空がこぼれてきそうだと思った。
あんまりにも沢山溜め込んだ思いが胸の奥に溜まっていて。
息苦しくて辛くて……それでも吐き出せなくて。
嚥下したなら広がる苦味。
空が……落ちてくる。
青い青い瞳の呪縛がこの身を縛る。
そんなもの携えてさえいないこの身を……………
アイ言葉
身体の奥になにかが蟠る。
それはひどく大きくて妙に邪魔で。そのくせ吐き出そうにもこびりついて落ちやしない。
忌々しく息を吐いてもそれは悠々とした顔で腹の奥に眠っている。
汚イ
醜イ
穢レ
憎悪
悲哀
涙
憤リ
憤懣
こびりついて落ちないそれをただ溜め込んだ。
それが一番楽だった。……切り捨てる勇気もない自分を嘲笑う事も出来ない。
この手から奪われたたったひとり同じ血を通わせた弟。泣いていたその小さな指をあたためる事も出来ない。
喉の奥が焼かれるような焦燥がいつまで経っても消える事がない。
………守れない自分を思い知った。
強いと自惚れていた。
父親が自分の願いを全て叶えてくれると驕っていた。
吐き出した。たった一度きりの本音。
殴られたのはこの身だったのに……泣きそうだった父の顔がいまも胸に突き刺さる。
たった一度口にした事実が亀裂を生んだ。
……そしてそれは………………
決別がこの身に降り掛かる結果しか導かない事をどこかで予感していた…………
………ゆっくりと開かれた瞼の先、眩しい陽光が遠慮なく青年を捕らえた。
顔を顰めてそれを遮断するように腕をあげ、改めて瞬きを数度青年は繰り返した。
随分と……懐かしい夢を見た。
あれはいつの頃のコトだったか。……確か弟を連れ去られて一年も経った頃だったか…………
この島に流れ着くほんの数カ月前の頃の自分。
いま思い返せばなんて陳腐で愚かしい幼さを晒した事か。
もっと大人だと思っていた。…………けれど成人すればなんでも思い通りになるのだと祈っていた馬鹿な幼さは拭いきれていなかった。
苦笑を口元にのぼらせて、青年は軽く息を落として伸びをする。身体を支えてくれていた樹の幹が微かに腕にあたった。
そうしたならなにかが落ちる気配。
………この時期には何の実もつけないはずだと怪訝そうに眉を顰めて音のした地面を見つめれば……転がっていた箱。
「……なんだ…これ…………?」
無愛想な深緑のラッピングを施された箱。簡素にまとめられた木箱。
落ち着いた感じのする趣のある和風の包み。大雑把にココナッツの葉でまかれただけの木の実。
御丁寧に花まで散らされていたのか、よくよく見てみれば青年の眠っていた辺りは季節外れの花園に変わっている。
呆気にとられていた青年が改めて不振そうな目つきで散らばっている花の中に埋もれるような箱を摘まみ上げた。
振動を与えないように注意しながら耳元に近づけ、箱の中に危険物はないか確かめてみる。
とりあえずその中から機械音もないし、比較的軽く危険な匂いも感じなかった。
怪訝な顔を零したまま一体なんなのかと悩んでいると、背後の茂みが僅かな音をたてた。
条件反射で青年はそちらに顔を向けて無意識に急所を庇い背後をとられぬように幹に背中を押し付けた。
緊張した気配の中、ぬっと現れたその影に青年は一気に脱力したのだけれど…………
「ハロー、シンタローさんv 素敵なベッドね♪」
「…………………イトウ…………」
呆れたような声でその名を呼び、がっくりと木に寄り掛かった青年は大きく息をついて足下の花を踏まないように注意しながら再び座り込んだ。
どこか含む笑みを零したイトウの顔を不愉快そうに青年が睨み付けると慌てたように自分の口元を押さえる。
………それでも一本の腕は変わらず背後に回されたままである事を不思議に思いながら青年はそっぽを向いたままの姿勢で言葉を続けた。
「なんか用かよ。俺は昼飯作りに戻るぞ?」
どこか苛立たしげに……それでもちゃんと相手のコトを気遣った声が零されてイトウの目がやわらかく綻ぶ。 嬉しそうなその顔を視界の端に収め、どこか居心地悪そうに青年は立ち上がった。
それに従うようにイトウは歩を進め、青年の前まで周り込むときょとんとその大きな目を青年の顔に近付けた。
……………突然近付いたその顔にぎょっとした青年がつい条件反射で殴りつけるように遠ざけてしまう。
「いった~い…… ひどいわ、シンタローさん。まだなにもしていないじゃない………」
シクシクと泣いたイトウにバツの悪い顔を一瞬零しながらもツンと顔を逸らして青年はどこか憮然とした声で答える。
「………………いきなり近付くからだ。で、なんの用だよ」
落ちていた箱や花には目もくれず、青年は歩き始めようとする。きちんと殴り飛ばしてしまったイトウの間近まで寄りながら。
その心配りに痛んだ顔をさすりながらもイトウはにっこりと笑う。
………こんな彼だから、いくら手酷い扱いを受けたとしても諦めきれないのだ。
そんな気配に気づいたらしい青年が子供のような顔をして唇を尖らせている。慣れてくれた雰囲気に綻ぶ顔をそのままに、イトウはすっと隠していた腕を背後から表した。
その触手という名の腕の中、鎮座しているのは………かわいらしくラッピングされた花の飾りのついた箱だった。
それが示す意味が判らなくて、青年は眉を顰めてそれを眺める。
………手を出そうともしないでただ眺めるだけの青年に苦笑を落とし、イトウは改めて声をかけた。
「お誕生日おめでとう、シンタローさん。タンノくんの家でパーティーの用意もできてるわ」
だから迎えにきたのだといったなら……晒される驚くほど無防備な顔。
泣き出しそうな、それを耐えるような……………不器用な幼い顔がほんの一瞬覗いた。
……………そして驚いたような惚けた声が響く。
「………たん……じょう…………? 今日だった………のか…………?」
戸惑った声にイトウが困ったような顔で笑った。
ずっとずっとなにかに追われていて、余裕のない青年。人のコトは思い出せるくせに…自分のコトは忘れてしまう不器用な……………
もっとも、だからこそ秘密裏に用意していてもまったく気づかれる事もなかったのだけれど…………
笑い飛ばしたくなるほどかわいらしい。
それはこの島で綻ぶ事を覚えた青年の本質。
……だからこそ、こうして祝福される価値があるのだけれど………………
声もなく戸惑ったままの青年の一歩前に進みながら、イトウはちらりと茂みの奥を見遣る。………僅かに畏縮した気配に小さく笑いながら悪戯っぽく青年に囁いた。
「ほら、その箱もお花も……お祝いのプレゼントでしょ?」
顧みる事も忘れて寂しそうにたたずむ小さなプレゼント。探すのに苦労したのだろう芳香のあまりきつくない質素で静かな花たち。
隠れたままずっと青年が起きるのを待っていたのだろうか…………?
男というものは不器用な生き物だと笑い、イトウはそれを示すように青年に目線で示唆を与える。勘のいい青年がそれに気づかないわけもなく………唇穏やかに綻ぶ。
こぼれ落としそうだった誰かからの好意。
それを抱き締めるように足元の箱たちを抱き締めて、イトウの示した茂みの方に声をかけた。
「………サンキュー、お前ら。一緒に飯…食うか?」
穏やかな声は心地よくて。
………この島に訪れるまで亡くしていたそのあたたかさが、心地よくて………………
茂みに隠れていた男たちも顔を綻ばせて駆け寄ってくる。
痺れてしまった足取りはどこかたどたどしい。それを笑いながら青年は久し振りに心から笑みを落とした。
空の先、零れ落ちてくる青。
この身を蝕む色にいつ喰い尽くされるのか怯えていた事があった。
それでも思う。
………くだらないと、笑い飛ばせる。
この島がその勇気を教えてくれた。
その勇気を、思い出させてくれた。
見失いかけた仲間を鮮やかに浮き上がらせて………………
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息苦しくて辛くて……それでも吐き出せなくて。
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空が……落ちてくる。
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そんなもの携えてさえいないこの身を……………
アイ言葉
身体の奥になにかが蟠る。
それはひどく大きくて妙に邪魔で。そのくせ吐き出そうにもこびりついて落ちやしない。
忌々しく息を吐いてもそれは悠々とした顔で腹の奥に眠っている。
汚イ
醜イ
穢レ
憎悪
悲哀
涙
憤リ
憤懣
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それが一番楽だった。……切り捨てる勇気もない自分を嘲笑う事も出来ない。
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喉の奥が焼かれるような焦燥がいつまで経っても消える事がない。
………守れない自分を思い知った。
強いと自惚れていた。
父親が自分の願いを全て叶えてくれると驕っていた。
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殴られたのはこの身だったのに……泣きそうだった父の顔がいまも胸に突き刺さる。
たった一度口にした事実が亀裂を生んだ。
……そしてそれは………………
決別がこの身に降り掛かる結果しか導かない事をどこかで予感していた…………
………ゆっくりと開かれた瞼の先、眩しい陽光が遠慮なく青年を捕らえた。
顔を顰めてそれを遮断するように腕をあげ、改めて瞬きを数度青年は繰り返した。
随分と……懐かしい夢を見た。
あれはいつの頃のコトだったか。……確か弟を連れ去られて一年も経った頃だったか…………
この島に流れ着くほんの数カ月前の頃の自分。
いま思い返せばなんて陳腐で愚かしい幼さを晒した事か。
もっと大人だと思っていた。…………けれど成人すればなんでも思い通りになるのだと祈っていた馬鹿な幼さは拭いきれていなかった。
苦笑を口元にのぼらせて、青年は軽く息を落として伸びをする。身体を支えてくれていた樹の幹が微かに腕にあたった。
そうしたならなにかが落ちる気配。
………この時期には何の実もつけないはずだと怪訝そうに眉を顰めて音のした地面を見つめれば……転がっていた箱。
「……なんだ…これ…………?」
無愛想な深緑のラッピングを施された箱。簡素にまとめられた木箱。
落ち着いた感じのする趣のある和風の包み。大雑把にココナッツの葉でまかれただけの木の実。
御丁寧に花まで散らされていたのか、よくよく見てみれば青年の眠っていた辺りは季節外れの花園に変わっている。
呆気にとられていた青年が改めて不振そうな目つきで散らばっている花の中に埋もれるような箱を摘まみ上げた。
振動を与えないように注意しながら耳元に近づけ、箱の中に危険物はないか確かめてみる。
とりあえずその中から機械音もないし、比較的軽く危険な匂いも感じなかった。
怪訝な顔を零したまま一体なんなのかと悩んでいると、背後の茂みが僅かな音をたてた。
条件反射で青年はそちらに顔を向けて無意識に急所を庇い背後をとられぬように幹に背中を押し付けた。
緊張した気配の中、ぬっと現れたその影に青年は一気に脱力したのだけれど…………
「ハロー、シンタローさんv 素敵なベッドね♪」
「…………………イトウ…………」
呆れたような声でその名を呼び、がっくりと木に寄り掛かった青年は大きく息をついて足下の花を踏まないように注意しながら再び座り込んだ。
どこか含む笑みを零したイトウの顔を不愉快そうに青年が睨み付けると慌てたように自分の口元を押さえる。
………それでも一本の腕は変わらず背後に回されたままである事を不思議に思いながら青年はそっぽを向いたままの姿勢で言葉を続けた。
「なんか用かよ。俺は昼飯作りに戻るぞ?」
どこか苛立たしげに……それでもちゃんと相手のコトを気遣った声が零されてイトウの目がやわらかく綻ぶ。 嬉しそうなその顔を視界の端に収め、どこか居心地悪そうに青年は立ち上がった。
それに従うようにイトウは歩を進め、青年の前まで周り込むときょとんとその大きな目を青年の顔に近付けた。
……………突然近付いたその顔にぎょっとした青年がつい条件反射で殴りつけるように遠ざけてしまう。
「いった~い…… ひどいわ、シンタローさん。まだなにもしていないじゃない………」
シクシクと泣いたイトウにバツの悪い顔を一瞬零しながらもツンと顔を逸らして青年はどこか憮然とした声で答える。
「………………いきなり近付くからだ。で、なんの用だよ」
落ちていた箱や花には目もくれず、青年は歩き始めようとする。きちんと殴り飛ばしてしまったイトウの間近まで寄りながら。
その心配りに痛んだ顔をさすりながらもイトウはにっこりと笑う。
………こんな彼だから、いくら手酷い扱いを受けたとしても諦めきれないのだ。
そんな気配に気づいたらしい青年が子供のような顔をして唇を尖らせている。慣れてくれた雰囲気に綻ぶ顔をそのままに、イトウはすっと隠していた腕を背後から表した。
その触手という名の腕の中、鎮座しているのは………かわいらしくラッピングされた花の飾りのついた箱だった。
それが示す意味が判らなくて、青年は眉を顰めてそれを眺める。
………手を出そうともしないでただ眺めるだけの青年に苦笑を落とし、イトウは改めて声をかけた。
「お誕生日おめでとう、シンタローさん。タンノくんの家でパーティーの用意もできてるわ」
だから迎えにきたのだといったなら……晒される驚くほど無防備な顔。
泣き出しそうな、それを耐えるような……………不器用な幼い顔がほんの一瞬覗いた。
……………そして驚いたような惚けた声が響く。
「………たん……じょう…………? 今日だった………のか…………?」
戸惑った声にイトウが困ったような顔で笑った。
ずっとずっとなにかに追われていて、余裕のない青年。人のコトは思い出せるくせに…自分のコトは忘れてしまう不器用な……………
もっとも、だからこそ秘密裏に用意していてもまったく気づかれる事もなかったのだけれど…………
笑い飛ばしたくなるほどかわいらしい。
それはこの島で綻ぶ事を覚えた青年の本質。
……だからこそ、こうして祝福される価値があるのだけれど………………
声もなく戸惑ったままの青年の一歩前に進みながら、イトウはちらりと茂みの奥を見遣る。………僅かに畏縮した気配に小さく笑いながら悪戯っぽく青年に囁いた。
「ほら、その箱もお花も……お祝いのプレゼントでしょ?」
顧みる事も忘れて寂しそうにたたずむ小さなプレゼント。探すのに苦労したのだろう芳香のあまりきつくない質素で静かな花たち。
隠れたままずっと青年が起きるのを待っていたのだろうか…………?
男というものは不器用な生き物だと笑い、イトウはそれを示すように青年に目線で示唆を与える。勘のいい青年がそれに気づかないわけもなく………唇穏やかに綻ぶ。
こぼれ落としそうだった誰かからの好意。
それを抱き締めるように足元の箱たちを抱き締めて、イトウの示した茂みの方に声をかけた。
「………サンキュー、お前ら。一緒に飯…食うか?」
穏やかな声は心地よくて。
………この島に訪れるまで亡くしていたそのあたたかさが、心地よくて………………
茂みに隠れていた男たちも顔を綻ばせて駆け寄ってくる。
痺れてしまった足取りはどこかたどたどしい。それを笑いながら青年は久し振りに心から笑みを落とした。
空の先、零れ落ちてくる青。
この身を蝕む色にいつ喰い尽くされるのか怯えていた事があった。
それでも思う。
………くだらないと、笑い飛ばせる。
この島がその勇気を教えてくれた。
その勇気を、思い出させてくれた。
見失いかけた仲間を鮮やかに浮き上がらせて………………
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別にそれはたいしたことじゃない。
そう思っていた。
その方が気楽だったから。
だから差し伸べられていることにだって気づかなかった。
残酷なまでに幼い瞳に写らないことさえ知っていて伸ばされていることなど………………
月見の夜
空には穴が開いたようなお月様。
濃紺色の夜空が星に彩られていて見るものの気持ちを和ませ、魅了する。
「ふう………本当に月見にはいい季節だな」
それを眺めながらシンタローは声に出して周りに聞こえるように言ってみた。………無駄だろうと自分自身でも思いながら。
なんの反応も返ってこない背後に溜め息の1つや2つ吐きたい。吐きたいが………それもまた無駄な事。
ジト目で振り返ってみればそこに広がる光景は想像通り。………いや、それ以上なのだろうか。もうすでに想像力の限界を越えてきている。
死屍累々というに相応しい潰れた友人たちと、うわばみかと疑わせる勢いで酒を飲みこんでいっている叔父。それに掴まったまま涙目で絡まれている従兄弟とどうしていればわからなくて固まったままの従兄弟。
なんでこんな事になったのやら。考えるのも馬鹿馬鹿しい。別にたいしたことでもなかったのだ。たまたま久し振りに会った従兄弟同士、酒でも飲み交わしつつ月見と洒落こむ筈だった。
そこにさも当たり前のようにやってきた叔父が原因でどこまでも広がっていった輪に辟易としてももう遅い。すでにこの後片付けは確実に自分の役目だ。総帥だろうがなんだろうがそういった役回りは変わらないらしい。もうこれは性分というべきなのか……………
どんよりと仕掛けた思考を吹き飛ばすように、背中からなにかがのしかかってくる。
……………顔の間近から酒臭い息が感じられる。いま現在動けるものでこんなにも酒気を孕んでいるものなど一人しか思い付かない。ましてそれが自分に気配を伺わせる事なく近付けるのならなおさらだ。
「あ~ん? テメェ……全然飲んでねぇじゃねぇか!!」
「…………ついさっきまであんたの我が侭なつまみの準備で忙しかったんだよっ!」
誰が原因だと噛み付いてみれば馬鹿にしたように鼻で笑われる。………ピキッとシンタローの顳かみから音がたった。
あれこれと昔からやたらと自分に口煩い叔父は、こういった時はとことんまで妥協してくれない。
まるで我が侭をいうことを楽しんでいるかのようだ。それを一蹴すれば一蹴するで子供の癇癪のごとき盛大なデモを繰り広げてくれるのだ。
それを知っているからこそ被害を拡大させないためにもわざわざ我が侭を聞き入れてやってはいるのだが……それでも勿論許容量というものはある。
馬鹿にしたようなハーレムの態度に思わず眼魔砲の1つも喰らわせてやろうかとも思ったが自分の部屋が破壊されることは避けたいのでぐっと我慢する。………相手の半分ほどしか生きていない自分が我慢するというのもおかしな話だが。
そしてそれさえきっとわかっているのだろうハーレムはニヤニヤと笑ったままだ。いっそ部屋を破壊してでもという物騒な考えが湧かないわけではないが、如何せんここにはすでに酔いつぶれた友人が何人もいる上に、戦闘に関してまったくむかない従兄弟も一緒だ。
ここで自分がキレて怪我をさせるわけにもいかない。後々が面倒だということも勿論あるが。
「ねえねえシンちゃ~んv」
甘えた声を出して唐突に自分の傍にやってきた足音に顔を向けてみれば……思った通りにいるのは顔を赤らめて酒気を帯びたグンマだった。ヨロヨロと色々なものに当たりそうになりながらも器用に避けて歩けているあたり、ある意味酔拳だろうかと悩みたくなる。
同じことを考えていたのだろう、呆れたようにグンマを眺めながらもいつ倒れても大丈夫なようにと控えているキンタローと目が合う。互いにわかる程度に苦笑を交わしてキンタローもまたシンタローの傍に寄った。
「これおいしーよー? シンちゃんも飲んでv」
グンマが差し出してきたコップにはハーレムが作ったらしいカクテルが注がれている。情緒など無視したコップではあるが、その中で揺らめく液体の不思議な色は綺麗で、確かにグンマが好みそうだと笑みが漏れる。
なんだかんだいいながらもハーレムも面倒見はいい。その方法がひどく不器用であったりするのだから始末が悪いが。
…………深い溜め息を吐き出したシンタローを眺めながらハーレムはこちらを睨んでくる前に視線を逸らして手に持っていたウオッカを飲む。ビンに直に口をつけていることへの非難も込められている視線はアルコールへの耐性のあまりない従兄弟を心配してか。
それをからかうこともできるが余計に機嫌を損ねると目的が達成されないことを知っているハーレムははぐらかすように近くにいたキンタローの肩に手を回した。半ば強引に肩を組んでおきながらもたいした抵抗がないという点では多分ある程度の信用は獲得しているらしいことが伺える。
「大人なんだから酒の1つも嗜(たしな)まにゃいけねぇよな、キンタロー?」
「日本人の半分はアルコールが飲めない遺伝子だって知っての発言か?」
返答に困っているらしく眉を顰めたまま口を噤んでいるキンタローに代わり冷たくあしらうシンタローの声が即返される。
大体予想していたらしいその言葉を鼻で笑い、体勢もそのままに再び呷ったウオッカの匂いを充満させながらハーレムが答える。
「英国系の俺になにボケたこといってんだぁ?」
「……………ハーレム叔父貴…いい加減離れろ」
あまりに間近なハーレムからはかなり堪え難いほど酒気が放たれている。グンマほど弱くはないがハーレムほど好んで飲むこともないキンタローは、少々辟易とした感を響かせながら叔父の顔を遠くに置くように引き離す。
それでも首が痛まないようにと力加減されている指先に淡く笑いながらハーレムは流れるような仕草でその指先を外す。………掴んでいたはずのキンタローが気づかないほど自然に逸らされた力に本人が呆気にとられる暇もない。
顰めかけた眉もそのままに唐突に口に含まされた液体にぎょっと目を見開く。舌への刺激と濃いアルコールの香りでそれが先程までハーレムが飲んでいたウオッカであることは充分知れる。
………わかるのだが、正体を見極めたところでアルコール分が減るわけでもない。まして純度のかなり高い物を好むハーレムの飲むものは、自然初心者にはかなりきつい部類のものばかりだ。
「まったく近頃の若いもんは口の聞き方も知らねぇな? こいつを1本空けられるようになってからタメ口はきくんだな♪」
絶対に無理とわかっていていっているハーレムの口調は明るい。ほとんどおもちゃで遊ぶ子供そのものだ。
同じ手で潰されていった友人たちの結果は虚しいほどわかっている。止めに入ろうにも下手に動くことが出来ない。…………大分酔っているらしいグンマがまとわりついて離れてくれないのだ。
「ちょ………っ! グンマ離れろ! キンタローがぶっ倒れるぞ!?」
「え~? キンちゃんなら大丈夫だよー。ハーレム叔父様が一緒にいるもん」
「このボケ~~ッ! そのハーレムが潰そうとしてんだろうが!!」
「平気平気~v だってハーレム叔父様、キンちゃんのこと可愛がっているから♪」
「………むしろその方が質が悪い!」
きっぱりと言い切ったシンタローにグンマがほえ~っと笑う。
………わからなくもない、返答。でもちょっとだけ違うのだ。
正直乱暴者の叔父が苦手であることは認めるけれど、だからといって嫌いなわけではない。戦う力に秀でた一族の中、たった一人の非戦闘員である自分を、一度だって冷たくあしらったことはなく、まして必要以上のプレッシャーも何も与えなかった人。
それは、希有だった。
まるでそこにいて当たり前と言うように普通に構って普通に話して。かといってその会話の中には決して戦うことを組み込むことはなかった。
人を気遣うことを、よく知っている。そしてなによりも相手の中にある劣等感をよく見抜く人。
もっともだからこそシンタローの言うように質が悪いこともしばしばなのだが。
「あ、でもほら……もう遅いみたいだよ」
「は? ……………あ……」
ちょっと目を離していた隙にビンに残っていたウオッカを全て飲ませたらしく、キンタローの膝が折れてしまっていた。…………よくよく思い出してみるとこのウオッカの前も何杯かハーレムの作ったカクテルを飲んでいたのだから、多分潰すことをきっちり計算に入れて度数の調整をしていたのだろう。妙な所で頭脳プレーに及ぶ叔父に顔を引き攣らせた所でもうすでに遅い。
この離れにある布団の数が足りるのだろうかと少し計算するが、もうこの際全員で雑魚寝しかなさそうだという判断くらいしか出来ない。この時点でかなり酔っていたのかもしれないとは考えの及ばないことだったが。
「ったく、キンタローもだらしねぇな。この程度で潰れるなんてよ。お前はどうだ?」
「これ以上人を潰そうとするんじゃねぇよ」
にやりとどう見ても悪人役の顔で笑いかけられても警戒心しか湧かない。
ふんと顔を逸らして乱雑な室内の整理でも始めようかと歩き出そうとすると、ズイッと眼前にコップが差し出された。
ハーレムは自分の背中側にいるのだから目の前でコップを差し出すわけがない。ということは、必然的にこの室内で起きている最後の人物、グンマになる。
「はい、シンちゃん。ずっと動き回っていたから疲れたでしょ? このジュースおいしいから、これ飲んでから片づけしようよ」
幼い頃からあまり変わらない無邪気な笑みで勧められたコップを少し胡散臭げにシンタローが眺める。ソフトドリンク用にと置いておいた大きめのグラスの中でカラフルな液体が踊っている。香りからアルコールの類いは感じられないし、グンマがわざわざ自分を潰そうとする理由も思い付かない。微かな逡巡の間に近付いたらしいハーレムの腕が唐突に首を押さえた。
「なんだ~? グンマの飲みたくねぇなら、俺の飲めよ♪」
「ウオッカをあけるな~!!! こっち飲むからあんたはそれを片付けてろ!」
新たなビンを開けようと手をかけているハーレムに慌ててストップをかける。いい加減、飲み過ぎだ。いくら強いとはいえ分はわきまえなければいけない。うわばみな叔父はまったくそんな言葉に耳を傾けてくれたことはないが。………幼い頃からただの一度も。
溜め息をつきながらハーレムが手に持ったビンを諦めて机に置く姿を見つめ、シンタローはグンマからコップを受け取る。正直、喉はかなり渇いていた。初めの数杯を一緒にしただけで酔いの回ったハーレムの我が侭に付き合いっきりだったのだ。その間なにも口にした記憶がない。
一口飲んでみれば乾きが自覚され、一気にシンタローはコップの中身を呷った。何のジュースかはよく判らないが、喉越しも悪くないし味も甘酸っぱくて飲みやすい。ほとんど一気に飲み干したシンタローは笑顔でからになったコップをグンマに返した。
「結構うまいな。お前が持ってきたのか?」
自分の用意したものではないと問いかけた瞬間、クラリと脳の奥が歪む。…………なんとなく覚えのある症状に思わず表情が凍った。
それを決定付けるように変わらず無邪気に笑った従兄弟は、もしもこんな状態でなければ確実に相手に殴られる一言を返してくれた…………
「違うよ? ハーレム叔父様がさっきシンちゃん用に作ってくれたんだ♪」
明るい声を耳に残しながら、爆弾のように一気に身体の中で弾けたアルコールを受け止めきれなかったシンタローはそのまま眼前のグンマへと凭れるように崩れるのだった。
自分よりも体格のいいシンタローを支えきれるわけもなく、そのままグンマもろとも倒れ込んでしまいそうになった所を控えていたらしいハーレムの腕が支えてくれる。軽々と片手で支えたままコップの中のウイスキーを呷っているあたり、悪役の方が確かにむいているな、などのんきなことをグンマが考える。
「あ~あ……明日シンちゃんが目を覚ましたら僕まで怒られちゃうなー……」
「けっ、こんなガキに怒鳴られるのが怖くてどうする」
「…………叔父様から見ればガキでも僕達同い年だもん。シンちゃん怒ると怖いんだよ?」
拗ねたような視線で酔ってもいないグンマはハーレムに反論する。明日の朝が少し憂鬱だ。
それでも後悔はしていない。怒鳴られようと殴られようと構わないからと、ハーレムに組みしたのは自分だ。
…………はじめ、シンタローを潰すと言い出したハーレムに反対はしたのだ。ただでさえ近頃仕事が忙しくて会えなくて淋しかった。今日くらいは一緒に遊んではしゃぎたかったから、子供の楽しみをとらないで欲しいといったのだ。
そうしたなら真剣ささえ帯びた青い瞳が、燃えた。
なんとなく、わかった。それだけで十分だった。……………不器用な叔父は、自分なりに甥を心配していたのか。
言葉でいってもはぐらかされるだけ。それくらいの精神力を持っていなくては総帥などやってはいられない。………まして人のよさをどうしても拭えないシンタローでは己をすり減らすことは出来ても癒すことは不得手だ。
だからこそ、か。無遠慮を装って我が侭を貫く振りをして。
そうしてハーレムは休息を与えることを望む。自分へのイメージも印象も悪化させることなど物ともしない剛胆さ。………ほんの少しだけ、その強さが羨ましくて、それに従った。
自分ではシンタローに嫌われるかもと思ったことを出来ない。休んでよと泣きつくことは出来ても慰められるだけでなにも支えにもなれない。腕の中で眠る安らかな息に心和むのは、それでもこの常識はずれな叔父のおかげだ。
やわらかな視線を注げるくせに、相手が目の前にいる時はいつだって不遜で意地悪で。不器用なくせに人を思ってばかりだ。
だからこそ、きっと真直ぐに前を向いて傷つくシンタローが危うくて、犠牲にばかりなるなとその足を休ませようとするのだろうけれど。
仄かな月が窓から注ぐ姿をいまは見る人もいない。一緒に騒げるくらい、身体の余裕のある人も、いない。 それはやはり淋しいから、心を休ませて、一緒にまた月を見上げたい。
「ま、なんだな。明日はどうせな~んも出来ねぇから、ゆっくり遊んでもらうんだな」
我が侭を飲み込んで自分に付き合った甥の頭を軽く撫で、ハーレムは人の悪い笑みを浮かべながら煙草に火をつけた。
一体何のことをいっているのか判らないグンマはきょとんとしながらその背を見送る。
腕の中の従兄弟をどうやって寝室まで運べばいいのかまでは考えていなかったことに、その背が完全に見えなくなってから気づいたけれど……………
翌日、本部の方からの緊急コールがグンマの耳を劈いた。
未だ眠っているシンタローたちを起こしてはと慌てて受け取ってみればその内容に顔を青ざめさせた。
…………曰く、ハーレムが総帥室を酔った勢いでめちゃめちゃにしてしまったのでその修理に数日間かかると。
休暇がなければ強制的に休暇を作れ。そんなハーレムの声が聞こえそうな行動に頭痛がする。
起きたシンタローにどうやって伝えれば、ハーレムの真意を知らせることができるのだろうかと、たったひとりグンマは涙ぐみながら考えるのだった。
雪のように白く
黒檀のように黒く
血のように赤く
世界で一番美しい
その人の名は
SNOW WHITE
それはもう随分昔のことだった。俺たちはたぶん七つか八つだっただろう。
一緒に絵本を読んでいた時、不意に顔を上げて従兄弟が言ったのだ。
―――このお姫様って、シンちゃんみたいだね。
「僕は今でもそう思ってるけど?」
背後から聞こえる声は昔と変わらず明るい。俺は溜息を吐いてペンを置いた。
窓の外ではしんしんと雪が降っている。室内は暖房が効いて快適だったけれど、午後の総帥室は雪に全ての音を吸い取られたかのように静かだった。
「相変わらず夢見がちな奴だな・・・あ、もうちょっと右」
「ここ?」
「あーそこそこ」
あの頃の俺たちは殆ど背の高さが同じだった。
でも今では俺の方がずっと大きい。この従兄弟とて人並みの身長はあるのだが、人一倍大柄な男が揃った一族の中では時に華奢にすら見えてしまうのだった。
凝った肩を揉みほぐしてくれる手も俺に較べれば一回りは小さいだろう。
「それにしても凝ってるね~。シンちゃんお仕事し過ぎだよぉ~」
「仕方ねえだろ、総帥なんだから。それにキンタローはもっと働いてるゾ」
補佐官を務めるもう一人の従兄弟は、新兵器の開発のために昨日も徹夜したらしい。それは新しい理論を発明するだけしてプランの具体化は人任せにする天才科学者のせいだ。
そう言うとその張本人は頭上でくすくす笑った。
「だってそーいうのは僕よりキンちゃんの方が向いてるんだもん」
「手伝ってやれよ」
「あ、それ無理。キンちゃんと高松の話聞いてたら3分で寝ちゃう」
「・・・・」
「でもちっちゃい頃のシンちゃんて可愛かったよねー、超絶可愛かったよ、あの頃は」
「強調するな。今は不細工みたいじゃねえか」
「おとーさまが心配するから僕たち外で遊べなかったじゃない? だからお肌も白くってさ」
「まあな」
「髪の毛だってさらさらヴァージンヘアでさあ」
「今でもさらつやだぞ、俺は」
「子供だったから唇もぷくぷくだったし」
グンマの手は肩を解し終わって首筋に移っている。
(・・・全く変な奴)
こいつはギリギリの線でレッドゾーンを逃れている危ない男だが、マッサージは上手い。
こうして時々ふらりと総帥室に現れて肩を揉んでくれる。それは俺の疲れが溜まる時期と不思議と一致していて、そのことに俺は今初めて気づいてちょっと驚いていた。
「あんな綺麗なお姫様を何で魔女は殺したがってるんだろうって、僕凄く不思議だったんだ」
「それはやっぱ、嫉妬じゃねえの」
欠伸しながら適当な返事をする。
と、不意にグンマの手が止まった。
「ねえ、シンちゃん」
「あん?」
「もしかしたら魔女はあのお姫様が好きだったんじゃないのかな」
突然首筋に鋭い痛みが走った。
「―――つっ・・!」
それは思わずびくりと身を竦めてしまうほどの痛みだった。
「だからきっと、殺して独り占めしたかったんだよ」
温かいものが触れてまたぴりっと痛みが走る。その感触から、歯を立てた痕にそっとグンマが口づけたのだと分かった。
「ここは今でも日に灼けてないんだね」
「グンマ・・ッ」
昔と変わらぬ明るい声が、昔とは違う熱さでうなじを撫でてゆく。
「綺麗だよ、シンちゃん・・・赤い血が白い肌に滲んで」
俺よりも小さな手が、俺の髪を梳いて顎をすくいあげる。
「この髪の毛も、昔よりずっと綺麗。―――」
雪のように白い肌と。
黒檀のように黒い髪と。
(そして血のように)
赤い唇で、グンマがにっこりと笑った。
(違う、あれは)
「―――僕にとっては今でもシンちゃんが一番だよ」
(あれは俺の血だ)
(毒の林檎と分かっていても)
口にせずにはいられない。
重なる唇を受け止めながら俺はきつく眼を閉じた。
窓の外では白い雪が、激しさを増しながら降り続いている。
黒檀のように黒く
血のように赤く
世界で一番美しい
その人の名は
SNOW WHITE
それはもう随分昔のことだった。俺たちはたぶん七つか八つだっただろう。
一緒に絵本を読んでいた時、不意に顔を上げて従兄弟が言ったのだ。
―――このお姫様って、シンちゃんみたいだね。
「僕は今でもそう思ってるけど?」
背後から聞こえる声は昔と変わらず明るい。俺は溜息を吐いてペンを置いた。
窓の外ではしんしんと雪が降っている。室内は暖房が効いて快適だったけれど、午後の総帥室は雪に全ての音を吸い取られたかのように静かだった。
「相変わらず夢見がちな奴だな・・・あ、もうちょっと右」
「ここ?」
「あーそこそこ」
あの頃の俺たちは殆ど背の高さが同じだった。
でも今では俺の方がずっと大きい。この従兄弟とて人並みの身長はあるのだが、人一倍大柄な男が揃った一族の中では時に華奢にすら見えてしまうのだった。
凝った肩を揉みほぐしてくれる手も俺に較べれば一回りは小さいだろう。
「それにしても凝ってるね~。シンちゃんお仕事し過ぎだよぉ~」
「仕方ねえだろ、総帥なんだから。それにキンタローはもっと働いてるゾ」
補佐官を務めるもう一人の従兄弟は、新兵器の開発のために昨日も徹夜したらしい。それは新しい理論を発明するだけしてプランの具体化は人任せにする天才科学者のせいだ。
そう言うとその張本人は頭上でくすくす笑った。
「だってそーいうのは僕よりキンちゃんの方が向いてるんだもん」
「手伝ってやれよ」
「あ、それ無理。キンちゃんと高松の話聞いてたら3分で寝ちゃう」
「・・・・」
「でもちっちゃい頃のシンちゃんて可愛かったよねー、超絶可愛かったよ、あの頃は」
「強調するな。今は不細工みたいじゃねえか」
「おとーさまが心配するから僕たち外で遊べなかったじゃない? だからお肌も白くってさ」
「まあな」
「髪の毛だってさらさらヴァージンヘアでさあ」
「今でもさらつやだぞ、俺は」
「子供だったから唇もぷくぷくだったし」
グンマの手は肩を解し終わって首筋に移っている。
(・・・全く変な奴)
こいつはギリギリの線でレッドゾーンを逃れている危ない男だが、マッサージは上手い。
こうして時々ふらりと総帥室に現れて肩を揉んでくれる。それは俺の疲れが溜まる時期と不思議と一致していて、そのことに俺は今初めて気づいてちょっと驚いていた。
「あんな綺麗なお姫様を何で魔女は殺したがってるんだろうって、僕凄く不思議だったんだ」
「それはやっぱ、嫉妬じゃねえの」
欠伸しながら適当な返事をする。
と、不意にグンマの手が止まった。
「ねえ、シンちゃん」
「あん?」
「もしかしたら魔女はあのお姫様が好きだったんじゃないのかな」
突然首筋に鋭い痛みが走った。
「―――つっ・・!」
それは思わずびくりと身を竦めてしまうほどの痛みだった。
「だからきっと、殺して独り占めしたかったんだよ」
温かいものが触れてまたぴりっと痛みが走る。その感触から、歯を立てた痕にそっとグンマが口づけたのだと分かった。
「ここは今でも日に灼けてないんだね」
「グンマ・・ッ」
昔と変わらぬ明るい声が、昔とは違う熱さでうなじを撫でてゆく。
「綺麗だよ、シンちゃん・・・赤い血が白い肌に滲んで」
俺よりも小さな手が、俺の髪を梳いて顎をすくいあげる。
「この髪の毛も、昔よりずっと綺麗。―――」
雪のように白い肌と。
黒檀のように黒い髪と。
(そして血のように)
赤い唇で、グンマがにっこりと笑った。
(違う、あれは)
「―――僕にとっては今でもシンちゃんが一番だよ」
(あれは俺の血だ)
(毒の林檎と分かっていても)
口にせずにはいられない。
重なる唇を受け止めながら俺はきつく眼を閉じた。
窓の外では白い雪が、激しさを増しながら降り続いている。
あなたに届くまで
青の一族は人工授精で生まれてくる。
夕闇に包まれた、マジック伯父の書斎。
いつもより小さく見える伯父の背中。
明かされた事実に、俺は思ったよりも動揺していたらしい。
電気を点けるのも忘れていた。
「じゃあ、シンタローの『母さん』は…?」
声も掠れている気がする。
伯父は何も言わない。背中が返答を拒否している。
(まだ何か隠している)
眉がいつもよりきつく寄るのが自分でも分かった。
だが伯父は、俺などの追及に口を割る人ではない。
案の定、話し始めたのは別のことだった。
「ルーザーも」
思わずはっと目を上げた。
それは―――俺の父の名前だ。
「思えば、このシステムの犠牲者だったのかもしれないね。両親も揃わずに生まれたせいで、あんな…善悪も知らない人間になったのかもしれない」
「伯父上…」
喉まで出かかった言葉を、俺はかろうじて飲み込んだ。
なるべく明るい声を作ったつもりだ。
「でもそうすると、父さんは俺を望んで命をくれたんですね。もしかして予定外に出来たから、仕方なく産ませたのかと…」
たとえそうであっても、最後に俺を息子としてちゃんと愛してくれた人だから、別に不満はなかったけれど。
「勿論だ。どうしてそんなことを考えたんだい?」
「長兄以外は子孫を残してはいけないのかと思っていたから。だって一族には、ほとんど直系しかいな―――」
その瞬間、俺は激しく後悔した。
話題が変わってあからさまに安堵していた伯父が、急に振り向いたのだ。
「…いない訳じゃないよ、キンタロー。みんな亡くなっただけだ」
視線だけで人を殺せる男。
それは青の一族に限っていえば、比喩でも何でもない。
一瞬、本気で身の危険を感じた視線を緩ませて、伯父は微笑んだ。
「ああ、シンちゃんとグンちゃんが帰ってきたみたいだね」
扉の外が急に騒がしくなって、俺はそっと詰めていた息を吐いた。
2人は仲良く言い争っては笑っている。
「きっと大量に買い込んできたんだろう。キンちゃんも手伝いに行ってきたらどうだい?」
「そうします」
いつもなら真っ先に行って手伝おうとし、シンタローと揉めたに違いないのに。
マジック伯父は俺を追い出せるなら何でも良かったのだろう。
俺も出て行けるなら何でも良かった。
「あっキンちゃん、ただいま~」
「おういいとこに来た、手伝え」
大きな買い物袋を抱えたグンマが笑い、1つずつ取り出して冷蔵庫にしまっていたシンタローが顔を上げる。
「多過ぎだ。賞味期限が切れたらどうするんだ」
「だーいじょーぶだって、ちゃんと使い切れるよう計算して買ってきたんだから」
「シンちゃん食べもの捨てるの大っ嫌いだもんねー」
「当たり前だろ、もったいないオバケが出んぞ」
賑やかな会話と弾ける笑い声。
俺の大切な従兄弟たち。
シンタローが母と呼んだ女性の真実は分からない。
伯父が掟を破ったのかもしれないし、両親を揃えたくて用意したのかもしれない。
(ルーザーも、このシステムの)
違う、伯父上、それは違う。
飲み込んだ言葉を心の中で呟いて、俺はグンマから買い込んできた食料を受け取り、シンタローと一緒に冷蔵庫へ移す。
世間にだってよくあることだ。死別や離別によって親を失っても、人間は真っ当に育つのだ。
善悪の区別なんて、誰だって生まれたときは知らない。
そうだ、俺だって。
親も、子どもの時間も、成長期も思春期も―――何もかもを欠いていた俺だって、こうやって笑っていられるのだから。
信頼し、協力してくれる団員たち。
俺のために泣いてくれた高松。
何も言わないけれど見守っていてくれる2人の叔父。
伯父上、あなたもだ。
みんなに学んだ。その姿が教えてくれた。
(そして)
「わあ、美味しそう」
昼食にとシンタローがホワイトソースの缶を開け、パスタを茹で始める。
グンマがグリーンアスパラを指で摘み、シンタローに叱られる。
「こら、つまみ食いすんな」
「これホワイトソースと合うね」
「だろ?」
俺はカウンターにもたれて、従兄弟たちを眺める。
(グンマに受け入れられ、シンタローに導かれて)
「そこの味見係、ちょっと来い」
「キンちゃんこれ美味しいよ~」
計ったようなタイミングで2つの笑顔が振り向いた。
伯父がどんな重い過去を背負っているのかは分からない。
けれど重過ぎる荷物はみんなで担ぐ方が楽だと、そう教えてくれたのは、他ならぬ彼とその家族だったから。
「ね、美味しいでしょっ?」
「グンマ、親父呼んで来い。さっさとメシにするぞ」
「はーい」
(俺はこうやって、ちゃんと立っていられる)
「キンタロー、テーブルの用意してくれよ。あ、皿そこに伏せてあるやつ使えよ、しまってあるのは洗いにくいから」
―――お前は敗北者になるな。
(父の最期の言葉を今の出発点に)
4枚の皿を並べ、俺は最上階へと目を向けた。
味見をした昼食は本当に美味しかったから、早く皿が1枚増えればいいと思う。
(眠り続ける小さな従兄弟を今の目標点にして)
まだ知らぬ世界が目の前に広がっている。
一人じゃないから、俺は歩いていける。
「洗い物は俺がする」
「お、悪ィ、頼む」
鍋を受け取り、熱いうちに洗っていく。
シンタローが作ったから、食卓の準備と片付けは俺がやる。食後の洗い物はきっとグンマが立候補するだろう。
一人で何もかもすることはない。
(伯父上)
あなたも、一人じゃない。もう一人で背負うことはないんだ。
彼の心の奥まで届いたら、いつか話してくれるだろうか。
それまでは呼び続けるだけだと決めたら急に気持ちが軽くなって、俺は水を止めると晴れ晴れと食卓を点検した。
(みんなの声は聴こえていますか?)
君は僕の太陽
僕を幸せにしてくれる
たったひとつの
MY ONLY SUNSHINE
総帥室の扉を開けた途端に耳に飛び込んできた怒鳴り声に、思わずコージは足を止めた。
「何だよコレ! 書き方間違ってんだろーが! おいチョコロマ、誰が作った書類だ」
「は、これはミヤ」
「あの顔だけ男、三ヶ月減給。すぐやり直させろ!」
「はいっ!」
「伝言が一つか・・・『シンちゃん、今日のご飯は何がいい?v』―――ティラミス、馬鹿親父の部屋に催涙弾ぶちこんどけ」
激昂した言葉に、沈着冷静で鳴らした秘書が睫毛一本動かさずに答えている声が聞こえる。
「生憎催涙弾は在庫を切らしております」
「じゃあ核弾頭用意」
「ビルが壊れます。管理課の苦情を受けるのも、ついでに補佐官のお説教を聞くのも私です」
「知るか! それからチョコ、茶がぬるい、淹れ直し!!」
「は、はいっ!」
やれやれ、と溜息をついて足を踏み入れる。
時刻は午後四時。
「忙しそうじゃの」
声を掛けると、シンタローは吃驚したように顔を上げた。
「何だコージか。ノックくらいしろっていつも言ってんだろ」
「次の遠征の部隊編成の事で話があったんじゃが―――」
言葉を切ってシンタローの顔を見つめる。
何だよ、と聞き返したそうに眉を上げる恋人の顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。
「部隊編成ならキンタローに任してるから」
「飯は食うたか」
「あいつと相談して・・・は?」
「昼飯はちゃんと食うたかと訊いちょるんじゃ」
「おまえは俺の母親か! 話が違うだろ、おまえの用事は部隊」
「食うておらんのじゃな。そげなことじゃ身体を壊すぞ。ちょっとは休め」
「んな時間はねェ。今日中にこんだけの書類を処理しねえと」
「部下に回せば良かろうが。キンタローもアラシヤマも、今日はそげに忙しゅうはない筈じゃ」
「普段からあいつらには負担かけてるからな、内勤の日くらい俺が―――ギャッ!」
独り言のような言葉が悲鳴に変わったのは、突然ふわりと足が宙に浮いたからだった。
景色がぐらりと揺れて、床の絨毯が視界に入る。
「ちょ、何・・・ええええ!?」
新しい茶を持ってきたチョコレートロマンスが目を丸くする。
「こらコージ! 離せエェ!!」
「聞けんのぉ」
よっ、とコージが身体を揺すって姿勢を整える。
シンタローは、コージの肩の上に担ぎ上げられていた。
そのまますたすたと歩き出すコージにシンタローは本気で慌てた。
「ちょっコラ何処行くんだテメー!」
「休憩じゃ」
「はあ!? だからそんな時間はねェって・・とにかく下ろせ! 俺を下ろせ!」
「全く、聞き分けの無い上司を持つと苦労するのぉ」
「何言ってんだコラ! とりあえず下ろせっつの!」
ギャアギャア喚く声に何事かと顔を覗かせたティラミスに、チョコレートロマンスが振り返る。
「ティラ、コージさんが総帥を拉致しちゃったんだけど」
秘書官は既決ファイルのボックスを見た。
「達成率92%というところか」
「はっ? ああ・・・今日は総帥、意外と真面目に仕事したな」
「まあこれだけ終わっていれば儲けものだ。後は我々で処理しよう」
「そうだな。コレ総帥用の高級茶葉だけど、俺たちで飲んじゃう?」
主の消えた総帥室で、二人の秘書は何事もなかったかのようににっこり笑いあった。
コージは本部の廊下をエレベーターに向かって大股で歩いていた。
彼の身長は2メートルを軽く超えている。ガンマ団ではおそらく一番の大男だろう。
その肩の上からの眺めは最高の筈だが、後ろ向きに担がれているシンタローにその絶景を楽しむ余裕は露ほども無かった。
「下ろせー! てめこれは立派な犯罪だぞこの人さらいー!」
誰も居ない場所でもこの体勢は恥ずかしいのに、廊下を行く団員達が驚愕の目で見ていくのがイヤというほど分かるだけに、今すぐこの厚顔無恥な恋人を殴り飛ばしたくなる。
「まっことウルサイ奴じゃの。下ろせばぬし、またすぐに仕事に戻るんじゃろうが」
「たりめーだろ! 俺は忙しいんだアアァ!」
「ほいじゃあ、聞けんな」
あっさり異議を却下してコージはエレベーターの前に立った。ちょうど扉が開いたところで、下りてきたのはシンタローの従兄弟であるグンマだった。
「あ、コージ―――とシンちゃん、元気~?」
「おお、明日はわしもお茶会に行けそうじゃぞ」
「わーい良かった~、いい玉露が入ったんだよ~v。ミヤギもお菓子持ってくるって」
「どうせ萩の月じゃろ」
「僕も何か甘くないケーキ持っていくね~v」
「ちょっと待てグンマ!」
コージの肩の上からシンタローが怒鳴る。
「おまえ、お茶会の話する前に何かツッコむところがあんだろーが!!」
真っ赤な顔で喚くシンタローに、グンマはちょっと考えていたがすぐにっこりと笑った。
「ああ、忘れてた。シンちゃんの好きなスコーンも焼いとくから、コージと一緒に来てね~」
じゃあねえ、と手を振り合う従兄弟と恋人に、シンタローは心底脱力したのだった―――。
しかしエレベーターを下りる頃にはもうシンタローも消耗してすっかり大人しくなっていた。
そこまで計算するような男ではないと思いながらも平然と歩いているコージが恨めしい。
だがこれではちっとも休憩にはならないと揺れる肩の上で思わず溜息が零れる。
(もういいや、どうでも・・・)
そう思った時、不意にコージの足が止まった。
今まで見えていた地面がくるっと回ったかと思うと大きな手に抱きかかえられ、シンタローはそのまますとんと地面に下ろされていた。
「ったくテメーは―――」
頭を掻き回しながら文句を言ってやろうと開いた唇がそのまま動きを止める。
目の前には、息を呑むような夕焼けが広がっていた。
コージがシンタローを連れてきたのは本部最上階のそのまた上の屋上だった。
風もない穏やかな夕暮れで、西の空に今にも沈もうとしている太陽は名残惜しげに最後の光を薔薇色の空に投げかけている。
「すっげェ・・・」
称賛が自然と口を衝いて出て、隣に立つコージがほっとしたように笑うのが分かった。
「のう、綺麗じゃろ」
「もしかして、これを俺に見せようと思ってあんな」
「無茶して済まんかったのう。じゃがこれくらいせんと、ぬしはわしの言うことなんぞ聞いてくれんじゃろうが」
ちょっと照れたようにぶっきらぼうな声が、切ないほど胸に沁みた。
(ずっと忘れてた)
ビルの外には、大きな空が広がっていること。
頭上にはいつも、太陽が照っていること。
そして、自分が独りではないということも。
突然、言葉を失ったまま薔薇色の空を凝視めているシンタローの背中が暖かくなった。
コージが、その広い胸の中にふわりとシンタローを抱きこんだのだ。
「寒うはないか?」
優しい温もりにほうっと力を抜いたシンタローの耳許で穏やかな声が囁く。
シンタローは凄まじいほどの夕焼けに横顔を赤く染めている年上の恋人を見上げた。
「・・・コージ」
「うん?」
今なら素直に言えるような気がした。
「ありがとな。―――」
ついと背伸びして、嬉しそうに破顔した男の暖かい唇にキスをする。
強い力で抱きしめられ、そのままシンタローは目を閉じた。
空の向こうで、太陽も一緒になって笑っているような気がした。
僕を幸せにしてくれる
たったひとつの
MY ONLY SUNSHINE
総帥室の扉を開けた途端に耳に飛び込んできた怒鳴り声に、思わずコージは足を止めた。
「何だよコレ! 書き方間違ってんだろーが! おいチョコロマ、誰が作った書類だ」
「は、これはミヤ」
「あの顔だけ男、三ヶ月減給。すぐやり直させろ!」
「はいっ!」
「伝言が一つか・・・『シンちゃん、今日のご飯は何がいい?v』―――ティラミス、馬鹿親父の部屋に催涙弾ぶちこんどけ」
激昂した言葉に、沈着冷静で鳴らした秘書が睫毛一本動かさずに答えている声が聞こえる。
「生憎催涙弾は在庫を切らしております」
「じゃあ核弾頭用意」
「ビルが壊れます。管理課の苦情を受けるのも、ついでに補佐官のお説教を聞くのも私です」
「知るか! それからチョコ、茶がぬるい、淹れ直し!!」
「は、はいっ!」
やれやれ、と溜息をついて足を踏み入れる。
時刻は午後四時。
「忙しそうじゃの」
声を掛けると、シンタローは吃驚したように顔を上げた。
「何だコージか。ノックくらいしろっていつも言ってんだろ」
「次の遠征の部隊編成の事で話があったんじゃが―――」
言葉を切ってシンタローの顔を見つめる。
何だよ、と聞き返したそうに眉を上げる恋人の顔には隠しきれない疲れが滲んでいた。
「部隊編成ならキンタローに任してるから」
「飯は食うたか」
「あいつと相談して・・・は?」
「昼飯はちゃんと食うたかと訊いちょるんじゃ」
「おまえは俺の母親か! 話が違うだろ、おまえの用事は部隊」
「食うておらんのじゃな。そげなことじゃ身体を壊すぞ。ちょっとは休め」
「んな時間はねェ。今日中にこんだけの書類を処理しねえと」
「部下に回せば良かろうが。キンタローもアラシヤマも、今日はそげに忙しゅうはない筈じゃ」
「普段からあいつらには負担かけてるからな、内勤の日くらい俺が―――ギャッ!」
独り言のような言葉が悲鳴に変わったのは、突然ふわりと足が宙に浮いたからだった。
景色がぐらりと揺れて、床の絨毯が視界に入る。
「ちょ、何・・・ええええ!?」
新しい茶を持ってきたチョコレートロマンスが目を丸くする。
「こらコージ! 離せエェ!!」
「聞けんのぉ」
よっ、とコージが身体を揺すって姿勢を整える。
シンタローは、コージの肩の上に担ぎ上げられていた。
そのまますたすたと歩き出すコージにシンタローは本気で慌てた。
「ちょっコラ何処行くんだテメー!」
「休憩じゃ」
「はあ!? だからそんな時間はねェって・・とにかく下ろせ! 俺を下ろせ!」
「全く、聞き分けの無い上司を持つと苦労するのぉ」
「何言ってんだコラ! とりあえず下ろせっつの!」
ギャアギャア喚く声に何事かと顔を覗かせたティラミスに、チョコレートロマンスが振り返る。
「ティラ、コージさんが総帥を拉致しちゃったんだけど」
秘書官は既決ファイルのボックスを見た。
「達成率92%というところか」
「はっ? ああ・・・今日は総帥、意外と真面目に仕事したな」
「まあこれだけ終わっていれば儲けものだ。後は我々で処理しよう」
「そうだな。コレ総帥用の高級茶葉だけど、俺たちで飲んじゃう?」
主の消えた総帥室で、二人の秘書は何事もなかったかのようににっこり笑いあった。
コージは本部の廊下をエレベーターに向かって大股で歩いていた。
彼の身長は2メートルを軽く超えている。ガンマ団ではおそらく一番の大男だろう。
その肩の上からの眺めは最高の筈だが、後ろ向きに担がれているシンタローにその絶景を楽しむ余裕は露ほども無かった。
「下ろせー! てめこれは立派な犯罪だぞこの人さらいー!」
誰も居ない場所でもこの体勢は恥ずかしいのに、廊下を行く団員達が驚愕の目で見ていくのがイヤというほど分かるだけに、今すぐこの厚顔無恥な恋人を殴り飛ばしたくなる。
「まっことウルサイ奴じゃの。下ろせばぬし、またすぐに仕事に戻るんじゃろうが」
「たりめーだろ! 俺は忙しいんだアアァ!」
「ほいじゃあ、聞けんな」
あっさり異議を却下してコージはエレベーターの前に立った。ちょうど扉が開いたところで、下りてきたのはシンタローの従兄弟であるグンマだった。
「あ、コージ―――とシンちゃん、元気~?」
「おお、明日はわしもお茶会に行けそうじゃぞ」
「わーい良かった~、いい玉露が入ったんだよ~v。ミヤギもお菓子持ってくるって」
「どうせ萩の月じゃろ」
「僕も何か甘くないケーキ持っていくね~v」
「ちょっと待てグンマ!」
コージの肩の上からシンタローが怒鳴る。
「おまえ、お茶会の話する前に何かツッコむところがあんだろーが!!」
真っ赤な顔で喚くシンタローに、グンマはちょっと考えていたがすぐにっこりと笑った。
「ああ、忘れてた。シンちゃんの好きなスコーンも焼いとくから、コージと一緒に来てね~」
じゃあねえ、と手を振り合う従兄弟と恋人に、シンタローは心底脱力したのだった―――。
しかしエレベーターを下りる頃にはもうシンタローも消耗してすっかり大人しくなっていた。
そこまで計算するような男ではないと思いながらも平然と歩いているコージが恨めしい。
だがこれではちっとも休憩にはならないと揺れる肩の上で思わず溜息が零れる。
(もういいや、どうでも・・・)
そう思った時、不意にコージの足が止まった。
今まで見えていた地面がくるっと回ったかと思うと大きな手に抱きかかえられ、シンタローはそのまますとんと地面に下ろされていた。
「ったくテメーは―――」
頭を掻き回しながら文句を言ってやろうと開いた唇がそのまま動きを止める。
目の前には、息を呑むような夕焼けが広がっていた。
コージがシンタローを連れてきたのは本部最上階のそのまた上の屋上だった。
風もない穏やかな夕暮れで、西の空に今にも沈もうとしている太陽は名残惜しげに最後の光を薔薇色の空に投げかけている。
「すっげェ・・・」
称賛が自然と口を衝いて出て、隣に立つコージがほっとしたように笑うのが分かった。
「のう、綺麗じゃろ」
「もしかして、これを俺に見せようと思ってあんな」
「無茶して済まんかったのう。じゃがこれくらいせんと、ぬしはわしの言うことなんぞ聞いてくれんじゃろうが」
ちょっと照れたようにぶっきらぼうな声が、切ないほど胸に沁みた。
(ずっと忘れてた)
ビルの外には、大きな空が広がっていること。
頭上にはいつも、太陽が照っていること。
そして、自分が独りではないということも。
突然、言葉を失ったまま薔薇色の空を凝視めているシンタローの背中が暖かくなった。
コージが、その広い胸の中にふわりとシンタローを抱きこんだのだ。
「寒うはないか?」
優しい温もりにほうっと力を抜いたシンタローの耳許で穏やかな声が囁く。
シンタローは凄まじいほどの夕焼けに横顔を赤く染めている年上の恋人を見上げた。
「・・・コージ」
「うん?」
今なら素直に言えるような気がした。
「ありがとな。―――」
ついと背伸びして、嬉しそうに破顔した男の暖かい唇にキスをする。
強い力で抱きしめられ、そのままシンタローは目を閉じた。
空の向こうで、太陽も一緒になって笑っているような気がした。