弟を愛さない父を憎んで、父に愛される自らを疎んで、弟を救うために行動したはずだった。
久しぶりの日本は何も変わっていなかった。
あれ程までに帰りたいと叫んでいたのが嘘のように、何ら感慨もなく彼は日本に帰ってきた。
帰りたいのは日本ではなく、あの暑い日差しが照りつける島ではないのかと言う疑問は次から次へと押し寄せて、無表情にヘリを見上げていた子供の顔と弟の顔が重なって、彼はきつく手を握った。
何気ない島の日常があまりに居心地が良くて、ずっとあのままでいられたはずはないのに、あの子供と犬と暮らす日々が続くことを心の底では望んでいたような気がする。
弟のことは片時も忘れたことはなかったが、日本に帰って弟と暮らしたいと言う想いも、島で子供と犬と暮らしたいと言う想いも、2つの相反する願望はいつのまにか彼の心に根を下ろし、成長し続けていた。
片方を選べば片方を失うのは明白だったはずなのに、失ったそばから後悔が残り、子供が初めて言った、ごちそうさま、の言葉が耳について離れない。
再会した父親は何ら変わり無く彼への執着を見せつけ、信頼していた叔父に騙された衝撃も、いくらか頭で予想していたのか、さしたるものでは無かった。いそいそと夕飯の支度を始める父親に憎しみの目を向けようとしても、自分の好物を覚えている男は良くも悪くも二十四年間父と子として生きてきた父親にしか見えず、父親だからこそ憎いのに、憎むのは何か間違っているような気がして、彼は黙ってその場を去った。
弟が閉じ込められている部屋に辿り着いたのは僥倖だった。
再会した弟は少し見ない間に成長しており、性格までも変わっていた。屈託のない笑顔を浮かべながら、パパを殺すの、と言った弟が哀れだった。幽閉された弟の気持ちは彼には分からない。けれど憎むことさえ悩む自分に比べ、子供特有の無邪気とはまた異なる薄ら寒いような純粋さで、父親を殺すと宣言した弟が、ただひたすらに可哀想だった。
彼がどうにか弟を諭そうとしていると、父親が後ろに立っていた。父と口論していると、弟がいる方向から明らかに父親を狙って青い光が迸る。
混乱する頭で尚も父と弟を仲裁しようと試みたがそれも叶わず、桁外れの力の応酬は口を挟む隙さえ与えられなかった。
「パパなんか大嫌いさ」と言った弟も「嫌いで構わん、部屋に戻れ」と冷たく言い放った父親も、どちらも同じ家族であるにも関わらず、どうしてそこまで憎み合わなければならないのだろう。
彼は何も変わっていない実状を見せつけられ、途方もない無力感に襲われた。
善とか悪とかそう言う感情自体がない、と恐れるような響きを持った叔父の説明も信じられず、どうして弟が、と混乱を極めた彼の頭はまともに働いてくれそうに無い。
嬉しそうに「バイバーイ、パパ」と右手を上げた弟の先にいる父親を見て、とっさに体が動いたわけは、彼自身も分からない。
父殺しの罪を弟に背負わせたくない、これで弟が父親を殺してしまったら完全に修復不可能になってしまう、と考えたのかもしれない。
そして何よりも父親が死ぬ、と思った瞬間走馬灯のようにこれまでの思い出が脳裏をよぎり、父親と弟に対する感情が渾然一体となった結果、彼は父親の前に身体を投げ出していた。
『ごめんパプワ。オレ約束果たせねぇ』
最後の瞬間思い浮かんだのは、父でも弟でもなく、いつも文句を言いながら食事を平らげていた子供の顔で、「いつか」の約束が果たせない悲しみと後悔の思いで一杯だった。
(2006.7.13)
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