隣人との境界が薄れてしまうような間接照明の光が、煙草の煙でますますぼやけて、店内を琥珀色に映し出していた。
小さなステージの上ではコントラバスとギターによって陽気な音楽が演奏されていて、演奏の合間に拍手が鳴っている。
カウンターの一番隅の席に、長身の男が二人、少々窮屈そうに座っていた。八割方埋まった店内の、主に女性客が彼らにちらちらと視線を投げかけるが、二人はそんな第三者の視線を跳ね除けるような親密な空気を醸し出していた。
リズミカルな演奏と客の話声の入り混じった雑多な喧騒を背中で聞きながら、彼はグラスを手に取った。
「学会どうだったんだ?」
ちょっと口をつけてから、隣に座る従兄弟に問いかける。
「まぁまぁだ。色々質問されたおかげで問題点もはっきりしたしな。今後の方針が立てやすくなった」
話しかけられた従兄弟が同じようにグラスを手にとって答えた。グラスの持ち方や手の角度などの動きが鏡に映したようにそっくりで、彼らの関係の親さを物語っている。
「そりゃ良かった。なぁ、研究って楽しいか?」
「楽しい」
こっくりと肯いた従兄弟に、彼は知らず笑みを浮かべた。
この従兄弟の、自分の道を発見しそれに邁進する様子は目を見張るものがあった。子供のような純粋さで貪欲に知識を求め、それを既存の研究法では思いつかないような応用の仕方で研究を行ってきた従兄弟は、つい最近有名な科学雑誌に論文が掲載され、優秀な若手の研究者として一躍注目を集めた。感情をあまり表に出さない従兄弟であったが、専門の学問や研究の話をするときはどこか楽しさが滲み出て、それは聞いているこちらも嬉しくなってしまう類のものだった。
「どの辺が?」
カラカラとグラスの中で氷がなる。背後の演奏がゆったりとした旋律に変わり、コントラバスの低音が酔った身体に心地好く響き、彼は機嫌良さそうに従兄弟に尋ねた。
「知らないことを知るのは楽しい」
間髪いれずに答えられ、彼は従兄弟の過去を思い、慌ててそれを心の隅に押し込めた。どことなく負い目を感じてしまうのは仕方無いとは言え、今のこの楽しい時間を台無しにしてしまうわけにはいかなかった。
「それに、科学は綺麗だ」
彼が心の揺れをアルコールで宥めていると、従兄弟が頬を緩ませながら言葉を続けた。同時にグラスが空になり、カウンターの中の店主にお代わりを注文する。
「キレイ?どこがだよ」
科学に対して綺麗と言う表現をした従兄弟を、彼は不思議なものでも見るかのようにまじまじと眺めた。
「グンマが言っていたんだ。俺もそう思う。物理はすべての事象を数字で表し、化学の構造式は全く隙が無い。生物は効率よく環境に適応した機能を持っている。科学は現象の全てをすっきりと綺麗に説明をつける。まだ解明されてない事象が、これから自分が説明出来るかも知れないと考えると楽しくて仕方ない。それに完璧に説明されたものは遺伝情報だろうが車のエンジンだろうが美しい構成をしている」
新しく出されたグラスに早速手をつけながら、従兄弟は彼の疑問を解消すべくすらすらと述べた。
「…だからグンマもガンボットの設計図にうっとりしてんのか」
傍から見れば変人にしか見えねぇよ、と言う彼のぼやきに、従兄弟は口元だけで少し笑った。確かに、彼をとりまく科学者は得てして少々変わった人物が多く、変人と思われても仕方ないと言えば仕方ない。
「知り合いの物理学者は『数式は宇宙の全てを表すことが出来る』と自慢していたし、生物学者は『生物は宇宙の全てを体内に持っている』と言っていた。科学者なんて皆そんなものだ」
彼は脳裏に知り合いの学者を思い浮かべ、それから呆れたように首を竦めた。
「良くわかんねぇけど、科学者ってのは結構なロマンチストだな」
背後の演奏は再びテンポの速い曲へと変わり、アコーディオンが加わって華やかなセッションを繰り広げている。
「そうかもしれない」
苦笑混じりで従兄弟は答え、それきりぷっつり会話が途絶えた。彼らは二人でいる時の沈黙が苦にならない。演奏に聞き入りながら、無言でグラスの中身を減らしていく。
「いい曲だな」
後ろを振り向きながら彼が感想を漏らすと、カウンターを指で叩きながらリズムをとっていた従兄弟がさらりと口を開いた。
「『undecided』だな」
彼がきょとんと目を見開いて「曲名?」と尋ねると、「ああ」とすぐに返事が返ってくる。そのテンポが小気味いい。
「変な曲名だな。未決定だなんて」
「決まってないから、これから決めるのが楽しいとも言える。演奏も、実験も」
真顔で嘯く従兄弟を見ながら、こいつも大したロマンチストだ、と彼は堪えきれずにくすりと笑った。
(2006.4.29)
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