09:臆病イカロス
「おい」
「・・・・・」
「・・・・鼓膜でも破れたか、クソ餓鬼」
「んなワケねーだろ。獅子舞」
小さい湖の傍らで、木の根に寄りかかるようにしていた黒い頭がこちらも見ずに声を返す。
ざわざわと風が木々を嬲り、さほど距離のない野営地の声を掻き消していた。
熱帯に近い気候のためもあり、夜だというのに空気が粘つくように重い。
「どうだったよ、初の激戦区は」
「・・・・・寄るんじゃねぇよ、酒クセェ」
近寄り、傍らに腰を下ろす。人工の明かりのない中でも甥っ子のひどく汚れた横顔が見えた。
眉間に皺を寄せながらも動こうとはせず、草臥れた戦闘服の裾を強く握り締めながら苦しげに表情を歪めるばかりだ。
「酒の楽しみも知らねぇガキが云うじゃねーか」
「さっさと肝臓やられちまえ」
「へ、そんなヤワに出来ちゃいねぇっつーの」
「・・・・・・」
「で、どうなんだ」
金属製の水筒を取り出し、喉を潤す。
度数の高いアルコールはすぐに熱を発していく。
戦場の熱も入り組んで、どちらに酩酊しているのかを曖昧にするかのように。
「初めて人を殺した感想はどうだ?」
びくり、と隣で肩が大きく動いた。
強張りの解けない身体とカタカタと小刻みに震えている指先。
過ぎた興奮と恐怖が綯い混ぜとなったのか、悲愴なほど青褪めている。
既に訓練で血を流すことも、流させることも学んでいた筈。
けれど、相手の息の根を止めるという生々しさの前にはそんなもの無意味だ。
殺し殺される―――――死は、五感そのものを貫く。
たとえ遠距離から狙撃しても、慄かざるを得ない。
まして浴びるほどの至近距離から相手の喉を掻き切れば、より一層に。
血を洗い流しにいくと野営地から離れて随分と経っていた。
案の定、様子を見に来れば未だ手すらも血塗れのままの放心状態だ。
現実逃避など当の昔に捨て去った自分からすれば、やはり子供なのだと強く実感する。
弟は確かに強くなる術を授けたのかもしれない。
しかし、身体が如何に強靭になろうとも実戦の重みは大きく圧し掛かる。
戦線に出ない限り、このクソ忌々しいほどの重圧をどうして教えられようか。
「団にいる限り、兄貴の下にいるってことはそういうことだ」
「甘っちょろい授業だとはいえ、お前が教えられてきたのは人を殺す術だ」
「何夢見てやがった、お前がなりたかったのは人殺しなんだぜ?」
弟の不手際を拭う思いで、ぐい、と顎を掴んでこちらを向かせる。
血糊の散った顔に浮かぶ空ろな視線が疎ましい。殴り飛ばしてくれと声高に主張する表情だ。
叱咤激昂し、上官に従って私情を捨てろと突きつけて貰いたがっていた。
そうしてしまった方がこれからの作戦でこいつを有用に動かせるのは確実だ。
けれど、出もしない答えなんてテメェで出せばいいと思ってしまう。
どう足掻こうとも朝は来て、作戦は決行されるのだと解りきっている。
だからその僅かな時間にどんな結論を下すのか、興味が湧いたのも確かだ。
興味以上に”これから”も必然的に戦場へ向かうことになる甥の決断が見たかった。
これが甥への甘さなのか、それとも俺自身の逃げなのかなんて知らない。
「もうガキじゃねーんだ、自分の立ち位置くらい見極めろ」
一瞬だけ力を込めて、苦痛に歪められた表情に満足して手を離す。
だらりとさらに虚脱したシンタローは食って掛かることすらせず、こちらを伺いもしない。
情けねぇザマ曝しやがって。
人を殺すことが重い?辛い?
んなコトいってたらテメェが死んじまうのがオチだ。
躊躇して腕を失った男を知っている。敵兵に自分の妻の面影を重ねて動けず、死んだ男もいた。
殺さなきゃ殺される状況下で、確実に生きて帰る術などどこにもなかった。
戦闘能力だけでどうにかなるものではなく、運も私情もすべて飲み込んだ戦場という化け物の腹の中で
いつだってどうにか生き残るのがやっとだった。
幾ら割り切ろうと嘔吐しそうになる上、傷み切った心を押し殺さずにはいられない地獄だ。
俺がそうまでして此処にいるのは家業だから、だなんてつまんねぇ理由じゃねぇ。
マジック兄貴が世界の頂点に立つんなら、その足場を固めてやろうと思ったに過ぎない。
あの男の飛びぬけた強さならば届きようのない高みにも辿り着ける筈だと、期待にも似た高揚が沸いた。
年を重ねるごとに益々人外じみた力をまざまざを見せ付けられ、その都度湧き上がる愉悦にも似たそれは留まることを知らない。
じゃなきゃ、耐え切れるわけがねぇって話でもある。
暴れるのは好きだが嬲り殺すのは趣味じゃねぇし。
今更甘っちょろいとは思わなくもないが、そこは変わりようがない。
最後の一滴が舌に滴り落ちた。物足りなさを誤魔化すように耽っていた回想を振り払い、目線だけで隣を見やる。
こんなに間近な距離でも青味がかった闇に溶ける黒が陰鬱さを際立たせる。
こびり付いた血色も紛れて見えないほどの、暗色。
団員にはさまざまな国籍や人種がいる。今更、色素がどうのこうのという馬鹿はいない。
戦場に立てばどれもこれも、のべつくまなしに使われるだけの代物だ。
ただし、そこに一族が絡めば話は別のものとなる。
特異な能力と色素が常に一体であったが故に。
青の色合いを持ち合わせなかった甥っ子は、いつだって一族の中で異質だった。
面と向かってそれを口にした奴は粛清されてしまったが、それでも耳に入っていく言葉はある。
誰も認めないから、自分さえも相応しくないと感じるから万人に認められようと
強さに拘りを見せていることはよく知っている。でなきゃ、あの性格極悪のサービスの扱きに耐え切れる訳がない。
強くなることだけを求めて、強くなるまでは何の問題もなかっただろうに。
けれど奴は、強さを示す場がどこであり、何のための強さであるのかという結果に今更気づいて動揺をする。
団で強くなる、ということは誰よりも屍の山を築き上げることでしかないのに、だ。
相手は敵なのだから、と殺したことを誉めてやることは出来る。
簡単に通じる言葉だからこそ相手に受け入れられるのだ。
罪悪感を薄めて動揺をこそげ落とすだめに、「自分は間違っていない」のだと思い込ませて。
任務遂行に支障がない一番容易い方法だ。部隊の指揮を務める以上それが最善だと分かっている。
けれども、汚してしまった手に変わりはない。
殺したのはお前で、そう仕向けたのがその父親であることに変わりはないんだ。
大体、生きていくために人を殺さなくちゃなんないなんて現実、放棄したって俺は責めやしねぇさ。
そのときには進む道そのものを放棄するも同然だが、そんなの自分の問題だ。
人を殺すのが絶対こいつじゃなきゃいけない、だなんてことねぇし。
団に必要なのは使いやすい手駒で、誰が殺そうが誰が殺されようがどうでもいいんだ。
結局、結果がきれいに収まりさえすれば文句はない筈で。
実際のところ、こいつが団を抜けたってその代わりなんぞ掃いて捨てるほどいる。
一人の兵士の戦力が抜けたからといって、組織が瓦解するようなものではない。
それなのに兄貴は、敢えてこいつに血に染まる前線を選択させた。
それもこれも、全部こいつが総帥という重責を負うための布石だ。
総帥だけではない。青という象徴を負うために、生臭い血溜まりに身を沈めさせた。
一旦手を浸せば拭い去れないだけの柵(しがらみ)でもって悉く逃げ道を奪う。
青の色合いを、秘石眼を持たないが故に背負わずに済んだ業の代りとばかりに。
そうやって、自分の手元から逃げ出さないよう道を狭めていく手腕が恐ろしくも思えるくらいだ。
(自分を超える者になるだろうと期待しながら、あくまで掌で転がそうとする矛盾など目に入らずにいたが)
人を殺す、というその動作は余りに容易だ。
相手が無抵抗であればそれこそ呆気なさに唖然とせざるを得ないくらいに。
大それたことだと思っていたことが今自らの手で行なわれてしまった恐怖。
そして戦慄くように震えるのだ、罪悪感に悲鳴を上げながら。
自分が飯を食うために、誰かを撫でるためにあった手が。
誰かを慈しんで育んでいた手が、肉や神経の中に沈む感触を知る。
(爪に食い込んだ肉片にぞくりと悪寒を走らせてしまうほどだった)
相手を肉塊にする殺戮の生々しさは中々拭い去れない。
拭い去れないから、もう後戻りはできないことに気づく。
踏み入れてしまった瞬間から後は深みに嵌るばかりだ。
慣れてしまえば廃人にすらなっていない自分が今此処にいるのだから
なんともしぶといものだ、と内心でせせら笑う。
「・・・・る」
「あ?」
木々のざわめきにすら負けるような声量で、呟きが漏れた。
空ろに近い眼光がやや力を取り戻し始め、伸びた前髪の切れ間から睨まれる。
「・・・・俺はやれる。やれなきゃ、なんねーんだよ・・・・じゃなきゃ、何の為に」
「くだらねぇ意地張ったって続かねぇぞ」
「意地じゃねぇ!俺が、俺が自分で選んだんだ・・・・っ!!もうやっちまったことなんだよっ!!」
「なら震えてんじゃねぇよ、立て。集合は明朝五時だ」
「・・・・・・っ!」
その時刻に敵対する誰かを殺しにいくということだ。
それ以外の意味は存在しないから、こいつは唇を噛み締めて耐えるように苦悶する。
まだ一度きりの殺人に気圧されて戦意喪失などさせてたまるか。
少なくとも今この戦火では。
幾ばくか吐き捨てる思いで、苦々しく内心で呟く。
決断を預けたのは、自分の決意を裏切れないシンタローの性格を見切っていたからだ。
本当は、どの道を取ろうと今このときに戦意の失せた部下を連れていくことは出来ないのが現実。
たとえ何をどう思おうが、受けた以上は、この任務を遂行して成功させる義務がある。
そして義務を大義名分にして皆殺し、焦土を作り上げていかなければならない。
クソみたいな理由で殺そうと、高尚な理由があろうとやることに変わりはねぇのに
誰もがそれに縋ってひたすら無神経になろうと必死になる。
必死になることでしか自分を誤魔化せないのだと知っていて気づかない振りをする。
誰も彼も死にたくなどないのだ。
「それまでに立ち直っておけ。じゃなきゃ死ぬぞ」
「・・・・・死なねぇよ」
「終わるまで、生き残ることだけ考えとけ。お前に死なれると兄貴が煩ぇし」
素人同然の新兵に、自立して動けるだけの判断は期待出来はしない。
余計なことなど考えさせずに、こちらの思惑通り動かすことでこそリスクが少ないのだ。
幸い、勝ち急ぐほど馬鹿ではない。ならば見合った位置に放り込んでおくだけだ。
一度の決断に縛られて、迷えなくなったシンタローに僅かな哀れみを感じながらも敢えてそれは黙殺した。
今こうして苦悩してしまおうと、強さを得ようと積み重ねたものが無駄だとは云わねぇ。
そこから得たものは確実にお前をつくっていたし、それ以外の手段はないのだと信じきっていた必死さに声のかけようもなかった。
それでも、こうなる前に。こうしてお前が人を殺す前に。
強くなる以外にもお前が疎外感に苛まれずに済む道は確かにあった筈だ。
それに気づかせないようにとマジックの手の内で育った責任の、何分の一かは俺にもなくはない。
俺はどう足掻いてもマジック兄貴を裏切れない。
だからたとえ、お前に逃げ道を指し示すことは出来ても
その手を引き摺ってそこに投げ入れてしまうことは出来ないんだ。
最早、選ばざるを得なかった道は躊躇すれば死ぬだけの、それだけのシンプルさで出来ている。
だから、せめてそこで生き延びるだけの術を。
これまでの積み重ねが有意義なものとなるだけの、そうした世界に放り込んでやることしか出来ない。
それすらも兄貴の思惑の内であろうとも。
けれど、お前はまだ分かっていない。
生きて帰ることを願う心で、この惨状に耐え切ることは出来たとしても
家に帰り着き最愛の弟に触れる際に、躊躇を憶えずに抱き上げることが出来るのか、と。
それをも見込んで送りこんできたのなら
あまりにも趣味が悪いことだ、と真っ黒な空を仰いだ。
end
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