29:布団を手繰って枕に頬を押し付けて、考える。
明日が来るのかではなく、未来は輝いているのかと。
「もう休め」
「・・・時間が勿体ねぇだろ」
「お前そういって昨日も一昨日も寝ていないだろう」
「寝たさ」
「二時間睡眠は仮眠としか云わん。いい加減にしておけ」
静かな総帥室に響く声には薄く怒気が滲んでいて、優秀な補佐官に目の前のファイルの山を片されてしまう。
握っていた万年筆をも奪い取られてしまう辺り、やはり疲れが溜まっていたのは認めざるを得ない。
腕時計を見やれば、今日が終わる寸前といっても良かった。
「下手の考え休むに似たり、だ」
「人を馬鹿呼ばわりすんじゃねぇよ・・・」
一旦集中が途切れてしまえば、慣れないデスクワークの疲れがどっと押し寄せてくる。
膜がかった視界に目を擦り、軽く首をぐるりと回すと、こきりと音が鳴った。
「お前はいいのか?研究」
「今日はそっちは非番だ。朝に云っただろう」
「あー、そういや・・・っつーか非番ならお前こそ休めよ」
「心配するな。お前ほど激務ではない、効率のいい休みの取り方は心得ている」
「流石」
世界に放り出されてから二年と経っていないというのに
一般人より遥かに器用に物事をこなしていくそのあり方は、かつて天才と云われた叔父の血を確かに引いている。
それでいて、所々の常識のズレは愛嬌があって嫌味にならない。
・・・時々、物凄い天然ボケをかますが。
「どうした」
「いーや、なんも」
「嘘をつけ。お前はすぐ押し黙って無理をする」
「嘘じゃねぇよ。勘繰ったってしゃーねーぞ、マジなんでもねぇって」
ひらひらと手を振って誤魔化す。
眉間に皺を寄せて、むっとした顔をするキンタローは随分表情豊かになったと思う。
「だったらお前はなにをそんなに急いているんだ」
デスクに手を叩きつけ、静かに苛立ちを露にした声音だった。
叩きつけられた反動で処理済と未処理の書類が混ざっていく。
「別に急いでるわけじゃねぇよ、忙しいのは今に始まったこっちゃねーだろ」
「ここ二週間ほどでこれまでの五割増し程度の量をこなそうとしているのにか?」
「・・・変な監視してんなよ」
「ティラミスとチョコレートロマンスに感謝しておけ。お前の疲弊っぷりを止めてくれと泣きつかれたぞ」
「わーったよ。もう少し仕事配分を考える、それでいいだろ?」
決まり悪く、目を合わせずに妥協案を出す。
こいつは相当の頑固者で自分の主張を通すときは、一片の隙もなくゴリ押すのが常だ。
一見して紳士だが、俺にしてみればこういうときには妥協せざるを得ないガキだ。
話は終わった、と思い椅子から腰を上げると腕を掴まれた。
まだなにかあんのか、と問いかけた口を開き終わる前にキンタローはじっとこちらを見つめてきた。
怖いくらい、真剣な色でもって。
「……後悔しているからだろ、あのときの判断を」
それはあまりに淡々とした口調だ。
咎める意志はそこになく、含まれるのは憐憫でもなんでもない。
ひたすらに見透かしている事実だけを露わにする。
事実認識なんてとっくにしていた筈なのに、突きつけられたそれに確かな痛みが伴った。
だからか、気づけば掴まれた手を振り払い駆け出していた。
道順や見張りの人間ですら目には留まらなかったらしい。
息を整えて扉を背にしたと思ったら、既に自室に着いていた。
今の自分は肉体も精神も酷使のあまりを尽くしていた。
だから余計にあんな言葉は聞きたくなかった。
それは甘えだ。身内だという意識があるからこそ見ぬ振りをしてもらいたいという。
「公私混同をするなんて、俺もまだまだか…」
気を取り直し、肩から滑り落ちていく髪を緩く縛り上げて、荒っぽい手つきで洗面所で顔を洗う。
手近にあったタオルで雑に拭き、張り付いた髪を掻きあげた。見上げた鏡の中の顔には濃い隈が目立っている。
本当はいつだって疲れた顔などしてはいけない。弱みなど出してはならない。
総帥は揺るぎなく、威厳を持って立たなくてはならない。
それが腐朽した屍の山の上であったとしても。
「畜生ぅ・・・」
目を閉じて、その間にも世界は止まってくれない。
白紙ではない明日は否応なしにやってくる。
だから許される限り、納得いくまで自らで取り仕切りたかった。
磨耗するほど自分が足掻いたところで、出来ることなど高が知れている。
けれど初っから諦めるような物分りのよさは自分にはない。
結果の見えない日々を不安に思うことは仕方がない。
そして十分な結果が残せないことも。
そんなのは総帥を継ぐと決めた時点で承知していたことだ。
不手際も無作法も形振り構わずに、それこそプライド捻じ曲げて頭下げることもある。
幹部らの中の口さがない者の言葉は止まないが、敢えてそれを止めようとは思わなかった。
それこそ、さまざまな思惑で斑な世界を文字通り塗り替えることを得意としたマジックが先代だ。
ガンマ団よりも、音に聞くマジックの冷酷さと人には過ぎる力に誰もが畏怖するしかなかったのだ。
たった一人の力に世界征服は果たされようとしていた、冗談ではなく。
そんな絶対的な覇王に比べれば、自分はまだ若輩者に過ぎない。
自分だって誰かを糾弾するのも、攻め滅ぼすことも容易く出来てしまうだけのものはある。
力がある、ということは選択肢を広げられることに他ならない。
出来るからこそ、平和を、望んだ。かつての楽園のように。
あの平和とはまた異なる様相でも、皆が平穏さを持てる世界を成したいと思った。
完璧じゃないにしろ出来るだけよい状況を残したい、と。
そのために惜しむものなどないと思いたかった。
思いたかった、けれど。
一から造り直せない世界は、研磨することでしかその様相を変えられない。
自分が壊したものの中に、見捨ててしまったものの中に何があっただろうと惑い出したはある国の視察で、だった。
三ヶ月ほど前、国民に重税と武力による悪政を強いた政府を倒す助力を願う依頼が舞い込んだ。
依頼主の反政府組織は相手を「出来る限り殺さない」ということにやや難色を示したが
独裁君主制で肥え太った高官らの処分は後の政府に任せることでとりあえず契約は成立した。
ガンマ団には武力である政府軍の制圧が要請された。
渡された資料によれば政府軍は、訓練されたとはいえ一般の国民から徴兵されたものが圧倒的大多数だ。
傭兵を主に相手取るつもりであったが、むしろ徴兵された者の抵抗の方が凄まじく
団員も手加減が効かずに予想を上回る死者数を出すことになる。
まして、こちらはこの間まで戦闘と暗殺に明け暮れていたような連中だ。
俺が指揮官として出れなかった以上、どの程度歯止めが利いていたのかすら曖昧だった。
後にそれが最後の抵抗とばかりに過剰投与された薬物による効果と判明し、遣り切れない思いを抱きながら報告書を読んだ。
やがて制圧された軍隊に、武力だけを笠に着ていた政府は大いに慌てて逃亡を図るが
大半はすぐに捕らえられて、結果は反政府側の勝利に終わった。
仮政府がすぐに樹立し、契約は無事履行されたにも関わらず、組織の代表からの連絡が俺の元に届いた。
何事かと構えれば、なんてことはない。復興の手助けのための契約は結べないか、というものだった。
丁度立て込んでいた仕事が一段落着いたためもあって、自分の目で視察をしようと打診すればあっさりと歓迎された。
しかし、キンタローは視察を快く思っていなかった。
まだあの国は落ち着いていない、時期を考えろ、と。
俺だって別に歓迎されるだなんて思っちゃいなかった、そもそもが「元・世界最強の殺し屋集団」だ。
それでも、自分が背負うべきものである以上その重さには甘んじるしかない。
それに復興を助けるには現状を知るしかない。これまで自分の目で視察を出来たことなど幾度もないのだからいい機会だ、と説き伏せた。
結局、キンタローは自分も同行することで妥協をした。
それから数日後、飛空艦から空港に降り立つと組織から遣された案内役に付き添われるまま車に乗せられた。
迎えの車がジープであることに禿頭の男はひどく恐縮していたので、それで十分だと返した。
二台のジープが連なって走り、前車には俺とキンタローと案内役。
後車には前線経験の浅い団員を四人ほど乗せてきた。
三十分ほど走ると空港から整備されていた道路は悪路に変わり、がたがたと不安定にジープを揺らす。
「揺れますので、暫く我慢くださいまし」
運転をする案内役は青ざめた顔で震えている。
こちらの機嫌を損ねたのでは、と思ったらしいと気づいて苦笑うしかなかった。
キンタローも渋い顔をして、腕を組み俯いている。
市内に入り、流れる景色の中に戦況の爪痕がそこかしこに見受けられる。
身体に湧いた蛆をも食う男、放置され腐った死体、骨が浮き腹が迫り出した子ども。
目を背けるわけにはいかないものばかりが、そこにはあった。
知らず、握り締めていた手に爪が食い込んだ。
キキィッ――――――キィッ!
急ブレーキに激しく車体が前後し、身体が大きく前のめる。
幌がなければ外に放り出されていたような勢いだった。
「な、なんだっ?」
「こ、子どもが。あの、子どもが目の前に・・・っ!ワザとじゃないんですっ!!どうかお許しを・・・っ」
ガタガタ震えながら、俺に向かって頭を下げる男はただ自分が殺されるかもしれないという恐怖にのみ反応していた。
「子ども?ちょっとまて、子ども轢いたのかよっ!俺に謝ってる場合かっ!!」
怒鳴りつけると「ひぃぃ・・・っ!すいませんすいませんっ」と謝るばかりで埒が明かない。
確認に向かおうとすぐさまジープを降りると、当然のようにキンタローもついてきた。
ジープの前方には子どもが一人、うつ伏せに倒れていた。
見たところ外傷はないが頭を打ったのか、ぴくりとも動かない。
ぞっとするような思いで、駆け寄り傍に膝をついて「大丈夫か?」と呼びかけた。
無闇に身体を揺するわけにもいかず、口元に手を翳すと呼吸はしっかりと確認できる。
「シンタロー、動かすなよ」
「分かってる。お前ちょっとあの案内のオッサン呼んで来て、病院に連絡しろ」
「は、はい!」
後続の車から何事かと寄ってきた団員の一人に声をかけると
敬礼をしてから案内の男に詰め寄っていった。
「しかし、さっきの衝撃はブレーキによるものだけで接触した気配はないぞ」
「まぁ、そうだけど・・・」
爛れて潰れた右目に垢に塗れて黒光りした肌とぼさぼさに虱の湧いた黒髪をしているが
未だ眠り続けているコタローと年もそう違わないくらいの子どもだった。
その顔は子どもらしい丸さを失い、鼻を覆いたくなるような異臭を放っている。
「補佐官殿、申し訳ありません。病院に連絡はついたのですが・・・」
「なんだ?」
「現地語の訛りがひどく、我々では通じません」
「・・・分かった」
若干の緊張を交えた声音で呼びかけた団員に、一瞬迷う素振りを見せたが
キンタローは素直に車に付属している電話に向かう。
「お前は余計なことするな、いいか。分かったな?」
「分かってるっつーの。早く行け」
「総帥は我々がお守りいたしますので、どうぞ行ってらしてください」
二名の団員が俺の両脇に立ち、そう云って一礼した。
やや不満げなキンタローが背を向け離れ始めたのを狙ってか、銀のきらめきが視界の端に飛び込んできた。
風を切る音に危なげなく防御をし、相手を見て反射的に反撃しようとした足を無理矢理留めた。
「総帥・・・っ!」
「・・・・・・俺は大丈夫だ」
掴んだか細い腕がぶるぶると力なく震えている。
持っている腕力以上の働きをしようとするほど黒ずんだ顔に血が上り、開いた目はひどく血走っていた。
その両腕は、こちらの片手でも折れそうなほど脆弱だった。
「放せよ・・・っ!!放せっ!」
「分かった。でもナイフは捨てろ」
「ふざけんなっ!殺してやるっ!」
倒れていた筈の少年は、ナイフを握り締めて怨嗟の言葉を吐く。
「お前、総帥になんてことを・・・っ!」
少年の背後に回った団員が、少年の身体を取り押さえる。
再び地に伏せられ、後ろ手にされても凶器は手から離れない。
「シンタロー、傷は?」
「ねぇよ」
不機嫌そうな顔で横に立つキンタローは「・・・気づけなかった」と少しだけ落ち込みを覗かせた。
その間も団員と少年は一触即発の罵り合いを続け、少年は血反吐を吐くように叫んだ。
その言葉は文字通り、凍りつかせるような空気が周囲を包んだ。
騒ぎに、俺たちの周りを取り囲んでいた人々をも。
「兄ちゃんを嬲り殺した癖に生きてんなよ・・・っ!」
甲高い子どもの声には、不釣合いな重さだった。
ざぁっと血が下がる思いがしたのは気のせいじゃない。
ぎらついた片目は、地べたに這い蹲りながらも尚、殺意を薄めはしない。
「お前らが殺したんだ!俺にとって唯一だった兄ちゃんをっ!腐った肉塊にしちまったんだ・・・っ!」
「顔が分かんなくなるほど、グチャグチャにされちまってたんだよっ!」
「ガンマ団が・・・・・・お前が関わんなきゃ兄ちゃん死ななかったのに!」
「今すぐ死ね!!死んじまえよっ!人殺し・・・っ!」
恐らく、少年の兄は徴兵されて死んだのだろう。
たったひとりの兄を奪われた子供に俺からかけられる言葉など、ありはしない。
キンタローは無表情に唇を噛み締めて「戻るぞ」と俺の腕を引いた。
少年を地面に縫いとめていた団員を引き上げさせ、ジープへと踵を返した。
拘束を外す際に団員がナイフを取上げようとするのを押し留める。
返されたナイフに、飛び掛ろうとする少年を周囲の大人が留めた。
お前があんな外道のために死ぬことはないんだ、と小声でいうのが分かった。
少年の言葉に周囲には穏やからしからぬ空気が漂い、口々にぼそぼそと囁かれた呪詛は
やがてざわめきとなりシュプレヒコールが波立った。
『帰れ』『外道』『死ね』『家族を返せ』『人殺し』『悪魔』
黙れ!静まれ!と喚く団員を諌め、投げつけられる石礫を手で受け止めながら急ぐでもなくジープに乗り込んだ。
総帥は懸命に国を救ったのにこの扱いはなんだ、恩知らずめ、と苦々しく年若い団員たちは後に呟いていた。
無為な諍いがあり争いがあり、どちらか一方を通すことでしか解決されないものもある。
たとえ明らかな悪であっても、悪を排除した末に自分の家族が嬲り殺されたのなら救われたなどと誰が云えるだろうか。
良かれと思って成したことの傍らで泣く子がいる。
けれども、誰も彼も救えるほど、この腕は広くはない。
先代が積み上げてきた過去は否定できず、自分だってかなり人を殺したことに変わりはない。
間違ってない、間違ってはいない。
ただ万人にとってそれが正しいとは限らないだけだ。
自分が動けば、それだけ何かが潰される。
自分が動かなければ、それ以上に亡くされるものがある。
犠牲の大小は仮定でしかない。どちらにしろ失わないものなどない。
だから、どうせ後悔するなら自分の望んだ道を取るしかなかった。
少しでも早く理想に辿り着けるようにするしか、自分の取れる選択肢はなかった。
それは償いですらない。
これからを生きる人間のためのものでしかない。
既に、失われた者へ償うことなど出来るわけがない。
死んだら、それまでなんだ。
だから何度味わっても、後悔は苦く後を引く。
それでも「殺すな」と云った口から、団員にそのために死ね、としか取れない命令を吐き出すしかない。
一つの国を生かすのに、敵対する者が殺されて数十数百の団員もまた死んでいく。
指先一つで幾万の生の行く末が決まるのだと、解らなかったわけじゃない。
総帥と一兵士とでは、その規模があまりに桁外れに違いすぎていて、今更実感を伴って沁みこんできただけだ。
綺麗な願いほど、叶うまでそれと正反対の手段に迫られる。
一から十まで、綺麗なものだけで出来ているのは寝て見る夢だけで
犠牲なく理想を成し遂げられるほど、世界は甘くはない。
そうした願いの足元には、数え切れない屍が泥濘を成して植わる。
「・・・・・・恨めばいいさ、俺を」
きっとこれは強欲なんだろう。
残された者を、死んでいく者を不憫に思う。
けども、叶う願いが先にあるから、突き進む足があるから
振り返る暇などなく忘れていくしかない。
明日がやって来る内はこんな思いは潰えない。
選択の末に、捨てるしかなかった者を振るい落とし
輝くしかない未来への道を造ることで救われる人だけを救うという矛盾に
それこそ、泣きたくなりそうになりながら。
end
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