33:見えない世界、見える表情、消える言葉
憎しみの沈殿したこの世の、なんと美しいことか
「診せなさい」
いつものように待ち合わせ場所として使われた医務室。
グンマ様が来られてからの一時を茶会で消費するのが通例だった。
「レポートの質問があって遅れる」との連絡に、既に来ていた彼は準備だけでも済ませようと道具を漁り始める。
けれどもお茶を入れようと屈めた際、その不調に気づけない私ではない。
ポットを背後から取上げて掛けた硬い声に、不機嫌そうに彼の眉がみるみる寄っていった。
ばれないとでも思われていたとしたら随分見縊られたものだ。
表向きにしたって彼方の体調を気に掛けないほどの冷血ではないというのに、これでも。
肩を上から押さえ込んで、患者用の丸椅子に腰掛けさせる。
自分も向かい合う体勢に持っていったところで、目線で促す。
これでも駄目なら、と白衣に仕込んだ注射器を持ち出そうとしたところで観念したらしい。
渋々と捲り上げられた制服の下には拳大の暗赤色が幾班か浮き上がっていた。
「……ドクター。云っとくけど、別に」
「そうですね、リンチにしては数が少ない。模擬戦かなにかでしょ?」
なんでさっさと此処に来ないんですか、と幾らかの非難を交えて打撲傷に触れた。
熱をまだ持っているのだから冷やしておくくらいすればいいものを。
「シンタローさん。彼方ねぇ、もし内臓に後遺症でも残ってたらどうするんですか」
「大したことねーと思ったし」
「それを決めるのは私です。体痛めつければ強くなるなんてマゾ的に泥臭い根性論は止めときなさい」
「だけど」
「そんなに強くなりたきゃまず身体を育てなさい。彼方まだ成長期でしょ」
非科学的な手法に頼るなど嘆かわしい、と肩を竦める動作をすれば、彼は不貞腐れた仕草で口を尖らせた。
よく似た面差しだった友人にも、あの方にも見られなかった幼さに少しだけ嬉笑する。
頭脳よりも肉体の酷使を望む性格は、環境のせいかもしれない。
類似点がなさ過ぎる、などと嘆く可愛げは自分にはなかった。なにしろ分娩してすぐに取り替えたのだ。
彼が、彼の方の血を受け継ぐことに疑いを差し挟む余地などないに等しい。
空恐ろしいほど大胆な発想や、何もかも見通すだけの思慮が彼から見られなくても自分は落胆しない。
あの方が愛したであろう御子として見ることは出来ても、唯一無二なあの方と同一視しようなどとは思わないからだ。
湿布を強打したであろう腹に貼り付け、内服の消炎鎮痛薬を数回分包む。
カルテを書き込む合間に、彼が言葉を発した。
「ドクターぐれぇだよな」
「なにがです」
「俺に遠慮なく命令口調で物云える外の人間」
「……彼方の立場じゃそれが当然でしょう」
彼に厭われるだけでも文字通り首が飛ぶ。否、煤にしかならないのではとさえ思わさせる。
そうした噂がまことしやかに囁かれ、根付いた。そうしてその噂は限りなく本当に近い。
実際のところ、彼に対して害意さえあれば排除に足りるのだからより恐ろしい。
「士官学校すら出てねぇ俺にどんな立場があるっつーんだよ、クソ」
「嘆いたって生まれについてまわるものを易々と捨てられるわけじゃないでしょ」
「あぁ、そーかよ」
そもそも捨てる気など微塵もない癖に。
結局あの男の所業を許してしまうのだ、彼は。
あの男を超えるべき壁として見据えて、死に物狂いで追いつこうとする。
その過程に疑問など持たず、そうすることが当たり前になってしまった境遇に私が痛苦な思いを抱いているのを彼は知らない。
幾ら年を経ようとも彼の世界の中心は此処にしかないのだと知ったとき、自らを呪わずにいられなかった。
総帥の狂態に潜んだ度を越した執着が、笑い事では済まないと知り背筋が凍りつき
挙句に悪態をつき足蹴にしながらも無下には出来ない彼の精神の有様に、狼狽せざるを得なかった。
望んでいたのは彼方の幸せだった。堅牢な束縛の手に絡め取られるなど、あってはならない。
あってはならない筈だった、なのに。
秘石眼でない彼方ですらも何故あの男に従い、囚われるのか。
道徳の範疇にすら身を置かなかった彼の方でさえ、最終的なボーダーはあの男の言葉であった。
歯止めならばそれらしく止めればいいものを。
相手の足の建を折らずとも、腕を砕かずとも止められる筈の男が制止しなかったのだ。
重んじられた意志は、命よりも重いとでも云いたいのだろうか。
貫かれた意志の末に遺体を弔うことも敵わなかったというのに。
あまりに現実味も生々しさもまるで足りない結末。
思えばあの方は硬質な面持ちでありながらも、特別な別れなどなにひとつくれなかったではないか。
高貴と気品とを備え、大胆な発想を生み出したあの方がグズグズに腐敗した肉塊になっていくさまでも
見ることが出来たなら落胆するくらいは出来たのかもしれないというのに。
日常と戦場とを繋ぐライン上にいながら、拒止しなかったのだ。
常日頃の公私混同ぶりを棚に上げ、総帥の責務だという顔をしていた。
あの男が平然と生きていることが許せない。
否、許す以前に絶対にあってはならないと理性の下で激しく突き上げるものがあった。
誰かを憎悪するという無為で非生産的な行いの原理を、私はあのとき身をもって理解してしまった。
「立場なんてね、利用してやるくらいの気概がなくてどうすんですか」
湧き上がる激情をやり過ごして、平静な態度で口は回る。
まったく年など取るものではない。吐き出せない重みばかりが内に積もっていくばかりだ。
この腹を切り裂けばおぞましいほどの黒さが滲み出すのではないかと錯覚したくもなる。
「品行方正が一番いい、だなんて私は云いませんよ。団には正義なんて題目ありゃしないんですから」
「それが将来有望な団員志望の青年に云う言葉か?」
「軍隊で夢見られても困るでしょ。私は此処に悩み相談に来るような輩は容赦なく切り捨てますよ」
「あんたらしいな、ドクター」
笑う彼は、私にとって救いだった。
庇護下に入ることで私の無為な生に新たな喜びを与えてくれたのとは異なる救い。
総帥の異常ともいえる執着に、必要以上には折れまいとする強い姿が嬉しかったのだ。
彼が、あの方の御子が、あの男の思い通りに動く木偶になるのだけは見たくなかったから。
そうして復讐に憑かれて、それに気づいたのはいつからだったろう。
他の誰でもない、ただひとりだけが許されているものがあるのだと。
未だ人を共に生きるものとしか思えない彼に「それを殺せ」と手を汚させることを。
あの男を超えることを至上とする彼にとって、総帥が父などということは悪夢に等しい。
何かを救うためではなく、大義を成すためのものではない。
総帥が望む形のための一端に過ぎない、ちっぽけな理由で殺さなくてはならない。
理由の大小は意味を成さない。けれど罪悪感を薄めるために欲する殺害理由も、言及を許されない。
父でないのならば、ただの総帥であったならば、彼には逃れることが出来た事態なのだと理解し、思わず青褪めた。
少なくとも選択肢は与えられる筈だ。現にグンマ様は研究者への道を選ばれ、戦線に生身で出ることはまず有りえない。
つまり、彼がその位置にあることが本来の形だったということ。
殺人のタブーは、社会維持のために生まれた必然のマインドコントロールといってもよい。
それを打ち砕くのに相当の訓練と服従を強いても、なお壊れる兵士は後を絶たない。
今更道徳を説く気でも、壊れる者が惜しいわけでもない。
ただ、彼の方の御子である彼はそうなるのが耐えられないのだという、純粋な私情だ。
彼自身を壊すかもしれないトリガーを、彼自らあの非道な男に差し出すのだ。
それはなんと熱烈ではないか、と自嘲したくもなる。
「……ター、寝ぼけてんのか」
ひらひらと目の前で振られる手。
硬化した皮膚は、それだけの訓練を課したことの表れ。
彼方のなにもかもが真っ直ぐにあの男へと向けられている如実な証拠。
「生憎と起きてますよ」
「だったら会話の最中に焦点ボケさせるなよ、怖ぇじゃねーか」
「今思いついた新薬の実験体になりたいですか」
「そーゆーのは俺以外に適役がいんだろ、根暗とかな」
「確かに」
もし彼が壊れれば、私はもう復讐の糸口すら見つけ出せずに立ち尽くすしかないのだ。
何よりも傷つけてはならないものを、壊してはならないものを砕いた最悪な罪と罰とで。
復讐の手管は自らをも飲み込もうと口を広げていたということか。
自分の首を締め上げる縄がゆらゆらと吊り下がり、獲物を待っているさまが脳裏を過ぎる。
私はそれを確信しながら、信じてもいないものに密かに祈った。
裁かれるべき罪にではなく、彼が望む道に幸いがあることを。
end
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