、柔らかく緩むように笑んだ。
「待ち焦がれてたぜ」
こちらが赤面するほど正直な感想。
でも、それは、きっと自分も同じことだ。本当は、こちらこそが待ち望んでいたのである。彼の唇に触れることを。
それは、触れた瞬間気がついた。
だからといって正直に告げはしない。自分がこの唇を欲していたなんて、絶対にだ。
告げれば、付け上がるに決まっている。
何よりも―――あの距離を躊躇う自分が必要だから。
一歩の距離。
それが自分を保つために空間であり、境界線。
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