作・渡井
セイフティ・ドライバー
タクシー代を節約しようと思ったのが間違いだった。
シートベルトを締めながら、ちらりと端整な横顔を盗み見た。ウインカーを出しながらバックミラーを気にしているキンタローは、まるで気づかずに車を静かに出す。
この前までの話はどうなったんだ、と思わず口にしかけた。
休日の買い物を一人で存分に楽しんだ。総帥という立場である以上は仕方ないが、常から秘書や護衛に囲まれている身には、ささやかな自由が何よりも嬉しい。
しかし出かけに曇っていた空は、帰る段になってとうとう泣き出した。父親にでも迎えに来させようと思って電話したら何故か家にいたのはキンタローだけで、「行くからそこで待っていろ」という一言で切られてしまったのである。
今からタクシーを捕まえても行き違いになるだけだと諦めて、迎えに来たキンタローの車に乗り込んだのだが、このうえなく居心地が悪い。
こいつがあんなこと言うから、とシンタローはこっそりため息をついた。
会話が途切れたときに見つめてくる視線の熱さや、それが意味するところに気づかなかった訳じゃない。
けれどようやくお互いに過去を乗り越え、未来へと共に歩き始めたのだ。今すぐに答えを出すことは出来なくて、目を逸らし続けてきた。
24年間を共有してきた男は、だが、シンタローが逃げることを許さなかった。
誰もいなくなった総帥室で抱きしめられ、想いを綴る唇を霞む頭で見ていたのはつい1週間前。
あのときはグンマの来訪で救われたが、この1週間というもの、キンタローは常に目で問いかけてくる。
―――言葉に出さない催促は、たちが悪い。
「また大量に買い込んだものだな」
どう返事すればいいかなんて、分かんねーよ…などと思っていたせいで、キンタローの声に反応するのが2,3秒遅れた。
「…バーゲンだったんだよ」
「その気になればあのデパート1軒、丸ごと買えるんだがな、お前なら」
落ち着かない。
いつも自分を見ている目が真っ直ぐ前を向いている。
あのとき自分を抱きしめた手がハンドルに添えられている。
それだけのことが、こんなにも落ち着かない。
信号が微妙なタイミングで変わる。突っ切るかと思った車は、余裕を持って止まった。
「このチョーカー、お前の?」
バックミラーに下げられた黒い紐の先に、銀色の十字架が鈍く光っている。キンタローの趣味には見えなくて訊ねると、高松に貰った、という答えが返ってきた。
「交通安全のお守り代わりだそうだ」
青を確かめ、車は静かに滑り出す。滑らかに加速する。
教本通りの安全運転だ。もう1人の従兄弟ならこうはいかない。模範的なドライバーでは決してないシンタローが、横に乗っていて青くなるくらいぶっ飛ばす。「大丈夫だよぉ」なんて、こっちが気が抜けるような声でふにゃふにゃ笑っているから余計怖い。
「免許取るのも早かったもんな、お前。まったく器用でいらっしゃること」
「だが最初にこの車に乗ったときは戸惑ったぞ。教習車とは、ワイパーとウインカーの位置が逆だ」
「教習車は国産だからな」
「慣れるまで、曲がるたびにフロントガラスを拭いていた」
音量を絞って流れるオールディーズも、当たり障りのない会話も、すべてが落ち着かない。
昨日まで、あんなに熱い視線で見つめてきたのに。
―――って、なに考えてんだ、俺は。
「グンマはどうしたんだ?」
まるで期待してるみたいじゃねーか、とシンタローは強引に思考を打ち切った。少し声が跳ね上がった。
「本屋に行った。新しい科学雑誌に興味深い論文が載っているそうだ」
「へえ。あいつもあれで、一応は科学者なんだな」
「そう言うな。グンマは優秀だぞ」
「分かってるよ。親父は?」
「ファンクラブがどうとか言っていたが…」
「あ、いい、聞きたくない」
自分が望んでいた展開通りじゃないか。このまま従兄弟として、何もなかったように普通に接していけるなら。
車は駐車場へと入っていく。叩きつけていた雨が遮られ、キンタローがワイパーを止める。
衝撃もなくゆっくりと止まり、エンジン音が止む。シートベルトが外れる。
2人だけの狭い密室からやっと抜け出せる―――。
「悪かったな、呼び出して」
大きく息を吐いてシンタローはドアを開けようとした。
腕を引っ張られたのはその瞬間だった。
ああ。
やっぱり何もなかったことには出来ない。
胸に抱きこまれ、顎を掴まれてシンタローは1人、心の中で呟いていた。
暴走気味だと思っていた告白さえ計算通りなら、この男はとんでもない安全運転だ。ミス一つ犯すことなく、怪我一つ負うことなく、静かに獲物を仕留めていく。
いま逃げても、どうせ俺は捕まえられる。
だったらいま捕まっても同じことだと、視界の端で揺れる十字架に言い訳して、近づく唇に目を閉じた。
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キンちゃんは性能重視でドイツ車を選びそうな気がします。
ハンドルは右仕様なのです。
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