きっと、届かない
遠くから、波の音が聞こえる。
本人の希望もあり、彼がここに移り住んでからもう何年が経つだろう。
それ以来、青年も頻繁にとはいかないが、よく訪ねるようになった。
一見普通の病院に見えるが、ここ彼一人のために建てられたものだ。
故にセキュリティは勿論、スタッフも一流で固められている。
そんな中、青年が歩いているのだが、誰にも見咎められることも無く目的地へと進んでいった。
否、全く誰とも出会わないのだ。
彼が過度な警備を嫌ったということもあるが、青年が巡回パターンと、各扉ごとのパスワードを把握しているからだ。
ランダムに代わるそれらを随時知ることが出来、またほんの一握りの者しか知らない通路を使えば、人に会わずにすむなど造作も無い。
そして、難なくその部屋の前へと辿り着く。
どこからどう見ても普通のドア。
けれども、ここには世界を動かしてきた彼がいる。
しかし、青年はためらうことなく、何時も通りパスワードを入力し、ドアを開いた。
白で統一された部屋の中、彼はベットの上で寝ていた。
ドアを開けた瞬間、人工のものではない風を感じた。
よく見ると、窓が大きく開いている。
いくらこの建物のセキュリティが高いとはいえ、海の音が聞こえるほどの距離だというのに、無用心としかいいようが無い。。
さらに踏み込もうとしたとき、一段と強い風が吹き、彼の手元から紙がぱらぱらと飛んでいった。
あわてて拾い集めると、そこに書かれている眉根を寄せた。
最後の一枚を拾い上げた後、ベッドの横にあったサイドボードの上に置いた。
「…兄、さん?」
囁く様な声に振り返ると、彼が眼を覚ましていた。
「悪ぃ、起こしたか?」
「いえ、少しうたた寝をしてしまいました」
くすりと笑い、そしてふと青年の横のサイドボードに視線を転じた。
いささか罰の悪い顔をし少し迷ったが、体を起こして手に持っていた資料を同じくサイドボードに置いた。
「もう少し、休んだほうがいいじゃないのか?」
「大丈夫ですよ、これ位」
もし、他人がいれば不思議に思っただろう。
青年は兄さんと呼ばれていたが、ともすれば孫ほどの年齢差があるだろう。
けれども、二人にとってはそれが当たり前のことだった。
近くにあった椅子を引き寄せ、青年はそこに座った。
「もう、引退したんだからゆっくりしろよ」
「ええ、わかってるんですけど…」
ちらり、と彼がサイドボードを見た。
引退してすぐに、彼はここに移った。
それまでそんな素振りを見せていなかったのだが、体を壊したからだ。
年齢からすれば当然だといわれてきた彼は、以前から引退したらここで暮らすつもりだった。
ここの設計にあたったのは、彼の兄と従兄弟。
妙に感の良かった兄が、彼にこの場所をプレゼントしてくれたのだ。
今では珍しいくらい、美しい海の見える場所。
その兄達は、ずっと前に他界してしまったのだけれども。
眼を閉じればすぐに思い出すことが出来る。
若くして総帥になった彼をサポートしてくれたのは青年と、兄達。
就任してからしばらくの間は、前総帥と比べられ侮られていた。
前就任が団の方針を変え、漸く世界に認知されるようになったときの交代劇だからこそ、内も外も混乱を極めたといってもいい。
それでも何とか崩壊することなく、なんとかここまでやってこれた。
引退してからは出来るだけ口を出さないようにしているが、どうしても気になってしまい定期的に資料を送らせている。
自分のしてきたことが、いつか答えの出るものではないとはわかっていても、欲している自分がいる以上やめることは出来ない。
それを知っているからこそ、青年も止めることが出来ないのだ。
「今日はよく晴れているな」
その言葉に、はっと青年の姿を探すと、いつの間にか窓際に移動して空を見ていた。
「ええ、そうですね」
微かではあるが波の音が聞こえ、そして澄み切った青空が広がっている。
それがここにいる理由だった。
流石に構造上海を眺めることは出来ないが、それでもこの空がある。
ゆっくりと、しかし確実に公害に蝕まれていく中、この場所は比較的その被害が少なかった。
けれども二人とも知っている。
本当の青天を、輝く海を。
あの、照りつけるような太陽を。
「最近」
唐突に切り出された一言に、青年は体ごと彼のほうを向いた。
彼は困ったように少し笑って、言葉を紡ぐ。
「最近、あの島のことをよく思い出すんです」
眼は窓の外を、否、更にその向こうへと向けられていた。
「今まで、片時も忘れたことなんて無いですよ。だけれど…」
青年は何も言わない。
何も、言えない。
何故なら。
「あの島が、呼んでいるような気がするんです」
そんなこと、とっくに気がついていた。
そして彼もまた、薄々青年が気がついていることを知っていた。
この言葉を口にすることを散々躊躇っていたのだが、たとえ青年を傷つけることになっても言わなくてはならない。
「私はあの島のことを、一度も忘れたことはありません」
それは、青年も同じで。
「でも今は」
「帰りたいと、思うんです」
感傷ではない、帰郷の念。
例え、それが青年を置いてってしまうとしても、その思いが消えることは無い。
青年は、何も言わない。
彼は少し躊躇ったが、ゆっくりとベッドから降りようとした。
慌てて手を貸そうと窓から離れようとした青年に、首を振ることで辞退する。
以外にもしっかりした足取りで青年の横に並んで窓の外を見た。
青い空、そして波の音。
そよ風が心地よく、思わず眼を閉じた。
「あの島は、私達が生まれた場所だから」
その数週間後、ガンマ団の前総帥の訃報が流れた。
本人の遺志もあり、葬式は密やかに行われた。
しかし、その手腕は確かなものであり、団員達に限らず多くの人にその死を悼まれた。
そして。
彼の死後、一枚の紙切れが発見された。
おそらくは亡くなる数日前に書かれたのだろうと推測される。
それは誰かに宛てて書かれたものであるのだが、宛先人がわからず、ついに届くことは無かった。
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