(お題「眠る間」のシンタロー側。)
彼にとって、その部屋は象徴だった。
弟が愛されていると言う象徴。家族全員で弟の目覚めを心待ちにしていると表している部屋だった。強い希望と、微かな焦りに彩られたその部屋は、それでも彼にとっては憩いの空間だった。
彼としては毎日弟の顔を見に来たいが、生憎と視察やら遠征やらで本部を空けることも多い。だからデスクワークはあまり好きではないが、休憩時間に弟の様子を見に行ける点は有難かった。
今日も彼は秘書官に半端強制的に勧められた休憩時間を、弟の部屋で費やすことに決め、秘書に一言告げてから総帥室を出て行った。
弟の部屋の扉を開ける時、彼はいつも少し緊張する。
扉の向こうでは弟がベットから起き上がって、何事も無かったかのようにこちらを見てくれるのではないかと期待してしまう。それならどんなに良いだろう、と祈るような気持ちでドアを開ける。
しかしそれは常に裏切られていた。
部屋で待っているのはベッドに横たわる弟の姿で、幼い頃のように彼の名前を呼んで笑ってくれることは無かった。
まずわずかな絶望が彼を襲い、次にそれを打ち消す断固とした決意がやってきて、結局彼はいつもの穏やかな表情で弟の枕元に座った。
定期的にドクターから渡される書類にもあるように、弟は健康そのものの状態で健やかに眠っている。身長も随分伸びた。それなのに、思い出は6歳のまま増えることを止めていた。そのことを考えると彼の胸は鉛でも飲み込んだかのように重くなる。最新の医療技術を取り入れて手を尽くしているが、起きる気配は残念ながら無かった。
明り取り用の大きな窓からは、日光がさんさんと降り注いでいた。部屋全体が自然な明るさと気温で快適に保たれている。部屋は彼の家族が揃えた調度品で整えられ、子供部屋のモデルルームのような内装をしていた。クローゼットの中には成長に合わせた衣服や未開封のプレゼントで埋め尽くされている。
カーテン越しに柔らかな陽光が差し込んで、新しい季節の到来を告げていた。
彼は眩しいのかかすかに目を細めつつ窓辺に近寄って、窓を開けた。頬をなでる風が心地好く、彼は窓を全開にする。弟が大事にしていた観葉植物が風に揺れ、葉全体で太陽の恵みを受け止めていた。
眠ったままの弟に関係なく季節は巡り、空白の時間は蓄積されて行く。
弟の傍にいるときぐらいは落ち込まないようにしようと心がけているが、どうしても焦燥感からは逃れられなかった。それを無理やり追い払い、彼はまた弟の枕元に座る。安らかな寝顔がせめてもの救いだった。
弟の寝顔を見つめながら、起きたら何をしてやろうか何処に連れて行ってやろうかと彼は想像する。今まで十分な愛情を受けなかった弟だからこそ、家族全員で目一杯甘やかし、何でも我侭を聞いてやりたかった。頭の中で色んな計画を立てて、それを実行する日を願う。それが弟の部屋で過ごす時の習慣になっていた。
休憩時間ぎりぎりまでそうやって過ごすのだが、今日は途中で切り上げ無ければならないようだった。
部屋の外で物音がして、主治医が入室して来た。
彼らはお互いに気安い挨拶を交わし、眠る少年の近くに並んで立った。検診の日か、と洩らした彼の独り言にドクターはええと答えて、少年をストレッチャーに移動させようとした。
その手をやんわりと押さえて彼は弟を抱き上げる。以前よりもわずかに重くなっていて、数値で表された以上に弟の成長を実感した。
ストレッチャーに横たえて、シーツをのど元まで引き上げる。ついでに頭をなでてから、彼は弟から離れた。
定期的な検診は欠かさず行っており、今日の夜か明日にでも彼の手元に書類が送られて来るだろう。異常無し、原因不明と書かれた書類はいい加減見飽きているが、それでも何か新しい発見が無いか隅々まで読んでしまう。
ドクターが最善を尽くしているのは分かっており、プレッシャーを与えてしまって悪い気がするがつい、頼む、と無意識的に言ってしまう。
彼の気持ちを察したように、ドクターはひとつ肯いて、ストレッチャーを押して設備のある病棟に向かった。
彼は弟を見送りながら、今度こそ、と強く願った。
(2006.3.3)
(2006.7.13)再up
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