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一人の彼ら
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もともと一つだった彼らは、二つに分かれた。
広々とした窓から入る月明かりだけが、今、この部屋唯一の光だった。
その薄い光りの中で、部屋の中央に置かれたやたら大きなデスクに凭れるようにして座り込んだ男は、その大きな手を額において、ただ黙り込んでいる。
疲れからか目の下には薄く隈が見え、顔色は良くない。
不意に目の端から落ちそうになったものを拭って、男は舌打ちした。
何を弱気になっているのだと。
「何をしている」
突如扉が開いて、廊下の人工的な光りが部屋に差し込む。
何の遠慮もなくかけられた声に、男は振り返りもせず、吐き捨てるように短く答えた。
「なんでもねぇよ」
「そうか」
声をかけた方の男は、室内に一歩だけ入ったところで、それ以上踏み入れようとはせずに立ち止まる。
数秒して、機械仕掛けの扉は閉まり、部屋にはまた、月明かりのみが残った。
「何か用かよ」
出て行こうとも、何かを言い出すでもない彼に苛立ちを覚え、口調を強くして言う。
目線は、決して合わせない。
「いや……」
「じゃあ、もう行けよ」
否定を受け取り、そのまま退室を促しながら男は立ち上がり、窓の方へと歩み寄る。
窓際の小さなスイッチを押すと、開閉式の窓がほんの少し開く。
落下防止のため全開にはならないのだ。
「そうもいくまい」
夜風を受けてたなびく相手の黒髪とコートを見つめながら、扉側の男はそれに首を振る。
「はぁ?」
「なんでもないのに大の男が泣いているのを、放っていけというのか」
「…………」
黒髪の男は言い訳はしなかった。
この男にそんなことを言っても無駄だと思ったのだ。
大概の事は素直に受け止める彼だが、妙なところで鋭い。
「シンタロー」
「…………」
男は……、シンタローは答えない。
ただ、風を体全体で受けるように窓に向かって立ち尽くす。
「呼ばれたら返事をしないか」
「……お前にそう呼ばれるべきじゃねぇよ。俺は」
本物は『彼』だから。
透けるような金の髪と、空と海の中間の青い目を持った彼こそが本物の『シンタロー』だ。
自分の生きた二十と余年は決して偽りではないのだけれど……。
けれど自分は『シンタロー』であり、『シンタロー』ではない。
少なくとも、彼にそう呼ばれるべきではない。
「ならばどう呼べばいい」
「好きなように呼べばいいさ」
どうせ向こうからは見えないのだからと自嘲する。
「俺にふさわしい名前は、お前が決めればいい」
わざわざ言わずとも良い事を口に出す。
自分の存在を否定されたいのだろうか、とシンタローは頭の隅で思った。
「それでは同じだろう」
しかし、聞きえたのは予想された答え。
その名以外でなど、呼べはしないと。
誰もがそう言う。
「もういいだろう? 出て行けよ、もう平気だ『シンタロー』」
途端、何故か裏切られた気分になって、彼に当たるようにその名で呼んだ。
他の誰もが、自分を『シンタロー』だと言うから……。
彼だけは、否定してくれる気がしたのだ。
それでどうなるかなんて考えずに。
「お前こそ……その名で俺を呼ぶな」
声は明らかに不機嫌そうだった。
近づいてくる気配がしたが、気付かない振りをする。
真後ろに立たれても尚、顔をあわせることなく、シンタローは窓の外を見つめ続けた。
「俺は『お前(シンタロー)』ではない」
「なら、何て呼ぶ?」
引くに引けずに、半ばやけになりながら言う。
自分でも何に苛ついているか分からずに。
「好きなように呼べばいい。あの男が呼んでいた名もあるだろう?」
自分の言葉をそっくりそのまま返されたのが気に入らなかったのか、 シンタローの方から小さく舌打ちが聞えた。
「ドクターか?」
あの名でいいのかと聞き返すと、もうあれで定着しているらしいからいい、と返ってきた。
名前は一生ものだと言うのに、無頓着なものである。
「『キンタロー』、分かったから出て行けよ」
いい加減、一人になりたい。
嗚咽がまた喉元まで込み上げてくる感覚にシンタローは眉をしかめた。
「『シンタロー』」
真後ろのキンタローに『名前』を呼ばれたかと思うと、彼の腕に思い切り手首を捻り上げられた。
「ってぇな!!」
「何を苛ついている」
「誰がッ……! 放せよ!!」
「どうして泣いていた」
「うるせぇッ」
「何があった」
矢継ぎ早に続く遠慮のない言葉に、シンタローは彼を敵意も剥き出しに睨みつけた。
「てめぇにゃ関係ねぇよ。放しやがれッ」
それは残酷な言葉だったのかもしれない。
けれど逃れたい一心で、考えるまもなく吐き出した。
「確かに、俺とお前に正式な血縁や特別と言える関係はない」
手首を掴まれたまま、空と海の中間が、しっかりと正面からシンタローを捕えて放さない。
逸らすこともできずに見つめ返したその中には、彼自身が映りこんでいた。
「――――ッ」
「しかし、俺はお前『だった』」
もともと一つだった彼らは、二つに分かれた。
「俺たちはもう『一人』じゃないが、共にあった」
互いに目の前の相手は、『自分だった』者。
かつての共有者。
「それでも、関係ないと言うのか?」
「…………悪ィ」
こんなことを言いたかったのではない。
こんな風に傷つけたいわけではない。
「……どうしたんだ」
手首を解放し、有無を言わせぬ口調で聞いてくる。
「…………」
「苦しいのか? シンタロー」
「……ああ」
重圧が、押しつぶしていく。
それでも耐えなければ、開けていかない。
これは自分で選んだことだ。
決して後悔ではない。
耐えればいいだけのことだから――――。
「苦しいのならば、俺が肩を貸す」
ふいに振ってきた声に、驚いて顔を上げる。
自分はおそらく彼にとって、許されない者だと思っていた。
しかしてキンタローの声は優しい。
「お前は『一人』しかいないが、お前は『一人』じゃない」
一人で耐える必要はない、と付け足される。
「……誰かに教えられたのか?」
聞いてしまうのは、嫌味ではなく確かめたいから。
「いや、俺がそう思った。……何か変か?」
彼だけは、自分を否定してくれるのを期待していたんだと思い込んだ。
本当は、彼に言って欲しかったのだ。
もう一人の自分にこそ、自分を認めて欲しかった。
なんて自分勝手な話だと心の中で笑う。
それでも言ってくれた彼に感謝しながら。
「いーや、貸してくれるんなら借りとく」
肩に顔をうずめると、まるで子供をあやすように、背中を優しく叩かれた。
「……オイ?」
「ああ。泣く子を安心させるにはこうしろと本に書いてあった」
「……泣いてねぇよ」
子供と言われたのが気に入らなかったのか、どんな本を読んでいるんだと呆れたのか、彼はそれだけ言って押し黙る。
背中の手は温かく、心地良くて、シンタローはゆっくりと目を閉じた。
一人きりだった彼らは、今はもう孤独ではない。
END
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