「――――ここまでだな」
そう判断するとキンタローは動き出した。
向かう先は、先ほどから忙しなく書類にペンを走らせつつ、秘書のティラミスやチョコレートロマンスなどに話しかけているシンタローである。
まっすぐにシンタローに向かっていったキンタローだが、相手は忙しいのか、気づいているにもかかわらず、こちらを見ようともしない。
だが、キンタローには、それはどうでもよかった。むしろ、自分などいないと思っていてくれている方が好都合だ。
タイミングを見計らい、そっと彼の背後へと回ったキンタローは、シンタローが丁度書類のサインをし終えるのを見計らうと、その身体を後ろから羽交い絞めするように、抱き上げた。
「うわっ! なんだよ、キンタロー」
唐突なそれに、当然のごとく、ペンをもったまま暴れだすシンタローに、キンタローは、何も答えない。
その代わりに、暴れるそれを上手く交わしつつ、そうして今度は、きちんと抱き上げた。
所謂お姫様だっこという形でである。
「なっ」
あっさりと抱かれてしまったシンタローは、じたばたと再び暴れてしまうがムダだった。
腕力が明らかに違いすぎるのだ。
「トレーニング不足だな。まったく、仕事のやりすぎだぞ」
「何だとっ」
しかし、暴れようとした身体から不意に力が抜ける感じがした。
「っ………」
くらりと眩暈が覚えた頭に、眉をしかめると、それ見たことかと言わんばかりのキンタローの視線がこちらを向いていた。
「そろそろ限界だろう、お前の身体も。休め」
「何、勝手なことを、俺はまだ仕事中だ」
もうここ数日間睡眠時間もかなり削ってデスクワークに勤しんでいたが、それでもまだ、全てが片付いたとはいえない状況なのである。
仕事は次から次へと自分のところにやってくるのだ。こんなに早くに休むわけにはいかない。
しかし、わめくシンタローを抱えたまま、キンタローは、動き出した。
「おいっ。ちょっとまてっ」
止めようとするが、言葉だけで、止まるような人間ならば、そもそもこんな行動はしない。
思ったとおり、歩みを止めることのないキンタローは、けれど背後を振り返ると、そこで黙ったまま立ち尽くしていた二人に声をかけた。
「おい、ティラミス。チョコレートロマンス、後は、まかせたぞ」
「何をっ」
抗議の声をあげようとしたシンタローの言葉をさえぎって、二人は、にっこりと微笑みつつキンタローに向かって頭を下げた。
「はい。お任せください」
「後はこちらで処理をします」
「お前ら……」
すでに最初から計画されていたかのように、あっさりとそれを了承する二人に、呆然とそれを見やるシンタローに向かって、二人はもう一度頭を下げる。
「シンタロー総帥。本日はゆっくりとお休みください」
「お疲れ様でした、シンタロー総帥」
それで決まりだった。
本日の総帥業務は終わりである。
「なんだよ、皆して」
納得のいかない顔をして不貞腐れているのは、総帥だけである。
「お前も、こんなことする奴だったとは思わなかったぜ!」
びしっと指を突きつけて見せるが、どうにも格好はつかない。
当然だ。自分はまだキンタローにお姫様だっこされたままである。下りたいのだが、おろしてくれないのだ。
「別に思わなくていい」
いつもと同じ淡々とした口調と態度で、そう言うキンタローに、不満げに唇を尖らせてみるが、それが相手への抗議となるわけでもなかった。
「どこ行くんだよ」
「お前の部屋だ」
「ふぅん」
それは予想通りの言葉で、尖らせていた唇も緩めて、普通に戻す。
キンタローは、自分を抱いたまま止まらない。
ここまでくれば諦めも入ってきた。
お姫様抱っこも楽だと言えば楽なのだ。
実際のところ、疲れていたのは事実である。さっきまでの仕事も眠気との戦いだった。
それでも、やらなければ終わりはしないから、やめることはできなかった。
「仕事……溜まってるんだぞ」
残っていた量を思い返して、げんなりしてくる。
明日になれば、それがまた1.5倍は増えているだろう。
ぶつぶつ文句を呟いていれば、少しばかり怒ったような険しい表情となったキンタローが、シンタローを睨みつけて言い放った。
「明日から俺が手伝うから、今日は大人しく寝ろ」
「ヤダっ」
だが、シンタローは、即座にそう返す。
寝れと言われて素直に眠れるような状況ではない。
自分は、幼い子供でもないのだ。仕事を持っている大人である。
口元を引き絞り、頑固な様子を見せれば、キンタローはなぜか、ふっと微笑んだ。
「無理するな、眠いんだろうが」
その笑みはずるいと思う。
怒りの表情を向けてくれた方が、自分も意地を張れる。だが、笑われると弱かった。
引き締めていた口元が緩む。それがまずかった。
「…別に、眠くなんて―――――ふわぁ……あぐっ」
そう口を開けたとたん、口から零れ出る欠伸。
慌ててそれをかみ締めようとしたが、すでに遅かった。
くくくっと目の前の相手に喉の奥で笑われ、カッと頬を染めたシンタローに、優しい声が降りかかる。
「ほら。ちゃんと部屋に連れてってやるから、寝ていいぞ」
再度告げられる言葉。
先ほどよりもずっと柔らかな、眠気を誘う声。
「んー、ヤダ」
それでも、子供っぽいとは思ったものの、するりとそんな言葉が出てくる。
眠くないわけではない。
もう自分も今日は、眠ろうと決めた。
それでも、今ここで眠りたくなかった。
部屋に行くのにそれほど時間がかかるわけではないのだ。
そんなことをすれば、本当に子供のようで、恥ずかしい。
「眠らない…」
それでも、一度深く瞼を落としたら、再び目を開けるのも億劫になっていた。
瞼が重い。
失敗したと思った時には、もう瞼は閉じたまま。
暖かなぬくもりが余計に眠気を誘い、あっさりと夢の世界にいざなわれた。
「まったく、素直じゃないな」
嫌だといいつつも、腕の中で、直ぐに眠りについたシンタローにキンタローは、苦笑した。
だが、こんな風に眠りについてしまうシンタローの心身の疲れを思うと、それほど楽観もできないのが辛いところだ。
「もっと弱音を吐いてもいいと思うがな」
それでも、彼は決してそんな言葉は口にはしない。少なくても自分は、きいたことはない。
素直でないと言えば簡単なのだが、その強情さには、周囲は常にヤキモキしているのを本人は分かっているのだろうか。
今日のことも、素直に休まない総帥の身体を心配したティラミスとチョコレートロマンスが、自分に頼んできたのである。
無理やりでもいいので、総帥を休ませてくれと。
だから、様子を伺いながら、そろそろ限界だと思うころあいを見計らって無理やり仕事を打ち切らせた。
ギリギリの状況を読み取るのは、24年間あいつの中にいたことで、分かっている。
そう。だから、意地っ張りなところや頑固なところも知っているのだ、自分は。
彼の強さも弱さも自分は見続けてきた。
そうして、それすらもひっくるめて好きだということをあいつは知っているだろうか。
たぶん、知らないままだろう。
こうして自分に身を預けてくれるのは、ただ、自分のことを誰よりも知っているというその気安さからだ。
いつも傍にいる兄に甘える弟のようなもの。
それだけだ。
だから、いつかは知ってもらいたいと思っている。
自分は決して、シンタローの中にいた24年間の全てを憎んでいたわけでもなかったことを。愛しさも常に抱いていたことを。
だが、それはまだ後でいい。
とにかく今日は、これでおしまいである。
「お休み。お疲れさん」
そうささやくと、良く眠りについたシンタローの額にそっと口付けた。
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